天草諸島

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天草諸島の地図

天草諸島(あまくさしょとう)は、九州西部の熊本県と、一部は鹿児島県にまたがる諸島である。

北は有明海、東・南東は八代海(不知火海)、西・南西は東シナ海天草灘に囲まれる。

漢名苓州苓洲(れいしゅう)。天草を甘草(かんぞう、あまくさ)にかけ、その漢名「苓」から採っている。

概要[編集]

全体の面積は約1000km2、人口は126,445人(鹿児島県長島町を含む推計人口(2014年11月1日))。

上島(かみしま)と下島(しもしま)(または天草上島と天草下島)を主島とする。下島は面積574.01km2であり、本州など主要4島を除く日本の島では8位の面積を有する。上島、長島大矢野島獅子島御所浦島がこれに続く。

かつてキリスト教カトリック)の布教が広がり、キリシタン弾圧や島原・天草の乱などの悲劇もあったことから、キリシタンの島として知られ、現在も3か所のカトリック教会がある。ただし現在の信者数は突出して多いわけではなく、人口の1%にも満たない[1]

元来、全域が肥後国天草郡だったが、1581年、長島・獅子島などが薩摩国出水郡に編入された(#歴史参照)。これにより現在も、これらの島々は鹿児島県長島町に属している。このため、これらの島々を天草諸島に含めないこともある。なお、天草諸島に隣接する宇城市三角町戸馳の戸馳島は天草諸島に含まれない。

産業[編集]

温暖な気候で、水産業、特にクルマエビ真珠などの養殖業が盛ん。また、非常に優れた品位の陶石(天草陶石)を産することでも知られており、生産量は全国の8割を占め、地元の天草陶磁器や日本各地の陶磁器の原料として多く用いられている。

長崎県島原半島とともに雲仙天草国立公園に指定されている。海水浴、イルカウォッチング、船旅、温泉などを楽しめ、年間約480万人の観光客が訪れる。

地理[編集]

自治体[編集]

主な島[編集]

熊本県[編集]

  • 主島
    • 下島(しもしま、574.01 km2) - 天草市・苓北町
    • 上島(かみしま、225.32 km2) - 天草市・上天草市
  • (上島北東)
    • 大矢野島(おおやのしま、29.88 km2、上天草市大矢野地区)
    • 維和島(いわじま、6.4 km2、上天草市大矢野町維和)
    • 湯島(ゆしま、0.52 km2、上天草市大矢野町湯島)
    • 野釜島(のがまじま、0.32 km2、上天草市大矢野町上)
    • 野牛島(やぎゅうじま、0.12 km2、上天草市大矢野町中)
  • (上島北東、天草松島
    • 樋合島(ひあいじま、0.79 km2、上天草市松島町合津)
    • 永浦島(ながうらじま、0.79 km2、上天草市松島町合津)
    • 前島(まえじま、0.43 km2、上天草市松島町合津)
    • 瀬島(せしま、0.32 km2、上天草市松島町阿村)
    • 中島(なかじま、0.21 km2、上天草市松島町阿村)
    • 高杢島(たかもくじま、0.12 km2、上天草市松島町合津)
  • (上島南東)
    • 樋島(ひのしま、3.46 km2、上天草市龍ヶ岳町樋島)
  • (上島南方)
    • 御所浦島(ごしょうらじま、14.0 km2、天草市御所浦町御所浦)
    • 牧島(まきしま、6.0 km2、上天草市御所浦町牧島)
    • 横浦島(よこうらじま、1.09 km2、上天草市御所浦町横浦)
  • (下島南方)
  • (下島南東)
    • 産島(うぶしま、1.94 km2、天草市河浦町宮野河内)
  • (下島東方)
    • 横島(よこしま、0.83 km2、天草市新和町多田尾)
  • (下島北方)
    • 通詞島 (つうじしま、0.6 km2、天草市五和町二江)

鹿児島県[編集]

歴史[編集]

天草最古の記録は『先代旧事本紀』で、それに「天草国造」があったと記されている。但し、この史書は偽書説が濃厚であり、記述を鵜呑みにすることは出来ない。 信頼できる史書としては『続日本紀』が初出である。天平16年(744年)5月、雷雨に伴う洪水の最中に大地震が起こり、天草は八代葦北共々大きな被害を被り、そのときの洪水による天草郡の被害は田が290余町、民家470余戸、被害者1,520余名に及んだとしている。

鎌倉時代に入ると、幕府により天草種有が本砥(本渡の旧名)の地頭職に任じられている。但し、天草全体を支配下に置いていた訳では無く、大矢野島には大矢野氏、天草下島北部にはその地頭志岐氏らが在った。14世紀になると、天草氏の所領はの妙性が守っていた。妙性は応長元年(1311年)に自らの子供らに領地を分け与えたものの、正和2年(1313年)、志岐氏当主の志岐景弘は妙性が自身の継母であるのを利用して、本砥の地頭職を幕府に願い出てこれを許される。こうして天草氏の嫡流は地頭職より途絶するに至った。弘安4年(1281年)、元寇が襲来した際は、大矢野氏の大矢野種保種村兄弟が元寇迎撃に出陣している。

南北朝時代になると、この頃の志岐氏当主である志岐隆弘北朝につき、本砥のみならず亀川の地頭職にも任じられる。しかし、天草氏の庶流河内浦氏、更に宮地氏南朝について、城や柵を構えて激しく抵抗した。また、北朝方の天草豪族として上津浦氏長島氏の名が、この頃に催された犬追物の参加者の中に見える。

戦国時代頃になると天草は、下島北部を領する志岐氏、中部の河内浦氏(後に天草氏に復姓)と宮地氏、南部の久玉氏、上島北部の上津浦氏、南部の栖本氏、大矢野島の大矢野氏、長島の長島氏の8氏が鎬を削る形となっていたが、やがて天草尚種が現れると、宮地氏と久玉氏は天草領に併呑され歴史からその名を消した。天文元年(1532年)、上津浦治種が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められる事態が起こる。治種は八代・葦北・球磨の三郡を領する相良義滋に協力を打診、義滋がこれに支援したことで治種は大勝した。この一件以降、相良氏は天草鎮護の為に八代・葦北・球磨の兵1,000を半年交代で天草へ置くようになったが、肥前国有馬氏の介入もあり、天草内部の争乱は止む事が無かった。また、天文23年(1554年)、長島氏当主の長島鎮真が、義滋の後を継いだ相良晴広により長島を追われて薩摩国出水へ逃れた。残る天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏らは、世に天草五人衆と称される。

永禄9年(1566年)、修道士ルイス・デ・アルメイダが志岐氏当主の志岐鎮経(麟泉)(下島・志岐城主)に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ、トルレスヴィレラオルガンチノらの宣教師も来島し、永禄11年(1568年)と元亀元年(1570年)には宗教会議も行われた。信仰は広まり、信者は1万5000人、教会堂は30あまりにも達したという。

このころまでは天草諸島と肥後国天草郡は一致していた。しかし、長島氏を庇護下においていた薩州家より、島津忠兼が派されて天草の長島氏旧領に侵攻、これにより天正9年(1581年)、長島・獅子島などが薩摩国出水郡に編入された。このときの国境が現在の県境ともなっている。

豊臣秀吉九州平定を成し遂げると、豊臣政権の下で天草五人衆は佐々成政の与力とされたが、肥後国人一揆により成政が失脚、代わって肥後南半国の領主としてキリシタン大名小西行長が下向するとその与力とされた。しかし天正17年(1589年)、五人衆は行長の宇土城普請の命に叛いて叛乱に及んだ末に敗れて降伏、逃走した志岐氏を除く4氏が行長の家臣に組み入れられた。その後、行長は志岐にキリシタンの家臣日比屋了荷(受洗名はヴィセンテ。ヴィンセンゾとも)を置いた。天草のキリシタンは行長の庇護を受けることになったのである。また、乱の翌年には上津浦氏もキリスト教に受洗している。

天正19年(1591年)、宣教師養成のための天草コレジオ(学林)が羊角湾岸の河浦に設置され、全寮制の集団教育がなされた。天正遣欧少年使節の4人もここで学んでいる。少年使節は日本にグーテンベルク活版印刷機を持ち帰ったが、天草ではこれを用いて「伊曽保物語」「平家物語」「羅葡日対訳辞典」などの「天草本」と呼ばれる印刷物が刊行された。

関ヶ原の戦いの後、敗れた小西行長は斬首され、天草は唐津藩の飛び地となる。領主寺沢広高は現在の苓北町富岡城を築いて城代を置き、検地を行い天草の石高を4万2千石とした。しかしこれは実際の生産高の倍にあたり、そのため過酷な税の取り立てとキリシタンの弾圧が行われた。さらに飢饉が続いたことも要因となって、寛永14年(1637年)、島原・天草の乱が勃発した。

乱後、山崎家治富岡藩4万2千石で入封し、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに当たった。寛永18年(1641年)、家治はその功績により讃岐丸亀藩5万3千石に加増移封され、天草は天領となった。代官鈴木重成は天草の復興に努める一方、再検地の結果に基づき石高を実収に見合うよう半減すべきと幕府に訴えた。しかし、再三の訴えも聞き入れられなかったため、重成は上表文を残して自刃したという。この主張は万治2年(1659年)になって認められ、天草の表高は2万1千石となった。天草の本渡には重成を祀る鈴木神社が建立され、名代官として今も人々に慕われている。

廃藩置県1871年明治4年)までは長崎県に属したが、その後、肥後国天草郡は熊本県、薩摩国出水郡は鹿児島県に属し、現在に至る。

交通[編集]

熊本県の宇土半島先端の三角から大矢野島天草松島を経て上島に至るルートは、1966年(昭和41年)に開通した天草五橋でつながっており、「天草パールライン」と呼ばれている。夏のピーク時には観光・海水浴などで自動車の通行量が1日平均2万5000台にも上り混雑する。

上島と下島とは、天草の中心地である本渡の市街(下島)の近くで幅約100m、長さ約3Kmの細長い本渡瀬戸によって隔てられているが、ここも1974年(昭和49年)に開通した天草瀬戸大橋本渡瀬戸歩道橋で結ばれている。

また、鹿児島県に属する長島と九州本土の間にも黒之瀬戸大橋が架かり、自動車での往来が可能である。

海に囲まれた天草も九州本土と陸路で結ばれる一方で、2006年(平成18年)8月に牛深 - 水俣航路、2007年(平成19年)5月に本渡 - 水俣航路が廃止され、同年10月に松島 - 八代航路(天草フェリーラインにより運航)、2009年(平成21年)3月には熊本フェリー(株)が運行していた本渡港(下島) - 熊本港熊本市)を約65分で結ぶ高速旅客船「マリンビュー」 が運航休止されるなど、海上航路は次々と数を減らしている。

※2009年4月に松島 - 八代航路(天草フェリーライン有限会社)運航再開

地域高規格道路の候補路線「島原天草長島連絡道路」においては島原と天草間および天草と長島間の架橋が計画されている。

鉄道[編集]

諸島内には鉄道路線はない。

(熊本県側)天草五橋の手前にあるJR三角線三角駅が最寄りとなる。

(鹿児島県側)肥薩おれんじ鉄道折口駅が最寄りとなる。

そのほか、場所にもよるが長崎本線長崎駅や、肥薩おれんじ鉄道の水俣駅があげられる。

バス[編集]

(熊本県側)大矢野島・上島・下島内は産交バスの運行エリアである。熊本市内と本渡を結ぶ快速「あまくさ号」が都市間連絡の路線として運行している。主要拠点として本渡バスセンターがある。

(鹿児島県側)南国交通の運行エリアである。肥薩おれんじ鉄道の阿久根駅九州新幹線出水駅から運行されている。

主な航路[編集]

空路[編集]

離島架橋[編集]

都市圏[編集]

金本良嗣・徳岡一幸によって提案された都市圏(10%通勤圏)。細かい定義等は都市雇用圏に則する。 一般的な都市圏の定義については都市圏を参照のこと。

自治体
('80)
1980年 1990年 1995年 2000年 自治体
(現在)
主要島嶼
熊本県 大矢野町 - - - - 上天草市 大矢野島
龍ヶ岳町 - - - - 天草上島
松島町 - - - -
姫戸町 - - - -
倉岳町 - - - 本渡都市圏
75816人
天草市
栖本町 - 本渡都市圏
68343人
本渡都市圏
67019人
有明町 本渡都市圏
68801人
本渡市
天草下島
新和町
五和町
河浦町 - - -
天草町 - - - -
牛深市 - - - -
苓北町 - - - - 苓北町
御所浦町 - - - - 天草市 御所浦島
鹿児島県 長島町 - - - - 長島町 長島本島
東町 - - - -

※10%通勤圏に入っていない町村は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。

脚注[編集]

  1. ^ 2009年カトリック福岡教区現勢によると、天草にある教会(本渡、大江、崎津)の登録信徒数は計637人(カトリック福岡教区報2010年5月号掲載)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]