帝都高速度交通営団

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帝都高速度交通営団
Teito Rapid Transit Authority
TokyoMetro 04p0864s.jpg
Sを図案化した団章
略称 営団、交通営団
後継 東京地下鉄株式会社
設立年 1941年昭和16年)7月4日
廃止年 2004年平成16年)4月1日
種類 特殊法人
地位 帝都高速度交通営団法
目的 東京の地下鉄整備事業
本部 東京都台東区東上野三丁目19番6号
関連組織 地下鉄互助会
ウェブサイト 閉鎖(インターネット・アーカイブ)
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帝都高速度交通営団(ていとこうそくどこうつうえいだん、: Teito Rapid Transit Authority)は、東京都特別区(23区)の地下鉄を経営するため1941年から2004年まで日本に存在していた日本国政府出資の鉄道事業者である。

帝都高速度交通営団法に設立根拠を持ち、交通関係の省庁所管[1]であった「公法上の法人[2]である。通称交通営団(こうつうえいだん)。資産等は東京地下鉄(東京メトロ)に継承された。イメージソングは井上大輔作曲の「未来よ君は美しい」。

概要[編集]

社名を冠せず路線名のみで表記する方式は東京地下鉄になっても引き継がれている(対して都営は「都営」を冠する)。写真は九段下駅にて。
1954年(丸ノ内線開通当時)の団旗。旧字体の『帝都速度交通營團』となっている
団章が入った営団3000系電車
団章が入った営団6000系電車
団章が入った営団8000系電車

日中戦争中に、国家による統制管理のために設置された経営財団、いわゆる「営団」の一つである。「帝都」とは大日本帝国首都、すなわち東京のこと、「高速度」とは新幹線のような高速鉄道の意味ではなく、かつて市内交通の主役であった路面電車に対して「高速」という意味である(都市高速鉄道)。英語表記は Teito Rapid Transit Authority で、TRTA という略称もあった。

複数の会社によって行われていた、東京市の地下鉄建設・運営事業を統合し、一元的に東京の地下鉄を建設・経営する公共事業体として発足した。いわば戦時統合であったが、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、同法人以外の営団が解散もしくは公団へ移行したものの、当営団はそのまま維持され、「帝都」を冠して旧憲法名をその名に残す当営団は、戦後60年近くという長期に亘って存続した。

その間に東京都の直営による地下鉄事業開始(1960年)や日本国有鉄道の分割民営化(1987年)など情勢の変化もあったが、当営団は企業体としては特に変化なく、東京の主要な公共交通事業者として存続されてきたが、内閣総理大臣小泉純一郎による「特殊法人改革の一環」として、民営化された。

2004年平成16年)4月1日東京地下鉄株式会社法の施行により、一切の権利及び義務、設備、車両を東京地下鉄株式会社(東京メトロ)が継承、営団は廃止された。国有地方公営企業第三セクター会社とも異なり、日本国政府大蔵省)と東京都による公企業として独特な存在であった。発足当初は民間資本が入っていたが、1951年(昭和26年)に公的資本のみとなった。

日本民営鉄道協会に加盟し、団内労働組合も日本私鉄労働組合総連合会に加盟するなど私企業のような行動をとる一方、テレビCMなど広告は規制されており、民営化直前の2003年6月までは、一切行われなかった。地下鉄事業は日本国有鉄道と異なり、特別な法律に基づくものではなく、地方鉄道法に基づいていた。

「営団」[編集]

前述のようにほとんどの営団が終戦直後に廃止となった結果、中後期は単に「営団」と言えば「帝都高速度交通営団」を指すことがほとんどとなり、「営団線」と言えば、その経営する地下鉄路線全体を指していた。そのため俗に「営団」の語が固有名詞化し、当営団が経営する地下鉄路線を営団地下鉄と通称していたことも相まって、組織名が「営団地下鉄」であると誤解されることもあった。末期では、これを逆手にとる形で「営団地下鉄」と組織名に代わって表記する旅客向け資料もあった[3]

ロゴ表記は単に「地下鉄 SUBWAY」であった。運賃・乗車券など特に「営団線」として区別しなければならない場合を除き、東京で単に「地下鉄○○線」という場合は、営団の路線である場合が多く、都営の駅を含む駅の案内などでは、路線名のみの表記(「銀座線」など)が多用された。対して後発の都営地下鉄は、都営線内でも「都営」を冠した路線呼称(「都営三田線」など)が多用された。この方式は、営団が廃止されて東京地下鉄に継承された現在でも引き継がれている。

一方、「地下鉄互助会」(現・メトロ文化財団[4]など関連団体、一部の政党職場支部上部団体[5]には設立当初から「高速度交通」ではなく「地下鉄」を冠したものがある。

歴史[編集]

1941年昭和16年)3月6日に公布(同年5月1日施行)された帝都高速度交通営団法に基づき、東京府東京市1943年東京都制施行に伴い東京都になる)及びその付近の“地下都市高速度交通事業”を目的として1941年(昭和16年)7月4日設立された。資本金6,000万円は、政府の4,000万円、東京市の1,000万円のほか、東京横浜電鉄(東横)、東武鉄道(東武)が各200万円、京成電気軌道(京成)・小田急電鉄(小田急)が各100万円、西武鉄道(西武)、武蔵野鉄道、国鉄共済組合が各50万円を出資した。

同年9月1日、日中戦争中の運輸統制のため、陸上交通事業調整法1938年8月施行)により現在の銀座線を運営していた東京地下鉄道及び東京高速鉄道の路線を引継いだほか、両社の未成線、東京市の地下鉄道未成線、京浜地下鉄道の未成線免許を譲受した。戦後の1951年(昭和26年)4月、営団の公的性格の明確化と地下鉄建設の促進を計る観点から、各民間鉄道の出資金の国鉄と東京都への移管が行なわれた。

その他の主な特記事項

  • 1988年春頃(丸ノ内線02系デビュー頃):ドアステッカーを更新。それまでの文字のみの注意喚起のもので、両開き扉車の車両の場合片側扉しか貼られていなかったものから、キャラクターのイラストが書かれている丸いデザインのものへ変更。両側どちらの扉にも貼られるようになる。
  • 1990年
    • 初頭頃:ドアステッカーを更新。ジャパンエキスポ'90開催に伴い、その宣伝の一環としてベースはそのままで、従来のキャラクターのイラストが書かれている下にジャパンエキスポ'90の広告が入った丸いデザインのものへ変更。
    • それまで、ツーマン運転の路線では車掌による肉声車内アナウンスが主流だった中、当時の旅客サービスの一環と車掌の負担軽減のため声優清水牧子を起用した車内自動放送を関東の大手民鉄JR東日本のなかでツーマン運転の路線では関東で初めて導入(当時、すでに東京急行電鉄東横線東急9000系電車が自動放送を導入していたが、当時は人工的に作られた合成の声だったため、声優起用の自動放送としては初)。01系の一部・02系・03系・05系の一部・6000系の一部・7000系の一部・8000系8110編成で使用開始。それ以外の車種・編成については肉声車内アナウンスのままだった。
    • この年から自動改札機の本格的導入開始。
  • 1991年:
    • ドアステッカーを更新。従来のキャラクターのイラストがネコのキャラクターがドアに挟まれているデザインのものへ変更。南北線開通直後までは、その下に「営団地下鉄では平成2年度から5年計画で全駅に自動改札を設置いたします。」と自動改札機導入を知らせる注意書きを表示していた。このネコのキャラクターがドアに挟まれているデザインのものは営団最終日・2004年3月31日まで10年以上にわたり使用され、東京メトロ化後もS 営団地下鉄の表記を削除したうえで、2007年まで使用されていた。
    • それまで車内自動放送の言いまわしが「次は○○、○○でございます。」だったものが南北線開通に伴い運用開始した9000系より「まもなく○○、○○です。」へ変更。翌年までに全線において更新された。
    • 同時に制服を営団としては最後の変更。
    • それまでのいわゆる、パタパタ式や方向幕式と呼ばれていた行き先の表示しかできないホーム行先案内表示機に代わって、南北線を皮切りに発車時刻表示対応のLED式ホーム行先案内表示機の導入開始(ただし、一部の駅では表示をLEDにはしたが、従来型のタイプを踏襲したものを使用。
    • 南北線を皮切りにそれまでの旧型の垂直のボタン式券売機から、高さが低くなり傾斜があるボタン式券売機への交換を開始(これは東京メトロ化後も交換がしばらく完了せず、垂直のボタン式券売機は2005年まで現存していた)。
  • 1994年:LED式ホーム行先案内表示機への全駅の交換が完了。
  • 1995年:自動改札機の全駅への導入完了。
  • 1996年:営団全線全車種・車両で完全冷房化100%を達成[6]。同時に丸ノ内線においてトンネル冷房の使用を中止。中村総裁時代までは当初1998年・1999年頃を目処に完全冷房化をめざしていたが、その矢先に永光へ交代。方針を一新。いわゆる、鶴の一声により当初の予定を大幅にずらし前倒しした上で丸ノ内線の当時の新形式02系大量増備を1994年に一斉に行った。

歴代総裁[編集]

  • 原邦造:1941年7月3日 - 1944年6月20日
  • 喜安健次郎:1944年6月21日 - 1946年7月9日
  • 鈴木清秀:1946年7月9日 - 1961年7月8日
  • 牛島辰弥:1961年7月9日 - 1970年4月1日
  • 荒木茂久二:1970年4月1日 - 1978年7月14日
  • 山田明吉:1977年7月15日 - 1983年7月14日
  • 薗村泰彦:1983年7月15日 - 1986年7月15日
  • 中村四郎:1986年7月15日 - 1991年7月14日
  • 永光洋一:1991年7月15日 - 1996年7月14日
  • 寺嶋潔:1996年7月15日 - 2000年6月29日
  • 土坂泰敏:2000年6月30日 - 2004年4月1日

4S[編集]

営団の団章(シンボルマーク)はSを図案化したものとなっており、地下鉄 SubwayのSのほかに以下の4つのSのつく語 (4S) を意味し、営団の基本理念だった。

  • Safety 安全
  • Security 正確
  • Speed 迅速
  • Service サービス

営団発足から1960年(昭和35年)までは、丸にトンネルの断面とレールを配したものが団章として使われていた。Sマークは営団初の新規開業路線である丸ノ内線開業前年の1953年(昭和28年)12月1日に、宣伝・広告・電車車体に使用する記章として制定され、1960年(昭和35年)3月1日より正式に団章となった。

東京地下鉄への移行の際に、この「Sマーク」の団章を継続して欲しいという意見が多数あったが、結局メトロ (METRO) のMを抽象・図案化した「ハートM」のシンボルマークを採用した。ただし、この団章の日本での商標権は現在も東京地下鉄が保有している[7]。また、「帝都高速度交通営団」「営団地下鉄」も民営化直前に日本において商標登録を出願し、民営化後に登録されている[8]

サインシステム[編集]

営団は日本の鉄道事業者として初めて、サインシステム(案内標識のシステム化)を導入した事業者である(1973年5月に千代田線大手町駅に導入)[9]。それまでは案内サインの様式が全く統一されておらず、大量の文字情報が無秩序に羅列されているような状態だったが、それを外部の専門家に委託し下記のようにシステム化した[9](参考:実際に導入された案内サイン)。案内サインの表示書体にはゴシック4550が使用された[10]

  • 白地に黒文字を基本として(方向指示の矢印は黒色の正方形を地の色で抜いたもの)、改札口のカラーを緑色、出口のカラーを黄色とし、遠くからの視認性を高めるため表示板が通路を左右に横断するような形で掲示した。
  • 路線ごとのラインカラーで色付けした○印の路線シンボルを設け、路線名の表示には必ず付すようにした。
  • 改札口・出口付近には地下構内図と地上周辺地図を同一の図面内に一体化した、2メートル角の図解サインを配置した。
  • ホームに降りる階段の上部垂れ壁には路線の停車駅案内を表示し、案内を読むために階段の途中で立ち止まることが無いよう文字を大きくした。
  • ホーム上には柱付け型の乗り換え路線案内を15メートル間隔で配置した。

また、今まで目立つ場所にあった広告や広告とタイアップした案内サインを撤去し、そこにサインシステムに基づいた新たな案内サインを設置しようとしたため広告収入の減少が見込まれたが、旅客案内を最優先とした[10]。その代わりに列車車両内に新たな広告媒体を設けることで、広告代理店などの了解を取り付けている[10]

このようにシステマチックに構築された営団地下鉄のサインデザインは、1989年の「'89デザインイヤー記念日本デザイン賞」を受賞し、出口のカラーとして用いた黄色は、1995年に出口明示色としてJIS規格化された[9](ただし、サインシステム導入前の営団大手町駅・銀座駅[9]や1964年の東海道新幹線開業時の東京駅[11]のように、すでにいくつかの鉄道事業者において出口に関する案内サインに黄色が用いられていたことに倣ったものであり、1973年の営団のサインシステムが出口を示すために黄色を用いた最初の例というわけではない[10])。

営団では、サインシステムを「一種の公共財」と考え、大手町駅でのサインシステム導入後に完成したマニュアルを全国各地の地下鉄事業者に無償で配布し、京都名古屋札幌福岡などの各都市の地下鉄がそれを参考にサインシステムを構築したといわれる[9]

しかしながら、公営企業特有の質素さ・合理性が強く表れた営団地下鉄のサインシステムは、民間企業となった東京地下鉄には民営化直後を除いて引き継がれず、紺地に白文字をベースとする新しいサインシステムが導入され、既存の案内を順次置き換えた(ただし、現在でも一部で営団時代のサインシステムが残っているところもある)。

新サインシステムでは、路線シンボルを表示する際には紺地を白抜きにした上で、○印とアルファベットの路線記号を表示しているため、デザイン的に煩雑で、○印のサイズも小さくなり、視認性が低下しているとの意見もある[9]。また、東日本大震災以降特に見られるようになった、節電のためのサイン消灯の実施の際には、紺地と白文字では「文字の識別が極めて難しくなった」という指摘も存在する[12]

路線[編集]

(2004年3月31日時点・初区間の開業順)

車両[編集]

既に営業運行を終了した車両も含む。

  • 銀座線
  • 丸ノ内線
  • 日比谷線
    • 3000系(1994年運行終了。一部は長野電鉄に売却され3500系として運用されているが、運用を離脱した2両編成1本が東京地下鉄で保存するために返却された)
    • 03系(東京地下鉄が継続保有)
  • 東西線
    • 5000系(東京地下鉄が一部継続保有、2007年運行終了。一部が東葉高速鉄道に売却され、1000系として運行していたが2006年運行終了。営団車、東葉車共に一部がインドネシアPT Kereta Apiに売却)
    • 05系(東京地下鉄が継続保有。 一部編成は民営化後に製造、また初期車に15000系の代替として廃車が発生し、海外に輸出された編成も存在する)
  • 千代田線
    • 5000系(綾瀬 - 北綾瀬間運転用。東京地下鉄が継続保有、2014年運行終了)
    • 6000系(東京地下鉄が継続保有。なお、16000系の導入により、廃車が進んでいる、一部では海外にも輸出されている)
    • 06系(東京地下鉄が継続保有、2015年運行終了)[13][14]
  • 有楽町線・新線(現 副都心線)
    • 7000系(東京地下鉄が継続保有。10000系の導入により3次車を中心に廃車が発生し、一部では海外にも輸出されている)
    • 07系(東京地下鉄が継続保有。現在は全車が東西線に転属)
  • 半蔵門線
    • 8000系(東京地下鉄が継続保有)
    • 08系(東京地下鉄が継続保有。営団としては最後の新形式車両)
  • 南北線
    • 9000系(東京地下鉄が継続保有。一部編成は民営化後に製造されている)

事故[編集]

1968年(昭和43年)1月27日 日比谷線六本木駅 - 神谷町駅を走行中の東武鉄道2000系回送列車が火災で運転不能となり、6両中1両が全焼、1両が半焼。乗務員と消防士11名が負傷した。乗客は、床下からの発煙が認められた六本木駅で全員降ろされたために無事であった。

1972年(昭和47年)11月27日 同じく日比谷線の下り電車が広尾駅手前600 mの地点で異常停止、起動不可能となり同駅で運転を打ち切った後、側線での点検中に床下機器から出火。職員の慎重な判断により死傷者は出ていない。この事故は、同年同月の6日国鉄が起こした北陸トンネル火災事故の直後のもので、同事故と明暗を分ける形になった。

1978年(昭和53年)2月28日 東西線葛西駅 - 南砂町駅(当時西葛西駅は未開業)の荒川中川橋梁上にて竜巻の直撃を受け車両が脱線・横転する事故が起きており、20数名が負傷した。

2000年(平成12年)3月8日 日比谷線中目黒駅付近で電車がせり上がり脱線を起こし、対向電車と衝突し大破した。死者5名。「営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故」を参照。営団地下鉄が原因となった事故で、旅客の死亡を生じたのは後にも先にもこの一度のみである。ただし、職員のみの死亡事故ならば、1998年(平成10年)3月11日千代田線代々木公園駅 - 代々木上原駅間にて線路上を背行歩行していた職員4人のうち3人が営業運転終了後の回送電車にはねられ死亡する事故が起きている。

重大事件[編集]

1963年(昭和38年)9月5日、一連の「草加次郎事件」中、最も重大な事件となった「地下鉄銀座線爆破事件」が発生した。銀座線京橋駅に到着直後の列車最前部座席下(車両最前部まで座席を持つ、半室運転台構造の戦前型車であった)に仕掛けられた手製の時限爆弾が爆発。乗客13名が重軽傷を負った。翌日女優吉永小百合宛に、草加次郎名で100万円を要求する脅迫状が送付されるが、未遂に終わり、以後行方をくらました。犯人は検挙されないまま1978年(昭和53年)9月5日に時効が完成した。

1995年(平成7年)3月20日、「地下鉄サリン事件」が発生した。日比谷線丸ノ内線千代田線などに、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、5,510人が重軽傷を負った。銀座線東西線半蔵門線も当日午前中は運休した。詳細は「地下鉄サリン事件」を参照のこと。

営団の廃止・株式会社化[編集]

帝都高速度交通営団(以下、営団)の民営化については、1995年(平成7年)の閣議で南北線もしくは半蔵門線が完成した頃を目途に、第一段階として特殊会社化する方針を閣議決定した。その後、2001年(平成13年)12月に当時の小泉内閣が約160あまりの特殊法人・認可法人を対象とした特殊法人改革基本法を閣議決定し[15]、その中で営団を半蔵門線延伸開業後の翌年である2004年(平成16年)春に特殊会社化することを決定した。

このような民営化は国鉄分割民営化と比較されることがあるが、日本国有鉄道の場合は、巨額の債務によって実質的に経営破綻を起こしていたのに対し、営団は日本国政府行政改革の一環として、特殊法人改革を行っていたことに由来する。そのため経営には問題はなく、また地下鉄建設というインフラストラクチャー整備の必要性が残っており、民営化には反対意見が多かったが、高速道路建設の必要性があった首都高速道路公団も民営化されるため、営団も例外とせず民営化の対象とした[16]。同法案作成時に新会社名を「東京地下鉄株式会社」と定めたことから新会社名もこの段階で事実上決定した。

新会社では、新株発行・代表取締役選定など、重要な事項に関しては、行政機関との協議・認可が必要であるが、事業計画・決算は国(国土交通大臣)への報告のみとなる。またそれ以外の関連事業・社債募集などは、営団時代では国の認可が必要であったが、新会社ではこれが不要となる。その他、発足段階では日本国政府と東京都が新会社へ出資(出資率は国が53.4%、都が46.6%)しているが、将来的には全株式上場させ、完全民営化させる計画になっている。しかし、株式上場の見通しは、東京都東京都知事の意向で全く立っていない。

出典[編集]

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  1. ^ 鉄道省→運輸通信省→運輸省→国土交通省
  2. ^ 帝都高速度交通営団法第一条
  3. ^ メトロカード
  4. ^ 沿革
  5. ^ 日本共産党地下鉄委員会
  6. ^ 鉄道ジャーナル』第30巻第8号、鉄道ジャーナル社1996年8月、 91頁。
  7. ^ 日本第3077244号、第3098355号、第3102904号
  8. ^ 日本第4796893号、第4796894号 権利者東京地下鉄株式会社
  9. ^ a b c d e f 赤瀬達三『駅をデザインする』ちくま新書、2015年
  10. ^ a b c d 藤岡長世 公共交通のサイン計画――営団地下鉄のサイン計画を通じて―― 公益財団法人国際交通安全学会 2015年4月13日閲覧
  11. ^ 東海道新幹線開業前後 2015年4月11日閲覧
  12. ^ 東京メトロに思う未熟なサイン計画。 2015年3月24日閲覧
  13. ^ 【東京地下鉄】06系、新木場へ - 鉄道ホビダス RMニュース、2015年8月13日
  14. ^ 東京メトロ06系の解体が始まる - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp鉄道ニュース 2015年9月25日
  15. ^ 鉄道ジャーナル 2003年3月号 (No.437) P.103 東京地下鉄株式会社 (RJ ESSENTIAL)
  16. ^ 鉄道ジャーナル 2004年7月号 (No.453) P.59 東京の地下鉄と一元化論

参考文献[編集]

  • 帝都高速度交通営団編 『営団地下鉄五十年史』 帝都高速度交通営団、1991年7月。
  • 東京地下鉄株式会社編 『帝都高速度交通営団史』 東京地下鉄株式会社、2004年12月。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

関連項目・人物[編集]