BP (企業)

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ブリティッシュ・ペトロリアム(British Petroleum)
BP p.l.c.
BPheadoffice.JPG
ロンドンセント・ジェームズ・スクウェア1の本社
種類 公開有限会社
市場情報 ロンドン証券取引所ニューヨーク証券取引所フランクフルト証券取引所
略称 BP(2001年から正式名)
業種 石油・石炭製品
資本金 111,465 Million US$[1]
発行済株式総数 374,500,712 株[2]
売上高 連結:375,517 Million US$[3]
営業利益 連結:39,817 Million US$[4]
純利益 連結:26,097 Million US$[5]
純資産 連結:112,482 Million US$[6]
総資産 連結:293,068 Million US$[7]
従業員数 83,400人[8]
決算期 12月末日
主要株主 バロウ・ハンレイ(Barrow Hanley Mewhinney and Strauss, マスミューチュアル系のミューチュアル・ファンド[9]ベアー・スターンズの主要株主であった。)
ディメンジョナル(Dimensional Fund Advisors, HSBCの主要株主)
他にステート・ストリートブラックロックインベスコゴールドマン
(2017年6月30日現在[10]
特記事項:資本金から従業員数までのデータは2011年12月時点のもの
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BP(ビーピー、英:BP p.l.c.)は、イギリスエネルギー関連事業を展開する多国籍企業一代貴族を量産してきた国際石油資本の典型。民営化で進められた垂直的統合により、石油天然ガスの探鉱(シュルンベルジェと連携)から採掘、輸送(パイプラインふくむ)、石油精製、小売まで一括で行う。他のスーパーメジャーと同じく、裾野がさらに広い。天然ガスの生産とそれを利用した発電事業、再生可能エネルギーとしての太陽光発電風力発電石油化学製品の製造・販売も手がけている。

グリーンウェイ会長[編集]

オーストラリアで財をなしたウィリアム・ノックス・ダーシー(William Knox D'Arcy)が、1901年からイラン油田探査を続けていたが、数年で資金に窮してイギリス行政当局の介入を受け入れた。1905年、ダーシーが募ったシンジケートにバーマ・オイルが参加し経営権を獲得した。1908年に中東で最初の油田を発見(Masjed Soleyman)、翌年4月アングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(APOC)を開業した。この会社の持分は当然バーマ・オイルがほぼ全部を握っていた。1910年にバーマ・オイルからマネージング・ディレクターとしてグリーンウェイ(Charles Greenway, 1927年に男爵)が送り込まれ、第一次世界大戦開戦の年に会長となった。[11]

この1914年、APOCがイギリス海軍と燃料供給についての長期契約を締結。イギリス政府がBPに200万ポンドを投資し、2/3の株式を取得した。これは設備投資のためであり、それまで精製・運搬・販路すべてにおいて不自由していた。APOCの資金は違った使われ方をしていた。1912年カルースト・グルベンキアンが設立したイラク石油会社(Iraq Petroleum Company)に50%も参加していた。この年にロイヤル・ダッチ・シェルがAPOCの市場開拓と製品販売を10年契約で請け負った(British Tanker Company)。勢いづいたシェルがAPOCを買収しかけたところ、グリーンウェイがウィンストン・チャーチルと交渉し、軍との契約にこぎつけたのであった。政府はマーガレット・サッチャーに民営化されるまで議決権を行使することがなかった。[12]

1917年、APOCがブリティッシュ・ペトロリアムを買収した。これは欧州石油連合(European Petroleum Union)の子会社であった。欧州石油連合の主要株主はドイツ銀行であったので、欧州石油連合は敵性資産としてイギリス政府に接収されていた。その後APOCを民営化する提案が政府側から浮上した。しかしこれは1924年11月に政府持分を維持する方向で決着した。[11]

赤線協定から民営化まで[編集]

1927年にキャドマン(John Cadman)が会長となり、翌年に国際カルテルとして赤線協定を結んだ。世界恐慌においても国際石油資本は生産量を伸ばしていったが、しかしキャドマンはイラン政府に払うロイヤリティーを減らした。レザー・パフラヴィーが怒って1932年11月に開発許可を取り消した。この紛争が最終的に国際連盟に持ち込まれ、将来60年間を対象とする和解に達した。APOCの開発可能区画は当初の約1/4に減らされ、原油重量に対して支払われる新しいロイヤリティーの割合も定められた。1935年、APOCの社名が変更されてアングロ・イラニアン石油会社(Anglo-Persian Oil Company)となった。第二次世界大戦中イラン政府が次の地域における会社利益の半分をロイヤリティーとして要求した。1948年ベネズエラ、1950年サウジアラビアについて、それぞれ現状に燃え上がる不満を申し立てたのである。交渉は決裂してしまい、モハンマド・モサッデクが1951年5月1日に国内石油産業を国有化した(アーバーダーン危機)。イギリス政府とアメリカのCIAが動き、1953年に彼を失脚させた。翌年、APOC後継の新ブリティッシュ・ペトロリアム(The British Petroleum Co Ltd. 以下BP)が設立され、IOPというコンソーシアムで最大の40%が割り当てられた。[11]

ルマイラ油田を発見したBP はイラククウェートへ進出し、また世界のあちこちに精製所を増やした。欧州、オーストラリア、そしてアデンである。カナダへはロスチャイルド関係資本の一つとして参入した(BP Canada)。

1965年、BP はイギリスの経済水域北海のガス田を発見した。1970年10月には油田を発見した(Forties Oil Field)。

1969年、BPがプルドーベイ油田の一つを発見した。そばの油田をすでに見つけていたアトランティック・リッチフィールド・カンパニー(ARCO, アルコ)がライバルとなった。このアルコはオイルショックのあと1976年ペトロ・カナダに買収され、1977年にアナコンダ銅鉱山会社を買収し、同年トランス・アラスカ・パイプラインの21%を支配することにもなった。

1979年イラン革命が起きてイラン国内の事業が無補償で国有化された。革命の年に英国政府がBPに対して保有する8000万株が放出された。1987年に完全民営化されるとき、政府株31.5%が売り出されてクウェート投資庁が21.6%を取得したが、英財務省の要求で9.6%に減らされた。また、この年BPはオフショア市場化して間もない東京証券取引所に上場した。

スマートグリッドが迫る[編集]

1989年、エマソン・エレクトリック出身のホートン(Robert Horton)がBP会長となった。彼の指導によりBPは伝統的分野と石油化学工業において垂直的統合を進めた。ホートンは16%も労働力をリストラしたが、粗利を2年間で145億ドルも減少させて会社を赤字へ転落させたので、1992年に辞めてレールトラックの会長となった。それから3年間でBP はさらに9000人を解雇した。1995年、サイモン(David Simon, 2004年からユニリーバ顧問)が新会長となった。1997年まで活躍したが、その間BP は中国石油化工の子会社(Shanghai Petrochemical)との合弁事業を拡大させ、日本へのスタンド進出を表明し、ロシアのシダンコ(Sidanko)に10%参加した。

1998年12月、BP はジョン・ロックフェラー創業のアモコ(Amoco)と合併しBPアモコとなった。BPの株主はブラウネ(John Browne)を代表として60%参加した。新会社は2000年にバーマ・カストロールとアルコを買収した。一連の経営統合は競争回避につながった。2001年、会社は現社名を採用した。2002年6月、ペトロ・カナダを伴ってE.ONがVEBA系列に持っている16億ドル級の石油事業を買収した。その代わりBP は、7月に普仏戦争から交戦国間で開発競争の焦点となっていたゲルゼンキルヒェンの子会社を売却した。2003年、BP はインドネシアのKP石炭とタングー油田(Tangguh gas field)、それから北海油田、その他世界中の事業を売却して事業を縮小し、ロシアと出資を折半でチュメニ油田開発会社(TNK-BP)を設立した。2004年、中国石油天然気の株を2%売却して16.5億ドルを得た。2005年、テキサスシティ製油所爆発事故を起こした。この年も事業売却が行われ、イネオス(Ineos)へ化学工業を譲り渡し90億ドルを得た(Innovene)。2006年、プルドーベイでパイプラインが腐食してオイル漏れが起きた。メキシコ湾事業のアパチェ(Apache Corporation)に対する移管も進んだ。2007年、アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズおよびデュポンと合弁会社を設立した(Vivergo Fuels)。ブラウネが引退し、BP の経営陣は現在のものとなった。

2008年、申請により東京証券取引所の上場を廃止した。世界金融危機以降も試練は続いた。BP はチュメニ油田開発会社をめぐりロシアと紛争となった。2010年メキシコ湾原油流出事故が発生したときは、被害回復のため200億ドルを拠出することで、オバマ大統領と合意した。しかし決着せず、米司法省、環境保護庁、運輸省からプルドーベイの件も絡めて民事訴訟を提起された。2011年5月BP は、環境保全に6000万ドルを、民事賠償として2500万ドルを、それぞれ払うことに合意した。2012年、社長のダドリー(Bob Dudley)がプーチンに押し切られて、チュメニ油田開発会社の持分をロスネフチへ売却することになった。

日本での展開[編集]

日本ではBPとカストロールの両ブランドを扱っており、BPジャパン株式会社で船舶用燃料と潤滑油、工業用潤滑油などの石油製品の販売、ならびに天然ガス販売のマーケティング、石油化学製品の販売などを手がけている。自動車エンジンオイル事業は、ビーピー・カストロール株式会社で行っている。

なお、かつてはベイシアグループとともに「BP EXPRESS」としてセルフ式のガソリンスタンドをベイシアグループのショッピングモールで21箇所展開していた[13]。しかし、業績不振のために2002年8月1日、ジャパンエナジーが同業態を専門的に運営する新会社「株式会社ジェイ・クエスト」を設立し、ガソリン販売からは撤退した[14]

脚注[編集]

BPのガソリンスタンド
BPのオイルトレイン

外部リンク[編集]