佐藤琢磨

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佐藤 琢磨
Takuma Sato - August 2014 - Sarah Stierch.jpg
ソノマ・レースウェイでの佐藤琢磨 (2014年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都新宿区
生年月日 (1977-01-28) 1977年1月28日(40歳)
F1での経歴
活動時期 2002-2008
所属チーム '02 ジョーダン
'03-'05 B・A・R
'06-'08 スーパーアグリ
出走回数 92 (90スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 44
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 2002年オーストラリアGP
最終戦 2008年スペインGP
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佐藤琢磨
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-01-28) 1977年1月28日(40歳)
出身地 東京都新宿区
2017年インディカー・シリーズ
デビュー 2010
所属 アンドレッティ・オートスポーツ '17-
車番 26
過去所属 '10-'11 KVレーシング・テクノロジー
'12 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング
'13-'16 A.J.フォイト・エンタープライズ
出走回数 124
優勝回数 2
ポールポジション 5
シリーズ最高順位 13位 (2011)
過去参加シリーズ
1999-2001
2000,2001
2000,2001
2002-2008
2010-
イギリス・フォーミュラ3
マカオグランプリ
マスターズ・オブ・フォーミュラ3
フォーミュラ1
インディカー・シリーズ
選手権タイトル
2001
2001
2001
2013
2017
イギリス・フォーミュラ3
マスターズ・オブ・フォーミュラ3
マカオグランプリ
トヨタグランプリ・オブ・ロングビーチ
インディ500
受賞
2013
2017
日本プロスポーツ大賞 特別賞
内閣総理大臣顕彰

佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - )は、海外で活動する日本人レーシングドライバー2002年から2008年までF1に参戦し、2010年からはインディカー・シリーズに参戦。2017年に、日本人として初めて(アジア人としても初めて)インディ500での優勝を果たした。東京都新宿区出身。身長:164cm、体重:59kg。血液型:RH+ A型。マネジメント契約先はスポーツビズ

「琢磨」と下の名前で呼ばれる事が多い。英語圏での愛称は“Taku”。早稲田大学人間科学部中退。 2012年より中日本自動車短期大学客員教授を務める[1]

プロフィール[編集]

和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。部の無かった高校に部を立ち上げ、顧問一人部員一人で競技開始。94年、インターハイ優勝。95年、インターカレッジ、2位。同年の国体、6位。96年、全日本学生選手権優勝などの記録を残している。

1996年ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学して、まずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして[2]競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。他の上位の受講生達と同じく時には講師陣を上回る速さを見せた。1997年首席で卒業。

全日本F3選手権[編集]

前年のSRS-Fを首席で卒業して獲得したスカラシップにより、1998年無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権へのデビューを果たすが、2戦に出走した後、シーズン半ばに渡英する。この時期、合わせて中谷明彦が主宰するドライビングアカデミー「中谷塾」も受講し、こちらも首席で卒業している。

ただし渡英当時、佐藤は日本で道路交通法違反による免許取消処分を受けていて[3]モータースポーツライセンスの前提として有効な運転免許の所持を要求する日本自動車連盟(JAF)管轄下のレースに出走することができなくなっていたとされる[4]。このため、当時の所属チームであった童夢社長の林みのるなど複数の関係者が「佐藤がレース活動を継続するためには海外のレースに活路を求めるしかなかった」と指摘している。

イギリスF3選手権[編集]

イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ボクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。

2000年前半はミスやクラッシュが目立っていた。また、チームのミスもあり冴えない結果に。しかし、スタートとタイヤが冷えた状態やウェットコンディションでのドライビングは他のドライバーを圧倒する場面も見られた(2000年マカオGP初日ウエット状態でのフリー走行で2位以下を2秒引き離してのトップタイムをマークした。予選2位、決勝リタイア)。2000年の後半は2000年王者であるアントニオ・ピッツォニアをも引き離し、2000年度イギリスF3においてシリーズ3位でシーズンを終えた。また、イギリスの週刊誌オートスポーツで2000年度最速ドライバーとして評価されるなどして、2001年イギリスF3チャンピオン最有力候補とされた。

2001年には前評判通り日本人初のイギリスF3チャンピオンを獲得し、国際F3レース(マールボロマスターズマカオGP)も制してF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。

また英オートスポーツでF3、2シーズンでイギリスF3+国際F3+スポット参戦フランスF3の通算19勝を挙げて、F3史上最も成功したドライバーとして紹介された。

  • 1998年:フォーミュラ・ボクスホールJr.参戦、フォーミュラオペル・ウィンター3位
  • 1999年:イギリスF3ナショナルクラス3勝、マカオ・エリクソンチャレンジ優勝

F1[編集]

ジョーダン[編集]

2002年[編集]

2001年10月に、ホンダエンジンを搭載するジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、この年のジョーダンチームは前年には多くの主要なエンジニアが流出したうえ、2001年シーズンまでのメインスポンサーであったベンソン&ベッジスが支援を縮小したことなどから資金不足に陥った。シーズン中のテストもままならないチーム運営の中、シーズン一年目のポイントは日本グランプリでの決勝5位・2ポイントのみに留まった。翌2003年はジョーダン・グランプリで2年目のF1シーズンを迎える計画だったが、ホンダがエンジン提供先をB・A・Rに絞りジョーダンから引き上げた為、事実上解雇される。それに伴い、B・A・Rのテストドライバーとして移籍する事になる。

B・A・R[編集]

2003年[編集]

2003年シーズンは、翌2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしてB・A・Rに移籍。リザーブドライバーの立場でレースチームに全戦帯同し、レースの合間にはテスト走行をこなすこととなった。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めたために代役で出走。約1年ぶりの実戦となったが、6位入賞を果たす。この入賞で獲得した3ポイントによってB・A・Rはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転した。また、この年にはF1以外の活動として、自転車選手だった経歴を活かして「ツール・ド・フランス」の一般参加部門である「エタップ・ド・ツール」にもゲストとして出場している(アキレス腱痛により途中リタイア)。

2004年[編集]

2004年シーズンはB・A・Rのレギュラードライバーに昇格。この年のマシン「B・A・R 006」が速さを見せ、各レースで上位争いに加わっていく。

このシーズンは、スペインGPアメリカGPハンガリーGPにおいて予選3位を記録するなど速さを見せ付ける。しかし、前半戦においては、マシントラブルなどでリタイヤしたレースがいくらかあり、ポイント獲得の機会を失う場合もあった。

この悪い流れに反するように、ヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録。さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たした。

この年のB・A・Rは、チームメイトのジェンソン・バトンが2位表彰台を4回、3位表彰台を6回獲得するなど、非常に力強い戦闘力を保持し、フェラーリに次ぐコンストラクター2位を獲得した。

2005年[編集]

2005年アメリカGPにて

この年にイギリスからモナコに移住した。

2005年シーズンは前年とは打って変わって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位に留まり、巻き返しを期したマレーシアGPではウィルス性の発熱により欠場の憂き目にあった。第4戦サンマリノGPでは5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずがマシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されリザルトを取り消された。加えてB・A・RはスペインGPモナコGPの2レースの出場停止処分を科されたため、ほとんどまともにレースができないままシーズン序盤を浪費してしまった。後半になっても調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。

2005年カナダGP

2005年は琢磨はもとより、B・A・Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、琢磨自身もそれに巻き込まれていった。ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、バリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、佐藤は2006年シーズンのB・A・Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。

スーパーアグリF1[編集]

2006年[編集]

2006年アメリカGP

B・A・Rを出た2006年シーズンは複数チームからのオファーもあったが[5]、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを供給する新規参戦チーム スーパーアグリF1チームから参戦することとなった。

新規参入チームのうえ、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に後方集団からも大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもマシンの熟成が進むまでSAF1以外で最も遅いMF1レーシング(2006年第15戦イタリアGP以降はスパイカーMF1レーシングにチーム名称変更)からも離されたが、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たした。

2007年[編集]

2007年マレーシアGP

2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。

新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならないほど高く、オーストラリアGPの予選ではチーム創設後初のQ3進出を果たし、予選10位を記録した(デビッドソンは11位)。その後のレースでも、ワークスホンダと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、チーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。また、この結果は完全日本製パッケージ(日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中でまずラルフ・シューマッハを、さらにタイヤを傷めてペースの上がらないフェルナンド・アロンソオーバーテイクし6位でフィニッシュ、スペインGPで記録したチームの最高記録を塗りかえている。

シーズン後半はチームの資金不足で開発が進まずSA07はライバルとの競争から後れ始め、ポイントは取れないものの第11戦ハンガリーGP〜第17戦ブラジルGPまで7戦連続の完走を果す。

2008年[編集]

2008年に入るとスーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。ホンダが発表した参戦リストにスーパーアグリチーム及び佐藤琢磨の名前がなく、2008年シーズンに参戦できない状況に陥ったが、開幕直前の3月10日に当座の資金の目処を付けて参戦を表明し、スーパーアグリのファーストドライバーとしてエントリーした。しかし資金難によりマシン開発がほとんどできておらず、前年後半のような戦闘力の劣るマシンでのレースを余儀なくされた。開幕戦のオーストラリアGPでは予選のQ2へ進出することもできず、決勝もトラブルでリタイアした。だが、次戦のマレーシアGPからは予選のパフォーマンスは優れないものの、決勝では完走した。

5月6日、スーパーアグリF1チームがF1からの撤退を表明したため所属チームを失った。その後、ル・マン24時間レースALMSインディなどからオファーを受けるも全て断り、あくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めていた。当時の佐藤自身もF1を引退する考えはまったくないことを表明していた[6]。イギリスの月刊誌F1 Racingが行った歴代ドライバー100傑では、唯一の日本人ドライバーとして78位と評価された。

8月26日、来季F1復帰を目指しスクーデリア・トロ・ロッソとの交渉に入ったことが発表された。その後トロ・ロッソから、佐藤とセバスチャン・ブエミが9月17日からスペイン・ヘレスにて行なわれたテストに参加し、来期のレギュラードライバーとしてのテストを行った。シーズン終了後の11月17日および、18日の午前中にも再びトロ・ロッソのテストでステアリングを握り、初日、2日目の午前といずれも全体のトップタイムをマークした(2日目の午後にレッドブルから出走したセバスチャン・ベッテルに更新された)。12月10日、11日にも、ヘレスで行われたテストにトロ・ロッソから参加し、2日ともセバスチャン・ブエミに次ぐ2番手タイムをマークした。

2009年[編集]

2月6日、2008年の3回のテストの後、レギュラードライバー決定を待っていた琢磨だったが、スクーデリア・トロ・ロッソは2009年のドライバーラインナップをセバスチャン・ブエミとセバスチャン・ボーデの2人に決定した。

2009年7月3日イギリスのボーリューにある国立自動車博物館で2004年に琢磨がドライブしたB・A・R 006が披露された[7]。これは、第9戦アメリカグランプリにおいて自身初めての表彰台を獲得した時のマシンであり、新たに博物館の収蔵品に加えられることが決定したことによる。この披露会には琢磨自身も参加した[7]

オフシーズンにおいては、2010年より参戦する新規チームであるロータスF1チーム、及びグラビティによる買収で新体制となるルノーF1との交渉が行われていたが、これも実現することは無かった[8]

現在、2008年4月末に行われたF1スペインGPが、F1における佐藤最後のレースとなっている。

インディカー・シリーズ[編集]

KVレーシング[編集]

2010年[編集]

2010年日本グランプリにおいてロータス・78をドライブする佐藤

2月18日、東京でKVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表した[9][10]。また、F1復帰交渉に関して、ルノースクーデリア・トロ・ロッソロータスステファンGPと交渉を行ったことも明らかにした[11]

2月24,25日にはバーバー・モータースポーツ・パークで合同テストが行われた。インディでの実質初テストにもかかわらず、11チーム21人の内、24日は7位、25日は6位でテストを終えた[12][13]

シリーズが始まると、9月19日にツインリンクもてぎで行われた第16戦インディジャパン300で、オーバルコースにおける自身最高順位である12位で完走した[14]

この年は予選では何度か上位につけたが、全17戦中8戦しか完走できなかったことなどもありランキング21位(最高位9位)でシーズンを終えた。

10月10日に行われたF12010年日本グランプリにおいてロータス・78のデモ走行をした[15]

2011年[編集]

インディジャパン300参戦中の佐藤

2010年と同じく、KVレーシングからインディカー・シリーズに参戦することを2月4日に発表した[16]

3月27日に、セントピーターズバーグで開幕戦が行われたが、そこで自己ベストとなる5位入賞を果たした[17]。第4戦サンパウロでは予選10番手からスタートし、雨の中で他者のクラッシュやマシントラブルなどで3位まで順位を上げたが、14周で日曜日のレースは赤旗中断となり月曜日に延期に。翌日再開されたレースではスタート直後に雨が降りだす展開の中で前を行く2台を交わしてトップに浮上し自身初のリードラップを記録、23周に渡ってトップを走行した。しかし、34周目からのフルコースコーションでチームはピットしない作戦を選択。レース中にフルコースコーションがあと一度でも出されれば給油なしで走りきれるという判断だったが、チームの思惑に反してその後フルコースコーションは出されず、給油のためにピットして順位を下げたことなどもあり最終的には8位でゴールした[18][19]

開幕4戦のロードやストリートでのレースが終わり、シリーズがオーバルのレースになっても前年を上回るパフォーマンスを見せ続けた。第5戦インディ500では予選でチーム最上位の10位獲得も決勝では序盤でクラッシュによりリタイア。第6戦テキサスでは第1レースでオーバル自己最高の5位に入り、第7戦ミルウォーキーでも8位に入る。第8戦アイオワの決勝では終盤にアウトラップでバンプに乗り上げるミスをし、リタイアを喫して19位に終わったがインディカー・シリーズで日本人初となるポールポジションを獲得している。屈指の難易度を誇る第11戦ミッドオハイオにて4位フィニッシュ。ベストリザルトを更新した。

しかしそれ以降は下位に沈むレースが増え、シングルフィニッシュも第12戦ニューハンプシャーの7位のみとなる。総合ランキングはチームメイトのトニー・カナーンの5位に対し、13位に留まった。

レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング[編集]

2012年[編集]

インディ500で"Hard Charger award"を受賞した佐藤

2月3日、この年よりインディカー・シリーズフル参戦を表明するレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍することが発表された。[20] 開幕戦セントピーターズバーグでは一時ラップリーダーになるも電気系トラブルでリタイアに終わる。第3戦ロングビーチでは3位でファイナルラップに入るもライアン・ハンター=レイと接触しスピン、シーズンで初めて完走出来たものの8位に留まった。第4戦ブラジルのサンパウロではエンジン・トラブルのため前日の予選に出走できず、最後尾から一つ前の25位からのスタートとなるも、巧みなピット戦略も駆使した驚異的な追い上げで自己最高の3位となり初の表彰台に上がる。

自身3度目のインディ500では、19番手スタートからポジションを上げ119周目にラップリーダーに立つ。その後31周をリードしつつトップ集団に留まる走りを見せる。199周目にはスコット・ディクソンを抜いて2位に上がる。そのまま先頭のダリオ・フランキッティの真後ろ(2位)でファイナルラップに入り、ターン1にフランキッティと並び進入した。しかしフランキッティが残したスペースは狭く、インの白線を踏まされバランスを失いスピンしたマシンはウォールに接触、日本人初優勝はならなかったが自己ベストの17位でレースを終えた。

続く第6戦デトロイトでは縁石で弾んだマシンがコントロールを失いウォールに追突、第7戦テキサスはターン3でアンダーステアが出てウォールに接触、第8戦ミルウォーキーは周回遅れのジェームズ・ジェイクスにラインを開けてもらえず接触、3戦連続でリタイアに終わった。第10戦アイオワではマシンのセッティングが決まらず、この年試験導入された予選レースでも奮わず24番手スタートとなった。決勝では序盤に追い上げるが上位陣には遅れを取り、完走は出来たものの3周遅れの12位でフィニッシュした。

第11戦トロントでは11番手スタートから一時5位まで浮上する。しかし終盤ブレーキにトラブルが発生、マシンは持ちこたえたが最終順位を9位まで落とすことになった。第12戦エドモントンではシーズン最高の予選4番手、3番手スタートを獲得、決勝でも上位を維持し53周目に2位までポジションを上げた。その後リーダーのエリオ・カストロネベスを追走するがプッシュ・トゥ・パスの残量で勝るカストロネベスを相手にオーバーテイクには至らず0.8763秒差の2位でフィニッシュ。自己ベストを更新し、武藤英紀と並ぶ日本人ドライバー最高位タイを記録した。[21]年間ランキングは14位(全戦参戦17名)。

また、インディカーとスケジュールが重ならない日程で、日本国内のレースにスポット参戦した。フォーミュラ・ニッポンにはチーム無限より3戦に出場。FIA 世界耐久選手権の第7戦富士6時間にはLMP1クラスのOAKペスカローロより参戦した。

A.J.フォイト・エンタープライズ[編集]

2013年[編集]

1月10日、A.J.フォイト・エンタープライズとの契約が発表される[22]A.J.フォイトは前年のインディ500でのファイナルラップでのチャレンジを見て獲得を決めたという)。序盤2戦はマシントラブルやドリンクシステムのトラブルでピットでの給水を余儀なくされたことなどが響きそれぞれ8位、14位に終わる。

第3戦ロングビーチでは4番手グリッドであったが、決勝直前の最終プラクティスでトップタイムを記録すると、スタートでまずウィル・パワーを抜いて3番手に上がり、23周目には前年のこのレースで佐藤に接触した因縁を持つライアン・ハンター=レイを抜き去り2位、その後のピットでダリオ・フランキッティを抜いてトップに立つ。その後は一度もトップを譲ることなく圧倒的な速さを見せつけ、インディカー・シリーズ(CART、チャンプカーを含む)の歴史において、また、スーパーフォーミュラフォーミュラ・ニッポン以前を含む)を除くトップフォーミュラの歴史において日本人として初めての優勝を飾った[23]。続く第4戦サンパウロでも、残り1周の時点までトップを快走したが、最終ラップでジェームズ・ヒンチクリフに逆転を許し、2位に終わる。それでもこの2位入賞により、佐藤は総合順位首位に浮上した[24]

しかし第5戦のインディ500では、前年のような見せ場も無く決勝13位に終わった。続く第6戦以降においては、第9戦ミルウォーキーでの決勝7位が唯一の決勝一桁順位となり、それ以外のレースでは自身のミスやマシントラブルで尽く決勝下位に沈んだ。特に10月6日の第18戦(ヒューストン)においては、最終周でデブリを拾ってコントロールを乱し、ダリオ・フランキッティE.J.ヴィソとの接触事故を起こす。特にフランキッティの車体は宙に舞いフェンスに激突、脊柱と右足首を骨折する大けがとなり、飛び散った破片で観客14人が負傷するなど、大きなクラッシュとなった[25]。フランキッティの怪我は競技に戻れるまでには治癒せず、このレースをもって引退することとなった。

結局のところ、佐藤は初優勝を飾ったシーズンであったにもかかわらず、第4戦の総合順位首位から最終戦の総合17位(全戦参戦21名)[26]にまで転落し、昨年・一昨年にも及ばない総合順位で終了してしまった。

同年11月には、翌年より本格的なシリーズ展開が予定されているフォーミュラEのワンメイクマシンである「SRT_01E」の開発ドライバーに起用されることが発表された[27]

2014年[編集]

2014年シーズンもAJフォイト・レーシングで参戦した[28]。開幕戦のセントピーターズバーグではポールポジションを獲得し(決勝は7位)、幸先の良い出だしとなったかに見えた。

しかしこれ以降は、第7戦のデトロイト・レース2でポールを再び獲得したことを除くと、第13戦までの決勝最高位が9位(第4戦インディアナポリス)という不振に陥ってしまう。完走すらままならず、第8戦から第13戦まで6戦連続リタイアも喫している。第14戦トロント・レース2でようやく決勝5位に入り、終盤2戦(第17・18戦)では決勝4位、6位となっている。しかし、総合順位を挽回するには時すでに遅く、前年を更に下回る総合18位(全戦参戦21名)に終わった。

9月に北京で行われたフォーミュラEの開幕戦に鈴木亜久里率いるアムリン・アグリ・フォーミュラEチームよりスポット参戦をした[29]

2015年[編集]

AJフォイト・レーシングで3年目のシーズンを戦った。決勝最高位は2位、総合14位(全戦参戦18名)

2016年[編集]

AJフォイト・レーシングで4年目のシーズンを迎える。これは、オーナーのAJフォイトを除くドライバーではチーム最長である。 シーズン終了後、チームのシボレー移籍に伴いチームを離脱、アンドレッティ・オートスポーツに移籍した。

アンドレッティ・オートスポーツ[編集]

2017年[編集]

2017年のインディ500で優勝し、マイケル・アンドレッティ夫妻(奥)と共にウイニングパレードに臨む佐藤琢磨

5月28日、自身8度目となるインディ500では、予選で日本人過去最高の4位に付けた[30]。決勝ではスタートに出遅れたものの65周目にトップに出る。その後ピットミスで10位まで下げるが徐々に順位を上げていき、196周目にエリオ・カストロネベスをかわしてトップに出るとそのままチェッカーフラッグを受け[31]日本人初のインディ500優勝を達成した(アジア人としても初)。インディカー・シリーズ参戦124戦目の快挙は、自身のオーバルトラック初勝利でもある。この快挙にチームオーナーであるマイケル・アンドレッティやこの年インディ500にスポット参戦したチームメイトのフェルナンド・アロンソからも祝福を受け[32]、日本国内でも道頓堀グリコサインが優勝を祝うサインを表示するなど佐藤の優勝を祝福した[33]。日本国政府も「日頃のたゆみない精進によって、モータースポーツにおいて数々の記録を打ち立て、極めて優れた業績を挙げた」として、8月4日付で内閣総理大臣顕彰を授与。

フォーミュラE[編集]

かつてF1でもタッグを組んでいた鈴木亜久里のチーム、アムリン・アグリからフォーミュラEの初戦にスポット参戦する。結果はリタイアに終わったが、ファステストラップを獲得、2ポイントを得る。 フォーミュラEでの最初のファステストラップ獲得者となった。

家族[編集]

年譜[編集]

  • 1977年1月28日 - 東京都新宿区戸山に生まれる。
  • 1987年 - 鈴鹿でF1日本GPを観戦し、アイルトン・セナに感激。モータースポーツに憧れを持つ。
  • 1989年4月 - 町田市立町田第二中学校に入学。陸上競技部に所属。
  • 1992年4月 - 町田市の私立和光高等学校に入学。
  • 1992年初春 - 自転車競技を開始。地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加する。
  • 1993年8月 - シマノ鈴鹿ロードレースで自転車レースデビュー。
  • 1994年3月 - 高校に自転車競技部がなかったため、担任を顧問に独力で部を立ち上げる(部員は琢磨本人だけ、後に廃部)。
  • 1994年8月10日 - 第45回インターハイの自転車競技ポイントレースで優勝。
  • 1995年4月 - 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科特別選抜枠で推薦入学。自転車部に所属。
  • 1995年9月 - 全日本大学対抗選手権の自転車競技で2位。
  • 1996年4月 - 早稲田大学人間科学部を休学。
  • 1996年6月 - 第37回全日本学生選手権の自転車競技男子4km速度競走で優勝。
  • 1996年初夏 - アルデックス・ジャパンカートレーシングを開始。
  • 1997年 - 鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)に入学。
  • 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西でシリーズ1位、カート地方選手権FA-2関東・東でシリーズ3位。
  • 1997年10月 - 中谷明彦主宰の中谷塾(ドライビング理論アカデミー)を受講、首席卒業。
  • 1997年12月23日 - SRS-Fを首席で卒業。全日本F3選手権参戦のスカラシップを獲得。
  • 1998年3月 - 無限×童夢チームから全日本F3選手権に参戦。
  • 1998年7月 - 無限×童夢チームから離脱。早稲田大学人間科学部を退学し渡英。ストラトフォード・アポン・エイヴォンで寄宿生活を始める。
  • 1998年7月 - イギリスのフォーミュラ・ボクスホールJr.に参戦。
  • 1998年10月 - イギリスのフォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズに参戦。シリーズ3位。
  • 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップに参戦。イギリス選手権で2位。
  • 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズに参戦。シリーズ6位。
  • 1999年3月 - most improved driver of the yearを受賞。
  • 1999年7月 - ダイヤモンド・レーシングからイギリスF3選手権ナショナルクラスに参戦。6戦中3勝を挙げる。
  • 1999年11月20日 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝
  • 2000年3月 - カーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。当時日本人史上最多の4勝、シリーズ3位。
  • 2000年3月 - フランスF3選手権にスポット参戦し、優勝
  • 2000年12月 - ジョーダン・無限-ホンダのテストに参加。F1初ドライブ。
  • 2001年1月 - B・A・Rホンダのテスト・ドライバーに就任。
  • 2001年3月 - 前年に引き続きカーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。12勝で日本人初のイギリスF3チャンピオンに輝く。
  • 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジで優勝
  • 2001年8月 - マールボロマスターズF3で優勝
  • 2001年10月 - 2002年ジョーダン・ホンダのレギュラードライバーとしてF1参戦発表
  • 2001年11月18日 - マカオGP・F3レースで日本人として初の優勝
  • 2002年3月 - ジョーダン・ホンダからF1世界選手権に参戦。シリーズ15位。
  • 2002年10月13日 - 日本GPにてF1初入賞(5位)。1997年ハンガリーグランプリ中野信治の6位入賞以来となる5年ぶりの日本人の入賞。
  • 2003年1月 - 2003年B・A・Rホンダのリザーブ兼テストドライバーに就任。
  • 2003年10月12日 - ジャック・ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、F1日本GPにスポット参戦し6位入賞。シリーズ18位。
  • 2004年3月 - B・A・RホンダからF1フル参戦に復帰
  • 2004年4月3日 - バーレーンGPで1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ(5位)を記録。
  • 2004年5月8日 - スペインGP予選日本人最高位を更新(3位)
  • 2004年5月29日 - ヨーロッパGP予選日本人最高位を更新(2位)し、日本人初のフロントロー獲得翌日日本人初のラップリーダーも記録した。
  • 2004年6月20日 - アメリカGP日本人最高位タイ(3位)。F1の表彰台に上った日本人ドライバーは、1990年日本GPで鈴木亜久里が3位に入って以来、2人目。
  • 2005年7月31日 - 同年12月中旬に第一子誕生の予定を発表(この後、婚姻届出)
  • 2005年9月20日 - 2006年のB・A・Rホンダのドライバー体制が、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロの2人となることが正式に決定。これを受けた日本GP前の記者会見で、琢磨はホンダが技術支援して2006年に新規参入するチームからオファーを受けていることが明らかに。その後そのチームは鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリF1であることが判明した。
  • 2006年2月15日 - スーパーアグリF1へ移籍することが発表された。
  • 2007年5月13日 - 第4戦スペインGPでチーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。
  • 2007年6月10日 - 第6戦カナダGPで6位入賞を果たし、3ポイントを獲得した。
  • 2008年5月6日 - スーパーアグリF1チームの撤退により、シートを喪失。
  • 2010年2月15日 - KVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表。
  • 2010年4月12日 - オンラインレーシング・シミュレーション「iRacing.com」のアジア市場進出に向けINTERUSHとのタイアップを発表[34]
  • 2011年6月24日 - インディカー・シリーズ第8戦アイオワの予選で、自身初のPPを獲得(日本人初)。翌日の決勝はリタイア。
  • 2011年7月23日 - インディカー・シリーズ第10戦エドモントンの予選で2度目のPPを獲得(翌日の決勝は21位)。
  • 2012年2月3日 - レイホール・レターマン・レーシング に移籍することが発表された。
  • 2012年4月29日 - インディカー・シリーズ第4戦サンパウロの決勝で、予選25番手ながらも追い上げて3位に入賞する。
    日本人で初めてF1世界選手権とインディカー・シリーズ両方のレースで表彰台に上った。
  • 2012年7月22日 - インディカー・シリーズ第11戦エドモントンの決勝で、2位入賞し自己最高成績(日本人最高位タイ)を更新。
  • 2013年4月21日 - インディカー・シリーズ第3戦ロングビーチ決勝で、日本人初優勝を記録
  • 2017年5月29日 - インディカー・シリーズ第6戦インディ500決勝で、日本人初のインディ500優勝を記録

自転車競技成績[編集]

記録[編集]

自動車レース成績[編集]

略歴[編集]

シリーズ チーム レース PP 勝利 ポイント 順位
1998 全日本F3選手権 童夢プロジェクト 1 0 0 0 NC
1999 イギリス・フォーミュラ3 - ナショナル・クラス ダイヤモンド・レーシング 7 0 0 103 4位
ヨーロッパ・カップ・ブリテン  ?  ?  ? 48 2位
フォーミュラ・オペル・ヨーロピアン・ユニオン・シリーズ  ?  ? 1 115 6位
2000 イギリス・フォーミュラ3 カーリン・モータースポーツ 12 6 4 129 3位
ヨーロピアン・フォーミュラ3・カップ 1 0 0 N/A NC
マカオグランプリ 1 0 0 N/A 14位
マスターズ・オブ・フォーミュラ3 1 0 0 N/A 28位
コリア・スーパープリ 1 0 0 N/A 8位
2001 イギリス・フォーミュラ3 25 6 12 345 1位
ヨーロピアン・フォーミュラ3・カップ 1 0 0 N/A NC
マカオグランプリ 1 0 1 N/A 1位
マスターズ・オブ・フォーミュラ3 1 0 1 N/A 1位
フォーミュラ1 ラッキーストライク・BAR・ホンダ テストドライバー
2002 DHL・ジョーダン・ホンダ 17 0 0 2 15位
2003 ラッキーストライク・BAR・ホンダ 1 0 0 3 18位
2004 18 0 0 34 8位
2005 16 0 0 1 23位
2006 スーパーアグリF1チーム 18 0 0 0 23位
2007 17 0 0 4 17位
2008 4 0 0 0 21位
2010 インディカー・シリーズ KVレーシング・テクノロジー 17 0 0 214 21位
2011 KVレーシング・テクノロジー - ロータス 17 2 0 282 13位
2012 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング 15 0 0 281 14位
2013 A.J.フォイト・エンタープライズ 19 2 1 322 17位
2014 18 2 0 350 18位
2014-15 フォーミュラE アムリン・アグリ 1 0 0 2 24位
2015 インディカー・シリーズ A.J.フォイト・エンタープライズ 16 0 0 323 14位
2016 16 0 0 320 17位
2017 アンドレッティ・オートスポーツ 8 1 1 292 3位*
  • * : 今シーズンの順位。(現時点)

F1デビュー以前[編集]

  • 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西 シリーズ1位
  • 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・東 シリーズ3位
  • 1998年 - 全日本F3選手権にスポット参戦 (チーム:童夢) (マシン:ダラーラF398無限)
Rd.1 鈴鹿 19位 /予選6位
Rd.2 筑波 欠場 /予選15位
  • 1998年 - フォーミュラ・ボクスホールJr.(イギリス)
  • 1998年 - フォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズ 3位(チーム:ダイヤモンド・レーシング
  • 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップ シリーズ2位
Rd.1 (ドニントンパーク)1位 /予選2位
  • 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズ 6位
  • 1999年 - イギリスF3スカラシップ参戦 (チーム:カーリン・モータースポーツ
  • 1999年7月 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) 3勝
  • 1999年11月 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝
  • 2000年 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) シリーズ3位 (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
Rd.1 スラクストン リタイア /予選7位
Rd.2 クロフト 5位 /予選3位
Rd.3 オウルントンパーク リタイア /予選11位
Rd.4(R1) ドニントンパーク リタイア /予選1位
Rd.4(R2) ドニントンパーク 9位 /予選25位
Rd.5 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
Rd.6 ブランズハッチ 2位 /予選4位
Rd.7(R1) ドニントンパーク 3位 /予選7位
Rd.7(R2) ドニントンパーク 9位 /予選5位
Rd.8 クロフト 1位 /予選1位
Rd.9 シルバーストン 1位 /予選1位
Rd.10 スネッタートン 6位 /予選6位
Rd.12 シルバーストン 1位 /予選2位
  • 2000年6月 - ヨーロッパF3選手権(ポー)リタイア /予選24位
  • 2000年7月 - フランスF3選手権スポット参戦で優勝
Rd.5(R1) スパ・フランコルシャン 1位 /予選8位
Rd.5(R2) スパ・フランコルシャン リタイア /予選2位
  • 2001年 - イギリスF3選手権 シリーズチャンピオン (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
Rd.1(R1) シルバーストン 12位 /予選3位
Rd.1(R2) シルバーストン 4位 /予選4位
Rd.2(R1) スネッタートン リタイア /予選4位
Rd.2(R2) スネッタートン 2位 /予選3位
Rd.3(R1) ドニントンパーク 1位 /予選2位
Rd.3(R2) ドニントンパーク リタイア /予選3位
Rd.4(R1) オウルトンパーク 1位 /予選1位
Rd.4(R2) オウルトンパーク 1位 /予選4位
Rd.5(R1) クロフト 失格 /予選2位
Rd.5(R2) クロフト 1位 /予選3位
Rd.6(R1) ロッキンガム 1位 /予選2位
Rd.6(R2) ロッキンガム 1位 /予選2位
Rd.7(R1) キャッスルクーム 2位 /予選1位
Rd.7(R2) キャッスルクーム 2位 /予選4位
Rd.8(R1) ブランズハッチ 9位 /予選1位
Rd.8(R2) ブランズハッチ 1位 /予選4位
Rd.9(R1) ドニントンパーク 12位 /予選1位
Rd.9(R2) ドニントンパーク 1位 /予選1位
Rd.10(R1) ノックヒル 1位 /予選2位
Rd.10(R2) ノックヒル 1位 /予選3位
Rd.11(R1) スラクストン 2位 /予選2位
Rd.11(R2) スラクストン 8位 /予選3位
Rd.12(R1) ブランズハッチ 2位 /予選2位
Rd.12(R2) ブランズハッチ 1位 /予選2位
Rd.13(R1) シルバーストン 18位 /予選3位
Rd.13(R2) シルバーストン 1位 /予選1位
  • 2001年6月 - ヨーロッパF3選手権 リタイア /予選4位
  • 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジ(シルヴァーストーン) 1位 /予選1位
  • 2001年8月 - マールボロ・マスターズF3(ザントフールト) 1位 /予選1位
  • 2001年9月 - エルフF3マスターズ(スパ・フランコルシャン) 3位 /予選2位
  • 2001年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)1位 /予選2位

F1[編集]

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WDC ポイント
2002年 ジョーダン EJ12 ホンダ RA002E 3.0 V10 AUS
Ret
MAL
9
BRA
9
SMR
Ret
ESP
Ret
AUT
Ret
MON
Ret
CAN
10
EUR
16
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
8
HUN
10
BEL
11
ITA
12
USA
11
JPN
5
15位 2
2003年 B・A・R 005 ホンダ RA003E 3.0 V10 AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN ITA USA JPN
6
18位 3
2004年 006 ホンダ RA004E 3.0 V10 AUS
9
MAL
15
BHR
5
SMR
16
ESP
5
MON
Ret
EUR
Ret
CAN
Ret
USA
3
FRA
Ret
GBR
11
GER
8
HUN
6
BEL
Ret
ITA
4
CHN
6
JPN
4
BRA
6
8位 34
2005年 007 ホンダ RA005E 3.0 V10 AUS
14
MAL
PO
BHR
Ret
SMR
DSQ
ESP MON EUR
12
CAN
Ret
USA
DNS
FRA
11
GBR
16
GER
12
HUN
8
TUR
9
ITA
16
BEL
Ret
BRA
10
JPN
DSQ
CHN
Ret
23位 1
2006年 スーパーアグリ SA05 ホンダ RA806E 2.4 V8 BHR
18
MAL
14
AUS
12
SMR
Ret
EUR
Ret
ESP
17
MON
Ret
GBR
17
CAN
15
USA
Ret
FRA
Ret
23位 0
SA06 GER
Ret
HUN
13
TUR
NC
ITA
16
CHN
DSQ
JPN
15
BRA
10
2007年 SA07 ホンダ RA807E 2.4 V8 AUS
12
MAL
13
BHR
Ret
ESP
8
MON
17
CAN
6
USA
Ret
FRA
16
GBR
14
EUR
Ret
HUN
15
TUR
18
ITA
16
BEL
15
JPN
15
CHN
14
BRA
12
17位 4
2008年 SA08 ホンダ RA808E 2.4 V8 AUS
Ret
MAL
16
BHR
17
ESP
13
TUR MON CAN FRA GBR GER HUN EUR BEL ITA SIN CHN JPN BRA 21位 0

(key)

  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

インディカー・シリーズ[編集]

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 ランク ポイント
2010年 KVレーシング・テクノロジー ダラーラ・IR-05 ホンダ SÃO
22
STP
22
ALA
25
LBH
18
KAN
24
INDY
20
TXS
25
IOW
19
WGL
15
TOL
25
EDM
9
MDO
25
SNM
18
CHI
26
KTY
27
MOT
12
HMS
18
21位 214
2011年 KVレーシング・テクノロジー - ロータス STP
5
ALA
17
LBH
21
SÃO
8
INDY
33
TXS
5
TXS
12
MIL
8
IOW
19
TOR
20
EDM
21
MDO
4
NHM
7
SNM
18
BAL
18
MOT
10
KTY
15
LVS1
C
13位 282
2012年 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング ダラーラ・DW12 STP
22
ALA
24
LBH
8
SÃO
3
INDY
17
DET
20
TXS
22
MIL
20
IOW
12
TOR
9
EDM
2
MDO
13
SNM
27
BAL
21
FON
7
14位 281
2013年 A.J.フォイト・エンタープライズ STP
8
ALA
14
LBH
1
SÃO
2
INDY
13
DET1
19
DET2
23
TXS
11
MIL
7
IOW
23
POC
22
TOR1
24
TOR2
20
MDO
22
SNM
23
BAL
24
HOU1
17
HOU2
14
FON
17
17位 322
2014年 STP
7
LBH
22
ALA
13
IMS
9
INDY
19
DET1
18
DET2
18
TXS
18
HOU1
22
HOU2
19
POC
21
IOW
22
TOR1
23
TOR2
5
MDO
18
MIL
15
SNM
4
FON
6
18位 350
2015年 STP
13
NLA
22
LBH
18
ALA
17
IMS
9
INDY
13
DET1
11
DET2
2
TXS
16
TOR
10
FON
18
MIL
14
IOW
19
MDO
24
POC
6
SNM
8
14位 323
2016年 STP
6
PHX
15
LBH
5
ALA
13
IMS
18
INDY
26
DET1
11
DET2
10
RDA
17
IOW
11
TOR
5
MDO
9
POC
22
TXS
20
WGL
17
SNM
14
17位 320
2017年 アンドレッティ・オートスポーツ STP
5
LBH
18
ALA
9
PHX
16
IMS
12
INDY
1
DET1
8
DET2
4
TXS
10
ROA
19
IOW
16
TOR
16
MDO
5
POC
GMP
WGL
SNM
7位* 381*
参戦年数 チーム レース PP 勝利 トップ5 トップ10 インディ500優勝回数 チャンピオンシップ
8 4 124 5 2 35 14 1 0

インディアナポリス500[編集]

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
2010年 ダラーラ ホンダ 31 20 KVレーシング・テクノロジー
2011年 10 33 KVレーシング・テクノロジー - ロータス
2012年 19 17 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング
2013年 18 13 A.J.フォイト・エンタープライズ
2014年 23 19
2015年 24 13
2016年 12 26
2017年 4 1 アンドレッティ・オートスポーツ

FIA 世界耐久選手権[編集]

エントラント クラス シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 ランク ポイント
2012年 OAKレーシング LMP1 OAK ペスカロロ・01 ホンダ LM-V8 3.4 L V8 SEB SPA LMS SIL SÃO BHR FUJ
16
SHA
14
80位 1

(key)

フォーミュラ・ニッポン/スーパーフォーミュラ[編集]

エントラント 1 2 3 4 5 6 7 DC ポイント
2012年 TEAM 無限 SUZ MOT AUT FUJ MOT SUG
9
SUZ
17
SUZ
10
15位 0
2013年 SUZ
15
AUT FUJ MOT SUG
11
SUZ
9
SUZ
8
18位 0.5

(key)

フォーミュラE[編集]

チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2014-15年 アムリン・アグリ スパーク-ルノー・SRT 01E BEI
Ret
PUT PDE BNA MIA LBH MON BER MOS LON LON 24位 2

参考文献・関連書籍[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 佐藤琢磨、NACの客員教授に正式就任 - オートスポーツ・2012年4月11日
  2. ^ 当初予定になかった面接試験を行わせた。
  3. ^ 佐藤琢磨”. F1キンダーガーデン. 2010年5月30日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。
  4. ^ 公式プロフィールではこのことは記載されていないが、林みのるが自社ホームページのBBSに記述している。なお林はこの件について佐藤を糾弾する意図はなく、むしろ「モータースポーツライセンスと運転免許の有効性を不必要にリンクさせているJAFの姿勢にこそ問題がある」と一貫して主張していることに留意されたい(「日本モータースポーツ小論」も参照)。
  5. ^ 松本浩明『佐藤琢磨 終わらない夢』三栄書房、2011年、p.30、ISBN 9784779611414
  6. ^ F1 : 琢磨、「F1をやめるつもりはない」
  7. ^ a b “Taku to appear at Goodwood, Beaulieu”. Yahoo (UK and Ireland) Sport. (2009年6月16日). http://uk.eurosport.yahoo.com/16062009/23/taku-appear-goodwood-beaulieu.html 2009年6月16日閲覧。 
  8. ^ 松本浩明『佐藤琢磨 終わらない夢』三栄書房、2011年、pp.43 - 44、ISBN 9784779611414
  9. ^ Sato in KV seat” (English). Indy Racing League (2010年2月17日). 2010年2月20日閲覧。
  10. ^ “佐藤琢磨、インディカー参戦を発表”. F1-Gate.com. (2010年2月18日). http://f1-gate.com/sato/f1_6535.html 2010年2月19日閲覧。 
  11. ^ “INTERVIEW-Motor racing-Japan's Sato takes IndyCar crash course”. Reuters UK. (2010年2月19日). http://uk.reuters.com/article/idUKSGE61I0BH20100219 2010年2月20日閲覧。 
  12. ^ “佐藤琢磨、インディカー合同テスト初日は7番手タイム”. F1-Gate.com. (2010年2月25日). http://f1-gate.com/sato/f1_6599.html 2010年2月26日閲覧。 
  13. ^ “佐藤琢磨6番手、武藤英紀9番手 (インディカー合同テスト2日目)”. F1-Gate.com. (2010年2月26日). http://f1-gate.com/sato/indycar_6609.html 2010年2月26日閲覧。 
  14. ^ “佐藤琢磨、オーバル自己ベストの12位で完走 (インディジャパン)”. F1-Gate.com. (2010年9月19日). http://f1-gate.com/sato/indycar_9208.html 2010年10月2日閲覧。 
  15. ^ “佐藤琢磨、鈴鹿でロータス78をドライブ”. F1-Gate.com. (2010年10月1日). http://f1-gate.com/sato/f1_9371.html 2010年10月2日閲覧。 
  16. ^ “佐藤琢磨、KVレーシング・テクノロジー・ロータス残留が決定”. F1-Gate.com. (2011年2月4日). http://f1-gate.com/sato/indycar_10637.html 2011年3月28日閲覧。 
  17. ^ “佐藤琢磨、自己ベストの5位フィニッシュ (インディカー開幕戦)”. F1-Gate.com. (2011年3月28日). http://f1-gate.com/sato/indycar_11255.html 2011年3月28日閲覧。 
  18. ^ “インディカー第4戦サンパウロ、決勝レースは雨で延期”. F1-Gate.com. (2011年5月2日). http://f1-gate.com/indycar/indycar_11570.html 2011年5月5日閲覧。 
  19. ^ “佐藤琢磨、トップを走行するも作戦が悪く8位 (インディカー第4戦)”. F1-Gate.com. (2011年5月3日). http://f1-gate.com/sato/indycar_11580.html 2011年5月5日閲覧。 
  20. ^ “佐藤琢磨、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍”. F1-Gate.com. (2012年2月3日). http://f1-gate.com/sato/indycar_14176.html 2012年2月3日閲覧。 
  21. ^ “Sato's strong showing results in career best”. indycar.com. (2012年7月23日). http://www.indycar.com/News/2012/07-July/7-22-Sato-posts-career-best-finish 2012年7月23日閲覧。 
  22. ^ “佐藤琢磨、AJフォイト・レーシングで2013年のインディカー参戦が決定”. F1-Gate.com. (2013年1月11日). http://f1-gate.com/sato/indycar_17783.html 2013年1月11日閲覧。 
  23. ^ “佐藤琢磨、インディカーで日本人初優勝!!”. F1-Gate.com. (2013年4月22日). http://f1-gate.com/sato/indycar_19106.html 2013年4月22日閲覧。 
  24. ^ “インディカー第4戦サンパウロ決勝結果”. AUTOSPORT web. (2013年5月6日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=5&no=48152 2013年11月6日閲覧。 
  25. ^ F1-Gate.com: フランキッティ、佐藤琢磨との大クラッシュで骨折。観客にも負傷者(2013年10月7日)2013年10月9日閲覧
  26. ^ 上記事故により最終戦欠場を余儀なくされたフランキッティとヴィソについても、全戦参戦者とみなした。
  27. ^ 佐藤琢磨、フォーミュラEの開発ドライバーに就任 - オートスポーツ・2013年11月20日
  28. ^ “佐藤琢磨、2014年インディカー・シリーズはAJフォイト・レーシングから続投決定”. takumasato.com. (2013年12月18日). http://www.takumasato.com/media/view?news_id=1195 2013年12月22日閲覧。 
  29. ^ “佐藤琢磨、アムリン・アグリからフォーミュラEに参戦決定!”. F1-Gate.com. (2014年9月11日). http://f1-gate.com/sato/formulae_24968.html 2014年9月14日閲覧。 
  30. ^ 佐藤、なるか日本人初優勝=予選は過去最高4位-インディ500” (Japanese). 時事通信 (2017年5月25日). 2017年6月8日閲覧。
  31. ^ 佐藤琢磨、インディ500で優勝!” (Japanese). ESPN (2017年5月29日). 2017年6月8日閲覧。
  32. ^ 【第101回インディ500】アロンソはレース内容に満足、そして“僚友”の琢磨を祝福” (Japanese). Response. (2017年5月30日). 2017年6月8日閲覧。
  33. ^ 佐藤琢磨、道頓堀のグリコ看板に インディ500優勝で” (Japanese). 朝日新聞 (2017年6月1日). 2017年6月8日閲覧。
  34. ^ 佐藤琢磨氏が、iRacing.comのアジア市場進出に向けINTERUSHとタイアップ”. Interush Racing (2010年4月13日). 2010年5月2日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]