張良

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張良像(晩笑堂竹荘画伝)
円山應擧筆 『張子房圖』
張良と黄石公頤和園
『鶏鳴山の月』(月岡芳年『月百姿』)項羽の陣に向け楚の曲を笙で奏でる張良(四面楚歌

張 良(ちょう りょう、? - 紀元前186年)は、末期から前漢初期の政治家・軍師子房は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

生涯[編集]

始皇帝暗殺未遂[編集]

祖父・張開地は昭侯宣恵王襄王の宰相を務め、父・張平は釐王桓恵王の宰相を務めていた。『史記索隠』では、その祖先は韓の公族であり、王室と同じ姫姓であったが、秦による賊探索から逃れるために張氏に改名したことになっている。

父の張平が死んでから20年が経った後、秦が韓を滅ぼした。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった。韓が滅びたのは紀元前230年で、普通20歳にもなれば成人であり、父が死ぬ間際に生まれた訳でなければ張良も官位に就いているはずである。しかし滅亡寸前の国なので、20歳を過ぎてなお官に就けなかったということもあり得るため、韓が滅亡した時点で20代前半とも考えられる。また、項伯よりも年下との記述がある(「項羽本紀」)。

祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした。弟が死んでも、費用を惜しんで葬式を出さなかったという。

張良は同志を求めて東へ旅をし、倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を借り受け、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちは逃亡した。

始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州の東の邳州市、邳は丕におおざと)に隠れた。

下邳時代の逸話[編集]

ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い」と言った。

5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また5日後に来い」と言い残して去った。5日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「5日後に来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる。13年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという。

後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという。

この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる。また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、現存する『六韜』の成立年代は代と考えられているので、少なくとも張良が読んだ書物は、現存する『六韜』ではないと見られる。

また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている。

劉邦の下で[編集]

陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に王に擁立された楚の旧王族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。

張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。

劉邦はその後、景駒を敗走させた項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良はの公子であった横陽君の韓成を韓王に立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒(『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。

その後、韓王成に従い、千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に勝る秦によって奪い返された。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た。そこに劉邦が兵を引き連れてやって来たので、これに合流し、旧韓の城を十数城攻め取り、韓を再興した。

その後、張良は主君の韓王成を城の一つに留めると、自らは劉邦に従って秦へ攻め上り、秦の東南の関である武関に至った。劉邦はすぐに攻めかかろうとしたが、張良は守将が商人出身であることに目をつけ、買収して関を開かせ、相手が油断したところで襲撃して守将を殺し、最小の被害で関中に入った。

鴻門の会[編集]

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。帝都のきらびやかさに驚いた劉邦はここで楽しみたいと思い、樊噲にここを出て郊外に宿営しようと諫められても聞こうとしなかった。そこで張良は「秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょう」と劉邦を諫め、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、毒薬[1]は口に苦けれども病に利あり、と申します」と再び諌言した。劉邦はその諌言を素直に受け容れて、咸陽を出た。

その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていたが、既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて関中の王のようにしているのを見て激怒し、函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした。

その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。だが張良は「私は韓王のために沛公をここまで送って来たのです。今、こういう状況だからといって逃げるのは不義です」と言って断り、項伯を劉邦に会わせた。劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をし、項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ。項伯の釈明により項羽の怒りはやや収まり、項羽と劉邦は会談を行うことになった。これが鴻門の会である。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、張良や樊噲の働きによって危機を逃れている。

楚漢戦争[編集]

その後、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。

劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、すでに東進した劉邦と再会し、劉邦は張良の進言で亡き韓王成の遺体を丁重に埋葬して、韓王成のを探し出して、これを成信侯に封じた。張良はそれまでは劉邦にとって客将であったが、以後は正式に参謀として劉邦に仕えることになった。

劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、滎陽(河南省滎陽)で項羽軍に包囲された。

包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。張良は

  • 「昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、大王に項羽を制する力がありますか?これが一つ目の理由です」
  • 「武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。大王にこのようなことができますか?これが二つ目の理由です」
  • 「武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか?これが三つ目の理由です」
  • 「武王は殷を平定すると武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。今、大王にこれができますか?これが四つ目の理由です」
  • 「武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。今、大王にこれができますか?これが五つ目の理由です」
  • 「武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、大王にそれができますか?これが六つ目の理由です」
  • 「かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させればみんな故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下をお取りになるおつもりですか?これが七つ目の理由です」
  • 「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか?これが八つ目の理由です」

と答えた。劉邦は食べていた食事を吐き出し「豎儒(儒者を馬鹿にする言葉。酈食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた。

紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし韓信と彭越はやって来ず、劉邦は項羽軍に敗れた。張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と言うも、張良は「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍しましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と返した。なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる?彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のお陰ですか?大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。

天下統一後[編集]

遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった。

高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところがあちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何曹参など陛下の親しい人ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。だが功績があるから我慢している」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言し、高祖がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、皆は「あの憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分にも恩賞が下るに違いない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。

洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、張良も洛陽の短所(周囲が開けているため、攻められやすく守り難い)と長安の利点(天険に囲まれ防衛が容易)を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。

神仙術[編集]

張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って特殊な呼吸法で体を軽くし、神仙になろうとした。

しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始める。劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて、長兄の呂沢を留に派遣させて、張良に助言を求めてきた。張良の助言を聞いた呂沢は妹に報告した結果、高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった。

高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。彼らは「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです」と言った。高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。

呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしいることを聞いて「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられるのですか?」と述べて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに食事を摂った。

高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ。

末裔[編集]

死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張良の玄孫の子である張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。また『後漢書』「文苑伝」によると張良の後裔に文人張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司徒張皓(張浩)、その子で広陵太守張綱、その曾孫で車騎将軍張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張皓伝・『三国志』張翼伝)。

評価[編集]

張良の容姿は司馬遷曰く「婦人好女の如し」だと言う。その頭脳から出る策は軍事に留まらず、劉邦の事績のほぼ全ての領域にわたっており、「張良がいなかったら劉邦は天下を取れなかった」というのは衆目の一致するところといえる。韓信蕭何においても同じことが言え、これら英傑を使いこなしたことが、自身の言う通り劉邦の偉大さと言える。家臣の偉大さが主君の偉大さを照らし、主君の偉大さが家臣の偉大さを照らすこの関係を、後世の人々は君臣関係の理想としてたびたび引き合いに出した。

また最高の知略の臣、王佐の才という代名詞としても度々使われており、特に三国時代曹操荀彧を「我が子房が来た」と喜んで迎えたのが有名である。

張良の優れた軍師ぶりは日本にも伝わっており、江戸時代に描かれた張良の肖像画が何枚も残っている。

脚注[編集]

  1. ^ 孔子家語』『説苑』では良薬(『史記考証』)

張良を題材とした作品[編集]