トム・ウォーキンショー

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トム・ウォーキンショーTom Walkinshaw1946年11月17日[1] - 2010年12月12日)は、スコットランドミッドロージアン生まれのレーシングドライバー、実業家。日本ではドライバーとしてよりもレーシングチームのオーナー・マネージャーとして有名である。

略歴[編集]

ドライバー活動[編集]

1968年にレースを始め、フォーミュラ・フォード1600を経て1970年よりイギリスF3選手権に参戦を開始。その後F2やF5000、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)などに参戦した。  また、日本のメーカーではマツダとのつながりが深く、1979年のデイトナ24時間レース、1981年のスパ・フランコルシャン24時間レース、1981、82年のル・マン24時間レースのいずれもマツダ・RX-7で参戦している。デイトナでは77号車のドライバーとして参戦したが、もう一台のRX-7の7号車はGTU優勝を果たし、その後の7年連続GTU優勝の足掛かりとなった。スパでは70年に惜しくも敗れたファミリアロータリークーペ(R100)の仇を取る形で日本車初の総合優勝を成し遂げた。1981年のル・マン参戦時には生沢徹とコンビを組んでいる。

チーム・マネージャーとしての活動[編集]

1975年に自らのレーシングチームとしてトム・ウォーキンショー・レーシングTom Walkinshaw RacingTWR)を設立し、しばらくドライバー兼チームマネージャーとして活動した。

1979年のル・マン24時間レースで惨敗したマツダの大橋孝至は、充分なノウハウを持っている現地の関係者と組むことを考え、当時イギリス・サルーン・カー・レースやスパ・フランコルシャン24時間レースマツダ・RX-7で参戦していたトム・ウォーキンショーを誘った。当時TWRは100名程の人員を持っていたという。トム・ウォーキンショーは「興味がない」として当初断ったが、大橋孝至は会うたびに共同参戦を提案し続け、結局1981年の初めに承諾した[2]1981年のル・マン24時間レース1982年のル・マン24時間レースにはドライバー兼チームマネージャーとして参戦した。また、1981年のスパ・フランコルシャン24時間レースにてマツダ・RX-7をBMWとの激闘の末、日本車初の総合優勝へと導いた。

1984年にはTWRからジャガー・XJ-Sヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)に参戦しシリーズチャンピオンを獲得、同年のマカオグランプリではギア・レース(ツーリングカーレース)で勝利を挙げた。ちょうどこの頃グループ44がジャガー・XJR-5でル・マン24時間レースに参戦しジャガー社内でル・マン24時間レースへの盛り上がりを見せた。当時の会長だったジョン・イーガンに呼ばれたトム・ウォーキンショーは「私に3年の猶予を下さい。必ずル・マンを制覇してみせます」と答え[3]、TWRはジャガーワークスチームとなってグループCカーのジャガー・XJR-6を開発した。

1980年代後半になるとTWRのチーム・マネージャーとしての活動がメインとなり、XJR-9XJR-12XJR-14といったマシンでWSPCやその後継カテゴリーであるスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦。1988年のル・マン24時間レースをXJR-9で制するなど多くのタイトルを獲得した。

1992年にはF1チームのベネトン・フォーミュラのエンジニアリングディレクターに招かれ、1994年には同チームに所属するミハエル・シューマッハがシリーズチャンピオンを獲得するのに貢献した。しかし同年にはベネトンが国際自動車連盟(FIA)から、当時レギュレーションで禁止されていたトラクションコントロールシステムを導入の他、いくつかのレギュレーション違反の疑いをかけられてしまう[4]。結局この件は証拠不充分で終わったが、ウォーキンショーは同年末にベネトンを離脱した。

ちょうどその頃、当時ベネトンで一緒に仕事をしていたフラビオ・ブリアトーレルノーエンジンの使用権欲しさにリジェを買収したことから、1995年にリジェの株式の50%を購入しブリアトーレとともにリジェの共同オーナーに就任した。ウォーキンショーは当初リジェの完全買収を狙っていたが諸事情によりそれは果たせず、代わりに1996年に完全買収が可能だったアロウズの株式を買収し、アロウズのオーナーとなった。それに伴い、不要となったリジェの株式は同年末にアラン・プロストに売却した。この間、1997年よりブリヂストンがF1へのタイヤ供給を開始するのに先立ち、タイヤテスト等を実施した際の開発協力もリジェ・アロウズ双方の立場で行なっている[5]

一方でスポーツカーレースでのTWRの活動も継続しており、1992年のル・マン24時間レースにはマツダ・MX-R01で、1995年のル・マン24時間レースにはポルシェ・WSC95で参戦。1997年のル・マン24時間レース1998年のル・マン24時間レースには日産自動車ニスモ)と組んで日産・R390でル・マンに参戦した。またオーストラリアのレースカテゴリーであるV8スーパーカーに参戦するホールデンチームの運営にも関わっていたほか、ツーリングカー分野でも1994年よりボルボと組んでBTCCに参戦、1998年には同チームから参戦したリカルド・リデルがBTCCのシリーズチャンピオンを獲得している。

しかし成績低迷の続くアロウズはスポンサー獲得に苦しむようになり、2002年には経営難に陥ってF1から撤退し、TWR自体も倒産してしまった。このため一時ウォーキンショーはモータースポーツ界から離れることになるが、2006年にはV8スーパーカーのホールデンチームの運営に復帰したほか、同年にはオーストラリアのスポーツカーメーカーである「エルフィン」(Elfin Sports Cars )を買収し、引き続きモータースポーツ界で活動を続けていた。

2010年12月12日、肺癌のため死去[6]。64歳没。

評価[編集]

日本においては、1995年にリジェと契約した鈴木亜久里の扱いを巡るトラブルなどが知られている。また1997年のシーズンオフに、当時アロウズにエンジンを供給していたヤマハ発動機に対し、ウォーキンショーが傘下に収めていたハートエンジンへの出資を迫ったこと[注釈 1]もあった[7]。これらの要因もあり、日本国内のメディアで良いイメージで語られることは少ない。

ただ、ブリヂストン1997年にF1参戦するため、タイヤテストでF1マシンが必要だった際にリジェ・JS41を提供したり、「現役のF1マシンでテストがしたい」というブリヂストンの要望に、当時アロウズグッドイヤーを履いて参戦中だったにも関わらず、グッドイヤーと交渉しアロウズのマシンを用意してブリヂストンに現役F1マシンでタイヤテストをする機会を与えるなど、ブリヂストンのタイヤ技術開発に大きく貢献した。また、その際に開発ドライバーとしても定評があるデイモン・ヒルをテストドライバーに招いたのもウォーキンショーである。ブリヂストンの安川ひろしは「ウォーキンショーがいなければブリヂストンは今こうしてF1を戦っていなかったかもしれない。」と後に語っている。また1991年のル・マン24時間レースで優勝しル・マン優勝者は翌年にも参戦する決まりであったため1992年SWC規定のマシンが必要だったマツダにジャガー・XJR-14を供給したり、日産とともにル・マンに参戦し日産・R3901998年日産にとっての最高成績である3位表彰台獲得に貢献するなどモータースポーツに置ける日本メーカーの活躍に多大な影響を与えた。 WSPC・SWCにおける「常勝ジャガー」の礎を築いたほか、当時はまだ若手エンジニアの一人に過ぎなかったロス・ブラウンを発掘したこと、またBTCCにおけるボルボの活躍などもあり、強いチームを作れるマネージャーとして高い評価をする関係者は多い。

家族[編集]

息子のショーン・ウォーキンショーもレーシングドライバーの道に進み、2017年からはSUPER GT・GT300クラスにARTA BMW M6 GT3で参戦している[8]。またかつてのTWRの一部を継承した「ショーン・ウォーキンショー・レーシング」のチームオーナーでもある[8]

注釈[編集]

  1. ^ ヤマハのエンジンはいらないが金は欲しい、ということ。結局ヤマハはこれを拒否しF1から撤退した

出典[編集]

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  1. ^ Tom Walkinshaw loses fight to cancer motorsport.com 2010-12-12
  2. ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』p.25。
  3. ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』p.84。
  4. ^ http://espn.go.com/auto/news/2001/0204/1062927.html
  5. ^ https://ms.bridgestone.co.jp/hp/bsms_contents?coid=915
  6. ^ Gloucester mourn owner Tom Walkinshaw BBC News 2010-12-12
  7. ^ GRAND PRIX SPECIAL』2008年1月号 pp.85 - 87。
  8. ^ a b 【新人外国人さん、いらっしゃ〜い!】第3回:ショーン・ウォーキンショー(スーパーGT300) - オートスポーツ・2017年5月17日

参考文献[編集]