コンテンツにスキップ

由井正雪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
由井正雪

由井 正雪(ゆい しょうせつ、慶長10年〈1605年〉?[1] - 慶安4年7月26日1651年9月10日〉)は、江戸時代前期の日本軍学者慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者として知られる。名字由井由比のほか、江戸幕府の文書では油井とも表記される[2]。名は正真または正之とも[1]

生涯

[編集]

出自

[編集]
正雪紺屋(2010年6月)

出自については諸説あり、定かではない[1][3]。出生地の候補としては、駿河国由比(現・静岡県静岡市清水区由比)や駿府宮ヶ崎(現・静岡県静岡市宮ヶ崎町)が挙げられる。

新井白石佐久間洞巖に送った書状には「駿河の由井の紺屋の子」という世間の評判が記述される[4]。由比出身説は『草賊記』(『事実文編』5巻所収)も採用している[4]。現在の由比には正雪の生家であるとされる「正雪紺屋」が存在する[4]

慶安事件時の江戸幕府老中らの文書では、正雪の父・岡村弥右衛門や伯父・太郎右衛門が浅間の宮ヶ崎にいるとしている[5]。また正雪の最期に居合わせた駿府加番秋田盛季の家臣・草川五左衛門次綱も『草川覚書』で正雪の両親が駿河の宮ヶ崎にいるとしている[5]

実録本『慶安太平記』では、吉岡鬼一法眼の子孫・吉岡治右衛門の子であるとされる[5]。治右衛門は尾張国愛知郡の百姓だったが大坂天満橋で紺屋となり、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集されて旗や幕の染色に従事し、戦後に由比村に移住して紺屋吉岡屋をはじめた[5]。治右衛門の妻は、武田信玄が転生した子を宿すという霊夢を見て、慶長10年(1605年)5月1日に生まれた子が正雪であるという[5]。同書では父の死に際して軍学書を授けられ、楠木氏の本姓である橘氏から「由井民部之助橘正雪」(ゆいみんぶのすけたちばなのまさゆき)を名乗ったとされているが、実際には正雪の父は正雪死亡時点でも存命である。

『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)387頁には、坂東八平氏三浦氏庶家とある。

前半生

[編集]
由井正雪書状(東京国立博物館蔵「尺璧帖」)

幼少のころは寺に入れられていた。幕閣の書状では「以前清見寺にいたことがあるのでそれを心得て穿鑿するように」とあり、『草賊記』でも清見寺や久能山を行き来していたとされる[4]。『草川覚書』では幼少時は臨済寺にいたとされている[5]

『慶安太平記』では7歳で由比村の清光寺に入り、11歳の時軍学者・高松半兵衛(半平)を知りその弟子となったとされる[6]。『望遠雑録』では高松半兵衛の養子となり高松与四郎を名乗り、半兵衛が楠不伝に殺された後江戸へ出たとされている[6]徳富蘇峰の『近世日本国民史』では元和7年(1621年)17歳のとき江戸へ出て菓子屋・鶴屋弥次右衛門に奉公し、21歳のときに弥次右衛門が死去したためその養子として入り込んだとされている[7]

南紀徳川史』は寛永7年(1630年)に正雪が紀州藩に来訪したと記録している[8]

『慶安太平記』では、牛込に屋敷を構えて軍学を講じていた、楠木正成の子孫という楠不伝に弟子入りし、寛永10年(1633年)にその跡を継いだという[9]。養子になったとされることもある[7][1]。『草賊記』では師を毒殺して軍法書を奪い、楠木正成から伝わる書だと吹聴したことになっている[10]山崎美成『海録』では旗本・楢村氏に伝わっていた文書や刀剣を、それを預かっていた駿府の家の虫干しの際に盗み出したとされている[10]

正雪の軍学塾は、中国の名軍師と言われる子房諸葛に由来する「張孔堂」の看板を掲げた[11][1]。『慶安太平記』では不伝は3000人を超える弟子を有したが、正雪の弟子は4000人に達したとされている[11]。新井白石書状では神田連雀町の裏店に5間ほどの家を借り、3間を門弟の教授に、2間を住居に使っていたとしている[11]。旗本や各藩士を多数弟子に持ったが大名は弟子としない方針で、板倉重昌を弟子としたほかは断っており、弟子からの評判は極めて高かったと白石は述べている[11]

筆者不明の写本『壺蘆圃(ころほ)雑記』には、寛永16年(1639年)5月17日、備前殿(池田光政)邸で大橋宗古将棋の対局をした際の棋譜が記録されている[12]手合割は「左香落」で145手で正雪の勝利となっており、本物ならば正雪は当時の第一級の打ち手だったこととなるが、偽作という見方もある[12]

慶安の変

[編集]
菩提樹院の首塚

慶安4年(1651年)4月、江戸幕府第3代将軍徳川家光が死去し、跡継ぎである長男・家綱はわずか11歳であった[13]酒井忠勝保科正之ら重臣が幕政を主導し世情は比較的安定していたが、松平定政の意見書提出・剃髪という事件も起こり、変事の発生については注意が払われていた[14]

正雪が立てた計画は、浪人を集めて久能山を落として駿府城を乗っ取り、江戸では7月29日に塩硝蔵に火をつけ、町にも放火し、登城した御三家や老中の屋敷に矢・鉄砲を射かけるというものだった[15]。さらに大坂や京都でも騒動を起こすことを準備していた[15]。正雪は紀州藩への仕官の口利きをだしに浪人たちを集めていたものとみられる[16]。陰謀発覚後に、奉公の世話をしてやると言われただけで悪事についてはあずかり知らないと幕府に出頭した浪人も現れている[17]。一味の浪人の数はおよそ1500人に達したという[18]

7月23日夜、奥村八左衛門・奥村七郎左衛門幸忠らが訴え出たことで事件が明るみに出る[19]。その日のうちに槍術家・丸橋忠弥長屋で捕縛され[20]、塩硝蔵下奉行・河原十郎兵衛も捕まった[21]。正雪は22日のうちに江戸を発っており、25日に駿府に着いて茶町の梅屋太郎左衛門のもとに宿泊した[22]。25日には幕府の命令が駿府城代・大久保忠成に届けられ、久能山警備と浪人らの捕縛の準備が進められた[23]。その夜梅屋を与力同心らが包囲したが、紀伊大納言様御家中を称する正雪一行は町奉行による詮議のための出頭の求めに応じず、問答が続いて夜が明けた[24]。与力・同心が梅屋に踏み込むと、正雪ら8名が自害しており、生きていた2名が生け捕られた[25]。正雪は遺書を残していたが、字句は書籍によって異同がある[26]。その中では天下の御仕置が無道であるために上下の者が困窮していることから、讃岐守(酒井忠勝)を取り除き、天下御長久の政策を奏上し、そのあとはいかなる処分も受けようとしていたと語られている[26]。蜂起の原因としてはキリシタン説や尊王倒幕説、幕政改革説なども存在するが、浪人救済説が現在では通説となっている[27][3]

大坂で騒ぎを起こす手はずだった吉田勘右衛門は有馬温泉で発見され、同心1人・坊主1人を斬殺した後で自害[28]。京都に向かった熊谷三郎兵衛は江戸に戻り、7月29日朝に芝西久保の土取場で自害した死体が発見された[28]。吉田勘右衛門とともに大坂に向かった金井半兵衛の足取りはつかめていなかったが、8月13日に大坂天王寺で遺書を残して自害した[28]

正雪の人相書は27日に江戸から発せられており、その中では年四十余り、総髪、背小さく、色白、額短く、髪黒、唇厚く、眼はくりくりとしていると記述されている[29]。28日に老中は、死骸が残っていれば首を繋いでとし、首だけ残っているならば晒し首にせよという命令を出し、首だけが残っていたため安倍川の河原に晒し首となった[30]。その日付は『徳川実紀』によれば8月10日[30]。同日、江戸品川でも丸橋忠弥や正雪の父・妻・弟・伯父ら30人余りが処刑された[31]。駿府に留め置かれていた正雪の母も、9月13日に老中から磔の命令が出されて処刑された[32]

正雪の墓は駿府寺町の菩提樹院に存在し、享和2年(1802年)に曲亭馬琴が見物して『羈旅漫録』に記録している[33]。戦後菩提樹院が移転した際に正雪の墓も移され、現在は静岡市葵区沓谷の菩提樹院境内に置かれている[33]

大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなった。この年の12月には末期養子の禁が緩和されることになった[34]。正雪が仲間を集めるために名前を利用した紀州藩主・徳川頼宣は幕府に釈明を求められ、また印章が偽造されたためにそれを変更することとなった[35]

実録本『慶安太平記』

[編集]

由井正雪の生涯は、大幅に脚色されて、江戸時代実録本慶安太平記』として流布した。『慶安太平記』は、由井正雪を武田信玄の生まれ変わりと設定、『太平記』の楠木正成的な性格を強調し、また正雪の武者修行や奥州白石城下で行われたとされる「宮城野・信夫」の仇討話を挿入するなど、それ以前に成立した実録本『油井根元記』の一群よりも読み物として充実した内容を持つ[36]。正雪が修行中に天草島森宗意軒から幻術を教わるなど、天草軍記との関連が深い[36]

登場作品

[編集]

歌舞伎

[編集]

小説

[編集]

映画

[編集]

テレビドラマ

[編集]

オリジナルビデオ

[編集]

漫画

[編集]

ゲーム

[編集]

関連書籍

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 由比正雪(ゆいしょうせつ)とは”. コトバンク. 2025年10月6日閲覧。
  2. ^ 進士 1961, はしがき.
  3. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年11月30日、1765頁。doi:10.11501/13244804ISBN 4-02-340052-1 (要無料登録要登録)
  4. ^ a b c d 進士 1961, pp. 1–6.
  5. ^ a b c d e f 進士 1961, pp. 6–10.
  6. ^ a b 進士 1961, pp. 11–17.
  7. ^ a b 進士 1961, pp. 18–24.
  8. ^ 進士 1961, pp. 77–81.
  9. ^ 進士 1961, pp. 24–44.
  10. ^ a b 進士 1961, pp. 24–34.
  11. ^ a b c d 進士 1961, pp. 35–44.
  12. ^ a b 山本亨介『将棋文化史』(増補改訂)光風社書店、1973年11月20日、60-61頁。doi:10.11501/12440506 (要無料登録要登録)
  13. ^ 進士 1961, pp. 83–90.
  14. ^ 進士 1961, pp. 90–100.
  15. ^ a b 進士 1961, pp. 137–139.
  16. ^ 進士 1961, pp. 109–116.
  17. ^ 進士 1961, p. 192.
  18. ^ 進士 1961, p. 196.
  19. ^ 進士 1961, pp. 101–109.
  20. ^ 進士 1961, pp. 130–131.
  21. ^ 進士 1961, pp. 132–136.
  22. ^ 進士 1961, pp. 137–143.
  23. ^ 進士 1961, pp. 143–148.
  24. ^ 進士 1961, pp. 148–160.
  25. ^ 進士 1961, pp. 160–172.
  26. ^ a b 進士 1961, pp. 172–184.
  27. ^ 進士 1961, pp. 183–184.
  28. ^ a b c 進士 1961, pp. 203–208.
  29. ^ 進士 1961, pp. 199–200.
  30. ^ a b 進士 1961, pp. 208–213.
  31. ^ 進士 1961, pp. 213–218.
  32. ^ 進士 1961, pp. 222–223.
  33. ^ a b 進士 1961, pp. 240–243.
  34. ^ 進士 1961, pp. 230–239.
  35. ^ 進士 1961, pp. 224–230.
  36. ^ a b 岡本勝・雲英末雄『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、130頁。 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]