東中野駅列車追突事故

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東中野駅列車追突事故
発生日 1988年(昭和63年)12月5日
発生時刻 9時30分頃(JST)
日本の旗 日本
場所 東京都中野区東中野四丁目1-12
路線 中央本線
運行者 東日本旅客鉄道
事故種類 列車追突事故
原因 信号無視・ATSの不適切取扱
統計
列車数 18両
死者 2人(運転士1名・乗客1名)
負傷者 116人
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東中野駅列車追突事故(ひがしなかのえきれっしゃついとつじこ)は、1988年12月5日午前9時30分頃に東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線東中野駅で発生した列車衝突事故である。

概略[編集]

中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼中野行下り中央線各駅停車(列車番号805C:習志野電車区[1](現・習志野運輸区)所属ラシ336編成103系10両)に後続の千葉発中野行下り中央線各駅停車(列車番号835B:三鷹電車区(現・三鷹車両センター)所属ミツ6編成201系10両)が追突。後続電車の運転士1名と乗客1名の計2名が死亡、116名が重軽傷を負った[2]国鉄分割民営化後、初めて乗客に死者を出した事故である。

要因[編集]

当時慢性化していた遅延の回避のため、列車の遅れを回復しようとした後続列車運転士が停止信号にも関わらず相応の措置をせずに進行した結果、見通しが悪い現場(東中野駅直前には急な左カーブがあり、その後立川駅までほぼ直線で西へ向かう)で停止中の先行列車に気付くのが遅れたために事故が発生したと見られる[2]。原因は、後続列車運転士が運転中に列車無線を聴いていたため、運転整理による折返しの運転順序変更の通告など、指令から乗務員への連絡の内容に気を取られ、前方の電車がいる事を知らせる信号機を見落としたものと見られる。

当該区間の保安装置はATS-B形で、警報が停止信号の約600m手前から作動し、さらに東中野駅手前約137mに設置されていた場内信号直下警報コイルでも警報を発するが、確認扱いと呼ぶ操作さえすればそのまま進行が可能であった。

過去にも同じ地点で追突事故が1964年1980年と2度もあるが、どちらの場合も停止信号警報の確認扱いをした後に一旦停止しないまま進行する「追い上げ運転」を行ったことが原因である。この事故も含み3度とも追突した電車の行先は「中野行」で、終着駅での折り返し時間が非常に短いために運転士は新宿 - 東中野間で走行中に持ち物をまとめるのが常態化していたといい、前方列車が見えない線路配置が重なって事故を誘発した可能性も事故直後の報道で指摘された。

対策[編集]

この事故を契機にATS-B形を使っていた全区間(首都圏大阪圏)を含む稠密ダイヤ線区では、停止予定位置を基準にそれぞれの列車の減速性能から各地点の限界速度を定める速度パターン照査により確認扱いをなくして確実に強制停止させられるATS-P形への切替を進め、さらにJR東日本では東海旅客鉄道(JR東海)と共同で全JR向けATS-SN形を開発した[2]

事故当該車[編集]

事故当該編成は、両者共に中央・総武緩行線では特徴のある編成であった。

103系(ラシ336編成)

以下の車両で構成されていた。

  • モハ103-21+モハ102-21
    • 1964年製造の103系第1次量産車。
  • モハ103-334+モハ102-490・モハ103-336+モハ102-492・サハ103-326・327
    • 1973年製造の量産冷房車第1製造ロット。
  • クハ103-277・278
    • 1974年製造のATC準備工事車として最も落成日の早かった車両。
201系(ミツ6編成)

1981年に中央線快速への201系量産車の第一陣として投入された5編成のうち1本であり、数年で中央・総武緩行線へ転用。検査入場までの間オレンジ色で中央・総武緩行線に運用されていた編成。

事故によって衝突部から一番離れたクハ201-3・クハ103-278の2両を除いた18両は、車両の台枠が大きく損傷したため修理は不可能となり、警視庁による検証が行われた後に収容先の中野電車区で解体された。

残存車[編集]

クハ103-278

事故車補充用として翌1989年2月17日付けで三鷹電車区に転入、他車両基地からの転入車と代替編成[3]を組成した。 7ヵ月後の同年9月には豊田電車区(現・豊田車両センター)に再転出し青梅線五日市線武蔵野線で運用。さらに1991年には中原電車区に転属し南武線で運用され、1993年には再び習志野電車区に配属され中央・総武緩行線で運用され1995年廃車された。

三鷹電車区に留置されたクハ201-3
(2003年撮影)
クハ201-3

復旧工事の際に緊急整備されたATS-P形を搭載し、改造のために編成から外された同形車の代車として組み込まれる運用に投入されたが、三鷹電車区在籍の201系全編成の改造が終了した後は使用目的も無く、同区内に留置された。 1997年には大月駅列車衝突事故の事故当該車であったクハ200-116の代替案が浮上し大井工場へ回送されたが、最終的には当該車が復旧されたために再び三鷹区に戻された。その後2001年11月をもって三鷹電車区に所属する201系の編成がなくなったものの、クハ201-3は有効な使い道のないまま2005年12月まで留置され、同月大宮総合車両センターに廃車回送後解体された。これによりカナリアイエローの201系は消滅した。

補充車[編集]

1989年中に三鷹電車区へは本来は埼京線用として製造中だった205系2編成を仕様変更し新製配置され、ミツ6・ミツ23編成とした。

1990年にミツ23編成が本来の埼京線用配置先の川越電車区(現・川越車両センター)に転出、ミツ6編成は1993年に中央線快速増発に伴う201系20両の同線転出分の穴埋めと中央・総武緩行線そのものの増発に伴い京浜東北線と南武線から合計3本30両が転入により編成番号を変更。1996年に川越電車区に転出した。205系が配置されたことにより、中野 - 三鷹間各駅では「銀色の電車は地下鉄直通」と案内されていたため、ラインカラーの黄色帯を配色された205系を地下鉄東西線直通電車と勘違いする乗客の誤乗が続出した。そのため明灰色に黄帯の塗装で運用されていた301系・103系1200番台を青帯に塗り替えて対処した。

脚注[編集]

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  1. ^ 列車番号の「B」は、本来三鷹車運用で「C」が習志野車運用であるが、当日は遅延による運転整理が行われていたため運用変更がなされていた。
  2. ^ a b c 辻明彦「過去20年のおもな化学事故,交通運輸事故,製品事故」『安全工学』第46巻第6号、安全工学会、2007年、 403-425頁、 doi:10.18943/safety.46.6_403
  3. ^ 事故当該の編成番号ミツ6を引き継いだ。