ジュール・ビアンキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュール・ビアンキ
ニュルブルクリンク・ワールド・シリーズにて (2012年)
基本情報
フルネーム ジュール・ルシアン・アンドレ・ビアンキ
略称表記 BIA
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 ニース
生年月日 1989年8月3日
没年月日 (2015-07-17) 2015年7月17日(25歳没)
F1での経歴
活動時期 2013-2014
過去の所属チーム '13-'14 マルシャ
出走回数 34
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 2
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 2013年オーストラリアGP
最終戦 2014年日本GP
テンプレートを表示

ジュール・ルシアン・アンドレ・ビアンキ(Jules Lucien André Bianchi、1989年8月3日 - 2015年7月17日)は、フランスアルプ=マリティーム県ニース出身のレーシングドライバー

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

レーシング・カート[編集]

祖父は3度のGTチャンピオンであるマウロ・ビアンキ。また、マウロの兄(伯祖父)のルシアン・ビアンキLuciano "Lucien" Bianchi, 1934年11月10日1969年3月30日, ベルギー出身)は1959年から1968年のF1世界選手権まで活躍したF1ドライバーで、耐久レースにおいても1968年のル・マン24時間レースに優勝したというレース一家の出身。

3歳で初めてレーシングカートに乗り、5歳からカートレースを始め、2005年はフォーミュラAでアジア・パシフィックチャンピオン、2006年はフランスチャンピオンとなる。

フォーミュラ・ルノー[編集]

2007年より4輪に転向。フランス・フォーミュラ・ルノー2.0とユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0に参戦し、フランス・フォーミュラ・ルノー2.0では初年度にチャンピオンを獲得する。

ARTグランプリのダラーラF308を駆るビアンキ。(2009年ホッケンハイム)

フォーミュラ3[編集]

2007年の終盤よりフォーミュラ3・ユーロシリーズARTグランプリから参戦する。このころ就いたマネージャーはARTグランプリのボスであるニコラス・トッドジャン・トッドの息子)だった。

2008年もARTグランプリよりフォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦。選手権3位で終えた。また、マスターズF3にも参戦し優勝した。

2009年もARTグランプリよりフォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦。バルテリ・ボッタスエステバン・グティエレスエイドリアン・ターベイとチャンピオン争いを演じ、この年最多の9勝を上げて見事チャンピオンに輝いた。フォーミュラ・ルノー3.5にモナコラウンドのみ参戦したがリタイアとなった。

GP2時代、ロータスARTより参戦するビアンキ。(2011年モンツァ)

GP2[編集]

2010年はARTグランプリよりGP2に参戦。しかし、F1と併催されたハンガリーGPのレース1のオープニングラップでDAMSホーピン・タンとクラッシュ[1]。脊髄を損傷し、レース2の欠場を余儀なくされた[1]。しかし、次のベルギーGPでは無事復帰した。最終的には優勝はなかったものの選手権を3位で終えた。

2011年も名称は変わったLotus ARTからGP2に参戦。1勝を上げるも前年と同様に選手権は3位となった。

フォーミュラ・ルノー3.5[編集]

2012年はF1とバッティングしないフォーミュラ・ルノー・3.5に参戦[2]ロビン・フラインスと最終ラウンドまでチャンピオンを争ったが、選手権2位に終わった。

F1[編集]

 
(上)ヘレステストにて。フォース・インディアVJM06を駆るビアンキ。
(下)マレーシアGPにてマルシャMR02を駆るビアンキ。(写真は共に2013年)

2009年末に発足したフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) の最初の所属ドライバーとなった[3]。2011年はフェラーリのテストドライバーとして契約した[4]

2012年はフォース・インディアとリザーブドライバーとして契約し[5]、フリー走行1回目に9回出走した。

2013年[編集]

2013年はニコ・ヒュルケンベルグが移籍して空いたフォース・インディアのシートを、エイドリアン・スーティルと競ったがシートは獲得できなかった。しかし、マルシャと契約していたルイス・ラジアにスポンサーからの支払いが期限内に振り込まれないトラブルが発生したため、代わってシートを得ることが出来た[6]。チームメイトは同じくルーキードライバーのマックス・チルトン

開幕戦オーストラリアGPでは、予選・決勝ともにライバルチームの1つであるケータハム勢に完勝し、ルーキー勢3番手となる15位完走。このレースでビアンキは、全体の11番手のラップタイムを刻む。このタイムは終盤のベストラップとはいえセバスチャン・ベッテルらと相違ないタイムであり、チーム・マシンのパフォーマンスを考えるとかなりの好タイムであった。第2戦マレーシアGPにて獲得した13位をケータハム勢が記録する事が出来なかった為、チームのコンストラクターズランキング10位獲得に貢献する。

バーレーンGPにてマルシャ・MR03を駆るビアンキ。(2014年)

2014年[編集]

2013年10月、シーズン終了を待たずに2014年もマルシャF1チームに残留する事が発表された[7]第6戦モナコGPにて、ギアボックス交換を伴い21番グリッドからのスタートとなったが、粘り強い走りを見せ8位完走する。5秒ストップペナルティをセーフティカーが入っている最中に行ったとしてレース終了後実際のタイムにさらに5秒加算されたため、9位のロマン・グロージャンと順位が入れ替わり、9位で初入賞という形となった。また、マルシャチームにとっても、前身のヴァージン・レーシング時代を含めF1における初入賞であった。結果的にこの2ポイントが効いて、マルシャはザウバーを抜いてコンストラクターズランキング9位を獲得した。

事故による昏睡〜死去[編集]

2014年10月5日鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GP決勝レースにおいて、折からの台風18号に伴う雨により、44周目のダンロップ・コーナーを旋回中だったビアンキのマシンにハイドロプレーニング現象が発生。マシンのコントロールを失ったビアンキはアウト側に速度を保ったままコースアウトした。同じ場所では1周前に、ほぼ同様のケースによりエイドリアン・スーティルザウバー)がコースアウトしてタイヤバリアにクラッシュしており[8]、このザウバーのマシンの撤去作業をしていた6.8 tのホイールローダークレーン車)の後方に、コントロール不能状態に陥っていたビアンキが潜り込むような形で追突してしまった。FIA安全委員会の調査によれば、衝突時の速度は126 km/hであり、衝撃は254 G(自動車が48 m / ビル15階相当の高さから地面に落ちた衝撃と同程度)に達していたという[9]

重い脳外傷を負ったビアンキは意識を失い[10]救急車四日市市三重県立総合医療センターへ搬送され、緊急手術が行われた[11]手術は成功し、ビアンキは人工昏睡状態におかれた上で同病院での治療が継続され、のちに自発呼吸の回復とバイタルサインの安定が認められた事から母国への移送ができると判断。11月19日フランスニースニース大学付属病院に転院した[12]

しかし、9か月後の2015年7月13日にビアンキの親族がSNSで「現在楽観できない状況になりつつある」と発信。それから4日後の2015年7月17日夜、ビアンキは意識が戻らないままニース大病院で死去した[13]。25歳没。F1走行セッション中のドライバーの死亡事故は、1994年サンマリノグランプリでのアイルトン・セナおよびローランド・ラッツェンバーガー以来、21年ぶりのことであった。

死後[編集]

2015年7月20日FIA会長ジャン・トッドはビアンキのカーナンバーだった『17』を永久欠番にすると発表した[14]。また、この事故が翌年からのバーチャル・セーフティーカー(VSC)システムの導入へのきっかけとなった[15]。またこのビアンキの事故と、この年にインディーカーで発生したジャスティン・ウィルソンの死亡事故[16]をきっかけに、これまでにも様々な事故で議論されていた頭部保護デバイスの導入が本格的に議論されることとなり、2018年からHalo(ヘイロー)と呼ばれる頭部保護デバイスが導入されることとなった。

ビアンキの死後最初のレースとなったハンガリーGPでは、7月26日の決勝レース前に全ドライバーが円陣を組み、1分間の黙とうを捧げた。また、各マシンには「#JB17」というステッカーが貼られた。

エピソード[編集]

  • 2018年にF1デビューを果たしたシャルル・ルクレールと幼馴染だった。ルクレールと同様にニコラス・トッド率いる「オール・ロード・マネージメント(ARM)」のメンバーに加わった。ルクレールはビアンキの死後、彼も所属したフェラーリ・ドライバー・アカデミーに加入した。後に2019年にフェラーリ入りが決定、ビアンキが果たせなかった夢を実現させた[17]。この年でF1初優勝も達成した。またこのフェラーリ入りが発表される直前の2018年ベルギーGPでは、スタート直後にルクレールは多重クラッシュに巻き込まれ、他車のフロントウィング翼端板(エンドプレート)がマシンのHaloをかすめるという事故が起きた。FIAによる事故調査の最終報告書は、Haloが無かった場合、この部品がルクレールのヘルメットのバイザー部分に直撃していたと結論付けており、ビアンキの事故をきっかけに導入されることとなったHaloによって無傷で生還した[18]
  • 同郷の後輩ドライバーで、2017年にF1デビューを飾るピエール・ガスリーとも仲が良かった。
  • 2013年ドイツGPはエンジントラブルでリタイアし車から離れたがマーシャルも車から離れてしまい、車を止めた場所が上り坂だったため車が独りでに動き出し、ゆっくりとバックでコースを横切った。車のギアがニュートラルになっていた為に動き出してしまったが、ルール上車から離れる際にはギアを抜きニュートラルにすることが求められているため、ビアンキに非はない。幸い他車との事故にはならなかったが、この件が原因でセーフティーカーが入りレースに影響が出た。
  • 永久欠番となったカーナンバー「17」は第一希望であった「7」、第二希望であった「27」、第三希望であった「77」がいずれもキミ・ライコネンニコ・ヒュルケンベルグバルテリ・ボッタスに選択されたことによる第四希望であった。(希望するカーナンバーが重複した際は前年のランキング順となるため、ビアンキは優先順位が低かった)
  • 2014年のイギリスGP後に実施されたシルバーストンテストで、イギリスGPの事故で負傷したキミ・ライコネンの代役としてビアンキがフェラーリのテストを担当した。ビアンキの死後、元フェラーリのチーム代表であるステファノ・ドメニカリは、ライコネンがチームを離脱する際には、後任にビアンキを乗せることが約束されていたと語っている[19]。なおライコネンは2018年末でフェラーリを離脱したが、そのライコネンの後任でフェラーリのシートを獲得したのはルクレールであった。
  • ビアンキが在籍していたマルシャは、深刻な資金難によりビアンキの事故から2戦後のアメリカGPより、レースの欠場を余儀なくされた。しかしザウバー、ケータハムがこの年ポイントを獲得できずにシーズンを終えたため、マルシャはビアンキがモナコGPで獲得した2ポイントによってコンストラクターズ9位となった。この結果、マルシャに賞金が入り資金が調達できたため、2015年開幕戦にマノー・マルシャとしてF1に復帰。マノー・レーシングと名称が変わってはいるがチームは2016年までF1に参戦していた。マルシャと同じ時期に参戦困難となり、賞金も得られなかったケータハムF1チームは復活できず解散となっており、「ビアンキの9位」が命運を分けている。
  • 2015年に向けては、フェラーリからパワーユニット供給を受けているザウバーと交渉し契約にサイン済であったとコリン・コレスオーストリアのTV局に話している[20]。詳しくは『ザウバードライバー多重契約騒動』の項参照。

レース戦績[編集]

シリーズ チーム Car No. レース 勝利 PP FL ポイント 総合順位
2007 フランス・フォーミュラ・ルノー2.0 SGフォーミュラ 6 13 5 5 10 172 1位
ユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0 43 8 0 1 1 9 22位
2008 フォーミュラ3・ユーロシリーズ ARTグランプリ 24 20 2 2 2 47 3位
マカオGP ? 1 0 0 0 N/A 9位
マスターズF3 ? 1 1 0 0 N/A 1位
2009 フォーミュラ3・ユーロシリーズ ARTグランプリ 1 20 9 6 7 114 1位
イギリス・フォーミュラ3 91 4 2 0 3 0 NC†
マカオGP 3 1 0 0 0 N/A 10位
フォーミュラ・ルノー3.5 SGフォーミュラ 26 1 0 0 0 0 NC
2009–10 GP2アジアシリーズ ARTグランプリ 7 6 0 1 0 8 12位
2010 GP2 ARTグランプリ 1 18 0 3 1 52 3位
2011 GP2 ロータス・ART 5 18 1 1 0 53 3位
GP2アジアシリーズ 5 4 1 0 1 18 2位
2012 フォーミュラ・ルノー3.5 テック 1 レーシング 1 17 3 5 7 185 2位

フォーミュラ3・ユーロシリーズ[編集]

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
2008年 ARTグランプリ ダラーラ F308/049 メルセデス HOC
1

Ret
HOC
2

13
MUG
1

3
MUG
2

4
PAU
1

Ret
PAU
2

26
NOR
1

Ret
NOR
2

9
ZAN
1

3
ZAN
2

9
NÜR
1

2
NÜR
2

3
BRH
1

22
BRH
2

18
CAT
1

Ret
CAT
2

3
BUG
1

1
BUG
2

17
HOC
1

7
HOC
2

1
3位 47
2009年 ダラーラ F308/048 メルセデス HOC
1

5
HOC
2

3
LAU
1

1
LAU
2

14
NOR
1

1
NOR
2

3
ZAN
1

1
ZAN
2

1
OSC
1

1
OSC
2

6
NÜR
1

1
NÜR
2

5
BRH
1

Ret
BRH
2

Ret
CAT
1

1
CAT
2

5
DIJ
1

2
DIJ
2

1
HOC
1

1
HOC
2

7
1位 114

フォーミュラ・ルノー3.5[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
2009年 KMPグループ/SGフォーミュラ CAT
1
CAT
2
SPA
1
SPA
2
MON
1

Ret
HUN
1
HUN
2
SIL
1
SIL
2
BUG
1
BUG
2
ALG
1
ALG
2
NÜR
1
NÜR
2
ALC
1
ALC
2
NC 0
2012年 テック1・レーシング ALC
1

DSQ
ALC
2

13
MON
1

2
SPA
1

2
SPA
2

17
NÜR
1

1
NÜR
2

12
MSC
1

2
MSC
2

7
SIL
1

1
SIL
2

3
HUN
1

3
HUN
2

9
LEC
1

4
LEC
2

1
CAT
1

7
CAT
2

Ret
2位 185

GP2[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
2010年 ARTグランプリ ESP
FEA

Ret
ESP
SPR

12
MON
FEA

4
MON
SPR

3
TUR
FEA

Ret
TUR
SPR

13
EUR
FEA

2
EUR
SPR

Ret
GBR
FEA

2
GBR
SPR

5
GER
FEA

5
GER
SPR

4
HUN
FEA

Ret
HUN
SPR

DNS
BEL
FEA

14
BEL
SPR

Ret
ITA
FEA

2
ITA
SPR

4
ABU
FEA

18
ABU
SPR

8
3位 53
2011年 ロータス・ART TUR
FEA

3
TUR
SPR

7
ESP
FEA

7
ESP
SPR

Ret
MON
FEA

Ret
MON
SPR

19
EUR
FEA

Ret
EUR
SPR

7
GBR
FEA

1
GBR
SPR

5
GER
FEA

4
GER
SPR

2
HUN
FEA

7
HUN
SPR

6
BEL
FEA

2
BEL
SPR

2
ITA
FEA

8
ITA
SPR

3
3位 53

GP2アジアシリーズ[編集]

エントラント 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2009-10年 ARTグランプリ YMC1
FEA

YMC1
SPR

YMC2
FEA

3
YMC2
SPR

7
BHR1
FEA

10
BHR1
SPR

NC
BHR2
FEA

10
BHR2
SPR

Ret
12位 8
2011年 ロータス・ART YMC
FEA

1
YMC
SPR

8
IMO
FEA

3
IMO
SPR

Ret
2位 18

F1[編集]

チーム  シャシー  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 WDC ポイント
2012年 フォース・インディア VJM05 AUS MAL CHN
TD
BHR ESP
TD
MON CAN EUR
TD
GBR
TD
GER
TD
HUN
TD
BEL ITA
TD
SIN JPN KOR
TD
IND ABU
TD
USA BRA - -
2013年 マルシャ MR02 AUS
15
MAL
13
CHN
15
BHR
19
ESP
18
MON
Ret
CAN
17
GBR
16
GER
Ret
HUN
16
BEL
18
ITA
19
SIN
18
KOR
16
JPN
Ret
IND
18
ABU
20
USA
18
BRA
17
19位 0
2014年 MR03 AUS
NC
MAL
Ret
BHR
16
CHN
17
ESP
18
MON
9
CAN
Ret
AUT
15
GBR
14
GER
15
HUN
15
BEL
18
ITA
18
SIN
16
JPN
20
RUS USA BRA ABU 17位 2

(key)

  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

脚注[編集]

  1. ^ a b “ジュール・ビアンキ、GP2でのクラッシュで負傷”. F1-Gate.com. (2010年8月1日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_8650.html 2010年12月14日閲覧。 
  2. ^ “ジュール・ビアンキ、テック1からフォーミュラ・ルノー3.5に参戦”. F1-Gate.com. (2012年2月9日). http://f1-gate.com/bianchi/f1_14270.html 2013年3月2日閲覧。 
  3. ^ “フェラーリ、若手育成プログラム“フェラーリ・ドライバー・アカデミー”設立”. F1-Gate.com. (2009年12月19日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_5899.html 2013年3月2日閲覧。 
  4. ^ “フェラーリ、ジュール・ビアンキを2011年のテストドライバーに起用”. F1-Gate.com. (2010年11月11日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_9939.html 2013年3月2日閲覧。 
  5. ^ “ジュール・ビアンキ、フォース・インディアのリザーブドライバーに就任”. F1-Gate.com. (2013年1月28日). http://f1-gate.com/bianchi/f1_14121.html 2013年3月2日閲覧。 
  6. ^ “マルシャ、ルイス・ラジアに代えてジュール・ビアンキの起用を発表”. F1-Gate.com. (2013年3月2日). http://f1-gate.com/marussia/f1_18397.html 2013年3月2日閲覧。 
  7. ^ “マルシャ、来季のビアンキ残留を発表”. ESPN F1. (2013年10月3日). http://ja.espnf1.com/marussia/motorsport/story/127537.html 2013年10月3日閲覧。 
  8. ^ エイドリアン・スーティル「ビアンキはクレーンに突っ込んだ」 - F1Gate 2014.10.5
  9. ^ ジュール・ビアンキ、事故時の衝撃は254G - F1Gate 2015.07.23
  10. ^ “ジュール・ビアンキの死から4年・・・F1の安全性の強化”. F1-Gate.com. (2019年7月18日). https://f1-gate.com/bianchi/f1_50714.html 2020年2月20日閲覧。 
  11. ^ ジュール・ビアンキの家族が声明発表:すべてのサポートに感謝している、Marussia F1 Team 2014年10月08日02:06
  12. ^ ESPN-ビアンキ、ニースの病院に到着 2014年11月20日
  13. ^ ビアンキが永眠、享年25”. ESPN F1. 2015年7月18日閲覧。
  14. ^ “ビアンキ選手のカーナンバー「17」が永久欠番に、FIA発表”. AFPBB News. (2015年7月21日). https://www.afpbb.com/articles/-/3055056 
  15. ^ 2015年F1規則:VSCなどセーフティーカー規定が変更 AUTO SPORT Web 2014年12月4日、2017年11月2日閲覧。
  16. ^ ウィルソンの事故は、クラッシュした他車の破片がウィルソンの頭部を直撃するというものであった
  17. ^ ルクレール、跳馬昇格を喜ぶ一方で強い決意を表明「亡き父やビアンキを失望させない、これまで以上に努力する」 FORMULA1-DATA 2018年9月11日。
  18. ^ Jonathan Noble (2018年12月6日). “Exclusive: Halo saved Leclerc from visor strike in Spa crash”. motorsport.com. 2018年12月7日閲覧。
  19. ^ “ジュール・ビアンキ、将来はフェラーリ加入を約束されていた”. F1-Gate.com. (2015年7月20日). http://f1-gate.com/bianchi/f1_27878.html 2015年12月18日閲覧。 
  20. ^ コレス「ビアンキもザウバーと契約していた」 - ESPNF1 2015.04.15

外部リンク[編集]