ハーベイ・ポスルスウェイト

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ハーベイ・ポスルスウェイトHarvey Postlethwaite1944年3月4日 - 1999年4月15日)は、イギリスロンドン出身のレーシングカーデザイナー。他にポストレスウェイトポスレスウェイトポスルズウェイトとも表記されたこともある。

1980年代から1990年代にかけてフェラーリティレルなどのF1チームで活躍した。中止されたホンダF1プロジェクトのテストを行っていたスペインにおいて、心筋梗塞のため死去した。

初期の経歴[編集]

バーミンガム大学機械工学を学ぶ。1966年に卒業し、その後3年間の研究生活を経て博士号を取得した。1968年インペリアル・ケミカル・インダストリーズ (ICI) に研究者として入社したが、モータースポーツの熱狂的ファンであったため、レーシングカーのエンジニアとしてのキャリアを求めるようになった。

1970年、新興コンストラクターであるマーチのエンジニア募集広告を見て、26歳でチームに加入した。F2およびF3マシンの開発に携わっていたが、やがてマーチの顧客の1つであるヘスケスF1チームに引き抜かれた。

フォーミュラ1[編集]

ヘスケス[編集]

1973年にヘスケスに加入すると、マーチ・731の改造/改良を行うことで、ヘスケスを真剣な競争が可能なレベルへと引き上げた。

1974年には、自身初のF1マシンとなる308を開発。何度も表彰台に上る活躍を見せ、シャーシデザイナーとしての評価を確立する。翌年にはファーストドライバーであるジェームス・ハントオランダGPで優勝を記録するに至った。

1976年にはラバーコーン・サスペンションに改良した308Cを投入したが、ヘスケスはF1参戦を継続することが困難になっており、チームは売却された。

ウルフ / フィッティパルディ[編集]

ポスルスウェイトは自身の設計した308Cとともに、新たに設立されたウルフ・ウィリアムズに移籍した[1]。このチームはウォルター・ウルフフランク・ウィリアムズの共同運営であったが、成績が芳しくなく両者はすぐ袂を分かった。ポスルスウェイトはウルフ側に残留し、1977年に向けてニューマシンのWR1を設計した。

WR1は、1977年の開幕戦ジョディー・シェクターのドライブにより優勝という最高の結果をもたらした。同年中にはさらに2度の優勝と多くの表彰台を勝ち取り、シェクターはドライバーズランキングで2位という結果を残した。

1978年にはロータスを追ってウィングカーWR5を開発したが、チームの成績は下降し始める。

1979年限りでウルフチームが消滅すると、ドライバーのケケ・ロズベルグや他のスタッフとともにフィッティパルディに合流した。1981年までこのチームに留まったが、1977年のような成功を再び得ることはなかった。

フェラーリ[編集]

1981年に名門フェラーリに加入し、家族とともにイタリアに移住した。フェラーリの開発部門は頭領マウロ・フォルギエリのもと、長年イタリア純血主義を貫いてきたが、当時は「最強のエンジンに最悪のシャシー」と評価されていた。ポスルスウェイトはこの問題を改善する助っ人として、エンツォ・フェラーリに個人的に選ばれた。

1982年は強固なアルミモノコックを持つ126C2を開発。ジル・ヴィルヌーヴゾルダーでの事故死と、ディディエ・ピローニのレーサー生命を絶つホッケンハイムリンクの事故などの不運に遭いながらも、3年振りとなるコンストラクターズタイトルを獲得した。

1983年の第9戦イギリスGPに実戦デビューとなった126C3には、当時の先端技術であるカーボンコンポジット構造のシャシーを導入[2]パトリック・タンベイルネ・アルヌーのドライブにより2年連続でコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

1984年は発展型の126C4が誕生したが、フラットボトム規制下での空力性能の研究に立ち遅れ、ホンダエンジンの台頭もあり苦戦が増え始める。1985年ドイツGPにてミケーレ・アルボレート156/85を優勝に導いてからは、1987年日本GPゲルハルト・ベルガーF187を駆って勝利するまで、2年以上の間未勝利という低迷期が続いた。

1986年中にフェラーリは新たなデザイナーとしてマクラーレンMP4シリーズで成功を収めたジョン・バーナードと契約した[3]。同じイギリス人デザイナーに地位を奪われる形で、ポスルスウェイトは1987年限りでフェラーリを離れ、ティレルへと移籍した。

ティレル / ザウバー[編集]

ポスルスウェイトが在籍した4年間、ティレルは中堅チームながらも時折上位を脅かす活躍をみせた。1989年には前輪にモノショックサスペンションを持つ018を開発。1990年の開幕戦アメリカGPでは、ジャン・アレジの乗る018がアイルトン・セナの駆るマクラーレン・MP4/5Bと優勝争いを繰り広げた。続く019では、空力設計者のジャン・クロード・ミジョーと共にハイノーズとアンヘドラルウイングを導入し、以後のF1マシンのエアロダイナミクスの主流を産み出した。

彼はこの時期にマイク・ガスコインを起用して自らのアシスタントに据えた。また、ティレルでのアレジの好走の影にはチームメイトの中嶋悟のセッティング能力が大きく寄与していると指摘し、中嶋の貢献度を評価していた。

1991年、ポスルスウェイトは1993年からのF1参戦を計画していたザウバーとテクニカル・ディレクターとして契約した。ガスコインを後任として自身はスイスに転居し、ザウバーの最初のマシンとなるC12を設計した。彼はF1参戦を待たずザウバーを離れたが、F1デビューシーズンとなる1993年にC12は目覚しい成果を示した。

1992年後半からフェラーリに復帰したポスルスウェイトは、駄作と評されたダブルデッキのF92Aを改良し、翌93年にはアクティブサスペンションを搭載するF93Aを製作。フェラーリを徐々に表彰台圏内へと戻す実績を残した。

ポスルスウェイトはF93Aのデザインを終えるとティレルに舞い戻り、再びミジョー、ガスコインらと組むこととなった。1994年にはヤマハエンジンを搭載する022が快走し、ポスルスウェイトは中嶋に続くチーム2人目の日本人ドライバーとなった片山右京の良きアドバイザーになった。

その後のシーズンはチームの財政難で苦戦が続いたが、023のハイドロリンク・サスペンション(1995年)や025のXウイング(1997年)などで技術的独創性をみせた。

1998年のシーズン前にティレルはB・A・Rに売却され、開発もレイナードが担当することに決まったため、ポストレスウェイトはこの年限りでチームを離れた。

幻のホンダF1マシン[編集]

ホンダで設計した評価用マシン RA099

ティレルは小さく資金に乏しいチームではあったが、彼はF1の世界で広く尊敬を集めており、すぐにホンダF1プロジェクトのテクニカル・ディレクターに招かれた。当時、ホンダはシャーシも含めたフルコンストラクターとしてF1に復帰することを計画しており、ポスルスウェイトが評価用のマシンRA099を設計し、ダラーラに製作を委託した。

1999年にはヨス・フェルスタッペンがRA099のテストドライブを担当し、好タイムを記録したものの、ホンダ側では人事変更などにより参戦計画が流動的な状況となった。同年4月、スペインのサーキットでテストを行っている最中、ポストレスウェイトは心筋梗塞で倒れ、そのまま不帰の人となった。ガスコインの談話によると、急死後に関係者が所持品を調べたところ、システム手帳に「胸の痛みを医者に診てもらう」という予定書きが残っていたという[4]。その後、ホンダはコンストラクターとしての参戦を取り止め、エンジンサプライヤーとして第3期F1活動を行うことを決定した。

1999年のル・マン24時間レースで総合2位に入ったトヨタ・GT-One TS020は、公式にはアンドレ・デ・コルタンツの設計とされているが、設計段階ではポスルスウェイトもデザインに参加していたとも言われる[要出典]。TS020やティレル019の様な革新的なマシンも設計していながら、サウバーC12やフェラーリF93Aの様なコンサバティブなマシンの設計も行っていたポストルスウェイトは、博士の称号に相応しいデザイナーとして賞賛された。

脚注[編集]

  1. ^ ヘスケス・308Cはウィリアムズ・FW05と改められた。
  2. ^ 大串信 『フェラーリF1賛歌 1978~1991』 ソニー・マガジンズ、1991年、p.172。
  3. ^ レーシングオン 1987年2月号』 ニューズ出版、p.65。
  4. ^ 『F1レーシング 日本語版 2011年12月情報号』 イデア、p.85。

関連項目[編集]