古舘伊知郎

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ふるたち いちろう
古舘 伊知郎
プロフィール
愛称 いっちゃん
出身地 日本の旗 日本 東京都北区
国籍 日本
生年月日 1954年12月7日(61歳)
血液型 AB型
最終学歴 立教大学経済学部経営学科
勤務局 フリーアナウンサー
所属事務所 古舘プロジェクト
職歴 テレビ朝日アナウンサー
活動期間 1977年 -
配偶者 あり
家族 長男:古舘佑太郎
出演番組・活動
過去 夜のヒットスタジオ
おしゃれカンケイ
クイズ赤恥青恥
筋肉番付
NHK紅白歌合戦
報道ステーション』 など
その他 プロレスF1などの実況

古舘 伊知郎(ふるたち いちろう、1954年12月7日 - )[1]は、日本フリーアナウンサータレント司会者ニュースキャスター古舘プロジェクト所属。元テレビ朝日アナウンサー東京都北区出身。北区立滝野川第二小学校、千代田区立今川中学校(現:千代田区立神田一橋中学校)、立教高等学校(現:立教新座高等学校)、立教大学経済学部経営学科卒業。

経歴[編集]

1977年全国朝日放送(現:テレビ朝日、採用試験時はNETこと日本教育テレビ)にアナウンサーとして入社。面接にて広辞苑丸暗記という特技を披露し、採用される。同年7月には『ワールドプロレスリング』担当に配属され、越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビュー。入社1年目のアナウンサーが実況デビューするのは極めて異例だが、この理由は3年後に控えたモスクワオリンピックをテレビ朝日が独占中継することになり、プロレス中継の担当アナウンサーが手薄になったためである。

1980年からは『ワールドプロレスリング』で山本小鉄とコンビを組む。「おーーーーーっと!」「燃える闘魂」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な表現は「過激実況」と呼ばれ、アントニオ猪木全盛期、新日本プロレスの黄金期を支えてきた。また、大発行部数を誇る週刊少年マガジンで連載される「異能戦士」にフルタチのキャラで頻繁に登場し、プロレスファン以外にも知られる存在となった。なお、フリーになるかならないかの頃に、フジテレビオレたちひょうきん族』の1コーナーである「ひょうきんプロレス」に覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」(宮田輝のもじり)として出演したこともある(「奮い立ち伊知郎」と名乗ったこともある)。しかし、NGを出してひょうきん懺悔室に送り込まれ、水を被り、正体を明かした。

1984年6月にテレビ朝日を退社後、大学時代の友人と芸能事務所「古舘プロジェクト」を設立。フリーになってからは、10年以上に渡ったワールドプロレスリングの実況を1987年3月に勇退、その後の1989年から1994年までのフジテレビF1放送や、競輪における特別競輪(現:GI)決勝戦の実況中継、さらには、自らの一人芝居型講演会「トーキングブルース」(1988年開始)を始め、数々のテレビ番組に出演。そして、NHKと民放キー局5社で全てレギュラー番組を持った。1988年には映画『スウィートホーム』、1991年にはNHK連続テレビ小説君の名は』に出演し、俳優業にも挑戦した。また、テレビ朝日『ニュースフロンティア』(1991年4月 - 1994年3月)という『ニュースステーション』のオンエアが無い土曜日の23時から放送されていた報道番組も一時期担当した。1994年 - 1996年には、NHK『NHK紅白歌合戦』の白組司会を担当、史上初の民放のアナウンサー出身の紅白司会者となった[2][3]

1987年7月、結婚。妻はJALの元客室乗務員である[4]

プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年のフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会抜擢であった。当時民放各局に乱立していた音楽番組の中でも抜きん出た格上の番組であり、そこにフリー転身から1年しか経たない古舘が抜擢されたことについて、当時の視聴者から危惧の声が上がっていたようだが、その当初の視聴者の反応も、当時の『夜のヒットスタジオ』の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。1988年に芳村は番組を勇退し、古舘自身も独立早々の苦境の時に最初に使って貰ったという恩義から、『夜のヒットスタジオ』、そして芳村に対しての強い敬意の念を抱いているようである(『SmaSTATION!!』に出演した際にこの点については述べている)。古舘の結婚式の仲人は芳村夫妻が務めており、芳村とは家族ぐるみの親交を続けている。

「トーキングブルース」は後述の事情により2003年を最後に開催していなかったが、2014年に復活することとなり[5]、この模様は同年12月テレビ朝日[6]BS朝日[7]、並びにスカパー!ケーブルテレビテレ朝ch2[8]で放送されることになり、テレ朝ch2では同作品とは別に、過去の講演を抜粋した「トーキングブルースレジェンド」の放送も決まった。

1989年、アントニオ猪木がスポーツ平和党から参議院選挙に立候補した時には、「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」というキャッチコピーで応援した。

世界水泳では2001年の日本・福岡大会と2003年スペインバルセロナ大会を2大会連続で特別実況し、世界陸上では1999年セビリア大会から2003年パリ大会にかけて、女子マラソンの実況を担当した。

2004年4月5日、テレビ朝日にて『ニュースステーション』の後継番組に相当する『報道ステーション』の初代メインキャスター(アンカーマン)に就任[9]。そのため、他局のレギュラー番組やコマーシャル出演を相次いで降板した。以後、後の降板まで仕事は基本的に『報道ステーション』に絞っていた(ただし稀にではあるが、ゲスト出演を行ったり、テレビ朝日の特別番組に出演することもあった)。週刊誌のインタビューについても『報道ステーション』開始後は応じていなかったが、2014年には『AERA』(七月十四日号)の取材に応じている。『報道ステーション』担当後も日本テレビおしゃれカンケイ』のみ2005年3月まで出演を継続した(こちらについても『報道ステーション』専念のために降板を示唆し、番組は打ち切りとなった)。

古舘は2006年7月3日放送の日本テレビ『みのもんたの“さしのみ”』へのゲスト出演を最後にテレビ朝日以外での番組出演を2016年6月まで行わなかった。

2015年12月24日に『報道ステーション』の降板を発表。これは「現在のキャスター契約期間が同月で満了すること」と、「自ら新しい挑戦をしたい」とする古舘の意思を尊重してのものである[10]12月24日には降板説明記者会見を開き、「不自由な12年間だった。言っていっていいことと、いけないこと…大変な綱渡り状態でやってきた」「今日もずっとインターネット(の反応)を見ていたら、『古舘降板だってさ。やったぜ!』っていうのがありまして、一番印象に残りました(笑)。『ああ、そういう人はいっぱいいるんだなー』って…そういう人には『よかったですね』と言いたいですし、『育ててくれてありがとう』とも言いたいです」などと記者団に向かって質疑応答をした[11][12]。後任はテレビ朝日アナウンサーの富川悠太

2016年3月31日の放送日を以って、『報道ステーション』を降板。

同年6月、トークライブ「トーキングフルーツ」で活動再開。

『報道ステーション』降板後初めて応じたインタビューにおいて、今後についてエンターテインメント分野中心の活動を宣言し、2020年夏季オリンピック開会式の実況や紅白司会への再登板を目標として語った。同時に「報道のど真ん中はもうやらないし、やれない」としつつ「いつかニュースのサイドストーリーを扱ったような新しい番組をやりたい」とも語った[13]。また、古舘の『報道ステーション』降板が表明された前年末時点において、『アサ芸プラス』(同年12月31日付)が「古舘が2016年の『第67回NHK紅白歌合戦』の総合司会を狙っているのでは?」と報じている[14]

人物・エピソード[編集]

いずれも立教大学の先輩である徳光和夫(元日本テレビアナウンサー)やみのもんた(元文化放送アナウンサー)に憧れてアナウンサーになった。アナウンサー希望で就職活動を始めた頃にNHKの就職試験を受けたことがある。 1984年2月11日、前年の引退からの復帰を宣言していた初代タイガーマスクが興したタイガージムのジム開きパーティに、「年来の友情」から、アナウンサーの立場を離れた「個人の資格」で参加し、司会を務めた。ザ・タイガーへの改名や、山崎一夫新日本プロレス離脱&インストラクター就任などがその場で発表されたのだが、古舘の出席はテレビ朝日でも新日本も問題視しなかった。これは、テレビ朝日退社が既に公然の事実だったのと、「古舘は新日本および猪木に対して不利益なことはしないだろう」という信頼感による部分が大きかった。

1991年、古舘の実姉がで他界する不幸に見舞われた。この時、逸見政孝(元フジテレビアナウンサー)は、フリーアナウンサー同士で身内を癌で亡くしたという同じ経験を持つことから古舘にお悔やみの手紙を送った。ここから2人の間に交流が生まれ、逸見が癌で闘病中、古舘が日本テレビ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の司会を代行している[15]

2012年5月28日、自身の母親が死去した。実姉と同じく癌によるものだった。古舘は母親の入院先について、実姉の入院時と同じ病院を選んだ。『報道ステーション』で多忙を極める中、実姉の時以上に、献身的に看病したという。同日夜、『報道ステーション』開始の数時間前に母親は息を引き取り、古舘は番組の打ち合わせ中にこれを局内で聞いたという。このため、実姉の時と同様、仕事で母の最期を看取ることはできなかった。その直後、母親が亡くなってから数時間後に始まった『報道ステーション』の生放送では、いつもと変わらぬ様子で、淡々とニュースを伝えた[16]

THE ALFEE高見沢俊彦とは親友で、高見沢は古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。「古舘伊知郎のトーキングブルース」のステージで使用する楽曲の提供を毎年行っており、それらをまとめたCDアルバムが発売されている。また、テレビ朝日時代の同期の南美希子も古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。また、「夜ヒット」で司会者として共演した芳村真理(上記の通り、古舘夫妻の結婚式の媒酌人も務めた)や加賀まりこからは「伊知郎さん(または伊知郎ちゃん)」と呼ばれている(但し両者ともにこの呼び名で古舘を呼ぶのは番組出演以外の場のみで番組共演時は主に「古舘さん」の呼称を使っていた)。

叔父は、ラジオ時代の大相撲中継のアナウンサーだった。その叔父に憧れてアナウンサーの道を進んだという[17]

フジテレビF1中継を担当していた頃には、フジテレビ側にクレームが殺到したことがある。1992年にはとんねるず石橋貴明がゲスト出演した際に共にアイルトン・セナ贔屓が過ぎたため、当時のF1雑誌にも読者から「石橋と古舘の発言は酷過ぎだ」というクレーム掲載もあった。

1994年1995年の紅白において、両軍司会コンビを組んだ上沼恵美子とは、この共演が原因で確執が生じたとされる。1996年の紅白における両軍司会もこの2人を起用する方向で話が進み、古舘は続投したが、上沼は古舘との確執を理由に拒否したと伝えられている(紅組司会は松たか子に交代)[18]

2003年、『ニュースステーション』のメインキャスターを務めた久米宏は「後を受け継ぐ古舘さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際(久米の『ニュースステーション』降板表明会見より)、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し古舘は先述した『AERA』のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った。ただし、その後久米は「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[19]

  • また、久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[20]

2012年9月、『週刊文春』で行われたメルマガ読者による「嫌いなキャスター」のアンケートで、2位のみのもんたに大差をつけて1位を獲得するなど、『報道ステーション』のメインキャスター時代においては古舘に対する賛否両論は激しいものがあった[21]

本人が1番好きなテレビ局は古巣で『報道ステーション』を受け持ったテレビ朝日だと発言している。なお、テレビ朝日を退社した際、局内から一切引き止めがなく、寂しい思いをしたと語っている[22]

2005年4月 - 2016年3月に古舘が『報道ステーション』以外の番組への出演をほとんど行わなかった理由について、テレビ局関係者は「報道キャスターというイメージを守らなければならないなど様々あります。売れっ子である古舘を1番組だけに絞られると、当然、事務所側としては収益が少なくなる。その見返りとしてなのか、事務所が丸々『報ステ』の制作を請け負っている。これは、事務所にとっては大きい。所属事務所の「古舘プロジェクト」は、構成作家など制作陣も抱えていますからね。1回の放送で3000万〜4000万円、事務所に入っているのではないでしょうか。一説には、6000万円という声もあります。ロケからニュース原稿作りまでほとんど事務所所属スタッフを使っていますからね。だから、古舘は他の番組をやる必要がないわけですよ」と語っていた[23]

『報道ステーション』を受け持った時期の年収は、同番組以外からの物を含めて5億円程度とされる[24]

報道ステーション関連[編集]

『報道ステーション』時代は、「左派」の姿勢に偏った発言やコメントを番組中で発言することが多く、特に保守派タカ派のメディア・文化人・評論家からは度々辛辣な批判をされることが多かった。

例えば産経新聞は、古館在籍時の『報道ステーション』の普天間基地移設問題への報道に対し、「両論併記」「報道しない自由」という語を用いて批判し[25]、パリのテロ事件とISへの報道に対し、週刊新潮「『イスラム国と話し合え』という綺麗事文化人」を引用し批判した[26]。さらに視聴者から「偏向報道」の指摘された『報道ステーション』(古舘)がアリバイ工作をしている、とも報じた[27]

また、それらに古館自身の主観や価値観を絡めての発言やコメントも数多くあったため、それも拍車をかけることも多かった。

その一例としては、2008年6月3日、自民党役員連絡会前に出席者らが談笑している映像が流れ、後期高齢者医療制度に絡め「よく笑っていられますね。偉い政治家の人たちは」と発言したことで、自民党から「あたかも後期高齢者医療制度の話で自民党役員が笑っているとの誤解を与える報道の仕方である」と批判され、党役員会などの撮影の無期限禁止を番組に通知された。同月9日、古舘は番組内にて「確かに後期高齢者医療制度について話し合って笑っている映像ではない。そのように受け取られた視聴者の皆様方がいらっしゃるとすれば、それは私の本意ではありません」「(私が発言した意図は)今、国政全般にわたって政治家の人達が笑っていられる局面など何一つないということなんだと」と番組中に釈明した[28]

2012年3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)発生から1年の節目にあたることから放送された『報道ステーション』特別版のエンディングで、前年末の番組が、福島第一原発が津波で壊れたのではなく地震によってどこかが損壊していたのではないかと追及したことを紹介し、その上で「今回このスペシャル番組でその追及をすることはできませんでした」と語った。さらに、日本には原子力村という村が存在し、産業がない地域が積極的に原発を誘致したと指摘した後、「その根本を徹底的に議論しなくてはいけない。私は日々の『報道ステーション』の中でそれを追及していく。もし圧力がかかって番組を切られてもそれは本望です」などと語った[29]

『報道ステーション』のメインキャスター時代、視聴者から毎日自身のもとへ100件以上の電話・メール(本人曰く「95%以上が誹謗中傷」)が寄せられていたという。そして、それら全てに目を通していることを明かしていた[30][31]

古舘最後の出演となる2016年3月31日放送の『報道ステーション』では、番組終盤に約8分間に渡って視聴者に向けてあいさつした。古舘は降板理由について「窮屈になってきました」と明かした上で「自分なりのしゃべりや言葉で皆さんを楽しませたいというわがままな思いが強くなった」と告白。続けて「巷でですね、何らかの圧力がかかってやめされられるということでは一切ございません。それが真相です」と安倍政権放送法遵守を求める視聴者の会からの圧力説を否定した。

また、平和安全法制福島原発事故甲状腺がんの因果関係など、意見が対立している問題で一方の立場のみを代弁するような古舘の報道姿勢に批判があったことについては、「空気は一方向に流れがち。だから、誰かが水を差さなければならない」という古舘がかつて読んだ本の一文から引用した文言を述べた上で「人間は少なからず偏っている。情熱を持って番組を作れば多少は番組は偏るんです」とそれらの報道姿勢を貫いた自身の理念を説明した上で、最後は立ち上がり「死んでまた再生します。みなさん、本当にありがとうございました!」と深々と頭を下げ12年のメインキャスター生活のピリオドを打った。テレビ朝日早河洋会長は同年3月、「(報道姿勢が)一方的だったかというと、それは古舘氏個人というより番組の未熟な点だった」と古舘を擁護していた[32][33]

自身のキャスター就任が決まった際、前任(前番組)司会者の久米から冷たい対応をされた時とは対照的に、自身の後任の富川アナに対しては、過去の仕事ぶりを褒め称え、視聴者にも「よろしくお願いします」と呼びかけるなど、熱いエールを送った[34]

報道ステーション降板後、2016年5月31日付の朝日新聞朝刊でインタビューに応じた古館は「僕に直接、政権が圧力をかけてくるとか…はまったくなかった」「画面上、圧力があったかのようなニュアンスを醸し出す間合いを、僕がつくった感はある」と告白した[35]

出演・作品など[編集]

過去の出演番組[編集]

司会・実況など[編集]

テレビドラマ[編集]

コマーシャル[編集]

舞台[編集]

  • 「トーキングブルース」(1988年 - 2003年、2014年)
  • 「トーキングフルーツ」(2016年)

映画[編集]

ウルトラマンと怪獣の名勝負を実況中継
ホラー映画。テレビ取材班のカメラマン田口亮 役を担当。山城新伍伊丹十三宮本信子らと共演。

アニメ[編集]

実況アナウンサー役

書籍[編集]

レコード・CD[編集]

漫画原作[編集]

光文社漫画雑誌ジャストコミックで、以下の連載の原作を手がけた。

スポーツ実況[編集]

自らの実況スタイルを「亜流」と称するように、数々のキャッチコピーを編み出した。あらかじめ考え抜いた言葉を幾つも用意し、本番に臨んでいる。特に地方会場からの実況の場合を中心に、その土地にちなむ歴史偉人産業などの紹介をしそれを登場しているプロレスラーや技などにこじつけて実況するのも古舘流。特にCMに入る前に話す「この番組は金太郎足柄山で有名な南足柄市市立体育館より実況生中継でお送りしております」などは恒例。

また、新日本プロレスがメキシコ遠征した際、『ワールドプロレスリング』で何試合も連続して実況を担当した古舘は、高地であるメキシコ特有の暑さと息苦しさも手伝ってハイな状態となり、この時一度だけプロレス実況における「恍惚の極みに達した」と語っている。

プロレスやF1の実況ではレスラーやドライバーのキャッチコピーに『顔面』というフレーズを多用していた。

ワールドプロレスリング[編集]

レスラー
  • 「1人というにはあまりにも巨大すぎ、2人というには人口の辻褄が合わない!」「人間山脈」「ひとり民族大移動」「現代のガリバー旅行記」「戦うギネスブック」(アンドレ・ザ・ジャイアント
  • 「超人」「現代に甦ったネプチューン」「美しき殺人兵器」(ハルク・ホーガン
  • 「ディアチェのブロンズ像の様な肉体」(藤波辰巳の均整の取れた筋骨隆々の上半身の形容)
  • 「筋肉の終着駅」(デイビーボーイ・スミス、これ以上の筋肉の隆起は無い→終着点)
  • 「マシュマロマン」「戦うひよ子のお菓子」(キングコング・バンディ
  • 「キックの千手観音」「黒髪のロベスピエール」「肉体のローマ式 戦車」(前田日明
  • 「わがままな膝小僧」「地獄のタップダンサー」「戦うジェームズ・ディーン」「青春のエスペランサ」「殺戮微熱青年」(高田延彦
  • 「インテリジェンス・モンスター」「マンハッタン・ターザン」(ブルーザー・ブロディ、元新聞記者という経歴と独自のプロレス哲学を持つことから)
  • 「テキサススーパーロデオマシーン」「ビッグ・テキサン」「牛殺しテクニック」(ディック・マードック
  • 「由井正雪を彷彿とさせる」「放浪の若志士」(長州力の長髪から)

音楽番組[編集]

夜のヒットスタジオ[編集]

1985年10月より、長年司会を担当した井上順の後を受け、4代目の芳村真理のパートナーとして『夜ヒット』の司会に参加。プロレス・F1中継などでの「ワンフレーズ」の手法をこの番組の司会でも多用した。

報道番組[編集]

メインキャスターを務めた報道番組に、『ニュースフロンティア』と『報道ステーション』がある。

報道ステーション[編集]

2004年4月5日から、『ニュースステーション』の後継番組としてスタートした『報道ステーション』の初代メインキャスターを担当。テレビ朝日および『ニュースステーション』を制作していたオフィス・トゥー・ワンは『報ステ』を『Nステ』と全く関係のない別番組としており、制作会社も古舘の所属事務所である古舘プロジェクトに変更になっている。

脚注[編集]

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  1. ^ 「古伊知郎」と表記される場合もあるが、正しくは「古伊知郎」(より正しくは、冒頭の注意書きの通りでもなく、偏がで旁が)である。ただし、新聞ラ・テ欄などは字体の規制があるため前者の表記をする。また、読みは「ふるた」でも「ふるち」でもない。
  2. ^ [1],ZAKZAK,2015年12月24日
  3. ^ 『読売新聞』1994年11月17日付
  4. ^ [2],NEWSポストセブン,2016年1月14日
  5. ^ 古舘伊知郎トーキングブルース2014
  6. ^ テレビ朝日番組サイト
  7. ^ BS朝日番組サイト
  8. ^ 古舘伊知郎 トーキングブルース”. テレビ朝日. 2014年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月26日閲覧。
  9. ^ 古舘は『ニュースステーション』にゲスト出演歴がある。
  10. ^ 古舘伊知郎キャスター「報ステ」降板へ 来年3月いっぱいで(スポーツニッポン2015年12月24日 同日閲覧、古舘キャスター「報ステ」降板 テレ朝慰留も「新しいジャンルに挑戦を」出典・閲覧日同左
  11. ^ (1)報道ステーション「不自由な12年間だった」産経新聞2015.12.24
  12. ^ (3)「古舘降板だってさ。やったぜ!」とのネット反応に「そういう人はいっぱいいるんだなー」産経新聞2015.12.24
  13. ^ [3],産経新聞,2016年6月3日
  14. ^ [4]
  15. ^ [5],マイナビスチューデント,2015年12月26日
  16. ^ http://www.news-postseven.com/archives/20120727_132956.html 女性セブン 2012年8月9日号
  17. ^ 大相撲おもしろ雑学BOOK(大陸文庫)155ページ
  18. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』
  19. ^ 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言。
  20. ^ [6],スポーツニッポン,2016年4月23日
  21. ^ “問題だらけでもテレビ朝日の“夜の顔”に居座る古舘伊知郎”. リアルライブ. (2012年9月29日). http://npn.co.jp/article/detail/25043775/ 
  22. ^ http:///www.tv-asahi.co.jp/ss/175/talk/top.html テレビ朝日『SmaSTATION!!』内「スマトーク」
  23. ^ 『NEWSポストセブン』2013年4月10日号
  24. ^ http://www.news-postseven.com/archives/20140430_254189.html 週刊ポスト 2014年5月9・16日号
  25. ^ [7]
  26. ^ [8]
  27. ^ [9]
  28. ^ “テレ朝古舘コメントで自民党取材締め出し”. 日刊スポーツ. (2008年6月7日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080607-369133.html 2011年1月18日閲覧。 
  29. ^ http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201203120003.html 朝日新聞(2012年3月12日)
  30. ^ http://news.livedoor.com/article/detail/9597981/ LITERA 2014年12月20日
  31. ^ このことを2014年時の『古館のトーキングブルース」や、『報道ステーション』出演最終日においても語っている
  32. ^ 古舘氏、キャスター降板 最後も「偏るんです」”. 産経新聞 (2016年4月1日). 2016年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月26日閲覧。
  33. ^ 古舘氏『報ステ』最後は8分語り締め 「皆さまの支えあったからこそ」と感謝オリコンスタイル2016-03-31
  34. ^ [10],マイナビニュース,2016年4月1日
  35. ^ やっぱり左翼が言う「政府の言論統制」は自作自演だったんだね…古舘伊知郎が白状しちゃったよ産経新聞2016.7.17
  36. ^ 古舘伊知郎のTV出演情報
  37. ^ 古舘伊知郎のTV出演情報
  38. ^ 古舘伊知郎キャスター「報ステ」降板へ 来年3月いっぱいで Sponichi Annex 2016年12月24日閲覧。
  39. ^ 古舘キャスター「報ステ」降板 テレ朝慰留も…本人の意思を尊重 Sponichi Annex 2016年12月24日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]