鶴見事故

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鶴見事故
発生日 1963年昭和38年)11月9日
発生時刻 21時40分ごろ (JST)
日本の旗 日本
場所 神奈川県横浜市鶴見区生麦町(当時)
座標 北緯35度29分35.92秒 東経139度39分50.23秒 / 北緯35.4933111度 東経139.6639528度 / 35.4933111; 139.6639528座標: 北緯35度29分35.92秒 東経139度39分50.23秒 / 北緯35.4933111度 東経139.6639528度 / 35.4933111; 139.6639528
路線 東海道本線
運行者 日本国有鉄道
事故種類 多重衝突事故
原因 競合脱線
統計
列車数 貨物列車1本、電車2本
死者 161人
負傷者 120人
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鶴見事故(つるみじこ)は、1963年昭和38年)11月9日21時40分ごろに日本国有鉄道(国鉄:現在はJR東日本東海道本線鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切(神奈川県横浜市鶴見区:現在の名称は「滝坂踏切」)付近で発生した列車脱線多重衝突事故である[1]

概要[編集]

※外部リンク先の図入りの事故状況説明も、必要に応じて参照されたい。

事故現場(おおよその位置座標)は、東海道本線の鶴見 - 新子安間に位置する滝坂不動踏切(現:滝坂踏切、位置座標)から鶴見寄り約500 m地点である[1]

事故地点における貨物線品鶴線)を、定刻より4分遅れで走行中の佐原野洲行き下り貨物列車(2365貨物・EF15形電気機関車牽引45両編成)後部3両目のワラ1形2軸貨車(ワラ501)が突然脱線。引きずられた後、架線柱に衝突し編成から外れたことにより、隣の東海道本線上り線を支障した(2365貨物列車は非常制動が作動し停止)。そこへ同線を走行中の横須賀線電車久里浜東京行き上り2000S列車と、下り線を走行中の東京発逗子行き下り2113S列車(いずれも12両編成)がほぼ同時に進入した[注釈 1]

90 km/h前後という高速のまま進入した上り列車は、貨車と衝突。先頭車(クハ76039)は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目(モハ70079)の側面に衝突して串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目(クモハ50006)の車体も半分以上を削り取って停止した。

その結果、下り列車の4・5両目は台枠と車端部を残して全く原形を留めないほどに粉砕され、5両目に乗り上げた形で停止した上り列車の先頭車も大破。上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となった。

原因[編集]

ワラ1形貨車
(事故車両の同形車)

事故後、ワラ1形が曲線出口の緩和曲線部(カーブから直線になる地点)でレールに乗り上げていた痕跡が認められた。そして国鉄は脱線原因を徹底的に調査・実験した結果、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況など様々な条件が複雑に絡み合った競合脱線であるとした。

それまで競合脱線事故の多くは貨物列車単独に被害が及ぶもので、人的被害を発生させた例は少なかったが、本事故はたまたま貨車の競合脱線とほぼ同時に上下方向から旅客列車が進入してきたことで甚大な人的被害をもたらす結果となった。これについては、貨物列車の機関士が脱線直後に発煙筒を焚いたが、短時間で消えてしまったこともあって上り列車の運転士(死亡)が見落とし、直前まで脱線に気付かず高速で貨車に激突、勢い余って横の列車を大きく破壊するに至ったものとされている。前年1962年(昭和37年)の三河島事故と同様に視界の悪い夜間であったことが被害の拡大を招いたとも言える。

また「競合脱線」という原因が見出され、原因不明として処理された過去の二軸貨車脱線事故も多くはこれが原因である疑いが強まったが、「競合脱線」とは脱線にいたる主因が不明確であるという点からも実質的に「原因不明」に近いものであった。後日、脱線を起こしたワラ1形はワム60000形類似車として配備前の実車試験が省略され、軽積載時の激しいピッチング特性が見逃されたことが明らかにされており、当時は高速電車開発で確立されつつあったバネ下重量、蛇行動など走行装置の理論を貨車にも適用可能な時期でもあって、これは事故調査が当事者ではない独立機関で行われていれば「試験の手抜き」と「予見可能性」とで別の結論になり得た重要な事実であった。

対策[編集]

事故後に技術調査委員会を設け、模型実験・2軸貨車の実走行実験などで競合脱線のメカニズム解明に向けた様々な角度での研究が続けられた。1967年(昭和42年)からは、新線切替により廃線となった根室本線狩勝峠旧線(新得 - 新内 通称:狩勝実験線[注釈 2])を利用し、貨物の積載状態や空車と積載車の編成具合から運転速度や加減速度等さまざまな条件に基づいて実際に鉄道車両を脱線させる大規模な脱線原因調査が行われた。実験は1972年(昭和47年)2月に一応の結論を出し、護輪軌条の追加設置・レール塗油器の設置・2軸貨車のリンク改良・車輪踏面形状の改良などにつながることになる。前述の通り軽負荷時の走行特性に問題のあったワラ1形も相応の改良を受けた上で国鉄末期の1986年(昭和61年)まで使用された。

これらの対策は1975年(昭和50年)までに終了し、さらに車扱貨物輸送の減少で2軸貨車が激減したため、現在は日本国内では2軸貨車の競合脱線はほぼ起こりえなくなっている。

その他[編集]

總持寺の長廊下で行われている鶴見事故の水供養。平行する土間(写真左)に、線路に見立てて長い水の線が二本撒かれている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時は、東海道線と横須賀線の分離が行われておらず、いずれも同じ線路を走行していた。両者が分離されるのは、1980年のことである。
  2. ^ 現在も国道38号沿線に試験車マヤ40形の遠隔操縦やデータ収集に使った無線塔などの実験跡が残っている。
  3. ^ 遠回りに思われるが、1963年当時は現在のように湘南新宿ラインで渋谷から横浜方面まで直接東海道本線横須賀線に列車を乗り入れるルート(山手貨物線品鶴線の旅客運用)が存在していなかった。

出典[編集]

  1. ^ a b 第10回:大本山總持寺境内にある鉄道事故関係慰霊碑等について”. 横浜市鶴見区. 横浜市 (2019年3月4日). 2022年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月14日閲覧。 “鶴見事故慰霊碑”
  2. ^ 本山布教部 (2011年4月12日). “曹洞宗大本山總持寺【伝道標語】”. 曹洞宗大本山總持寺. 2011年10月26日閲覧。 “鶴見事故の他、桜木町事故の供養も行われている。”
  3. ^ 483: 昭和38年、国鉄鶴見事故と外国産TVドラマ”. 東京スポーツ (2014年9月24日). 2018年10月13日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]