マクラーレン

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イギリスの旗 マクラーレン・ホンダ
エントリー名 マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム
McLaren Honda Formula 1 Team
チーム国籍 イギリスの旗 イギリス
チーム本拠地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
サリー州ウォキング
チーム代表者 ヨースト・カピート
(CEO)
エリック・ブーリエ
(レーシングディレクター)
テクニカルディレクター ティム・ゴス
(テクニカルディレクター)
ニール・オートレイ
(デザイン・開発プログラムディレクター)
ピーター・プロドロモウ
(エアロダイナミシスト)
ドライバー {{{2017ドライバー}}}
テストドライバー {{{2017テストドライバー}}}
シャーシ {{{2017シャーシ}}}
エンジン {{{2017エンジン}}}
タイヤ {{{2017タイヤ}}}
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1966-
出走回数 786 (780スタート)
コンストラクターズ
タイトル
8 (1974, 1984, 1985, 1988, 1989, 1990, 1991 ,1998)
ドライバーズ
タイトル
12 (1974, 1976, 1984, 1985, 1986, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998, 1999, 2008)
優勝回数 182
ポールポジション 155
ファステストラップ 152
F1デビュー戦 1966年モナコGP
初勝利 1968年ベルギーGP
{{{前年度}}}年順位 {{{前年度順位}}}
(記録は2015年最終戦アブダビGP終了時)
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マクラーレン・レーシング・リミテッドMcLaren Racing Limited)は、1963年ブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。

概要[編集]

ブルース・マクラーレン

F1ドライバー・ブルース・マクラーレンにより設立され、1966年よりF1に参戦し続けている。1970年にブルース・マクラーレンが事故で亡くなってからはテディ・メイヤーがチーム運営を引き継いだ。1980年ロン・デニスが率いる「プロジェクト4」と合併して現在の体制となった。

2016年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。

その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップにおいて1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。

2016年現在、世界三大レースである「モナコGPル・マン24時間レースインディ500」の全てを制したコンストラクター(車体製造者)[注釈 1]としても知られている。

タイトルスポンサーはヤードレー1972年 - 1974年[注釈 2])→マールボロ(1974年 - 1996年)→ウエスト1997年 - 2005年シーズン半ば)→ボーダフォン2007年 - 2013年)と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため、正式エントリー名は「マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム(McLaren Honda Formula 1 Team)」となっている。

歴史[編集]

1960年代[編集]

  • 1963年、ブルース・マクラーレンにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングが設立
  • 1966年モナコGPでF1デビュー。
1969年ドイツグランプリ
  • 1966年と1967年はブルース・マクラーレンの乗る1台のみのエントリーだった。マクラーレンはF1に参戦するかたわら、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムのコンビでM1B(1966年)とM6A(1967年)を駆り、Can-Amにも参戦した。
  • 1968年、この年より2台をエントリーし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。ブルース・マクラーレンはブランズハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、同年のベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。
  • 1969年、ブルース・マクラーレンによる1回の優勝を含む5回の表彰台を得る。デニス・ハルムはM8Bを駆り、Can-Amの各レースを制覇。

1970年代[編集]

1970年

  • 悲劇にいきなり襲われた。6月2日グッドウッド・サーキットでCanAm用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡した[1]。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、CanAm、F1、F2、インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。

1972年

  • ペンスキーチームのマーク・ダナヒューの手により、コンストラクター(車体製造者)としてインディ500初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。スポンサー面では1972年からはヤードレイ化粧品を獲得した。

1974年

  • この決定は正しく報われ、1974年にF1において初のコンストラクターズタイトルを獲得するとともに、やはり初となるドライバーズタイトルをエマーソン・フィッティパルディの手により獲得し、同時にインディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされた(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)。このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、1965年のロータスに次ぐ2例目であった。マールボロと契約し[注釈 2]、この年からマールボロカラー=マクラーレンといった関係は長期にわたって続くこととなった。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。

1976年

  • この年のF1選手権ではジェームス・ハントが、雨で混乱したレースとなった最終戦F1世界選手権イン・ジャパンフェラーリニキ・ラウダをポイントで逆転して王座を獲得。インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。その後、参戦することの意義が薄くなったとして、1979年限りでインディ500から撤退した。

1980年代[編集]

1980年-1984年[編集]

1980年

  • 前年型のM29改良型である、M29B,M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型のM30を1台投入した。開幕戦でアラン・プロストをデビューさせ、そのレースと次のレースで連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、キャラミで行われた南アフリカグランプリでは、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストがケガを負うこともあった[1]。シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスのチーム、プロジェクト4の2チームが合併し、現在まで続くマクラーレンの体制の基礎が作られた。プロストは複数年契約をチームと結んでいたが、「合併でできた新チームは従来のチームとは別のチーム」という論理で契約を破棄し、ルノーへ移籍した。

1981年

1982年

1983年

  • TAGのスポンサーでポルシェターボエンジンを開発。一貫して使い続けてきたコスワースDFVエンジンに別れを告げ、第12戦オランダGPから、そのポルシェ1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダは同マシンをドライブ。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされるかたちで設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。

1984年

MP4/2を駆るニキ・ラウダ(アメリカGP,ダラス)
  • 完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとして、ルノーにいたアラン・プロストが4シーズンぶりに復帰した。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストをわずか0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとって、ドライバーズタイトルはジェームス・ハント以来8年ぶりで、コンストラクターズタイトルは10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した[2]。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていたミシュランが、このシーズンでF1から撤退した。

1985年-1989年[編集]

1985年

  • 前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、ラウダを下してプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入されたMP4/2Bの6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである[1]

1986年

マクラーレンMP4/2B・TAGポルシェ(1985年)
  • コンストラクターズタイトルはホンダエンジンを搭載したウィリアムズに奪われたが、ドライバーズタイトルはプロストが最終戦で7ポイント差を逆転し、前年に引き続きドライバーズタイトルを獲得した。

1987年

  • タイトルは獲得できなかったが、プロストが3勝を上げた。シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。マクラーレンは前年にもホンダエンジン獲得を狙っていたが果たせずにいた(1986年6月にデニスとプロストが来日しホンダにエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズ・ロータスの2チームへのエンジン供給を決めた後で、要請を断らざるを得なかった[3])。

1988年

16戦中15勝を果たしたマクラーレンMP4/4・ホンダ(1988年)
  • プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4、ホンダエンジンの組み合わせは、16戦中15勝という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、第1コーナーで周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップしたというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。

1989年

マクラーレンMP4/5・ホンダ(1989年)
  • 前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題も起きた。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まった。

1990年代[編集]

1990年-1994年[編集]

1990年

  • アラン・プロストフェラーリへの移籍により、フェラーリからゲルハルト・ベルガーをセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。最終的に日本GPにてコンストラクターとドライバーの両タイトルを獲得した。空力面でバランスを崩しつつあったマクラーレンは、その分野で優位性を築いたフェラーリによって苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦まで持ち込まれた。日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアとなり、セナの2度目のチャンピオンが決まり、マンセルのフェラーリがマシントラブルでストップしたことにより、コンストラクターズタイトルも決定した。

1991年

マクラーレンMP4/6・ホンダに乗るアイルトン・セナ(1991年)
  • ホンダが前年から開発していたV12型エンジンを導入しシーズンを戦い、セナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成した。シーズン中盤はルノーエンジンを搭載したウィリアムズが、戦闘力を増し追い上げてきた。特にエンジントラブルやテレメトリーのミスによるガス欠でのストップ等もタイトル争いで苦戦する要因となった。こうした状況に至って、シーズン途中でアクティブサスペンションセミオートマチックトランスミッションの開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらも結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの獲得した。日本GPでは「スタート直後の1コーナーに先に入った方が優勝とし、後ろに回ったものがマンセルをブロックする」と両ドライバー間で約束をしたが、レース途中にベルガーのペースが上がらずセナがベルガーを抜いてしまった。そのままレースは進行したものの、セナが最終周の最終コーナーでベルガーを前に出して優勝を譲った。
  • この年、チームの無線はスクランブルがかかっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受されたことはチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。
  • 後藤治ホンダを退社し、マクラーレンに移籍。同社でロン・デニスに次ぐエグゼクティブ・エンジニアに就任する。

1992年

MP4/7を駆けるセナ(モナコGP 優勝)
  • 体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を信頼性の高い前年の改良型MP4/6Bで戦った後に新型MP4/7Aを出す予定だったが、ウィリアムズのFW14Bに対して改良をほどこした旧型では勝負にならなかった。そのため第3戦ブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「ドライブ・バイ・ワイヤ」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aが投入された。エンジンパワーでエアロダイナミクスの弱点を補うという前年までの方法を行なうマクラーレンに対し、アクティブサスペンションなどのハイテク、ルノーエンジン、空力に優れたシャシーらがバランス良くまとめられたFW14Bを武器とするウィリアムズの前に歯が立たず、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも獲ることが出来なかった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打ち、撤退した。

1993年

  • CARTのチャンピオンであるマイケル・アンドレッティと、ロータスから移籍してきたミカ・ハッキネンがチームに加入した。セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に契約し、参戦。ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった。その後、セナは第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交わしていた。フォードワークス仕様のエンジンを供給されていたベネトンに対し、カスタマー仕様のフォード・コスワースV8エンジンでパフォーマンスも劣っていた。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じ仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。
  • この年のMP4/8は空力、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、シャシーの性能面でもウィリアムズとの差は大きかった。しかし、前年に供給されていた大きくて重いホンダエンジンが軽量なコスワースに代わったことにより、マシンの重量バランスは改善され、戦闘力が向上。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもウィリアムズに次ぐ2位となった。
  • アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦イタリアGPでの3位表彰台を最後に契約解除となりアメリカへ帰国し、テストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦ポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回り、第15戦日本グランプリでも初の3位表彰台を得た。翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
  • シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。

1994年

MP4/9を駆るハッキネン(イギリスGP 3位入賞)
  • ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビとなる。MP4/8のデザインを踏襲したMP4/9に、前年のフォードコスワースからワークスのプジョーエンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦スペインGPではハッキネンがトップを走っていたが、エンジンブローでリタイアした。第7戦フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。チームは複数年契約だったプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデス・ベンツエンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、4シーズン連続のエンジンメーカーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。

1995年-1999年[編集]

1995年

MP4/10Bを駆るハッキネン(イギリスGP
  • ハッキネンが虫垂炎になり、第15戦パシフィックGPではテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦日本グランプリでは復帰したハッキネンが2位入賞した。しかしハッキネンは、最終戦オーストラリアGPの予選中、パンクが原因でコンクリートウォールに激突し、選手生命を左右しかねない重傷を負った。ハッキネンを治療に専念させるため、アラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。

1996年

  • 1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードとアドバイザーであるプロストで進めていた。ミカ・ハッキネンも2月に戻ってきて3か月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した[4]。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。MP4/11は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入した。信頼性の向上で完走&入賞数は増えたものの、速さに課題を残すシーズンとなった。
  • このシーズンをもって23年間、メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した[5]
  • ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが11月にウィリアムズから離脱し、マクラーレンとの契約を締結。しかし、ウィリアムズは契約が残っていることを訴え、法廷闘争に持ち込んだ。ニューウェイは契約解除ができなくなり、この時点ではいつからマクラーレンに加入できるかは未定だった。

1997年

  • シーズン終了後にグッドイヤーが「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更することになった。

1998年

  • 前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せたMP4-12Bは、ブリヂストンタイヤの理解も兼ねて約8,000kmを走りこみ、MP4-13への開発に繋げた。開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして3位以下を周回遅れにしたが、トップ走行中のクルサードが56周目にハッキネンを前に出すチームオーダーが発生。この行為をオーストラリアのプレスや主催者はレースの精神に反すると批判したが、擁護するプレスもいた[6]。ちなみにマクラーレンの言い分は「むやみなチームメイト同士のバトルを避けるために“スタートで1コーナーに先に入ったドライバーに勝つ権利がある”という取り決めをしていた。ハッキネンが一時2位に落ちたのも、チームの無線ミスによりピットインを1回多くしていたから」であった。第2戦ブラジルGPからチームオーダー禁止となったが、具体的な罰則内容はこの時点では何も決まっていなかった。さらに同GPのレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、MP4-13のブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とする。もともとマクラーレンは、開幕前にFIAの技術部門からレギュレーションに反していないという承認をもらい、使用していた。
  • 最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆るミハエル・シューマッハの対決が話題を呼び、最終戦日本GPまで、もつれ込む展開となった。

1999年

MP4-14を駆るハッキネン(カナダGP
  • 予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、MP4-14の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。また、フェラーリが第8戦イギリスGPまではミハエル・シューマッハ、第9戦オーストリアGPからエディー・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦ヨーロッパGP迄、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、オーストリアGPではアーバインにポイントを献上することとなった。第15戦マレーシアGPで決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まりかかった。しかし、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。タイトル争いは最終戦日本GPまでもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損し、リタイア。コンストラクターズタイトルはフェラーリに奪われてしまった。

2000年代[編集]

2000年-2004年[編集]

2000年

MP4-15を駆るハッキネン(アメリカGP
  • MP4-15を使用したこのシーズン、3連覇を狙うミカ・ハッキネンは開幕戦オーストラリアGPと第2戦ブラジルGPでメカニカルトラブルを被り、ポイント獲得に出遅れた。また、オーストラリアGPでのスタートの速さについてフェラーリから抗議が出て、第4戦イギリスGPから電子制御系の新ルールが施行され、メルセデス・ベンツエンジンの燃費悪化に繋がり、柔軟なピットストップ作戦が取れなくなった[7]。そして、フェラーリはマクラーレンとは違い、明確にミハエル・シューマッハをNo.1体制にして戦い、F1-2000の速さと信頼性で着実に勝ち星を上げ、ポイントを積み重ねていた。デビッド・クルサードはメカニカルトラブル1回、失格1回以外は完走する安定した走りをしたため、中盤戦はハッキネンよりポイント数を上回り、一時期シューマッハのライバルと見られていた。ハッキネンは第8戦カナダGP終了時点で、ポイントリーダーのシューマッハに最大24ポイント差をつけられていたが、シューマッハが第9戦フランスGPをメカニカルトラブルで、第10戦オーストリアGPと第11戦ドイツGPで接触事故による計3戦連続リタイアをしている間に、ハッキネンはクルサードと共にシューマッハとの差を縮めていた。第12戦ハンガリーGP開始時点では1位シューマッハ56ポイント、2位クルサードとハッキネンが54ポイントで同点、4位ルーベンス・バリチェロ46ポイントと、鎬を削り合っている状況であった。ハンガリーGPと第13戦ベルギーGPでハッキネンが連勝し、第14戦イタリアGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンが2位、クルサードとバリチェロは接触でリタイアし、タイトル争いはハッキネンとシューマッハ二人に絞られていた。しかし第15戦アメリカGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンは痛恨のエンジントラブルでリタイアし、シューマッハはハッキネンに8ポイント差をつけてポイントリーダーに返り咲いた。残り2戦でこの差が響き、ドライバーズタイトルコンストラクターズタイトルをフェラーリに奪い取られた。
  • 増大するテストワークの負荷を分散するためとレギュラードライバーが欠場したときの対策のため、サードドライバーとしてオリビエ・パニスの加入は、MP4-15の開発に貢献と効果をもたらした。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートをB・A・Rに確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年はアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはペドロ・デ・ラ・ロサが担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。

2001年

  • 開幕戦オーストラリアGPではミカ・ハッキネンが25周目に、右フロントサスペンションのアームが突然折れ、ロン・デニスが作戦上、ハッキネンが勝てたレースと語っているが[8]、3年連続の開幕戦リタイアで始まった。後にハッキネンはこの事故で引退について初めて考えたと吐露している[9]。ここからハッキネンは第10戦フランスGPまでに、2戦に1回の割合でメカニカルトラブルを被り、チャンピオンシップ争いから脱落した。特に第3戦ブラジルGP、第6戦オーストリアGP、フランスGPと3つのグランプリでスタート時にグリッドから動けずに0周リタイアに終わっている。第5戦スペインGPでは、2位に40秒もの大差をつけて、トップを独走していたファイナルラップに入った直後、油圧系トラブルにより裏ストレート手前でストップして、シーズン初優勝を逃した。2位走行していたフェラーリミハエル・シューマッハに優勝をさらわれた事はハッキネンのモチベーションを著しく下げた。結果的にハッキネンは第15戦イタリアGPで休養宣言をし、翌年の第12戦ドイツGPで正式に引退を発表した。
  • デビッド・クルサードモナコGPポールポジションを獲得したが、ラウンチコントロールのトラブルで最後尾からのスタートとなった。中盤戦まではこれ以外にメカニカルトラブルもなく2勝してポイントを重ねたが、速さでミハエル・シューマッハに差をつけられた。第11戦イギリスGPジョーダンヤルノ・トゥルーリとの接触事故でリタイアしたことにより、クルサードはタイトル争いから脱落した。最終戦日本GPではハッキネンに順位を譲られ3位入賞し、フェラーリのルーベンス・バリチェロと争っていたドライバーズランキング2位を手に入れた。10度の表彰台を得て自身最高のドライバーズランキング2位となったものの、チャンピオンのミハエル・シューマッハには、ほぼダブルスコアの大差をつけられた。

2002年

  • この年からキミ・ライコネンを抜擢したが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の本格的な熟成作業はヨーロッパラウンドに入ってからになった。フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から[要出典]、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスミシュランへ変更したが、苦戦を強いられた。この年はモナコGPでデビッド・クルサードが挙げた1勝にとどまり、タイトル争いに加わることができなかった。

2003年

  • トップチームが揃って、熟成された新車投入ができなかったため、旧型を大幅に改良させたマクラーレンが、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利するなど、順調なスタートを切ったが、特にクルサードが新予選方式に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。

2004年

2004年アメリカGP(キミ・ライコネン)
  • 前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的に19は18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードにとってはマクラーレン最後のシーズンであったが、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去っていった。

2005年-2009年[編集]

2005年

  • ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、ルノーフェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。MP4-20はハンガリーGPから日本GPまでの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
  • この年は、前年コンストラクターズランキング5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたわれたため、バーレーンGP、サンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。
  • 第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「WEST」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「WEST」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。

2006年

  • 2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更に対応しきれず、メルセデスが十分な戦闘力を持つエンジンを提供できなかった。加えてこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイ不在の影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。結果として、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
  • モントーヤがF1に嫌気がさしたため7月9日に2007年はアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)することを発表。アメリカGPを最後にF1から離れる事になった。しかし、この発表がチーム首脳には直前になって知らされたこともあり、双方の合意の下シーズン途中で契約が解除され、テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとしてシーズンの残りのレースに参戦した。

2007年

アロンソ駆るMP4-22(第2戦マレーシアGP
  • 開幕戦から速さを発揮し第2戦では見事フェラーリを破り、2005年ブラジルGP以来の1-2フィニッシュを達成した。第13戦のイタリアGP終了時までは、ドライバーズポイントで1位と2位、コンストラクターズポイントでも首位に立っていた。しかしコンストラクターズは後述の産業スパイ事件によりポイントを全剥奪され失うことになると、残されたドライバーズタイトルも最終戦のブラジルGPでランキング3位にいたライコネンに両ドライバーとも逆転を許してしまいドライバーズタイトルを逃した。このレースではウィリアムズBMWザウバーの給油装置から想定した燃料温度が低すぎる事実にもかかわらず、両チームにペナルティを科さないというブラジルスチュワードの裁定に対してマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。[10]11月15日、測定された燃料温度および大気温について疑いがあることから、両チームにペナルティを科さないことを決定しマクラーレンの控訴を却下した。[11]入賞者のニコ・ロズベルグウィリアムズ)とニック・ハイドフェルドBMWザウバー)とロバート・クビサBMWザウバー)などが失格になるとキミ・ライコネンフェラーリ)でなくルイス・ハミルトン(マクラーレン)がドライバーズチャンピオンになるとわかったうえでの控訴だといわれていることから、このことに対してマクラーレンに在籍していたアラン・プロストニキ・ラウダは、ロン・デニス代表とマクラーレンを同年の“最大の悪あがき王”と批判した。しかし、マクラーレンCEOのマーティン・ウィットマーシュは「ドライバーズチャンピオンのためではなく、燃料規則の明確化および規約の一貫性のために我々はこの控訴を提出した[12]」と言っている。
マクラーレンの産業スパイ疑惑[編集]

フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する秘密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。

フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が捜査を進めていた。その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。

  • 7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供されたとする事実を告発した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。
  • 7月26日 - 世界モータースポーツ評議会 (WMSC) に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため、証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった[13]
  • 9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。
  • 9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された[14]
    • 2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。
    • ポイント剥奪によって失われる収支を含め、1億ドル(約114億円)相当の罰金を課す。
    • チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない(ドライバーズポイントはそのまま)。
    • WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの2008年シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。
  • 10月24日 - マクラーレンが受け取るはずだった賞金やテレビ分配金が1億ドルから差し引かれ、罰金額が「5000万ドル(約75億円)以上」に減額された[15]
  • 12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報が組み込まれていないかどうかを調査させ、詳細な報告書を提出させた。これにより、マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCは2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において、マクラーレンやフェラーリをはじめ、他のチームにも、報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。
  • 12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ウィットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認め、それを謝罪し、2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の書簡をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。[16]
  • 12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。

2008年

  • ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり、代わりに2007年ルノーに所属していたヘイキ・コバライネンが加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。
  • 新車(MP4-23)の発表会は、初めてドイツのシュトゥットガルトのメルセデス本社で行われた。
  • 2008年シーズンは、ハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサとの熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられたが、最終戦のブラジルGPでハミルトンが1ポイント差で逃げ切り、ドライバーズタイトルを手にする(チームとしては1999年以来のチャンピオン輩出)。コンストラクターズランキングは2位。
  • 11月に、フォース・インディアがマクラーレンとの技術提携を結んだことが発表された(2009年シーズンより、エンジン類の供給もフェラーリからメルデセスにスイッチすることが決定している)。

2009年

  • 新車のMP4-24の発表会で、ロン・デニスがチーム代表から退くことが発表された。後任は前CEOのウィットマーシュ[17]。しかし、デニスは、今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言しレース界からの引退は否定した。
  • 開幕戦オーストラリアGPでのセーフティカー先導中にハミルトンがトゥルーリを追い抜いた件について、「当時の無線記録及びメディアへの発言」と「スチュワードからの事情聴取」で、逆とも言える説明を行う。事情聴取時点では全無線記録が参照できなかったため、一旦はマクラーレン・ハミルトン側の主張が認められたが、後に無線記録が証拠として検証されスチュワードへの偽証・ミスリードが発覚。オーストラリアGPの結果から抹消された。
  • この件で、マクラーレンチームとしては事情聴取に出席したデイブ・ライアンを翌週停職処分に。同時に事情聴取に出席していたハミルトンは「スチュワードへの情報提供を控えるようにライアンから言われた」と説明、それ以上の処分・ペナルティはなかった。
  • その後、4月29日にパリでWMSCの臨時会議が開かれ、「ペナルティは3戦のグランプリ出場停止とする。ただし、今後12か月において、この件に関して新たな証拠が発見された場合、もしくはチームによってさらなるインターナショナル・スポーティングコードの151c項違反が行われた場合のみに適応する。」との裁定を下した[18]
  • 4月16日にマクラーレングループ全体の再編が発表され、市販車部門であるマクラーレン・オートモーティブがグループから離脱し、さらにデニスが同社の会長に就任しレース部門から完全に引退することが明らかにされた[19]。レース部門のCEOにはウィットマーシュが返り咲く。
  • 開幕からしばらくはMP4-24に競争力がなく、表彰台に上がれないレースが続いたが、大幅なアップデートを行ったドイツグランプリから競争力を取り戻し、ハンガリーグランプリシンガポールグランプリでハミルトンが優勝。最終的にコンストラクターズランキングはフェラーリを抑えて3位となった。
  • 11月16日ダイムラーAGがプレスリリースを発表し、ブラウンGPの76.1%の株式を取得、2010年よりメルセデスGPとして参戦する事を発表した。それに伴いメルセデスとマクラーレンのパートナーシップは解消されるが、新たに2015年までのエンジンが供給される事が発表された。また、11月18日にはコバライネンに代わり、同年チャンピオンであるジェンソン・バトンの加入を発表した。

2010年代[編集]

2010年[編集]

2010年

  • ヘイキ・コバライネンに代わって前年度チャンピオンのジェンソン・バトンが加入した。
  • 革新的なシステムであるFダクトを搭載したMP4-25は高速サーキットで戦闘力を発揮し、ライバルチームの注目の的となった。シーズン序盤に難しいコンディションを読みきったバトンが一番乗りに2勝をあげる。その後レッドブルの同士討ちを尻目にハミルトンが2連勝を挙げポイントリーダーになり、中盤以降までシーズンをリードした。しかし、シーズンもうひとつのトレンドであった、レッドブルが搭載するブロウンディフューザーの開発に苦しみ失速。レッドブルとトップ争いをしていたのがフェラーリにも遅れを取り始めた。後半はハミルトンは連続リタイア、バトンは痛いノーポイントレースがあり、最終的にはハミルトンが年間4位(3勝)、バトンが同5位(2勝)となり、コンストラクターズポイントでは2位となった。

2011年[編集]

2011年

2011年は、ハミルトンとバトンが残留。ハミルトン3勝(中国、ドイツ、アブダビ)、バトン3勝 (カナダ、ハンガリー、日本)。 ドライバーチャンピオンシップはバトン2位(270ポイント)、ハミルトン 5位(227ポイント)。チャンピオンはレッドブルのセバスチャン・ベッテル。 コンストラクターズチャンピオンシップもレッドブルに次ぐ2位となった。

2012年[編集]

2012年 2012年は開幕戦のオーストラリアGPにてバトンが優勝。ハミルトンも3位となった。 ハミルトンはカナダでシーズン初優勝。 しかし、シーズン中盤の地元GPであるイギリスGPでは、ハミルトンが8位、バトンが10位に沈む。

シルバーストン後の4戦では3勝と2位が1回と活躍したが、ピットストップにて問題が発生したり、開発が進んだMP4-27もピレリタイヤとの相性に苦しんだ。 また、車に信頼性がないため能力を発揮できずポイントを獲得でき無いことが多かった。 シンガポールやアブダビにおけるハミルトンがトップ走行中に問題が発生してのリタイアが最たる例である。

ドライバーチャンピオンシップでは、ハミルトンが4位、バトンが5位となった。 コンストラクターズチャンピオンシップでもレッドブル、フェラーリに支配されたシーズンであったため3位となった。

2013年[編集]

2013年

ルイス・ハミルトンがメルセデスへ移籍し、代わりにザウバーからセルジオ・ペレスが加入。またスポンサー面でもボーダフォンが同年限りでのスポンサード終了を発表する一方で[20]メキシコ人であるペレスの支援目的でテルメックスなどメキシコ系企業が新たに加わるなど、チームラインナップに大きく変化が見られた。

また同年5月には、2015年まで契約が残っていたメルセデスとのエンジン供給契約を1年前倒しして2014年一杯で終了し、2015年からはホンダエンジンの供給を受けることを発表した。ホンダは2008年の撤退以来7年ぶりの復帰となる。

この年はバトンが最終戦ブラジルGPで記録した4位が最高で、表彰台がゼロとなる1980年以来の大不振に終わった。コンストラクターズランキングではレッドブルが独走し、メルセデス・フェラーリ・ロータスが2位争いをする一方でマクラーレンは大差をつけられた5位であった。ドライバーズランキングではバトンが9位・ペレスが11位。

シーズン終盤の11月、ペレスがわずか1年でチームを離脱[21]、後任として育成ドライバーのケビン・マグヌッセンを起用することが発表された[22]。ウィットマーシュによると新人であるマグヌッセンの下積みとして下位チームのシートを探したものの、あるチームに契約を破棄され、ペレスを放出してマグヌッセンを自チームに起用せざるを得なかったとのこと[23]

2014年[編集]

2014年

1月16日、ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOに復帰し、F1チームをその権限下に置くことを発表[24]。さらに2013年までロータスF1チームのチーム代表であったエリック・ブーリエがレーシングディレクターとしてチームに加入することが発表された。正式加入は2月3日[25]。当面チームは、チームCOOのジョナサン・ニールとブーリエが共同で代表を務める[26]。一方で前チーム代表のウィットマーシュについては、チームのWebサイトから名前が消え事実上更迭されたものの去就が不明となっていたが[27]、同年8月に正式に離脱が公表された[28]

ドライバーはジェンソン・バトンが残留。パートナーはセルジオ・ペレスに変わりケビン・マグヌッセンが起用された。またリザーブドライバーとしてストフェル・バンドーンが起用された。[29]

この年は開幕戦オーストラリアグランプリこそマグヌッセンが2位、バトンが3位と2人のドライバーが2012年ブラジルグランプリ以来となる表彰台を獲得するも、2戦目以降はバトンの4位が最高で表彰台圏内に入ることなくシーズンが終了した。 シーズン終了後の12月11日に2015年のドライバーとしてフェラーリからフェルナンド・アロンソの獲得を発表。アロンソは2007年以来のマクラーレン復帰となる。 なお、マグヌッセンはリザーブドライバーとして残留することとなった。

2015年[編集]

2015年

ドライバーはジェンソン・バトンが残留。フェラーリからフェルナンド・アロンソが2007年以来のチーム復帰。前年、レギュラードライバーだったケビン・マグヌッセンはリザーブドライバーとなった。 また、パワーユニットは20年間使用し続けたメルセデスから予定通りホンダへと変更された。ホンダのF1復帰は2008年以来、マクラーレンがホンダエンジンを搭載するのは1992年以来となる。

だが、V6ターボエンジンとERSシステムに苦しみ、ヘレスのテストで、アロンソがクラッシュするなどランキングは下位に低迷。だが、そんな中でもモナコでバトンがホンダエンジン勢初入賞を決めると、イギリスでアロンソが、ハンガリーでは悲願のダブル入賞を決めた。

ただ、メルセデスより1周数秒遅れのマシンを走らせるアロンソとバトンはフラストレーションが溜まる一方で、カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り[30]、日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした[31]。コンストラクターズ選手権9位とチーム創立以来ワーストの結果となってしまった。それでも最終戦では、バトンがホンダエンジンよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスエンジンを搭載するウィリアムズのバルテリ・ボッタスをおさえたりアロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなどシーズン前半と比べると性能が向上していることが伺えた。

同年限りでリサーブドライバーを務めていたマグヌッセンがチームを去りルノーへ移籍した。

この年をもってポルシェ時代からチームのスポンサーを続けていたHUGO BOSSがメルセデス、タグ・ホイヤーがレッドブルへスポンサー先を変更した。 翌年からモエ・エ・シャンドンがスポンサーとなり、CHANDONロゴを掲示することになった。

2016年[編集]

2016年

ドライバーはアロンソとバトンが残留。

開幕戦オーストラリアGPでアロンソがエステバン・グティエレスとの接触で大クラッシュを喫し肋骨骨折と肺虚脱を患ったため[32]、次戦バーレーンGPはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンが代走することになった[33]。同GPがデビュー戦となったバンドーンが10位入賞を果たし、チームに今シーズン初のポイントをもたらした[34]。なお、アロンソは第3戦中国GPで復帰を果たしている[35]第4戦ロシアGPでアロンソが6位、バトンが10位となりダブル入賞を果たした。第5戦スペインGPではアロンソがマクラーレン・ホンダ復活後初のQ3進出を果たした。続く第6戦モナコGPでもアロンソがQ3進出、決勝ではアロンソが5位、バトンが9位に入り2度目のダブル入賞。オーストリアGPでは、天候がめまぐるしく変わる中で、バトンが予選5位を獲得し前車2台のペナルティにより3番手スタートとなった(決勝は6位入賞)。ハンガリーGPではアロンソとバトンが揃ってQ3進出を果たした。ベルギーGPではアロンソが最下位スタートからスタート直後の混乱をかいくぐり一時4位まで浮上。パワーコースのスパ・フランコルシャンで最終的に7位入賞を果たした。続くイタリアGPではポイントこそ獲得できなかったものの、アロンソがファステストラップを記録するなど着実な進化をみせている。

一方、1980年からチーム運営に関わっていたロン・デニスが11月15日に行われた株主総会を受け、マクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを辞任した[36]。後任のCEOが決まるまでの運営は多数株主から成る執行委員会が暫定的に引き継ぐ[37]。同月21日、ザック・ブラウンがエグゼクティブディレクターの職に就くことに同意し、翌月正式に就任すると発表した[38]

メキシコGP前に、翌年からこの時点で最も大口スポンサーだったモービルが離脱し、レッドブルへの支援に切り替えると発表された。

2017年[編集]

2017年

アロンソが残留し、バンドーンがレギュラーに昇格。バトンはアドバイザーという形でチームに残り、1年間の休養を発表。アロンソのモチベーションなどによっては、2018年の復帰も考えた決断であった。

カラーリング[編集]

イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年からしばらくは車体はブルース・マクラーレンの母国ニュージーランドのナショナルカラーであるオレンジ色に塗られていた。

1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。

その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた[注釈 2]。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。

1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに行われていた。

2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦スペインGPからグラファイトグレーを基調とした新カラーリング[39]に変更された。

例外[編集]

上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代などに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。

近年では、マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いている。

マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー[編集]

変遷表[編集]

F1[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M2B F フォード
セレニッシマM166
シェル? ブルース・マクラーレン 8 (3 pts) 0
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M4B
M5A
G BRM P16 シェル ブルース・マクラーレン 8 (3 pts) 0
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Joakim Bonnier Racing Team (M5A)
*Anglo American Racers (M7A)
M5A
M7A
G フォードDFV
BRMP16
シェル デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ヨー・ボニエ
ダン・ガーニー
2 (51 pts) 3
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Team Lawson (M7A)
*Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing (M7B)
M7A
M7B
M7C
M9A
G


D

フォードDFV シェル
ガルフ
デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
デレック・ベル
ベイシル・ファン・ルーエン
ビック・エルフォード
4 (38 pts) 1
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Team Surtees (M7C)
*Ecurie Bonnier (M7C)
M7C
M14A
M7D
M14D
G


F

フォードDFV
アルファロメオ・ティーポ33/3
ガルフ デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ピーター・ゲシン
ダン・ガーニー
アンドレア・デ・アダミッチ
ナンニ・ギャリ
ジョン・サーティース
ヨー・ボニエ
4 (34 pts) 0
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
*Ecurie Bonnier (M7C)
*Penske-White Racing (M19A)
M7C
M14A
M19A
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・ゲシン
ジャッキー・オリバー
ヨー・ボニエ
ヘルムート・マルコ
マーク・ダナヒュー
6 (10 pts) 0
1972年 ヤードレイ・チーム・マクラーレン M19A
M19C
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ジョディー・シェクター
ブライアン・レッドマン
3 (47 pts) 1
1973年 ヤードレイ・チーム・マクラーレン M19A
M19C
M23
G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ジョディー・シェクター
ジャッキー・イクス
3 (58 pts) 3
1974年 マールボロ・チーム・テキサコ
*ヤードレイ・チーム・マクラーレン (M23)
* Scribante Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ
サソル
エマーソン・フィッティパルディ
デニス・ハルム
マイク・ヘイルウッド
ヨッヘン・マス
デビッド・ホッブス
デイブ・チャールトン
1 (73 pts) 4
1975年 マールボロ・チーム・テキサコ
*Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
ヨッヘン・マス
デイブ・チャールトン
3 (63 pts) 3
1976年 マールボロ・チーム・マクラーレン M23
M26
G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
2 (75 pts) 6
1977年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Chesterfield Racing (M23)
*Iberia Airlines (M23)
M23
M26
G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
ジル・ヴィルヌーヴ
ブルーノ・ジャコメリ
ブレット・ランガー
エミリオ・デ・ヴィロタ
3 (60 pts) 3
1978年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Liggett Group/BS Fabrications (M23, M26)
*Centro Asegurador F1 (M23)
*Melchester Racing (M23)
M26 G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
パトリック・タンベイ
ブルーノ・ジャコメリ
ブレット・ランガー
ネルソン・ピケ
エミリオ・デ・ヴィロタ
トニー・トリマー
8 (15 pts) 0
1979年 マールボロ・チーム・マクラーレン
*Lowenbrau Team McLaren (M23)
M26
M28
M28B
M28C
M29
G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
パトリック・タンベイ
7 (15 pts) 0
1980年 マールボロ・チーム・マクラーレン M29B
M29C
M30
G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
アラン・プロスト
スティーブン・サウス
8 (11 pts) 0
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1981年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル M29C
M29F
MP4/1
M フォードDFV ユニパート ジョン・ワトソン
アンドレア・デ・チェザリス
6 (28 pts) 1
1982年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1B M フォードDFV ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
2 (69 pts) 4
1983年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1C
MP4/1E
M フォードDFY
TAG TTE PO1
ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
5 (43 pts) 1
1984年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2 M TAG TTE PO1 シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
1 (143.5 pts) 12
1985年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2B G TAG TTE PO1 シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
ジョン・ワトソン
1 (90 pts) 6
1986年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2C G TAG TTE PO1 シェル アラン・プロスト
ケケ・ロズベルグ
2 (96 pts) 4
1987年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/3 G TAG TTE PO1 シェル アラン・プロスト
ステファン・ヨハンソン
2 (76 pts) 3
1988年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/4 G ホンダRA168E シェル アラン・プロスト
アイルトン・セナ
1 (199 pts) 15
1989年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5 G ホンダRA109E シェル アイルトン・セナ
アラン・プロスト
1 (141 pts) 10
1990年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5B G ホンダRA100E シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1 (121 pts) 6
1991年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6 G ホンダRA121E シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1 (139 pts) 8
1992年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6B
MP4/7A
G ホンダRA122E
ホンダRA122E/B
シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
2 (99 pts) 5
1993年 マールボロ・マクラーレン・フォード MP4/8 G フォードHB5,7,8 シェル アイルトン・セナ
マイケル・アンドレッティ
ミカ・ハッキネン
2 (84 pts) 5
1994年 マールボロ・マクラーレン・プジョー MP4/9 G プジョーA6 シェル ミカ・ハッキネン
マーティン・ブランドル
フィリップ・アリオー
4 (42 pts) 0
1995年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/10,
MP4/10B,
MP4/10C
G メルセデスFO110 モービル ミカ・ハッキネン
マーク・ブランデル
ナイジェル・マンセル
ヤン・マグヌッセン
4 (30 pts) 0
1996年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/11 G メルセデスFO110 モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4 (49 pts) 0
1997年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-12 G メルセデスFO110E
メルセデスFO110F
モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4 (63 pts) 3
1998年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-13 B メルセデスFO110G モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
1 (156 pts) 9
1999年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-14 B メルセデスFO110H モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (124 pts) 7
2000年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-15 B メルセデスFO110J モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (152 pts) 7
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
2001年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-16 B メルセデスFO110K モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (102 pts) 4
2002年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17 M メルセデスFO110L モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3 (65 pts) 1
2003年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17D M メルセデスFO110M モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3 (142 pts) 2
2004年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-19
MP4-19B
M メルセデスFO110Q モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
5 (69 pts) 1
2005年 チーム・マクラーレン・メルセデス MP4-20 M メルセデスFO110R モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
アレクサンダー・ヴルツ
2 (182 pts) 10
2006年 チーム・マクラーレン・メルセデス MP4-21 M メルセデスFO108S モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
3 (110pts) 0
2007年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-22 B メルセデスFO108T モービル フェルナンド・アロンソ
ルイス・ハミルトン
ポイント剥奪 8
2008年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-23 B メルセデスFO108V モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コバライネン
2 (151pts) 6
2009年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-24 B メルセデスFO108W モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コバライネン
3 (71pts) 2
2010年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-25 B メルセデスFO108X モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
2 (454pts) 5
2011年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-26 P メルセデスFO108Y モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
2 (497pts) 6
2012年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-27 P メルセデスFO108Z モービル ジェンソン・バトン
ルイス・ハミルトン
3 (378pts) 7
2013年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-28 P メルセデスFO108F モービル ジェンソン・バトン
セルジオ・ペレス
5 (122pts) 0
2014年 マクラーレン・メルセデス MP4-29 P メルセデスPU106A Hybrid モービル ジェンソン・バトン
ケビン・マグヌッセン
5 (181pts) 0
2015年 マクラーレン・ホンダ MP4-30 P ホンダRA615H モービル フェルナンド・アロンソ
ジェンソン・バトン
ケビン・マグヌッセン
9 (27pts) 0
2016年 マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム MP4-31 P ホンダRA616H モービル フェルナンド・アロンソ
ジェンソン・バトン
ストフェル・バンドーン
6 (76pts) 0
エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数

*太字はドライバーズタイトル獲得者
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)

Can-Am[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M1A,M1B.M1C G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M6A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8B G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8D G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8F G シボレー STP デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1972年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M20 G シボレー ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン

資本[編集]

  • F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
  • 2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であったダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強かった。
  • 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。
  • 2009年11月にメルセデス・ベンツとマクラーレンのパートナーシップ解消が発表されたことに伴い、メルセデス保有分の40%の株式については2011年までにマクラーレン側が買い戻すことが発表されている。なお買い戻し価格や、買い戻した後の株式の扱いについては公表されていない。なおマクラーレン側の買い戻しの結果、2010年3月現在でメルセデス側の持株比率は約11%にまで低下している[40]
  • 2016年11月にロン・デニスの退陣が決まった時点の株式保有比率は、デニスとオジェが25%、マムタラカトが50%となっている[37]

マクラーレン・グループ[編集]

(主な会社のみ)

モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称はTAGエレクトロニクスTAGエレクトロニック・システムズ
2008年よりマイクロソフトと共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられるECUの供給を行っているほか、2012年からはNASCARスプリントカップシリーズインディカー・シリーズにもECUの供給を行っている。
  • マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
  • マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当

注釈[編集]

  1. ^ 世界三大レースを制したコンストラクターは、マクラーレンとメルセデスのみである
  2. ^ a b c 1974年からマールボロがタイトルスポンサーとなるが、1974年は3台体制のうちヤードレイ車も1台のみ参戦した
  3. ^ メルセデス・ベンツエンジンシリンダーブロックは、軽量なベリリウム合金を使用していたが、フェラーリが「ベリリウム合金は人体に有害である」という抗議をして、使用禁止となった。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e Mclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6
  2. ^ アラン・ヘンリー 『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、ソニー・マガジンズ、1991年、129頁。
  3. ^ 「F1走る魂」(海老沢泰久著、文藝春秋)pp.308 - 309
  4. ^  『AS+F - '96年開幕直前号』 三栄書房、1996年、4-5頁。
  5. ^  『AS+F - '96年ポルトガルGP号』 三栄書房、1996年、18-19頁。
  6. ^  『GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 Australian GP issue/210、山海堂、32頁、1998年。
  7. ^  『F1倶楽部』 双葉社、34号、2000年、98頁。
  8. ^  『GPX』 オーストラリアGP号、山海堂、2001年、10頁。
  9. ^ a b  『2001F1総集編 - AS+F増刊』 三栄書房、2001年、30-34頁、110-111頁。
  10. ^ McLaren Appeal- (FIAプレスリリース 2007年10月23日)
  11. ^ DECISION OF THE INTERNATIONAL COURT OF APPEAL- (FIAプレスリリース 2007年11月16日)
  12. ^ McLaren still hope for fuel rules clarity- (autosport.com 2007年11月16日記事)
  13. ^ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2007年7月26日)
  14. ^ WORLD MOTOR SPORT COUNCIL- (FIAプレスリリース 2007年9月13日)
  15. ^ "マクラーレンの罰金は5000万ドル程度に".carview.(2007年10月26日)2013年1月18日閲覧。
  16. ^ The full letter from McLaren to the FIA- (autosport.com 2007年12月13日記事)
  17. ^ デニス 代表職を退任(GPUPDATE.net)
  18. ^ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2009年4月29日)
  19. ^ McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company - 公式プレスリリース(2009年4月16日)
  20. ^ マクラーレン、ボーダフォンとの契約終了を発表 - オートスポーツ・2013年3月14日
  21. ^ “セルジオ・ペレス、マクラーレン離脱を発表”. F1-Gate.com. (2013年11月14日). http://f1-gate.com/perez/f1_21630.html 2013年12月1日閲覧。 
  22. ^ “マクラーレン、ケビン・マグヌッセンの起用を正式発表”. F1-Gate.com. (2013年11月15日). http://f1-gate.com/mclaren/f1_21639.html 2013年12月1日閲覧。 
  23. ^ “マグヌッセンと契約破棄したチームがあるとウィットマーシュ”. (2013年11月26日). http://www.topnews.jp/2013/11/26/news/f1/teams/force-india/100644.html 2013年12月1日閲覧。 
  24. ^ ロン・デニスがマクラーレンF1部門のボスに復帰 - オートスポーツ・2014年1月17日
  25. ^ “エリック・ブーリエ、マクラーレンのレーシングディレクターに就任”. F1-gate.com. (2014年1月29日). http://f1-gate.com/mclaren/f1_22271.html 2014年2月1日閲覧。 
  26. ^ 事実上のチーム代表だとブーリエ - ESPN F1・2014年2月21日
  27. ^ マーティン・ウィットマーシュ、マクラーレンでの将来はいまだ不明 - F1-gate.com・2014年3月6日
  28. ^ ウィットマーシュが正式にマクラーレンを離脱 - オートスポーツ・2014年8月27日
  29. ^ Vandoorne gets McLaren reserve role - F1 Fanatic・2014年1月23日
  30. ^ フェルナンド・アロンソ、燃料セーブの指示を拒否 - F1-gate.com・2015年6月8日
  31. ^ フェルナンド・アロンソ、レース中に怒りの無線 「GP2のエンジンかよ!」 - F1-gate.com・2015年9月27日
  32. ^ フェルナンド・アロンソ、肋骨骨折と肺虚脱. F1-Gate.com(2016年4月1日).
  33. ^ フェルナンド・アロンソ、F1バーレーンGPを欠場 / マクラーレン・ホンダ. F1-Gate.com(2016年3月31日).
  34. ^ マクラーレン・ホンダ:バンドーンが10位入賞 / F1バーレーンGP. F1-Gate.com(2016年4月4日).
  35. ^ フェルナンド・アロンソ、残りのF1中国への参加が正式決定. F1-Gate.com(2016年4月15日).
  36. ^ “デニス、マクラーレン・グループのトップを退陣”. ESPN F1. (2016年11月16日). http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/231608.html 2016年11月17日閲覧。 
  37. ^ a b “マクラーレンは当面「執行委員会」が運営”. ESPN F1. (2016年11月16日). http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/231623.html 2016年11月17日閲覧。 
  38. ^ “【正式発表】マクラーレン、渦中のザック・ブラウンと契約もロン・デニスの後任は別”. AUTOSPORTweb. (2016年11月22日). http://www.as-web.jp/f1/67897?all 2016年11月26日閲覧。 
  39. ^ MP4-30の新しいカラーリングを公開 - 本田技研工業・2015年5月7日
  40. ^ マクラーレン、メルセデスから29パーセントの株式を買い戻し - as-web.jp・2010年3月19日

関連項目[編集]

フロントノーズに「ジャンプ」のロゴを貼った、1991年のMP4/6

外部リンク[編集]