ミケーレ・アルボレート

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ミケーレ・アルボレート
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ミラノ
生年月日 (1956-12-23) 1956年12月23日
没年月日 (2001-04-25) 2001年4月25日(44歳没)
F1での経歴
活動時期 1981-1994
所属チーム '81-'83,'89 ティレル
'84-'88 フェラーリ
'89,'93 ローラ
'90-'92 フットワーク (アロウズ)
'94 ミナルディ
出走回数 215 (194スタート)
タイトル 0
優勝回数 5
表彰台(3位以内)回数 23
通算獲得ポイント 186.5
ポールポジション 2
ファステストラップ 5
初戦 1981年サンマリノGP
初勝利 1982年ラスベガスGP
最終勝利 1985年ドイツGP
最終戦 1994年オーストラリアGP
テンプレートを表示

ミケーレ・アルボレートMichele Alboreto, 1956年12月23日 - 2001年4月25日)は、イタリアミラノ出身のレーシングドライバーF1ル・マン24時間レースなどで活躍した。

経歴[編集]

F1デビュー前[編集]

1978年にイタリアF3に参戦を開始。1980年ヨーロッパF3でチャンピオンを獲得。

ティレル時代[編集]

1981年

ティレルよりF1デビュー。この年はノーポイントに終わった。

1982年

第2戦ブラジルGPで4位に入り、初入賞。続くアメリカ西GPでも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦ラスベガスGPでF1初優勝を飾った。

1983年

第7戦デトロイトGPで優勝し2勝目。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジン(スペックは進化バージョンのDFYエンジン)の最後のF1勝利(通算155勝目)であるとともにティレル最後のF1勝利(通算23勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回という不本意とも言える結果だったが、ターボ化の波に乗り遅れ、資金面でも貧弱なティレルでの活躍は高く評価された。そしてエンツォ・フェラーリに才能を認められ、フェラーリへの移籍が決定。1973年アルトゥーロ・メルツァリオ以来となる久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。

フェラーリ時代[編集]

フェラーリ時代のアルボレート
(1985年ドイツGP
1984年

チームのエースドライバーとして加入したアルボレートは、第3戦のベルギーGPで初のポールポジションを獲得、決勝でも独走での優勝を飾る。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録し、選手権4位となった。この活躍により、往年の名ドライバーアルベルト・アスカリの再来と呼ばれ、ティフォシ達の人気者になった。

1985年

マクラーレンアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGPでシーズン2勝目を挙げ、ランキングトップに立つが、第11戦オランダGPにてプロストに逆転を許した。その後アルボレートは、それまで2度のリタイアを除いて全てのレースで表彰台と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイントに終わった(リタイア4回)。結局この終盤での失速が響き、ランキングは2位に留まった。このドライバーズチャンピオンシップ2位は結果としてキャリアピークの成績となった。

1986年

チームが低迷期に入り、フェラーリ・F186も戦闘力を欠いていた同年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソン(ランキング5位)を下回る8位に終わった。

1987年

完走できれば入賞・表彰台を獲得でき、高い性能を有していたがシーズン中盤までは熟成不足だったフェラーリ・F187のトラブルによるリタイアも多く、8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。マシンの熟成が進んだ終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガーが台頭、2年連続でランキングでチームメイトに敗れる(ベルガー5位、アルボレート7位)などエースドライバーの座から追いやられる格好となる。

1988年

マクラーレンホンダMP4/4の圧倒的な強さにフェラーリは歯が立たず。8月には総帥エンツォ・フェラーリが91歳で死去。その直後の開催となった第11戦ベルギーGPではアルボレートはレース序盤からマクラーレンのプロストとセナに食いつき3位を走行し続け、レース終盤35周目までその位置をキープする亡きエンツォに捧げる力走を見せたが、ターボエンジンが白煙を吹きコース脇にストップ。マシンを降りたアルボレートが悔しさから手に巻いていたテーピングを剥がし投げつける様子がTVカメラで映し出されており、サーキット内のプレスルームでは「あの紳士的なアルボレートがこんなに悔しそうにするとは」と驚きの声が上がったという[1]第12戦イタリアGPでは優勝したベルガーに次ぐ2位でフィニッシュし、フェラーリのモンツァでの1-2フィニッシュに貢献。ファステストラップも記録している[2]
フェラーリチームのエースはベルガーとなり、アルボレートはデザイナーのジョン・バーナードとの対立が深刻化(フェラーリ・639のシャシーコンセプトとセミオートマチックトランスミッションをめぐってバーナードと大喧嘩した、と自身で語っている[3])。チームは新たにナイジェル・マンセルと契約。アルボレートはこの年限りでフェラーリを離れた。

ティレルへの復帰 ラルースへのスポット参戦[編集]

1989年

古巣のティレルに6年ぶりに復帰する。しかし契約金等はなく、マールボロからの支援と獲得賞金の何パーセントかが手に入るだけだった。この年ティレルはハーベイ・ポスルスウェイトの手による非力ながらも洗練されたマシン、ティレル・018を使用。サンマリノGPは予選落ちとなったが、モナコGPで5位入賞、第4戦メキシコGPでは3位表彰台を射止めた。
このころ、足の故障が悪化したジョニー・ハーバートの解雇を考えていたベネトンから移籍の誘いを受ける。しかしベネトン側が資金の持ち込みを要求したことから交渉が難航。そのうちにベネトンとの交渉の話が外部に洩れたことから、ケン・ティレルは代わりのドライバーとして新人ジャン・アレジを確保、ベネトンもエマニュエーレ・ピロと契約したことからシートを失ってしまう[4]

その後2戦欠場を経て、スランプに陥っていたヤニック・ダルマスの後任を探していたラルースのチーム代表・ジェラール・ラルースから声が掛かり、第9戦西ドイツGPからラルース・ローラ・LC89の29号車のシートを得た。ラルースはマールボロのライバルであるキャメルからの支援を受けていたことから、長年支援を受けてきたマールボロとの契約を打ち切ってのラルース加入であった。完走は第13戦ポルトガルGPの1回に留まった(11位)。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことができなかった。特にスペイングランプリとオーストラリアグランプリは、予備予選すら通過出来ずに終わっている。

フットワーク時代[編集]

1990年

前年の不安定な状況を繰り返したくないと、前年に度々入賞し安定感のある中堅チームであったアロウズに1stドライバーとして契約[5]。日本の運輸会社「フットワーク」がメインスポンサーとなりチームの財政基盤の安定が期待されたが、トップチームと比して非力な存在となっていたDFR・V8エンジンと、前年度シャシーの熟成版であったアロウズ・A11Bは戦闘力が低く、チームメイトのアレックス・カフィ共々3度の予選落ちも喫した。全16戦中8戦で完走を果たしたが、カフィがなんとかモナコGPでポイントを獲得したのに対し、アルボレートの最高位は9位で入賞には遠いシーズンとなった。

1991年

鳴り物入りでのF1復帰となるポルシェのワークスV12エンジンを獲得し、斬新なフロントノーズを持つニューマシン「FA12」に多大な期待が掛けられたが、このV12エンジンは重量が非常に重いだけでなく、パワーや信頼性にも欠けており、開幕戦から競争力に欠け予選を通過できない苦戦を続けた。序盤の6レース限りでポルシェエンジンを諦め、第7戦からは前年使用していたフォードDFRエンジンを引っ張り出し搭載する事態となった。「ポルシェV12用に設計したのにV8エンジンを載せてるから重量配分がめちゃくちゃ」とマシンを語る状況[6]でアルボレートは終盤に2度完走したに留まり、最高位は豪雨のため中断終了となった最終戦オーストラリアGPで記録した13位と散々なシーズンに終わった。この年の後半から予備予選の出走義務が課され、1989年のラルース時代以来2年ぶりの屈辱を味わった。なお翌年前半も予備予選に出走しているが、後述の通りポイントを獲得したため後半から免除されている。なおこの年はベルギーグランプリとイタリアグランプリで2度予備予選落ち(ラルース時代に2度予備予選落ちの経験があるため、通算4度)を喫した。予備予選落ちを経験した優勝経験のあるドライバーも、アルボレートだけである。

1992年

チームは新たに無限ホンダV10エンジンを獲得し、新シャシー「FA13」での参戦。フットワーク社がF3000時代から支援する鈴木亜久里がチームメイトとなった。実質上亜久里がファーストドライバー待遇であったため、昨年後半に続き、予備予選の出走義務を課された(アンドレア・モーダの欠場により1、2、8戦目は中止)が、前年より明らかに速いマシン及びアルボレート本人が好調で予備予選は全戦通過。亜久里がリタイアや予選落ちをする中、アルボレートは第3戦ブラジルGPで6位入賞し自身1989年以来となる久々のポイントを獲得すると、第4戦スペイン・第5戦サンマリノと連続で5位に食い込み3戦連続入賞など状況が整えば速さが発揮できることを示した。全16戦中14戦を完走し、前年の最終戦からこの年のベルギーGPをエンジントラブルによりリタイアするまでの12レース連続完走も達成。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃す(当時は入賞ポイント獲得は6位まで)レースも多かったが、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなり[7]その実力が再評価される[8]。しかし第15戦日本GP直前に、チームオーナー大橋渡の後押しがあった亜久里を来季も残留させ、同年のSWCプジョー・905をワールドチャンピオンに導いたデレック・ワーウィックと新たに契約したことを発表。好成績を残したアルボレートを同シーズン終了をもって放出した。

ローラ、ミナルディ時代、引退[編集]

1993年

前年の活躍がありスクーデリア・イタリアのシートを確保した。しかしこの年に使用したローラ製シャシー「T93/30」はホイールベースが3030mmと長大すぎる欠点があり[9]、予選通過にも苦しむ出来であった。搭載するフェラーリV12エンジンとのマッチングも最悪であった。本家フェラーリも大不振のシーズンであり「カスタマーエンジン」はそれに輪を掛けたようにパワーが無く[9]、5回の予選落ちを喫し決勝での入賞は一度もなかった。この年終盤には同じく資金難にあえぎF1参戦危機となったミナルディとのチーム合併へ向けた作業が本格化し、第14戦ポルトガルGPでヨーロッパラウンドが終了すると、スクーデリア・イタリアは終盤2戦(日本オーストラリア)の渡航費用を捻出できずF1から撤退したため、アルボレートも欠場となった。

同年シーズン終了後の11月、リカルド・パトレーゼと契約終了し翌年に向けてエースとなったミハエル・シューマッハのチームメイトを探していたトップ4チームの一角であるベネトンからテストドライブのオファーを受けた[10]12月13日からカタルニア・サーキットベネトン・B193を4日にわたって走らせ、延べ222ラップを担当。ベネトンのオーナーであるイタリア出身のルチアーノ・ベネトン英語版は、イタリア人ドライバーであるアルボレートの獲得を希望し[11]、シューマッハも若いチームメイトではなく経験豊かなアルボレートの加入を強く推していた[12]。この合同テストではJ.J.レートもオーディションとしてベネトンで走行しており、ベストラップ(アルボレート1分19秒77、レート1分18秒66)で1秒以上アルボレートを上回ったレートがベネトンに選ばれ、アルボレートはこのあと母国のミナルディと交渉することになった[13]。また、ミカ・ハッキネンのパートナーが決定していなかったマクラーレンのロン・デニスともかなり交渉していたという[11]

ミナルディ時代(1994年モナコGP
1994年

トップチームのシートは得られず、結局スクーデリア・イタリアと合併したミナルディから参戦することになった。ローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死亡事故が発生した第3戦サンマリノでは、決勝レース中にタイヤ交換を終了したアルボレートの後輪がピットアウト時にホイールごと外れてしまい、高速で転がったタイヤホイールが他チームのメカニックにぶつかったため複数の負傷者が出てしまった。この事故はそれまで無制限だったピットレーンでの制限速度規制をF1に導入するきっかけとなった。第4戦モナコではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、その後はチーム状況から目立った活躍は出来ず、この年をもってF1からの引退を発表した。

事故死[編集]

その後はインディル・マンなどに活躍の場を移し、1997年ル・マン24時間耐久レースではトム・クリステンセン、ステファン・ヨハンソンと組み優勝に輝いた。しかし2001年、ドイツラウジッツリンクにてル・マン24時間耐久レースのために行っていたアウディ・R8のテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、ほぼ即死であった[14][15]。44歳没。

エピソード[編集]

フォルツァ・ミケーレ![編集]

イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレ・アルボレートはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。

テクニック[編集]

F1カーがまだマニュアルトランスミッションを採用していた1980年代、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた[要出典]。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリの低迷期が重なってしまい、成績そのものはさえなかったが、ドライビングテクニックを評価する声は多かった[誰?]

ヘルメットカラー[編集]

愛用のヘルメットは青地に太い黄色の一本輪で、尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソンのヘルメットカラーをモチーフにしたデザインだった。1986年にはピーターソンのトレードマークであったバイザー上部にヒサシ付のヘルメットを使用した[16]

2代目フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)[編集]

1984年の活躍により、「アルベルト・アスカリの再来」と呼ばれ一躍人気者になったアルボレートだが、その彼もアスカリ同様、出身地がミラノであることから、アスカリと同じく「フライング・ミラン」とニックネームを付けられた。 余談だが、これまたアスカリ同様アルボレートも典型的な先行逃げ切り型タイプであり、1度トップに立つ(またはポールポジションを獲得する)とその後はその座を守り続けて優勝というパターンが多かった。

エンツォからの寵愛[編集]

フェラーリ入りを決めたのは、自身がイタリア人であることだけでなく、エンツォ・フェラーリから寵愛を受けたことだという。事実、エンツォは、妻と子どもの居たアルボレートに、4シーターにカスタムしたフェラーリの市販車をプレゼントしたという。しかし、1988年にエンツォの容態が悪化し死去すると、成績もベルガーに先行される事が増えていたアルボレートは後ろ盾を失い、同年限りでフェラーリから放出される憂き目に遭うこととなった。

人物[編集]

非常に義理堅い人物であった。フェラーリで活躍していた1986年当時、ボロボロのホテルに入る所を川井一仁今宮純が目撃。アルボレートはこのホテルにわざわざご飯を食べに来たのだと言う。ホテルの女性オーナーも「あらミケーレ!よく来たわね!」と喜んでいたという。アルボレートは昔、このホテルには何度も来ていたのだという。

フェラーリ所属最終年となった1988年の夏には、翌1989年に向けて複数チームからオファーがあったが、他のチームのオファーは断り(フェラーリ移籍が決まったナイジェル・マンセルと入れ替わる形で)ウィリアムズとの交渉に一本化し、最終段階まで進んでいたが土壇場でウィリアムズ側から一方的に破棄された[17](ウィリアムズと新たにエンジン供給契約をしたフランスのルノーエンジン搭載に不可欠であったフランス語を話せるティエリー・ブーツェンを起用することが優先され、チームがリカルド・パトレーゼの残留を選択したため)。アルボレートは「イタリアGP前にパトレーゼとブーツェンが正式発表された時、ただただ驚いた。その瞬間から僕は酷い苦境に立たされた。来年ウィリアムズに乗ることは決まったと信じていたから、イタリアGPまでの2か月間他チームとは全く交渉を絶っていた。突然1989年に乗るマシンが無くなってしまったなんて」とその時の心境を吐露している[17]。夏にアルボレートにオファーをしていた他のチームは既に別のドライバーで空席を埋めており、このためアルボレートはまだ空席を残していたが資金難で苦しい状況だった古巣・ティレルと契約した。

1989年のティレルでは、開幕時にチームスポンサーが無く、アルボレートが個人的に支援を受けていたマールボロたばこからの資金も重要なものだったが、6月カナダGP終了後にオーナーのケン・ティレルからアルボレートに電話が入り「チームは今週からキャメルがスポンサーについてくれることになった。今後もティレルで走りたいのであれば、君とマールボロとの契約はすぐに破棄してほしい」との内容だった。アルボレートは「僕は今までのキャリアでマールボロから大きな支援を受けてきた。ケンはそれを知ってて今季僕と契約しておいて、今回何の相談も無く急に一方的なこんな電話をしてきて、こういうやり方に僕は大いに気分を害している」とコメント[18]。アルボレートがマールボロブランドを持つフィリップモリス社に事の顛末を報告すると、マールボロの担当者は「君のキャリア継続に重要なことだから、スポンサーフィーを返したりしなくて良いし、何も気にせずキャメルカラーのマシンに乗っていいよ」と寛大な言葉を掛けられたが[19]、これを聞いたアルボレートは自分が身を引くべきと考えティレルを離れた。こうして一度はF1シートを喪失したが、1ヵ月後、結果的にキャメルの支援を受けるラルースへと加入することになった[20]

1993年オフにはベネトンの空席シートをかけてJ.J.レートと同じ合同テストに参加する状況となり、トップチームのシートを争うライバルとなったが、同テスト中にまだ若いレートに話し掛けディスカッションをし、走行後取材では「僕とJ.Jがマシンを取り合って喧嘩するわけじゃないし、僕も彼も十分に速いってことはもう誰もが知ってると思う。どちらが選ばれるかはチームの判断で、それはチームに任せるよ」[11]と話し友好的な関係を築いていた。

趣味[編集]

趣味は「F1でレースすること」と公言し、フェラーリを離れて以後、他カテゴリーの好条件のオファーがあっても、低迷するチーム状況で不遇にあってもF1でレースすることにこだわって走り続けた。不遇でも明るさは失わず、1993年にナイジェル・マンセルがインディカーに転向した際にインディ仕様のローラ・シャシー「T93/00」に乗り優勝するなど好走を見せ、自身がドライブするF1用のローラ・シャシー「T93/30」はF1最下位に低迷する状況をして「僕はもう、インディドライバーと呼ばれているよ」とジョークを言っていた。また、1993年オフのベネトンテスト(前述)後にベネトンのシートを得られなかったら?との質問にも「ベネトンのテストドライバー就任は全く考えていない、僕はF1でレースがしたいんだ。F1ドライバーとしてまだまだ良い仕事ができると思っている。テスト走行でのF1ドライブも好きだけど、レースがしたいね」[11]とコメントし、レギュラーシートを求めてミナルディに移籍した。

プライベートでは読書も趣味であった。

死してなお・・・[編集]

フェラーリを去った後も「コマンダトーレの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたアルボレートは、アウディのル・マン24時間レース事前テスト中に事故死した後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。また、1985年西ドイツGPで果たした優勝は、30年以上が経過した2017年時点でもフェラーリで優勝した最後のイタリア人ドライバーの記録となっている。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1981年 ティレル 010 USW BRA ARG SMR
Ret
BEL
12
MON
Ret
ESP
DNQ
FRA
16
GBR
Ret
GER
DNQ
AUT
Ret
NC
(27位)
0
011 NED
9
ITA
Ret
CAN
11
CPL
13
1982年 RSA
7
BRA
4
USW
4
SMR
3
BEL
Ret
MON
10
DET
Ret
CAN
Ret
NED
7
GBR
NC
FRA
6
GER
4
AUT
Ret
SUI
7
ITA
5
CPL
1
8位 25
1983年 BRA
Ret
USW
9
FRA
8
SMR
Ret
MON
Ret
BEL
14
DET
1
CAN
8
GBR
13
GER
Ret
AUT
Ret
12位 10
012 NED
6
ITA
Ret
EUR
Ret
RSA
Ret
1984年 フェラーリ 126C4 BRA
Ret
RSA
11
BEL
1
SMR
Ret
FRA
Ret
MON
6
CAN
Ret
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
5
GER
Ret
AUT
3
NED
Ret
ITA
2
EUR
2
POR
4
4位 30.5
1985年 156/85 BRA
2
POR
2
SMR
Ret
MON
2
CAN
1
DET
3
FRA
Ret
GBR
2
GER
1
AUT
3
NED
4
ITA
13
BEL
Ret
EUR
Ret
RSA
Ret
AUS
Ret
2位 53
1986年 F1/86 BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
10
MON
Ret
BEL
4
CAN
8
DET
4
FRA
8
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
AUT
2
ITA
Ret
POR
5
MEX
Ret
AUS
Ret
9位 14
1987年 F1/87 BRA
8
SMR
3
BEL
Ret
MON
3
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
15
MEX
Ret
JPN
4
AUS
2
7位 17
1988年 F1/87/88C BRA
5
SMR
18
MON
3
MEX
4
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
3
GBR
17
GER
4
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
2
POR
5
ESP
Ret
JPN
11
AUS
Ret
5位 24
1989年 ティレル 017B BRA
10
11位 6
018 SMR
DNQ
MON
5
MEX
3
USA
Ret
CAN
Ret
FRA GBR
ローララルース LC89 GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
11
ESP
DNPQ
JPN
DNQ
AUS
DNPQ
1990年 フットワーク (アロウズ) A11B USA
10
BRA
Ret
SMR
DNQ
MON
DNQ
CAN
Ret
MEX
17
FRA
10
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
12
BEL
13
ITA
12
POR
9
ESP
10
JPN
Ret
AUS
DNQ
NC
(24位)
0
1991年 A11C USA
Ret
BRA
DNQ
SMR
DNQ
NC
(35位)
0
FA12 MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FA12C FRA
Ret
GBR
Ret
GER
DNQ
HUN
DNQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
15
ESP
Ret
JPN
DNQ
AUS
13
1992年 FA13 RSA
10
MEX
13
BRA
6
ESP
5
SMR
5
MON
7
CAN
7
FRA
7
GBR
7
GER
9
HUN
7
BEL
Ret
ITA
7
POR
6
JPN
15
AUS
Ret
10位 6
1993年 ローラスクーデリア・イタリア T93/30 RSA
Ret
BRA
11
EUR
11
SMR
DNQ
ESP
DNQ
MON
Ret
CAN
DNQ
FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
16
HUN
Ret
BEL
14
ITA
Ret
POR
Ret
JPN AUS NC
(29位)
0
1994年 ミナルディ M193B BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
Ret
MON
6
ESP
Ret
24位 1
M194 CAN
11
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
7
BEL
9
ITA
Ret
POR
13
EUR
14
JPN
Ret
AUS
Ret

脚注[編集]

  1. ^ from PRESSROOM 事情通 F1GPX 1988年ベルギーGP号 8頁 山海堂
  2. ^ ラップチャート&リザルト F1GPX 1988年イタリアGP号 6-7頁 山海堂
  3. ^ アルボレート 新型NAフェラーリを語る F1GPX 1988年ハンガリーGP号 44頁 山海堂
  4. ^ ミケーレ・アルボレートの告白 Racing On No.058 1989年 武集書房
  5. ^ アルボレート来シーズンはアロウズに決定! F1GPX 1989年第14戦スペインGP号 29頁、山海堂
  6. ^ フットワーク・フォード 9ミケーレ・アルボレート 1991F1日本グランプリ公式プログラム 50頁 (株)鈴鹿サーキットランド発行
  7. ^ 総周回数911周 1992年もっとも走った男アルボレート F1グランプリ特集 Vol.43 1993年1月号 106頁 CBSソニー出版
  8. ^ 完走周回数ベストテン・アルボレートが1位 "完走周回数"が示すチームとドライバーの実力 F1グランプリ特集 Vol.43 1993年1月号 100頁 今宮純のF1ルールなるほどザ・解説 CBSソニー出版
  9. ^ a b スクーデリア・イタリア 劣悪マシンの苦悩 F1グランプリ特集 1993年7月号 50頁 ソニー・マガジンズ
  10. ^ バルセロナテスト完全密着ドキュメント F1 PRIX オフ最新情報号 5頁-9頁 双葉社 1994年2月19日発行
  11. ^ a b c d アルボレートの熾烈な争い ベネトン第2シートをめぐりレートと火花! F1 PRIX オフ最新情報号 35頁 双葉社 1994年2月19日発行
  12. ^ 熱き冬 Barcelona Testing F1速報 1994年テスト情報号 14頁 ニューズ出版 1994年2月12日発行
  13. ^ ミナルディ・スクーデリア・イタリア誕生、P-L.マルティーニ、アルボレートと契約へ F1速報 1994年テスト情報号 21頁 ニューズ出版 1994年2月12日発行
  14. ^ 元フェラーリドライバー、アルボレートが事故死 | webCG”. webCG (2001年4月27日). 2014年5月29日閲覧。
  15. ^ アルボレートの事故原因はパンク | webCG”. webCG (2001年5月7日). 2014年5月29日閲覧。
  16. ^ ミケーレ・アルボレート(フランスGP/ポールリカール、1986年7月6日)ESPNF1フォトギャラリー
  17. ^ a b '89注目ドライバーインタビュー ミケーレ・アルボレート F1GPX 1988年NA回帰元年記念号 27頁 山海堂 1989年2月8日発行
  18. ^ 資金源獲得の立役者・アルボレートの危機 F1GPX 1989年フランスGP号 29頁 山海堂
  19. ^ from PRESSROOM 事情通 F1GPX 1989年フランスGP号 8頁 山海堂
  20. ^ F1シートに復帰!流浪のアルボレート F1GPX 1989年西ドイツGP号 28頁 山海堂

関連項目[編集]

タイトル
先代:
アレクサンダー・ヴルツ
デイビー・ジョーンズ (レーサー)
マニュエル・ロイター
ル・マン24時間優勝者
1997 with:
ステファン・ヨハンソン
トム・クリステンセン
次代:
アラン・マクニッシュ
ローレン・アイエロ
ステファン・オルテリ