日本の鉄道事故 (1950年から1999年)

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日本の鉄道事故(にほんのてつどうじこ)では、1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故について記述する。

目次

事故一覧[編集]

1950年代[編集]

湘南電車火災事故[編集]

1950年(昭和25年)2月9日 7時41分
東海道本線保土ヶ谷 - 戸塚において80系電車(14両編成)の試運転列車が走行中、13両目のモハ80027のパンタグラフから電弧を発したため、車掌が非常ブレーキ(車掌弁)を扱い停車したが、その際に架線が切断されて最後尾のクハ86017に接触。同車と隣のモハ80027が炎上し焼失した。
原因は強風により飛来してきた導電性の異物がパンタグラフに接触してパンタグラフと車体が短絡したことによるものと推定された。
また、現場近くの変電所が事故電流を検知遮断せず、火災発生後も約25分にわたり送電し続けていたため、消防車からの放水による消火作業ができなかったことが被害を拡大する要因となった。そのため事故後、通電中の1500V架線に対する放水の試験が実施され、水質を考慮し筒口を接地することで放水が可能であるとされた。
焼失した車両は2両とも国鉄大井工場にて復旧された。

室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故[編集]

1950年(昭和25年)8月1日 22時55分ごろ
錦多峰21時25分発室蘭行き218列車(11両編成、牽引機C51 29)が錦多峰駅(現:錦岡駅)を1時間11分遅れで発車、同駅から約2kmの地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差し掛かったところ橋脚が崩壊し、1両目客車と2両目荷物車は大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17名、重軽傷者57名、行方不明者12名[1][2][注 1]を出した。この218列車は、いわゆる「買い出し列車」だった。
事故の規模の割に死傷者が少ないのは、発車直後に車掌が函館駅以遠に向かう乗客を5両目以降に移動させたため。
約200名を乗せた救援列車も翌日未明に苫小牧駅西方の錦多峰川鉄橋に差し掛かったところ橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2名で済んだ。
参考文献:堀江敏夫 『苫小牧地方鉄道史』 苫小牧地方史研究会〈苫小牧地方史研究叢書 第2集〉、1968年、92 - 93頁。[注 2]

身延線列車火災事故[編集]

1950年(昭和25年)8月24日
身延線内船 - 寄畑間を走行していた普通列車(62系電車32系電車による4両編成、モハ62001+サハ701+クハ101+モハ30173)が同区間にある島尻トンネルを走行中に出火、車両を全焼する事故が発生したが、幸いにも死者は発生しなかった。原因として当時落雷によって架線が切断し木造の車体屋根部と接触、またたく間に燃え広がったものである。
なお、全焼した車両のうちモハ62001は焼損時の姿のまま西武鉄道へ譲渡され、またモハ30173は豊川工場でクハ47023に改番のうえ復旧されている。
身延線のトンネルは他の路線と比較して狭小であり、身延線向けに投入された62系電車は、折りたたみ時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないと判断され、以降折畳高3,960mmの制約[注 3]を受けることになり、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ部分を低屋根化する工事が行われている。
また、80系800・850番台115系2600番台など身延線に投入される車両はパンタグラフ部の屋根高を低く抑えたものとされ、民営化後もJR東海は車両新造の際一部の車両[注 4]を除き、身延線への入線を考慮した設計(折畳高を低く抑えられるシングルアームパンタグラフの早期導入)を行うなど現在も影響を受けている。

桜木町事故[編集]

(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故のひとつ)

1951年(昭和26年)4月24日
京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で碍子交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。
その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計63系の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。

青梅線小作駅貨車暴走事故[編集]

1952年(昭和27年)2月19日
青梅線小作駅にて構内に留置中の貨車(計4両)が動き出し、約3.7km離れた福生駅まで暴走したのち引き込み線に入り、そこに停車していた貨車に激突し大破。当時は三鷹事件などが発生した時期であり、この暴走事故も意図的に起こされた事件ではないかとして共産党活動家などが逮捕されたが、1968年に被告全員の無罪が確定した。

日暮里駅構内乗客転落事故[編集]

1952年(昭和27年)6月18日 7時45分
国鉄日暮里駅構内の南跨線橋の10番線に面した羽目板が利用客の重量に耐え切れなくなり破損、数十人が7m下の線路に転落した。折りしも通りかかった京浜東北線浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負った。
事故原因は跨線橋(1928年建設)が老朽化していて、さらに破損箇所は将来延長する予定だったため補強がされていなかった[3]こともあるが、当日の未明に上野駅構内で信号所火災が発生して、東北本線の上り列車が日暮里に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線でも6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運行を中止していたため、平常以上の乗客で混雑したためでもある。上野方に急カーブがあり見通しが利かず運転士による発見が遅れたことが被害を拡大した。

まりも号脱線事故[編集]

1952年(昭和27年)6月28日 9時17分ころ
函館本線余市駅構内を進行中の上り急行「まりも」の機関車(本務機関車+補助機関車)と客車5両が脱線。機関車の機関助手1名が軽傷を負った。
原因は子供の置き石によるもの。
1951年5月17日発生の「まりも号脱線事件」とは別の事故。

飯田線大表沢鉄橋脱線転覆事故[編集]

大表沢鉄橋脱線転覆事故現場
1955年 (昭和30年) 1月20日21時5分ころ[4]
長野県下伊那郡泰阜村飯田線の明島川にかかる大表沢鉄橋で、豊橋飯田行き列車(2両編成 モハ14033-クハ18003)が線路上に土砂があるのを発見し、非常ブレーキをかけたが間に合わず、土砂に乗り上げて脱線転覆。先頭車両は仰向け、後部車両は横倒しとなり大破。乗客33名のうち5名が死亡。

東海道本線東田子の浦列車衝突事故[編集]

1955年 (昭和30年)5月17日2時19分
東海道本線 - 東田子の浦間の植田踏切で京都東京修学旅行列車(列車番号3138・EF58 66+客車11両・乗客837名)の機関士が立ち往生していた在日アメリカ合衆国軍トレーラーを発見。列車は非常制動を掛けたが間に合わず衝突。120mほど走行し停車した。衝突のショックで大破したトレーラーの荷台に搭載されていた揮発油を原料としたペンキに引火した。
火は編成中3号車に組成されていたスハ32 266に延焼。さらに機関車と客車4両を全焼、1両を半焼させた。深夜の事故にもかかわらず、機関士・機関助士・車掌・乗客・周辺住民が連携し後部6両は切り離されて延焼を回避した。また乗務員による乗客の避難誘導により重傷2名・軽傷31名を出したものの、死亡者は出なかった。
被災車両は大きく損傷したものの、全車廃車とならず以下の修復作業を実施。
  • EF58 66:浜松工場で甲修繕を施工。
  • スハ32 266:名古屋工場でオハ46形に準じた広窓切妻鋼板屋根とした新製構体への載せ替えと台枠改造を施工しオハ35 1314に改番。
  • スハフ32 257:小倉工場でスハ32 266と同様の工事を施工しオハフ33 627に改番。
  • オハ35 342・923・スハ42 63:小倉工場で構体載せ替えを施工したが改番は実施せず原番号で復旧。

関西本線列車脱線水没事故[編集]

減水で姿を現した客車
1956年(昭和31年)9月27日7時20分ごろ
関西本線加太間を走行中の亀山発湊町行き列車が、金場トンネルを出て150mほどの地点で土砂崩れに巻き込まれ、客車6両のうち2両目が前後の連結器がはずれ脱線、加太川に転落した。客車は水没、乗客3名は救助されたが、残りの8名(旅客5名、職員3名)は激流に流され死亡した。台風15号が接近中だった。

参宮線六軒駅列車衝突事故[編集]

1956年(昭和31年)10月15日
参宮線(当該箇所は現在の紀勢本線六軒駅での列車衝突事故。
同駅を通過の予定だった名古屋発鳥羽行き下り快速列車機関士が、出発信号機の直前で停止現示を認めて非常制動を執ったが、当該信号機手前に停止できず安全側線に突っ込み脱線し、本線上に横転した所に上り列車が進入して上下列車共に衝撃大破。死者42名、負傷者94名。客車上に大破した蒸気機関車が乗り上げて客車内に高温高圧の蒸気が吹き込んだため火傷死傷者が多かった。

常磐線急行「北上」脱線事故[編集]

1957年(昭和32年)5月17日 20時20分ごろ
福島県双葉郡双葉町常磐線大野 - 長塚(現・双葉)間で、上野青森行き下り急行「北上」の牽引機関車(C62 19[5]と客車5両が脱線転覆。機関車と客車1両目は横転し、2両目から4両目はくの字の状態になり築堤下の土手に転落した。機関士と機関助士、乗客1名の計3名が死亡し、乗客43名が重軽傷を負った[6][7]。原因は、ガード下を通過しようとした大型トラックの積荷が橋桁にぶつかり、軌道を歪めたため。運転手は業務上過失致死傷他の実刑を求刑された[8]

三重交通北勢線列車脱線事故[編集]

1957年(昭和32年)11月25日 8時10分
三重交通(のちに三重電気鉄道、近畿日本鉄道を経て2003年以降は三岐鉄道北勢線上笠田2006年廃駅) - 麻生田間にあるS字カーブ(山田川橋梁桑名寄り)で、阿下喜桑名京橋1961年廃駅)行列車(文献[9]によれば3両編成で、中間車はサ150形152、最後尾がサ100形)が速度超過のため脱線転覆。列車は通学客で満員であり、死者3人、重傷者3人、軽傷者多数(文献[9]によれば死者2人、重軽傷者172人)を出した。
その後、現場付近はカーブ緩和のため経路変更が行われ、1960年(昭和35年)10月6日に完成した。

山陰本線列車バス衝突事故[編集]

○…脱線した機関車
×…列車に衝突したバス
1958年(昭和33年)6月10日 15時28分
山陰本線八木 - 千代川間の愛田川関踏切で、園部京都行き普通列車に京都交通の貸切バスが衝突、引きずられ大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた亀岡市立亀岡小学校5年生一行のうち、4名が死亡、38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していたC55蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線。
事故現場には同級生である卒業生有志により1961年の命日に慰霊碑が建立された[10]

特急かもめ米軍トレーラー衝突事故[編集]

1958年(昭和33年)8月14日 14時03分
国鉄山陽本線の南岩国・岩国間にある菊池踏切で、博多発京都行きの特急「かもめ」(10両編成)に米海兵隊岩国基地所属の米軍人が運転するトレーラートラックが衝突。トレーラーは50m引きずられて大破、かもめ側も牽引蒸気機関車(C62 4)と1両目客車(ナハフ11 9)が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した。この事故で特急の乗員乗客43名が重軽傷を負った。
事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした。
牽引機関車は廃車されたが、1両目のナハフ11は復旧された。

名鉄名古屋本線一ツ木駅衝突火災事故[編集]

1958年(昭和33年)11月24日
名古屋鉄道名古屋本線一ツ木駅構内の踏切で、一時停止を怠ったオート三輪新岐阜豊橋行特急に衝突し、積載していたシンナーが原因で火災が発生し、車両2両が全焼した。この事故で列車の乗務員2人が殉職したのを始め、死傷者は36人に上った[11]
全焼したのは3850系モ3857とク2857で、翌1959年4月に車体を新製して復旧した[12]

阪急電鉄京都本線バス二重衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)1月3日 22時50分ごろ
阪急電鉄京都本線上新庄駅(大阪市東淀川区)近くの島頭1番踏切で、踏切警手の遮断機の操作遅れで取り残された大阪市営バス路線バスに上下線の急行電車が衝突し、バスが電車の下敷きとなり大破。電車運転士は衝撃直前に非常制動を執っており、衝突時の速度は低かったものの、バスの乗務員乗客7人が死亡、上り急行電車の乗客13人が負傷した。

播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故[編集]

1959年(昭和34年)4月6日 4時45分ごろ
播但線生野 - 長谷間の真名谷トンネル北側(生野駅より長谷方約4km)で、福知山溝口行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、蒸気機関車 (C54 5) と前部3両が大破、福知山鉄道管理局豊岡機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。機関車はトンネル内に頭を突っ込み横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は下腹を見せて転覆、その上に3両目が乗り上げたため、生野 - 寺前間が不通となった。C54 5も原形を留めぬほど大破し、その後廃車、解体処分された。
この時、機関車は逆向き運転をしており、炭水車側からトンネル側壁に衝突したため、運転台は炭水車に押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。原因としては、生野駅手前(新井駅側)にある生野トンネル (614.73m) が、播但線において難所とされている生野峠から続く25という上り勾配で、かつ、開口面積が狭いため、通過の際に乗務員がばい煙により意識を失い、登坂のために加減弁が引かれた状態のまま下り勾配を駆け下りたこととされている。
この事故の後、播但線の蒸気機関車乗務員に対し、非常用のガスマスクが支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭のDF50形ディーゼル機関車が配備されることとなった。
現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡神河町渕地区)。

浜松駅準急「東海」衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)10月8日 4時8分ごろ
東海道本線浜松駅構内に進入した、下り準急「東海3号」が、同駅に停車していた機関車と衝突。乗客25名と運転士2名が負傷。原因は運転士の居眠りによるものとされた。「東海3号」の先頭車(クハ153-12)は、運転室部に大きな損傷はなかったものの、運転席側の客用扉戸袋窓付近が潰れて、前頭部がお辞儀をしたように車体が座屈した。浜松工場に収容された事故車は検証が行われ、衝突時の衝撃が台枠から側構に伝わり、強度的にいちばん弱かった戸袋窓部に集中した結果、車体がお辞儀をしたように変形したものと判明した。対策として、増備車では側柱部に補強を入れるなどの設計変更を実施し、戸袋窓の補強を行っている[13]

名鉄名古屋本線大里駅踏切衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)10月11日20時ごろ
名古屋鉄道名古屋本線大里駅南側の踏切(遮断機・警報機なし)で、伊勢湾台風(同年9月26日襲来)の救援物資を積んだオート三輪が一時停止を怠り、豊橋新岐阜行特急(5000系6両編成、5003編成[14])に衝突した。列車は大里駅のホームに接触しながら1両目が一回転して線路脇の田に転落、2 - 4両目も脱線した。この事故で列車の乗客5人及びオート三輪側2人が即死、重傷12人、軽傷18人を出した[15]
なお43年後の2002年には、現場から約500m北で名鉄名古屋本線衝突脱線事故が発生している。

京浜急行電鉄花月園前 - 生麦間踏切衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)11月7日17時50分ごろ
京浜急行電鉄本線花月園前駅 - 生麦駅間にある花月園第3踏切で、立ち往生していたトラックに品川浦賀行特急が衝突した。トラックに積まれていた直径約3cm、長さ6 - 12mの鉄筋用の丸棒が、衝突のはずみで1両目の車内に多数突っ込んだ。この事故で乗客5人が死亡、重傷15人、軽傷13人を出した[16]
なお同月20日に発生した東洋化工爆発事故でも、京急線の乗客に多くの負傷者を出している。また、当該踏切は既に廃止されている。

1960年代[編集]

姫新線列車バス衝突事故[編集]

1960年(昭和35年)12月12日 8時20分ごろ
姫新線美作追分 - 美作落合間にある遮断機のない踏切で、姫路発広島行き813列車が、中国鉄道バスの河内発勝山行きの路線バス(いすゞ製1950年式ボンネットバス)の側面に衝突した。この事故でバスは中央部がへし折れて吹き飛ばされ、乗員乗客64名中、10名が死亡、54名が重軽傷を負う大惨事になった。事故の原因はバス運転士の不注意とされた。

小田急線列車衝突転落事故[編集]

1961年(昭和36年)1月17日
小田急電鉄小田原線和泉多摩川 - 登戸間、多摩川左岸堤防上にある和泉多摩川2号踏切(事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ)で、新宿発各停向ヶ丘遊園行き下り列車(2400形4両編成)とダンプカーが衝突した。ダンプカーが警報機鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられている。
この事故でダンプカーは鉄橋上約100mほど登戸駅側に引きずられ炎上、運転者が死亡した。一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目(最後尾)は無傷。運転士1名と乗客約数十名が重軽傷を負った。この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。その後事故から40年余りが過ぎた2004年ごろに高架線が完成し、この踏切は廃止された。

急行「日本海」列車脱線事故[編集]

1961年(昭和36年)2月9日 13時45分
羽越本線村上 - 間島で、大阪発青森行急行日本海」が土砂崩壊現場に突入、牽引するC57 1と客車2両が脱線した。人的被害は機関士が軽傷を負った程度であったが、現場復旧作業が優先され破損した車両は2か月以上事故現場に放置。C57 1は4月27日に長野工場(現・長野総合車両センター)に入場し5か月の期間をかけ修復。その後も京阪100年号事故阪神・淡路大震災による破損など度重なる事故に遭遇するが2017年現在も車籍を有する。

大分交通別大線列車埋没事故[編集]

1961年(昭和36年)10月26日
大分交通別大線(1972年に全線廃止)で、大分亀川行き列車(電車205号)が走行中に仏崎トンネルから出た直後に豪雨による土砂崩れに遭遇し埋没。電車に乗っていた下校途中の児童・生徒ら31人が死亡し、乗員2人と乗客34人が重軽傷を負った。

山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故[編集]

1961年(昭和36年)12月29日
山陽本線西宇部(現在の宇部) - 小野田間で20系客車による東京発長崎行き下り寝台特急「さくら」に、2時間57分遅れで運転されていた山口発博多行き気動車準急「あきよし」(キハ55系気動車)が追突した。
この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら15km/h程度の低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80m手前で、45km/hと速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。
この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。この点では軽量車体の優位性を示したといえる。しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転だったため、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧形客車スハネ30形を20系と併結して、急場をしのいだ(→さくら (列車)#さくら・あきよし追突事故の影響も参照)。

東海駅 急行「いわて」脱線事故[編集]

1961年(昭和36年)12月29日
常磐線東海駅で副本線を通過しようとした上り急行「いわて」(C62 21牽引)が脱線大破。分岐器通過速度を超過し、機関車と客車2両が脱線転覆、他の客車も脱線。機関助士が死亡、5人が負傷。
この事故以降、副本線を通過する際でも一旦停車するよう規則が改められた。

鹿児島本線基山駅貨物列車脱線事故[編集]

1962年(昭和37年)4月4日 21時10分ごろ
鹿児島本線基山駅の3番線から、若い男女が心中を図り進入してきた下り181貨物列車に飛び込んだ。2人は即死したが181列車の機関士が非常制動を執ったところ同駅が急角度のカーブであったのが災いし、牽引蒸気機関車が浮き上がり、貨車38両のうち21両が脱線した。この脱線で運転台から放り出された機関助士が炭水車からこぼれ出た石炭の下敷きになり殉職、機関士ともう1人の機関助士も全身に火傷や骨折する重傷を負った。

常磐線三河島駅列車多重衝突事故[編集]

1962年(昭和37年)5月3日
国鉄戦後五大事故のひとつ。
常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行きの下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、停止信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、脱線した下り電車は上り本線を支障した。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が高速で突入。上り電車は線路上に避難していた乗客多数を巻き込みながら下り電車に衝突、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両は築堤下へ転落して民家に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。
下り貨物列車と下り電車が衝撃した時点での人的被害は小規模だったが、下り電車の乗客が上り線路上へ出てしまったことと、約6分の暇が有りながら事故現場へ接近する上り列車を非常停止させるための防護処置が行われなかったことで二重事故となり、人的被害を大きくしてしまった。この事故が契機となって自動列車停止装置 (ATS) や列車無線の設置を推進することになった。

南武線踏切事故[編集]

1962年(昭和37年)8月7日
南武線津田山 - 久地間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突。上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3名が死亡した。
踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。

羽越線正面衝突事故[編集]

1962年(昭和37年)11月29日
羽越本線羽後本荘 - 羽後岩谷間で下り単行蒸気機関車(D51形)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が殉職し、単行機関車の乗員3名が重軽傷を負った。

鹿児島本線踏切事故[編集]

1963年(昭和38年)9月20日
鹿児島本線香椎 - 箱崎間(千早は未開業)の第1種踏切上で故障して停車していた大型トラックに上り快速列車に充当されていた421系電車4両編成が衝突。脱線して下り線を支障した上り列車に下り普通列車(気動車1両)が衝突し、8名が死亡した。
前年に発生した南武線の踏切事故とほぼ同様の事故で、列車防護の措置をとる間もなく対向列車が衝突した。

東海道本線鶴見列車多重衝突事故[編集]

1963年(昭和38年)11月9日
国鉄戦後五大事故のひとつ。
東海道本線鶴見 - 新子安間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車が脱線し、そこに横須賀線の上下旅客列車が進入して三重衝突事故となる。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。
調査の結果、競合脱線が原因だとされた。

立川駅タンク車衝突事故[編集]

1964年(昭和39年)1月4日 7時6分
青梅線西立川駅に1月2日に到着したガソリン満載の米軍専用タンク車(タサ846)と事故当日の朝に到着した貨車を連結するための作業中に、担当者が規則ではタンク車のブレーキをかけるとともに車輪止めを設置することとなっていたが、ブレーキのかけ方が甘く車輪止めを使用していなかったことによる過失で転動。作業場所より65m立川寄りの本線ポイント手前の本線合流ポイント手前に車輪止めがあったがこれをそのまま破壊して青梅線の上り本線上に進入し暴走した。そして立川駅で停車中だった青梅行き普通電車(電車5両編成)に衝突。これにより積荷のガソリンが引火して炎上した。火はまたたく間に近隣の建物にも燃え広がり、タンク車と電車のほか近隣住宅地の8軒11棟のべ1600平方メートルを全焼した。
事故当時、青梅行き普通電車やそのホームには約60名の乗客がいたが、西立川駅からの電話連絡を受けた駅員達がいち早く避難誘導したため死者が出る最悪の事態は免れた。しかし避難時に乗客2名が転倒するなどして重軽傷を負った。
その後の調査で上記の事故原因が判明し西立川駅の担当者は逮捕された。

京福電鉄電車衝突事故[編集]

1964年(昭和39年)1月5日
京福電気鉄道(現・叡山電鉄鞍馬線二ノ瀬 - 貴船口間の貴船口より約200mの場所で、上り臨時電車(デナ21形1両)と下り電車(デナ21形2両編成)が正面衝突し、架線を切断して短絡による火災を発生し、上り電車と下り電車の先頭車が焼失し69名が負傷した。
当日は鞍馬寺における初寅大祭のため臨時列車を運行していたが、臨時運行の伝達が徹底されなかったこと、下り電車の運転士が通票を確認しなかったことが主な要因とされた。
上り電車の乗客数は80名でほぼ満員の状態だったが、車掌は衝突して停車後にいち早く自動ドアを開けたため全乗客は線路上に避難でき、衝突の衝撃などで怪我人は出たものの死者の出る最悪の事態は免れた。また下り電車には20名ほどの乗客がいたが、こちらも怪我人は出たものの全乗員が無事に避難している。
事故の一報は、乗客の1人が貴船口駅まで駆けつけて駅員に事故発生を伝えた。そして駅員は運行本部、警察、消防に連絡をした。
京都市消防局の消防車8台が現場に駆けつけ消火活動にあたると共に救急車4台が駆けつけて怪我人を近隣の病院(浜田病院26名、富田病院23名、済生会病院10名、等)へピストン輸送した。
事故現場は鞍馬川のすぐ横の急な崖の上で、もし電車が事故の時に脱線転覆していたならばきわめて重大な事態になることは避けられなかった。
焼失したデナ121・123が廃車となった。
京福電気鉄道では平成に入っても福井支社で半年以内に2回も衝突する事故が起こって運行停止している。詳しくは京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照のこと。

東海道新幹線モデル線区飛込事故[編集]

1964年(昭和39年)2月26日 10時55分
開業前の神奈川県高座郡綾瀬町(現・綾瀬市)の東海道新幹線モデル線区で試験走行中の東海道新幹線用車両に男が飛び込んだ。このため先頭車両先端のスカートが大きくへこみ、2両目の電動発電機、3両目のブレーキ用空気パイプなどが損傷する被害を受けた。試運転車両は200km/hほどで走行中だったため事故現場通過後に停車するまで2km近くも走ったので死体は広範囲に散乱した。

名古屋鉄道新名古屋駅列車追突事故[編集]

1964年(昭和39年)3月29日 9時55分
名古屋鉄道名古屋本線新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)構内(新岐阜方面ホーム)で、停車中の新木曽川行き急行列車(4両編成)に後続の新鵜沼行き特急列車(4両編成)が追突し、143名が重軽傷を負った。
後続の特急列車の運転士が見込み運転をして停止信号を通過したことが原因と見られる。この事故を受け、名鉄は自動列車停止装置の導入を決定した。以降、名鉄で列車同士の追突や正面衝突といった事故は発生していない。

「第一富士」脱線事故[編集]

1964年(昭和39年)4月24日 10時7分ごろ
東海道本線草薙 - 静岡間(当時東静岡駅は未開業)を走行中の東京宇野行き下り特急第一富士」が、踏切内のダンプカーと激突し、先頭から6両目までが脱線した。この事故ではダンプカーの運転手が死亡し、先頭車両は大破した。また脱線した車両の多くは数多くの著名人が乗車する1等車であったことから在日イラク代理大使ら10名が重軽傷を負った。
この事故で先頭に組成されていたクロ151-7が廃車となったが、これは国鉄新性能電車の廃車第1号でもある。被災した151系電車は同年10月1の東海道新幹線開業に伴い、九州乗り入れ改造をはじめとする転用計画に着手しており、代替車両を新造する猶予もなく、さらに予備車も皆無に近い深刻な車両不足状態となった。このため本来は急行列車用の153系電車を急遽特急「こだま」に充当したほか、廃車代替として急遽サロ150-3に運転台を設置する改造を施工するなどして対応した。
クロ151-7脱線大破事故も参照のこと

新潟地震による事故[編集]

1964年(昭和39年)6月16日 13時1分頃
新潟地震により新潟駅付近で跨線橋が落下し、直下にあったキハユニ17 2を直撃し車体が潰れた。回送列車のため乗客は乗っておらず、人的被害はなかったものの同車は復旧困難のため廃車となった。

東海道新幹線保線作業員死傷事故[編集]

1964年(昭和39年)11月23日7時32分頃
静岡県磐田市東海道新幹線の線路内で砂利固めをしていた保線作業員10名が、列車見張員の不注意から、静岡新大阪行きの「こだま207号」にはねられ、5名が即死、5名が重軽傷を負った。現場は田園地帯に土盛りをした直線の見晴らしの良い場所であったが作業員達は砂利を固める機械の音のため近づいてくる新幹線に気付かなかったという。こだま207号は事故現場から1km以上も走って停車したため犠牲者の遺体は事故現場から延々と1km以上にわたり線路に散乱していたという。
新幹線開業から2か月足らずで複数の死傷者を出してしまった国鉄は、この事故により安全対策の見直しを迫られることとなった。

北陸鉄道金沢市内線脱線転覆事故[編集]

1965年(昭和40年)6月24日 15時45分頃
北陸鉄道金沢市内線(1967年全線廃止)の小立野野町駅前行電車(300形309号車)が暴走後、脱線転覆し死者1人、負傷者多数を出した。
状況は、当電車が出羽町停留所発車直後に異常を感じて停止し、乗務員が下車点検したところ、現場が尻垂坂の頂上であったため転動、暴走したもの。電車はブレーキロッドが折損していた。乗務員は慌ててレバーを線路上に置いて止めようとしたが、電車はこれを乗り越え、続いて電車に飛び乗ったが、レバーを持っていないためなす術がなく、坂を下った兼六園下停留所付近で脱線転覆した。対策として単車を勾配の大きい路線で使用禁止としたほか、下り勾配での一旦停止などを行った[17]

急行「赤倉」衝突脱線事故[編集]

1965年(昭和40年)11月1日 9時50分頃
新潟県長岡市信越本線前川駅 - 来迎寺駅間の踏切で、新潟駅名古屋駅行の急行「赤倉」がコンクリートミキサー車と衝突、12両編成中10両が脱線し、2両が築堤から転落した。死傷者16名を出した[18]

大阪市電・タンクローリー衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)12月8日 夕方
大阪市電西成区津守町東6丁目を乗客約70名を乗せて走行中、センターラインを越えて対向して来たタンクローリー車と衝突。この衝撃で市電は右前方の車体が大きくえぐられ、何人かの乗客はえぐられた部分から外へ放り出されるなどした。この事故により市電の乗客3名が死亡、タンクローリー車の運転手と市電の乗客27名が重軽傷を負った。事故原因はタンクローリー車の運転手が、夕闇と折からの降雨においてワイパーが故障した状態で前方の視界がほとんどきかないにもかかわらず、強引に前方の車を追い越そうとして市電の軌道内に入り込んだもので運転手はその場で現行犯逮捕された。

南海電鉄高野線置石脱線事故[編集]

1966年(昭和41年)3月2日 20時25分頃
大阪府堺市香ヶ丘町の南海電気鉄道高野線我孫子前駅 - 浅香山駅間の大和川橋梁南詰付近で、難波三日市町行き直行電車(4両編成)が線路上に置かれた重さ約20kgの石に乗り上げ、1両目が脱線し、架線の鉄柱に衝突した。電車には約200人が乗車して満員状態だったが、この事故で乗客など十数人が負傷した[19]

新幹線ひかり号車軸折損事故[編集]

1966年(昭和41年)4月25日 19時頃
東海道新幹線名古屋駅を東京にむけて出発した「ひかり42号」(新大阪駅18時00分発・0系12両編成)が、熱田付近の曲線を走行中の最後尾の台車から異常振動と火花を出していることを車掌が視認した。その後異常なく走行していたが、豊川橋梁付近のカーブ (R2500) で再び異常振動と火花を出しているのを車掌が視認したため、運転士に通報し非常ブレーキをかけ通過予定駅の豊橋駅を400m行過ぎた地点で停止した。ここで職員が降りて確認したところ後部車両の台車の第二軸に異常があり、中央列車指令の指示で「ひかり42号」を豊橋駅の第2副本線に退行して入線し、後続の「ひかり44号」「ひかり46号」「ひかり48号」「ひかり54号」の計4本を臨時停車させて42号の乗客を代替輸送した。
事故自体は人的被害が出なかったため、大きく報道されなかったが、故障車両を搬送機器に載せて浜松工場に回送後に行われた検査で、車軸が折損しており、かろうじて駆動装置と軸箱に支えられていたという相当深刻な事態であったことが判明した。
そのため折損した車軸が軸箱に引っかかっていなければ、名古屋駅を発車した直後に脱線転覆した可能性があった上に、車掌が異常に気付かず豊橋駅で停止していなければ、やはり高速運転中の急カーブで同様の惨事が起きていた可能性があったという。
車軸折損の原因であるが、鉄研・金属材料研究所での検査の結果、メーカーの製造段階で高周波焼入れ中に停電があったため、材質に欠陥があり金属疲労を引き起こしたというものであった。事故対策として一層の品質管理と検査の徹底が行われることになった。

京阪電鉄蒲生信号所列車衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)8月3日
大阪市城東区の京阪電気鉄道京阪本線蒲生信号所(現在は廃止)構内の複々線の緩行線(B線、外側線)と急行線(A線、内側線)との合流ポイント付近で、緩行線から急行線側に進行中の下り普通列車の側面に、急行線を併走中の下り急行が信号冒進して衝突。普通列車の先頭車両はその衝撃で上り線側に飛び出し、信号所の建物に突っ込み、上り線路を支障した。乗客など51名が重軽傷を負った。現場には上り区間急行列車が接近していたが、信号所の助役が負傷しながらも下り方向へ走り上り列車に対して列車防護を行った(停止信号を出した)。区間急行の運転士はこれに気付き非常ブレーキを作動させ、現場手前で停車し、二次衝突を避けることができた。原因は急行運転士の過労とされた。この事故を契機に京阪は自動列車停止装置の導入に踏み切った。

東武伊勢崎線バス衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)9月22日
埼玉県越谷市東武伊勢崎線越谷駅より北約120m離れた赤山踏切において、越谷駅行き東武バスに日光発浅草行き特急けごんが衝突、バスは約135m、越谷駅ホームまで引きずられ大破、列車も最後尾の1両を残して脱線した。この事故によりバス乗客ら4名が死亡、乗客ら12名が負傷した。事故時、踏切付近は渋滞しており、バスが渡り始めた際に対向から小型トラックが来てバスが踏切内で立ち往生し、そこに列車が衝突した。この当時越谷駅周辺は沿線の開発により、交通量が急増。踏切内の線形の悪さも加わり事故に至った。1か月後、同様事故を防止するため、近隣の2つの踏切を含め、踏切内を拡幅した。

近鉄河内国分駅列車追突事故[編集]

1966年(昭和41年)11月12日
大阪府柏原市近畿日本鉄道大阪線河内国分駅で、待避中の上本町(現在の大阪上本町)発名張行き準急(1480系)に上本町発宇治山田行き特急(10000系、「旧ビスタカー」)が追突、特急列車の運転士が死亡、43名が重軽傷を負った。特急列車運転士の信号見落としが原因であった。この事故で損傷した宇治山田方先頭車のモ10007は流線型の前頭形状をやめて18200系に準じた貫通型で翌1967年に復旧したが、4年後の1971年には廃車された。

東武西新井駅列車衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)12月16日
東武大師線電車と東武線乗り入れの営団地下鉄(現:東京メトロ日比谷線電車(3000系)が、伊勢崎線(現愛称:東武スカイツリーライン)と大師線の分岐駅である西新井駅構内で衝突。乗客らが7名死亡、重軽傷者は20名以上となった。西新井駅の構内配線について、大師線発着が伊勢崎線を横断する形となっていたことが問題とされた。また大師線が日ごろから新任運転士の、いわば実習線とされていたことも報道された。

南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故[編集]

1967年(昭和42年)4月1日
大阪府泉南郡泉南町(現・泉南市)の南海電気鉄道南海本線樽井9号踏切」で、難波和歌山市行き下り急行電車(11001系電車5両編成)が、大型車に対する通行規制はないものの狭い同踏切に進入した大型トラックの立ち往生に気付き非常ブレーキをかけたものの間に合わず衝突し脱線転覆。男里川橋梁から1・2両目が転落して5名が死亡、208名が重軽傷を負った。
事故後に運転士が自分の長男を乗務員室内に入れて運転を行っていた上に非常ブレーキ操作後に長男を抱いて乗務員室から脱出したことが発覚したため同社の安全に対する姿勢が問われる結果となった。当時、子供に気を取られたのではないかとしていた報道もあった[注 5]

米軍燃料輸送列車衝突炎上事故[編集]

1967年(昭和42年)8月8日
新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(電気機関車EF10形+タンク車18両)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車(電気機関車EF10形+ホッパ車20両)が、停止信号を示していた場内信号機を越えて衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。

急行安芸食堂車全焼事故[編集]

1967年(昭和42年)11月15日
1時30分ごろ、東海道本線三河三谷駅東京駅から広島駅に向けて走行中の急行「安芸」(14両編成)の6両目に連結されていた食堂車(マシ38 2)の進行方向後部から出火。火災発生後に急行は現場に急停車し乗務員により食堂車部分の切り離し作業が行われた。この食堂車はそのまま炎上し2時50分ごろに鎮火した。出火した時刻が深夜だったこともあり、食堂車に乗客はいなかったが、鎮火後この食堂車の中から日本食堂の調理助手の男性と接客係の女性が死亡しているのが発見された。石炭レンジの過熱が原因とされた。

南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)1月18日
17時17分ごろ、南海電気鉄道春木難波行き臨時急行電車(11001系5両編成)が天下茶屋駅ホーム通過後、停止信号を無視して進行、別方向に開通していた分岐器を割り出し、その先の分岐器から分岐側に進入して、出発待機していた回送電車(モハ561形2両編成)に正面衝突した。急行の前頭2両と回送の前頭1両が脱線し、急行電車の旅客と双方の乗務員合わせて296名が負傷した。
直接原因は、急行運転士の信号無視と制動操作の誤りとされたが、競輪競馬競輪場のほか、1974年まで春木競馬場があった)の観戦客輸送で急行通過が10分程度遅れていたことを理由として、回送電車の出発を優先して急行に停止信号を出した駅員の運転取扱いも問題とされた。
南海電鉄は前年4月の男里川橋梁列車脱線転落事故と7月の箱作駅構内列車衝突事故に続き、1年以内に重大事故を3度も引き起こしたため(これらは「南海3大事故」と呼ばれており、同社の安全報告書にもその記述がある)、近畿陸運局(現・近畿運輸局)より南海に警告書が出され、また各方面からもその体質を厳しく批判されることとなった。

営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故[編集]

1968年(昭和43年)1月27日
営団地下鉄(現東京メトロ日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系(6両編成)の3両目の主抵抗器付近から出火して火災を起こし、1両が全焼、1両が半焼した。
事故列車は、六本木駅で主抵抗器が赤熱して付近から発煙していることが見つかったために営業を打ち切って乗客を降ろし、霞ケ関駅の側線へ向けて回送中だったので幸いにして乗客の被害は発生しなかったが、火災発生が駅と駅の中間だったために消火に手間取り、乗務員や消防士ら11人が負傷した。なお、全焼した車両は車体・機器ともすべて造り直され修理扱いで復帰した。
火災の原因は、主抵抗器が過電流により過熱して、上部にある樹脂電線管から出火し延焼したものとされた。この事故の1時間ほど前、この編成が中目黒行きとして運行中に主制御器の進段トラブルが発生し、その際3両目を含む第2ユニット開放の処置を行ったが、3両目の主制御器は並列段の進段途中で停止したままになっており、北春日部への折り返し運転時に運転士が転換器を操作しても(ユニットが開放されているため)極性が転換せず、走行中は常時発電ブレーキがかかっている状態となっていたのが主抵抗器過熱の原因である。
この事故で、当時の耐火基準の最高ランクだったA-A様式に該当する車両が1両全焼したことは可燃性の車両部品の使用を見直すきっかけとなり、事態を深刻と見た運輸省(当時。現在の国土交通省)は営団中野工場内での実車燃焼実験などを含む抜本的検討を行い、翌1969年(昭和44年)5月に従来の通達に代わる「電車の火災事故対策について」を通達することによって新たな耐火基準(いわゆるA-A基準)を定め、火災事故対策を強化した。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。

上越線群馬総社駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)4月19日12時45分
上越線群馬総社駅構内で長岡高崎行きの上り6両編成電車が引き込み線に停車していた41両編成の貨物列車に衝突。この事故で乗員乗客約240名のうち69名が負傷。事故原因は当日駅構内のポイント工事中で手信号による列車誘導をしていたが、工事前にポイントを間違って切っていたため。

阪急電鉄甲陽線ホーム激突事故[編集]

1968年(昭和43年)6月5日7時40分
阪急電鉄甲陽線夙川駅に到着した2両編成の電車が停止しきれずに車止めを乗り越えて神戸線ホームに激突。この事故で電車の乗客が将棋倒しになったうえに、神戸線ホームにいた乗客は衝撃で吹き飛ばされたり破片を受けたりしたことから35名が負傷。

伊豆急行川奈駅構内列車接触事故[編集]

1968年(昭和43年)6月18日10時30分
伊豆急行川奈駅構内でホームに入ろうとしていた熱海発伊豆急下田行き下り7両編成電車に伊豆急行の伊豆急下田発伊東行き上り3両編成電車が上り電車3両目に接触し傾き60名が負傷。
事故原因は上り電車の運転士が居眠りし、信号の停止指示を無視して発車したことであるが、同運転士は事故前夜同僚と従業員寮で明け方4時まで徹夜麻雀をし7時に出勤するまでほとんど寝ていなかったことが判明、逮捕起訴された。
また伊豆急行では単線でほぼ全駅で列車を交換するダイヤであったが、ATSが未装備だった。そのため、早期のATS設置が決定した。

急行「おき」機関車脱線転覆事故[編集]

1968年(昭和43年)6月27日3時40分頃
山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行きの急行「おき」を牽引中だったDD54 2が、駅構内のポイント通過中に異常音に気付き非常ブレーキをかけたところ、推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損、落ちた推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速したため、相対速度が低かったことから乗員乗客の一部が軽傷を負っただけで人命の被害は無かった。事故車となったDD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障が多発し、推進軸が折れる事故が多発した結果、1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役廃車となった。

御茶ノ水駅電車追突事故[編集]

1968年(昭和43年)7月16日22時38分
中央本線・御茶ノ水駅で停車中の豊田行き2239F電車(10両編成)に、後続の高尾行き2201F電車が追突した。双方の電車とも5両ずつが脱線した。負傷者210名(昭和44年度運輸白書参照)。事故原因は2239F電車の乗客がドアに手を挟まれていたことから、発車した直後に非常停止の措置をとってホーム半ばに止まったところへ、後続2201F電車運転士の見込み運転による制限速度オーバーとブレーキ操作遅れによって追突したという人的ミスとされた。

相模鉄道瀬谷駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)8月17日11時45分
相模鉄道瀬谷駅構内で、貨物列車を牽引するために入れ替え作業中であった電気機関車に、横浜海老名行きの4両編成電車が追突。83名負傷。
事故原因は、追突した電車の運転士が居眠りをして信号の停止現示を見落としたため。なお、当時同線にはATSが設置されていなかった。

豊橋鉄道老津駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)8月26日19時30分
豊橋鉄道老津駅構内で新豊橋三河田原行きの2両編成の下り電車が、貨物引き込み線に突入し貨物列車(10両編成)に追突。はずみで貨車2両が脱線し、残りの貨車は車止めを突き破り駅の待合室の壁に衝突。乗員乗客58名が負傷した。事故原因は駅務掛の手動信号の操作ミス。

急行かむい1号脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)10月12日9時20分
函館本線奈井江駅に停車予定だった気動車急行「かむい1号」が、運転士が停車予定を失念したため通過。駅構内の手動踏切を横断していたダンプカーと衝突し8両編成中3両目までが脱線し、衝突地点から170m離れた奈井江川にかかる鉄橋でようやくとまった。乗員乗客約400名のうち、ダンプカーの運転手など29名が負傷した。事故は運転士が停車を失念していたことが引き金であったが、奈井江駅の助役が停止合図の赤旗をホームで振っているのを無視した上に、踏切が駅を出発する列車の汽笛を合図に手動で閉めることになっていたため、ダンプカーの横断を止めることができなかったことが、事故の原因となった。

京阪電鉄京津線電車脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)11月22日5時15分
京阪電鉄京津線で、四宮三条行きの始発電車が東山区三条通白川橋東4丁目で敷石が浮き上がっていたため急停車しようとしたが間に合わず、敷石に乗り上げて脱線。旧国道1号を横切ってガードレールを突き破り民家の壁に衝突した。乗客2名が負傷。停車寸前の速度であったため民家を破壊するまで至らなかった。

籠原電車区構内脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)11月23日5時40分頃
籠原電車区(現・高崎車両センター籠原派出)で籠原大宮行き普通列車に充当する新前橋電車区所属165系10両編成が出区線から移動中にポイントが切り替わったため8・9両目が脱線した。回送状態であったために乗客に死傷者はない。
原因は運転士の確認不足と事後対応のミスによるものである。まず当該編成が入線する予定だった籠原駅2番ホームには別の列車が在線していたため出区線の信号が赤であったことを見落とし発車。続いてポイントが同駅下り4番ホームに向って開いていたことも通過後に気が付いて停止。さらに無断退行したものの今度は後退中に2番ホームの列車が発車したため9両目通過中にポイントが自動的に切り替わったことから9両目と8両目が泣き別れ脱線した。9両目のサロ165-24は架線柱2本に接触し倒壊させたため架線を切断、さらに車体が「く」の字に折れ曲がったことから修復困難となり1969年5月8日付で廃車。なおサロ165形で非冷房のまま廃車になったのは当車のみである。

山陽電鉄中八木 - 江井ヶ島間列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)11月23日18時20分
山陽電鉄の下り姫路行き普通電車(3両編成)が中八木駅を誤って通過し、次の江井ヶ島駅近くまで1.5kmオーバーランした。運転士は通過した中八木駅に戻るために電車を逆走させたが、中八木駅西方650m地点で後続の東二見行き普通電車(2両編成)と正面衝突した。この事故で後続電車の運転士が運転室で押し潰され殉職し乗客ら72名が負傷した。先行電車の運転士が考え事をしていて停車駅を誤通過した上、自身3度目の停車駅誤通過であったことから処分を恐れ、後続列車が来ないと思い込み後退したことが原因であった。なお、本事故で被災した車両のうち、250形253が翌1969年(昭和44年)に廃車となっている。

十和田観光電鉄正面衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)12月29日15時10分頃
十和田観光電鉄(2012年で廃線)三本木駅(のちの十和田市駅)を出発した上り2両電車が上北郡六戸町七百で正面衝突し18人名が負傷した。事故原因は上り電車が吹雪のために線路に突っ込んでいたトラックがあったため、三本木駅からの指示により停車していたが、そのトラックが自力で脱出したことから、車掌が三本木駅に連絡せず独断で運行を再開した。そのことを知らない三本木駅はダイヤでは七百駅で上下の電車を交換するところを、高清水駅に変更する指示を下り電車に与えたため、正面衝突した。車掌が逮捕された。

紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車事故[編集]

1969年(昭和44年)1月24日
紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車を牽引中に紀伊日置駅付近で脱線、先頭の機関車が7m下の水田に転覆。機関車から切り離されたことで客車には非常ブレーキがかかり、奇跡的に紀伊日置駅ホームに停車した。

伯備線保線作業員死傷事故[編集]

1969年(昭和44年)2月13日14時18分ごろ (鉄道人身障害事故
鳥取県の国鉄伯備線上石見 - 生山(当時下石見信号場は未設置)の単線区間、上石見駅から700m離れた線路内で保線作業中だった国鉄米子保線区の作業員が岡山米子行きの臨時普通ディーゼル列車943Dに接触し、作業員6人が死亡した。
事故当時、臨時普通列車は濃霧で29分遅れていた。
作業責任者が上石見駅の助役に問い合わせたところ「下り列車が遅れているので、行き違い駅を変更し、先に上り貨物列車がそちらを通過する」と回答したため、上り列車を警戒していた。しかし、数分後所定どおりの行き違い駅で列車交換することになり、実際には下り列車が現場を通過することになったことにより、事故が発生した。
駅の助役が再度の変更を連絡しなかったのだが、当時の業務規定では駅から現場の保線要員に連絡する義務が無かったこと、また当時の工事用携帯電話は500m置きに設置された電柱のジャックボックスに接続する必要があったため、現場のジャンクションボックスと作業場所が離れていた場合は駅から発信しても現場保安要員が着信に気付かない可能性もあった。
そのうえ、上石見駅では臨時普通列車の運転士に保線工事中である旨を注意喚起しなかったうえ、現場が下り勾配のカーブで、運転士が視認したときには30mの先であったため、減速することができなかった。また保線要員側も下り列車に警戒していなかったため、待避が間に合わなかった。
国鉄はこれらの教訓から列車接近警報装置の設置などの安全対策が図られた。また現場近くに「触車防止地蔵」という慰霊碑が建立されている。なお、同線では2006年1月にも同様の接触事故が発生しており、この時には3人が死亡している。

近鉄伊勢中川駅構内列車脱線事故[編集]

1969年(昭和44年)8月5日22時30分ごろ
近畿日本鉄道伊勢中川駅構内(大阪線から中川短絡線が分岐する地点)で上本町宇治山田行き特急が脱線、4両編成のうち2両が4m下の畑に転落した。乗客ら61名負傷[20]。製造から日の浅い12000系2両が廃車となった。
事故原因は車輪のフランジに欠陥があり、ポイントに引っかかって脱線したとされた。
対策として、現場の8番分岐器を12番分岐器に交換した[21]。なお当時は現場と伊勢中川駅のホーム間は単線であり、複線化されたのは1973年のことである。

草津線落石接触事故[編集]

1969年(昭和44年)11月29日
石部駅を定刻に出発した草津線745D列車(現車3両)は、22時23分頃約60km/hで力行運転中に、石部駅より約1kmの地点(柘植起点28k550m)にて列車の前頭部に落石が衝突した。このため1両目および2両目の気動車が全軸脱線し、1両目は運転室が大破し、進行右側に横転し停車した。
当該列車には乗客約70名が乗車していたが、この事故により運転士1名が死亡、乗客17名、乗員2名が負傷した。その後吹田から操重車を迎え、30日17時20分に開通。この事故でキハ30 6が廃車となった。

寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故[編集]

1969年(昭和44年)12月6日 6時20分頃発生
青森発大阪行き寝台特急「日本海」が北陸本線敦賀 - 今庄間の北陸トンネル通過中に最前部電源車から火災が発生した。
当時の国鉄の規則では「火災が起きた場合は速やかに列車を停止させなければならない」と定められていたが、当該列車の機関士は「トンネル内での停車は危険」と判断し、あえて規定に従わずに走行を続け、トンネルを脱出後に非常停車して、消防車の協力を得て消火作業を行い、火元車両焼損のみで鎮火した。この運転士の判断は乗客の安全を守るために機転を利かせたものとして好意的に報道された。
これに対し国鉄は、出火を認識しながら直ちに停止しなかった機関士の行為は運転規則に違反するものとして断罪し、運転業務から外した。また、この事故から教訓を得ず、出火時には直ちに停車させる規定を維持した。
この火災から3年後、「きたぐに」による北陸トンネル火災事故では乗務員が規則通りにトンネル内で停車させて消火にあたったが鎮火することができずに多くの死傷者を出した。事故後に実車を用いた火災実験等を経て「トンネル内で火災が発生した場合には走行を続けてトンネル脱出後に停止する」と規定を改めると共に、「日本海」の機関士に下された処分も撤回した。

東武伊勢崎線多々良 - 館林間踏切事故[編集]

1969年(昭和44年)12月9日 8時13分
伊勢崎発浅草行き準急列車が、伊勢崎線多々良 - 館林間にある309号踏切にて、警報を無視して進入してきた大型クレーン車と衝突。死者7人、負傷者101人を出す大惨事となった[22]。東武鉄道は、1971年(昭和46年)9月14日に跨線橋を設置し、踏切は廃止された[注 6]。この事故で大破したクハ8139は、1970年(昭和45年)4月に修繕扱いで車体新製された。東武鉄道はこの事故を『館林事故』と命名している。

急行「よしの川」脱線事故[編集]

1969年(昭和44年)12月19日
阿波池田発小松島港行き急行「よしの川」4号(気動車2両編成)が、下浦駅付近にある踏切で警報を無視して突っ込んできたダンプカーと衝突。ダンプカーは下浦駅のホームに吹き飛んだ上に、急行の1両目が脱線し近くの食料品店を営んでいる民家に飛び込んだ。
この事故で急行の運転助士が民家と車両に挟まれ殉職。ダンプカーの運転手や乗客ら22人が負傷。

1970年代[編集]

山陰線川棚温泉 - 小串間列車脱線踏切障害事故[編集]

1970年(昭和45年)3月30日
下関発京都行き上り普通第826列車(現車7両)は山陰本線川棚温泉駅を定時に発車し、時速55kmの惰行運転中、進行方向右側から第3種踏切を警報を無視し直前横断しようとするミキサー車と衝突し、1両目客車は全軸脱線し、進行右側に横転破損し、2両目も全軸脱線した。旅客4名、ミキサー車運転者1名の計5名が死亡し、旅客29名が負傷した。

房総西線保田 - 浜金谷間急行「うち房」脱線転覆事故[編集]

1970年(昭和45年)7月1日
房総西線(現・内房線)保田 - 浜金谷間の鋸山トンネル千葉寄り出口付近で事故前日から当日未明に掛けて降った集中豪雨により土砂崩れが発生した。そこに乗客約300人を載せた7両編成の千倉両国行き急行「うち房」上り2号(当該区間では普通列車)が乗り上げ先頭から3両が脱線。さらに先頭のクハ165-202は転覆し右側の天王川河原窪地に転落。乗客4人が軽傷を負った。搬出時に車体を2つに切断したため復旧困難となり同年8月13日付で廃車となった。同車は1969年6月に落成したばかりで、落成後わずか1年3か月での廃車は「国鉄で最も短命な電車」とされている[23]

尻内駅特急はつかり脱線事故[編集]

1970年(昭和45年)8月12日
東北本線(現:青い森鉄道線)尻内駅(現:八戸駅)で、上野青森行き下り特急「はつかり2号」(583系13両)が尻内駅構内を通過中に前6両が脱線し、一部の車両はホームに乗り上げたのち横転した。この事故で乗客30名が重軽傷を負った。
原因はポイントの切り替えケーブルが腐食し、ポイントに異常電流が流れてポイントが切り替わったため。脱線した車両は修理して運用に復帰している。

東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故[編集]

1970年(昭和45年)10月9日20時17分
東武伊勢崎線鷲宮 - 花崎間(花崎駅東側)の埼玉県道370号北中曽根北大桑線と交差する207号踏切で大型ダンプカーと浅草発伊勢崎行き準急列車が衝突、5名が死亡し、173名が負傷した[24]。この事故により7800系の1編成2両(モハ7808 - クハ808)が大破し、廃車とされた。東武鉄道では唯一の事例となる踏切事故による事故廃車である。東武鉄道ではこの事故を「花崎事故」と命名している。

湯前線多良木 - 東免田間列車衝突事故[編集]

1970年(昭和45年)11月15日
湯前線(現在のくま川鉄道湯前線湯前駅から逸走した貨車2両が、多良木駅下り場内信号機の外方170m付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、旅客111名(重傷1名、軽傷110名)と、気動車運転士1名が負傷した事故。
貨第371列車(10両)の牽引機関車は、定時に湯前駅1番線に到着し、貨車6両を持って安全側線に引き上げ、3番線に留置中の貨車14両に連結した。しかし、多良木駅方の貨車2両(コトラ41426号積車、コトラ45402号積車)が転動し、31号転轍機を割出し、逸走した。入換監視中の当務駅長は、貨車2両が51号転轍機付近を転動中であることに気づき追走したが、これに及ばず、貨車が本線に逸走したため、駅本屋に戻り、多良木駅に通報し、逸走した貨物2両の停止手配方を依頼した。通報を受けた多良木駅当務駅長は、接近中の気第623D列車に対して下り場内信号機に停止信号を現示させ、逸走中の貨車2両の進路を2番線に構成しようとしたが間に合わず、貨車2両は、時速約60kmで多良木駅1番線を通過した。そして駅下り場内信号機の外方170m付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、停止した。
原因は、湯前駅3番線に留置中であった貨車14両のうち多良木駅方から2両目と3両目の貨車間の連結器が連結されていなかったこと、多良木駅方から1両目の車側ブレーキを緩解したこと、3番線の鉄製車輪止めを早期に解放したこと、貨車の逸走したことの通報が遅延したことである。
すでに車両逸走事故の対策としては、1968年4月5日の函館本線野幌駅で発生した故障のため解放した気動車が逸走した事故、1969年11月28日の士幌線士幌駅で発生した入換中に不連結の貨車7両が逸走した事故により、車両逸走のおそれのある駅を要注駅として鉄道管理局長が指定し、車両の留置方、入換作業方法、転動時の停止手配などについて再指導を行い、車両逸走の注意を促す逸走注意警標を設置する、木製車輪止めより性能のすぐれた鉄製車輪止めが開発されたため車両逸走のおそれのある留置線に設置するという対策がとられた。しかし湯前駅で発生した事故にかんがみ車両逸走事故防止対策が見直され、車両が逸走してくるおそれのある駅を隣接駅として要注駅から逸走してきた車両が到達する時分、進入速度を予測計算し具体的な停止手配の方法を検討し、通報、停止手配訓練を春と秋との年2回実施するという対策が追加された。
逸走車両に対する停止手配器材は、ヘムシュー、砂袋、布団、畳、枕木などを整備してきたが、停止手配訓練を実施したところ、ヘムシューを除いて停止効果がほとんどなく、時速30km以上の高速度における停止効果が認められなかったため、新しい有効な停止手配器材の開発を行うこととなり、北海道総局の実験線における効果の確認などを経て1972年1月、新しい停止手配器材(カーキャッチャー)が開発され、順次整備された。

富士急行列車脱線転覆事故[編集]

1971年(昭和46年)3月4日8時25分ごろ
富士急行大月線月江寺駅の富士吉田駅(現:富士山駅)方踏切(緑ケ丘第二踏切。大月駅起点21.990km。第1種自動)で、河口湖大月行き電車(3100形3103+3104)が、踏切内に進入した小型トラック(積み荷の落下に気を取られブレーキ処置をしないまま運転者が下車したため、転動し遮断機を突破したもの)と衝突。車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4kmを暴走。月江寺 - 暮地(現在の寿)間の4駅を通過した後、暮地 - 三つ峠間(最急40の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落し、後部車両が大破した。乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。トラック側2名が負傷した。
この事故後、空気ブレーキの系統を多重化するなどの対策が採られるようになった。また、同社ではこの事故以降、車両番号の末尾が忌み番である「4」および「9」の車両は存在しない(例:のちに登場した1000形のうち、1204 - 1304は欠番)。2両固定編成の5700形の場合、本来「4」と編成される「3」、および「9」と編成される「0」の車両も存在しない。

土佐電気鉄道鴨部正面衝突事故[編集]

1971年(昭和46年)5月5日
土佐電気鉄道(現:とさでん交通)の伊野線鏡川橋南詰 - 鴨部のカーブで、伊野発知寄町行き電車(200形203号)が手前の交換所で待避待ち(タブレット交換)をせずに進行し、知寄町発伊野行き電車(同205号)と正面衝突した。衝突後203はさらに、衝撃でブレーキが損壊し、下り坂を逆行、後方のダンプトラックとも衝突した。重軽傷66名。事故車のうち203は廃車。205は修理され運用に復帰した。鏡川橋 - 鴨部市場前間は、同年中に特殊単線自動閉塞式の信号方式に変更されている。

札幌市営地下鉄南北線脱線事故[編集]

1971年(昭和46年)9月3日
開業前の札幌市営地下鉄南北線で、真駒内駅を発車した試運転列車(4両編成)がポイント部分で脱線しシェルターへ激突した。列車には運転士2名が乗務していたほか、国鉄関係者を含む28名が試乗していて、運転士2名と、試乗客3名が負傷。車両の前頭部とシェルターが大破した。当時ATCは工事中で未使用だったが、運転士は指令所の指示を待たずに列車を発車させていた。
路線は完成検査前だったが、同年1月ごろから市民などを対象にした試乗会を頻繁に実施していて、北海道運輸局から試乗会を中止するよう何度も指導されていた。札幌市交通局は事故発生当初、訓練中の事故で試乗客はおらず、負傷者も運転士2名だけだったと虚偽の発表をしていた[25]

近鉄特急衝突事故[編集]

1971年(昭和46年)10月25日
近鉄大阪線榊原温泉口 - 東青山間の総谷トンネル内で、上本町近鉄名古屋行き特急電車(4両編成:12000系・12200系)と賢島発近鉄難波(現在の大阪難波)・京都行きの特急電車(7両編成:12200系10100系18200系)が正面衝突した。死者25名、重軽傷者218名。事故発生場所がトンネル内だったため、復旧まで長期間を要した。ATSの誤作動で名古屋行き列車に作用してしまった非常ブレーキを緩解するため供給コックを閉鎖して緩解したため、その後ブレーキが作用不能となったのにも関わらず発車したために下り勾配でブレーキをかけられずに停止信号を突破したもの。

船橋駅構内追突事故[編集]

1972年(昭和47年)3月28日 午前7時21分ごろ
総武本線船橋駅で駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、101系10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、711Cの6両目が脱線し、758名が負傷した。死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、日本の鉄道事故としては被害者数が最悪の事故となった。
事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線したことにより信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は船橋駅に停車中だった。信号系の停電で閉塞信号機、および場内信号機が消灯していて、通常であれば後続列車もこれを確認して直ちに停止の手配が取られるところだったが、太陽の直射に幻惑されて消灯との判断ができず、後続列車の運転士は信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まないことを知らなかったため、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチを操作しているうちに、ブレーキ操作が遅れて追突したものである(信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められている)。

急行「阿蘇」郵便車炎上事故[編集]

1972年(昭和47年)4月13日 午前0時50分ごろ
名古屋発熊本行きの急行「阿蘇」が山陽本線三石-吉永間を走行中、機関車の次位に連結していた郵便車から出火。吉永駅に臨時停車し客車と郵便車との連結を外し400m引き離して消火活動をした[26]。幸い負傷者はいなかったが郵便車は全焼。郵便物1万数千通が焼失し現金書留など一億円以上の損失が出た。当初は煙草の不始末が原因とみて岡山県警は捜査をしたが、当時名古屋鉄道管理局勤務で事故の対応をした山之内秀一郎の著作[27]によれば、郵便車の蒸気暖房管の周囲にある木材が摂氏160度程度の温度で長時間暖められ蓄熱してしまい、やがて発火する「低温蓄熱による発火現象」が事故車両で発生したことが判明し、非常に希な現象であるため火災責任はないとして不起訴処分になったという。

日暮里駅構内追突事故[編集]

1972年(昭和47年)6月23日
京浜東北線北行第1332C電車(桜木町大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り第1370電車(103系10両編成)の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは田端 - 田町間で山手線と京浜東北線が同じ線路を走行していた。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見られる)、一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、143名が負傷した。
原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになった。しかし車両面での準備が遅れたため、実施は1981年12月6日まで待たねばならなかった。
追突されたクハ103-544、追突したクハ103-111は数年後復帰したが、ATC化のために転出し、大阪環状線で長らく顔を合わせることになる。

繁藤駅列車土砂崩れ転落事故[編集]

1972年(昭和47年) 7月5日 午前10時50分
梅雨末期の集中豪雨により、土讃本線繁藤駅近くの追廻山が土砂崩れを起こし、駅構内に土砂が流入した。角茂谷駅との間が不通になっていたために停車していた高知発高松行き普通列車(機関車+客車3両編成)がこの土砂崩れに巻き込まれ、機関車と客車は近くの穴内川に転落し押し流された。列車はすでにバスに振替輸送をしていたが、車内に数人の乗客がおり2人が救出された以外は行方不明となった。また、同日朝に付近で発生した小規模の土砂崩れによって行方不明になった消防団員1人の救出作業にあたっていた町の職員や消防団員、国鉄職員らも巻き込まれ、合わせて59人[注 7]が犠牲になった(繁藤災害)。

北陸線北陸トンネル列車火災事故[編集]

1972年(昭和47年)11月6日
北陸トンネル内を走行中だった、大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」の11号車食堂車オシ17形)喫煙室椅子下から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。しかし、密閉された空間であるトンネル内だったことから、乗客・乗務員の多くが一酸化炭素中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。
この事故の3年前に同トンネル内で発生した特急日本海火災事故では、トンネル外まで列車を引き出して消火し物損のみに留めた。この事例に基づき規則改正を図れば避けられた惨事だが、逆に日本海乗務員を運転規則違反で処分し、規則が改正されなかったことで惨事化した。
国鉄ではこの事故を教訓に実験を重ねた結果、トンネル内火災では脱出してから消火する方が安全であると確かめられたことから、運行規則が改められるとともに、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の出火対策が進められた。

地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故[編集]

1972年(昭和47年)11月21日
帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)日比谷線下りB871S電車(3000系8両・全電動車)が、広尾駅600m手前で過負荷継電器により編成内の電源が落ち、復旧後もノッチ操作に制御器が応答せず力行不可能となった。電車は広尾駅で運転を中止し乗客を降車させた。
直後の点検では車両に異常は認められなかった。しかし、乗客から「4両目の床下からボーンという音がした」「床下から少し煙が出ていた」という話を聞いた乗務員と駅係員は、上記の北陸トンネル火災の直後ということもあり、大事をとって編成を広尾駅の側線に待避させ、パンタグラフを降下させた上で再度点検することにした。
点検中、5号車(運転中の前から4両目)の断流器から発煙しているのを発見。粉末式消火器で消火を試みたが、作業中に爆発音とともに煙の勢いが強くなり、待避した。その後煙がおさまらないため消防に通報。
3539号車の断流器焼損、高圧ツナギ箱などの床下機器を一部焼損した。死傷者はない。

東海道新幹線大阪運転所脱線事故[編集]

1973年(昭和48年)2月21日
東海道新幹線大阪運転所(鳥飼基地)からの回送715A電車(0系電車・16両編成)が本線との合流地点で停止信号を冒進、直前で運転士が気付いたが間に合わず分岐機を破損して本線上で停止。さらにCTC指令員の不手際から、十分な状況確認をせずに車両を後退させたため、分岐器上で脱線した。事故による死傷者は発生しなかったが復旧に約18時間を要し、ダイヤが正常に戻るまで2日かかるなど大幅に混乱した。
ATC管理下の信号冒進・脱線事故で絶対停止03信号の添線軌道回路48mを突破した停止システムの根幹に関わる事故であったことから大問題となったが、現車を使用した再現実験の結果、現場手前のカーブ地点でのレール潤滑油(レールと車輪の磨耗や、騒音を低減する)の過剰塗布が原因で、ATC自動ブレーキが十分に作用せず滑走したことが主要因と判断され03信号の添線軌道回路を50mに延長した。また事故報告書では、運転士はATCの停止信号現示を見落としたため、脱線直前まで気付かなかったとされたが、この点については信号現示に異常があったとする運転士・組合側から反発を受けることとなった。
この後1974年 9月12日には東京運転所(品川基地)11月12日には新大阪駅構内で異常信号によるダイヤ混乱が発生。この事態を受けてATCを2周波方式の全国共通型ATC-1D/ATC-1W型に改良した。
また想定を超える設備劣化による車両故障やレール欠損事故などが立て続けに発生したことから、1974年から翌年にかけて「新幹線安全総点検」として半日運休を、さらに1976年から1981年まで「若返り工事」を行うこととなった。しかし、これらの措置は同時期に行われた国鉄料金体系の大幅な値上げと相まって、それまで新幹線が絶対的優位を保っていた併走ルートの近鉄名阪ノンストップ特急が再起するきっかけとなった。

特急「さざなみ」衝突脱線事故[編集]

1973年(昭和48年)11月23日
同日17時21分ごろ、下り特急「さざなみ6号」で運用されていた幕張電車区(現・幕張車両センター)所属の183系電車9両編成が、内房線那古船形 - 館山間の踏切で立ち往生していた約20tの船舶用エンジンを積載したトレーラーと衝突し、35人が重軽傷を負った。
この事故で先頭車両だったクハ183-17は、トレーラーの荷台に乗り上げ約100mを脱線したまま走行し大破。前面部分が「く」の字型に折れ曲がり、修復困難となったことから1974年2月12日付で廃車となった。
なお、同車は1972年6月に落成後約1年半での廃車。代替として1975年にクハ183-39が製造された。

関西線平野駅列車脱線転覆事故[編集]

1973年(昭和48年)12月26日
関西本線平野駅構内を走行中の湊町(現在のJR難波)発奈良行き普通第722列車(113系6両編成)の運転士は、8時12分ごろ、上り第1閉塞信号機の減速信号および平野駅場内信号機の注意信号の確認を欠き、分岐器に対する制限速度を超過したまま運転し、平野駅3番線で第56ロ転轍機にさしかかった際に制限速度35km/hを超過していることに気付き、非常ブレーキを使用した。当該列車は、56号転轍機のトングレール先端から34m進入した上り本線と上下待避線のわたり線で進行右側に脱線、196m進行して停止した。先頭車両(クハ111-55)が全軸脱線、車体が進行右側に横転転覆、2 - 6両目車両も全軸脱線転覆し、3名が死亡、149名以上(156名とも)が重軽傷を負った。当該列車が関西線では快速運用に入ることが多かった113系電車による編成だったことから運転士が平野駅を通過する快速と勘違いしており、制限速度35km/hの分岐器を70km/h以上で通過したため。運転士は意識朦朧となった状態で運転したもの。
この事故を契機に関西本線における113系の運用はJR発足まで長らく快速運用に限定されることになる[注 8]。さらに関西本線ではトランスポンダ式Pとの比較で廃止された変周式ATS-Pの長期試験も実施された。事故列車の先頭車は廃車となった。なお、JR西日本発足後に登場し主に快速で使用される221系では同線の普通列車の運用も存在している。

鹿児島本線特急列車曲線過速度脱線事故[編集]

1974年(昭和49年)4月21日 13時50分ごろ
鹿児島本線西鹿児島(現・鹿児島中央) - 上伊集院間(当時広木駅は未開業)で特急「有明」上り2号に充当されていた583系電車12両編成が300Rの曲線に制限速度65km/hを大きく超える推定95km/hで進入して1両目・2両目車両の第1軸が脱線した。負傷者78名。原因は運転士が出発以降速度制限を無視して加速を続けたこと。
曲線過速度脱線事故のひとつであり、後の2005年4月25日に起きる福知山線脱線事故と似通った発生条件である。

東北本線列車脱線衝突事故[編集]

1974年(昭和49年)9月24日
東北本線古河 - 野木間で大宮操駅郡山操車場行き貨物列車が脱線、上り方面の線路を支障した。そこへ、上野行きの急行「まつしま5号」「ばんだい4号」(455系電車13両編成)が突入。上野方の「ばんだい4号」は左側前面の一部を破損して脱線転覆。52名が衝撃で跳ね飛ばされたり、ガラス片で手足を負傷するなどした。

西鉄大牟田線列車衝突脱線事故[編集]

1975年(昭和50年)3月1日 19時6分
西鉄大牟田線井尻 - 雑餉隈間の井尻3号踏切において、西鉄福岡大牟田行き特急1803列車(2000形2041編成)が踏切内に進入してきた自動車(中型ライトバン)と衝突、先頭車両が横転、後続車両も脱線した。
重傷者2名(うち自動車運転者1名)、軽傷者41名(うち公衆2名)を出したが、横転事故にもかかわらず死亡者は出なかった。

信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故[編集]

1975年(昭和50年)10月28日
信越本線軽井沢 - 横川間上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5, 9+EF62 12, 35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、曲線トンネル内で脱線して、トンネル出口先で築堤下へ転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも現場で解体され廃車となった。このうち、EF63については24・25号機が代替製造された。
事故がおきたのは、午前6時16分ごろ。信越線上り線第一トンネル内で過速度に因り車体傾斜してトンネル内壁と接触しながら降坂し、出口付近で脱線した後、転覆・転落した。この区間は、最大66.7‰R350の急勾配、右カーブのため、下り勾配を走行するEF63は、発電ブレーキという抑速ブレーキを使用して、列車速度を一定に保ちながら降坂走行する。その際にすべての列車は、過速度検知装置 (OSR) によって最高速度を旅客列車40km/h, 貨物列車25km/hに制限されており、機関車の回送列車である当該列車は貨物列車と同じ扱いで25km/hの制限によって走ることになっていた。ところが何らかの原因でこのOSRが正常に作動しなかったものと見られ(機関士が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとの説もある)、制限速度を大幅に超過して坂を下り、トンネル内壁に傷をつけるなど暴走した後に脱線・転覆した。
EF63には下り勾配で暴走したときのために、電機子短絡スイッチ(回路をショートさせ、電動機を破壊してでも列車を止めるための装置)が装備されていた。この事故の際、機関士は最終手段であるこのブレーキも使用しているが、それでも下り坂で暴走する列車を止めることはできなかった。急勾配の恐ろしさを関係者に知らしめた事故である。
この事故により、EF63全車両に設置されているOSRをより強固なものに変更する検討がなされたが、過密ダイヤをさばくには横川駅付近の緩勾配区間を速やかに通過することが求められた(この付近ではOSRを切って運転される)ため、強制的な速度制限機能の付加は見送られる。ただし、この区間において類似の事故はこれ以降1997年の廃止まで一切起きなかった。

山陽線須磨駅ホーム転落事故[編集]

1975年(昭和50年)12月27日 15時50分ごろ
須磨駅にて新快速153系または165系 6両編成)の通過待避をしていた各駅停車の車掌、大山健一(入局2年目)が、泥酔状態でホームから転落した老人を見つけ、救助しようと線路に飛び降りたが、間に合わず新快速にはねられ殉職、老人も死亡した。現在、事故現場近くには顕彰碑が建てられている。

高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故[編集]

1976年(昭和51年)8月1日 午前10時20分ごろ
高松琴平電鉄志度線今橋駅付近にある向良横踏切(高松市松島町)で上下2両編成電車時速約30 kmで正面衝突した。当日は日曜日海水浴に向かう家族連れら約450名が乗車しており、重傷者17名を含む負傷者224名を出す事故となった。なお、事故車両(上下いずれも1000形)は運転台が潰れたため廃車になったが、同社にとって有責事故による廃車は唯一である。
事故は志度線が全線単線であり、上下電車が今橋駅で交換するダイヤだったにもかかわらず、下り電車の運転士が失念し、先に出発した人為的ミスだった。また当時志度線にATSは設置されていなかった。

東海道線蒸気機関車接触事故[編集]

1976年(昭和51年)9月4日
この日、東海道本線の京都 - 大阪間で同区間の開業100周年を記念し、蒸気機関車C57 1が牽引するイベント列車の「京阪100年号」が1往復運行されていたが、その上り列車に茨木駅付近の線路内で撮影をしていた小学校5年生の男児が接触し、死亡した。
事故そのものは、国鉄側に責任のない鉄道人身障害事故だったが、国鉄における蒸気機関車の動態保存に対する考え方を大きく変えた事故となった。

函館本線駒ヶ岳貨物列車過速度脱線転覆事故[編集]

1976年(昭和51年)10月2日 午前4時42分ごろ
函館本線駒ヶ岳 - 姫川間の60km/h制限下り300Rカーブに推定110km/h余りで進入し、貨車41両中40両とDD51形機関車が脱線転覆した。脱線車両数としては国鉄最大の事故となった。現場付近は登坂線を小沼湖畔まで登って大沼駅から分岐する短絡本線の緩勾配を登り、駒ヶ岳駅先から事故発生の急勾配20‰急曲線300Rの連続で姫川信号所に降り海岸まで下っている。居眠り運転により大沼駅からの緩勾配と平坦部で加速し下り急勾配中の300Rカーブに進入したとされている。

上越線急行「佐渡」脱線事故[編集]

1977年(昭和52年)3月8日
上越線津久田 - 岩本間で直径3.7m・重さ30tの巨大な岩が崖から落下。この現場に急行「佐渡」下り3号が激突。前から4両が脱線し、837人の乗客中1人が死亡111人が負傷。被災車両のうち6m下の国道17号に転落した先頭クモハ165-3、横転した2・3両目のモハ164-3・クハ165-58が復旧困難なため同年5月18日付で廃車。本事故後に「防災補助金制度」が整備された。

信越本線急行「信州」脱線事故[編集]

1977年(昭和52年)7月25日14時15分頃
信越本線(現・しなの鉄道線上田 - 西上田間の蟹町踏切付近で異常高温によりレールがゆがむ障害が発生した。当該区間に約90km/hで急行「信州」下り2号で運用中の169系12両編成が進入し、約200メートル暴走。この結果、後側7両が脱線し乗客7人が負傷した。当該車両のうちモハ168-5が大破したため1978年3月10日付で廃車された。なお当日の上田市は30℃を超える最高気温を記録している。
また廃車となったモハ168-5のユニット相手方であったクモハ169-5は、被害が大きくなかったことと製造から10年以内[注 9]減価償却資産の耐用年数等に関する省令(昭和40年3月31日大蔵省令第15号)に定められた鉄道用車両における電車の償却年数である13年に満たない状態であったことから、復旧後は休車となった[注 10]。しかし、1982年に償却年数である13年を経過していたクモハ169-9が大規模な車両故障を起こし修復せず廃車となった際にユニット相手方を失ったモハ168-9とユニットを組み直し運用に復帰した。

阪急電鉄十三駅扉挟み死亡事故[編集]

1978年(昭和53年)1月20日 午前8時47分ごろ
阪急電鉄十三駅の4号線ホーム(宝塚本線上りホーム)で、梅田行き普通列車が発車する際、扉に挟まっている乗客を見落とし、テレビカメラで監視していた保安スタッフが出発合図を送ったことにより列車を発車させた。その後、異変に気づいて21m走行したところで停止したものの、乗客はホーム上を5m引きずられた後、軌道内に転落して列車にひかれ死亡した。
1995年(平成7年)の東海道新幹線三島駅乗客転落事故と類似の事故である。

営団地下鉄東西線列車横転事故[編集]

1978年(昭和53年)2月28日 午後9時34分ごろ
営団地下鉄(現東京メトロ東西線中野行き快速列車(営団5000系5018F、10両編成)が、南砂町 - 葛西間(当時、西葛西駅は未開業)の荒川中川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部2両が西船橋方面行きの線路上に横転、1両が脱線。負傷者23人。
当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15m/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、20m/sで列車運転を見合わせ、25m/s以上で運転休止を指示することになっていた。現場から800mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。当時、天候は、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に低気圧988mbがあり、不連続線の1本が東京上空を通過、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は、午後9時20分ごろ、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300 - 500mの帯状の範囲、川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25 - 30分間に集中した。竜巻突風は時速80 - 100kmで北東ないし東北東に直進したものと思われる。
ステンレスカー(なお、当時一部のマスコミでアルミ車と報道されたが、転覆した車両にはコルゲートがあったので誤報)の車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50 - 100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。
脱線および転覆した2両は、橋梁上で復旧が困難と言う理由から現地解体され、その後同じ番号の車両が2両代替として新製された。
なお、この際に一部テレビ局ニュース速報で「地下鉄電車が突風で転覆」とテロップが表示され、この当時、春日三球・照代の地下鉄漫才が大流行していたこともあり、地下鉄の路線に地上区間や鉄橋があることを知らない人に混乱を招いたということもあった。

高松琴平電鉄長尾線列車障害事故[編集]

1978年(昭和53年)11月3日 14時35分ごろ
高松琴平電鉄長尾線平木 - 白山間(当時学園通り駅は未開業。現在の同駅付近)の鹿伏中央踏切で、警報を無視して踏切内に侵入した大型ダンプカーに長尾瓦町行き電車(750形2両編成)が時速約70km/hで衝突した。電車の先頭車がダンプカーを20mほど引きずる形となったのち線路脇の水田に転落・大破し、電車運転士とダンプカー運転者が死亡、乗客と車掌計3名が重軽傷を負った。事故原因は過積載と速度超過状態で走行していたダンプカーがブレーキが間に合わず踏切内に侵入したためとされた。なお、損傷の激しかった先頭車(750形770)は現場で解体処分された。

常磐線列車衝突脱線転覆事故[編集]

1979年(昭和54年)3月29日15時5分ごろ
常磐線神立 - 土浦間を走行中の、平(現・いわき)発上野行きの普通電車(482M、403系電車12両編成)が鹿島街道踏切(警報機、遮断機付)で警報を無視して進入したダンプカーと衝突。ダンプカーは大破。電車は1両目が前部を大破して約70m暴走した後脱線、進行方向左側約2m下に転覆。2両目以下も約200m暴走し、2両目が脱線した。ダンプカーの運転手1人が死亡、乗客57人と電車運転士1人が負傷した。この事故で架線を切断したため、取手 - 友部間で翌日の10時30分ごろまで運休した。事故車の先頭車(クハ401-52)と2両目(モハ402-1)が廃車となった。事故後に鹿島街道踏切は閉鎖され、既に完成していた常磐線を越える立体交差に移行させると同時に現場近くには線路の下を潜る通路が設置された。

信越本線篠ノ井駅列車衝突脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)6月2日4時31分ごろ
信越本線篠ノ井駅において、入換中の貨車7両と長野行き臨時修学旅行電車165系8両編成)が衝突。電車の先頭車1両(クハ165-190)と貨車2両が脱線・転覆し、乗客の中学生と教師ら364人が負傷した。
当時、駅構内で貨車の入換中だったが、貨車を機関車から突放する際に、突放された貨車に飛び乗ってブレーキをかける構内掛(「掛」は「係」の国鉄での表記)が待機しているか否かを確認しないまま、操車掛が入換機関車に突放指示を出したため、機関車より突放された7両の貨車はブレーキをかけられることなくそのまま構内を800 m逸走し、分岐器を割り出して篠ノ井線の本線へ侵入し、駅に進入中の修学旅行電車が衝突したものである。衝突時の速度は貨車が約5 km/h、電車は非常制動をかけたこともあって約30 km/hと比較的遅い速度での衝突だったが、衝突した両数が多かったためか多くの負傷者を出す惨事となった。

江ノ島鎌倉観光(江ノ電)藤沢駅構内暴走脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)6月6日15時46分ごろ
江ノ島電鉄江ノ島鎌倉観光線(現・江ノ島電鉄線藤沢駅に進入中の電車2両が所定停止位置を超え、車止めの砂利を乗り越え車止め標識と線路終端施設に衝突し乗客乗員負傷者70数名をだした。死者は0名。この事故で先頭車デハ301の前部台車が脱線した。
終点のため減速しながら所定停止位置に止めなければならないところ、運転士の供述では「パチン!と音がしブレーキが利かなくなった」状態になり、そのまま20数km/hの速度で線路終端施設に衝突した。後に機械的な不具合は発見されず、運転士の操作ミスとして逮捕起訴され執行猶予付き禁固刑が確定。当時の江ノ電にはATSなどの保安装置が無く、この事故を契機に保安設備の充実が図られ、以後は中小ローカル私鉄としては十二分な保安設備向上が図られたが、沿線の鎌倉市周辺は山に囲まれている地形や線形の複雑さから、現在でも列車無線が100%の威力を発揮できずCTCなどの集中制御方式は見送られた。しかしATSによる細かい速度規制などにより、官公庁の査察が入るような事故は皆無である。

京王帝都電鉄京王線列車障害事故[編集]

1979年(昭和54年)10月3日
京王帝都電鉄(現・京王電鉄京王線武蔵野台駅東側の飛田給11号踏切にて、トラック(2名乗車)の荷台から転落した重機(ショベルカー)に高尾山口新宿行き上り急行列車(5000系7両編成[28])が衝突、衝突の際に左カーブの付近だったため重機は前に押し出されて下り線の線路を支障したところに、新宿発京王八王子行き下り特急0015列車(5000系7両編成[29])が衝突、前2両が重機に乗り上げて脱線転覆、落下した重機を載せたトラックに衝突した。重機を退かそうとして重機に乗り込んだトラックの運転手が重機ごと電車に轢かれて死亡し、列車の乗員・乗客ら52名が負傷した。トラック運転手が荷物重量制限の確認注意を見落とした可能性に加え、荷台の重機をロープ等で固定していなかったため、踏切を渡った際の振動で重機が踏切線路上に落下したとみられる。事故当日は武蔵野台駅近くで駅舎改築に伴う道路舗装工事をしていたが、降雨のために中止となり、重機を撤収移送している途中での事故だった。武蔵野台駅の東側(同駅 - 飛田給駅の間)はカーブになっており、最初に衝突した急行電車が衝突の際に左カーブの位置だったため、重機は前に押し出されて下り線の線路を支障し、さらには見通しの悪いカーブから下りの特急電車が間に合わずに衝突され、重機に乗り上げて脱線転覆したとみられる。尚、2017年5月現在もカーブ及び、事故現場の踏切は移設せずに残っている。当該トラックに乗車しており生存していた運転手1名は道路交通法違反(積載不備)、業務上過失致死罪過失往来危険罪府中警察署現行犯逮捕された[30]。この踏切には障害物検知装置が未設置であったことから、本件以後京王での踏切安全対策強化が進められた。事故車両は高幡不動駅構内の高幡不動検車区に運ばれ、損傷が酷かった京王八王子方の先頭車1両(クハ5871号車)が1979年11月16日付で廃車となり、翌1980年1月末に同検車区にて解体された[31]。このクハ5871号車は1968年(昭和43年)に通勤電車として初の冷房を採用された試作分散冷房車であった。

武蔵野貨物線生田トンネル貨物列車追突脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)11月18日
武蔵野貨物線府中本町駅 - 梶ヶ谷貨物ターミナル駅間の生田トンネル内で先行の貨物列車の機関士が居眠りにより停車に至り、下り勾配で後退をし始め、停止信号で停車中の後続の根岸駅宇都宮貨物ターミナル駅行きの石油貨物列車に衝突し貨車4両が脱線転覆、11両が脱線した。原因は先行の貨物列車の機関士が居眠りをしたことにより停車し、貨物列車の後ろの貨車が下り勾配で後退をし始めた事である。列車はそのまま後退し続け、停止信号で停車中の後続の貨物列車に追突した。運転中の居眠りによる過失と断定され、先行の貨物列車の機関士及び貨物列車の車掌が書類送検された。

1980年代[編集]

京阪電気鉄道置石脱線事故[編集]

1980年昭和55年)2月20日20時59分
大阪府枚方市京阪電鉄京阪本線枚方市 - 御殿山間の磯島茶屋町付近で、枚方市立第一中学校に在学で同市内の中学生5人組のグループが悪戯で線路脇のケーブルトラフ(コンクリート製U字形溝)の蓋を線路上に置いた[32]ため、同地を走行した淀屋橋三条行きの急行電車(5000系7両編成・乗客約400名)の先頭3両が脱線、先頭車輛が民家に突っ込み、2両目は横転[33]。幸い死者は出なかったが、負傷者104名の大事故になった。
この事故により先頭車両5554号車は廃車となり、同じ番号の車両がその年12月に代替として新製された。
中学生グループおよび保護者に対して京阪電鉄は損害賠償を求め、5人のうち4人は1人あたり840万円の示談金を支払うことで示談が成立した[34]。しかし、残りの1人とは示談が成立せず、1982年2月に京阪側が損害賠償を求める裁判を起こす[34]。この親権者は「グループには入っていたが、実行行為に関与していなかった」と主張し、大阪高等裁判所がその主張を認めた。しかし、1987年最高裁判所は謀議に入った者も賠償責任が発生するとする旨の判決[35]を出し、大阪高裁に差し戻した。同年の差し戻し審では、他の元中学生4名と同じく840万円を支払うとの和解が成立した[36]。京阪は約4200万円の賠償金を受け取ることになったが、これは実際の損害額の約10分の1である。残る9割の損害は保険で対処した。
この経験から、対策として京阪を筆頭に、鉄道事業者各社においては、沿線から線路に侵入させないようなフェンスや有刺鉄線をきわめて積極的に設置した。さらに、先頭車両への排障器の設置と、先頭台車への補助的な排障器具の設置を進めた。

長崎本線特急「かもめ・みどり」脱線事故[編集]

1981年(昭和56年)6月7日13時53分ごろ
長崎本線久保田 - 牛津間を走行中の博多長崎佐世保行き2021M特急「かもめみどり11号」(485系電車12両編成)が走行中、柳掘橋梁付近の左側半径800mのカーブで左側レールが2箇所、横に波打っているところを運転士が発見し非常ブレーキを執って停車したが後ろ寄りの6両(「かもめ」後ろ2両と「みどり」全編成)が脱線した。負傷者17名。レールが波打っていた原因は枕木とレールの締結部分が緩み、暑さでレールが伸びていたことであるが、この頃暑さにより同様の事例が多発していたことから、塩川正十郎運輸大臣高木文雄国鉄総裁(いずれも当時)に注意を行い全国で緊急に線路状況点検が行われた。
脱線した車両のうち特に損傷の激しかった「みどり」編成後部に組成されていたモハ485-117・モハ484-221・クロ481-53の3両が廃車となった。同系列が国鉄時代に事故廃車された唯一の事例である。

寝台特急「紀伊」機関車衝突事故[編集]

1982年(昭和57年)3月15日 2時16分ごろ
機関車付け替えのため名古屋駅に運転停車中の東京紀伊勝浦行き寝台特急「紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたディーゼル機関車DD51 717が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。負傷者14名。事故を起こした機関士は当該仕業前の仮眠時間に飲酒しており、それによる居眠り運転をしたことが原因だった。この事故は、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄と国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。またこのころ相次いだ「たるみ事故」に「職場規律を正します」との中吊りが車内に掲示され、一部組合も協力して職場規律の修復が行われた。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。

石北本線特急「オホーツク」脱線事故[編集]

1982年(昭和57年)6月11日12時頃
石北本線留辺蘂 - 相内間で枕木交換作業中の現場に定刻より遅れてきた札幌網走行き31D特急「オホーツク1号」が進入、脱線した結果27人が重軽傷を負った。原因は現場に「オホーツク1号」が遅れていることが伝わっていなかったことと、下請け業者が丁寧さを欠いた手抜き工事をしており本来1本ずつでしか交換してはいけない枕木を一度に6本抜いていたことによる。この事故により当該車両のキハ82 59・902、キハ80 9・76、キロ80 35、キシ80 4の6両が現場で解体され同年7月6日付で廃車となった。

東北新幹線小学生死亡事故[編集]

1983年(昭和58年)8月4日

東北新幹線古川駅にて、夏休みの家族旅行中の小学生が下車したところ、他の家族は降りそこなったまま列車が発車したため、ホームに取り残された小学生が軌道に立ち入り、一ノ関駅方面(当時くりこま高原駅は未開業)の第一高清水トンネル内で後続列車にはねられ死亡した。東北新幹線初の旅客死亡事故。駅到着時に母親が先に兄妹を降車させたが自身の降車準備が遅れ姿を現さないため、不安に感じた兄が車内に戻ったところでドアが閉まって発車した。駅に取り残されてしまった女児は家族を追いかけるように軌道に立ち入り徒歩で北上した。撥ねられた地点は駅から11kmも離れた地点であった。

外房線細代踏切事故[編集]

1984年(昭和59年)3月30日 10時30分ごろ
外房線茂原 - 八積間の細代踏切(遮断機なし)に列車が接近しているにもかかわらず強行進入したミキサー車の側面に113系6両編成の安房鴨川発千葉行き普通列車が衝突。列車運転士が死亡、車掌ならびに乗客合わせて50人が重軽傷を負った。
この事故で先頭のクハ111-1307は前面部分が上部から押し潰され大破。1985年12月26日付で廃車された。

阪急神戸線六甲駅列車衝突事故[編集]

1984年(昭和59年)5月5日 11時30分ごろ
阪急神戸本線六甲駅構内で、副本線から本線に出てきた上り回送列車(山陽電鉄3050系4両編成)に、同駅本線上を通過していた上り特急列車阪急電鉄2000系8両編成)が衝突。特急列車の前部3両と回送列車の4両が脱線し、負傷者72名を出した。事故による死者は出なかった。回送列車の運転士[注 11]が故意に自動列車停止装置 (ATS) のスイッチを切り、車掌の合図と信号を無視して発車したことが原因。
ゴールデンウィーク中だったため特急列車は満員状態だったが、運転士は駅直前で不正出発した回送列車を現認して非常制動を執った結果、衝突時には時速50km程度まで減速しており、先頭車は横転を免れた。また事故発生時、神戸方面へ向かう対向列車(普通列車)が同駅に向かって走行していたが、衝突した特急列車の運転士(阪急電鉄の運転士)が、負傷しながらも異常を知らせるために手旗を手に線路上を梅田(大阪)方へ走った事により、二次的事故を免れたとされる[37]。当該車両のうち、損傷のひどかった阪急2000系2050号車廃車となった。
事故を起こした山陽電鉄の運転士は業務上過失傷害現行犯逮捕されたほか、同日付遡及で懲戒解雇され、動力車操縦者免許も剥奪された[注 12]。同乗していた同社の車掌は直接の責任はないにも関わらず、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の5月16日夜に神戸市須磨区内を走行中の自社普通列車に飛び込み自殺した。大阪陸運局(現在の近畿運輸局)が特別保安監査を行ったところ、当時山陽電鉄では、定時よりも最大で数分早く駅を出発する行為が横行していたことが発覚[38]。安全教育の不徹底が指摘され、同年5月31日に山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。
なお、山陽電鉄の列車は、1968年相互乗り入れ開始から一貫して、六甲駅で乗客を降車させた後に回送列車としてすぐ発車し、御影駅西方の引き上げ線待避線としても使用)で折り返すというダイヤが設定されていたが、当事故より1か月あまり前となる1984年3月25日のダイヤ改正から、休日ダイヤに限って六甲駅で特急を待避してから回送列車を発車させるダイヤとなっていた。事故を起こした山陽電鉄の運転士は、新休日ダイヤでは初めての乗務で、運行管理者からダイヤ表を渡され運転席に掲げていながらもまったく見ず、特急待避の必要を知らなかったと供述している[39]

特急やくも列車脱線事故[編集]

1984年(昭和59年)7月21日 10時50分ごろ
山陰本線松江 - 東松江間の踏切で、特急「やくも1号」が、踏切内で立ち往生していた大型トラックに衝突し1両目が脱線した。この事故で乗客1名が死亡し、21名が重軽傷を負った。事故の直接の原因は大型トラックと乗用車が道を譲らず警報機が鳴り出すまで運転者同士が押し問答を続けたため、特急接近に気が付かなかったというものであった。大型トラックの運転手が逮捕された。なお、乗用車は事故後現場から逃走しそのまま行方不明。先頭車両のクハ381-132は車体が橋桁に刺さるようにして大破したが車体を後藤工場にて修復、翌1985年に復帰している。

西明石駅寝台特急列車脱線事故[編集]

1984年(昭和59年)10月19日 1時48分ごろ
西明石駅を通過中の宮崎発東京行き寝台特急「富士」(機関車+24系25形客車14両)の先頭客車(13号車)が脱線してホームに激突し、車体側面下部が大きく削り取られて大破した。最後尾の電源車を除く他の12両の客車もすべて脱線した。負傷者32名。
駅構内で保線工事が実施されており、「富士」の機関士にも通過番線の変更と分岐器の曲線側を減速通過する旨が通達されていたにもかかわらず、その旨を失念して高速で進入したのが原因だった。機関士が飲酒運転を行っていたことも発覚し、世間からは2年前の「紀伊」の事故とあわせて、強い非難を浴びた。

上信電鉄列車正面衝突事故[編集]

1984年(昭和59年)12月21日 7時54分ごろ
上信電鉄上信線赤津信号所付近において、下り列車(6000形2両編成)と上り列車(100形2両編成)が正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、乗客132人が負傷した。
原因は下り列車の運転士が、上り列車と交換予定だった同信号所の停止信号を冒進したため。 事故当時、同線にはATSは設置されておらず、停止信号を無視しても列車を止めることができなかった。
当時のダイヤでは上下列車の交換地点が列車によってばらつきがあり、そのことが事故の遠因になったのではないかと指摘されたため、事故後列車交換駅の統一や列車の減便を伴う大規模なダイヤ改正が行われた。 またATSについては、事故発生から1年後の1985年12月までに整備を完了している。
上り列車の車両2両(クモハ102+クハ102)は廃車された。

能登線列車脱線事故[編集]

1985年(昭和60年)7月11日 14時21分
能登線(のちに第三セクター化されてのと鉄道能登線に変更、現在当該区間は廃止)古君 - 鵜川間で、下り気動車急行列車「能登路5号」(金沢蛸島行き、キハ58系4両編成)が、古君駅を15分遅れで通過後、速度約50km/hで力行運転中、進行左側の築堤の盛土が一部崩壊し線路が浮いている場所に進入した。直ちに非常ブレーキを使用したが全車両が脱線、気動車の前3両が築堤の約8m下の水田上に落下、横転、4両目が進行左側に約30度傾斜して停止した。旅客7名が横転した2両目気動車の下敷きになって死亡、32名(気動車運転士、車掌、従業外の国鉄職員)が負傷した。
事故現場の築堤の盛土は水抜きパイプがなく、両端に草を植えた古い方式の土工法によるものだった。前日夜から当日朝まで連続雨量95mmの豪雨が観測されていたが、事故当時は降雨はなかった。豪雨時の運転規制条件の見直しと、同種の方式の盛土の一斉点検が実施された。事故車両はすべて廃車となった。
付近の累計雨量は7月10日から11日8時まで約100mmだったが、その後、降雨は無かった。現場より約2km離れた鵜川駅の雨量計によれば、6月30日より降り始めた雨は7月1日までに107mm, その後7月4日から降り始めた雨は8日まで降り続き、5日間で445mmにまで達した。続く2日間降り止んだ後、7月10日から降り始め、7月11日8時までに95mm, 全体で12日間に540mmの累計雨量だった。
開業以来、最大の連続降雨により盛土内水位が異常に上昇し、安定が損なわれ、クリープ的破壊が生じ始めたところに列車が進入し、急激な滑動に至ったものと推定される。
盛土は軟弱地盤(厚さ約2m)の上に高さ7.5mで建設され、盛土右側は斜面に接していた。盛土材料は粘性土だった。盛土の崩壊は線路中心から起き、円弧すべり(後述)により約3mの沈下を生じた。盛土のり尻付近ではあぜ道が盛土とともに横移動、田面が隆起、基底破壊が引き起こされていた。崩壊の原因は、長期にわたる降雨による台地からの浸透水と台地上の表流水が徐々に盛土本体および支持地盤に浸透、盛土および地盤の隙間水圧が上昇、また盛土重量が増大したためと思われる。降雨後約6時間を経て崩壊したのは、盛土材料が粘性土であり、台地も粘性地盤であるために、降雨の影響が及ぶのにタイムラグが生じたためであると思われる。
土木工学上、円弧すべりは、盛土が締め固め不足である、また排水工事が不十分であるときなど、土中の水により新しい盛土が滑る、一般的な現象である。すなわち盛土内で飽和状態にある水により滑り台のように盛土が滑るのである。円弧すべりによる事故としては、1938年6月、山陽本線和気 - 熊山間の、半年前に新たに築堤を造成し線路移転を図った箇所で、長期にわたる降雨により築堤崩壊がおこり、列車が横転、死者25名、負傷者108名の重大事故が起きていた(→日本の鉄道事故 (1949年以前)#山陽線列車脱線転覆事故)。1938年の事故は線路改良後短期間で起きたが、1985年の当該事故は、建設後長期間が経過し安定したかに思われる地盤においても長期にわたる降雨とその他予想し得ない条件が重なれば円弧すべりが発生することを示したものである。
従来の要領で定められていた連続降雨および降雨量では危険性を適切に評価できない長期にわたる降雨に対する災害対策と運転規制については、日本鉄道施設協会内に、学識経験者を交えた「降雨時の災害防止に関する研究委員会」が設置され、審議、抜本的な見直しが行われた。
その後、同様な崩壊が発生すると考えられる軟弱地盤上の粘性土高築堤その他を、長雨重点警備箇所として指定、これら対象区間には、従来の運転規制基準に加え、ひと雨の降り止み、降り始めを定義する降雨中断時間を48時間とする「累積雨量」による運転規制を定め、この規制ルールにも対応し得る演算機能を有する雨量警報装置(レインピュータ)の配備を行った。長雨重点警備箇所のうち、防護工の設置による対策が講じられ、土中水位の断続観測によりその効果が確認され長雨による後(おく)れ破壊が起こるおそれがないと判定されたものについては逐次、指定の解除が行われた。

東北新幹線保線作業員死傷事故[編集]

1985年(昭和60年)9月11日 23時36分ごろ
東北新幹線新花巻 - 盛岡間で、終電後の保線作業の準備中、定刻より遅れて運転していた上野発盛岡行き最終列車「やまびこ79号」に作業員2人が接触して即死、6人が風圧ではね飛ばされ重軽傷を負った。連絡不備により作業員らは列車が遅れていることを知らされていなかった。

東急東横線横浜駅脱線事故[編集]

1986年(昭和61年)3月13日
東急東横線横浜駅構内(当時地上)において、元住吉桜木町行き急行電車(9000系8両編成)の最後尾が脱線。負傷者はいなかった。
原因は、輪重比不均衡で乗客乗降の荷重急変に追従できなかったためと考えられ、以降、東急では輪重比10%以内(輪重0.9 - 1.1)に管理、脱線防止ガード設置基準を半径450R以下の曲線へ引き上げる、という基準を独自で制定。のちの日比谷線中目黒事故において東急と同じ輪重管理と新たにガードレール設置判別式を制定、全事業者に採用されたが、運輸省(当時)はこの時点では他事業者に対する注意喚起を行わなかった。
東急横浜駅脱線事故を参照。

西武新宿線田無駅列車追突事故[編集]

1986年(昭和61年)3月23日 12時10分ごろ
西武新宿線田無駅に接近した西武新宿行き上り急行(2000系、2415F+2017F)のブレーキが効かなくなり、ホームに停車中だった先行の準急 (2407F+2023F) に追突、乗員・乗客204名が負傷した[40]
当日の田無市(現在の西東京市)は大雪で、車輪と制輪子の間に雪が挟まり、摩擦制動力が著しく低下したのが原因とされた(先頭の2両編成は永久直列制御で、電力回生制動打ち切り速度が高かった)。事故車両のうち、損傷の激しい8両(急行の前6両と準急の後2両)が事故廃車された。残った6両は改番の上1本にまとめられて復旧。事故当時、同社の秩父線池袋線を走行する101系特急用車両の5000系には耐雪ブレーキ(同社の呼称では圧着ブレーキ)が装備されていたが、新宿線専用だった2000系にはこのブレーキが装備されていなかった。この事故をきっかけに、降雪地帯を走らない電車も含め同社のすべての電車に耐雪(圧着)ブレーキが取り付けられた。

山陰線余部鉄橋列車転落事故[編集]

1986年(昭和61年)12月28日列車脱線事故、日本国有鉄道としては最後の大規模事故)
和風客車みやび」の回送列車(ディーゼル機関車DD51 118714系客車7両、臨時回送9535列車)が山陰本線 - 餘部間にある余部橋梁を約50km/hで走行中の午後1時25分頃、日本海からの強風にあおられて、客車がすべて鉄橋から転落(機関車は客車より非常に重いため橋梁上に残った)。転落した客車は真下にあった食品加工場(加工工場)と民家を直撃し、工場の従業員5名と列車の車掌1名が死亡、車内販売員3名と工場の従業員3名が重軽傷を負った。転落した客車「みやび」は大破し、7両すべて廃車となった。事故後、機関士の上司は自殺した。

名鉄犬山線平田橋駅踏切衝突事故[編集]

1987年(昭和62年)7月8日 10時33分ごろ(踏切障害事故
名古屋鉄道犬山線平田橋駅(1991年に0.3km南側に移設し上小田井駅に改称)のすぐ南側にある新川右岸堤防上の踏切(遮断機・警報機付)で、立ち往生したトレーラーに犬山常滑行急行列車(6000系4両編成)が衝突した。トレーラーは約20m引きずられて河原に縦向きに転落、電車の前頭部は「く」の字型に大破した。この事故で乗客・乗務員・トレーラー運転手187人[41]が負傷した。トレーラーは25t積みのところ、40tの鋼材を載せて過積載をしており、運転手が業務上過失傷害罪過失往来危険罪現行犯逮捕された[42]。なお、現場直前が見通しの良い直線区間であり、踏切の異常を感知したことにより特殊信号発光機が動作していたにもかかわらず、列車のブレーキ操作が遅れたことも問題視された[43]
この事故の復旧中に、トレーラーを吊るクレーン車が横倒しになったことにより作業が遅れたが、約11時間40分後の同日22時10分ごろに復旧した[44]。また大破したク6035は翌1988年3月に車体を新造して復旧した[45]。現場の踏切は上小田井駅開設及び名古屋市営地下鉄鶴舞線乗り入れに伴う改良工事で1989年8月に廃止され、現在は線路下をくぐるアンダーパスになっている[46]

近鉄東大阪線生駒トンネル火災事故[編集]

1987年(昭和62年)9月21日 16時20分ごろ
近畿日本鉄道東大阪線(現在のけいはんな線新石切駅 - 生駒駅間にある生駒トンネル内で、高圧送電ケーブルから出火、一斉に停電したことにより走行中の大阪港発生駒行列車が生駒駅から約2kmの地点で停車した。乗客約70人のうち1人が煙に巻かれ死亡、48人が負傷した。火災発生から30分も経過してから避難誘導を開始しており、乗務員と指令員の対応が問題視された。復旧には翌9月22日いっぱいまで要した。 原因は、施工業者が特別高圧線の分岐接続部に必要な部品を取り付けていなかったことであった[47]

サロンエクスプレスアルカディア火災事故[編集]

サロンエクスプレスアルカディア
1988年(昭和63年)3月30日列車火災事故)(国鉄民営化後JRとしては初の大事故)
サロンエクスプレスアルカディアキハ58系3両編成)による臨時列車が上越線を走行中、新清水トンネルを通過した直後に1号車(キロ59 508)の排気管が過熱し、出火。越後中里 - 岩原スキー場前間に緊急停車した。乗客・乗務員は全員避難したため、死傷者は出なかったが、1号車が全焼し、廃車となった。この事故を契機にJR東日本ではDMH17系エンジンを搭載している車両に対してエンジンの取り換えと火災対策工事を1992年までに状態の良い車両に対して行った。
残る2両は保留車となっていたが、1992年に団体用車両「Kenji」へ再改造された。JRに所属するキハ58系においては2017年時点では盛岡車両センターに稼働可能な車両として在籍し、イベント列車で運用されている。

中央線東中野駅列車追突事故[編集]

1988年(昭和63年)12月5日列車衝突事故
JR東日本の中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼発中野行き下り緩行電車列車(103系10両編成)に後続の千葉発中野行き下り緩行電車列車(201系10両編成)が追突し、後続列車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端の車両を除く18両が廃車となった。JR発足後初の死者の出た事故。

函館本線高速貨物列車過速度転覆事故(姫川事故)[編集]

1988年(昭和63年)12月13日 17時5分ごろ (列車脱線事故
函館本線駒ヶ岳 - 姫川間の下り急勾配急カーブで隅田川札幌貨物ターミナル行き高速コンテナ貨物列車が脱線転覆し列車が分離する事故が発生した。
運転士の大量飲酒に因る居眠り運転で、下り20‰勾配により加速、60km/h制限の300Rカーブに推定100km/hで進入し、コンテナ貨車は21両中19両が脱線転覆、機関車のみが16km先まで走行。CTCが現場の在線表示が消えないことから機関車に抑止を掛けて停止させ単機になっていたことに気づく。寝台特急より高速運行の列車で同区間2度目の曲線過速度転覆事故だが、貨物の事故として軽視され、その次の、3度目に起きた1996年12月の大沼 - 仁山間高速貨物過速度転覆事故まで過速度ATSの設置は検討されなかった。
この事故が昭和期最後の大きな鉄道事故でもあった。

飯田線北殿駅列車正面衝突事故[編集]

1989年(平成元年)4月13日列車衝突事故
元号が平成に変わってから初の大事故。
JR東海飯田線北殿駅において、停車中の天竜峡発長野行き下り普通列車(第537M。3両編成)に上諏訪天竜峡行き上り普通列車(第248M。2両編成)が正面衝突。下校途中の高校生ら146名が負傷した。
原因は、上り列車運転士がATSロング地上子の警報を受け、確認扱いを行い、出発信号機の進行現示を場内信号機の停止現示から進行現示に変更したものと誤認、速度節制を行わず運転を継続、場内信号機の停止信号を冒進した。場内信号機のATS直下地上子による警報が作動したが、車両接触限界内に停車できず、下り列車の過走対策によりポイントが下り列車方向を向いていたタイミングだったため正面衝突した。
飯田線ではATS-Sが使用されていたが、このシステムでは、警報が鳴動し運転士が確認扱いを行った後は、停止信号を忘れて、あるいはこの事故のように信号を誤認して運転しても非常ブレーキが作動しなくなる、運転士の注意力に全面的に依存したものだった。この弱点を突かれた事故だったとも言える。
上記の東中野追突事故とこの北殿駅正面衝突事故を受けてJR各社はATS-Sの緊急改良を決め、非常停止機能を追加したATS-SN開発をJR東日本と東海が担当してJR全社が採用し、ATS-Sの場内信号機と出発信号機などの絶対信号機の直下地上子をこの非常停止地上子に換装、これをJR北海道はATS-SN、JR東日本はATS-SNとした。JR東海はさらに車上時素式速度照査機能を追加してATS-STとし、-STから列車番号通知機能を除き車上装置をMPU制御式としてJR西日本が再設計し (ATS-SW)、それをJR九州 (ATS-SK)・四国 (ATS-SS) が採用、追ってJR貨物(新ATS-SF)がST速度照査ボード追加で採用した(駅間に設置する閉塞信号機は停止信号警報のみのATS-Sのままである)。

常磐線磯原 - 大津港間列車脱線事故[編集]

1989年(平成元年)10月24日列車脱線事故
JR東日本常磐線磯原駅 - 大津港駅間下り線において、新座貨物ターミナル駅札幌貨物ターミナル駅JR貨物3083列車が夜間保線工事のためレールの取り外された区間に進入、脱線・転覆した[48]。負傷者はなし。下り線が不通となったが、当時は複線の片方が無事であれば運行を継続することも多く、この事故の際も翌日夕方まで高萩駅 - 大津港駅間は上り線を使用した単線運転で維持された。
原因は、高萩駅当務駅長であった輸送係と現場責任者であった施設技術主任の二重のミスであった。当日は3083列車が通過後、線路閉鎖を行い、保線工事を行う計画となっていた。CTCが整備されていなかった当時、列車の通過を確実に認識できるチェックポイントは信号扱いを行う連動駅(停車場)、すなわちこの区間であれば高萩駅と大津港駅のみであったが、東北本線を補完する貨物の大動脈であり、当時はそれに加え寝台特急の設定もあった常磐線は深夜帯の列車本数が多く、夜間工事を行う際は行き交う列車の間合いを縫って行うことが求められた。このため、3083列車が通過後、線路閉鎖手続きを行って夜間工事に取り掛かる際、下り方の連動駅である大津港駅の通過を確認せずとも、3083列車の現場通過を視認した時点で、線路を閉鎖する手続きを取り、工事に着手することとなっていた。これは「現場通過着手」と呼ばれ、これ自体は当時の規則上正当な取り扱いであった。
ところが、当日は別の工事の関係で、3083列車および先行のJR貨物3081列車の時刻が変更され、両列車とも通常より遅い時間に運行されていた。2時44分頃、現場において列車通過を視認した現場責任者はこれを3083列車と認識したが、実際には3081列車であった。貨物列車の車体には列車番号が表示されておらず、現地の端末で列車の正確な位置を確認するようなこともできなかったため、潜在的にミスを誘発する余地はあったが、時刻の変更によりまだ通過するはずのない時間であった点への配慮が欠けていた。
現場責任者は、上り方連動駅である高萩駅に3083列車通過の報告を行い、線路閉鎖を要請した。この時点で3083列車は高萩駅通過後わずか4分であり、現場まで通常の貨物列車では10分掛かる中、明らかに早すぎる報告であったが、高萩駅当務駅長は復唱の上承認した。ここに2つ目のミスがあった。結果として2時53分、工事着手によりレールの撤去された区間に列車が進入、脱線・転覆に至った。当日の朝日新聞夕刊の「あっ、レールがない!」という見出しが話題を呼んだ。後に、JR東日本社内誌『JRひがし』2011年1月号にも、「あっ! 線路がない」として取り上げられた。
この事故により、原則として次の連動駅への到着を待って線路閉鎖を行うこと、止むを得ない場合には、1本前の列車が次の連動駅に着いたことを確認すること、誤進入列車に工事を知らせるための措置を十分に行うことが定められた。

1990年代[編集]

仙台電車区特急ゆうづる脱線事故[編集]

1990年(平成2年)2月11日 2時ごろ
東北本線仙台 - 東仙台間を走行していた上野常磐線経由青森行き寝台特急「ゆうづる1号」(583系12両編成)が、ポイントの結線ミスで下り本線から仙台電車区への引き込み線に進入。400メートル走行した後、7両が脱線した。この影響で仙台電車区からの車両の出庫が不能となり、東北本線・常磐線・仙山線の列車に運休が出るなどの影響が出た。
当時仙山線の信号機増設工事に伴う信号機と分岐器の機能確認試験が行なわれていた。この試験は東北本線上り線のポイントを対象としていた試験であったため、この分岐器と信号扱所の制御板との回路を断ち、代わりに模擬装置を接続していた。上り線のポイントは、下り線のポイントと連動していたため、装置接続後、下り線も引込線側に切り替わった状態となっていた。「ゆうづる1号」通過前に信号てこを操作し、本線側信号を進行現示にしたが分岐器が切り替わっていなかったのが原因。
この事故でモハネ583+582-59・95・サハネ581-53の5両が1990年7月23日付けで廃車となった。

特急たざわ観光バス衝突事故[編集]

1990年(平成2年)10月30日 17時40分ころ(踏切障害事故
田沢湖線盛岡 - 大釜間の谷地踏切で、踏切上で立ち往生していた岩手観光バス(現在は岩手県交通に吸収合併)の観光バスに、盛岡発秋田行き特急「たざわ19号」(485系5両編成)が時速100kmで衝突。「たざわ」の車両は脱線はしなかったものの、観光バスは200m先の水田に飛ばされ大破した。この事故でバス運転士とバスガイドの2人が死亡、「たざわ」の乗客8人が負傷した。
原因は観光バスが狭い道幅の踏切を渡ろうとして、踏切を渡りきれずに立ち往生したことによる。さらに踏切の手前の盛岡寄りの線路がカーブになっていて見通しが悪かったことも事故の遠因になった。
現場の谷地踏切は秋田新幹線の工事に合わせて撤去され、谷地跨線橋の建設により立体交差化された。

急行「陸中3号」燃料切れトラブル[編集]

1990年(平成2年)11月14日 12時22分ごろ
釜石線土沢駅構内で、盛岡釜石行き急行「陸中3号」(キハ110系3両編成)のエンジンが停止し、運行不可能となった。
原因は運用開始前の給油を忘れたために発生した燃料切れによる。最終的に近隣のガソリンスタンドより自動車用軽油200リットルを搬入してもらい同駅係員が手動ポンプで給油後、自走で再出発した。この間約2時間半にわたって立ち往生した。
同線のダイヤの混乱や同列車の大幅な遅れ以外に大きな損害は出ていないが、JR東日本の管理体制を問う問題として全国ニュースで報じられた。また「JR急行ガス欠」と珍事としての取り扱いもあった。

日高本線勇払沼ノ端通踏切事故[編集]

1991年(平成3年)1月8日踏切障害事故
JR北海道日高本線苫小牧 - 勇払間の市道勇払沼ノ端通踏切で、立ち往生していたタンクローリー側面に鵡川発苫小牧行き普通列車(キハ130形気動車)が衝突。列車は脱線転覆し、列車の乗員・乗客53名のうち45名が重軽傷を負った。タンクローリーの運転手は車外にいて無事だった。
事故の原因は、タンクローリーが警報機が鳴り遮断機がおりてきているのを無理に渡ろうとしたことにある。さらに踏切内でハンドル操作を誤り脱輪して動けなくなり、車から出て手を振って列車に危険を知らせはしたが、列車は非常ブレーキをかけても間に合わず、タンクローリーに衝突したものである。
列車の運転士は一命は取り留めたものの、両脚切断の重傷を負った。この事故はJR北海道の以後の車両において、乗務員保護策として運転席を高い位置に設ける高運転台仕様や、衝撃吸収構造を採用するきっかけとなった。
被災したキハ130は修理され、運用に復帰した。

信楽高原鐵道列車正面衝突事故[編集]

1991年(平成3年)5月14日 10時35分ごろ (列車衝突事故
滋賀県信楽高原鐵道信楽線小野谷信号場 - 紫香楽宮跡間で、信楽貴生川行きの上り普通列車(レールバスSKR200形 4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系 3両編成・先頭車両はキハ58-1023)が正面衝突。上り普通列車の乗務員と添乗していた職員の5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。
信楽高原鐵道が閉塞方式の概念を軽視し、信楽駅の出発信号機が停止信号現示のまま列車を出発させたことと、信楽高原鐵道とJR西日本が信号装置の改造を双方が無認可で行ったことが原因とされた。なお、信楽線にはATSが設置されていた。

福知山線岡踏切事故[編集]

1991年(平成3年)6月25日 8時18分ごろ (踏切障害事故
福知山線丹波竹田 - 福知山間の岡踏切で、大阪城崎行きの普通列車(113系3両編成)が、立ち往生していたショベルカーを積載した大型トレーラーと衝突。先頭車(クモハ112-801)は大破し、盛り土上の線路から転落した。乗客341人が重軽傷を負った。
原因は大型トレーラーが高さ制限をオーバーした上、踏切上で立ち往生したことによる。
大型トレーラーの運転手は過失往来危険の現行犯で逮捕され、業務上過失傷害、道交法違反などで禁固2年6か月、執行猶予4年の判決が言い渡され、JR西日本も大型トレーラーの運転手を雇用していた福知山市の建設会社に対して約6000万円の損害賠償を請求した。
この事故を受けJR西日本は、約77億円掛けて管内全域の自動車通行可能な踏切6361箇所の約64%にあたる、4078箇所の踏切に障害物検知装置もしくは非常ボタンの設置を行うなどの安全対策を実施した。

宮崎実験線リニアモーターカー火災事故[編集]

1991年(平成3年)10月3日列車火災事故
宮崎実験線で、実験車両であるMLU002のタイヤが、パンクした状態を再現する装置が誤作動して、その状態で牽引車で引きずって回収しようとしたために車輪とガイドウェイの摩擦で炎上し、MLU002を焼失する事故が発生した。無人走行のため死傷者こそ出なかったものの、リニアモーターカーの焼失の影響は非常に大きく、長期の試験停止を余儀なくされた。

寝台特急さくらトレーラー衝突事故[編集]

1992年(平成4年)4月8日 0時0分ごろ
前面が大きく破損したEF66 55。
(鷹取工場公開時に撮影)
兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町の国道2号で、四輪駆動車が突然Uターンしようとしたため、後続の大型トレーラーハンドルを切ったところ、牽引車と荷台車の連結部分が折れ曲がる「ジャックナイフ現象」が発生し、制御不能に陥り四輪駆動車に衝突後、道路わきの山陽本線須磨 - 塩屋間)に転落。その直後に走行してきた下り東京長崎佐世保行き寝台特急「さくら」が衝突。「さくら」を牽引していた電気機関車EF66 55が脱線転覆、客車12両のうち5両が脱線したうえに、荷台に積んでいた鋼材36トンの一部が客車側壁に突き刺さった。この時トレーラーの運転席が機関車に巻き込まれ炎上した。さらに隣線を走行してきた下り西明石行き普通電車(201系7両編成)運転士は、進路を支障している客車を発見して非常ブレーキを執ったが、停止及ばず接触・脱線した。
この事故による負傷者は20名で、転覆した機関車などの撤去や復旧工事のため山陽本線のダイヤが復旧したのは20時間後であり、459本が運休し38万人の足に影響した。また復旧作業に転覆した電気機関車を解体撤去するクレーン車が使用され、作業のために国道2号も全面通行止めになり、神戸市内の道路も渋滞することになった。なお、「さくら」の乗客は事故現場で停車した客車で一夜を明かした後、代行バスで西明石駅まで向かいそこから臨時新幹線で西行した。
なお、事故を引き起こした運転者2名は過失往来危険罪などで起訴され、執行猶予付きの禁固刑を言い渡されたほか、JR各社から事故で喪失した電気機関車や復旧費用など多額の損害賠償を請求された。
被災したEF66 55は修理の後に運用に復帰したが、蛇行動など不具合の頻発により乗務員に忌避され、早期に廃車されている。

関東鉄道常総線列車衝突事故[編集]

1992年(平成4年)6月2日列車脱線事故
事故の現場。まだ建物内に車両の一部が残っている(1992年6月6日撮影) 切断の上除去された事故車両(1992年6月6日撮影)
事故の現場。まだ建物内に車両の一部が残っている(1992年6月6日撮影)
切断の上除去された事故車両(1992年6月6日撮影)
関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上り列車(キハ300形気動車2両とキハ800形気動車2両の4両編成、乗客約900名)が減速せずに暴走、車止めを突破し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両が駅ビル店舗に突入して大破した。乗客1名が死亡した。列車の駅進入前に運転士が窓から飛び降りて脱出し(『朝日新聞』1992年6月3日朝刊)、250名以上が重軽傷を負った。飛び降りた運転士の行動に関しては賛否両論の声があった。また死亡した乗客の遺族の弔問に訪れた関東鉄道の役員が遺族に門前払いを喰らう場面が当時ワイドショーで繰り返し報道された。運転士は、ブレーキが効かなくなったことを車内放送で伝えて、乗客に後方に移動するように指示したが、朝のラッシュ時の混雑した車内での移動は困難を極め、車内はパニックとなり、網棚に上りだした乗客もいたという。
原因はブレーキ故障であるとされている。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に、発車しようとしたところ、ブレーキが緩まなくなり、運転士がブレーキ締め切りコックを閉めてブレーキを緩め、元に戻さずに発車してしまい、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。
後になって判明したが、西取手駅でブレーキ不緩解となり、運転士は異常時の取扱として保安ブレーキ締切コックを閉とした。その際、車掌が扱った車掌弁を復位していなかったため常用の自動空気ブレーキ系統も、保安ブレーキ系統の圧縮空気も保安ブレーキ締切コックの側穴から外部へ排気されてしまって、ブレーキシリンダーに空気が供給されず、ブレーキ装置が動作しない状態だった。遠因としては制動装置点検中の運転士に対して乗客が運行再開を強硬に迫ったことも挙げられる。なお、事故を起こしたキハ300形は、国鉄の中古車両(キハ35系)を購入して使用していたものであるが、さすがに経年劣化は覆いがたく、メンテナンスをよく行っていたものの、この事故車両に関してはブレーキ不緩解が時々あったという。しかし当時の同線は急激な乗客増加という環境もあり、修理しながらラッシュ時間帯を中心によく使われていた。さらに関東鉄道常総線は勾配がきわめて少ない線区(最大が本事故の発生箇所にあたる西取手 - 取手間で3だった)ということから、事故に対する問題点が見出せなかった可能性が指摘できる。
事故以降、同社はキハ2100形をはじめとした新製車両を随時投入し、キハ300形の運用は2011年に終了した。
なお、同様の事故は平成13年に福島県でも発生している。中古車輌のブレーキ故障が原因で駅ビルに衝突するなど、共通点が多いといえる。

営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故[編集]

1992年(平成4年)6月16日 午前8時50分ごろ
中目黒駅構内の引き上げ線ポイント上で、出庫中の営団3000系電車の後ろから3両目付近の側方に、入庫中の東武2000系電車が突っ込む形となった。引上線での衝突事故のため乗客への被害は無かった。
直接的な原因は東武2000系電車側に乗務の運転士の第2入換信号見落としであるが、従前は本線停止目標位置の第1入換信号で制御していたものを、折り返し時間を短縮して線路容量を増やすために入出双方向同時進入を許容し第2入換信号まで進出するよう改めたが、そこは引上線内としてATC防護を行わなかったから、支障限界まで10mしかなく、誤って過走した場合に停められる余地がなかった。
したがって本線ATC導入線区ではあるがATC制御下の事故ではなかった。
中目黒駅構内での事故は営団3000系の台車のフレーム破損による事故を起こした1965年(昭和40年)以来これが2度目である。
被災した営団3000系および東武2000系は、車両更新時期にあったため修復されず廃車。(書類上は老朽廃車)

東海道線来宮駅構内列車衝突事故[編集]

1992年(平成4年)6月28日列車衝突事故
7時ごろ、東海道本線来宮信号所(伊東線来宮駅構内)で出発待機中の品川行き回送列車(185系電車10両編成)の運転士が、上り本線の出発信号機5Lを自列車の上り1番線の出発信号機6Lと見誤って発車したところ、前方の分岐器46号が異方向に開いているのを認め、直ちに停止手配をとったが、出発信号機を約45m通過し、隣の本線の車両限界内に侵入して、走行中の貨物第1066列車(電気機関車EF66 102+コンテナ貨車19両編成)と衝突した。回送列車の先頭車両と貨物列車の機関車が脱線した。回送列車の運転士が負傷。
直接の原因は信号誤認であるが、10両編成の列車が15両の停止目標に停車して折り返したこと(これ自体は、事故の時点では正当な取り扱い)も間接的な原因とされた。すなわち、ATSは正常に作動したが、地上子までの距離が15両編成の場合と比べて5両分長く、その分加速が付いて、ATSが停められる速度を超えてしまったことである。
この事故を受けて、折り返し列車の両数が多種にわたる場所では、両数に応じて停止目標を細かく設定しなおす、という対策が採られた。他に、ATS直下地上子を当初位置からさらに16m手前の位置に移設し、また信号機には番線表示標を設置した。
また当該運転士は当該番線から出発するのは1年半ぶり、通算5回目だった。

予讃線気動車燃料切れトラブル[編集]

1992年(平成4年)8月20日 15時20分ごろ
予讃線伊予立川 - 伊予中山間で、八幡浜松山行きの気動車のエンジンが伊予立川駅から4.5km付近で燃料切れのため停止し、運行不可能となった。停車した地点が山間部のため松山運転所から軽油を運ぶのに手間取り、乗客60人は1時間40分の間冷房の切れた車中に缶詰になった。
原因であるが、2日前の夕方に燃料250リットルを給油していたが、折りしも来襲した台風11号のためにダイヤが乱れ行き違いのために駅での停車時間が長引いたため、通常3日はもつ燃料が予想以上に消費し車庫に戻る前にガス欠になったというものであった[49]

成田線大菅踏切事故[編集]

立体交差化された大菅跨線橋と成田線との交差部分(209系電車車両先端部付近に踏切跡の一部が見える)
1992年(平成4年)9月14日踏切障害事故
JR東日本の成田線久住 - 滑河間の大菅踏切(千葉県道103号江戸崎下総線)で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカー側面に千葉佐原行き普通列車(113系電車、列車番号1457M・4両編成)が衝突。先頭車のクハ111-1038は、前面を大破し、列車の運転士が殉職、乗客65名が負傷した。クハ111-1038は廃車になった。
殉職した運転士は直前に衝突を覚悟し、パンタグラフ降下による電源遮断などの安全措置をとっていた。
事故の原因は、過積載(最大積載重量8750kgの4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず停止することができなかったことに起因するものである。法律上はダンプカー側の道路交通法違反であり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先の東中野事故と合わせて、当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与えた。
これによりCMやポスターなど、車のドライバーに注意を呼びかける「踏切事故防止キャンペーン」を実施することになる。
衝突時点で運転士は生存していたが、当時の運転室は狭く、大きく潰れ変形した運転室からの救出は困難を極め、結果的に運転士は搬送途中で死亡した。房総地区ではこの事故以前にも同様の踏切事故で運転士が死亡する事故が発生しているため、本事故以後には113系など既存車両の前面に鋼板を追加貼り付けし強度を上げる工事(通称「鉄仮面」)を実施したほか、以降登場する209系量産車やE217系などにおける運転席背面からの脱出口の設置や運転室の拡大、衝撃吸収構造(クラッシャブルゾーン)の採用に踏み切るきっかけとなった。
踏切は事故後、大菅跨線橋の建設による立体交差化(平成10年竣工)に伴い閉鎖された。
この当時、本事故に代表されるような大型車の過積載による重大事故が多発していたため、翌1993年(平成5年)に道路交通法が改正され(平成6年5月施行)、過積載に対する取り締まりと罰則が強化された。ダンプカーの運転手は業務上過失致死で逮捕された。
またこの事故に際し、JR東日本は過積載ダンプカーの運転手らを相手に大破した車両の損害や復旧費用など総額1億3,000万円余の賠償を求める民事訴訟を起こした。この裁判は、1998年(平成10年)10月26日千葉地裁において判決が下され、運転手、山砂の運搬を依頼した荷主、山砂を積み込んだ砕石会社、砕石会社従業員2名に対して1億円余の賠償を命じている。

営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫脱線事故[編集]

1992年(平成4年)10月15日および12月28日
営団地下鉄(現東京メトロ半蔵門線鷺沼車庫内で回送列車が3か月の間に2度脱線する事故が発生。カーブでのせり上がり脱線とみられ、軽量車体とボルスタレス台車への危惧が言われ軌道区と検車区合同の社内調査委員会を設けて検討され、翌年5月輪重バランス測定の必要性を報告、さらに測定機器の導入見積もりを行った。しかしながら営団上層部はこれを黙殺し、半蔵門線車両のみの輪重調整に留めたことで日比谷線中目黒事故を防げなかった(参照[出典無効])。
軽量車体では台車対角線の重量の差が比率として大きくなり脱線係数を大きくするので、軽量化に見あった輪重バランス調整が求められるが横浜駅事故後の東急を除き鉄道各社ともまったく行っていなかった。

島原鉄道列車正面衝突事故[編集]

1992年(平成4年)11月3日 19時30分ごろ
島原鉄道阿母崎 - 吾妻間において、加津佐行き下り列車(2000形気動車1両編成)と諫早行き上り列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突し、乗客74名が負傷(うち1名は事故後2週間後に死亡)。事故車両は2両とも廃車となっている。
原因は、上り列車運転士が、別の列車を運転していると思い込み、また車掌も出発信号機の現示を確認しないまま出発合図を出したことにより、所定の交換駅で下り列車の到着を待たずに出発信号機の停止現示を冒進して発車してしまったため。事故当時、同線にATSは設置されていなかった。
当時同線は、前年に発生した雲仙普賢岳の噴火災害により一部区間が不通になるなど甚大な被害を受けた最中での事故で、同社の経営に深刻なダメージを与えた。レイルウェイ・ライター種村直樹は、雲仙噴火被害発生以来、島原鉄道への救援カンパ呼び掛けの活動を行っていたが、この事故をきっかけに、輸送機関としての基本である安全を守る姿勢に問題ありとの立場から支援を中止した。
事故後同線はダイヤの改正を実施、交換駅の統一を進めたほか、事故から1年後の1993年12月までにATSの整備を完了している。

日豊本線竜ヶ水駅土石流事故[編集]

1993年(平成5年)8月6日 16時53分ごろ
平成5年8月豪雨において、日豊本線竜ヶ水駅近くで崖崩れが発生。竜ヶ水駅舎が埋まり、停車中の列車2本(キハ40系キハ200系)が土石流に飲み込まれて大破した。
崖崩れが起こると判断した乗務員は現場にいた警察官と共に、崖崩れの発生直前に車内の乗客約300人を車外に避難させた。乗客はほとんどが指示に従い、逃げたため九死に一生を得た。ただし、指示を無視して車内に留まった乗客3人は土石流に巻き込まれ死亡している。
なお、救助活動に従事した乗務員はこの年のシチズン・オブ・ザ・イヤーにて表彰された。乗務員のうち1人は、事故から3週間後に喘息発作を起こして過労死し、最終的に労災認定された。また、乗客や国道の避難者を最後まで誘導し続けた警察官2人は、8月31日に警察庁長官賞詞を受賞し9月1日付で1階級特進した。
被災車両のうちキハ40系2両(キハ40 2106・2124)とキハ200形1両(キハ200-1007)が廃車となった。キハ200-7はキハ200-1007の代替にキハ200-5007が製造され復帰した。
事故後、乗務員と警官の活躍が『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』や『奇跡体験!アンビリバボー』などのテレビ番組で紹介された。現在、竜ヶ水駅構内に災害復旧記念碑が建てられている。

ニュートラム暴走衝突事故[編集]

1993年(平成5年)10月5日 17時30分ごろ
大阪市交通局新交通システムである南港ポートタウン線(ニュートラム)住之江公園駅構内で、中ふ頭発住之江公園行き100系電車第13編成(4両編成・無人運転)が本来の停止位置から50mも暴走し、約30km/hで車止めに衝突して停止。乗客217人が負傷した。
事故の原因は、ブレーキ指令信号を伝える中継継電器内のリレーの一部が通電不良を起こし、ブレーキが作動しなかったものと見られるが、警察の再現実験では再現ができなかった。
大阪市交通局は事故から1か月半は全線で運行を停止し代行バスを走らせたが、その後11月19日に配線の組み換えや二重化を行うなどの対策を施した上で、添乗員を乗せて運行を再開し、2000年2月19日に無人での運行を再開した。
13編成の先頭車両は修復不可能なダメージを受けており、他の車両も塩害による老朽化が進行していたためそのまま廃車となった。
また、2006年4月14日に発生したゆりかもめ車輪脱落事故の直後は事故に対する警戒のため、有人手動運行を行っていたが、同年4月17日に無人運行を再開した。

特急おおぞら脱線転覆事故[編集]

1994年(平成6年)2月22日
JR北海道根室本線西新得信号場 - 広内信号場間で強風にあおられた釧路札幌行き特急おおぞら10号」(キハ183系7両編成)の3両が脱線、転覆して28名が負傷した。この事故で3両が廃車となった。現場付近の風速計の故障を半年間放置し、状況が把握できない中で徐行運転を実施したからという指摘がある。
この事故をきっかけに防風フェンスを設置したほか、基準を超える風速を記録した場合運転を停止する措置を取っている。

三陸鉄道突風転覆事故[編集]

1994年(平成6年)2月22日
岩手県三陸鉄道南リアス線小石浜 - 甫嶺間の矢作川橋梁上で36-100形と36-200形2両編成の盛発久慈行き普通列車が突風にあおられ転覆、5名が負傷した。2両とも廃車されたが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになった。
乗客が車窓を撮影している最中、事故に遭遇した映像はニュース番組でも使われた。

福知山線川除中踏切事故[編集]

1994年(平成6年)8月3日 13時ごろ (踏切障害事故
兵庫県三田市福知山線JR宝塚線新三田 - 三田間の川除中踏切(第3種踏切)で新三田発大阪行き普通列車(103系6両編成)が、踏切上で立ち往生していた廃油回収の2トントラックを発見し運転士が非常ブレーキをかけたが間に合わず、トラックを120m引きずって普通列車の前2両が脱線し、先頭車(クハ103-839)は台車が完全に外れて水田に転落、2両目(モハ103-781)も先頭車に押し潰されて妻面が変形した。乗客1人とトラックを運転していた運転手の2人が死亡し、乗客1人が負傷した。
先頭車であるクハ103-839は事故から1週間後の1994年(平成6年)8月10日付で廃車となり、1981年(昭和56年)3月17日に日本車輌製造で新造されてからわずか13年での廃車となった。
現場となった川除中踏切には後に遮断機が設置され第1種踏切となり、2014年現在は踏切が廃止になり道路が線路の下を通る立体交差となる。

滝沢駅列車脱線衝突事故[編集]

1994年(平成6年)12月7日 7時35分ごろ
岩手県東北本線(現・いわて銀河鉄道線滝沢駅構内で、八戸盛岡行き普通522列車(ED75 716牽引+50系客車4両)が、後続の特急「はつかり2号」を待避して滝沢駅2番線を発車した直後に、約100m先の乗越ポイントに乗り上げて機関車と客車前2両が脱線。そこに下り線を走ってきた梶ヶ谷貨物ターミナル札幌貨物ターミナル行き貨物列車(ED75形重連牽引)が普通列車の機関車に接触し、貨物列車の機関車2両が大破し、特に補機のED75 127は右側面車体がえぐれるなどの損傷を受けた。
滝沢駅構内で深夜1時から午前6時まで行われていた保線作業が終了し保線用機械を保守基地に収容する際に、2番線から保守基地線へ向かう乗越ポイントに取り付けた横取り装置の取り外しを忘れたのが原因。当日2番線を使用する初列車だった522列車が乗り上げ脱線した。
貨物列車の補機であったED75 127は、修理復帰することなく1998年11月19日付で廃車となった。

阪神・淡路大震災による事故[編集]

1995年(平成7年)1月17日 5時46分頃(阪神・淡路大震災
この日発生した兵庫県南部地震により、兵庫県を中心に鉄道施設に甚大な被害が発生した。東海道本線山陽本線JR神戸線)では営業運行中の列車を含む多数の列車が脱線したほか、阪神本線神戸高速鉄道東西線でも営業運行中の列車に被害が生じた。また列車以外では、鷹取工場阪神電気鉄道石屋川車庫などで多数の鉄道車両が被災した。

銚子電鉄線列車正面衝突事故[編集]

1995年(平成7年)6月24日 6時10分ごろ
銚子電気鉄道線本銚子 - 笠上黒生間において、下り列車(1両編成)と上り列車(同)が正面衝突し、両列車の運転士2名と、出勤のため下り列車に添乗していた笠上黒生駅長、および上り列車の乗客4名が負傷した。
上り列車の運転士が、自分の運転していた列車を下り列車との交換を行わない始発列車と勘違いし、下り列車の到着を待たずに発車したため。事故当時、同線にはATSは設置されていなかった。
同線では、通常は仲ノ町 - 笠上黒生間を票券閉塞、笠上黒生 - 外川間をスタフ閉塞として取り扱っているが(銚子 - 仲ノ町は単線自動閉塞式)、事故当時は合理化のため笠上黒生駅の場内信号機併合閉塞の取扱により使用停止状態だった。
本来のダイヤでは、下り始発列車が、笠上黒生駅に到着後、当務駅長において上り場内信号機を進行現示に操作し、当該上り列車が到着、その後上下列車の携行するタブレットを交換し、当務駅長の出発合図によって上下列車が出発する手順になっていたが、事故発生時は当該上り列車が下り始発列車より先に到着しており、下り列車が入線していなかったことから、上り列車の運転士が自分の運転する列車をタブレット交換を行わない始発列車と誤認したと見られた。
事故後同線では併合閉塞の取り扱いを中止し、全列車が笠上黒生駅でタブレットを交換する運用に改めた。

福知山線藍本駅脱線事故[編集]

1995年(平成7年)12月25日 17時30分ごろ (列車脱線事故
‪ JR西日本の福知山線(JR宝塚線)藍本駅で、篠山口発大阪行きの快速電車(207系4両編成)が停車する際に停止位置を行き過ぎ安全側線を150メートル走行した後、車止めの石に乗り上げ前3両が脱線。乗客10人に怪我はなかった。
運転士は「非常ブレーキをかけながら駅に進入したが止まらなかった」と証言。後日の報道で事故当日の雪によりブレーキシューに雪が挟まり非常ブレーキが機能しなくなったのが原因だと判明した。この事故がきっかけで福知山線内を走行する電車にも耐雪ブレーキを装備する事となった[50][51]

東海道新幹線三島駅乗客転落事故[編集]

1995年(平成7年)12月27日 18時30分ごろ (鉄道人身障害事故
JR東海の東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行き「こだま475号」(0系16両編成)の6号車に駆け込み乗車しようとしてドアに指を挟まれた乗客の男子高校生が、発車した列車に引きずられた後にホーム下に転落、死亡した。
死亡した高校生は、閉まりかけていたドアに無理矢理手をかけたことで指挟みに至ったものであり、また列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、ドアの隙間がわずかだったため、運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが主な原因である。
新幹線において初めての旅客死亡事故となった。

日高本線踏切事故[編集]

1996年(平成8年)1月12日、9時ごろ
日高本線勇払 - 浜厚真間の踏切で、雪道をスリップして踏切内に進入したダンプカーに様似苫小牧行き普通列車(キハ130形気動車)が衝突。列車は脱線しなかったものの先頭部は大破(特に進行方向右側部分はドアまでたわむほどにまで変形)した。また衝突した際ダンプカーの燃料タンクが列車に巻き込まれ炎上し、列車の運転士と乗客45名とダンプカーの運転手が火傷を負うなどして重軽傷を負った。
罹災したキハ130-5は車体の損傷状況などから修理不能と判断され、同年の2月に廃車となり、翌年にキハ160形気動車が代替製造された。

高山本線特急列車脱線事故[編集]

1996年(平成8年)6月25日 21時20分ごろ
JR東海高山本線下呂駅から南3キロ地点、三原トンネル出口にて名古屋高山行きの特急「ひだ15号」(キハ85系5両編成)が落石に衝突し、飛騨川沿いの竹やぶに転落し、1両目と2両目が脱線。1両目が大破し、2両目も横転した。16名負傷。この事故でキハ85-107が廃車となり、その代替車両としてキハ85-119が1997年(平成9年)に製造された。

函館本線大沼脱線転覆事故[編集]

1996年(平成8年)12月4日 5時49分ごろ
JR北海道函館本線大沼 - 仁山間下り急勾配の曲線で、札幌貨物ターミナル梅田行きの貨物列車のコンテナ貨車20両がすべて脱線、転覆した。
制限速度が60km/hだった300R曲線の事故現場を、下り急勾配で加速されて115km/h前後で進入したため(タコグラフによる)。
1997年2月7日、JR北海道副支社長が1976年10月1988年12月姫川事故に続く大沼付近での3度の過速転覆事故を承け、現場に速度照査装置設置を発表した。

京浜急行電鉄脱線事故[編集]

1997年(平成9年)4月7日 14時47分ごろ
京浜急行電鉄本線京急田浦 - 安針塚間の切り通しでがけ崩れが発生し、走行中の上り普通電車(1500形4両編成)が突っ込んで脱線した。この事故で、乗客乗務員19人が重軽傷を負った。事故発生時、下りの快速特急(快特)電車が接近中だったが、運転士が負傷しながらも防護無線を発報したため、防護無線を受けた快特は現場の手前で非常停車し二重事故を逃れた。
当事故において、脱線した車両が軌道を大きく逸脱したり横転したりしなかったのは、先頭車が重量の高い電動車だったためであり、この事故は、京浜急行が衝突事故対策や軌道回路を確実に動作させるために、先頭車を電動車にして来た慣例が有効に発揮した実例とされている。
なお、同区間は事故発生当日中に復旧作業を終えて翌日には運転を再開した。この際の関係者の尽力に感謝する書状が沿線住民から贈られ、京急本社に飾られている。

東海道線片浜列車追突事故[編集]

1997年(平成9年)8月12日 23時18分ごろ (列車衝突事故
JR東海の東海道本線沼津 - 片浜間で、停車中の百済行き下り第67貨物列車(列車番号:67, 電気機関車EF65 1139牽引)に三島静岡行き下り普通列車839M(クハ111-549先頭)が追突し、衝撃でコンテナ車(コキ104-1675)のコンテナ緊締装置が破損し、コンテナ2個が民家のすぐ近くに転がり落ちた。43名が負傷。クハ111-549は廃車になった。
無閉塞運転中における速度超過が原因である。何者かのいたずらと思われる踏切支障通報ボタンの操作で停止現示になったため、先行する67列車が停車していた。67列車に対する停止信号が、解除操作で進行に変わったことを、839Mの運転士は自列車に対するものと誤認した。さらに67列車の在線が、自列車の進路である本線でなく並行する側線に停車中のものと勘違いしたことにより、規定に反して次信号到達前に加速をした。
この事故を受けて、運輸省はJR各社に対応を求めた。JR東日本は無閉塞運転を廃止し、指令の許可を条件とする閉塞指示運転に改めた。北海道・四国も追随したが、九州など他の3社は運転方法に変化を持たせたのみで[52]、本事故に類似した鹿児島線列車追突事故につながった。無閉塞運転による事故を参照。

弘南鉄道弘南線列車正面衝突事故[編集]

1997年(平成9年)8月25日列車衝突事故
弘南鉄道弘南線館田駅において、交換列車の待ち合わせ駅を上り列車運転士が勘違いし発車したため、下りの列車との正面衝突事故が起こる。32名が重軽傷。
事故後、ATSの設置を行い全線で1999年より使用開始した。

中央線大月駅列車衝突事故[編集]

1997年(平成9年)10月12日 20時ごろ (列車衝突事故
JR東日本の中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた入換車両(201系6両編成)が衝突し、特急列車(8号車は横転)の5 - 9号車と入換車両の前2両が脱線、特急の乗客77名が負傷した。
入換車両の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置 (ATS) の電源を切った後、下り本線の出発信号機の進行現示を入換車両に対する出発信号機現示と誤認し、入換信号機の停止現示を見落として発車したための事故。
ATS電源投入はハンドル連動改造中で、事故車が未改造だったことと、運転士が切替操作を勘違いして断にしたことで誤出発を止められず衝突に至ったと推認されている。

土佐くろしお鉄道中村線列車衝突事故[編集]

1998年(平成10年)6月11日列車衝突事故
9時15分ごろ、土佐くろしお鉄道中村線西大方 - 古津賀間において窪川宿毛行普通列車(1両編成・乗客約40人)が、エンジン故障で立ち往生した。この列車を救援するため、伝令法を施行した救援列車が中村から現場に向かったが、徐行が原則のところを60km/hで進行したため、見通しの悪い曲線(R400m)の先に止まっていた事故列車に気が付くのが遅れ、非常制動をかけたものの止まりきれず衝突し、38人が負傷した。
エンジン故障とは、踏切通過の際に、踏切改良工事のための仮設踏切舗装板が浮き上がり、列車車両床下にある変速機オイル冷却用配管と接触、これを損傷したもの。
故障列車の運転士は発炎信号または赤旗による防護措置を怠った。
救援列車運転士に渡された運転通告券には故障列車の停止位置(現場のキロ程)が記載されていなかったため、故障列車の位置は不明だった。

相模鉄道相模大塚駅脱線事故[編集]

1998年(平成10年)12月16日列車脱線事故
相模鉄道本線相模大塚駅の引き込み線で回送列車(3000系10両編成・乗客なし)がポイントを3箇所破壊する脱線事故が発生した。回送列車のため、けが人はなかった。
一部車両はダメージが大きく、3000系は1編成しかないためそのまま廃車され、3000系は廃形式となった。

山手貨物線作業員触車死亡事故[編集]

1999年(平成11年)2月21日 0時15分ごろ (鉄道人身障害事故[53]
東京都目黒区JR山手貨物線大崎 - 恵比寿間で、信号保安装置の工事のため軌道内を資機材運搬中だったJR東日本の工事請負会社の作業員5人が品川小淵沢行きの臨時回送列車(回9531列車 EF64-36+お座敷客車「江戸」:計7両編成)にはねられ、5人全員が死亡した[53]
この事故では請負会社の工事指揮者が作業現場に遅刻した上[53]、大崎駅の信号扱所に列車の運転状況を確認せずにJR信号通信指令室へ作業開始連絡をしたこと、作業前安全打合せ(作業内容・接近列車ダイヤの説明等)をせずに作業員に軌道内への立入りを指示したこと・列車見張員に臨時列車の記載された当日の列車ダイヤを渡さずなおかつ見張り位置を指示しなかったこと[53]・また列車見張員も列車の接近方向とは反対側にいたことが原因とされる。
JR東日本ではこの事故が発生する前から列車運行と軌道内作業の分離を検討していたが、この事故により列車運行中の軌道内作業は原則禁止となった。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 死傷者数は苫小牧市史を出典としている。
  2. ^ 「オコップ川列車事故」として紹介。
  3. ^ 同様に狭小であった中央東線高尾以西が3,980mmであり、国鉄時代の電化区間では最も厳しいものとなった。なお、民営化後に電化された予讃線鳥越トンネル走行区間はこれよりさらに厳しく、折畳高3,900mmの制約を受けている。
  4. ^ 371系285系など。ただし前者は2013年富士宮駅までは入線しており、後者もより狭小の鳥越トンネル区間を営業列車として走行したことがある。
  5. ^ 類似事象に東武鉄道運転士懲戒解雇事件がある。
  6. ^ この跨線橋は現存しており、国道122号との並走部分にある群馬県道2号前橋館林線との立体交差がこれに該当する。
  7. ^ 先の1人を加えると60人。
  8. ^ 事故以降、113系による普通運用は早朝と深夜の一部のみになったが、1982年8月の台風10号による冠水で101系が不足した際には、昼間の普通列車に使用された。その後早朝と深夜のみに戻り、民営化後の1988年3月ダイヤ改正以降は平日の早朝に2 - 3本・夕方に2 - 3本・深夜に2本、休日の早朝に2本ほど・夜間に1往復ほど・深夜に1 - 2本ほど113系による普通運用がされていた。221系に置き換え後以降も継続され、現在は平日の早朝と朝ラッシュに4本ほど・深夜に1 - 2本、土・休日の早朝に3 - 4本・夜間に3本ほど、深夜に2本ほど運用されている。
  9. ^ 1968年9月に日本車輌で製造。
  10. ^ 当時の長野鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道長野支社)では、1975年にクハ180-1 - 3を製造から9年で廃車解体としたこと。また国鉄全体でも事故・故障が多発したDD54形が最長でも約10年、最短4年10か月で全車廃車になり、1976年に国会で問題として取り上げられ会計検査院からも不適切な処理と指摘されたことが関係する。
  11. ^ 山陽電鉄の運転士。乗務員を有さない神戸高速鉄道を経由して他社線に乗り入れるという特有の事情のため、山陽電鉄の車両には、阪急線内であっても阪急電鉄の乗務員ではなく、山陽電鉄の乗務員が乗務していた。
  12. ^ この事故による山陽電鉄側の処分により剥奪扱いとなってはいるものの、法律では動力車操縦者免許の所持は鉄道事業者に所属することが条件であるため、鉄道事業者を退職したまたは解雇された場合は、剥奪の有無に関係なく、自動的に免許は失効となる。

出典[編集]

  1. ^ とまみんが見た50年 1950年 大洪水「買い出し列車転覆」” (2000年2月21日). 2015年3月28日閲覧。
  2. ^ 「先駆けて」苫小牧市制60周年 第2部 未来への道と信じて―市営バス運行(4)救助活動”. 苫小牧民報社 (2008年12月1日). 2015年3月28日閲覧。
  3. ^ 『毎日新聞』1952年6月18日夕刊3面。11・12番線は当時まだ無かった。
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関連項目[編集]