エディ・ジョーダン

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エディ・ジョーダン
Eddi Jordan
Eddie Jordan 2017 United States GP .jpg
2017年F1アメリカGPにて
基本情報
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
生年月日 (1948-03-30) 1948年3月30日(71歳)
出身地 ダブリン州ダブリン
引退 1981年
ル・マン24時間レースでの経歴
活動時期 1981年
所属 EMKA Racing
シリーズ最高順位 DNF (24位)
過去参加シリーズ
1971年
1974年 - 75年
1977年 - 78年
1979年
1979年
アイルランド・カート選手権
Fフォード
Fアトランティック
イギリスF3
F2
受賞
2012年 大英帝国勲章OBE

エドムンド・パトリック・ジョーダン(エディ・ジョーダン、Edmund Patrick "Eddie" Jordan OBE1948年3月30日 - )は、アイルランド出身の元レーシングドライバーで、F1コンストラクター「ジョーダン・グランプリ」の創設者。

新興の同チームを指揮し通算4勝の実績を残した。2005年に経営者から勇退し、マスメディア業界に転身している。愛称は「EJ」。2012年3月大英帝国勲章を叙勲[1]

経歴[編集]

レーシングドライバー[編集]

1948年アイルランドダブリンで生まれる。彼は歯科医になるつもりで学んだが、学校を卒業した後アイルランド銀行に就職した。ダブリンでストライキが行われている時にジャージー島を訪れ、そこで初めてカートレースを目撃しその虜となる。ダブリンへ戻るとカートを購入し、レースに参加し始める。最初のレースはジャージー島のボーレイ湾で1970年に行われたものであった。1971年のアイルランド・カート選手権に参加し優勝した。

1974年にはフォーミュラ・フォードにステップアップ。同クラスに2年間参加したが、事故で両脚を骨折し、1976年シーズンへの参加を断念する。傷が癒えるとフォーミュラ・アトランティックに参戦、1977年に3勝し、1978年にはアイルランド選手権を制する。ステファン・ヨハンソン1979年イギリスF3で戦い、彼らは自身を「チーム・アイルランド」と呼んだ。同年にはF2の1戦に参加し、マクラーレンのテストドライブも行った。

チームオーナー[編集]

F1オーナー時代(1996年)

1979年の終わりに最初のプライベートチーム「エディ・ジョーダン・レーシング」(EJR)を設立。ドライバーはデヴィッド・レズリーデヴィッド・シアーズで、1981年イギリス近辺の複数のレースに参加した。1982年にはジェームズ・ウィーバーをエースドライバーとしたが、1983年にウィーバーがヨーロッパF3に参加したため、マーティン・ブランドルを採用した。ブランドルはイギリスF3でアイルトン・セナと選手権を争い、2位に終わった。チームは1987年ジョニー・ハーバートを採用し、イギリスF3を制覇した。

EJRはハーバート、マーティン・ドネリーとともに国際F3000へ参戦し、1988年に初勝利を挙げ、1989年にはジャン・アレジを擁してチャンピオンを獲得した。

1991年に「ジョーダン・グランプリ」を設立してF1に参戦。交渉手腕を活かしてワークス(型落ち)のフォードHBエンジンを獲得し、初年度からコンストラクターズ5位を獲得した。その後ヤマハハートプジョー無限ホンダとエンジンメーカーを乗り換えながらチーム力を拡充し、1998年にF1初優勝を達成した。1999年にはコンストラクターズ3位を獲得するが、これを頂点に成績は下降線を辿り、チーム組織も弱体化していった。この背景は2000年シーズン中のマイク・ガスコインの他チームへの移籍表明をきっかけにエンジニアが年々離脱していき、その穴埋めができず開発体制は弱体化。チーム規模を拡大してきたことによる相対的な資金不足にも見舞われた点が挙げられる

2004年末の資金難で翌年に、ロシア系カナダ人ビジネスマン、アレックス・シュナイダーにチームを売却。2006年から「MF1レーシング」と改名する。その後また人手に渡り、「スパイカーF1」を経て「フォース・インディア」「レーシング・ポイント」と変遷を繰り返している。

解説者[編集]

右の男性がジョーダン。左はクルサード(2013年)

オーナー業から退いた後は『F1 Racing』誌にコラムを寄稿するなど、マスメディア側に転身する。2009年よりイギリスBBCのF1中継番組のコメンテーター陣に加わり、マーティン・ブランドル、デビッド・クルサードらと共に軽妙な解説を行っている。

慈善活動とモータースポーツへの貢献を認められ、2012年大英帝国勲章OBEの叙勲を受けた[2]2016年にはBBCの自動車番組『トップ・ギア』の司会者陣に加わっている[3]

エピソード[編集]

  • F1に携わっていた時は、策士として数々の商才を発揮していた。代表例として、1991年はジョーダンでたった1戦しか在籍しなかったミハエル・シューマッハに対し、数年後シューマッハ側から違約金が支払われた。1995年には、エディ・アーバインと契約をまとめた後に、後日金銭トレードでフェラーリに移籍させてフェラーリ側から違約金を貰っている。
  • 新人ドライバーの発掘能力にも長けており、ミハエル・シューマッハ、ルーベンス・バリチェロ、エディ・アーバイン、ラルフ・シューマッハなど数々の逸材をF1に抜擢し後の活躍に繋がった(また、EJR時代も含めれば、F3の時期にアイルトン・セナ(テスト走行)やジョニー・ハーバート、国際F3000ではジャン・アレジを起用しており、彼らのキャリアアップの一因となった)。
  • ドライバー以外にも、エンジニアのジェームス・キーサム・マイケルはキャリアの初期において在籍していたチームでもある。
  • ジョーダンはチームの所有権を2004年まで保持していたが、幾度も噂された買収アプローチ(最も顕著な物はプジョーとホンダからによる物であった)を最後まで拒絶。彼の手を離れた2005年から直近の3年はチームの転売が繰り返されたものの、フォース・インディアとなってからはチーム基盤が安定したこともあり、年を追うにつれ、有力チームの1つと称されるまでに至った。スポンサーやエンジンを安定的に獲得した彼の巧みな手腕やドライバーに関する契約や移籍の交渉術がなければ、ジョーダン・グランプリはアロウズのような形での破たん、あるいはプロスト・グランプリと似た道筋をたどって消滅していた可能性がある。
  • 趣味はロックンロール競馬であり、しばしばドラムを演奏する。
  • カツラを着用しているという話が枕言葉的に出るが、真相は定かではない。村山文夫原作の『グランプリ天国』ではカツラネタが非常に多かった。また、2013年に表彰台でのインタビューをした際、キミ・ライコネンルイス・ハミルトンに向かってカツラを取るようにジェスチャーした幕もあった
  • 1991年には鈴木亜久里とも交渉したが、亜久里サイドからは「お金の無いチームには行きたくない」と言う理由で断っていたものの、1994年ブラジルグランプリにおいてエディ・アーバインが多重クラッシュの原因を引き起こして3戦出場停止処分が下ったため、亜久里は1994年パシフィックグランプリでアーバインの代打としてスポット参戦している。

脚注[編集]

  1. ^ Formula 1 analyst Eddie Jordan made honorary OBE by Queen
  2. ^ エディ・ジョーダンが叙勲…チャリティ活動とモーターレーシング貢献に - レスポンス(2012年3月29日)
  3. ^ Meet your new Top Gear presenters! - TopGear.com・2016年2月11日

関連項目[編集]