ジョバンナ・アマティ

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ジョバンナ・アマティ
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ローマ
生年月日 (1962-07-20) 1962年7月20日(55歳)
F1での経歴
活動時期 1992
所属チーム '92 ブラバム
出走回数 0
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1992年南アフリカGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1992年ブラジルGP
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ジョバンナ・アマティGiovanna Amati, 1962年7月20日 - )は、イタリア人の元レーシングドライバー。

人物[編集]

イタリアで工業実業家の娘として生まれる。母国でレースを始め、イタリアFFA・イタリアF3国際F3000などに転戦したが、特に目立った成績を残していたわけではなく、F3や国際F3000においても最高位は7位と入賞経験は無かったが、1992年ブラバムからF1に参戦しF1世界選手権にエントリーした史上5人目の女性ドライバーになった。

この年のブラバムは当初中谷明彦とドライバー契約を結んでいたが、国際自動車連盟(FIA)が中谷へのスーパーライセンス発給を認めなかったため、ブラバムは1991年の国際F3000にフル参戦していたアマティと契約した。当時のFIAのスーパーライセンス発給基準は「実質的に国際F3000に1シーズン出場しているか、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、南アフリカのF3の現チャンピオンか、前年のF1世界選手権に5回以上スタートしている」となっており[1]、中谷は既に前年全日本F3000で1勝を挙げていたが、FIAはスーパーライセンス発給基準を満たしていないと判断した。

F1では1978年ディビナ・ガリカ以来14年ぶりとなる女性ドライバーの参戦とあってその走りに注目が集まったが、開幕からの3戦ですべて予選落ちを喫し、また約束した資金が予定日までにチームへ入金されなかったこともあり解雇された。空いたアマティのシートには、デイモン・ヒルが座った。

エピソード[編集]

  • かつて資産家の令嬢として身代金目的で誘拐される事件が起きたが、誘拐中に犯人と恋仲となり救出を拒否している(いわゆるストックホルム症候群)。
  • F1シート喪失後には、当時フェラーリのアドバイザーを務めていたニキ・ラウダとの交際が報じられたこともあった。
  • 1994年のF1シーズン開幕前、元フェラーリ監督のチェーザレ・フィオリオが女性ドライバー2名によるチーム発足構想があると表明しそのドライバーとして名前が挙がっていたがその後進展がなく実現しなかった。その後、資金難に苦しんでいたパシフィック・レーシングに資金を持ち込みF1に復帰する可能性が報じられたが[2]チームがF1から撤退してしまったためこれも実現はしなかった。

技量[編集]

アマティは、開幕戦から技能を疑問視される面が多く見られた。参戦した3レースでは、予選でチームメイトのエリック・ヴァン・デ・ポールから3秒から5秒程度遅いタイムを記録し、予選通過タイムからは大きく遅れていた。

日本での評価は、「女性でもF1でやれるところを見せて欲しい」というエールも若干あったものの、当時実況担当の1人だった古舘伊知郎からは「F1小町」「動くシケイン」と称された。

脚注[編集]

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  1. ^ 『オートスポーツ 1992年3月15日号』 三栄書房、1992年、p.43。
  2. ^ アマーティが戻ってくる? パシフィック入りのうわさ F1速報 1994年テスト情報号 20頁 ニューズ出版 1994年2月12日発行

外部リンク[編集]