張良

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張良像(晩笑堂竹荘画伝)

張 良(ちょう りょう、紀元前251 - 紀元前186年)は、末期から前漢初期の政治家・軍師子房[1]は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

生涯[編集]

始皇帝暗殺未遂[編集]

祖父の張開地中国語版昭侯宣恵王襄王相国を務め、父の張平釐王桓恵王の相国を務めるなど、張良は韓の名族の生まれであった[2][3]。父の張平が死んでから20年が経った韓王安九年(紀元前230年)、内史騰率いる秦軍10万の攻撃を受け韓王安は捕虜となり韓は滅亡した[4]。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった[2]。祖国を滅ぼされた張良は韓のため復讐を誓い、弟が死んでも葬式を出さず、全財産を売り払って秦王に仇を報ずる客士を求めた[2]

張良は淮陽郡で礼を学び、東へ旅をして倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を借り受けた。始皇帝が巡幸の途中で博浪沙(現在の河南省新郷市原陽県の東)を通った所を狙い[5]、重さ120(約30kg[6])という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰す計画であった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちは逃亡した[5]

始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州市の東の邳州市)に逃れ[5]任侠の徒となった。なお、この下邳で身を隠していた頃に、人を殺して逃亡中であった項伯項羽の叔父)を匿まっている[7]

黄石公[編集]

張良と黄石公頤和園

ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「おい若いの、下りて靴を取ってこい」と言いつけた[8]。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「わしにその靴をはかせよ」と言う[8]。張良は「すでに拾ってきてやったんだから」と考え、跪いて老人に靴を履かせた[8]。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「若いの、教えられそうだなあ!後5日たっての早朝、わしとここで会え」と言った[8][9]

5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「老人と約束しながら遅れるとは何事だ。立ち去れ」と言い「また5日の後早朝に会おう」と言い残して去った[10]。5日後、張良は鶏鳴の時刻に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「遅れるとは何事だ。立ち去れ」と叱り「あと5日したらもう一度早く来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「こうでなくてはならん」と言い、張良に一編の書物を渡して「これを読めば王者の師となれる。10年経ったら興隆し、13年後におまえはわたしに会うだろう。済北の穀城山の麓にある黄石がわしなのだ」と言い残して消え去ったという[10]。授かった書は太公望の兵法書で、張良は不思議に思いながらもこの書を繰り返し誦読した[10][9]

劉邦の下で[編集]

秦二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起こると、張良も若者を100人ほど集めて乱に加わろうとした。その頃、陳勝の死後に王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたので参加しようとした途中、劉邦と出会った[11]

張良はそれまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はほとんど天授の英傑というべきだ」と感嘆し、劉邦に従うことを決めた[12][11]

劉邦はその後、項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良はの公子であった横陽君の韓成を韓王に立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒(『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。その後、張良は韓王成と共に千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に勝る秦によって奪い返された。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た[13]

劉邦が洛陽から南の轘轅に出陣した際、これに合流して旧韓の城を十数城攻め取り、秦の楊熊軍を撃破した[14]

その後、劉邦は韓王成を陽翟の守備に留め、張良と共に南下してを攻め下し、西進して武関に到達した[14]。続いて劉邦は兵2万をもって嶢関を攻めようとしたが、張良は「秦兵を軽んじてはなりません」とこれを思いとどまらせ「私の聞くところでは、秦の将軍(嶢関の守将)は屠殺を業とする者の子であります。商を事とするもの共は、利益で動かし易いのです」「まずは人をやって5万人の食糧を用意させ、旗や幟を山の上に張りめぐらせる疑兵の計をなし、酈食其に重宝をもたせてやって、秦の将軍にくらわせてください」と献策した[15]。果たして秦将は寝返り、劉邦に対して共に咸陽を攻めようと提案してきた。劉邦はこれを聞き入れようとしたが、張良は「秦に叛こうとしているのは将ただ一人だけで、恐らく士卒達は従わないでしょう。従わないならば必ずや危険な存在となるので、この隙に乗じて秦軍を撃つべきです」と説いた。劉邦は張良の進言のとおり嶢関を攻めて大いに破り、逃げる兵を追って藍田で再び戦い、これを遂に敗走させた[14][16]。こうして劉邦軍は秦の首都咸陽に辿り着き、秦王子嬰は劉邦に降伏した[14]

鴻門の会[編集]

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。帝都のきらびやかさに驚いた劉邦はここで楽しみたいと思い、樊噲にここを出て郊外に宿営しようと諫められても聞こうとしなかった。そこで張良は「秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょう」と劉邦を諫め、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、毒薬[17] は口に苦けれども病に利あり、と申します」と再び諌言した。劉邦はその諌言を素直に受け容れ、咸陽を出て覇上に軍を戻した[18]

その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていたが、既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて関中の王のようにしているのを見て激怒し、函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした。

その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。だが張良は「私は韓王のために沛公を送って来たのです。今、こういう状況だからといって逃げるのは不義です」と言って断り、事の次第を劉邦に伝えた[19]。劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をし、項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ[20]。項伯の釈明により、項羽と劉邦は会談を行うことになった。これが鴻門の会である。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、張良や樊噲の働きによって危機を逃れている。

楚漢戦争[編集]

明月峡古桟道
『鶏鳴山の月』(月岡芳年『月百姿』)項羽の陣に向け楚の曲を笙で奏でる張良(四面楚歌

漢元年(紀元前206年)正月、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った[21]。これにより劉邦は漢王(巴蜀・漢中の王)となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した[22]。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、ただちに田栄らの討伐に向かった[23]

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した[24]。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。

このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦の下へと帰った[24]。劉邦はその後関中の三秦(章邯董翳司馬欣)を降し、張良を成信侯にして、東進し項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し[24]滎陽河南省滎陽市)で項羽軍に包囲された(滎陽の戦い[25]

包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって次のように説明した。

  • 昔、湯王武王の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか? これが一つ目の理由です。
  • 武王はに入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか? これが二つ目の理由です。
  • 武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか? これが三つ目の理由です。
  • 武王は殷を平定すると、武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが四つ目の理由です。
  • 武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか? これが五つ目の理由です。
  • 武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか? これが六つ目の理由です。
  • かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させれば、みな大王の下を去り故郷へと帰って、それぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下を争うおつもりですか? これが七つ目の理由です。
  • 「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか? これが八つ目の理由です。

劉邦は食べていた食事を吐き出し、「豎儒(じゅじゅ、儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた[26]

紀元前203年、韓信が斉を平定すると「鎮撫のため斉の仮王になりたい」と劉邦に使者を送ってきた。韓信からの援軍を期待していた劉邦は「股夫が国を無心してきおった」と怒り書状を投げ捨てたが、張良は劉邦の足を踏みつけ「もし、要求を認めず韓信に反旗を翻されては我々に勝ち目はありません。それに、彼の功績を考えれば真っ当な要求であり認めるべきです」と述べた。すると劉邦も冷静さを取り戻し「功績をあげたのだから、小さい事を言わず仮王ではなく真王となれ」と韓信の斉王即位を認めた。

同年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食糧が尽きたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。

張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と言うも、張良は「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍をしましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と返した。

なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる? 彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のおかげですか? 大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。

これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。

天下統一後[編集]

遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(漢の高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった[27]

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところが広い庭のあちらこちらで、臣下らが数人集まって密談をしているところを目撃した[28]。高祖が張良に、彼らは何を話しているのかと尋ねたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何曹参など陛下の親しい者ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らの中には過去罪を犯したり、様々な事情から陛下に嫌われている者など、後ろめたい事を抱えている者も多くございます。故に陛下に過去の罪を掘り返され、誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。それを知らぬものは天下広しといえど居ないだろう(だが功績があるから我慢している)」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言した。高祖がそれを受けて宴会を開き、その場で「雍歯よ。その功績に報いるため、お前を什方侯に封じる」と恩賞を発表すると、皆は「あの陛下に憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分は心配する必要もない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ[29][30]

劉敬(婁敬)が関中を都とするよう進言した際、疑問を抱いた劉邦が大臣らに意見を求めたところその多くは洛陽を勧めたが、張良は洛陽は堅固ではあるが土地が痩せていて四方より攻撃を受けるため「武を用いるに有利な国ではありません」とその短所をあげ、関中は沃野千里、西北南は天険に守られ、黄河・渭水の水運を利用して諸侯が安定しているときは物資を京師(長安)に集め、諸侯に変があるときは流れを下ることができる「金城千里、天成府庫の国」だとして劉敬の案に賛成し、劉邦は都を関中に定めた[31][32]

晩年[編集]

張良は生まれつき多病であったため、道教の導引術を行い、穀物を断ち、門を閉ざして一年以上外出をしなかった[33]

『商山四皓図屏風』狩野尚信ボストン美術館所蔵

このころ劉邦は、既に皇太子に立てられていた正室呂雉の子の劉盈(後の恵帝)を廃し、代わって側室戚氏の子の劉如意を皇太子にしたいと考え、重臣らの諫言も耳を傾けなかった[34]。危機感を抱いた呂雉は、長兄の呂沢中国語版を留に派遣させて、張良に助言を求めた。張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公中国語版甪里先生中国語版綺里季中国語版夏黄公中国語版を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった[34]。なおこの4人はみな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったので、商山四皓と呼ばれている。

高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろにいることに驚き、何故か尋ねた。彼らは「陛下は士を軽んじ、よく罵倒されました。わたくしたちは、義理にもその恥辱を受けられませんので、恐れて隠れておりました。ところが、ひそかに聞きますと、太子のお人柄は、仁孝恭敬で、士を愛され、天下の人びとは頸を長くして、太子のために死を欲しない者はないとかのご評判であります。それ故に、わたしたちも出て来たのでございます」と答えた。劉邦は「羽や翼がもう出来あがったからには動かし変えることはできない」と戚夫人に告げ、廃嫡を諦めた[34][35]

呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられるのですか?」といさめて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ[36]

末裔[編集]

死後、留侯の地位を継いだ張不疑は文帝5年(紀元前175年)に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された[37]。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張不疑の玄孫である張千秋中国語版が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った[38]。また『後漢書』「文苑伝」によると張良の後裔に文人張超が出た[39]。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守張綱、その曾孫で車騎将軍張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張王種陳列伝[40]・『三国志』張翼伝[41])。

また、張良の末裔を称する明の北京使官の張由の子の張忠が政争を逃れ朝鮮に亡命しようとして平戸に漂着し、大内氏に医師として仕えた[42]。その子の張元至毛利輝元に仕えて側近となり、その家老にまで出世した。戦国時代以降で、帰化人が大名権力の中枢を担った例は全国的にも稀である。しかし、毛利家内部の権力闘争の結果、元至は輝元からその嫡子の毛利秀就の乳母との密通の疑いをかけられ、切腹させられた。後に張家は復興され、張元貞張元令らが毛利家に仕えた。

人物・評価[編集]

円山応挙筆 『張良図』[43]

劉邦は「夫れ籌策(ちゅうさく。はかりごと)を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず」と張良を評し、韓信、蕭何と併せ「此三者は皆人傑なり」と称えた[44]。このため司馬遷は、張良の風貌について「其の人計ず(かならず)魁梧奇偉なり(背が高く逞しく立派なのであろう)」と想像していたが、ある時その姿絵を見たところ「状貌、婦人好女の如し(その姿はまるで美しい女性のようであった)」という[45][46]

その智謀は後世でも讃えられ、南宋末期の儒学者黄震は「漢室を天下既得の後に維持する所以にして、凡そ良が一謀一画、漢の得失安危に繋らざるはなし。良は又、三傑の冠たり」としている[47]三国時代曹操は「王佐の才」といわれた荀彧を迎え入れたとき「我が子房が来た」と喜んだ[48]

張良は日本でも古くから優れた軍師として知られ、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛などは2代将軍徳川秀忠をして「今世の張良なるべし」と評された[49]。黄石公の落とした沓を拾い兵法書を授かる張良の説話(子房取履譚)などは御伽草子幸若舞曲の題材となった[50]。 江戸時代を通じて張良の名前は庶民にも知られるようになり、円山応挙や浮世絵師歌川国芳月岡芳年などによって肖像画も多く描かれるようになった。

張良を題材とした作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 三家注・留侯世家 《索隠》3「《漢書》云字子房」
  2. ^ a b c 『史記』「留侯世家」1
  3. ^ 矢野『張氏研究稿』, p.2
  4. ^ 司馬遷. “秦始皇本紀” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/shiji/qin-shi-huang-ben-ji/zh#n4739 
  5. ^ a b c 『史記』「留侯世家」2
  6. ^ 林巳奈夫戦国時代の重量単位」『史林』第51巻第2号、史学研究会、1968年3月1日、 269-291頁。
  7. ^ 『史記』「留侯世家」4
  8. ^ a b c d 吉田『新釈漢文大系87』, p.1041
  9. ^ a b 『史記』「留侯世家」3
  10. ^ a b c 吉田『新釈漢文大系87』, p.1042
  11. ^ a b 『史記』「留侯世家」5
  12. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, p.1044
  13. ^ 『史記』「留侯世家」6
  14. ^ a b c d 『史記』「留侯世家」7
  15. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, p.1045
  16. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, pp.1045-1046
  17. ^ 孔子家語』『説苑』では良薬(『史記考証』)
  18. ^ 『史記』「留侯世家」8
  19. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, p.1048
  20. ^ 『史記』「留侯世家」9
  21. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, pp.1048-1049
  22. ^ 『史記』「留侯世家」10
  23. ^ 『史記』「留侯世家」11
  24. ^ a b c 『史記』「留侯世家」12
  25. ^ 『史記』「留侯世家」14
  26. ^ 『史記』「留侯世家」15
  27. ^ 『史記』「留侯世家」18
  28. ^ 「砂中偶語/沙中偶語」の語源
  29. ^ 「雍歯封侯」の語源
  30. ^ 『史記』「留侯世家」19
  31. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, p.1061
  32. ^ 『史記』「留侯世家」20
  33. ^ 『史記』「留侯世家」21
  34. ^ a b c 『史記』「留侯世家」22
  35. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, pp.1071-1072
  36. ^ 『史記』「留侯世家」27
  37. ^ 『史記』「留侯世家」29
  38. ^ 邉見統「高祖系列侯と「復家」措置」『学習院大学文学部研究年報』第64巻、2018年3月、 27-58頁。
  39. ^ “文苑列伝” (漢文). 後漢書. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/hou-han-shu/wen-yuan-lie-zhuan-xia/zh#n77271 
  40. ^ 「張皓字叔明,犍為武陽人也。六世祖良,高帝時為太子少傅,封留侯。」“張王种陳列傳” (漢文). 後漢書. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/hou-han-shu/zhang-wang-zhong-chen-lie-zhuan/zh#n75951 
  41. ^ 「張翼字伯恭,犍為武陽人也。高祖父司空浩,曾祖父廣陵太守綱,皆有名迹。」“張翼傳” (漢文). 三國志 蜀書十五. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/text.pl?node=603836&if=gb 
  42. ^ 大内氏と医者”. いやす なおす たもつ -文書館資料にみる病気・医療・健康-. 山口県文書館 . 2022年1月20日閲覧。
  43. ^ 円山応挙. “『張良図』”. 東京藝術大学大学美術館. 2022年1月26日閲覧。
  44. ^ 『史記』「高祖本紀」57
  45. ^ 『史記』「留侯世家」30
  46. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, pp.1071-1072
  47. ^ 吉田『新釈漢文大系87』, p.1072
  48. ^ “荀彧傳 3” (漢文). 三國志 魏書十. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/text.pl?node=602398&if=gb#n602401 
  49. ^ 岡谷繁実 『名将言行録 4』岩波書店、1943年、49頁。ISBN 978-4003317341https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043027 
  50. ^ 柳沢 (2008), p.71

参考文献[編集]