マクラーレン

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イギリスの旗 マクラーレン・ルノー
エントリー名 マクラーレンF1チーム
McLaren F1 Team
チーム国籍 イギリスの旗 イギリス
チーム本拠地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
サリー州ウォキング
チーム代表者 ザク・ブラウン
(チーフ・エグゼクティブ・オフィサー)
ジル・ド・フェラン
(スポーティングディレクター)
アンドレア・ステラ
(パフォーマンスディレクター)
ブルース・マクラーレン
(創設者)
テクニカルディレクター ピーター・プロドロモウ
(チーフ・テクニカル・オフィサー)
2018年のF1世界選手権
ドライバー 2. ベルギーの旗 ストフェル・バンドーン
14. スペインの旗 フェルナンド・アロンソ
テストドライバー イギリスの旗 ランド・ノリス
オランダの旗 ルディ・ファン・フーレン
シャーシ MCL33
エンジン ルノー R.E.18
タイヤ ピレリ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1966-
出走回数 825 (821スタート)
コンストラクターズ
タイトル
8 (1974, 1984, 1985, 1988, 1989, 1990, 1991 ,1998)
ドライバーズ
タイトル
12 (1974, 1976, 1984, 1985, 1986, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998, 1999, 2008)
優勝回数 182
ポールポジション 155
ファステストラップ 154
F1デビュー戦 1966年モナコGP
初勝利 1968年ベルギーGP
2017年順位 9位 (30ポイント)
(記録は2017年最終戦アブダビGP終了時)
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マクラーレン・レーシング・リミテッドMcLaren Racing Limited)は、1963年ブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。

概要[編集]

1966年よりF1に参戦し続けている。1970年にブルース・マクラーレンの事故死後はテディ・メイヤーがチーム運営を引き継ぎ、1980年ロン・デニスが率いる「プロジェクト4」と合併した。

2017年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。

その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)において1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。

2017年現在、世界三大レースである「モナコGPル・マン24時間レースインディ500」の全てを制したコンストラクター(車体製造者)としても知られている(他にはメルセデスのみ)。

タイトルスポンサーはヤードレー1972年 - 1974年[注釈 1])→マールボロ(1974年 - 1996年)→ウエスト1997年 - 2005年シーズン半ば)→ボーダフォン2007年 - 2013年)と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため[1]、正式エントリー名は「マクラーレンF1チーム(McLaren F1 Team)」[2]となっている。

歴史[編集]

1960年代[編集]

マクラーレン最初のF1マシンM2B
M7Aをドライブするブルース・マクラーレン(1969年ドイツGP

1963年ブルース・マクラーレンテディ・メイヤー、テイラー・アレクサンダーらにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングを設立。当初はタスマンシリーズなどにクーパーを走らせていた[3]

1966年
モナコGPでF1デビュー。この年はブルース・マクラーレンのみの1カーエントリーでM2Bを使用。エンジンはフォード[注釈 2]セレニッシマ英語版を併用[3]
1967年
この年もブルース・マクラーレンのみの1カーエントリー。新車開発の遅れから、シーズン序盤はBRMの旧型2L V8エンジンを搭載したM4B(元はF2用マシンのM4A)、シーズン中盤はイーグルのマシンを走らせた。BRMの新型V12エンジンが搭載された新車M5Aが登場したのはシーズン後半のカナダGPとなった[4]
マクラーレンはF1に参戦するかたわら、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムのコンビでM1B(1966年)とM6A(1967年)を駆り、Can-Amにも参戦した。
1968年
この年より2台をエントリーし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。開幕戦は前年のM5Aを使用したが、第2戦スペインGPからフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したM7Aを使用する。ブルース・マクラーレンはブランズ・ハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、第4戦ベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。ハルムもイタリアGPカナダGPで連勝(カナダGPではチーム初のワン・ツー・フィニッシュを飾った)し、コンストラクターズランキング2位と大きく躍進した。シーズン終盤にはイーグルのダン・ガーニーがM7Aを使用した。また、この年のCan-Amでハルムがチャンピオンを獲得している。
1969年
ブルース・マクラーレンは入賞8回でランキング3位。ハルムは最終戦メキシコGPで優勝し、Can-AmではM8Bを駆り年間2位となる。マシンは主に前年のM7Aを継続使用したが、F5000用マシンM10Aを流用したM7Cや、四輪駆動M9Aも使用している[5]


1970年代[編集]

1970年
6月2日グッドウッド・サーキットでCan-Am用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡[6]。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、Can-Am、F1、F2インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。
この年、F1では新車M14Aを使用。これとは別に、スポーツカーレース用に開発されたアルファロメオV8エンジンをM7D(M7Aを改変)およびM14D(M14Aを改変)に搭載した。ドライバーは当初ハルムとブルース・マクラーレンが引き続き務めていたが、ブルースの死後は旧友だったガーニーがF1とCan-Amにスポット参戦したのち、新人ピーター・ゲシンが起用された。アルファロメオエンジン搭載車は主にアンドレア・デ・アダミッチがドライブした[7]。Can-Amではハルムがチャンピオンに返り咲き、その栄誉を亡きブルースに捧げた[8]
1971年
ドライバーはハルムとゲシンが残留。シーズン半ばにジャッキー・オリバーが加わったが、ゲシンはBRMへ移籍した。新車M19Aのデビュー戦となる開幕戦南アフリカGPで、ハルムは優勝目前まで行きながらマシントラブルで6位[9]。結局この年は表彰台に立つことはできず、コンストラクターズランキング6位に終わった。
1972年
ドライバーはハルムが残留し、前年のCan-Amチャンピオンのピーター・レブソンが8年ぶりにF1復帰。レブソンがアメリカのレース日程とバッティングした時はブライアン・レッドマンが代走を務めた。最終戦アメリカGPではジョディ・シェクターがスポット参戦でF1デビューを果たした。マシンは前年のM19Aおよびその改良版のM19Cを使用。この年からヤードレー化粧品がスポンサーとなり、カラーリングがオレンジからホワイトに変更された。ハルムが南アフリカGPで優勝し、表彰台圏内11回と高い信頼性を誇り、コンストラクターズランキング3位に浮上した。
F1以外ではペンスキーチームのマーク・ダナヒューの手により、コンストラクター(車体製造者)としてインディ500初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。
1973年
ドライバーはハルムとレブソンが残留、シェクターも引き続きスポット参戦。ドイツGPのみジャッキー・イクスもスポット参戦した。序盤はM19Cを使用したが、第3戦南アフリカGPからゴードン・コパック設計のくさび形マシンM23が登場し、ハルムが85戦目で初のポールポジションを獲得、レブソンは2勝(イギリスGPカナダGP)を挙げた。シェクターは5戦ノーポイントに終わったが、南アフリカGPとフランスGPではトップを走る好走を見せた。コンストラクターズランキングは前年と同じ3位となった。
1974年
マールボロカラーに塗られたM23でチャンピオンを獲得したエマーソン・フィッティパルディ1974年イギリスGP
マールボロと契約し、以降「マールボロカラー=マクラーレン」という関係は長期にわたって続くこととなった。この年は3台体制を敷き、残留したハルムとロータスから移籍したエマーソン・フィッティパルディがマールボロカラーで出走し、3台目は前年同様ヤードレーカラーを纏い、マイク・ヘイルウッドがドライブした。ヘイルウッドがドイツGPで負傷した後は、デイビッド・ホッブスヨッヘン・マスが代走を務めた。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。フィッティパルディとクレイ・レガツォーニ(フェラーリ)とのタイトル争いは最終戦までもつれ込んだが、フィッティパルディが2年ぶり2度目のドライバーズタイトル(マクラーレンとしては初)を獲得するとともに、初のコンストラクターズタイトルを獲得した。ハルムは開幕戦アルゼンチンGPで勝利するが、この年をもってF1を引退した。
一方、インディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされ(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)、F1とインディに集中した決断が正しく報われた年となった。このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、1965年ロータスに次ぐ2例目であった。
1975年
ドライバーはフィッティパルディが残留、前年終盤に加わったマスとの2台体制。フィッティパルディはしぶとく入賞を重ねるも、フェラーリのニキ・ラウダのスピードに付いていくことができず2勝止まりで2位。チームメイトのマスはスペインGPで初勝利を挙げた。コンストラクターズランキングは3位に後退。
1976年
ドライバーはマスが残留、フィッティパルディに代わりジェームス・ハントが加入。M23は4年目となったが依然戦闘力が高く、シーズン途中に投入したM26オランダGPでマスが出走した1戦のみにとどまった。この年もラウダが選手権をリードしていったが、第10戦ドイツGPでラウダが瀕死の重傷を負ってからはハントが勝利とポイントを重ねていき、チャンピオン争いは最終戦F1世界選手権イン・ジャパンまでもつれ込んだ。雨で混乱したレースとなった中でハントは3位に入賞し、ポイントでラウダを逆転して王座を獲得した。
インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。
1977年
ハントとマスのコンビは変わらず。ジル・ヴィルヌーヴイギリスGPで、ブルーノ・ジャコメリイタリアGPでそれぞれスポット参戦及びF1デビューを果たした。M23も既に時代遅れになりつつあり、前年登場したM26をシーズン半ばから実戦投入した。ハントはM26で3勝(イギリスGP、アメリカ東GP日本GP)したが、チャンピオン争いには加われなかった。
1978年
ハントは残留、マスに代わりパトリック・タンベイが加入。ジャコメリも数戦出走した。前年同様M26を使用するが、この年のF1を席巻したロータス・79をはじめとしたグラウンド・エフェクト・カーの台頭により急速に戦闘力を落としていき、表彰台はフランスGPの1回のみに終わり、コンストラクターズランキングも8位と低迷した。
1979年
タンベイは残留、ハントに代わりジョン・ワトソンが加入。マクラーレン初のグラウンド・エフェクト・カーとなるM28を投入し、M28B、M28Cと改変していくがいずれも失敗に終わり、イギリスGPからM29を投入したが、低迷を脱することはできなかった。
この年をもって、参戦意義が薄くなったとしてインディ500から撤退した。


1980年代[編集]

1980年 - 1984年[編集]

1980年
ロン・デニス
ワトソンは残留、タンベイに代わり新人アラン・プロストが加入。前年型のM29を改良したM29B、M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型のM30を1台投入した。プロストは開幕2戦で連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、第3戦南アフリカGPでは、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストがケガを負うこともあった(プロストがケガで欠場したアメリカ西GPスティーブン・サウスが代走)[6]。シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスF2チーム「プロジェクト4」が合併、長年に続くデニス主導のチーム体制が構築された。プロストは複数年契約をチームと結んでいたが、「合併でできた新チームは従来のチームとは別のチーム」という論理で契約を破棄し、ルノーへ移籍した。
1981年
ジョン・バーナードの設計によりカーボンファイバー製のモノコックを採用した初のF1マシン、MP4/1を出走させた。このモノコックは、アメリカユタ州ソルトレイクシティにあるハーキュリーズが実際の製造を請け負った[6]。車両は広く「マクラーレン」と呼ばれるが、この「MP4」は「マールボロ・プロジェクト4」を意味するものである[6]。プレス発表時のマシン名表記は"Marlboro MP4/1"とされ、シーズン中盤からはノーズに「Marlboro MP4」というロゴステッカーが貼られた。このMP4/1で戦闘力を取り戻し、ワトソンがイギリスGPでチームに4年ぶりの優勝をもたらした。チームメイトのアンドレア・デ・チェザリスは経験不足からクラッシュを度々起こしたが、無傷の生還を繰り返すことで皮肉にもカーボンファイバーモノコックの安全性を証明することになった。
1982年
1979年途中でF1を引退していた元ブラバムニキ・ラウダを復帰させることに成功。前年に登場したMP4/1を改良したMP4/1Bを使用し、ワトソンとともに4勝をあげトップチームへの復帰を果たした。シーズン終了後、テディ・メイヤーの持つ株を買い取りデニスがチームの実権を掌握する。
1983年
フラットボトム規制に伴い改変されたMP4/1Cを使用したが、もはやノンターボのDFVやDFYではターボエンジンには対抗できず、第2戦アメリカ西GPでワトソンが優勝した1勝[注釈 3]のみで、第5戦モナコGPでは2台とも予選落ちとなってしまった。TAGの協力を得て[注釈 4]ポルシェがターボエンジンを開発することになり、第12戦オランダGPからTAGのバッジネームを付けたポルシェ1.5リッターV6ターボエンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダは同マシンをドライブ。ワトソンも次戦イタリアGPからMP4/1Eをドライブした。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされるかたちで設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。
1984年
MP4/2を駆るニキ・ラウダ(アメリカGP,ダラス)
完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとしてプロストが4シーズンぶりに復帰。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストを史上僅差の0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとってドライバーズタイトルはジェームス・ハント以来8年ぶりで、コンストラクターズタイトルは10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した[10]。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていたミシュランが、このシーズンでF1から撤退した。


1985年 - 1989年[編集]

1985年、MP4/2Bで初のチャンピオンを獲得したアラン・プロスト(ドイツGP)
1985年
前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、フェラーリのミケーレ・アルボレートとの争いを制したプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入されたMP4/2Bの6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである[6]ヨーロッパGPでは腕を負傷したラウダに代わってワトソンが2年ぶりに復帰した[注釈 5]。この年をもってラウダが2度目の(そして最後の)引退を表明した。
1986年
コンストラクターズタイトルはホンダエンジンを搭載したウィリアムズに奪われたが、同チームのナイジェル・マンセルネルソン・ピケの確執の間隙を突き、プロストが最終戦で7ポイント差を逆転して2年連続ドライバーズタイトルを獲得した。引退したラウダに代わってケケ・ロズベルグがウィリアムズから移籍したが未勝利に終わり、同年をもって引退。
1987年
タイトルは獲得できなかったが、プロストが3勝を上げた。新たなチームメイトのステファン・ヨハンソンは2位2回を含む表彰台5回に終わった。シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。前年6月にデニスとプロストが来日してホンダ側にエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズとロータスの2チームへのエンジン供給を決めた後で断られ、2年越しに果たした[11]
1988年
1988年、ホンダエンジンを得て16戦中15勝を果たしたMP4/4(カナダGPでのアイルトン・セナ)
プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4シャシー、ホンダターボエンジンとの組み合わせは16戦中15勝[注釈 6]という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、終盤周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップ(完走扱い)したというもので、ドライバーいずれかがチェッカーを受けたレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。
1989年
MP4/5・ホンダ(1989年)
ターボエンジンが全面禁止されたことにより、ホンダは自然吸気V10エンジンを投入。前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題が発生した。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これにより最終戦を待たずしてプロストの3度目のチャンピオンが決まった。


1990年代[編集]

1990年 - 1994年[編集]

1990年
プロストがフェラーリへ移籍したため、フェラーリからゲルハルト・ベルガーをセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。だが、特にハンドリング性能で優位性を築いたフェラーリによって苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦日本GPまで持ち込まれ、ここでコンストラクターとドライバーの両タイトルを確定させた。しかし、日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアによってセナの2度目のチャンピオンが決まり、マンセルのフェラーリがマシントラブルでストップしたことでコンストラクターズタイトルも決定するという後味の悪い面もあった。また、依然として保守的な設計に強力なエンジンを組み合わせるというマシン開発を行ってきたため、他チームより空力研究やシャシー開発に遅れを取っていることが目立ち出すシーズンの始まりであった。
1991年
ホンダが前年から開発していたV12エンジンを導入し、空力やシャシー開発の遅れのテコ入れとしてライバルのフェラーリから加入したアンリ・デュランによって一定の改善が図られたマシンでシーズンを戦った。その結果、フェラーリの不振もありセナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成。
しかしシーズン中盤はルノーV10エンジンを搭載し、空力の鬼才と称されたエイドリアン・ニューウェイがデザインしたFW14を擁するウィリアムズが戦闘力を増して猛追撃を開始。こうした状況に至って、マクラーレンはシーズン途中でアクティブサスペンションセミオートマチックトランスミッションの開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらもウィリアムズ陣営のトラブルやミスにも助けられる形で結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの4年連続で獲得した。
この年、チームの無線はスクランブルがかかっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受されたことはチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。
後藤治ホンダを退社し、マクラーレンに移籍。同社でロン・デニスに次ぐエグゼクティブ・エンジニアに就任する。
1992年
体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を前年の改良型MP4/6Bで戦った後に新型MP4/7Aを出す予定だったが、ウィリアムズ側も前年のFW14元来の空力性能とルノーV10エンジンのトータルバランスの良さに加え、アクティブサスペンションなどのハイテク装備を搭載した改良型FW14Bを満を持して投入、その戦闘力に完全に圧倒される。第3戦ブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「ドライブ・バイ・ワイヤ」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aを予定より前倒しで投入するも全く歯が立たなかったばかりか、V8エンジンながらも秀でた空力とハンドリング性能を誇ったベネトン陣営にまで突き上げを食らう状況に陥る。数年来のエンジンパワーで空力性能の弱点を補う手法が完全に通用しなくなったシーズンとなり、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも逃す結果になった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打つ形で撤退した。またベルガーは古巣フェラーリへ移籍した。
1993年
フォードHBエンジンを使用したMP4/8で力走するセナ(ドイツGP
CARTのチャンピオンであるマイケル・アンドレッティと、ロータスから移籍してきたミカ・ハッキネンがチームに加入した。前年は休養して満を持してウィリアムズから復帰したプロストが圧倒的有利とされる中、セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に参戦することが決まった(ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった)。その後、セナは第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交わしていた。フォードワークス仕様のエンジンを供給されていたベネトンに対し、カスタマー仕様のフォード・コスワース・HBエンジンでパフォーマンスも劣っていた。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じワークス仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。しかし、前年までのホンダV12エンジンに比べて軽量なエンジンとなったことから、マシンの重量バランスの改善に繋がる。
この年のMP4/8は大幅な空力面の改良を施し、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、空力性能面でも依然としてウィリアムズとの差は大きかった。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもベネトンとの争いを制してウィリアムズに次ぐ2位となった。
アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦イタリアGPでの3位表彰台を最後にチームを離脱してアメリカへ帰国、これを受けてテストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦ポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回り、第15戦日本グランプリでも自身初の3位表彰台を得て、ウィリアムズへの移籍が決まったセナ離脱後の翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。
1994年
MP4/9を駆るハッキネン(イギリスGP 3位入賞)
ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビとなる。MP4/8のデザインを踏襲したMP4/9に、前年のフォード・コスワースからワークスのプジョーエンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦スペインGPではハッキネンがトップを走っていたが、エンジンブローでリタイアした。第7戦フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。これに業を煮やしたチームは複数年契約だったプジョーとの契約をわずか1年で破棄する事を決断、翌年はイルモアが開発するメルセデスエンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、2シーズン連続のエンジンサプライヤーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。


1995年 - 1999年[編集]

1995年
MP4/10Bを駆るハッキネン(イギリスGP
ナイジェル・マンセルと契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりにマーク・ブランデルをレース毎の契約で乗せることとした。マンセルは第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPで走ったが、予選でミカ・ハッキネンより遅く、決勝でもそれぞれ10位とリタイアに終わったのを最後にマンセルは事実上引退。元々デニスとマンセルは「犬猿の仲」であったが、メインスポンサーであるマールボロやFIA会長(当時)のバーニー・エクレストンらの意向が働くなどの政治的要因での加入であったとされ、シーズン開幕以前の段階で多くのF1関係者が早期に破局すると予想していた。
MP4/10はエアインテーク上にセンターウィングを搭載し、当時としてはユニークなデザインをしたマシンであった。メルセデスエンジンとのマッチングや空力が弱く、戦闘力不足はウィリアムズ、ベネトン、フェラーリと比べると明らかで、シーズン中にMP4/10BMP4/10Cとモディファイされた。
ハッキネンが虫垂炎になり、第15戦パシフィックGPではテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦日本グランプリでは復帰したハッキネンが2位入賞した。しかしハッキネンは、最終戦オーストラリアGPの予選中、パンクが原因でコンクリートウォールに激突し、選手生命を左右しかねない重傷を負った。ハッキネンを治療に専念させるため、アラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。
1996年
1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードとアドバイザーであるプロストで進めていた。ミカ・ハッキネンも2月に戻ってきて3か月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した[12]。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。MP4/11は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入した。信頼性の向上で完走&入賞数は増えたものの、依然として速さに課題を残すシーズンとなった。
このシーズンをもって23年間メインスポンサーだったマールボロが、フェラーリへスポンサードを1本化するに伴ってマクラーレンとの契約を終了、慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した[13]
ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが、ヒル解雇決定に抗議したことや、チーム株保有を巡って対立したことから11月にウィリアムズから離脱、マクラーレンとの契約を締結する。しかしウィリアムズは契約が残っていることを訴えて法廷闘争に持ち込んだ。その影響でニューウェイはいつからマクラーレンに加入できるかは流動的となった。
1997年
インペリアル・タバコドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。この年のMP4-12より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。開幕戦オーストラリア・第13戦イタリアGPでクルサードが、最終戦ヨーロッパGPでハッキネンがF1で初優勝し、年間で計3勝をあげた。その一方でハッキネンがトップを走っていた第9戦イギリスGP、第14戦オーストリアGP、そして4年ぶりにポールポジション(ハッキネンが獲得)に返り咲いている第15戦ルクセンブルクGPとメルセデスエンジンのトラブルによりリタイアをし、信頼性に課題を残すシーズンとなった。
技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦ハンガリーGPから加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。
シーズン終了後にグッドイヤーが「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更することになった。
1998年
前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せたMP4-12Bは、ブリヂストンタイヤへの習熟も兼ねて約8,000kmを走りこみ、ブレーキ・ステアリング・システムなどを搭載したMP4-13への開発に繋げた。開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして「3位以下を周回遅れにする」圧倒的な戦闘力を見せる。しかし第2戦ブラジルGPのレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、ブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とした(マクラーレン側は開幕前にFIAの技術部門から事前にレギュレーション違反ではないと承認を貰っていた)。
ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆るミハエル・シューマッハの対決が話題を呼び、最終戦日本GPまで、もつれ込む展開となった。最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。
1999年
MP4-14を駆るハッキネン(カナダGP
予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、MP4-14の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。また、フェラーリが第8戦イギリスGPまではミハエル・シューマッハ(このGPでのクラッシュでシューマッハは両足骨折の重傷を負い、タイトル争いから脱落)、第9戦オーストリアGPからエディー・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦ヨーロッパGPまで、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、オーストリアGPではアーバインにポイントを献上することとなった。第15戦マレーシアGPで決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まったかに見えたが、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。タイトル争いは最終戦日本GPまでもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損してリタイア。コンストラクターズタイトルは確実にポイントを稼ぎ続けたフェラーリに奪われてしまった。


2000年代[編集]

2000年 - 2004年[編集]

2000年
MP4-15を駆るハッキネン(アメリカGP
MP4-15を使用したこのシーズン、3連覇を狙うハッキネンは開幕戦オーストラリアGPと第2戦ブラジルGPでメカニカルトラブルを被り、ポイント獲得に出遅れた。また、オーストラリアGPでのスタートの速さについてフェラーリから抗議が出て、第4戦イギリスGPから電子制御系の新ルールが施行され、メルセデスエンジンの燃費悪化に繋がり、柔軟なピットストップ作戦が取れなくなった[14]。そして、フェラーリはマクラーレンとは違い、明確にミハエル・シューマッハをNo.1体制にして戦い、F1-2000の速さと信頼性で着実に勝ち星を上げ、ポイントを積み重ねていた。クルサードはメカニカルトラブル1回、失格1回以外は完走する安定した走りをしたため、中盤戦はハッキネンよりポイント数を上回り、一時期シューマッハのライバルと見られていた。ハッキネンは第8戦カナダGP終了時点で、ポイントリーダーのシューマッハに最大24ポイント差をつけられていたが、シューマッハが第9戦フランスGPをメカニカルトラブルで、第10戦オーストリアGPと第11戦ドイツGPで接触事故による計3戦連続リタイアをしている間に、ハッキネンはクルサードと共にシューマッハとの差を縮めていた。第12戦ハンガリーGP開始時点では1位シューマッハ56ポイント、2位クルサードとハッキネンが54ポイントで同点、4位ルーベンス・バリチェロ46ポイントと、鎬を削り合っている状況であった。ハンガリーGPと第13戦ベルギーGPでハッキネンが連勝し、第14戦イタリアGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンが2位、クルサードとバリチェロは接触でリタイアし、タイトル争いはハッキネンとシューマッハの二人に絞られていた。しかし第15戦アメリカGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンは痛恨のエンジントラブルでリタイアし、シューマッハはハッキネンに8ポイント差をつけてポイントリーダーに返り咲いた。残り2戦でこの差が響き、ドライバーズタイトルコンストラクターズタイトルをフェラーリに奪い取られた。
増大するテストワークの負荷を分散するためとレギュラードライバーが欠場したときの対策のため、サードドライバーとしてオリビエ・パニスの加入は、MP4-15の開発に貢献と効果をもたらした。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートをB・A・Rに確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年はアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはペドロ・デ・ラ・ロサが担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。
2001年
レギュレーション施行により、フロントウィングの搭載位置が5センチメートル上昇・ロールフープの強化・耐サイドインパクト強化・エンジンシリンダーブロックベリリウム合金の使用禁止[注釈 7]など、昨シーズンのMP4-15MP4-13MP4-14の発展型であったのに対して、MP4-16は完全に新設計されたマシンであった。
開幕戦オーストラリアGPではハッキネンがサスペンショントラブルにより、3年連続の開幕戦リタイアで始まった。デニスは作戦上ハッキネンが勝てたレースと語っているが[15]、後にハッキネンはこの事故で引退について初めて考えたと吐露している[16]。ここからハッキネンは第10戦フランスGPまでに、2戦に1回の割合でメカニカルトラブルを被り、チャンピオンシップ争いから脱落した。結果的にハッキネンは第15戦イタリアGPで休養宣言を行った。
クルサードはモナコGPでポールポジションを獲得したが、ラウンチコントロールのトラブルで最後尾からのスタートとなった。中盤戦まではこれ以外にメカニカルトラブルもなく2勝してポイントを重ねたが、速さでミハエル・シューマッハに差をつけられた。第11戦イギリスGPジョーダンヤルノ・トゥルーリとの接触事故でリタイアしたことにより、クルサードはタイトル争いから脱落した。最終戦日本GPではハッキネンに順位を譲られ3位入賞し、フェラーリのバリチェロと争っていたドライバーズランキング2位を手に入れた。10度の表彰台を得て自身最高のドライバーズランキング2位となったものの、チャンピオンのミハエル・シューマッハには、ほぼダブルスコアの大差をつけられた。
前シーズンでエアロダイナミクス担当のアンリ・デュランと、コンポジット担当のスティーブ・ニコルズがチームを去り、テクニカル・ディレクターのエイドリアン・ニューウェイが、友人でもあるジャガーのチーム代表兼CEOボビー・レイホールに誘われ、ジャガーと契約した。デニスはニューウェイを説得し、ジャガーへの移籍を翻意させることに成功したが、その間にマシン開発が停滞したこともフェラーリに独走された要因の一つとなった[16]
2002年
フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から[要出典]、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスミシュランへ変更したが、苦戦を強いられた。またハッキネンの後任として後輩のキミ・ライコネンを抜擢したが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の本格的な熟成作業はヨーロッパラウンドに入ってからになった。この年はモナコGPでクルサードが挙げた1勝にとどまり、タイトル争いに加わることができなかった。前年に休養宣言していたハッキネンは、第12戦ドイツGPで正式に引退を発表した。
2003年
トップチームが揃って、熟成された新車投入ができなかったため、旧型を大幅に改良させたマクラーレンが、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利するなど、順調なスタートを切ったが、特にクルサードが新予選方式に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。
2004年
2004年アメリカGP(キミ・ライコネン)
前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的にMP4-19はMP4-18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードはこの年、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去り、翌年からジャガーを買収のうえで参戦を開始するレッドブルへ移籍した。


2005年 - 2009年[編集]

2005年
ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、ルノーフェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。MP4-20ハンガリーGPから日本GPまでの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
この年は、前年コンストラクターズランキングを5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得て、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたわれたため、バーレーンGPサンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。
第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「West」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「West」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。
テクニカルディレクターであったニューウェイもレッドブルへ移籍。
2006年
2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットがテストドライバーに加わることになり、それに伴って5年間という長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。
2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更にメルセデスが対応しきれず、更にこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイが去った影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。ライコネンが3度のポールポジションを獲得するなど時折速さも見せ、結果としてはコンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
モントーヤがF1に嫌気がさしたため7月9日、翌2007年からはアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)することを発表。アメリカGPを最後にF1から去った。テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとして、シーズンの残りのレースに参戦した。
2007年
アロンソ駆るMP4-22(第2戦マレーシアGP
ライコネンがフェラーリへ移籍。代わりにルノーから2005年、2006年のワールドチャンピオンのフェルナンド・アロンソが加入し、チームメイトとして2006年のGP2チャンピオンのルイス・ハミルトンがF1デビューを果たすことになった。マクラーレンのドライバーが2名とも同時に入れ替わるのは初のことである。またメインスポンサーがイギリスの携帯電話会社のボーダフォンになった。
開幕戦はライコネンに敗れるが、アロンソ、ハミルトン共に速さを発揮し2006年の不振からの復活をアピールした。続く第2戦マレーシアGPでは見事フェラーリを破り、2005年ブラジルGP以来の1-2フィニッシュを達成した。第13戦のイタリアGP終了時までは、ドライバーズポイントで1位と2位、コンストラクターズポイントでも首位に立っており、コンストラクターズについてはほぼチャンピオンを手中に収めかけていた。
しかしシーズンが進むにつれて、アロンソ、ハミルトンのチームメイト間の確執が現れるようになり、ハンガリーGPの予選で暫定ポールポジションのアロンソがピットストップ時間を稼いだことで、ハミルトンが最後のアタックが出来なかった件に対し、アロンソは5グリッド降格、チームにはハンガリーGPでのコンストラクターズポイントは加算されないというペナルティを受けた。
更に後述の産業スパイ事件発覚によりコンストラクターズランキングから除外されたうえ、巨額の罰金を科せられた。残されたドライバーズタイトルは、ハミルトンが首位のまま中国GPを迎え、結果次第ではハミルトンのチャンピオンが確定するところだったがキャリア初のリタイアを喫する。そして最終戦のブラジルGPでランキング3位にいたライコネンに両ドライバーとも1点差で逆転チャンピオン獲得を許してしまう。このレースではウィリアムズとBMWザウバーの給油装置から、測定した燃料温度が低すぎる事実にもかかわらず、両チームにペナルティを科さないというスチュワードの裁定に対してマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。[17]11月15日、測定された燃料温度および大気温について疑いがあることから、両チームにペナルティを科さないことを決定しマクラーレンの控訴を却下した。[18]入賞者のニコ・ロズベルグ(ウィリアムズ)、ニック・ハイドフェルド(BMWザウバー)、ロバート・クビサ(BMWザウバー)などが失格になるとライコネン(フェラーリ)でなくハミルトンがドライバーズチャンピオンになるとわかったうえでの控訴だといわれていることから、このことに対してマクラーレンに在籍していたアラン・プロストやニキ・ラウダは、ロン・デニス代表とマクラーレンを同年の“最大の悪あがき王”と批判した。しかし、マクラーレンCEOのマーティン・ウィットマーシュは「ドライバーズチャンピオンのためではなく、燃料規則の明確化および規約の一貫性のために我々はこの控訴を提出した[19]」と語った。


2008年
2008年にチャンピオンを獲得したルイス・ハミルトン(同年の開幕戦オーストラリアGPにて)
ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり古巣のルノーへ復帰、代わりに前年ルノーに所属していたヘイキ・コバライネンが加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。
新車(MP4-23)の発表会は、初めてドイツのシュトゥットガルトのメルセデス本社で行われた。
2008年シーズンは、ハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサとの熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられたが、最終戦のブラジルGPでハミルトンが最終ラップで劇的な形のドライバーズタイトルを1ポイント差で手にする(チームとしては1999年以来のチャンピオン輩出)。コンストラクターズランキングは2位。
11月に、フォース・インディアがマクラーレンとの技術提携を結んだことが発表された(2009年シーズンより、エンジン類の供給もフェラーリからメルセデスにスイッチすることが決定している)。
2009年
新車のMP4-24の発表会で、ロン・デニスがチーム代表から退くことが発表された。後任は前CEOのウィットマーシュ[20]。しかし、デニスは今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言、レース界からの引退は否定した。
開幕戦オーストラリアGPでのセーフティカー先導中にハミルトンがヤルノ・トゥルーリを追い抜いた件について、「当時の無線記録及びメディアへの発言」と「スチュワードからの事情聴取」で、逆とも言える説明を行う。事情聴取時点では全無線記録が参照できなかったため、一旦はマクラーレン・ハミルトン側の主張が認められたが、後に無線記録が証拠として検証されスチュワードへの偽証・ミスリードが発覚。オーストラリアGPの結果から抹消された。
この件で、マクラーレンチームとしては事情聴取に出席したデイブ・ライアンを翌週停職処分に。同時に事情聴取に出席していたハミルトンは「スチュワードへの情報提供を控えるようにライアンから言われた」と説明、それ以上の処分・ペナルティはなかった。
その後、4月29日にパリでWMSCの臨時会議が開かれ、「ペナルティは3戦のグランプリ出場停止とする。ただし、今後12か月において、この件に関して新たな証拠が発見された場合、もしくはチームによってさらなるインターナショナル・スポーティングコードの151c項違反が行われた場合のみに適応する。」との裁定を下した[21]
4月16日にマクラーレングループ全体の再編が発表され、市販車部門であるマクラーレン・オートモーティブがグループから離脱し、さらにデニスが同社の会長に就任しレース部門から完全に引退することが明らかにされた[22]。レース部門のCEOにはウィットマーシュが返り咲く。
開幕からしばらくはMP4-24に競争力がなく、表彰台に上がれないレースが続いたが、大幅なアップデートを行ったドイツGPから競争力を取り戻し、ハンガリーGPシンガポールGPでハミルトンが優勝。最終的にコンストラクターズランキングはフェラーリを抑えて3位となった。
11月16日ダイムラーがプレスリリースを発表し、ブラウンGPの76.1%の株式を取得、2010年よりメルセデスGPとして参戦する事を発表した。それに伴いメルセデスとマクラーレンのパートナーシップは解消されるが、新たに2015年までのエンジン供給契約が発表された。

2010年代[編集]

2010年 - 2014年[編集]

2010年
2010年カナダグランプリワンツーフィニッシュを飾り、ランデブー走行を行う
ドライバーはハミルトンが残留、コバライネンに代わって前年度チャンピオンのジェンソン・バトンが加入した[23]
革新的なシステムであるFダクトを搭載したMP4-25は高速サーキットで戦闘力を発揮し、ライバルチームの注目の的となった[24]。シーズン序盤は予選で上位につけることに苦労していたが、難しいコンディションを読みきったバトンが一番乗りに2勝をあげる。その後レッドブルの同士討ちを尻目にトルコ、そしてカナダでハミルトンが2連勝を挙げポイントリーダーになり[25]、中盤以降までシーズンをリードした。しかし、シーズンもうひとつのトレンドであった、レッドブルRB6が搭載するブロウンディフューザーの開発に苦しみ失速[26]ドイツGPを境にレッドブルどころかフェラーリにも遅れを取り始めた。結果的に、バトンはベルギーGPでのセバスチャン・ベッテルに追突されてのリタイヤでタイトル争いから脱落し、ハミルトンもイタリアGPシンガポールGPの連続リタイアが響きタイトル獲得とはならなかった。最終的にはハミルトンが年間4位(3勝)、バトンが同5位(2勝)となり、コンストラクターズランキング2位で終えた。
2011年
2011年カナダグランプリで大逆転勝利を収めたバトン
ドライバーは引き続きハミルトンとバトン。
開幕前のテストでは走行距離を稼ぐことができずレッドブルやフェラーリの後塵を拝しているとの見方がなされていたが[27]、ハミルトンが開幕直後からトップランナーのレッドブルに食らいつく走りをみせ第3戦中国GPでシーズン初優勝を飾った。シーズン中盤以降は、ハミルトンがレースでのタイヤの使い方に悩み、接触などの荒いドライビングで非難されていた[28]のとは対照的にバトンの方は安定した成績をあげ、得意とするミックスウェザーで行われた第7戦カナダGP[29]第11戦ハンガリーGPで優勝を飾った。結局、このシーズン圧倒的な強さを見せたベッテルの独壇場を防ぐことはできなかったが、ベッテルの戴冠レースとなった第15戦日本GPでバトンが3勝目をあげ、シーズン12回の表彰台獲得という成績で以てフェラーリのアロンソとレッドブルのマーク・ウェバーとのドライバーズランキング2位争いを制し、2年連続でコンストラクターズチャンピオンシップもレッドブルに次ぐ2位となった。


2012年
ドライバーはコンビ3年目となるハミルトンとバトンのタッグ。
過去3年とは打って変わって開幕前のテストから好調が伝えられていた[30]。その下馬評通り開幕直後の2レースでは2戦連続でフロントローを独占。決勝も開幕戦オーストラリアGPにてバトンが優勝し、ハミルトンも3位となった[31]。予選では好走するもののなかなか結果に結びつかなかった[32][33]ハミルトンも第7戦カナダGPでシーズン初優勝を飾った。ヨーロッパラウンドに入ってからは徐々に周りに対するペースアドバンテージが失われていった[34]。特にバトンは精彩を欠き予選ではトップ10に飛び込むのにも苦しみ中盤戦の頃にはタイトル争いから脱落した[35]第10戦ドイツGPから再びペースを取り戻すと、夏休みを挟んで第11戦ハンガリーGPから第13戦イタリアGPまでチームとして3連勝を達成した。第14戦シンガポールGPではトップを快走していたハミルトンがリタイヤを喫し[36]、そこからレッドブルの後塵を拝するレースが続きこちらもタイトル争いから脱落した。第19戦アメリカGPでハミルトンが、最終戦ブラジルGPではバトンが勝利を飾り最後の2戦を連勝でシーズンを終えた。
同シーズンダブルタイトルを獲得したレッドブルに匹敵する成績を残し、データによってはマクラーレン・MP4-27は最速マシンという評価もあった[37]。にも関わらず前半戦はピット作業のミスが頻発し[38]、中盤戦に入ると信頼性トラブルが続いたことが両タイトルを遠ざけてしまった[39]。最終的にドライバーズランキングではハミルトンが4位、バトルが5位。コンストラクターズでは1位どころかフェラーリに抜かされて3位に転落してしまった。
2013年
ハミルトンがメルセデスへ移籍し、代わりにザウバーからセルジオ・ペレスが加入。またスポンサー面でもボーダフォンが同年限りでのスポンサード終了を発表する一方で[40]メキシコ人であるペレスの支援目的でテルメックスなどメキシコ系企業が新たに加わるなど、チームラインナップに大きく変化が見られた。
また同年5月には、2015年まで契約が残っていたメルセデスとのエンジン供給契約を1年前倒しして2014年一杯で終了し、2015年からはホンダエンジンの供給を受けることを発表した。ホンダは2008年の撤退以来7年ぶりの復帰となる。
この年はバトンが最終戦ブラジルGPで記録した4位が最高で、表彰台がゼロとなる1980年以来の大不振に終わった。コンストラクターズランキングではレッドブルが独走し、メルセデス、フェラーリ、ロータスが2位争いをする一方で、マクラーレンは大差をつけられた5位であった。ドライバーズランキングではバトンが9位、ペレスが11位。なお、完走扱いを含め、両ドライバーとも全戦完走を果たした。
シーズン終盤の11月、ペレスがわずか1年でチームを離脱[41]、後任として育成ドライバーのケビン・マグヌッセンを起用することが発表された[42]。ウィットマーシュによると新人であるマグヌッセンの下積みとして下位チームのシートを探したものの、あるチームに契約を破棄され、ペレスを放出してマグヌッセンを自チームに起用せざるを得なかったとのこと[43]
2014年
1月16日、ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOに復帰し、F1チームをその権限下に置くことを発表[44]。さらに2013年までロータスのチーム代表であったエリック・ブーリエがレーシングディレクターとしてチームに加入することが発表された。正式加入は2月3日[45]。当面チームは、チームCOOのジョナサン・ニールとブーリエが共同で代表を務める[46]。一方で前チーム代表のウィットマーシュについては、チームのWebサイトから名前が消え事実上更迭されたものの去就が不明となっていたが[47]、同年8月に正式に離脱が公表された[48]
ドライバーはバトンが残留。パートナーはペレスに代わりケビン・マグヌッセンが起用された。またリザーブドライバーとしてストフェル・バンドーンが起用された。[49]
この年は開幕戦オーストラリアGPこそマグヌッセンが2位、バトンが3位と2人のドライバーが2012年ブラジルGP以来となる表彰台を獲得するも、2戦目以降はバトンの4位が最高で表彰台圏内に入ることなくシーズンが終了した。
7月には最古参のスポンサーであるヒューゴ・ボスがメルセデスの支援に切り替えると発表された。
シーズン終了後の12月11日、フェラーリからアロンソが8年ぶりにマクラーレン復帰が決定した。なお、マグヌッセンはリザーブドライバーとして残留。

2015年 -[編集]

2015年
2015年マレーシアGPでのアロンソ(No.14)とバトン(No.22)
ドライバーはバトンが残留。フェラーリからアロンソが2007年以来のチーム復帰。前年、レギュラードライバーだったマグヌッセンはリザーブドライバーとなった。また、パワーユニットは20年間使用し続けたメルセデスから予定通りホンダへと変更された。ホンダのF1復帰は2008年以来、マクラーレンがホンダエンジンを搭載するのは1992年以来となる。
だが、V6ターボエンジンとERSシステムに苦しみ、ヘレスのテストで、アロンソがクラッシュするなどランキングは下位に低迷。だが、そんな中でもモナコでバトンがホンダエンジン勢初入賞を決めると、イギリスでアロンソが、ハンガリーでは悲願のダブル入賞を決めた。
ただ、パワーの劣るマシンを走らせるアロンソとバトンはフラストレーションが溜まる一方で、カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り[50]日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした[51]。コンストラクターズ選手権9位とチーム創立以来ワーストの結果となってしまった。それでも最終戦では、バトンがホンダエンジンよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスエンジンを搭載するウィリアムズのバルテリ・ボッタスをおさえたりアロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなどシーズン前半と比べると性能が向上していることが伺えた。
同年限りでリサーブドライバーを務めていたマグヌッセンがチームを去りルノーへ移籍した。
この年をもってポルシェ時代からチームのスポンサーを続けていたタグ・ホイヤーがレッドブルにスポンサー先を変更した。翌年からモエ・エ・シャンドンがスポンサーとなり、「CHANDON」のロゴを掲示することになった。
2016年
2016年マレーシアGPの予選に挑むアロンソ
ドライバーはアロンソとバトンが残留。
開幕戦オーストラリアGPでアロンソがエステバン・グティエレスとの接触で大クラッシュを喫し肋骨骨折と肺虚脱を患ったため[52]、次戦バーレーンGPはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンが代走することになった[53]。同GPがデビュー戦となったバンドーンが10位入賞を果たし、チームに今シーズン初のポイントをもたらした[54]。なお、アロンソは第3戦中国GPで復帰を果たしている[55]第4戦ロシアGPでアロンソが6位、バトンが10位となりダブル入賞を果たした。第5戦スペインGPではアロンソがマクラーレン・ホンダ復活後初のQ3進出を果たした。続く第6戦モナコGPでもアロンソがQ3進出、決勝ではアロンソが5位、バトンが9位に入り2度目のダブル入賞。オーストリアGPでは、天候がめまぐるしく変わる中で、バトンが予選5位を獲得し前車2台のペナルティにより3番手スタートとなった(決勝は6位入賞)。ハンガリーGPではアロンソとバトンが揃ってQ3進出を果たした。ベルギーGPではアロンソが最下位スタートからスタート直後の混乱をかいくぐり一時4位まで浮上。パワーコースのスパ・フランコルシャンで最終的に7位入賞を果たした。続くイタリアGPではポイントこそ獲得できなかったものの、アロンソがファステストラップを記録するなど着実な進化を見せた。最終的にドライバーズランキングはアロンソ10位、バトン15位となりコンストラクターズランキングは6位となった。この年をもってバトンが引退した。
一方、1980年からチーム運営に関わっていたロン・デニスが11月15日に行われた株主総会を受け、マクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを辞任した[56]。後任のCEOが決まるまでの運営は多数株主から成る執行委員会が暫定的に引き継ぐ[57]。同月21日、ザク・ブラウンがエグゼクティブディレクターの職に就くことに同意し、翌月正式に就任すると発表した[58]。なお翌年デニスは手持ちのチームの株式を全て売却し、37年に及ぶマクラーレンとの関係を完全に解消した[59]
メキシコGP前に、翌年からこの時点で最も大口スポンサーだったモービルが離脱し、レッドブルへの支援に切り替えると発表された。
2017年
アロンソが残留し、バンドーンがレギュラーに昇格。引退したバトンはアンバサダーという形でチームに残留[60]。元チャンピオンのミカ・ハッキネンがアンバサダーとしてチームに復帰した[61]。ロン・デニスの離脱に伴い、マシン名称がMP4からMCLに変更され「MCL32」となった[62]。なお、燃料メーカーがモービルに代わり、BP/カストロールとなる[63]
プレシーズンテストでホンダPUの信頼性およびパワー不足が露呈し、ホンダとの関係悪化[64]が露呈した。ただ、マクラーレン側はこの時点(少なくともシーズン序盤)ではホンダと協力して行く姿勢を見せており[65]、設計変更した「RA617H」の性能次第で決断するという状況で提携解消はあくまで最後の手段という段階で留まっていた。開幕戦オーストラリアGPではアロンソがサスペンションのトラブルでリタイアするまで入賞圏内の10位を走っていたが、アロンソは「通常のコースなら僕たちはもっとも遅いだろう」と酷評している[66]4月12日、アロンソはインディ500への参戦を表明し[67]。日程が重なる第6戦モナコGPはバトンが代走を務めることになった[68]。その直後の第3戦バーレーンGPではホンダPUのトラブルが連日発生する事態となり、バンドーンはスタートすらできず[69]、アロンソも「こんなパワー不足でレースをしたことはない!」と無線で叫ぶほどの状況の中走行したが[70]、完走目前でエンジントラブルが発生してリタイア(14位完走扱い)した[71]。第4戦ロシアGPでもバンドーンはフリー走行初日に、アロンソは決勝前のフォーメーションラップでERSのトラブルが発生しスタートできなかった。スペインGPではアロンソが予選7番手を獲得するが決勝では接触などで順位を落としてしまい12位フィニッシュ。この時点で唯一のノーポイントチームとなってしまった。アロンソが欠場したモナコGPは予選でバンドーンとバトンが揃ってQ3に進出したが、決勝は両者リタイアで終わり、2015年のチームワーストを更新する開幕6戦ノーポイントとなった[72]。第7戦カナダGPではアロンソがレース終盤まで入賞圏内の10位を走行していたが、パワーユニットにトラブルが発生して入賞を逃した。アゼルバイジャンGPでアロンソが9位に入り、ようやくシーズン初ポイントを獲得した。
だが、ベルギーGPではレースパフォーマンスに対する不満を無線で繰り返し訴え、雨が降らないことを確認すると突如エンジントラブルを訴えてリタイア。これについて「アロンソがパフォーマンスの低さに嫌気が差して故意にリタイアした」との疑念が持たれるも否定するという一幕があった[73]。これ以降アロンソはホンダPUを擁護する一面がなくなり[74]、アロンソはレース後に「ホンダエンジンでなければフロントローを取れた」と発言[75]を筆頭に政治的な駆け引きが目立つようになり、ホンダPU批判かつマクラーレンのシャシーへの称賛へ傾注していくようになる。また、チーム残留の条件としてちらつかせるなど[76]して暗にエンジン変更を強要するような姿勢を打ち出した。この頃になるとマクラーレンも徐々にエンジン変更に向けて動き出す。当初はホンダとザウバーが仮契約を結んだことを受け[77]、これに合わせてマクラーレンもホンダと手を切ると噂されていたが、ザウバーは変更によってマシン開発に影響が出るリスクを許容できなかったため[78]、ホンダとの契約を破棄。その後他のPUの供給を打診するも、メルセデスとフェラーリはこれを拒否[79]。残るはルノーのみだったが、すでにルノーは3チームに供給しておりレギュレーションにより3チームを超えて供給することが制限されているため、ルノーが4チームへの供給に難色を示したこともあって供給を受けるには他のチームがルノーとの契約を破棄する必要があった。しかしトロ・ロッソがホンダPUを搭載するとの噂が流れると、そのトロ・ロッソが現在契約しているルノーPUをマクラーレンが手に入れることができる可能性が出てきた[80]。トロ・ロッソにすればホンダからのPU独占供給およびワークス待遇を受けられ、さらに親チームのレッドブルにも将来的にホンダからのワークス待遇を受けられる見込みもあり、三者にとって都合のいい展開であった。しかしルノー側はトロ・ロッソとの契約終了の代わりにカルロス・サインツJr.の獲得を要求したこともあり、状況が複雑化。そして第14戦シンガポールグランプリのフリー走行1回目の後に、ホンダとの契約を2017年いっぱいで解消することが発表され、同時に2018年からルノーのワークス仕様パワーユニットの供給を受けることが発表された[81](同時にサインツのルノーへの「レンタル移籍」、ホンダとトロ・ロッソの2018年からのPU供給契約も発表)。パワーユニット変更を発表したシンガポールGPと次のマレーシアGPでバンドーンが7位入賞を果たした。アロンソは終盤3戦で連続入賞を果たし、辛うじてバンドーンのポイントを上回った。
かつて一時代を築いた「マクラーレン・ホンダ」の復活は3年で幕を閉じるという不本意な結果に終わった。ホンダPUのパフォーマンスの低さにマクラーレンが我慢の限界で手を切るという形になったが[82]、バーニー・エクレストンは「いろんなことがうまくいかなかったのはホンダのせいではない。マクラーレンのせいだ」と指摘、「毎日毎日、彼らは協力して働くのではなく、あらゆることで戦いをしかけていた。愚かなことだ」とマクラーレン側の態度を批判[83]。他にも、ホンダに対しPUの設計に条件を付けることやホンダによる財政支援のメリットを軽視する姿勢などを批判している者もいる[84]。また、アロンソについては政治的駆け引きの一環でホンダばかり批判しているという見方もある[85]
アロンソが参戦するインディ500は、アンドレッティ・オートスポーツの協力の下「マクラーレン・ホンダ・アンドレッティ」のエントリー名で戦うことになった[86]。形は大きく異なるが、1979年以来38年ぶりにインディ500でマクラーレンの名が復活することになった。アロンソは初参戦で予選5番手となり、決勝でも27周でラップリーダーとなったが、ここでもエンジントラブルが発生しリタイアとなった[87]
2018年
ドライバーはアロンソとバンドーンが残留。燃料メーカーはペトロブラスとスポンサー契約。開幕前のテストではシャシー関連のトラブルが多かったうえ[88][89]、初歩的なトラブルもあり[90]、アロンソは速さを見せたものの、満足な周回をこなせなせずにテストを終えた。そのため、マクラーレンに対し疑念を抱くメディア[91]がこの頃から存在していた。
開幕戦オーストラリアGPではアロンソが5位、バンドーンが9位とダブル入賞。第5戦まで連続入賞を果たし、チームが本命と称する「Bスペック」を導入した第5戦でアロンソが今季初のQ3進出を達成した。しかし同じPUを積むレッドブルとルノーが開幕戦から安定してQ3進出や上位あるいは表彰台を獲得し、ホンダPUの交換先となったトロ・ロッソにはポイントでは上回っているものの、パフォーマンス面ではトロ・ロッソは好不調が激しいながらも好走した時には結果を出しており、現にQ3進出回数も負けつつある。実際、第6戦のアロンソのリタイアをきっかけに成績が下降し始め、結果的にアロンソが幾度か入賞しているものの、両名でQ3進出はおろかQ2にも進出出来ないなど勢いに陰りが見え始め、前年ホンダに全責任を押し付けてきた(=シャシー性能だけは高いと考えていた)マクラーレンに対し「実際はシャシーにも不振の原因があったのでは」という疑念の目が向かれ始める[92]。アロンソは前年にもシャシー関連を賞賛しながら、同年のマレーシアGPの後に2018年はレッドブルと比較されることになる[93]という達観したコメントをしていた。そして、フランスGP予選の終了後にアロンソが前年のPU批判から手のひらを返すように「クルマが遅いんだよ」とチーム側をストレートに批判[94]している。また、バンドーンも前年はチームを擁護する発言をしていたが、スペインGPのリタイアをきっかけにチームの擁護はしなくなり[95]、モナコGPでのレース戦略について批判[96]したのをきっかけにチーム批判が目立つようになり、特に彼の方にマシンに関するトラブルが集中したため、アロンソ以上にマシンを酷評している発言が目立っている[97]。そのうえ、チームも前年の豪語から一転して予防線を張るような発言[98][99]が増え、チームの公式Twitterにも世界中のファンから不振に対する批判の声が強まっている[100]
他にも、元F1ドライバーで解説者のジョリオン・パーマーは、パフォーマンス、信頼性、コストの3つの観点から「(マクラーレンは)高い金を払って恥を晒しただけ」と評し[101]、元代表のウィットマーシュはチーム内に不協和音が生じているとする一部報道を認めた上で、「マクラーレンは取り組み方を大きく変える必要がある。主要メンバー間に政治的なしがらみが多過ぎる。私は、彼らの多くはチームを去るべきだと思っている」とコメント[102]。前年まで在籍していたバトンも「非常に良いシーズンを送っている」と前置きした上で「“F1でベストのシャシー”と豪語したことで、期待外れの印象を与えている」とチームの姿勢に苦言を呈している[103]
7月4日、レーシングディレクターのブーリエが更迭され、ジル・ド・フェランがスポーティングディレクターとしてチームを統括することが発表された[104]。8月14日、アロンソは「2019年シーズンはF1に参戦しない」ことを表明し、今季限りのマクラーレン離脱が確定。ただし「F1引退」という表現は用いずに将来のF1復帰の可能性に含みを持たせた[105]が、当人は後日、F1に復帰する意志はないと表明[106]した。8月16日、アロンソの後任にカルロス・サインツの起用が発表。9月3日にはストフェル・バンドーンの当季限りでの放出と、その後任としてランド・ノリスの起用[107]が相次いで発表された。

マクラーレンの産業スパイ疑惑[編集]

2007年7月、フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する秘密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。

フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が捜査を進めていた。その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。

  • 7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供されたとする事実を告発した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。
  • 7月26日 - 世界モータースポーツ評議会 (WMSC) に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため、証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった[108]
  • 9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。
  • 9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された[109]
    • 2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。
    • ポイント剥奪によって失われる収支を含め、1億ドル(約114億円)相当の罰金を課す。
    • チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない(フェルナンド・アロンソルイス・ハミルトンの二人のドライバーズポイントはそのまま保持。残りのレースで獲得したポイントも通常通り加算される)。
    • WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの2008年シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。
  • 10月24日 - マクラーレンが受け取るはずだった賞金やテレビ分配金が1億ドルから差し引かれ、罰金額が「5000万ドル(約75億円)以上」に減額された[110]
  • 12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報が組み込まれていないかどうかを調査させ、詳細な報告書を提出させた。これにより、マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCは2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において、マクラーレンやフェラーリをはじめ、他のチームにも、報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。
  • 12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ウィットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認め、それを謝罪し、2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の書簡をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。[111]
  • 12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。

カラーリング[編集]

イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年から1971年まで、車体はマクラーレンのコーポレートカラーであるパパイヤオレンジに塗られていた。

1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。

その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた[注釈 1]。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。

1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに行われていた。

2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦スペインGPからグラファイトグレーを基調とした新カラーリング[112]に変更された。

2016年11月にロン・デニスが退陣したことに伴い、翌2017年からオレンジを基調としたカラーリングが復活した[113]。2018年のMCL33では1968年から1971年と同じパパイヤオレンジが採用された[114]

例外[編集]

上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代などに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。

マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いていた。

マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー[編集]

新人ドライバーの起用[編集]

フェラーリやマクラーレンが新人ドライバーを起用することはめったに無かったが、2007年のルイス・ハミルトン、2014年のケビン・マグヌッセン、2016年のストフェル・バンドーン(2017年にフル参戦)と、近年ではルーキードライバーを起用することが増えてきている。2000年代以前には1995年にケビンの父親であるヤン・マグヌッセンを1戦だけの代役として起用したこともある。

変遷表[編集]

F1[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング ポイント 優勝数
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M2B F フォード406
(3.0L V8)
セレニッシマM166
(3.0L V8)
シェル? ブルース・マクラーレン 9位(フォード)
12位(セレニッシマ)
2
1
0
0
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M4B
M5A
G BRM P56
(2.0L V8)
BRM P142
(3.0L V12)
シェル ブルース・マクラーレン 8位 3 0
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Joakim Bonnier Racing Team (M5A)
*Anglo American Racers (M7A)
M5A
M7A
G BRM P142
(3.0L V12)
フォードDFV
(3.0L V8)
シェル
ガルフ
デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
2位(フォード)
10位(BRM)
48
3
3
0
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Team Lawson (M7A)
*Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing (M7B)
M7A
M7B
M7C
M9A
G

D

フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
デレック・ベル
5位 38(40) 1
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Team Surtees (M7C)
*Ecurie Bonnier (M7C)
M7C
M14A
M7D
M14D
G

F

フォードDFV
(3.0L V8)
アルファロメオTipo33/3
(3.0L V8)
ガルフ デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ピーター・ゲシン
ダン・ガーニー
アンドレア・デ・アダミッチ
ナンニ・ギャリ
5位(フォード)
NC(アルファロメオ)
35
0
0
0
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Ecurie Bonnier (M7C)
*Penske-White Racing (M19A)
M14A
M19A
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・ゲシン
ジャッキー・オリバー
6位 10 0
1972年 ヤードレー・チーム・マクラーレン M19A
M19C
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ブライアン・レッドマン
ジョディー・シェクター
3位 47(49) 1
1973年 ヤードレー・チーム・マクラーレン M19A
M19C
M23
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ジョディー・シェクター
ジャッキー・イクス
3位 58 3
1974年 マールボロ・チーム・テキサコ
ヤードレー・チーム・マクラーレン
* Scribante Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
デニス・ハルム
マイク・ヘイルウッド
ヨッヘン・マス
デイビッド・ホッブス
1位 73(75) 4
1975年 マールボロ・チーム・テキサコ
*Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
ヨッヘン・マス
3位 53 3
1976年 マールボロ・チーム・マクラーレン M23
M26
G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
2位 74(75) 6
1977年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Chesterfield Racing (M23)
*Iberia Airlines (M23)
M23
M26
G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
ジル・ヴィルヌーヴ
ブルーノ・ジャコメリ
3位 60 3
1978年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Liggett Group/BS Fabrications (M23, M26)
*Centro Asegurador F1 (M23)
*Melchester Racing (M23)
M26 G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
パトリック・タンベイ
ブルーノ・ジャコメリ
8位 15 0
1979年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Lowenbrau Team McLaren (M23)
M26
M28
M28B
M28C

M29
G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
パトリック・タンベイ
7位 15 0
1980年 マールボロ・チーム・マクラーレン M29B
M29C
M30
G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
アラン・プロスト
スティーブン・サウス
9位 11 0
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング ポイント 優勝数
1981年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル M29C
M29F
MP4/1
M フォードDFV ユニパート ジョン・ワトソン
アンドレア・デ・チェザリス
6位 28 1
1982年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1B M フォードDFV ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
2位 69 4
1983年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1C
MP4/1E
M フォードDFY
(3.0L V8)
TAG TTE PO1
(1.5L V6ターボ)
ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
5位(フォード)
NC(TAG)
34
0
1
0
1984年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2 M TAG TTE PO1 シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
1位 143.5 12
1985年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2B G TAG TTE PO1 シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
ジョン・ワトソン
1位 90 6
1986年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2C G TAG TTE PO1 シェル アラン・プロスト
ケケ・ロズベルグ
2位 96 4
1987年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/3 G TAG TTE PO1 シェル アラン・プロスト
ステファン・ヨハンソン
2位 76 3
1988年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/4 G ホンダRA168E
(1.5L V6ターボ)
シェル アラン・プロスト
アイルトン・セナ
1位 199 15
1989年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5 G ホンダRA109E
(3.5L V10)
シェル アイルトン・セナ
アラン・プロスト
1位 141 10
1990年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5B G ホンダRA100E シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1位 121 6
1991年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6 G ホンダRA121E
(3.5L V12)
シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1位 139 8
1992年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6B
MP4/7A
G ホンダRA122E,RA122E/B シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
2位 99 5
1993年 マールボロ・マクラーレン・フォード MP4/8 G フォードHB5,7,8
(3.5L V8)
シェル アイルトン・セナ
マイケル・アンドレッティ
ミカ・ハッキネン
2位 84 5
1994年 マールボロ・マクラーレン・プジョー MP4/9 G プジョーA6
(3.5L V10)
シェル ミカ・ハッキネン
マーティン・ブランドル
フィリップ・アリオー
4位 42 0
1995年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/10
MP4/10B
MP4/10C
G メルセデスFO110
(3.0L V10)
モービル ミカ・ハッキネン
マーク・ブランデル
ナイジェル・マンセル
ヤン・マグヌッセン
4位 30 0
1996年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/11 G メルセデスFO110 モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4位 49 0
1997年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-12 G メルセデスFO110E,
メルセデスFO110F
モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4位 63 3
1998年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-13 B メルセデスFO110G モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
1位 156 9
1999年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-14 B メルセデスFO110H モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2位 124 7
2000年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-15 B メルセデスFO110J モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2位 152 7
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング ポイント 優勝数
2001年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-16 B メルセデスFO110K モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2位 102 4
2002年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17 M メルセデスFO110L モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3位 65 1
2003年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17D M メルセデスFO110M モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3位 142 2
2004年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-19
MP4-19B
M メルセデスFO110Q モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
5位 69 1
2005年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス
チーム・マクラーレン・メルセデス
MP4-20 M メルセデスFO110R モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
アレクサンダー・ヴルツ
2位 182 10
2006年 チーム・マクラーレン・メルセデス MP4-21 M メルセデスFO108S
(2.4L V8)
モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
3位 110 0
2007年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-22 B メルセデスFO108T モービル フェルナンド・アロンソ
ルイス・ハミルトン
EX 0(203) 8
2008年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-23 B メルセデスFO108V モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コバライネン
2位 151 6
2009年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-24 B メルセデスFO108W モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コバライネン
3位 71 2
2010年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-25 B メルセデスFO108X モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
2位 454 5
2011年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-26 P メルセデスFO108Y モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
2位 497 6
2012年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-27 P メルセデスFO108Z モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
3位 378 7
2013年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-28 P メルセデスFO108F モービル ジェンソン・バトン
セルジオ・ペレス
5位 122 0
2014年 マクラーレン・メルセデス MP4-29 P メルセデスPU106A Hybrid
(1.6L V6ターボ)
モービル ジェンソン・バトン
ケビン・マグヌッセン
5位 181 0
2015年 マクラーレン・ホンダ MP4-30 P ホンダRA615H
(1.6L V6ターボ)
モービル フェルナンド・アロンソ
ジェンソン・バトン
ケビン・マグヌッセン
9位 27 0
2016年 マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム MP4-31 P ホンダRA616H モービル フェルナンド・アロンソ
ジェンソン・バトン
ストフェル・バンドーン
6位 76 0
2017年 マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム MCL32 P ホンダRA617H BP/カストロール フェルナンド・アロンソ
ストフェル・バンドーン
ジェンソン・バトン
9位 30 0
2018年 マクラーレンF1チーム MCL33 P ルノーR.E.18
(1.6L V6ターボ)
BP/カストロール フェルナンド・アロンソ
ストフェル・バンドーン
6位 62 0
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング ポイント 優勝数

*太字はドライバーズタイトル獲得者
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)

Can-Am[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M1A,M1B.M1C G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M6A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8B G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8D G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8F G シボレー STP デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1972年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M20 G シボレー ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン

資本[編集]

  • F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
  • 2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であったダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強かった。
  • 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。
  • 2009年11月にメルセデス・ベンツとマクラーレンのパートナーシップ解消が発表されたことに伴い、メルセデス保有分の40%の株式については2011年までにマクラーレン側が買い戻すことが発表されている。なお買い戻し価格や、買い戻した後の株式の扱いについては公表されていない。なおマクラーレン側の買い戻しの結果、2010年3月現在でメルセデス側の持株比率は約11%にまで低下している[115]
  • 2016年11月にロン・デニスの退陣が決まった時点の株式保有比率は、デニスとオジェが25%、マムタラカトが50%となっていた[57]が、デニスは翌2017年6月に全株式を売却した[116]

マクラーレン・グループ[編集]

(主な会社のみ)

モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称はTAGエレクトロニクスTAGエレクトロニック・システムズ
2008年よりマイクロソフトと共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられるECUの供給を行っているほか、2012年からはNASCARスプリントカップシリーズインディカー・シリーズにもECUの供給を行っている。
  • マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
  • マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当

移動体テレメトリーシステム[編集]

マクラーレンは1980年代からデータ分析による効率化を徹底しており、レーシングカーやドライバーに取り付けたセンサーからリモートでデータを転送し、リアルタイムで分析する移動体テレメトリーシステムを採用している。[117][118] テレメトリーシステムには1997年から技術提携関係にあるドイツのソフトウェア大手SAPの高速データ処理プラットフォーム「SAP HANA」を使用して、タイヤ交換や部品交換が必要なタイミングを計算し、マシンを最適な状態に保つようにしている。[117][118]

このシステムから得られた情報によって勝敗の90%がレース終了前に予測できるようになった。[119]

注釈[編集]

  1. ^ a b 1974年からマールボロがタイトルスポンサーとなるが、1974年は3台体制のうちヤードレイ車も1台のみ参戦した
  2. ^ インディ500用のエンジンを改造。コスワースが製造したフォード・コスワース・DFVエンジンは翌1967年に登場する
  3. ^ 予選ではワトソン22位、ラウダ23位と後方に沈んだが、決勝では追走に次ぐ追走でワトソンが優勝、ラウダが2位となり、ワン・ツー・フィニッシュを達成した
  4. ^ TAGは1980年からウィリアムズをスポンサードしていたが、ロン・デニスはマンスール・オジェにチーム株式の保有を持ちかけ、TAGとマクラーレンによる新組織「TAG Turbo Engines」が設立された。以後、現在までマンスール・オジェは株式を保有し続けている。
  5. ^ 前年のドライバーズチャンピオン以外でカーナンバー1を使用した最後のケースとなった
  6. ^ チームとしての年間最多勝記録は2014年にメルセデスが16勝するまで、エンジンサプライヤーとしての年間最多勝記録は1995年にルノーが16勝するまで破られなかった。
  7. ^ メルセデスエンジンのシリンダーブロックは、軽量なベリリウム合金を使用していたが、フェラーリが「ベリリウム合金は人体に有害である」という抗議をして、使用禁止となった。

脚注[編集]

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  1. ^ マクラーレン、2018年もタイトルスポンサーを獲得できず”. F1-Gate.com (2017年12月20日). 2017年12月20日閲覧。
  2. ^ トロ・ロッソ、2018年は「レッドブル・トロロッソ・ホンダ」としてF1参戦”. F1-Gate.com (2017年12月10日). 2017年12月10日閲覧。
  3. ^ a b 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.29
  4. ^ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.50-51
  5. ^ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.90
  6. ^ a b c d e Mclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6
  7. ^ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.111
  8. ^ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.102
  9. ^ 「F1全史 1971-1975」(ニューズ出版) P.22
  10. ^ アラン・ヘンリー 『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、ソニー・マガジンズ、1991年、129頁。
  11. ^ 「F1走る魂」(海老沢泰久著、文藝春秋)pp.308 - 309)
  12. ^  『AS+F - '96年開幕直前号』 三栄書房、1996年、4-5頁。
  13. ^  『AS+F - '96年ポルトガルGP号』 三栄書房、1996年、18-19頁。
  14. ^  『F1倶楽部』 双葉社、34号、2000年、98頁。
  15. ^  『GPX』 オーストラリアGP号、山海堂、2001年、10頁。
  16. ^ a b  『2001F1総集編 - AS+F増刊』 三栄書房、2001年、30-34頁、110-111頁。
  17. ^ McLaren Appeal- (FIAプレスリリース 2007年10月23日)
  18. ^ DECISION OF THE INTERNATIONAL COURT OF APPEAL- (FIAプレスリリース 2007年11月16日)
  19. ^ McLaren still hope for fuel rules clarity- (autosport.com 2007年11月16日記事)
  20. ^ デニス 代表職を退任(GPUPDATE.net)
  21. ^ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2009年4月29日)
  22. ^ McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company - 公式プレスリリース(2009年4月16日)
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  25. ^ “ハミルトンがドライバーズ選手権首位に浮上”. espnf1.com. (2010年6月14日). http://ja.espnf1.com/canada/motorsport/story/20282.html 2018年11月17日閲覧。 
  26. ^ “アップデートを取り外したマクラーレン”. espnf1.com. (2010年7月10日). http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/22752.html 2018年11月17日閲覧。 
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  46. ^ 事実上のチーム代表だとブーリエ - ESPN F1・2014年2月21日
  47. ^ マーティン・ウィットマーシュ、マクラーレンでの将来はいまだ不明 - F1-gate.com・2014年3月6日
  48. ^ ウィットマーシュが正式にマクラーレンを離脱 - オートスポーツ・2014年8月27日
  49. ^ Vandoorne gets McLaren reserve role - F1 Fanatic・2014年1月23日
  50. ^ フェルナンド・アロンソ、燃料セーブの指示を拒否 - F1-gate.com・2015年6月8日
  51. ^ フェルナンド・アロンソ、レース中に怒りの無線 「GP2のエンジンかよ!」 - F1-gate.com・2015年9月27日
  52. ^ フェルナンド・アロンソ、肋骨骨折と肺虚脱. F1-Gate.com(2016年4月1日).
  53. ^ フェルナンド・アロンソ、F1バーレーンGPを欠場 / マクラーレン・ホンダ. F1-Gate.com(2016年3月31日).
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  118. ^ a b マクラーレン・ホンダのレーサー、ジェンソン・バトンがSAPジャパンに登場 – F1レースに起きたデジタル変革とは –
  119. ^ マクラーレンとメルセデスAMGが実践!超膨大センサーデータのリアルタイム解析による予見分析

関連項目[編集]

フロントノーズに「ジャンプ」のロゴを貼った、1991年のMP4/6

外部リンク[編集]