ジョーダン・グランプリ
エントリー名 |
ジョーダン・グランプリ Jordan Grand Prix |
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チーム国籍 |
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チーム本拠地 |
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主なチーム関係者 |
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主なドライバー |
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以前のチーム名称 | エディ・ジョーダン・レーシング |
撤退後 | ミッドランドF1 |
F1世界選手権におけるチーム履歴 | |
参戦年度 | 1991 - 2005 |
出走回数 | 291 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズ タイトル | 0 |
優勝回数 | 4 |
通算獲得ポイント | 291 |
表彰台(3位以内)回数 | 19 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1991年アメリカGP |
初勝利 | 1998年ベルギーGP |
最後のレース | 2005年中国GP |
ジョーダン・グランプリ(Jordan Grand Prix)は、アイルランド[1]およびイギリスのF1コンストラクター。創設者は元レーシングドライバーのエディ・ジョーダン。
1990年代に活動した新興チームの中では最も成功したひとつで、1991年から2005年までF1世界選手権に参戦し、通算4勝を記録した。コンストラクターズランキング最高成績は3位(1999年)。ヤマハ、無限ホンダ、ホンダ、トヨタといった日本のエンジンサプライヤーの多くからエンジン供給を受けたチームでもある。
歴史[編集]
チーム発足[編集]
アイルランド出身のエディ・ジョーダンが自身のレース活動のために設立したエディ・ジョーダン・レーシング (EJR) が前身。1987年にジョニー・ハーバートを擁してイギリスF3選手権を制覇したのち国際F3000選手権にステップアップ。1989年にはジャン・アレジがチャンピオンを獲得するなどF3000の強豪チームに成長する。同チームにはマーティン・ブランドル(F3)、マーティン・ドネリー、デイモン・ヒル、エディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェンなど錚々たる顔ぶれが在籍した。
国際F3000での活動を1991年一杯で終了する一方、同年にはF1チームのジョーダン・グランプリが誕生し、フォーミュラレースの最高峰へ挑戦することになる。
1991年~1995年 輝かしいデビューと苦難の日々[編集]
1991年[編集]

F1処女作となる191は元レイナードのゲイリー・アンダーソンを中心に開発。オーソドックスながらもアンヘドラル・ウィングなどの流行を取り入れ、アイルランドのレーシングカラーである鮮やかなグリーンにペイントされた「美しいマシン」として評判になった。また、ルーキーチームにもかかわらずフォードワークスのみに供給されていたHBエンジンの旧スペックを獲得した[2]。なお、発表時は「ジョーダン911」と表記されていたが、同名の車種を持つポルシェからの抗議によって「191」に変更されるというエピソードを持っている。
メインスポンサーにペプシコーラ社ブランドの「7up」が付き[3]、富士フイルムやSHOEIなどのスポンサーも獲得した。ドライバーは力量だけではなく持込み資金の額も考慮して、ベルトラン・ガショーとアンドレア・デ・チェザリス[4]と契約した。
シーズン開幕は予備予選 (PQ) からの出場となったが、決して評価の高くなかった2人のドライバーがコンスタントに入賞を果たし、後半戦は本予選組に昇格。フォードのカスタマーチームながらワークス待遇のベネトンを追い回し、時には上回るなど見せ場を作った。メキシコGPでは4位入賞直前でガス欠したデ・チェザリスがマシンを押しながらフィニッシュしたことも話題になった。
ハンガリーGP後にはガショーが傷害事件で投獄されるという不祥事が発生し、代役としてメルセデス・ベンツの秘蔵っ子ミハエル・シューマッハを起用する。シューマッハはデビュー戦のベルギーGPで当時チーム最高の予選7位を記録(決勝ではクラッチを壊し0周リタイア)。このレースの後半にはチェザリスがトップを追い上げる場面もあったが、オイル不足によるエンジンブローでリタイヤした(記録上は完走扱いの13位)。
ジョーダンは金の卵であるシューマッハと長期契約を結ぼうとしたが、F1界の政治力により大騒動の末ベネトンに引き抜かれてしまう[5]。次戦イタリアGPではベネトンから違約金を持ち込んだロベルト・モレノがドライブしたが、わずか2戦で解雇し、アレッサンドロ・ザナルディが最終3戦をドライブした。終盤戦はコスワースとの関係が悪化した影響もあるが、前半の勢いを失ったものの、それでも最終的に13ポイントを獲得。デビューシーズンにコンストラクターズランキング5位という素晴らしい成績を収めた。コスワースとの関係悪化については諸説あるが、コスワースへの支払いが滞納したことが原因というのが有力である。
1992年[編集]
2年目のシーズンは、コスワースが使用できない場合に備え、前年に交渉をしていた日本のヤマハと契約し、V12エンジンの独占供給を獲得。オイルメーカーSASOL社が南アフリカ企業として初めてメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携した。
ドライバーはステファノ・モデナとマウリシオ・グージェルミンと契約。また、テストドライバーに黒澤琢弥が在籍していた。ニューマシン192はギアボックスにF1初の前後の押し引きでギアチェンジができる「シーケンシャル」タイプを導入し[6]、大いに期待されたが、時折速さは見せるものの、V8からV12へのエンジン変更が裏目に出て、ラジエーターの容量不足やギアボックスの信頼性不足に悩まされた。モデナは予選落ちを4回も記録。ポイント獲得も最終戦のオーストラリアGPでの6位入賞(1ポイント)の1回のみと2年目のジンクスに填まる。エンジンのトルク不足を訴えたことでヤマハとの関係も悪化し、長期契約はこの年限りで決裂し、両ドライバーも揃ってF1から離れてしまった。
1993年[編集]
出直しとなる3年目はプライベートメーカーのハートが製作したV10エンジンを搭載。新車193にはセミオートマチックギアボックスとアクティブサスペンションの簡易版である車高調整システムを投入した。
ドライバーは20歳の新人ルーベンス・バリチェロと、前年フェラーリでドライブしたイヴァン・カペリと契約。非力なハートエンジンでの参戦となり苦しいシーズンとなったが、バリチェロは第3戦ヨーロッパGPでは雨の中一時2位を走行、第8戦フランスGPでは予選8位に入り、関係者の評価を上げる。しかし、カペリは資金的な理由と第2戦ブラジルGPでの予選落ちが響いてわずか2戦で解雇となる。後釜として起用したベテランのティエリー・ブーツェンもバリチェロに合わせて作られたモノコックのサイズに体が合わなかったうえ、成績も振るわずに母国ベルギーGPをもって引退。成績不振と資金不足から終盤戦はマルコ・アピチェラ→エマニュエル・ナスペッティ→エディ・アーバインと資金持ち込みドライバーにセカンドシートを切り売りすることとなった[7]。チーム成績は日本GPでのバリチェロ5位、アーバイン6位の2台入賞にとどまった。
1994年[編集]
この年は前年の体制を継続し、初めて2年続けて同じメーカーのエンジンを搭載する。ドライバーもバリチェロが残留し、前年の日本GPでスポット参戦ながら6位入賞を果たしたアーバインがレギュラーに昇格した。
バリチェロはサンマリノGPを大クラッシュにより欠場するも、パシフィックGPで初表彰台、第11戦ベルギーGPで初ポールポジションを獲得するなど活躍。一方、アーバインは開幕戦で多重クラッシュの原因を作ったとして3戦出場停止を受けたため、パシフィックGPでは鈴木亜久里、サンマリノGPとモナコGPではデビューイヤーにドライバーを務めたアンドレア・デ・チェザリスが代わってドライブ。チェザリスはモナコで4位入賞を果たした。
194は191を彷彿とさせるスマートなスタイルを持った車でシャシーのバランスが良く、コーナリング性能に優れており、しばしば上位チームを脅かす活躍を見せた。ただし信頼性は十分とは言えず、この年に投入したセミオートマチックのギアボックスは序盤にトラブルが頻発した。ジョーダンが開発資金の一部を負担をしていたハートV10でワークスエンジンと勝負することは難しく、エンジンの出力不足はいかんともし難かった。しかし中低速を重視したチューニングにすることで、一部の高速サーキットを除いては「プライベーター」エンジンとしては十分な成績を収めることができた。大口スポンサーや自動車会社のバックアップを持たない中で年間28ポイントを獲得し、ランキングは5位に返り咲いた。
1995年[編集]
前年にマクラーレンから契約を解除されたプジョーV10エンジンを獲得。SASOLに代わってプジョーと結びつきが強いトタルがメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携するなど資金面とチーム体制を強化した。ドライバーはバリチェロとアーバインのコンビを継続。
第6戦カナダGPでは2、3位でダブル表彰台を獲得。予選では度々トップ10内のグリッドを確保するが、マシン・エンジンともに信頼性に欠け、いくつかのレースで入賞を逃し21ポイント獲得(ランキング6位)にとどまる。
チームは翌年もドライバーラインナップを変更せずに戦うと発表したが、フェラーリがシューマッハのチームメイトとしてアーバインの獲得を発表。フェラーリがジョーダンから契約を買い取る形で、チームに多額の資金がもたらされた。
1996~1999年 メインスポンサー獲得と上位への進出[編集]
1996年[編集]
メインスポンサーにタバコブランドのベンソン&ヘッジス (BENSON & HEDGES) を獲得し、マシンカラーはシャンパンゴールドに模様替えした。ドライバーはバリチェロに加え、ベテランのマーティン・ブランドルとセカンドドライバー契約をした。
プジョーエンジンはエキゾーストシステムの開発が進んでパワーアップし、信頼性も著しく向上したが、シャシーの開発が思うように進まなかった影響でセッティングが決まらず、22ポイントの獲得にとどまる。ランキングこそ5位に返り咲くが、一度も表彰台に上がることはなかった。
1997年[編集]
エースのバリチェロはスチュワートに移籍し、ブランドルはF1から引退。フォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンとなったラルフ・シューマッハと、前年ミナルディで好走したジャンカルロ・フィジケラという若い2名を起用した[8]。
197のカラーリングも前年度の金色から黄色主体に変更され、フロントノーズにはスポンサーのベンソン&ヘッジスからの要望でスネイク(蛇)が描かれた。円状のインダクションポッドやエレクトリック・デファレンシャルを採用し、プジョーエンジンも信頼性・パワーともにさらに向上し、前年までに比べ大幅な戦力向上を果たした。予選では2台揃ってのトップ10が11回、決勝でも第3戦アルゼンチンGPで3位にシューマッハが入賞するなど表彰台3回を含む入賞12回を記録し、トップ集団での争いを展開した。
しかし、シューマッハの初表彰台はレース途中にチームメート同士が接触した結果で、これを機に2人の関係は一気に冷え込むこととなった。フィジケラはベネトンへの移籍を決意し、チームは契約を盾にベネトンを訴えるも敗訴。また、プジョーがフランスチームのプロストと契約したため、3年目で関係を終えることになった。
1998年[編集]
エンジンはベネトンやミナルディなどとの争奪戦の末、プロストから放出された無限=ホンダV10エンジンを結果的にトレード状態での搭載となる。
ドライバーは2年目のシューマッハと、アロウズから移籍した1996年チャンピオンであるデイモン・ヒル。チーム発足以来初のチャンピオン経験者の加入となった。
198はカラーリングをスネイクからスズメバチに変更したが[9]、前半戦は全く機能せず成績は低迷。デザイナーのゲイリー・アンダーソンはチームを去ることになるが、中盤からマシンの改善に成功。立て続けに入賞を果たし、ついに第13戦ベルギーGPで大波乱の展開を制したヒルが優勝、2位にはシューマッハが入り、チーム初優勝を1-2フィニッシュで果たした。その後もコンスタントにポイントを稼ぎ、最終戦日本GPでヒルがファイナルラップにてウィリアムズのハインツ・ハラルド・フレンツェンを抜いて4位入賞したことでベネトンを逆転し、コンストラクターズ4位を獲得。当時絶対の存在であったトップ4チーム(マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズ、ベネトン)の牙城を崩す殊勲を達成した。
なお、フィジケラと不仲になったラルフと、ラルフの兄ミハエルと数々の因縁を残したヒルとの関係も注目されたが、2人はかなりうまくいっていたという。ただし、ラルフはエディ・ジョーダンと不仲になり移籍を決意、訴えを起こしてウィリアムズに移籍した。
1999年[編集]
ドライバーはシューマッハと入れ替わる形でウィリアムズからハインツ=ハラルド・フレンツェンが加入し、ヒルとコンビを組む。前年途中にティレルから加入したマイク・ガスコインが手がけた199は、パワフルな無限エンジンとバランスのいいシャシーが相まって高い戦闘力を発揮する。
フレンツェンは開幕戦から表彰台に上がるなどコンスタントにポイントを獲得。フランスGPとイタリアGPで優勝し、ドライバーズチャンピオン争いに絡む大活躍を見せた。タイトル挑戦にむけて重要なレースとなったヨーロッパGPでもポールポジションを獲得したが、トップ走行中に電気系のトラブルでリタイアして夢は断たれた。一方のヒルは前年の活躍が嘘のような不振で、地元イギリスGPで引退するのではないかと騒がれた。最終戦までドライブを続けるものチームには貢献できず、ワールドチャンピオン獲得者としては淋しい形での引退となってしまった。
チームは優勝2回で61ポイントを獲得。コンストラクターズ選手権では前年からさらに1つ順位を上げ、プライベーターチームとしては大殊勲の3位を獲得した。
2000年代 成績低下~チーム売却[編集]
2000年[編集]
F1参戦10周年さらなるステップアップを目指したチームは、マシンコンセプトを一新。チーム・オーナーのエディ・ジョーダンのイニシャルと10年目ということからニューマシンはEJ10と名づけられた。エンジンは引き続き無限ホンダを使用する。ドライバーはエースのフィレンツェンに加え、ヒルの後釜としてプロスト・グランプリからヤルノ・トゥルーリを獲得した。
ところが、このマシンは潜在的なポテンシャルを持つものの神経質すぎて信頼性にも問題があり、新シャシーであるEJ10Bを投入したが大きな効果は無かった。さらにガスコインがシーズン中にルノーへの移籍を表明し、開発体制は弱体化した。フレンツェンは表彰台2回、完走6回にとどまり、トゥルーリは予選で速さを見せるものの、表彰台に上がる事は出来なかった。チームは17ポイントしか獲得できず、ランキング6位に後退。無限ホンダとの関係もこの年限りとなり、ここ数年間の上昇ムードに歯止めがかかった。
また、1994年からレースエンジニアとして在籍していたサム・マイケルもウィリアムズへの移籍が決まり、この年限りでチームを去った。
2001年[編集]
無限との契約を打ち切り、多額のリース料を支払ってホンダエンジンを獲得。カスタマー契約ながらB・A・Rと同格のワークス仕様を搭載する。カラーリングはスズメバチからシャーク(鮫)に変更した。ドライバーはフレンツェン、トゥルーリが残留し、前年B・A・Rのレギュラードライバーだったリカルド・ゾンタをテストドライバーに起用した。
ところがシーズン前にエンジニアの大量離脱があり、マシンもエンジンとのマッチングに苦しんだ。ドイツGP直前には突然フレンツェンを解雇。代わりにゾンタを2戦起用した後、プロストからジャン・アレジが加入する。アレジは契約延長を望んだが、ホンダとの関係でチームが佐藤琢磨を起用する意向であったため、最終戦日本GPをもって現役を引退した。
この年の表彰台は無く、前年並みの19ポイントにとどまった。しかしB・A・Rの不振によりランキングは5位に浮上した。
2002年[編集]
前シーズン終了後にベンソン&ベッジスが支援を大幅に縮小。DHLが新たなメインスポンサーとなるも資金繰りが悪化する。イギリスF3チャンピオンの佐藤琢磨と契約を結ぶことで、ホンダからのエンジン使用料の大幅減額の恩恵を受けるも、資金不足の影響でテストもままならなかった。ドライバーはトゥルーリと入れ替わる形でジャンカルロ・フィジケラが復帰した。
フィジケラと佐藤は健闘するものの、エグバル・ハミディが設計したEJ12の開発が進まず成績不振。シーズン途中からゲイリー・アンダーソンがチームに復帰するものの、年間通じてわずか9ポイントしか獲得できなかった。最終戦日本GPで佐藤が5位初入賞した2ポイントで6位を確保したが、資金難に伴いシーズン中には60名におよぶスタッフの解雇を実施し、チーム力はさらに低下していく。
2003年[編集]
タイトルスポンサーだったDHLが前年限りで撤退し、これまでチーム規模を拡大してきていたことも災いして、一気に財政危機に陥る。ホンダエンジンも大幅減額が廃止されたため使用継続を断念し、使用料が安い(実質無料とも言われた)フォード・コスワース・RS1を使用することとなった[10]。ドライバーはフィジケラが残留し、佐藤に代わってフォーミュラ・ニッポン前年チャンピオンのラルフ・ファーマンと契約した。イギリス人のファーマンと契約することでベンソン&ヘッジス社からの支援額が若干上乗せされはしたものの、資金不足は改善せず、EJ13はバランスが良いオーソドックスなマシンだったが、資金不足と非力なカスタマーエンジンでは苦戦、ミナルディと最下位を争う位置まで後退してしまう。その苦境の中、ブラジルGPでは雨絡みの荒れた展開の中でフィジケラが奇跡的な初優勝を達成した(同時にこれがチーム最後の優勝となった)。この勝利以外は入賞2回で、前年を上回る13ポイントを獲得したがランキングは9位に後退した。
2004年[編集]
エディ・ジョーダンは資金難に喘ぐチームの売却を検討しながら参戦。前年同様フォード名義のエンジンをコスワースから供給を受ける。ドライバーは一新し、フィジケラと入れ替わる形でザウバーからニック・ハイドフェルドが加入。セカンドドライバーはジョルジオ・パンターノ(1〜7,9〜15戦)とティモ・グロック(8,16〜18戦)を起用した。
マシンはミナルディを上回るのが精一杯で、入賞は3回(ハイドフェルド2回、グロック1回)、計5ポイントでランキングは9位のままだった。ハイドフェルドは走らないマシンながらも健闘し、その実力が認められ翌年からウィリアムズに移籍する。
2005年[編集]
2005年1月24日に、アレックス・シュナイダー率いるミッドランドグループへのチーム売却を発表。同時にオーナーのエディ・ジョーダンがチームを去ったが、登録上このシーズンは「ジョーダン・グランプリ」名義のまま戦うことになる。エンジンはフォードのF1撤退を受け、トヨタからカスタマー仕様の供給を受けた。ドライバーはティアゴ・モンテイロとナレイン・カーティケヤンというルーキー2名。
ジョーダン最後のマシンとなったEJ15の信頼性は高く、モンテイロは19戦中18完走(開幕から16戦連続完走)という記録を残す。アメリカGPではタイヤトラブルの影響でミシュランユーザー全てが決勝スタート前に棄権(事実上のレースボイコット)。ブリヂストンユーザーのみで争われたレースで、フェラーリの2台に続いてモンテイロが3位初表彰台、カーティケヤンが4位という望外の好成績を収めた。このほかモンテイロがベルギーGPで8位入賞し、ランキングは9位のままながらも12ポイントを獲得した。
この年限りで14年間にわたるジョーダン・グランプリの歴史に幕を閉じ、2006年にはチームの名称がミッドランドF1 (MF1) に変更された。その後もチームの本拠地や主要スタッフは変わらないものの、2007年にはスパイカーF1、2008年にはフォース・インディア、2018年シーズン途中でレーシング・ポイント(2021年以降はアストンマーティンへ改称)へと次々に売却され、オーナーを変えながらF1に参戦している。
新人発掘[編集]
ジョーダンはミナルディやザウバーとともに新人ドライバーの発掘に秀でていると言われていた。
EJR時代には、F3でアイルトン・セナ(テスト走行)やジョニー・ハーバートを、国際F3000ではジャン・アレジやエディ・アーバインを輩出している。
F1においても、1991年にベルトラン・ガショーがシーズン途中に逮捕された際にミハエル・シューマッハを代役[11]という形で起用してデビューさせたチーム(次戦で早くもベネトンに奪われることとなったが)となった。他にも1993年にはルーベンス・バリチェロのデビューさせ、同じ年にスポット参戦でデビューしたエディ・アーバインをそのまま1994年のフル参戦の契約の締結。1997年にはラルフ・シューマッハをデビューさせると共に前年ミナルディでF1デビューをしていたジャンカルロ・フィジケラを抜擢するなど、後の有力ドライバーを続々と輩出している。佐藤琢磨も2002年にジョーダンからデビューしている。
経営姿勢[編集]
エディ・ジョーダンによる経営姿勢だが、1991年のフォード・コスワース・HBエンジンの旧スペックの獲得を筆頭に彼の手腕によってチームが繁栄した時期があったのも事実だが、同時に「とにかくケチ」「金払いが悪い」とう点が欠点として挙げられる。この点は複数の元チームスタッフが指摘しており、マイク・ガスコインは「(テクニカルディレクターに昇格したのに)『契約上はまだチーフデザイナーだ』と言ってサラリーの増額を拒否した」[12]、ゲイリー・アンダーソンも「約束した予算を満額で出してくれたためしがない」「いくら説得しても聞く耳持たずで(中略)不毛なやり取りに心底うんざりしてしまった」[13]と語っている。
ただトップチームと比べて予算規模が小さく、金を出そうにも先立つものがない状態であったことも事実で、イアン・フィリップスは「(1999年時点で)総予算は7000万ポンド(当時の通貨レートで約129億円)」と語っているほか[14]、ラルフ・シューマッハも2020年にF1でバジェットキャップ(F1チーム予算上限額)の議論が本格化した際に受けた取材の中で「1997年のチームの予算は4000万ドル(この金額が総予算と明言していないため、分野別の費用という見方もできるため詳細は不明。ちなみに2020年のレートでは約43億円。当時のレートに換算しても少なくとも50憶円以下となる)しかなかった[15]」とコメントしており、当のジョーダン自身も「ジョーダンの門を叩いた若者たちは、いずれ能力を認められて強豪チームに移っていく」「我々が払える給料では数年も働いてくれたら御の字なんだ」と語り、当時のチーム状態ではやむを得なかったとしている[16]。
ただその結果として、ドライバー以外にエンジニアについても若手の登竜門となっており、サム・マイケルやジェームス・キーなどといったエンジニアが後に他チームでチーム首脳に加わる出世を果たしている。
変遷表[編集]
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | チーム・7up・ジョーダン | 191 | G | フォードHBIII,IV | BP | ベルトラン・ガショー ミハエル・シューマッハ ロベルト・モレノ アレッサンドロ・ザナルディ アンドレア・デ・チェザリス |
5 | 0 |
1992年 | サソル・ジョーダン・ヤマハ | 192 | G | ヤマハOX99 | サソル | ステファノ・モデナ マウリシオ・グージェルミン |
13 | 0 |
1993年 | サソル・ジョーダン | 193 | G | ハート1035 | サソル | ルーベンス・バリチェロ イヴァン・カペリ ティエリー・ブーツェン マルコ・アピチェラ エマニュエル・ナスペッティ エディ・アーバイン |
10 | 0 |
1994年 | サソル・ジョーダン | 194 | G | ハート1035 | サソル | ルーベンス・バリチェロ エディ・アーバイン 鈴木亜久里 アンドレア・デ・チェザリス |
5 | 0 |
1995年 | トタル・ジョーダン・プジョー | 195 | G | プジョーA10V2 | トタル | ルーベンス・バリチェロ エディ・アーバイン |
6 | 0 |
1996年 | B&H・トタル・ジョーダン・プジョー | 196 | G | プジョーA12V4 | トタル | ルーベンス・バリチェロ マーティン・ブランドル |
5 | 0 |
1997年 | B&H・トタル・ジョーダン・プジョー | 197 | G | プジョーA14EV5 | トタル | ラルフ・シューマッハ ジャンカルロ・フィジケラ |
5 | 0 |
1998年 | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | 198 | G | 無限MF301HC | エルフ | デイモン・ヒル ラルフ・シューマッハ |
4 | 1 |
1999年 | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | 199 | B | 無限MF301HD | エルフ | ハインツ=ハラルド・フレンツェン デイモン・ヒル |
3 | 2 |
2000年 | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | EJ10,EJ10B | B | 無限MF301HE | エルフ | ハインツ=ハラルド・フレンツェン ヤルノ・トゥルーリ |
6 | 0 |
2001年 | B&H・ジョーダン・ホンダ | EJ11,EJ11B | B | ホンダRA001E | エルフ ペトロブラス |
ハインツ=ハラルド・フレンツェン ヤルノ・トゥルーリ リカルド・ゾンタ ジャン・アレジ |
5 | 0 |
2002年 | DHL・ジョーダン・ホンダ | EJ12 | B | ホンダRA002E | エルフ エネオス |
ジャンカルロ・フィジケラ 佐藤琢磨 |
6 | 0 |
2003年 | ジョーダン・フォード | EJ13 | B | フォードRS1 | エルフ | ジャンカルロ・フィジケラ ラルフ・ファーマン ゾルト・バウムガルトナー |
9 | 1 |
2004年 | ジョーダン・フォード | EJ14 | B | フォードRS2 | エルフ | ニック・ハイドフェルド ジョルジオ・パンターノ ティモ・グロック |
9 | 0 |
2005年 | ジョーダン・トヨタ | EJ15,EJ15B | B | トヨタRVX-05 | エルフ | ティアゴ・モンテイロ ナレイン・カーティケヤン |
9 | 0 |
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
ギャラリー[編集]
- 1991年 - 2005年
脚注[編集]
- ^ 1991年のF1初参戦以来、国籍登録はアイルランドだったが、1999年シーズンよりイギリスに変更した。なお、当初より本拠地はイギリス(シルバーストン・サーキットの近く)に置かれている。
- ^ ベネトンとジョーダン以外のフォードユーザーは、みな旧式のDFRエンジンを使用した。
- ^ 日本GPの時のみ、当時の日本ペプシコの販売戦略上の理由で7upではなく「ペプシ」のロゴに変更。
- ^ デ・チェザリスはAGSと1991年のレギュラードライバーとして契約寸前だったが、急遽ジョーダンとの契約に鞍替えした。結果AGSはデ・チェザリスの持ち込む予定だった資金を失い、代役にほぼ持参金なしのステファン・ヨハンソンを起用せざるを得なくなるなど資金難に苦しみ、結果この年限りで撤退している。
- ^ ベネトンにシューマッハを奪われて気落ちしたエディ・ジョーダンに対し、マクラーレン代表のロン・デニスは「ピラニアクラブへようこそ」と声をかけた。
- ^ 後にオートマチックギアが禁止されて、シーケンシャルギアが禁止されていないカテゴリーのほとんどに採用される。
- ^ 当時のスポーティングレギュレーションではシーズン中のドライバー変更は1シート3回までとなっていたが、ブーツェンからアピチェラへの変更はドライバー引退のための不可抗力として特例で認められた。
- ^ ウィリアムズから解雇されたデイモン・ヒルの獲得を目指すもアロウズにさらわれ失敗に終わっている。リジェのオリビエ・パニスにも触手を伸ばしていたともいわれる。引退したナイジェル・マンセルもテストドライブを行った。
- ^ スズメバチのカラーリングはオリジナルグッズが発売されるほど好評であった。
- ^ このエンジンはフォード・ヨーロッパの仲介により供給されたため、エンジン名は「コスワース」ではなく、「フォード」での登録となった。
- ^ 厳密にいえば、ジョーダンの空いたシートに目を付けたメルセデスが持参金と共にシューマッハを売り込み、チームがそれを了承して起用したという経緯もある。
- ^ 『GP Car Story Vol.31 Jordan 199』(三栄、2020年)p.23
- ^ 『GP Car Story Vol.31 Jordan 199』p.59
- ^ 『GP Car Story Vol.31 Jordan 199』p.65
- ^ 「わがままなフェラーリはF1から去るべきだ」とラルフ・シューマッハwww.topnews.jp(2020年04月28日)2020年7月27日閲覧。
- ^ 『GP Car Story Vol.31 Jordan 199』p.93