1994年サンマリノグランプリ

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サンマリノの旗 1994年サンマリノグランプリ
レース詳細
Circuit Imola 1992.png
日程 1994年シーズン第3戦
決勝開催日 5月1日
開催地 イモラ・サーキット
イタリア エミリア=ロマーニャ州イモラ
コース長 4.933 km
レース距離 58周(286.114 km)
決勝日天候
ポールポジション
ドライバー
タイム 1'21.548
ファステストラップ
ドライバー イギリスの旗 デイモン・ヒル
タイム 1'24.335(Lap 10)
決勝順位
優勝
2位
3位

1994年サンマリノグランプリは、1994年5月1日イタリアイーモラにあるイモラ・サーキットで開催されたF1レースである。1994年のF1世界選手権の第3戦で、このシーズンのヨーロッパラウンド初戦として開催された。アイルトン・セナローランド・ラッツェンバーガーの最期のレースとして知られる。

概要[編集]

「最も悲しい日」[編集]

この週末にはローランド・ラッツェンバーガーシムテック)と3度のワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナウィリアムズ)が死亡した他、多くの事故と負傷者が発生し、BBCの解説者マレー・ウォーカーは「私の知る限り、グランプリレース史上、最も悲しい日」と形容した[1]

レースは最終的にミハエル・シューマッハの勝利で終わった。レース後の記者会見でシューマッハは、多くの出来事があった週末に挙げた優勝について「満足感もなく、ハッピーでもない」と語った。ニコラ・ラリーニは2位に入りキャリア初の得点を挙げ、ミカ・ハッキネンは3位に入った。また、日本人ドライバー片山右京が2度目の5位入賞を挙げている。

転換点[編集]

このレースにおいて発生した複数の事故は、このスポーツの安全性を高めることの重要性を示した。12年ぶりにGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)が活動を開始し、マシン設計とコースの双方に多くの変更が加えられた。

このレース以後、FIA会長のマックス・モズレーの主導により多くのレギュレーションに変更が加えられた。次戦モナコGPからピットロードに速度制限が設けられた他、ダウンフォースを削減しコーナリングスピードを低下させる目的で、第5戦スペインGP以降は順次ボーテックスジェネレーターの禁止、ステップドボトムの導入、リアディフューザーの規制強化、フロントウイング翼端板の最低地上高引き上げなど様々なレギュレーション変更が行われた。これらの変更は満足なテスト期間を設けられることもなく半ば強行されたものであったため、安全性を確認することなく付け焼刃の突貫作業となった事から批判も多く、レギュレーション変更後も大事故が多発した。しかし結果としてそれまで死亡事故が12年間に渡り発生せず、安全神話とまで呼ばれ安全性向上への意識が疎かになりつつあった状況に終止符を打ち、94年以降から現代に続くマシンやサーキットの安全性向上へ繋がる契機となった。

セナの死[編集]

セナの葬儀は母国ブラジルの「国葬」とされ、セナの故郷のサンパウロでは棺を見送ろうと推定300万人の人々が通りに並んだ。イタリアの検察は、セナの死に関連して6人を過失致死で起訴したが、後に全員が無罪とされた。 この訴訟は確定までに11年以上の時間が掛かった。理由は、初審の無罪判決に対して上訴と再審理が行われたことによる。

ローランド・ラッツェンバーガーの死[編集]

ラッツェンバーガーは事故の前年まで、日本で4年ほど全日本F3000選手権などでレース活動を行うなど関わりが深かったため、突然の訃報は日本国内のレース関係者やファンにも大きな衝撃を与えた。

全日本F3000選手権等で対戦した星野一義は、アイルトン・セナの事故死についてコメントを求められた際、「自身としては、セナ以上にラッツェンの死がショック。去年まで同じレースで闘った仲間だから」と語った。(「オートスポーツ」誌より)

レポート「呪われた週末」[編集]

予選[編集]

金曜日[編集]

セナの後輩ルーベンス・バリチェロは、この週末の最初のアクシデントから生還した。

4月29日の金曜日、レースのスタート順位を決める最初の予選中に、ジョーダンのルーベンス・バリチェロはヴァリアンテ・バッサシケインで時速225キロで縁石に乗り上げ、空中に飛び上がった[2]。マシンはタイヤバリアの上端と金網に衝突し、バリチェロはその衝撃で気を失った [3]。マシンはノーズから地面に垂直落下した後に数回横転し、裏返しになって停止した。

バリチェロは事故現場で医療チームからの手当を受け、その後メディカルセンターに搬送された。鼻を骨折し、ギプスで腕を固められた事でレースウィークはマシンの運転が出来なくなったが、翌日にはサーキットに戻り、ドライバーズミーティングに出席した。当時ウィリアムズルノーをドライブしていたデイモン・ヒルは事故から10年が経過してから、当時の気持ちについて「我々は戦車並に頑丈なクルマに乗っているんだ、多少不安に感じても怪我等しない、と自身に言い聞かせて予選を続行した」と述懐している[4]

土曜日[編集]

予選開始から20分後、シムテックローランド・ラッツェンバーガーが「ヴィルヌーヴカーブ」を曲がりきれず、アウト側のコンクリートウォールにほぼ正面から衝突した。サバイバルセル(モノコック部)は原形を大まかには留めていたものの車体左側には大きく穴が開き、モノコックの中の左腕が映像ではっきりと確認できる程であった。

ラッツェンバーガーは衝突の衝撃により頭蓋底骨折を起こした。F1デビューイヤーのラッツェンバーガーは、事故の直前の周回に「アクア・ミネラリ」シケインで縁石を乗り越えており、そのときの衝撃でフロントウィングがダメージを受けていたと考えられている。ラッツェンバーガーは縁石越え後もピットに戻らずに次の周もタイムアタックを続けた。時速306キロで走行中にフロントウィングが完全に破損し、ラッツェンバーガーはコントロールを失った[5]

ヴィルヌーヴカーブ:ラッツェンバーガーのクラッシュ地点

セッションは40分を残して中断したが、残り時間は最終的にキャンセルされた[4][3]。その後、ラッツェンバーガーは多発外傷により死亡したと病院から発表された。F1レースウィーク中の死亡事故は1982年カナダGPリカルド・パレッティ以来だった。また、ポールリカールブラバムのテスト中にエリオ・デ・アンジェリスが死亡してからは8年が経過していた。

F1のコース上の当時の医療チームリーダーだったシド・ワトキンス教授は、このニュースを聞いたセナの反応について「アイルトンは取り乱し、僕の肩で泣いていた」と後に語っている[6]。ワトキンスは、翌日のレースに出場しないようセナを説得しようとした。「君は何をしなければいけないんだ。既に3度も世界チャンピオンになり、間違いなく一番速いドライバーだ。もうやめにして、釣りにでも行こう」しかしセナはこう返した。「シド、僕らの手にはどうしようもないことがある。僕はやめることは出来ない。続けなければならないんだ。」[6]

セナはポールポジションを獲得し、ポイントランキングでトップのミハエル・シューマッハが続いた。ゲルハルト・ベルガーが3位となり、セナのチームメイトデイモン・ヒルが4位を得た。ラッツェンバーガーが事故前に記録したタイムは予選通過最後尾の26位に相当した。

結果[編集]

順位 No ドライバー コンストラクター タイム
1 2 ブラジルの旗 アイルトン・セナ ウィリアムズルノー 1'21.548
2 5 ドイツの旗 ミハエル・シューマッハ ベネトンフォード 1'21.885 +0.337
3 28 オーストリアの旗 ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 1'22.113 +0.565
4 0 イギリスの旗 デイモン・ヒル ウィリアムズルノー 1'22.168 +0.620
5 6 フィンランドの旗 J.J.レート ベネトンフォード 1'22.717 +1.169
6 27 イタリアの旗 ニコラ・ラリーニ フェラーリ 1'22.841 +1.293
7 30 ドイツの旗 ハインツ=ハラルド・フレンツェン ザウバーメルセデス 1'23.119 +1.571
8 7 フィンランドの旗 ミカ・ハッキネン マクラーレンプジョー 1'23.140 +1.592
9 3 日本の旗 片山右京 ティレルヤマハ 1'23.322 +1.774
10 29 オーストリアの旗 カール・ヴェンドリンガー ザウバーメルセデス 1'23.347 +1.799
11 10 イタリアの旗 ジャンニ・モルビデリ フットワークフォード 1'23.663 +2.115
12 4 イギリスの旗 マーク・ブランデル ティレルヤマハ 1'23.703 +2.155
13 8 イギリスの旗 マーティン・ブランドル マクラーレンプジョー 1'23.858 +2.310
14 23 イタリアの旗 ピエルルイジ・マルティニ ミナルディフォード 1'24.078 +2.530
15 24 イタリアの旗 ミケーレ・アルボレート ミナルディフォード 1'24.276 +2.728
16 9 ブラジルの旗 クリスチャン・フィッティパルディ フットワークフォード 1'24.472 +2.924
17 25 フランスの旗 エリック・ベルナール リジェルノー 1'24.678 +3.130
18 20 フランスの旗 エリック・コマス ラルースフォード 1'24.852 +3.304
19 26 フランスの旗 オリビエ・パニス リジェルノー 1'24.996 +3.448
20 12 イギリスの旗 ジョニー・ハーバート ロータス無限ホンダ 1'25.114 +3.566
21 15 イタリアの旗 アンドレア・デ・チェザリス ジョーダンハート 1'25.234 +3.686
22 11 ポルトガルの旗 ペドロ・ラミー ロータス無限ホンダ 1'25.295 +3.747
23 19 モナコの旗 オリビエ・ベレッタ ラルースフォード 1'25.991 +4.443
24 31 オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム シムテックフォード 1'26.817 +5.269
25 34 ベルギーの旗 ベルトラン・ガショー パシフィックイルモア 1'27.143 +5.595
26 32 オーストリアの旗ローランド・ラッツェンバーガー シムテックフォード 1'27.584 +6.036
27 33 フランスの旗 ポール・ベルモンド パシフィックイルモア 1'27.881 +6.333
28 14 ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ ジョーダンハート


決勝[編集]

最初のスタート[編集]

3度のワールドチャンピオン、アイルトン・セナの死は、F1を大きく変えることとなった。

前日に事故死したラッツェンバーガーだが予選は26位で通過しており、彼を追悼する目的で26番グリッドを空けた状態でレースはスタートした。スタート直後、J.J.レートのベネトンがグリッド上でストールした。後方からスタートしたペドロ・ラミーは、停止していたベネトンを前走者に遮られ確認することができず、レートに追突し、車体の破片やタイヤなどが空中に舞い上がった。マシンのパーツは、観客を守るためにスタートライン付近に設計されていた安全フェンスを飛び越え、9名の観客が軽傷を負った[7]

この事故によりセーフティカーが導入され、マシンはその後方で順位を維持したままスピードを落として走行した。低速で走行したこの間に、タイヤ温度は低下した。レースの前に行われたドライバーズブリーフィングにおいて、セナはゲルハルト・ベルガーとともに、セーフティカーのスピードが遅いとタイヤ温度を高く保てないとの懸念を表明していた[7]

コース上の破片などが除去されると、セーフティカーは退き、レースはローリングスタートで再開された。再スタートから2周後、シューマッハを抑えてトップを走行していたセナが、タンブレロコーナーでコースアウトした。その後、セナは壁に衝突するまでの0.9秒間にブレーキングと6速から5速へのシフトダウンによって、312km/hから211km/hまで減速した。

タンブレロコーナー:セナの事故現場

14時17分(CEST、以下同)にレース中断を示す赤旗が提示され、シド・ワトキンスがセナの手当のために現場に向かった。赤旗でレースが中断されると、マシンはスローダウンしてピットレーンに戻り、以後の通知を待たなければならない。これは事故現場のコースマーシャルと医療スタッフを守るための措置であり、またメディカル車両が現場に到着しやすくするためのものでもある。

ラルースチームのクルーは、赤旗が提示されているにも関わらずエリック・コマスをピットアウトさせるというミスを犯してしまった[8]。コマスが「ほとんどフルスピード」で現場に差し掛かったため、マーシャルはスローダウンさせるために必死に旗を振って合図を送った[9]。ユーロスポーツのコメンテーターだったジョン・ワトソンは、この件について「これまでの人生で見てきたことの中で、最も馬鹿げた出来事」と語っている[9]。コマスはコースに居た人間と車両を全て避けたが、セナの事故現場を通り過ぎた後、自ら目にしたことに苦しみ、レースをリタイアした。

RAIにより世界に配信されたセナの事故の映像はあまりに生々しく、BBCは独自映像に切り替え、ピットレーンの様子を映し出した[10]。壊れたマシンから出されたセナは、ボローニャに近いマッジョーレ病院にヘリコプターで搬送された。医療チームは搬送中もセナの手当をし続けた。事故から37分後の14時55分、レースは再スタートされた。

二度目のスタート[編集]

再スタートされたレースの結果は、中断された最初のレースとの合算で争われることになった。再スタート後はゲルハルト・ベルガーがコース上でのリードを奪ったが、レース中断時点ではシューマッハがベルガーに対してリードしており、合算ではシューマッハがレースをリードしていた。12周目にシューマッハはコース上でもトップに立ったが、ベルガーはその4周後にハンドリングの問題でリタイアした。ラリーニはシューマッハのピットストップにより一時的にトップに立ったが、自身のピットストップで順位は元に戻った[11]

ゴールまで10周を残し、ピットレーンでミケーレ・アルボレートのミナルディから右リアタイヤが外れた。アルボレートはピット出口で無事停車したが、外れたタイヤはフェラーリとロータスの各2名のメカニックに当たり、それぞれ病院での手当を要した[12]。難を逃れたフェラーリのメカニックは「周りから叫び声が聞こえたので、何事かと振り返った瞬間にタイヤが自分の鼻先をかすめて行った」と恐怖を語った。当時のF1ではピットロードに於いての速度制限が定められていなかった事から被害に拍車がかかり、翌モナコGPからピットロードでの速度制限が定められる契機となった。

ミハエル・シューマッハがニコラ・ラリーニとミカ・ハッキネンを抑えて優勝し、1994年のF1世界選手権の開幕3戦で満点となる30ポイントを獲得した。ラリーニにとってはキャリア唯一の表彰台で、初のポイント獲得となった。表彰式では、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナへの配慮からシャンパンファイトは行われなかった。

結果[編集]

順位 No ドライバー コンストラクター 周回 タイム/リタイア グリッド ポイント
1 5 ドイツの旗 ミハエル・シューマッハ ベネトンフォード 58 1:28'28.642 2 10
2 27 イタリアの旗 ニコラ・ラリーニ フェラーリ 58 +54.942 6 6
3 7 フィンランドの旗 ミカ・ハッキネン マクラーレンプジョー 58 +1'10.679 8 4
4 29 オーストリアの旗 カール・ヴェンドリンガー ザウバーメルセデス 58 +1'13.658 10 3
5 3 日本の旗 片山右京 ティレルヤマハ 57 +1 Lap 9 2
6 0 イギリスの旗 デイモン・ヒル ウィリアムズルノー 57 +1 Lap 4 1
7 30 ドイツの旗 ハインツ=ハラルド・フレンツェン ザウバーメルセデス 57 +1 Lap 7
8 8 イギリスの旗 マーティン・ブランドル マクラーレンプジョー 57 +1 Lap 13
9 4 イギリスの旗 マーク・ブランデル ティレルヤマハ 56 +2 Laps 12
10 12 イギリスの旗 ジョニー・ハーバート ロータス無限ホンダ 56 +2 Laps 20
11 26 フランスの旗 オリビエ・パニス リジェルノー 56 +2 Laps 19
12 25 フランスの旗 エリック・ベルナール リジェルノー 55 +3 Laps 17
13 9 ブラジルの旗 クリスチャン・フィッティパルディ フットワークフォード 54 +4 Laps 16
Ret 15 イタリアの旗 アンドレア・デ・チェザリス ジョーダンハート 49 スピンオフ 21
Ret 24 イタリアの旗 ミケーレ・アルボレート ミナルディフォード 44 ホイール 15
Ret 10 イタリアの旗 ジャンニ・モルビデリ フットワークフォード 40 エンジン 11
Ret 23 イタリアの旗 ピエルルイジ・マルティニ ミナルディフォード 37 スピンオフ 14
Ret 31 オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム シムテックフォード 27 スピンオフ 24
Ret 34 ベルギーの旗 ベルトラン・ガショー パシフィックイルモア 23 エンジン 25
Ret 19 モナコの旗 オリビエ・ベレッタ ラルースフォード 17 エンジン 23
Ret 28 オーストリアの旗 ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 16 サスペンション 3
Ret 2 ブラジルの旗アイルトン・セナ ウィリアムズルノー 5 事故死 1
Ret 20 フランスの旗 エリック・コマス ラルースフォード 5 棄権 18
Ret 6 フィンランドの旗 J.J.レート ベネトンフォード 0 衝突 5
Ret 11 ポルトガルの旗 ペドロ・ラミー ロータス無限ホンダ 0 衝突 22
DNS 32 オーストリアの旗ローランド・ラッツェンバーガー シムテックフォード 予選中の事故死 26
DNQ 14 ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ ジョーダンハート 棄権 -
DNQ 33 フランスの旗 ポール・ベルモンド パシフィックイルモア -

レース後[編集]

シューマッハがゴールラインを越えてから2時間20分後の18時40分、マリア・テレーザ・フィアンドリ医師はアイルトン・セナの死を発表した。公式の死亡時刻は14時17分、つまり即死だった[13]。検死解剖の結果、死因は「大破したマシンのサスペンション部品が、ヘルメットを貫通した」と結論付けられた[14]

1994年のイモラのレイアウトは1981年より使用されていたものだったが[15]、以後、F1のレースでは二度と使われることは無かった。サーキットは大きく改修され、タンブレロも変更を受けた。タンブレロではゲルハルト・ベルガー1989)、ネルソン・ピケ(1987)、リカルド・パトレーゼ(1992年・合同テスト中)の大きな事故が起こっており、高速コーナーから低速のシケインへと姿を変えた。FIAはF1カーの設計に関する規則も変更した。1994年の車両では1995年の規則に対応することができなくなり、1995年に向け全てのチームが完全に新設計したマシンを作製しなければならなくなった[16]。決勝日の朝に行われたドライバーズブリーフィングでセナとベルガーから懸念が提起されたことがきっかけとなり、グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)が次戦1994年モナコグランプリで再結成された。1961年に設立されたGPDAは、1982年に解体されていた。再結成の主な目的は、イモラの事故を受け、安全向上のためにドライバーが話し合う場を設けることだった。この年のモナコグランプリでは、最前列の2グリッドにはブラジル国旗とオーストリア国旗がペイントされ、命を落とした2人のドライバーを追悼するためにグリッドが空けられた。また、レース前に1分間の黙祷がささげられた。

2件の死亡事故が起こった1994年のレース後、サーキットのレイアウトは変更された。

1994年5月5日、ブラジルサンパウロでセナは国葬にされた。約50万の人々が沿道に並び、棺を見送った[1]。セナのライバル、アラン・プロストは棺を担いだ[17]。多くのF1関係者はセナの葬儀に参列したが、F1運営団体FIAの会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、1994年5月7日にオーストリアザルツブルクで執り行われたラッツェンバーガーの葬儀に参列した[18]。10年後、モズレーはプレスカンファレンスで「私が彼(ラッツェンバーガー)の葬儀に参列したのは、皆がセナのほうに参列したからだ。誰かが彼の葬儀に参列することが重要だと思った」と語っている[19]

裁判[編集]

イタリアの検察は法的手順に則り、セナの死に関連して6名を訴えた。訴えられたのは、ウィリアムズフランク・ウィリアムズパトリック・ヘッドエイドリアン・ニューウェイイモラ・サーキットオーナー代表のフェドリコ・ベンディネリ、サーキットディレクターのジョルジョ・ポッジ、レースディレクターでサーキットを認可したローランド・ブルインセラードである[20]。判決は1997年12月16日に下され、過失致死について6名の被告全員が無罪となった[21]

セナの事故原因はステアリングコラムの破損だったと、法廷で確定された[22]。ステアリングコラムは、セナの要望により切断と再溶接が行われていた。これはマシン内の居住性を改善するためであった。

この判決を受け、州検察はパトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイに対して上訴した。1999年11月22日、新たな証拠がないことから法廷は無罪を言い渡した。セナの車両に搭載されたブラックボックスは損傷していたためにデータが残されておらず、また事故直前にTV局は車載カメラの映像を他車のものに切り替えてしまったために、セナの車載カメラの映像には1.6秒ほどの内容が残っていなかった。イタリアの刑法530条に従い、告訴は「証拠がないか、事実が存在しない」と宣言された[23]。2003年1月、この判決は530条の解釈に間違いがあるとされ、イタリア最高裁に取り消された[24]。再審が命じられ、2005年5月27日にヘッドとニューウェイの両名とも無罪とされた[25]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “Race ace Senna killed in car crash”. BBC News. (1994年5月1日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/1/newsid_2479000/2479971.stm 2006年10月28日閲覧。 
  2. ^ Longmore, Andrew (1994年10月31日). “Ayrton Senna: The Last Hours”. The Times (News International). http://www.cstudio.net/may194.html 2006年10月28日閲覧。 
  3. ^ a b Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 232. ISBN 0-333-71716-3 
  4. ^ a b Hill, Damon (2004年4月17日). “Had Ayrton foreseen his death?”. The Times (News International). http://www.timesonline.co.uk/article/0,,12771-1077121,00.html 2006年10月28日閲覧。 
  5. ^ Spurgeon, Brad (1999年4月30日). “5 Years After Senna's Crash, Racing Is Safer ? Some Say Too Safe: Imola Still Haunts Formula One”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/1999/04/30/prix.2.t_1.php 2007年5月1日閲覧。 
  6. ^ a b Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 234. ISBN 0-333-71716-3 
  7. ^ a b “A tragic weekend”. The Times (News International). (2004年4月19日). http://www.timesonline.co.uk/article/0,,12771-1079325,00.html 2006年10月28日閲覧。 
  8. ^ “TITLE REQUIRED”. Autosport. (1994年5月5日) 
  9. ^ a b Watson, John (Commentator) (1994年). Eurosport Live Grand Prix (Television). Eurosport 
  10. ^ Horton, Roger (2000年). “There's Something about Murray”. Autosport. http://atlasf1.autosport.com/2000/dec20/horton.html 2006年10月28日閲覧。 
  11. ^ Grand Prix Results: San Marino GP, 1994”. GP Encyclopedia. www.grandprix.com. 2006年10月28日閲覧。
  12. ^ Rider, Steve (Presenter) (1994年). San Marino Grand Prix (Television). London, United Kingdom: BBC 
  13. ^ Secrets of Senna's black box”. Senna Files. www.ayrton-senna.com (1997年3月18日). 2006年10月28日閲覧。
  14. ^ Thomsen, Ian (1995年2月11日). “Williams Says Italy May Cite Steering In Senna's Death”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/1995/02/11/prix_0.php 2006年10月28日閲覧。 
  15. ^ Autodromo Enzo e Dino Ferrari - Imola”. www.gpracing.net192.com. 2006年10月28日閲覧。
  16. ^ Wright, Peter (1995年). “Preview of 1995 Formula1 Cars”. www.grandprix.com. http://www.grandprix.com/ft/ft00187.htm 2006年10月28日閲覧。 
  17. ^ Open Warfare”. www.gpracing.net192.com. 2006年10月28日閲覧。
  18. ^ David Tremayne, Mark Skewis, Stuart Williams, Paul Fearnley (1994年4月5日). “Track Topics”. Motoring News (News Publications Ltd.) 
  19. ^ “Max went to Roland's funeral”. www.f1racing.net. (2004年4月23日). http://www.f1racing.net/en/news.php?newsID=48657 2006年10月28日閲覧。 
  20. ^ Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 276. ISBN 0-333-71716-3 
  21. ^ All six cleared in Senna trial”. Senna Files. www.ayrton-senna.com (1997年12月16日). 2006年10月28日閲覧。
  22. ^ Faulty Steering Caused Crash!”. Senna Files. www.ayrton-senna.com. 2006年10月28日閲覧。
  23. ^ Appeal absolves Head and Newey”. Senna Files. www.ayrton-senna.com. 2006年10月28日閲覧。
  24. ^ “Senna death case back in court”. BBC Sport. (2003年1月28日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/motorsport/formula_one/2701713.stm 2006年10月28日閲覧。 
  25. ^ “Top designers acquitted on Senna”. BBC Sport. (2005年5月27日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/motorsport/formula_one/4587195.stm 2006年10月28日閲覧。 

レース結果は、F1公式サイトおよびYahoo!Japanより。

外部リンク[編集]


前戦
1994年パシフィックグランプリ
FIA F1世界選手権
1994年シーズン
次戦
1994年モナコグランプリ
前回開催
1993年サンマリノグランプリ
サンマリノの旗 サンマリノグランプリ 次回開催
1995年サンマリノグランプリ