ルパート・マンウォリング

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Rupert Manwaring

ルパート・マンウォリング
生誕 1956年(67 - 68歳)
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 F1チームマネージャー(ロータスティレルミナルディ
著名な実績 F1
公式サイト RuSport Ltd
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ルパート・マンウォリング(Rupert Manwaring、1956年 - )は、イギリスのレーシングチームマネージャー。チーム・ロータスなど多くのF1チームでマネージャーを務めた[1]

同じ名前の息子はF1ドライバーのパフォーマンス・マネージャーをしている[2][3]

経歴[編集]

ロンドン南部の郊外で育ったマンウォリングは、子供の頃からレーシングのファンであった[1]ブライトンサセックス大学で機械工学を学び、大学の休暇中にはエデンブリッジ英語版のF1チーム、サーティースで働いた[1]

サーティース・TS20(1978年)

21歳で大学を卒業後、サーティースのデザインオフィスでドラフトマンの仕事に就くが、しばらくしてレースチームに異動し、1年後の1978年にはアシスタントチームマネージャーとなった[1]。しかし1979年にチームが解散となったため、ブラバムでストア・コーディネーターとして働くこととなった[1]。ブラバムではバーニー・エクレストンハービー・ブラッシュ英語版の下につき、最終的にはアシスタントチームマネージャーとなった[1]

1984年にブラバムを辞めてクラコ (Kraco_Enterprisesインディカーチームで働くが、数ヶ月後にはF1チームのハース・ローラに移り、テイラー・アレキサンダー[注釈 1]の下でアシスタントチームマネージャーとなった[1]。しかしメインスポンサーのベアトリス・フーズ英語版の撤退により1986年にチームは解散となり、マンウォリングはチーム・ロータスに移った[1]

ロータス・99T(1987年)

ロータスではピーター・ウォーのアシスタントチームマネージャーとしてアイルトン・セナネルソン・ピケらと仕事を共にし、1989年にはチームマネージャーに昇格した[1]

ティレル・020(1991年)

1年後にはティレルに移籍しチームマネージャーを4年務め、1995年にはマーケティング部の責任者に任命された[1]。しかし1997年にティレルはブリティッシュ・アメリカン・タバコに買収され、マンウォリングは1998年にティレルを離れることとなった[1]。その後、一時ホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)に加入し、ホンダF1の独自シャシーによるレース参戦プロジェクト、ホンダ・RA099のテストなどに関わるが、ホンダが自社チームでの参戦ではなくB・A・Rへのエンジン供給へと方針を転換したことからHRDを離脱した。

その後、2001年にポール・ストッダートが救済したミナルディのチームマネージャーとなり、2002年の終わりにはローラ・カーズのマネージングディレクターになった[1]

評価[編集]

かつてティレルに所属していたステファノ・モデナはインタビューで、「私のF1でのキャリア全体を振り返ってみても、おそらく彼は最高のチームマネージャーだ」とマンウォリングを評価している[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ マクラーレンの創立メンバーの一人[4]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Rupert Manwaring”. grandprix.com. 2023年2月27日閲覧。
  2. ^ About Us”. Rusport. 2023年2月27日閲覧。
  3. ^ Oleg Karpov (2020年7月4日). “F1仕事の流儀:フィジオ編「ドライバーの“右腕”として、心身共にサポート」”. motorsport.com. 2023年2月27日閲覧。
  4. ^ マクラーレンの「最初の柱」、アレキサンダーさん死去”. F1エクスプレス. 東京新聞 (2016年1月9日). 2023年2月27日閲覧。
  5. ^ 『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』三栄〈サンエイムック〉、2020年11月20日、78頁。ISBN 978-4779642463 

外部リンク[編集]