スチュワート・グランプリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
スチュワート
活動拠点 ミルトンキーンズバッキンガムシャーイギリス
創設者 ジャッキー・スチュワート
ポール・スチュワート
スタッフ アラン・ジェンキンス
ゲイリー・アンダーソン
参戦年度 1997 - 1999
出走回数 49
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 1
通算獲得ポイント 47
表彰台(3位以内)回数 5
ポールポジション 1
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1997年オーストラリアGP
初勝利 1999年ヨーロッパGP
最終勝利 1999年ヨーロッパGP
最終戦 1999年日本GP
テンプレートを表示

スチュワート・グランプリ (Stewart Grand Prix)は、かつて存在したイギリスのレーシングチームおよびコンストラクター。1997年から1999年までF1世界選手権に参戦した。チーム創設者は、3度のF1王者ジャッキー・スチュワートと息子のポール・スチュワート。

沿革[編集]

ポール・スチュワート・レーシング[編集]

スコットランド出身の名レーサー、ジャッキー・スチュワートの長男ポール・スチュワート(Paul Stewart, 1965年10月29日-)は1988年フォーミュラ・フォード2000にデビューした際、ドライバー兼チームオーナーとしてポール・スチュワート・レーシング(Paul Stewart Racing, PSR )を設立[1]ロンドン北西部のミルトンキーンズに拠点を構え、フォーミュラ・ボクスホール・ロータス、イギリスF3選手権国際F3000選手権にも活動を広げた[2]。PSRはイギリスF3で大きな成功を収め、8年間に6名のシリーズチャンピオンを輩出した[3]。ポール自身は国際F3000に参戦し、F1のフットワーク・アロウズでテスト走行も経験したが、1993年一杯でレーサーを引退し、1994年からチーム運営に専念した。

F1参戦計画[編集]

ジャッキーはマトラティレルで3度F1チャンピオンを獲得した際、いずれもフォード・コスワース・DFVエンジンを使用しており、現役引退後もフォードのコンサルタントを務めていた。1995年当時、フォードはベネトンルノーエンジンにスイッチしたため、ZETEC-Rエンジンの供給先をザウバーに切り替えたが、成績には満足していなかった[1]。スチュワート親子はフォードの全面的な支援のもとPSRがF1に進出するプロジェクトを提案し、1995年のクリスマス前にフォードから承認された[1]。1996年1月にスチュワート・グランプリの計画が発表され[2]、1997年の参戦にむけて準備が進められた。

当時、ほかにも国際F3000からF1に挑戦した新興チームはいたが、ジョーダンの成功を除けば、オニクスパシフィックフォルティなど、みな資金不足と非力なマシンで苦戦を強いられていた。その中でスチュワートはフォード(コスワース)からワークスZETEC-Rエンジンを独占供給され、資金面も香港上海銀行 (HSBC) やテキサコ石油、マレーシア観光局といった国際的な大口スポンサーを獲得する手際の良さが光っていた。また、同じ1997年にはアラン・プロストリジェを買収してプロスト・グランプリを興しており、元F1王者が指揮する2チームとして比較された。

1997年[編集]

SF-1を駆るバリチェロ(1997年カナダGP)

ドライバーはジョーダンからルーベンス・バリチェロをエース待遇で迎い入れ、PSRで1994年のイギリスF3を制覇したヤン・マグヌッセンをセカンドドライバーに起用した。1996年チャンピオンに輝きながら当時在籍していたウィリアムズを解雇されたデイモン・ヒルも興味を示したが、「参戦初年度と言う事でリスクが高い」「古くから続くスチュワート一家との関係を拗らせる事はしたくなかった」と言う理由で見送った[4]

アロウズから移籍したアラン・ジェンキンスが新車SF-1を手がけ、タイヤメーカーは新規参入したブリヂストンを選択した。マシンのカラーは白地にジャッキー・スチュワートのトレードマークでもあるタータンチェックのラインを入れ、エンジンカバーにはFordのロゴ(ブルーオーバル)が大きく描かれた。

第5戦、雨のモナコでバリチェロが2位に入り、チーム初ポイントを初表彰台で飾る。予選では度々トップ10内に食い込み、ルクセンブルクGPでは一時両車入賞圏内を走るなど健闘を見せたが、新規参戦チームへのF1の壁は厚く、入賞はモナコの1回のみ。初期トラブルが多く、34レース(2台×17戦)中リタイアは26回を数えた。

1998年[編集]

2年目の1998年もドライバーはバリチェロとマグヌッセンで変わらず。SF-2ではカーボン製ギアボックスなど攻めの開発姿勢を見せるが、前年ほどのスピードを感じるさせることはなく、低迷の原因になる。シーズン中盤には不振のマグヌッセンを解雇し、フランスGPからヨス・フェルスタッペンを起用した。コンストラクターズランキングは8位と昨年の9位を上回ったが、入賞は第7戦カナダGPのダブル入賞(5位・6位)を含めて3回のみだった。

1999年[編集]

1999年はバリチェロと、ザウバーから加入したベテランのジョニー・ハーバートというラインナップで戦った。テクニカルディレクターのアラン・ジェンキンスと空力担当のエグバル・ハミディSF-3の設計を残してチームを去り、前年秋にジョーダンから加入したゲイリー・アンダーソンが開発陣を指揮した。エンジンは軽量コンパクトでありながらハイパワーな新設計のCR-1を搭載する。

マシンパフォーマンスは著しく向上し、フェラーリマクラーレンウィリアムズジョーダンといった強豪と互角に渡り合う健闘を見せる。バリチェロは第2戦ブラジルGPで堂々のトップ走行。第7戦フランスGPでチーム初となるポールポジションを獲得した。第14戦ヨーロッパGPでは予選14位と15位に低迷したが、雨で混乱した展開に乗じて的確なピット戦略を採り、ハーバートがチーム初優勝をもたらし、バリチェロも3位表彰台を獲得した。レース後にはジャッキー・スチュワート代表も表彰台に上がり、ドライバーたちと歓喜のシャンパンファイトを繰り広げた。こうした活躍もあり、1999年はフェラーリ、マクラーレン、ジョーダンに次ぎコンストラクターズ4位と一挙に飛躍した。

チーム売却[編集]

モータースポーツ活動の拡大を図るフォードは、1998年にコスワースのエンジン部門(コスワース・レーシング)とエレクロトニクス部門(PIリサーチ)を買収。1999年6月にはスチュワート・グランプリも買収し、2000年より傘下のジャガーブランドを冠したジャガー・レーシングとしてF1にワークス参戦することを発表した[5]。買収金額は130ミリオン(1億3000万)ドル[1]。2001年にはこれらのモータースポーツ部門を統括するプレミア・パフォーマンス・ディビジョン (PPD) を設立した[6]

チーム創設者のスチュワート家に関しては、ジャッキーは2000年1月のジャガー・R1発表会で勇退を表明し、ポールはチーフ・オペレーティング・オフィサーとしてチームに残ったが、4月に結腸が発見され、治療に専念するため10月にチームを離れた[7]

その後、ジャガーF1チームは政治的ないさかいに終始した結果、スチュワート時代最後の年の活躍が嘘であったかのように低迷を続け、更にはフォード本社の業績不振に伴い、2004年をもってエナジードリンクメーカーのレッドブルに身売りされた。売却金額は1ドルと云われる。ジャガー改めレッドブル・レーシングはトップチームの一角に成長するが、今日でもPSR時代から活動しているミルトンキーンズに本拠地を置いている。

変遷表[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1997年 スチュワート・フォード SF-1 B フォードZETEC-R テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ヤン・マグヌッセン
9 0
1998年 スチュワート・フォード SF-2 B フォードZETEC-R テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ヤン・マグヌッセン
ヨス・フェルスタッペン
8 0
1999年 スチュワート・フォード SF-3 B フォードCR-1 テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ジョニー・ハーバート
4 1

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d Andrew Frankel. “Lunch with Paul Stewart”. Motor Sport magazine (2017-07): 136-144. https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/june-2017/136/lunch-paul-stewart 2020年5月3日閲覧。. 
  2. ^ a b Stewart Grand Prix”. Grandprix.com. 2020年5月3日閲覧。
  3. ^ ジル・ド・フェラン(1992)、ケルビン・バート(1993)、ヤン・マグヌッセン(1994)、ラルフ・ファーマン(1996)、ジョニー・ケーネ(1997)、マリオ・ハバーフェルド(1998)
  4. ^ 「デイモン・ヒルインタビュー」『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 77頁。
  5. ^ “Jaguar Back in Formula One”. motorsport.com. (1999年9月15日). https://www.motorsport.com/f1/news/jaguar-back-in-formula-one/33107/ 2020年5月3日閲覧。 
  6. ^ “何でもまとめればイイ? フォードが“PPD”を設置”. レスポンス. (2001年3月2日). https://response.jp/article/2001/03/02/7553.html 2020年5月3日閲覧。 
  7. ^ “Stewart announces resignation from Jaguar Racing”. Grandprix.com. (2000年10月30日). https://www.grandprix.com/news/stewart-announces-resignation-from-jaguar-racing.html 2020年5月3日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]