文治政治

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文治政治(ぶんちせいじ)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍徳川家継までの時期の政治をさす。

文治政治の背景[編集]

初代将軍徳川家康から3代将軍徳川家光までの治世は武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固める為の時期であった。

幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名親藩譜代大名外様大名の区別なく容赦なく改易減封の処置を行った為、失業した浪人が発生し、治安が悪化し戦乱を待望した。

また、征夷大将軍としての武威を強調するために行われた、大名による参勤交代手伝普請などは、大名にとって多額の出費になり、そのしわ寄せは百姓の生活苦につながった。そして、1640年から1643年頃におきた、寛永の大飢饉の被害が全国規模に及んだことは、武威に依拠した当時の限界を露呈することになった。

家光が病没すると、後継である4代将軍徳川家綱が幼弱であった為、慶安4年(1651年)に由井正雪丸橋忠弥等と共謀し、家綱を奪取し、幕政批判と浪人救済を掲げる反乱を企てた(慶安の変)。また、別木庄左衛門による老中襲撃計画(承応の変)もあり、幕閣は武断政治からの方針転換を迫られることとなった。

沿革[編集]

徳川家綱の時代[編集]

幼弱の家綱に代わり、大政参与として幕政を補佐したのが彼の叔父に当たる会津藩保科正之や老中酒井忠清等であった。彼は、浪人発生の原因である大名の改易を減らす為に末期養子の禁を緩和した。寛文3年(1663年)に武家諸法度を改正(寛文令)し、殉死を禁止し、大名からの人質を出す大名証人制度を廃止した(これを寛文の二大美事という)。これにより、戦国時代からの遺風を消し、将軍と大名、藩主と家臣の主従関係は個人同士の関係から、主人の家に従者は仕える関係に転換することとなった。また、寛文4年(1664年)には寛文印知を実施し、将軍の地位を確立した。

この頃になると、農村では農地の分割相続により本百姓の零落が始まった頃であった。江戸幕府や各藩の財源は米に依存する為、本百姓を維持する為に延宝元年(1673年)に分地制限令を発布した。また、この時期は江戸が都市として拡大していく中で上水道の整備が課題となった為、玉川上水が整備された。また、諸藩も安定した平和による軍役の負担の軽減により藩政も安定し、寛永の大飢饉を背景に新田開発が進展し、結果として領内の経済も発展してきた。この時期に善政を行い、名君と呼ばれた藩主に前述の保科正之の他に岡山藩池田光政水戸藩徳川光圀加賀藩前田綱紀が挙げられる。

しかし、明暦の大火による江戸の消失と再建、佐渡相川金山からの金採掘の減少、諸物価に対する米価の下落は幕府財政を逼迫することとなった。保科正之が寛文9年(1669年)に隠居した後は大老に昇格した酒井忠清が稲葉正則久世広之土屋数直板倉重矩ら老中達と共に家綱の上意を受けて集団指導体制を執り行うことになり、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令、諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運西廻海運を開拓させるなど全国の流通政策・経済政策の発展を促した。

徳川綱吉の時代[編集]

延宝8年(1680年)、家綱は子供の無いまま亡くなり、家綱の弟である館林藩徳川綱吉が後を継いだ。綱吉が5代将軍に就任したすぐの時期に大老堀田正俊若年寄稲葉正休に殿中で刺殺されたこともあり、側用人柳沢吉保が実権を掌握した。

綱吉は館林藩主の頃より儒学を好んで学んでおり、それが政策に反映された。綱吉は天和3年(1683年)、天和の武家諸法度を発布した。これには「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と記載されており、従来の元和の武家諸法度に記載されていた「弓馬の道」から大きく内容を変え、主君に対する忠と父祖に対する孝を基盤とした礼儀による秩序を構築するものであった(また、家綱の頃に採用された末期養子の禁の緩和が明記された)。礼儀による秩序を構築・強化する為に以下のような施策を行った。将軍権威の浮揚の為に朝廷政策も緩和され禁裏御領を1万石加増し、湯島聖堂を建立し、林鳳岡大学頭に任命した。

また、綱吉には後継者がいなかったため、貞享4年(1687年)に動物愛護令である生類憐れみの令を発布した。これにより、江戸幕府の財政難に拍車がかかったことは否めないが、一方で同時期に出された服忌令捨子禁止令からも見られるように、道徳観を民衆に扶植することで、文治政治を強化する狙いがあったともいえよう。

綱吉並びにその母である桂昌院の散財、生類憐れみの令の採用等と相俟って先代家綱の頃からの慢性的な財政赤字は先述のように悪化していった為、勘定吟味役(後に勘定奉行)に荻原重秀を登用し、元禄改鋳を行い、幕府は貨幣発行益を得たものの、インフレーションを招き庶民の生活を苦しめることとなった。一方で上方を中心に元禄文化が栄えることとなった。また、長崎会所を設置し長崎貿易の制限を行った。

徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治[編集]

宝永6年(1709年)、綱吉は62歳で亡くなった。嫡男の徳松に先立たれていた為、甥の甲府藩徳川家宣が6代将軍に、次いで7代将軍に幼児の徳川家継が就任する。この時期は将軍が病弱・幼年ということもあり、家宣の側近である間部詮房朱子学者の新井白石が政治を主宰した。この政権の課題は、将軍が短命・幼弱ということもあり、「如何にして将軍個人の人格よりも将軍職の地位とその権威を高めるか」であり、綱吉の頃と同様、朱子学の影響を受けた政策と言える。

新井白石は家宣が将軍就任後すぐに生類憐れみの令を廃止し、柳沢吉保を罷免した。そして政権の課題を解決する為に行ったことは第一に天皇家の権威を借りることとした(閑院宮家の創設、霊元天皇の息女、八十宮吉子内親王と家継の婚約)。第二に宝永の武家諸法度を発布し、衣服の制度を制定し、徳川家家紋である葵の紋所の使用を制限した。第三に朝鮮通信使の待遇を簡素化し、朝鮮から日本宛の国書を「日本国大君殿下」から「国王」へと修正させた。

白石の経済政策は綱吉の時代の施策と逆の施策を採用した。第一がデフレーション施策である正徳改鋳である。これにより貨幣発行量が減少し、景気を冷え込ませた。第二に、長崎貿易は大幅な輸入超過であることを鑑み(つまり、金銀が海外に流出することを意味した。金銀の海外流出は貨幣の裏づけが金銀である以上、国内の貨幣流通量を減少させることとなり、景気を冷え込ませることを意味した)、正徳5年(1715年)に海舶互市新例(長崎新令)を発布し、長崎貿易を制限した。

家綱の頃に端を発した、江戸幕府の財政難は文治政治の時代に悪化の一途を辿った。江戸幕府の財源は米に依拠しているにもかかわらず、米価がその他の物価に対し相対的に下落していく傾向を放置した状態であり、4代将軍から7代将軍の頃には解決できず、8代将軍徳川吉宗享保の改革を待つこととなる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]