ネルソン・ピケ

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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の)はピケ第二姓(父方の)はソウト・マイオールです。
ネルソン・ピケ
Nelson Piquet Souto Maior.jpg
ネルソン・ピケ (2013年)
基本情報
フルネーム ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 リオデジャネイロ州の旗 リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市
生年月日 (1952-08-17) 1952年8月17日(65歳)
F1での経歴
活動時期 1978-1991
所属チーム '78 エンサイン
'78 マクラーレン
'78-'85 ブラバム
'86-'87 ウィリアムズ
'88-'89 ロータス
'90-'91 ベネトン
出走回数 207 (204スタート)
タイトル 3 (1981,1983,1987)
優勝回数 23
表彰台(3位以内)回数 60
通算獲得ポイント 481.5 (485.5)
ポールポジション 24
ファステストラップ 23
初戦 1978年ドイツGP
初勝利 1980年アメリカ西GP
最終勝利 1991年カナダGP
最終戦 1991年オーストラリアGP
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ネルソン・ピケ・ソウト・マイオールNelson Piquet Souto Maior1952年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ生まれの元F1ドライバーであり、F1世界選手権で1981年1983年1987年と、3度のドライバーズチャンピオンに輝いた。愛称は「自由人」。

ピケとは母方の姓であり、父親に隠れてレース活動をするために名乗ったものである。日本では1980年代初頭まで、英語読みの「ピケット」と表記されていた。

人物[編集]

1980年代のF1を代表するドライバーの1人であり、アラン・プロストナイジェル・マンセルアイルトン・セナは、日本では纏めて「F1四天王」や「四強」と称された。

シーズン終盤の勝負強さ、効率の良さが持ち味の1つであり、3度のF1タイトルのうち2度は最終戦での逆転というかたちで獲得している。また年間最多勝利数は1986年の4勝(チャンピオン獲得時に限ればいずれも3勝)と、同時期のライバルに比べ優勝回数は多くない一方で、ランキング3位以内に入ったシーズンには、66~75%の入賞率を記録している。

3度のタイトル獲得は、いずれも異なるエンジンメーカーで記録した(1981年フォード、1983年BMW、1987年ホンダ)。自身にとって最盛期といえる1980年代前半から中盤はターボエンジンの全盛期と重なっており、獲得した3つのタイトルのうち、1981年にブラバム・フォード(コスワースDFVエンジン)で獲得したものを除く2つはいずれも、ターボエンジンを搭載した車で獲得した。そのことから、ブラジル本国では「ターボ時代の王」という形容がしばしばなされる。

ドライバーとしての評価以外にも、数多くの女性の間を渡り歩く艶福家ぶり、モナコの海に漂うクルーザーを自宅とする優雅さなど、独特な一面の多い人物だった。

息子のネルソン・ピケJr.(ネルソン・アンジェロ・ピケ)もルノーF1のテストドライバーを務め、2008・2009年とルノーからF1に参戦した(2009年はシーズン途中まで)。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

父親エスターシオ・ソウト・マイオールは政治家で、ジョアン・ゴウラール政権下(1961年 - 1964年)において保健相を務めた人物である。そのため、1960年のブラジリア遷都に前後して、一家は新首都ブラジリアに移り住んだ。

14歳の頃にカートを始めたが、息子がモータースポーツをすることを望まなかった父親に隠れて活動できるよう母親の旧姓(Piquet)を「Piket」と故意に誤って綴り、初期のレース活動はこの名でエントリーをした。

息子をプロテニス選手にしようと考えていた父親により、高校時代になると米国のアトランタにテニス留学をさせられ、その適性を評価された。しかしピケ本人はテニスには関心がなく、自動車レースへの情熱を持ち続けたため、結局モータースポーツに打ち込むこととなる。

1971年にはブラジルカート選手権においてチャンピオンとなり、翌1972年も連覇。1974年に父親を亡くすが、その後もレースを続け、1976年ジュニア・フォーミュラフォーミュラ・Veeでチャンピオンとなる。

当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンで、かつブラジルのフォーミュラ・Veeにおいて大きな影響力を持っていたエマーソン・フィッティパルディに目をかけられ、その助力もあって翌1977年はヨーロッパに活躍の舞台を移し、ヨーロッパF3選手権に参戦。初出場で、しかもシーズンフル参戦したわけではないにもかかわらず、ランキング3位に入るという結果を残した。

F1[編集]

1978年

1978年第11戦ドイツグランプリにて、エンサインからデビュー。その後、第12戦オーストリアグランプリから第14戦イタリアグランプリまで、マクラーレン・M23を使用するカスタマーチーム・BSファブリケーションから参戦、イタリアグランプリで9位初完走を果たした。

ブラバム時代[編集]

1978年

第15戦アメリカ東グランプリを欠場後、最終戦カナダグランプリにはブラバムにて出走(11位完走)。これは、翌1979年よりニキ・ラウダのNo.2ドライバーとして、ブラバムに移籍することが決まっていたが、オーナーのバーニー・エクレストンの計らいにより、同年中から出走が実現したものであった。

1979年

フル参戦1年目ながら、第6戦ベルギーグランプリ、第9戦イギリスグランプリで予選3位につけるなど速さを見せ、若手の有望株として注目を集めた。アルファロメオV型12気筒エンジンの信頼性が低く、なかなか結果には繋がらなかったが(結果的に15戦中リタイヤ9回)、第12戦オランダグランプリでは4位に入り、初入賞を果たした。

また第14戦カナダグランプリのフリー走行後に、チームのエースドライバーだったニキ・ラウダが突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東グランプリでは、予選2位とフロントローを獲得している(決勝は8位)。

ブラバムBT49をドライブするピケ(1980年)
1980年フランスGP
1980年

この年はアルファロメオをからスタンダードなフォードDFVに変更されたが、これがかえって戦闘力が大幅に向上し、開幕戦アルゼンチングランプリ では、2位初表彰台を獲得。第4戦アメリカ西グランプリでは、予選で初ポール・ポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、ファステストラップ(以下:FL)もマークした。

その後も安定してポイントを積み重ね、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを展開、終盤には第11戦オランダグランプリ・第12戦イタリアグランプリを連勝し、ランキングトップに立った。しかし第13戦カナダグランプリではトップ走行中にエンジントラブルでリタイヤ、このレースで優勝したジョーンズに逆転を許した。続く最終戦アメリカ東グランプリも電気系トラブルでリタイヤとなり、ランキング2位に終わった(計3勝、2PP)。

チャンピオンは逃したものの、14戦中入賞10回(うち表彰台6回)と、後に持ち味となる安定感を発揮。ここから、エースとしてチームの第2期黄金時代を作り上げることとなる。

1981年モナコGP
1981年

ジョーンズ及びカルロス・ロイテマンのウィリアムズ勢とチャンピオン争いを展開。第3戦アルゼンチングランプリにて、シーズン初優勝をポール・トゥー・ウィンを達成すると、第4戦サンマリノグランプリも連勝した。その後5戦中4度のリタイヤとやや停滞するも、第10戦ドイツグランプリでシーズン3勝目を挙げて以降は、連続入賞でランキングトップのロイテマンを猛追した。

ランキングで同率首位で迎えた第13戦イタリアグランプリでは、2位走行中の最終周にエンジントラブルでストップ(6位完走扱い)。残り2戦で3ポイントのビハインドを抱えるが、しぶとく食らいつき、1ポイントのビハインドで最終戦ラスベガスグランプリを迎えた。酷暑の中の開催となったこのレースで、ピケは失神寸前の状況に陥りながらも5位に入り、一方のロイテマンはノーポイント(8位)。第2戦ブラジルグランプリ以降、ランキングトップを守っていたロイテマンを上回り、最終戦での逆転という形で、自身初の王座を手にした。この年、ピケがランキング単独トップとなったのは、この最終戦だけであった。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目となった。

この年も15戦中入賞10回(うち表彰台7回)と、安定した成績を残し、予選では4度のPPも獲得した。

1982年

BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。前年のフォードNAエンジン搭載車で走った第2戦ブラジルグランプリではトップでゴールしたものの、最低重量違反で失格。第7戦デトロイトグランプリでは、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダグランプリでは優勝したものの、その後もシーズンを通しては苦戦を強いられることとなる。第12戦ドイツグランプリでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、エリセオ・サラザールを周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。

1983年イタリアGP
ブラバムBT52をドライブするピケ(1983年)
1983年オランダGPにて、ルノーのプロストと先頭を争うピケ
1983年

開幕戦ブラジルグランプリで優勝を飾るが、以後はルノーのアラン・プロストに後塵を拝し、優勝に手の届かないレースが続いた。一方でポイントは安定して積み重ね、終盤においてもチャンピオンの可能性を残していた。

そんな中第12戦オランダグランプリでは、シーズン初のPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走行するが、バトルの中でプロストに接触され両者リタイヤした。ピケのマシンは既にトラブルを抱えており、実はプロストはもう数周待てば難なく首位に立てる状況だったという。この接触から、シーズンの流れが大きく変わることとなる。

オランダグランプリ終了時点では、残り3戦でプロストに14ポイントのリードを許していたピケだが、第13戦イタリアグランプリ・第14戦ヨーロッパグランプリを連勝、2ポイント差にまで詰め寄り、最終戦南アフリカグランプリを迎えた。南アフリカグランプリは終始ブラバム勢のペースとなる中、プロストは早々リタイヤ。無理をする必要がなくなったピケは、パトレーゼを先行させるなど徹底的に安全策を取る走りで3位フィニッシュ、1981年同様最終戦での逆転という形で2度目の王座を獲得した(シーズン3勝)。この年は全15戦中入賞10回(うち表彰台8回)を記録し、安定した成績も初チャンプ獲得時と同様であった。ブラバムで2度王座に就いたドライバーはピケが初であり、結果的に唯一となった。

1984年ダラスGP
1984年

1984年マクラーレンポルシェがラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり結果がついてこず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。

ブラバムBT54をドライブするピケ(1985年)
1985年

ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 ピレリタイヤのタイヤ選択がはまった第7戦フランスグランプリでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。

1978年から所属したブラバムは既に自分のチームになっており、ピケは翌シーズンもブラバムに残留することを考えていた[1]。しかし、結果的に契約金が少なかった事への不満から、チーム能力がブラバムと同等以上となっていたウィリアムズに移籍することを決めた[1]

ウィリアムズ時代[編集]

1986年

前年にホンダエンジン搭載後初勝利を挙げ、戦闘力を増していたウィリアムズに加入。ナイジェル・マンセルをチームメイトにFW11をドライブ。この年のピケの契約金が日本円にして7億円、マンセルは1億円弱だったとされ[2] 、契約上は完全No.1待遇のはずであった。しかし開幕前にオーナーのフランク・ウィリアムズが交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズは、内部でイギリス人であり前年にF1初勝利を挙げたナイジェル・マンセル派と、エンジンを供給するホンダがバックアップするピケ派に二分された。

元々ピケのウィリアムズ加入はエンジンサプライヤーのホンダが強く望んだもので、あまり乗り気ではなかったウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部をホンダが肩代わりしていた[3]

ピケとマンセルは、互いの情報を一切共有しようとはしなかった上、ホテルのロビーで隣同士になっても挨拶するだけという関係であった。この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位になるものの、ドライバーズチャンピオンは最終戦オーストラリアGPマクラーレンのプロストにさらわれた(マンセルが2位、ピケは3位)。チャンピオン最有力チームに居ながら2人ともチャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力が分散してしまったことを挙げた[2]

1987年

前年同様、マンセルとのコンビでウィリアムズでの2年目を迎える。第2戦サンマリノグランプリ予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後は充分な睡眠を取れない[4]など、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。

しかし、年間6勝も挙げながら勝つかリタイヤかという波のあったマンセルに対し、ピケは体調が万全でない中、勝てない場合には2位でのフィニッシュが7回など確実にポイントを積み重ね、優勝した第8戦ドイツグランプリ以降ランキングトップの座を維持。そして第15戦日本グランプリにて、逆転王座の可能性を残すマンセルが予選中にクラッシュ。背骨を痛めて出場不可能となり、決勝を迎えずしてピケが3度目となるワールドチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。この年は全16戦中入賞12回(うち表彰台11回)と、チャンピオン獲得年の中でも特に安定した成績を残している。PPは4回。ピケはシーズン終了後のインタビューで「マンセルは僕よりアグレッシブで、予選も凄く速く走ったけど(第3戦の)スパではセナと絡んで簡単に9ポイント獲るチャンスを逃した。こういう事がチャンピオンシップを大きく変えるんだよ。僕は堅実にゴールを重ねてタイトルにたどり着いた。タイトル争いに勝ったんだ」と喜びを語った[5]

同年を最後に、チーム体制がマンセルに傾き、加えて当時最強エンジンとなったホンダ・V6ターボを失うことが決まっていた[6]ウィリアムズを離れ、ホンダ・ターボの供給継続が決定し、なおかつピケのNo.1待遇を保証したロータスに移籍することとなった。

ウイリアムズチーム内への不満から移籍を決意したピケだが、「レーサーとしての今までのキャリアで、ウィリアムズほど技術的に優れたチームは無かった。この事に疑いの余地は全くない[5]。それでも来年はロータスに行くと決めた。」と技術面に賛辞を送りチームを離れている。


ロータス時代[編集]

1988年カナダGP
1988年

前年からの残留となった中嶋悟をセカンドドライバーとし、ファーストドライバーとして迎え入れられるが、重心が高くコーナリング性能の劣るマシン「ロータス・100T」に苦戦を強いられることとなる。開幕戦ブラジルグランプリ・第2戦サンマリノグランプリでは連続3位表彰台を記録するが、このサンマリノGPでは同じホンダ・RA168Eエンジンを搭載しているマクラーレン勢2台に周回遅れにされ、シャシー性能の差を思い知らされる。さらにノンターボエンジンのベネトン・B188を駆るアレッサンドロ・ナニーニと同等のバトルを繰り広げる羽目となる。以後次第に成績は下降し、チームメイトの中嶋にも予選、決勝共に敗れる展開が増えていき、ピケはモチベーションも失う。ピケ曰く「第6戦デトロイトGPの時、チームはシャシーのセッティングの方向性が全く分からなくなってしまった。そこでは新しくロングホイールベース仕様のシャシーを投入したが、重量配分がさらに悪化していてもう悪夢だった」[7]という苦戦状況に陥る。最高位は3度の3位に留まり、入賞は7回。ランキングは6位に終わった。

1989年

1989年にはホンダエンジンを失い、非力なジャッドV型8気筒エンジンを搭載したロータス・101をドライブ。戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、成績は入賞4回で表彰台なし、ランキング8位と更に下降。第11戦ベルギーグランプリでは、中嶋と共に予選落ちを喫した。長い歴史を誇る名門ロータスが2台揃って予選落ちを喫したのはこれがその歴史上初であった。結局、ロータスでの2年間は1勝も挙げられなかった。

ベネトン時代[編集]

1990年
ベネトンB190B(1991年)

ベネトンに移籍し、アレッサンドロ・ナニーニとコンビを組んだ。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にするという異例の契約の中、開幕から堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦日本グランプリでは、ナニーニの代役・ロベルト・モレノを従え、3年ぶりの優勝をチーム初の1-2フィニッシュで遂げる。続く最終戦オーストラリアグランプリでも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくり評価を取り戻した(このグランプリは、F1創設から通算500戦目のメモリアルレースでもあった[8])。最終的に16戦中12度の入賞(うち表彰台4回)を記録し、ランキング3位に食い込んだ。

1991年
1991年アメリカGP
ベネトンB191(1991年)

前年の日本グランプリでの2位を評価されての加入となった同胞モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第5戦カナダグランプリでは、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利を収めた。これはピレリタイヤにとって5年ぶりの勝利で、ピケのF1での最後の優勝となった。

第11戦ベルギーグランプリで3位入賞、これがF1最後の表彰台となる。続く第12戦イタリアグランプリでは、F1通算200戦目を記録、決勝では6位に入賞し自ら記録に華を添えた。だが、チームはレース直前にモレノとの契約を一方的に解除し、メルセデスのバックアップを持つ新人ミハエル・シューマッハを、ジョーダンから引き抜き加入させていた。このことでチームに不信感を抱いたピケは移籍を決意し、翌年に向けてリジェと交渉したが契約金の額で折り合いがつかず、引退宣言などをすることも無く[9]この年限りでF1を去ることになった。結果的に最後のF1レースとなった、1991年オーストラリアグランプリは4位(豪雨のため14周で打ち切られた)だった。全16戦中入賞8回・うち表彰台3回の成績で、ランキング6位。

F1での通算出走数204は、2011年現在歴代9位である。

F1後[編集]

1992年、チーム・メナードのローラ・T93/00ビュイック・27号車でインディ500へ初参戦。しかし予選前の練習走行中に高速でスピンを喫し、コンクリートウォールにノーズから突っ込む大クラッシュを起こし両足を複雑骨折してしまう。踵の骨が粉砕されているなど、足の切断が検討された状態だったが、何とか免れ、その後懸命のリハビリテーションで回復。同年12月にはリハビリの一環としてブラジルでF3マシンに乗り、事故以来7か月ぶりのサーキット走行を行い、「レーシングカーの運転がまたできてとてもうれしい、インディ500にはまたいつかチャレンジしたい」とコメントを残した[10]。その言葉通り翌1993年に再びチーム・メナードからローラ・ビュイック(77号車)でインディ500に参戦。予選を13位で通過したが、決勝の500マイルレースでは序盤38ラップ目にエンジントラブルでリタイア(33台中32位[11])と不完全燃焼で終わり、「ここで勝つまでは、何度でも来る[12]」と翌年への意欲を見せていたが、それは叶わずこの年が唯一のインディ500決勝参戦となった。

以後、スパ・フランコルシャン24時間レース1995年1997年)、ル・マン24時間耐久レース1996年、1997年)、南米F31998年)などに出場した後、レーシングドライバーとしてのキャリアを終えた。

2000年に国際モータースポーツ殿堂入りした。

実業家としての側面[編集]

ドライバーとして引退して後はブラジリアを拠点に各種事業を展開している。主なものだけでも、レースチーム「ピケ・スポーツ」のようなモータースポーツ関連の活動以外に、ブラジル内陸の貨物輸送がトラック輸送に依存しているという点に着目し、GPSを用いた監視業務を行う会社Autotrac社[1]を創業している。

また、ピレリタイヤのブラジルにおける販売権の一部を有し、一方でBMWの輸入代行業も手がけるなど、さまざまな事業活動を行っている。

スタイル[編集]

ニュルブルクリンク1000キロでBMW-M1をドライブする(1980年)

ピケの走りは爆発的な速さよりも確実性を優先させたものというイメージを持たれている。レーシングドライバーとしてはブラバム加入時のチームメイトだったニキ・ラウダの影響を強く受けており、積極的にペースをコントロールして戦うタイプだった。また、チャンピオンシップも無闇に勝利を狙うのではなく、地道にポイントを拾い集めて戦うことが多かった。3度のドライバーズタイトルのうち、ブラバム時代の2回はどちらも最終戦での逆転チャンピオンで、シーズン中1度もポイントリーダーになっていなかった。また、通算勝利数も同じ3度ドライバーズタイトルを獲得したアイルトン・セナの約半分と少なかった。

他の多くのチャンピオン同様、チームには常にナンバーワン体制を求めた。ブラバム時代はピケの性格を理解していたチームオーナーのバーニー・エクレストンのもと完全なピケ優遇チームが構築され、シャシー、エンジン、タイヤなどあらゆる面において優遇され、ピケの意見は常に聞き入れられてマシン開発に積極的に取り入れられた。1982年はチャンピオン争いのためにピケ専用の予選専用マシンが開発されるなど、その優遇ぶりはF1史上でもかなり特異なものだった。

ウイングカー全盛期でドライバーの体力消耗が激しかったとはいえ、ジル・ヴィルヌーヴなど一部からは「体力不足」と批判されていた。レース終盤に蛇行してしまうこともままあった。

堅実な走りのイメージが強かったが、一発の速さやここ一番の勝負勘も優秀で、1984年は9回ものポールポジションを獲得、1986年にはハンガリーグランプリアイルトン・セナとのバトルの際、アウトからドリフトで仕掛け、そのままカウンターを当てて抜くと言う荒業を成功させ、チャンピオンが掛かっていた最終戦オーストラリアグランプリでは、最終周にファステストラップをたたき出す攻めのレースを見せている。

テクニック[編集]

ピケのドライビングテクニックとして知られているものに、滑らかなシフトワークがある。ギアを飛ばすことなく、一段一段早く正確にギアシフトを行い、メカニックがレース後にトランスミッションを開くと、まるで新品同様の状態を保っていた(他のドライバーではすり減ってほとんどなくなってしまうドッグリング)と、日本のTV番組に出演した際津川哲夫が語っている。特に、シフトダウン操作が非常に上手かったと言われている。

ホンダの総監督として上記の四強全員と組んだ経験を持つ桜井淑敏は、「シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、アクセルワークのセナ」とそれぞれを称している。

特筆されるレース[編集]

1981年最終戦ラスベガスグランプリ
ランキングトップのロイテマンと1ポイント差で迎え、予選では4位グリッド。PPを獲得したロイテマンに後塵を拝す結果となった。決勝ではロイテマンがハンドリングの不調から次々と後続に抜かれ、ピケも酷暑の中精細を欠くが、失神寸前まで体力を消耗しながら5位でゴールし、2ポイントを獲得。8位でノーポイントに終わったロイテマンを逆転し、初のチャンピオンを獲得した。同様に失格処分となった1982年のブラジルグランプリでも、表彰台上で失神するという場面があった。
1982年第8戦カナダグランプリ
デトロイトGPで予選落ちを喫した1週間後のこのGPで、予選4位を獲得。決勝はリカルド・パレッティの死亡事故により赤旗中断となるが、再スタート後は順位を上げていき、9周目にトップに立った。以後は、最後までトップを守り、シーズン初勝利(結果的には唯一)を挙げた。BMWターボ・エンジンにとっては、F1初の勝利でもあった。足元のオイルラジエーターが異常な高温となり、その苦痛に耐え抜いた末の勝利だった。
1982年第12戦ドイツグランプリ
2周目からトップを走行していたが、19周目に周回遅れのエリセオ・サラザールにラインをブロックされ、両者接触リタイヤとなった。この際、ピケはマシンを降りるやいなやサラザールを殴り、さらに蹴りを試みる(実際には外れている)。この一部始終は、映像として残っており、今なお話題となることも多い。ピケがここまで怒りを見せた背景には、シーズン2勝目をフイにされたこと以外に、サラザールの面倒を見たことがあったため、「恩を仇で返された」と感じたこともあると言われている。
しかしリタイヤ後にピケのマシンのエンジンを調べたところ、あるピストンのスカートが壊れかかっていた[13]。エンジンサプライヤーであるBMWの地元ドイツグランプリでマシントラブルによってリタイヤする事態を免れたことはBMWにとって幸運であった[13]
1983年第12戦オランダグランプリ
開幕戦以来優勝のないピケは、堅実に入賞を重ねつつも、ランキングトップのプロストに対し14ポイントのビハインドを抱えこのグランプリを迎えた。予選ではシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走行するが、マシンにトラブルが発生し次第にペースが落ちてゆく。一方のプロストは予選4位から追い上げ、42周目のタルザンコーナーでついにピケのインを突いた。既にトラブルを抱えていたピケは無理なブロックはせず、十分なスペースを空けていたが、ブレーキングを遅らせすぎたプロストは減速しきれず、ピケに追突しタイヤバリアへ押し出す結果となった。その場でリタイヤとなったピケに対し、プロストはフロントウイングを破損しつつも暫くはそのまま走り続けたが、結局その周のうちにスピンを喫しリタイヤとなった。
結果だけを見れば両者リタイヤであったが、既にトラブルで長くは持たない状態だったピケと、好調な流れの中で無用のリタイヤを喫したプロストは失ったものの差が大きく、このグランプリを境にシーズンの流れは大きく変わることになった。
1983年第最終戦南アフリカグランプリ
オランダGP後の2戦を連勝し、ランキングトップのプロストに2ポイント差で迎えたこのグランプリで、ピケは軽い燃料でスタートからトップを走行。重い燃料で3位以下を抑え込んだチームメイト・パトレーゼの援護もあり、優位なかたちでレースは進んだ。パトレーゼのピットインで前が空いた後、プロストは一気にペースを挙げるが、急なペースアップはターボトラブルを発生させ、36周目にリタイヤ。ライバルの消えたピケは、その後は極端にペースを落とし後続車に対しても無抵抗で抜かさせるなど徹底的に守りの走りを見せ、3位でゴール。4ポイントを加算し、2年前同様最終戦での逆転でチャンピオンを決めた。
1986年第11戦ハンガリーグランプリ
予選2位からスタートしたピケは、12周目にトップのセナを抜きトップに立つが、タイヤ交換の際に再び先行を許す。しかしセナはハイペースが祟ってタイヤにフラットスポットを作ってしまい、ピケが再度背後まで迫った。55周目、ピケはインからセナを差すが、大きくはらんでしまい、セナに抜き返された。57周目、今度はアウトから仕掛け、カウンターを当てドリフトしながらセナを抜いた。レースは、そのままセナを突き放したピケが優勝した。
1986年第13戦イタリアグランプリ
マンセルが先行し、ピケはピットイン時にタイムをロスしたこともあって、一時は大きく差をつけられることとなる。しかし、マンセルはし無理なペースからタイヤが厳しくなり、一方で余裕を持ち走行していたピケが差を詰めていく。38周目、ピケはマンセルを抜き優勝、レース全体を考えたペース配分が勝敗を分けるかたちとなった。
このGPにおいて、ピケはロングホイールベース車のほうが合うことに予選の時点で気づいていたが、あえてマンセル側には何も情報を伝えず、自身で使用したという。
1987年第2戦サンマリノグランプリ
予選中、タイヤトラブルにより、高速タンブレロ・コーナーで大クラッシュを起こす。激しい事故ながら、ピケは決勝への出場意欲を見せたが、脳震盪と診断されドクターストップがかかり、決勝を欠場。決勝日には、母国の中継の解説を務めたが、マンセルの優勝がほぼ決定的になると、露骨に不機嫌な様子を見せていた。
この事故により、ピケは長期にわたって不眠・頭痛などに悩まされ、万全ではない状態でシーズンを戦うこととなった。その体調不良もあり、速さを見せる場面が減った一方で、より堅実な走りでポイントを稼いでいくこととなった。
1987年第9戦ドイツグランプリ
決勝レース中、コクピット内の機器類の表示が全て消えてしまうトラブルが発生。メーターや燃料表示などが、一切見られない状態となったが、無線と自身の感覚でマシンを最後まで持たせ、シーズン初勝利を記録。ランキングでもトップとなり、チャンピオン獲得へと近づいていくこととなった。
1990年第15戦日本グランプリ
ピケは予選6位スタートであったが、スタートを決めて、5番手スタートのティエリー・ブーツェンの前に出る。ドライバーズタイトル争いをしていたセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して両者リタイヤ。替わってトップに立ったゲルハルト・ベルガーも2周目でスピンオフ。これでピケはマンセルに次ぐ2位となる。そして、26周目にマンセルがピットアウト時にドライブシャフトのトラブル発生でリタイヤすると、ピケがトップに立ちそのまま優勝。ピケにとっては1987年イタリアグランプリ以来、実に3年・51レースぶりの優勝であった。
1990年最終戦オーストラリアグランプリ
ピケは予選7番手からのスタートであったが、タイヤ無交換作戦が当たって、マクラーレン・フェラーリ勢のタイヤ交換の間隙を縫う形でトップに立つ。終盤にはマンセルと激しいバトルを演じるが、トップを守り切って優勝した。レース後に、ピケが犬猿の仲であるマンセルと健闘を讃える握手を交わしたほどの、互いの力を出し尽くした攻防であった。
1991年第5戦カナダグランプリ
ニューマシン・FW14の熟成が進んだウィリアムズ勢がフロントローを独占。レースはスタートから予選2位のマンセルが一貫してリード。ピケは予選7位からじわじわと順位を上げてマンセルに次ぐ2位に浮上。マンセルとは1分近い差があったが、ファイナルラップでマンセルのマシンが突如ストップし、労せずしてピケはトップに立ち優勝。なお、ピケはストップしたマンセルのマシンの横を通過する際、マンセルに手の甲を向けてピースサインをした(マンセルの母国・イギリスにおいては侮辱を表すサインであり、タブーとされている)。

エピソード[編集]

  • 代理人やマネージャーを雇わず、契約交渉など全てを自分でやっていた[14]。1985年にニキ・ラウダが引退を発表し、空席となったマクラーレンロン・デニスから好待遇で移籍を打診され、ブラバムの成績も悪化していたことからピケも移籍を決めサイン直前にまで至った。しかし分厚い契約書を見るなり、「悪いが、この話はなかったことにしてくれ」と言い、ロン・デニスが「待ってくれ、何が問題なんだ!」と尋ねるとピケは「その契約書だよ。ブラバムは紙切れ1枚なんだぜ。」と言った。
    • 1978年にブラバムとはじめて契約を交わした際も契約書は1ページしかなかった[15]。これは、弁護士を雇う余裕がなかったことと、契約書の内容を理解できるほどの英語力がなかったためである[16]
    • ピケはそのキャリアの半分近くをブラバムで過ごしているが、ついに最後まできちんとブラバムと発音できずに「ブラッバーン」で通していた。
  • 1982年のドイツグランプリで、エリセオ・サラザールに追突されてともにリタイアとなった直後、ピケはサラザールを公然と殴るという行動に出た。ピケ自身はあまり語らないが、同じく南米から欧州に挑戦している後輩サラザールの面倒を見ていたことも一因してるという。1979年にサラザールがヒッチハイクしていたところ、止まってくれた車の運転手がピケだったという偶然から親交があり、サラザールがイギリスでレース活動できるようレース界の人脈を紹介したのもピケである[17]
  • 1987年オーストリアグランプリは、スタート直後の多重クラッシュにより2回もスタートがやり直しとなった。通常このようにスタートを何度も行わなくてはならない状況は、ほとんどのドライバーは嫌がるものだが、3回目のスタート前にピリピリした他のドライバーを他所に、「鼻をほじってその指をなめる」というお茶目なピケの姿がテレビに捉えられた。
  • カナダグランプリの開催地ジル・ビルヌーブ・サーキット1976モントリオール五輪ボート競技会場の隣接地にあるため、そのプールでは毎年恒例行事で各チームスタッフ対抗手作りいかだレースが開催されていたが、最初はメカたちのお遊びだったこのレースにピケが悪乗りし、わざわざ優勝トロフィーを準備して賞品として提供したことから、「コパ・ネルソン・ピケ(ネルソン・ピケカップ)」と呼ばれるようになった[18]
  • 元チームメイト中嶋悟が1991年に引退会見した際、川井一仁がピケにもインタビューを行ったが、「年も若いしまだやっていけると思うよ。俺が説得してこようか?」と冗談交じりで語った。
  • 川井一仁が語ったところによると、インタビューではテレビで放送できない言葉(特に下ネタ)をたびたび言うため使える部分が少なく、レポーター泣かせだったという。優勝したレースでも「思わず、イキそうになった」と平然と答えることからその事が伺える。
  • 雑誌インタビューにて「ミハエル・シューマッハは世界最高のドライバーだと思いますか?」と問われ、「世界で一番偉大なドライバー? その名前はネルソン・ピケだよ」と答えた。
  • 2008年、FIA会長マックス・モズレーのセックス・スキャンダル(秘密クラブでの乱交パーティー)が明らかになった際、「私はモズレーに対して怒りを感じている。本当に怒っているんだ。今までセックス・パーティを開いたことのあるF1関係者はいなかったよ。なぜ彼はそのパーティに誘ってくれなかったんだ!」と批判した。
  • F1現役時代から喫煙者であり、同じくスモーカーであったベネトンでのチームメイトアレッサンドロ・ナニーニとは良好な関係を築いた。また他のドライバーとは異なり、フィジカルトレーニング等は積極的に行ってなかったとされているが、腕力は非常に強かった。食事は肉類が好物であった。

ドライバーとの関係[編集]

アイルトン・セナ
  • 自身と同じく3度のワールドチャンピオンを獲得したセナとは、同胞でありながら犬猿の仲であったと信じられているが、そのネガティブな情報の大部分はマスコミの事実ではない報道によるものだとインタビューで明かしている。とは言えシーズン中での精神戦で優位に立つためにピケはカリオカ(リオデジャネイロ出身者)、セナはパウリスタ(サンパウロ出身者)であることを利用して時には笑いを交えながらきつい口撃を発したのも事実であり、「あいつが乗ったマシンに乗り込むなら、念入りに消毒する必要がある。」と発言し物議を醸したこともある。
  • セナが1983年末にF1へステップアップする際にはブラバムとも交渉したが、そのときにブラバムのエースであったピケがセナの加入に反対した、と報じられているのは嘘で、当時チームオーナーであったバーニー・エクレストンのワンマンぶりを例に出し「(バーニーの)あの性格なら、僕が反対したって言うこと聞いてくれるはずがないでしょ」と地元のテレビ局が組んだドキュメンタリー番組内で答えた。ピケはブラバムのメインスポンサーであったパルマラットと一括契約していた関係で強い発言権があったとも報じらたが、本人はその権限を否定しており[19]、ブラバムでの最初の3年間は安給料の契約だったとも言っている。
  • 1988年にはセナについて「あいつは女に興味が無いおかま野郎だ」とピケが発言した、とブラジリアの記者に報じられ、このことでピケは批判された。これは元々「セナはレースに関して真面目で、マシンとレースのことをいつも真剣に考えている・・・」と答えたあと「・・・まるで女に興味無いんじゃないかというくらいにね!」と普段の調子でジョークを付け加えたところ、その付け加えた部分だけを抜き出し、誇張した「ピケはセナをホモだと言った!」という見出しになっていたという[7]
  • 1990年日本グランプリ決勝前に行われたドライバーズミーティングにおいて、セナが前年の日本グランプリで失格の原因とされたシケインのショートカットを踏まえて、国際自動車連盟(FIA)は「元のコースに戻るように」と通達したが、「それだと正面衝突しかねず、危険極まりない。シケインをショートカットし、コースマーシャルが安全を確認した上でコースに復帰するのが良い。」とピケが主張し、認められた。結果的に、前年のセナのとった判断が間違いではなかったことを主張したことになる。
  • 1990年日本グランプリではセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して物議を醸した。このレースを制したピケは勝利者インタビューでアクシデントの状況を聞かれた際に「セナがまっすぐプロストのケツに突っ込んでいった。これが真実さ」とサラリと言った。後年セナ自ら故意にぶつけたと告白したが、この時点ではセナの故意かプロストの過失かで議論は分かれていた。
  • 1994年にセナがイモラサーキットで事故死すると、「自分もあそこ(タンブレロ・コーナー)で事故に遭ったことがある。」とショックを隠し切れぬ様子であった。また、追悼コメントも発している。事故翌日から母国ブラジルでの追悼テレビ特番にも生出演し故人を悼んだ。
ナイジェル・マンセル
  • ウィリアムズ時代のマンセルとは実際に確執があり、ピケはマスコミの前で公然とマンセルを「あいつは石頭で無教養。奴を本当に好きだと思う人間なんていないだろ・笑」[20]と上品とは言いかねる調子で攻撃した。その悪口はマンセルの妻ロザンヌの容姿にまでおよんだ(ポルトガル語PLAYBOY誌の取材を受け「マンセルの女房はブスで間抜けだ」と話した)。これらの発言はピケの自由奔放な性格によるものと思われていたが、後にピケ自身が開発と実用化に携わっていたアクティブサスペンションを、シーズン途中で利用できなくなったことを受け「1987年のチャンピオンシップ争いをしていたマンセルとの精神戦で優位に立つための方策だった」と語っている。ただしこの騒動はピケの予定より大きくなり、イギリス出身のF1ドライバーらが「さすがに家族まで攻撃するのはタブーだ」とマンセルを庇い、イギリス国内ではマスコミがマンセル側に付き、マンセル夫人が夫を支えた過去の美談などを報道するなど夫人の名誉回復に動いたため、ピケは悪役として扱われ続けることになった[21]
  • 1986年にピケがウィリアムズに加入した時点でマンセルはまだF1で1勝しか挙げておらず、ピケはNo.1待遇で契約を結んだ。しかし契約から半年後にはチームとの約束は反故にされ状況が難しくなったとロータス移籍後のインタビューで吐露している。聞き手のアラン・ヘンリーに対してピケは「マンセルは86年のブランズハッチで優勝したんだけど、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランク(・ウィリアムズ)は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。エースのはずの僕はアクティブ・ライド・サスペンションのテストドライバーに成り下がってしまった。開発のためのテストを全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中していいなんてやり方は承服できない。87年もその状況は変わらなくて、1987年ハンガリーグランプリで泊まっていたホテルの、フランクの部屋に”ロータスに移籍する”と書いた紙をドアの下から滑り込ませた。これからはマンセルの為のチームを自由に作ればいいさ。この年の最後に僕は3回目のワールドタイトルを獲った。マンセルはただ2回獲り損ねただけだ」[5]とマンセルとの2年間を振り返っている。
中嶋悟
  • ロータス時代のチームメイトである中嶋悟に対しては好意的な発言を残しており、「サトルの走りは決して悪くないよ。みんなが思ってるよりずっとうまい。1988年にはコースも覚えて、中低速コーナじゃ僕の方が速いけど、高速コーナーはサトルの方が速かったくらいだ」。「サトルは1987年に彼だけに全戦で車載カメラが付けられてたのが不幸だった。あのカメラで彼のアクシデントはすべて映し出されていただろう? それをリプレイされて事故を起こす印象が強いんだよ。チームメイトで言えばフランソワ・エスノーなんてスピンだらけで最悪。サトルとは大違いだった」と発言している[22]
  • 1991年に中嶋が引退を発表した際には「言葉の壁があるから本当の親密なコミュニケーションは取れなかったけど、彼は日本という遠くて文化的にも異なるところからきて精神的にも肉体的にも、ブラジルから欧州に来る以上のつらい思いをしてたんじゃないか。サトルは研究熱心で、ハンガロリンクのような難しいサーキットではどうしたらよいのか?と意見を交換したのが印象深いし、アドバイスを求められれば彼には答えてあげたくなるんだよ。真面目で控えめなドライバーだったね」と労うとともに、「いつも控えめで、人に嫌われてでもアグレッシブに自分を主張しないそのポリシーがレーサーとしては欠点となった」と評している[23]

プライベート[編集]

父親は政治家であったが、大富豪ではなかった。しかしレースから息子を遠ざけるためと、ピケを一流のテニスプレイヤーにしたい願望からアメリカ留学させたのである。しかし結局ピケはレースの魅力に取りつかれ、半ば勘当同然に家を飛び出して赤貧にあえぎながらもレース活動を行っていた。その時知り合ったのが、ロベルト・モレノである。

プライベートを大事にすることは、ブラバム時代の先輩ニキ・ラウダに影響されたことが大きい。ピケがラウダとの会話の中で、F1での日々の過密スケジュールに嫌気がさして真剣に引退を考えることもあると話した所、ラウダから移動時間も自分の時間にできるプライベートジェットを勧められ、ピケはその意見を参考にセスナ サイテーションを購入。自らで操縦し各国を時間を気にせずに移動するようになった[24]。普段はモナコの海に漂う豪華なクルーザーに住む等、さまざまな面で独特の人物であった。

多くのブラジル男性と同じように、ピケもサッカーファンである。地元リオのプロチーム「CRヴァスコ・ダ・ガマ」の名誉サポーターに任命[25]されるなど、熱心なトルシーダ(サポーター)であり[26]、ヴァスコチームのフラッグを振りながらブラバム・BT49でデモランをしている[27]

前述した1992年の事故以降、足の小指から爪がなくなってしまった。以後は歩く際に足を引きずっている。

2007年6月にはスピード違反や駐車違反などにより自動車運転免許を取り消され、7月より自動車教習を受け直すことになった。

家族[編集]

大変な艶福家としても知られ、本人も複数のガールフレンドの間を渡り歩く様子を隠そうとはしなかった。複数の女性との間に子供をもうけ、当のピケ本人をよそに、女性間では正妻がどちらかという争いが起こったこともある。

ピケのプライベート・ジェットに同乗していたジャン・アレジによると、ピケは機内で衛星電話を片手に、着陸した後にどの恋人と会おうか真剣に悩んで考えていたという[28]

前述したように母親は異なるが、認知を受けている子供としては、長男ジェラルド、次男ネルソン・アンジェロ、三男ラスツロ(Laszlo)、長女ケリー、次女ジュリア、四男ペドロ、五男で末子のマルコがいる。中でもネルソン・アンジェロは父親と同じくフォーミュラカーの分野で活躍しており、元F1ドライバーで初代フォーミュラEチャンピオンの“ネルシーニョ・ピケ”、あるいは“ネルソン・ピケJr.”として有名である。そのレース活動を全面的にサポートし、F1のテスト走行にも帯同するなど、同じく二世ドライバー(ニコ・ロズベルグ)を持つケケ・ロズベルグとともに「親バカ」ぶりが話題になった。

他の兄弟も、長男ジェラルドはブラジル国内のトラック選手権で活躍しており、四男のペドロも2006年にブラジルの国内カート選手権の初級クラスを最年少で制するなど、ネルソン・ピケを嚆矢にレース一族を形成しつつある。長子のジェラルドから末子のマルコまで、歳の差は23歳ある。

2017年には長女ケリーとダニール・クビアトとの交際が報じられ、ケリーが雑誌の取材に応じている[29]

ネルソン・ピケ・サーキット[編集]

3度目のF1ワールドチャンピオン獲得時にその偉業を記念し、1988年からリオ・デ・ジャネイロのジャカレパグア・サーキットが『ネルソン・ピケ・サーキット』に改名された。改名後の初戦だった1988年の開幕戦ブラジルGPでピケは3位でフィニッシュし表彰台に登壇している[30]。2017年現在、ピケは自らの名が冠せられたサーキットでレースを走ったことがある唯一のF1ドライバーである。

概歴[編集]

  • 1977年 欧州F3シリーズ3位
  • 1978年 同2位、F1にスポット参戦
  • 1979年 ブラバムからF1フル参戦開始。ニキ・ラウダの引退によりシーズン途中からNo1に昇格。
  • 1980年 アメリカ西グランプリで初優勝。アラン・ジョーンズと争うも敗れ選手権2位。
  • 1981年 カルロス・ロイテマンに競り勝ち、初の選手権制覇。
  • 1982年 デトロイトグランプリで予選落ちするなど、走らぬマシンに苦しみシーズンわずか1勝。
  • 1983年 アラン・プロストとの争いを制し、2度目の選手権制覇。
  • 1984年 予選で当時年間最多となる9度のPPを獲得。
  • 1985年 1勝。このシーズンをもって永年在籍したブラバムから移籍を決意。
  • 1986年 ウィリアムズに移籍。選手権3位。
  • 1987年 ナイジェル・マンセルに勝利し、3度目で最後の選手権制覇。
  • 1988年 ロータスに移籍。マシンが低迷、3位が最高位で以後2年間未勝利。
  • 1989年 非力なロータスジャッドで苦戦。4位が最高位で1982年以来の予選落ちまで喫する。ロータス離脱を決意。
  • 1990年 ベネトンに移籍。日本グランプリでの3年ぶりの優勝を含めシーズン2勝。
  • 1991年 カナダグランプリで最後の優勝。移籍先が見つからず、シーズン終了後F1から引退。
  • 1992年 インディ500へ参戦するも、プラクティス中のクラッシュにより負傷。

年度別成績[編集]

F1[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1978年 エンサイン N177 ARG BRA RSA USW MON BEL ESP SWE FRA GBR GER
Ret
NC
(28位)
0
マクラーレンBS ファブリケーションズ M23 AUT
Ret
NED
Ret
ITA
9
USA
パルマラット (ブラバム) BT46 CAN
11
1979年 ARG
Ret
15位 3
BT48 BRA
Ret
RSA
7
USW
8
ESP
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
12
AUT
Ret
NED
4
ITA
Ret
BT49 CAN
Ret
USA
Ret
1980年 ARG
2
BRA
Ret
RSA
4
USW
1
BEL
Ret
MON
3
FRA
4
GBR
2
GER
4
AUT
5
NED
1
ITA
1
CAN
Ret
USA
Ret
2位 54
1981年 BT49C USW
3
BRA
12
ARG
1
SMR
1
BEL
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
FRA
3
GBR
Ret
GER
1
AUT
3
NED
2
ITA
6
CAN
5
CPL
5
1位 50
1982年 BT50 RSA
Ret
BEL
5
MON
Ret
DET
DNQ
CAN
1
NED
2
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
SUI
4
ITA
Ret
CPL
Ret
11位 20
BT49D BRA
DSQ
USW
Ret
SMR
1983年 フィラ・スポーツ (ブラバム) BT52 BRA
1
USW
Ret
FRA
2
SMR
Ret
MON
2
BEL
4
DET
4
CAN
Ret
1位 59
BT52B GBR
2
GER
13
AUT
3
NED
Ret
ITA
1
EUR
1
RSA
3
1984年 MRD インターナショナル (ブラバム) BT53 BRA
Ret
RSA
Ret
BEL
9
SMR
Ret
FRA
Ret
MON
Ret
CAN
1
DET
1
DAL
Ret
GBR
7
GER
Ret
AUT
2
NED
Ret
ITA
Ret
EUR
3
POR
6
5位 29
1985年 ブラバム BT54 BRA
Ret
POR
Ret
SMR
8
MON
Ret
CAN
Ret
DET
6
FRA
1
GBR
4
GER
Ret
AUT
Ret
NED
8
ITA
2
BEL
5
EUR
Ret
RSA
Ret
AUS
Ret
8位 21
1986年 ウィリアムズ FW11 BRA
1
ESP
Ret
SMR
2
MON
7
BEL
Ret
CAN
3
DET
Ret
FRA
3
GBR
2
GER
1
HUN
1
AUT
Ret
ITA
1
POR
3
MEX
4
AUS
2
3位 69
1987年 FW11B BRA
2
SMR
DNS
BEL
Ret
MON
2
DET
2
FRA
2
GBR
2
GER
1
HUN
1
AUT
2
ITA
1
POR
3
ESP
4
MEX
2
JPN
15
AUS
Ret
1位 73 (76)
1988年 ロータス 100T BRA
3
SMR
3
MON
Ret
MEX
Ret
CAN
4
DET
Ret
FRA
5
GBR
5
GER
Ret
HUN
8
BEL
4
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
8
JPN
Ret
AUS
3
6位 22
1989年 101 BRA
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
MEX
11
USA
Ret
CAN
4
FRA
8
GBR
4
GER
5
HUN
6
BEL
DNQ
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
8
JPN
4
AUS
Ret
8位 12
1990年 ベネトン B189B USA
4
BRA
6
3位 43 (44)
B190 SMR
5
MON
DSQ
CAN
2
MEX
6
FRA
4
GBR
5
GER
Ret
HUN
3
BEL
5
ITA
7
POR
5
ESP
Ret
JPN
1
AUS
1
1991年 B190B USA
3
BRA
5
6位 26.5
B191 SMR
Ret
MON
Ret
CAN
1
MEX
Ret
FRA
8
GBR
5
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
3
ITA
6
POR
5
ESP
11
JPN
7
AUS
4

インディ500[編集]

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1992年 ローラT92/00 ビュイック DNS チーム・メナード フリー走行でクラッシュ。以後を欠場。
1993年 ローラT93/00 ビュイック 13 32 チーム・メナード エンジントラブルで38周リタイア。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『レーシングオン ブラバム特集号』 三栄書房、2011年、p.73。ISBN 9784779611759
  2. ^ a b No.2ストーリー 2番目の男がトップを打ち破るとき F1GPX 1987ブラジルGP速報版 27-28ページ 山海堂 1987年4月30日発行
  3. ^ F1地上の夢 141-142ページ 海老沢泰久朝日新聞社 1991年 によれば、ホンダはピケの年俸として年間80万ポンドを支払っていたという。
  4. ^ 注目の7人に聞く ネルソン・ピケ F1GPX1988開幕直前号 10ページ 山海堂 毎日10時間睡眠していたのが事故後は2-3時間で頭痛がして目覚めてしまい、ジョギングもできないためコンディション維持も難しくなっていたと回答している。
  5. ^ a b c 注目の7人に聞く ネルソン・ピケ F1GPX1988開幕直前号 10ページ 山海堂
  6. ^ ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表、桜井総監督記者の質問に答える F1GPX 1987年イタリア 31頁 山海堂
  7. ^ a b ネルソン・ピケ マクラーレンデュオを追って F1GPX1988年第10戦ハンガリーGP 18ページ 山海堂 1988年8月26日発行
  8. ^ ピケ、マンセルを抑え世界選手権500戦目を連勝で飾る! F1速報 1990年第16戦オーストラリアGP号 武集書房
  9. ^ PLAYBACK ネルソン・ピケ 1986年鈴鹿、日本にF1を刻み付けた男 / by大串信 F1速報 1993年ブラジルGP 31頁 ニューズ出版 1993年4月17日発行
  10. ^ ピケがF3をドライブ F1速報 1993年開幕直前号 25ページ ニューズ出版 1993年3月12日発行
  11. ^ 1993 Indianapolis 500 RACING REFERENCE.info
  12. ^ レースレポートinインディアナポリス 1993.5.30FINAL F1GP特集1993年7月号 111頁 ソニーマガジンズ
  13. ^ a b 『レーシングオン ブラバム特集号』 三栄書房、2011年、p.74。ISBN 9784779611759
  14. ^ WILLIAMS 6ネルソン・ピケ F1GPX 1987第4戦モナコ速報版 23ページ 山海堂
  15. ^ 『レーシングオン ブラバム特集号』 三栄書房2011年、p.70。ISBN 9784779611759
  16. ^ 『レーシングオン ブラバム特集号』 三栄書房、2011年、pp.70 - 72。ISBN 9784779611759
  17. ^ 『F1RACING 2010年5月情報号』 三栄書房、2010年、p.65。ISBN 9784779609138
  18. ^ カナダ名物荷物にゃならぬ F1速報 1993フランスGP 25頁 ニューズ出版
  19. ^ 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)p117 - 119
  20. ^ ピケの"口撃"止まらず F1GPX 1988第1戦ブラジルGP 29ページ 山海堂
  21. ^ 勝利の目撃者 ネルソン・ピケ F1グランプリ特集 1993年7月号 125ページ ソニー・マガジンズ 1993年7月16日発行
  22. ^ 中嶋悟に与えられた本当の評価 F1グランプリ特集 Vol.15 1990年7月号 52頁 CBSソニー出版
  23. ^ 関係者50人の中嶋悟に贈るエール F1グランプリ特集 Vol.28 1991年10月号 35頁 ソニーマガジンズ
  24. ^ ニキラウダ 集中力を保つ秘訣はピケにも勧めたジェット機の操縦 F1GPX 1988年フランス 11頁 山海堂
  25. ^ Vascaíno Nelson Piquet completa 60 anos, parabéns Vasco Noticias 2012年8月17日
  26. ^ あのドライバーは熱心なサッカーファン!?王者ら9名を紹介 Goal.com 2018年3月24日
  27. ^ Piquet volta à pista com bandeira do Vasco e divide a torcida em Interlagos グローボ.com 2011年11月27日
  28. ^ ジャン・アレジ「僕が出会った4人のチャンピオンたち」 Sports Graphic Number PLUS March.2000 20世紀スポーツ最強伝説⑥「F1 未知への疾走」136頁 文芸春秋
  29. ^ 【あなたは何しに?】ネルソン・ピケの長女ケリー。恋人クビアトを応援するため来日予定だったが… オートスポーツweb 2017年9月27日
  30. ^ 荒れる開幕戦 やはりキャリアがモノを言う F1GPX 1988年ブラジルGP号 6-7頁 山海堂
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

タイトル
先代:
アラン・ジョーンズ
F1ドライバーズチャンピオン
1981年
次代:
ケケ・ロズベルグ
先代:
ケケ・ロズベルグ
F1ドライバーズチャンピオン
1983年
次代:
ニキ・ラウダ
先代:
アラン・プロスト
F1ドライバーズチャンピオン
1987年
次代:
アイルトン・セナ