国鉄EF62形電気機関車

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国鉄EF62形電気機関車
EF62 54(最終増備車)
EF62 54(最終増備車)
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
製造所 川崎電機製造川崎車輛
東洋電機製造汽車製造
東芝
製造年 1962年 - 1969年
製造数 54両
引退 1997年 - 1999年
主要諸元
軸配置 Co - Co
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
全長 18,000 mm
全幅 2,800 mm
全高 4,060 mm
運転整備重量 92.0t (1)
96.0t (2 - 54)
台車 DT124形
動力伝達方式 1段歯車減速吊り掛け式
主電動機 直流直巻電動機
MT52 (MT52A) 形×6基
歯車比 16:71=1:4.44
制御方式 抵抗制御・3段組合せ・弱め界磁
バーニア制御付)
制御装置 自動進段電動カム軸制御
制動装置 EL14AS形自動空気ブレーキ
抑速発電ブレーキ
保安装置 ATS-SNATS-P(JR移行後)
最高速度 100 km/h
定格速度 全界磁 39 km/h
弱界磁 63 km/h
定格出力 2,550 kW
定格引張力 23,400 kg
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EF62形は、日本国有鉄道(国鉄)が設計した直流電気機関車である。

国鉄の最急勾配路線であった信越本線碓氷峠越え区間に直通する列車の牽引用に開発され、急勾配での運用に対応した特殊設計がなされている。

1962年昭和37年)に先行試作車の1が完成し、その後1963年から1969年にかけて量産車53両の合計54両が製造されたが、すでに全車が廃車された。

開発の経緯[編集]

登場の背景[編集]

信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠区間は、最大66.7という並外れた急勾配を控える難所であった。通常の機関車では登坂では空転、降坂では暴走の恐れから官設鉄道として開業した明治時代から、補助レール(ラックレール)に機関車の歯車を噛み合わせて昇降するアプト式とされた[* 1]。このため同区間はいち早く電化されて1912年明治45年)には電気機関車が導入されたが、長らく単線のまま過密ダイヤを強いられてきた。

  • 1960年代初頭の時点で、同区間はアプト式電気機関車ED42形(1933年 - 1947年製造)を投入していたが、アプト式時代の電気設備(第三軌条式・直流600V)の制約で1両僅か510kWの低出力だったED42形を合計4両連ねても、通過できる列車の重量は360t止まりな上に、極めて速度が遅いために単線の過密ダイヤの中でこれ以上の増発は困難であった。

日本の経済成長が進展する中で、東京長野県東信北信を結ぶメインルートである信越本線の輸送力不足は非常に深刻な問題になっていた。

粘着運転への移行[編集]

碓氷峠区間を管轄する高崎鉄道管理局(現・JR東日本高崎支社)は、1956年にレポート「碓氷白書」を作成した。この白書では同区間が輸送のボトルネックとなっており、アプト式鉄道の施設旧式化・老朽化も著しい実態が指摘され、アプト式の解消や複線化などの抜本的な対策が早急に必要であることが訴えられた。

国鉄本社はこれに対応し、翌1957年から同区間の改良策検討に取りかかり以下の2案の比較検討を行った。

  • 急勾配の現在線に並行した「腹付け線増」で複線化
  • 緩勾配 (25‰) の迂回線建設

結果は費用や工事期間の制約から現在線案が選択され、アプト式を廃止して通常レール摩擦力のみによって走行する「粘着運転」化の上で牽引機関車を前後の区間から直通させる方針を計画した。

粘着運転化にあたり特殊装備を多数搭載したEF63形が開発されたが、同形式はあくまでも碓氷峠区間専用の補助機関車で牽引力・ブレーキ力に重点を置いた特殊形式であり、信越本線の前後区間を直通できる本務機関車として開発されたのが本形式である。碓氷峠区間ではEF63形の補助を受けて通過することを前提とした上で降坂時には協調運転[* 2]を可能な構造とした。

開発は1960年から開始され、1962年5月に本形式ならびにEF63形各1両の先行試作車が完成した。

構造[編集]

外観[編集]

EF62 3

重連運転も考慮した結果F級の新系列電気機関車としては初めての貫通式運転台を採用した。運転台窓はパノラミックウィンドウであり、先行するEF60形EF61形同様にやや傾斜しているが、正面貫通扉を垂直に配置する関係で、幕板が庇状にやや突き出した体裁であり、窓回りに凹みが生じている。運転席正面ガラスにはデフロスタが取り付けられる[2]。幕板両側に2灯のシールドビーム前照灯が設置された。

軽量化のため、側梁を強化することで中梁を廃止し[3]、側面裾部が車体両端部分より一段下がった形態である。

塗色は当初、茶色(ぶどう色2号)一色であったが、のち青15号を基調に前面腰部をクリーム1号とする直流機標準塗色となった。

走行機器・性能[編集]

碓氷峠区間は特殊機関車であるEF63形の大重量(軸重18t[* 3]・総重量108t)に耐えられる規格に強化されているが、それ以外の信越本線は通常の幹線規格であり、通常運用される全動軸のF形機関車は軸重16t・総重量96t以内に制約される。また、本形式の開発において、各種粘着試験の結果から総重量を92tとすることを目標としたため[4]、各部分の軽量化に特段の配慮がなされた。

機器は協調運転を考慮し、EF63形と共通のものとなっている。電動カム軸制御の自動進段式抵抗制御器 (CS16) による抵抗制御方式でバーニア制御器 (CS17) も装備している[5]。ノッチを細分化することでトルク変動を小さくし、空転防止に寄与している。また下り坂での安定したブレーキ力確保のため発電ブレーキも装備した。また、転換制御器も電動カム軸制御方式 (CS18) となっている[6]

本形式は、国鉄の電気機関車としては初めて電動カム軸制御器を本格採用したといえる存在である。

  • 国鉄は1920年代に、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック(デッカー)製電気機関車を多数輸入し、その搭載する電動カム軸制御器のトラブル多発に悩まされた経験から、電気機関車の制御器は、アメリカのウェスティングハウス・エレクトリックの流れを汲む、シンプルな「単位スイッチ制御器」に徹してきた。しかし、単位スイッチ式は大きなスペースを必要とすること、カム軸制御の方がコンパクトで、多段化や自動加速化に適していること、機器の信頼性が向上したことなどから、本形式でついにカム軸制御へと回帰したものである。
  • 自動進段の電動カム軸制御器でバーニア制御付の仕様は、その後のEF64形EF65形にも引き継がれ、国鉄直流機関車における一般的な技術となった。

主抵抗器は、66.7‰もの急勾配における起動抵抗や制動中の負荷抵抗が膨大なものであることから、冷却効果の高い専用のものを開発している[7]。さらに、強制通風式とすることで小型化を図っている[7]

重連運転時の総括制御ならびにEF63形との協調運転に対応するため先行試作車ならびに1次量産車ではKE63形、2次量産車ではKE77A形[* 4]ジャンパ連結器2基ならびに元空気ダメ管・釣り合い管を装備する。

興味深い点として、主電動機として搭載されたMT52系直流直巻電動機 (定格出力425kW) 、歯車比1:4.44としたスペックは、EF63形と共通である。これは協調運転を考慮した結果であり、両形式は重量と機器類の差によって全く異なった性能の機関車となった。駆動装置は吊り掛け式である。

3軸台車[編集]

DT124形台車
車体側面の裾下がり

国鉄の1960年代以降の電気機関車としては異例な3軸ボギー台車 (DT124) を採用し、Co - Co軸配置とした[8]。軽量化と輪重移動の抑制に重点が置かれ[8]、台車を軽量化するために3軸台車を採用し、軸重16tに対応させた[9]。横圧を軽減させるために輪軸を6 - 25mm横動できるようになっている[8]

  • 国鉄は1923年大正12年) - 1926年(大正15年)にイギリスアメリカ合衆国から輸入したEF50形EF51形機関車に倣って、1928年(昭和3年)開発のEF52形以来、F形(動軸6軸)の大型電気機関車については、長大な台車枠に動軸3軸ずつをセットにして配置していた[* 5]。しかしこの構造は重量増加や構造の複雑化など難点も多く、戦後になって国鉄は抜本的な改良を図った。
  • 機関車用の大型2軸ボギー台車が1954年EH10形で実用化され、続いて1957年に製造されたDF50形電気式ディーゼル機関車では、重量の大きい発電機の搭載と亜幹線の軌道条件との狭間で中間台車の横動を許容する構造の採用により、2軸ボギー台車3組を用いた軽軸重のF形機関車が実現した。この「2軸ボギー台車3組のF形機関車」(Bo - Bo - Bo軸配置)という手法は、曲線通過性能を十分に満足する構造であったことから、1960年のEF60形で電気機関車の分野にも応用され、以後F級機関車および中間台車付のD級(4動軸)機関車も含め、国鉄ではスタンダードな手法となった。
  • このような大勢にあってEF62形が敢えてCo - Co軸配置を採用したのは、トータルの重量ではこちらの方が軽量に仕上がったからである。とはいえ、中間軸の横圧が大きく、曲線部で軌道への負担が大きくなる弊害は否定できず、EF60形以降の「近代化型電気機関車」としては唯一の例となった[* 6]

DT124形台車は、通常のセンターピンでは台車回転中心にある第2軸と干渉するという構造的な問題をクリアするため、台車回転中心部分の車体両側に設けられた車体足[3]と台車を結ぶ引張棒ならびに台車第1軸と第2軸との間に置かれたリンク機構によって台車の回転許容と位置決めを行う仮想心皿方式を採用している[8]。また、牽引力については、この引張棒と車体足[3]を介して台車から車体に伝えられている[8][* 7]

また、軽量化と構造簡素化のために揺れ枕がないボルスタレス構造を採用すると共に従来の台車では台車枠に外付けされている砂箱が台車枠内に組み込まれるなど、各所に軽量化に対する様々な努力が払われているのが特徴である。

軸重移動補償[編集]

EF63形の特殊な台車構造による機械的軸重移動補償に対して、本形式では主電動機による電気的軸重移動補償が採用された。

力行中の軸重のアンバランスによる動輪の空転の発生を抑えるために、進行方向前方から見て

  • 第1軸・第4軸:61%
  • 第2軸・第5軸:78%
  • 第3軸・第6軸:100%

となるように主電動機の電流を制限している[10]

電動発電機[編集]

直流1,500Vを単相交流1,440Vに変換して使用する[8]出力320kVA電動発電機 (MG) を搭載し、これによって客車電気暖房を可能とした[* 9]。またMG使用停止中に軸受け損傷を防止する観点から平軸受が採用された[8]

FRPの多用[編集]

屋根部分には広範囲に繊維強化プラスチック(FRP)が採用された。

  • それ以前にも屋根上の一部にFRPを用いた例はあったが、本形式ではほぼ屋根全域にわたってさらなる軽量化のためFRPが採用されている。また、成型色を明灰色として外光を透過させ、代わりに明かり窓の省略を狙ったともいわれる[* 10]。一方、FRP製の屋根板では重量物であるパンタグラフを支えることができないため、左右の側板の間を鋼製の梁でつなぎ、その梁にパンタグラフを搭載する構造としている。

列車無線[編集]

EF62 54
運転席側の白い棒状の物がコーリニアアレイアンテナ

EF63形と協調運転を行う関係上、本形式には当初から150kHz帯の誘導無線が装備されていたが、この方式はトンネル区間を中心に雑音が問題となり、横川機関区や駅との連絡をも可能とするため本形式とEF63形には1975年から沿線に敷設した専用の漏洩同軸ケーブルを使うUHF400MHz帯の列車無線を装備、第2エンド運転室側面と屋上にアンテナを設置した。この無線には1980年代に入り異常時に他列車への連絡を可能とする防護無線の機能を追加、1990年以降は山岳区間での通信を確実にするため、第1・第2エンド側双方の運転席前[* 11]に通称C'アンテナと呼ばれる八木アンテナ製のコーリニアアレイアンテナが取り付けられた。また、碓氷峠以外の区間で用いる列車無線も1986年以降順次取り付けられ、アンテナを運転室屋上に設置した。

派生形[編集]

本形式は勾配線区に適した設計ではあったが、碓氷峠通過に最適化された主電動機特性と歯数比ゆえに高速性能などに難があった。また、3軸ボギー台車も軌道への影響や特に曲線走行時に生じる横圧などの面からは決して好ましいレイアウトではなかった。

そのため1964年(昭和39年)に開発され奥羽本線板谷峠に投入されたEF64形は、勾配線用機関車として発電ブレーキを搭載することなどは本形式を踏襲したものの碓氷峠用の特殊装備を省略し、2軸ボギー台車装備として軸配置を標準の「Bo-Bo-Bo」に変更、歯数比も高速寄りに変更 (1:4.44 → 1:3.83) している。こちらは汎用性のある設計ゆえ多くの線区に適応し大量に増備された結果、2012年現在0番は減少傾向ではあるものの、1000番台については多くが運用されている。

製造年次別概説[編集]

メーカーは川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)+川崎電機(現・富士電機)・汽車製造+東洋電機製造東芝の5社3グループである。

先行試作車[編集]

EF62 1
先行試作車

1962年に川崎車輛・川崎電気で製造された1が該当する。

  • 側面の屋根肩部に明かり取りの窓が開いておらず、また側面エアーフィルターのルーバーは2枚1組・計8枚の横型で目が粗い。
  • 徹底した軽量化対策の結果、重量は92.0tに抑えられていた。


第1次量産グループ[編集]

EF62 11
1次量産車

1963年に製造された2 - 24が該当する。先行試作車から以下に示す変更点がある。

  • 車内や屋上では一部機器の変更。
  • 車体形状も前面窓上に水切り(ツララ切りを兼ねる)の追加。
  • 車体側面ルーバーを2枚1組から1枚ずつ独立したタイプに変更。
  • 屋根肩部には明かり取りの小窓を設置。
  • 改良による装備追加や粘着特性改善のため重量が96.0tに増加。


第2次量産グループ[編集]

EF62 26
2次量産車

1964年から1969年までに数回に分けて製造された25 - 54が該当する。1次量産グループから以下に示す変更点がある。

  • 避雷器取り付け位置・運転台側面窓・車体裾形状を変更した。
  • 側面のルーバー形状をプレス成形による目の細かいタイプに変更した。
  • 27号機以降は、塗色を青15号に窓面窓下腰部を警戒色のクリーム1号とした新性能電機標準色に変更して落成した。
  • 29号機以降は、尾灯の形状ならびに制御機器類を変更した。
  • JR東日本に車籍を継承された41と54は一時期、片エンドのパンタグラフが下枠交差型のPS22Bに変更されていたが、EF65 1052のPS17と再度交換し、元の姿となった。[* 12][11]


運用[編集]

信越本線[編集]

碓氷峠の粘着運転移行に先立ち、本形式およびEF63形各1両が1962年に試作された。横川側の丸山信号場付近を複線化し1年間近くをかけて試験を行い、その結果は量産型にフィードバックされた。

1963年初めから第1次量産型の製造が開始され、1963年7月 - 10月の碓氷峠粘着運転切り替えに伴って営業運転に投入された。

横川から軽井沢までの登坂はアプト式時代には42分を要したが、新線切り替えならびに1966年の複線化後は旅客列車で軽井沢方面行きの登坂列車が17分、横川方面行きの降坂列車が24分に短縮された。輸送定数も増加し、本形式1両で牽引する列車にEF63形2両で推進運転を行った場合で貨物列車なら400tまで牽引可能となった。

なお、当初は本形式とEF63形を1両ずつ使用することで定数320tの貨物列車または最大実荷重360tの旅客列車を、EF63形を2両と本形式を1両使用する場合は定数500tの貨物列車または最大実荷重550tの旅客列車を牽引する予定であった。[4]

当初は高崎第二機関区(現・高崎機関区)・篠ノ井機関区(現・塩尻機関区篠ノ井派出)に配置され、急行列車を含む旅客列車・貨物列車で高崎 - 長野間が直通運転可能な運用がされた。1966年の信越本線直江津電化では同駅まで、さらに1969年の宮内電化では、新潟までの広域運用も行われたほか、1968年10月のダイヤ改正からは高崎以南でも本格的に運用されることとなり、上野まで旅客列車を牽引するようになった[12]

しかし1970年代に入ると、動力近代化計画によって急行「白山」の489系電車特急格上げや、信越本線の客車普通列車80系電車115系電車への置き換えが進展して1982年上越新幹線開業時には電車化が完了したこともあり、碓氷峠越えの客車列車の本数は大きく減少した。このため本形式の運用は貨物列車牽引が主となった。

1975年(昭和50年)10月28日、碓氷峠の下り坂でEF63形2両と本形式2両の回送列車が速度超過により暴走し、脱線転覆事故を起こした(詳細は「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故 」を参照)。この結果、本形式は12・35が大破し初の廃車となった。原因はブレーキ故障と推測され、これ以降はさらなる安全設備の強化が図られることになる。

碓氷峠の貨物廃止[編集]

碓氷峠越えは、粘着運転への切り替えが行われても相変わらず信越本線最大のボトルネックであった。貨物列車重量は400tに制限され、横川や軽井沢では編成の分割、組み替えが必要なほどであった。このため、関東北陸間の貨物列車については、非効率な信越本線経由が避けられ、遠回りだが緩勾配で格段に輸送条件の良い上越線経由ルートが一般化した。

1984年2月のダイヤ改正では対長野県向けの貨物列車も中央本線篠ノ井線経由に統一されることとなり、碓氷峠越え区間を含む信越本線安中 - 小諸間の貨物輸送は廃止された(その後国鉄分割民営化と相前後して小諸 - 田中間も廃止)。碓氷峠通過がなければ、信越本線での貨物列車牽引にはEF65形やEF64形などの一般的な構造で速度も高い機関車を用いることができるため、特殊機の本形式は余剰化した。

国鉄末期の荷物列車運用[編集]

EF62 21+荷物列車1985年 山陽本線庭瀬
EF62 21+荷物列車
1985年 山陽本線庭瀬
EF62 13電気暖房用ジャンパ連結器移設施工車
EF62 13
電気暖房用ジャンパ連結器移設施工車

1980年代前半、東海道山陽本線荷物列車牽引に運用されていたEF58形は老朽化が進み故障も多発し、代替機関車が必要となった。

荷物列車は乗務員用の暖房熱源供給が必要で、暖房用ボイラーか電気暖房用交流電源を必要とする。当時の国鉄直流機関車では、SG搭載のEF61形は絶対数が不足するうえに駆動系統のトラブルも多いほか、SGから出た蒸気・水の影響による車体の老朽化も起こっており、東海道・山陽線主力車のEF65形は暖房供給装置を搭載していないため冬期の運用に難があった。一部に電気暖房電源搭載車のあるEF64形は運用線区の関係から転用できる余剰車がなかった。

当時の国鉄の財政状況では新造機関車などおよびもつかず、EF81形の進出で多数が休車となっていた交流機EF70形を直流化改造し代替車に充てる計画も浮上したが、上述の碓氷峠での貨物列車廃止に伴い、電気暖房用電源を搭載した本形式に余剰車が発生することが判明したため、費用節約の観点から転用されることになった。この計画は1983年秋に国鉄本社運転局から発表された[13]

当時の荷物列車の牽引にあたっていたEF58形は、東京機関区[* 13]浜松機関区・米原機関区・宮原機関区に所属していた[14]1984年2月1日ダイヤ改正では、荷物列車の受持ちを下関運転所に移管し、運用の効率化を図るとともに本形式を下関に転属させてEF58形を置き換える計画であった[15]。ただし、ダイヤ改正までは信越本線碓氷峠でも貨物運用があることや乗務員・検修の訓練が必要であることから、同年3月28日の仕業[* 14]までは下関に転属および貸し出されたEF58形が代走することとなった[16]高崎第二機関区から下関には26両(4・13 - 34・36 - 38号機)が転入した[17][16]33。

乗務員・検修の訓練が終了し、同年3月25日から順次本形式は運用入りとなり、同月29日までにEF58形を完全に置き換え、汐留 - 下関間の荷物列車運用[* 15]に投入された[18][19]。運用開始直後はほぼ信越本線運用時のままで使用されたが、荷物車の入換を行う際に支障となる電気暖房用KE3形ジャンパ連結器の移設などの小改造が同年9月から順次行われている[20]。山岳路線での牽引力重視設計で、定格速度が39.0km/h(全界磁)に設定された低速機であったため、平坦区間主体の東海道・山陽本線での運用では高負荷運転による主電動機のフラッシュオーバーが発生するも対応策を取ることによりそれほど大きな問題にはならなかった[18][21]。東海道・山陽本線の臨時客車列車牽引にも荷物列車運用の間合いを生かして本形式が充当されることとなり、当時の団体臨時列車に多用された12系14系20系のほか、スロ81系や国鉄末期に改造の相次いだジョイフルトレインも牽引している[22]

転用からわずか3年も経過しない1986年11月1日ダイヤ改正で国鉄の荷物列車自体が廃止されることになったため、東海道・山陽本線に転じた本形式は余剰となった。急行「銀河」の米原 - 大阪間の牽引機に転用する案も浮上したが[21]実現せず、1987年4月の国鉄分割民営化までにすべて廃車された[* 16]。また、信越本線でも1985年以降夜行急行「妙高」の電車化と荷物列車廃止、貨物列車のさらなる削減が行われただけでなく、中央本線・篠ノ井線で運用されているEF64形に余裕が生じたこともあって、篠ノ井機関区に所属する本形式も後述する田端運転所への転属車を除き同時期に廃車となっている。

分割民営化後[編集]

EF62 46+「くつろぎ」
EF62 46+「くつろぎ」
EF62 46 下り「さよなら碓氷峠号」
EF62 46
下り「さよなら碓氷峠号」

国鉄分割民営化時には、本来の信越本線で運用されていた41・43・46・49・53・54の6両が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承され田端運転所配置とされた。

唯一の定期運用は夜行急行「能登」と間合い運用となる黒井 - 二本木間の貨物列車牽引であり、その他は波動輸送に伴う碓氷峠を通過する臨時列車の牽引であった。

「能登」と貨物列車の定期運用は1993年3月18日ダイヤ改正489系電車に置換えられたことで消滅し、49・53が廃車になった。以後は波動輸送対応のみとなるが、北陸新幹線先行開業区間の建設工事では軽井沢へのレール輸送列車を牽引した記録がある。

最終的に稼働状態で残ったのは43・46・54の3両で、横川 - 軽井沢間廃止直前には同線の廃線を記念した臨時快速「さよなら碓氷峠号」「さよなら碓氷峠レインボー号(スーパーエクスプレスレインボーで運転)」「浪漫」「江戸」といったジョイフルトレイン旧型客車などの牽引に投入された。

1997年の碓氷峠区間廃止後には、EF63形の廃車回送や年末には上越線でのイベント列車の牽引に投入されたが、1998年8月から順次廃車され、1999年1月4日付で54が廃車され本形式は廃形式となった[23]

保存機[編集]

いずれも静態保存

脚注[編集]

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  1. ^ 本来アプト式は登山鉄道のようなローカルな観光路線などに使われるもので、輸送量の大きな主要幹線に用いるべきシステムではない。
  2. ^ 軽井沢方面行下り列車では、先頭になる本形式が牽引しEF63形重連が推進するプッシュプル運転であるが、横川方面行上り列車ではEF63形+EF63形+本形式の3重連となり先頭のEF63形から総括制御となる[1]
  3. ^ 実際のEF63形は軽井沢方の台車から19t・18t・17tと勾配上での軸重移動を考慮した変則軸重に設定されている。
  4. ^ KE77A形はKE63形の改良タイプで共に定格電圧100V 27芯で互換性がある。
  5. ^ コンパクトなボギー式ではなく手法としては蒸気機関車に近い。
  6. ^ 中間軸の横圧に関しては、軸受部に「遊び」を設けることである程度解消できることを日立製作所が試作したDF93形の結果で判明したが、軸受部の一定以上の横動を許容する設計は高速運転時の蛇行動を抑止する観点では決して好ましい設計ではない。一方、Bo-Bo-Bo配列では中間台車の芯皿にかかる横圧が大きく、国鉄新性能電機最重量級となったEF66形では揺れ枕を上下二重構造にするという対策を採り、結果更なる重量増大を招いている。この両者の比較は、国鉄の極端な「標準化」志向とその後日本における機関車製造の技術停滞もあって今日に至るまで詳細な検証はなされていない。
  7. ^ これらの機構は、同時期に設計・製造されたED74形ED75形に使用されている2軸台車DT129形に採用されたジャックマン装置に似た構造となっている。
  8. ^ 他に新製時から搭載された直流機関車はEF64形が存在するが、一部車両は未搭載で落成のため全車装備される直流機関車は本形式のみである。またSGからの改造による搭載はEF57形(工事施工以前に事故廃車となった12を除く)ならびにEF58形の一部へ施工された
  9. ^ かつての客車暖房は機関車から供給される高温の蒸気によって行われる蒸気暖房が主流であった。蒸気機関車では走行用蒸気の一部を振り分け、電気機関車やディーゼル機関車では、機関車内に搭載した重油軽油燃焼の暖房用ボイラーによる蒸気発生装置 (SG) の搭載もしくは機関車直後に連結し、車内に石炭焚き暖房用ボイラーを搭載する「暖房車」から供給していたが、電気機関車の場合は架線電源が利用可能・取扱が容易・軽量・スペース節減などの効果から機関車へ電気暖房供給用交流電源装置を搭載する方式が優位であることから、交流機関車には1950年代末から搭載。直流機関車で新製時から搭載されたのは本形式が最初である[* 8]。なお同時に信越本線で運用される旧型客車も原則的に電気暖房追設工事(2000番台化)が施工された。詳細は電気機関車から暖房用電源の供給を受けるものも参照のこと。
  10. ^ 2以降は小型の明かり窓を設置。また後年、黒く塗装した例もある。
  11. ^ EF63形と異なり装備位置は前後対称である。なおアンテナの予備台座が貫通扉脇に設けられていたが、43・46などは運用末期にこれを撤去していた。
  12. ^ この2両以外にも、国鉄時代には片側をPS22Bに交換した機体が存在していた。
  13. ^ 浜松機関区の台検代用機として。
  14. ^ 仕業途中で日付が変わる運用もあったため、3月29日まで運用された機関車もある。
  15. ^ なお、山陽本線の荷物列車は一部が三原 - 海田市間で呉線を経由したほか、対四国輸送として宇野線にも入線している。
  16. ^ 廃車となり国鉄清算事業団所有となった車両のうち25が開業直前の本四備讃線瀬戸大橋線)走行試験用の死重に使われた。

出典[編集]

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  1. ^ 『鉄道ファン』(交友社) 1996年12月号 P.19
  2. ^ 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.21。
  3. ^ a b c 『鉄道ファン』(交友社)、1996年12月号、P.23
  4. ^ a b 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.18。
  5. ^ 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.26。
  6. ^ 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.25。
  7. ^ a b 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.24。
  8. ^ a b c d e f g 『最近10年の国鉄車両』 日本国有鉄道、交友社、1963年、p.23。
  9. ^ 日本の鉄道史セミナー』(p199)
  10. ^ 『鉄道ファン』(交友社)、1996年12月号、P.24
  11. ^ 『鉄道ファン』(交友社) 1990年12月号 P.67
  12. ^ 『鉄道ファン』(交友社)1969年2月号、No.92、P.84
  13. ^ 『電気機関車EX』通巻7号、p.10
  14. ^ 『電気機関車EX』通巻7号、p.11
  15. ^ 『電気機関車EX』通巻7号、p.13
  16. ^ a b 『電気機関車EX』通巻7号、p.15
  17. ^ 『電気機関車EX』通巻7号、p.14
  18. ^ a b 『電気機関車EL』通巻7号、p.36
  19. ^ 『鉄道ファン』(交友社)1984年7月号、No.279、P23-30.
  20. ^ 『鉄道ファン』(交友社)1984年10月号、No.282、P.127
  21. ^ a b 『電気機関車EX』通巻7号、p.37
  22. ^ 『鉄道ファン』(交友社)1985年5月号、No.289、P.27-28
  23. ^ 『鉄道ファン』1999年7月号、交友社、1999年p.71

参考文献[編集]

関連項目[編集]