ルイス・ハミルトン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ルイス・ハミルトン
Lewis Hamilton October 2014.jpg
ドイツのイベントにて (2014年10月)
基本情報
フルネーム ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトン
略称表記 HAM
国籍 イギリスの旗 イギリス
(イングランドの旗 イングランド)
出身地 同・ハートフォードシャー州
スティーブニッジ
生年月日 1985年1月7日(31歳)
F1での経歴
車番 44
所属チーム メルセデス '13-
活動時期 2007-
過去の所属チーム '07-'12 マクラーレン
出走回数 171
優勝回数 43
通算獲得ポイント 1,924
表彰台(3位以内)回数 90
ポールポジション 51
ファステストラップ 28 [2]
初戦 2007年オーストラリアGP
初勝利 2007年カナダGP
2015年順位 1位 (381ポイント)
タイトル 3 (2008,2014,2015)
(記録は2016年第4戦ロシアGP終了時)
テンプレートを表示

ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトンLewis Carl Davidson Hamilton, MBE 1985年1月7日 - )は、イギリスハートフォードシャー州東イングランドスティーブニッジ出身のレーシングドライバーグレナダ出身のアフリカ系イギリス人の父親とイングランド人の母親を持つ。2008年に当時の史上最年少でF1ワールドチャンピオンを獲得した。

初期の経歴[編集]

カート[編集]

1993年、8歳でレーシングカートを始める。2年後の1995年、10歳の時にイギリスカートチャンピオンを獲得したのを皮切りに幾つかのタイトルを獲得。この年のオートスポーツ・アワードの授賞式でロン・デニスに自ら歩み寄り「あなたの車に乗ってワールドチャンピオンになりたい」と言ったが、デニスはハミルトンのサイン帳に「9年後にまたおいで」と書いたという。しかし、その後の活躍に注目したデニスから3年後にはコンタクトがあり[1]、1998年にはF1チームのマクラーレンと長期契約を交わした。以後、同チームによる支援の下でキャリアを重ねることとなり、早期から「マクラーレンの秘蔵っ子」として名を知られるようになった。2000年にはフォーミュラAクラスでヨーロッパカートチャンピオンとなり、ツインリンクもてぎ北ショートコースで行われた「アイルトン・セナ メモリアルカップ CIK-FIA WORLD CUP Shell ADVANCE KART RACE IN JAPAN」のフォーミュラAクラスでも優勝。

2001年はCIK-FIA カート世界選手権にフォーミュラスーパーAクラスからエントリー。

ジュニアフォーミュラ[編集]

2001年は、CIK-FIA カート世界選手権と共にイギリスフォーミュラ・ルノー冬季シリーズにも参戦し、ランキング5位。

2002年は同選手権のレギュラーシリーズに参戦。3度のポールポジションと3度の優勝を記録し、ランキング3位。

2003年は同選手権を独走し、10勝を上げ、最終戦まで2ラウンド(4レース)を残し、チャンピオンに輝いた。この年はF3マカオGPにも出場した。

F3[編集]

2004年はマノー・モータースポーツからF3ユーロシリーズに参戦。初年度は1勝、ランキング5位。マカオGPでも総合14位と不本意な成績に終わった。その後の「バーレーン・スーパープリ」では優勝を飾っている。また、シルバーストンで行われたマクラーレンのテストに参加し、初めてF1カーを運転した。

2005年はASMに移籍すると、20レース中15勝を上げてチャンピオンに輝き、各国F3の強豪が集うマールボロ・マスターズを制した。

GP2[編集]

2006年は前年度チャンピオンのニコ・ロズベルグがF1へ昇格したことを受け、その後任としてARTグランプリからGP2に参戦。開幕戦のサンマリノではセーフティカーを抜き、失格となったが、ポール・トゥ・ウィンを飾ったモナコでの1勝を加えシーズン通算5勝を獲得。なかでもニュルブルクリンクシルバーストンでは、第1レースとリバースグリッド制の第2レース両方とも勝利して、ネルソン・ピケJr.との争いを制してタイトルを獲得した。

F1での経歴[編集]

2007年[編集]

2007年マクラーレンメルセデスからF1デビュー。チームメイトは2005年2006年を連覇したチャンピオン、フェルナンド・アロンソ

「F1史上初の黒人ドライバー」「マクラーレンの秘蔵っ子」などの愛称として注目を浴びる中、デビュー戦となる開幕戦オーストラリアGPで3位に入賞し表彰台へ登った[2]。続く第2戦マレーシアGP第3戦バーレーンGPでも2位に入り、デビューから3戦連続表彰台という史上初の成績を収めた。更に第4戦スペインGP第5戦モナコGPでも続けて2位に入賞。第4戦終了時には未勝利ながら史上最年少でドライバーズランキングの首位に立った。

第6戦カナダGPでは初のポールポジションを獲得すると、決勝レースではポールトゥウィンで初優勝を遂げ[3]、続く第7戦アメリカGPでもポールトゥウィンで2戦連続優勝を果たした[4]

その後、第8戦フランスGP第9戦イギリスGPにおいても3位と安定した成績を収めたが、第10戦ヨーロッパGP予選Q3では公式セッションに於いて初のクラッシュを経験し、その結果デビュー後最低となる10番グリッドからのスタートとなった。決勝では他車との接触によるパンクや雨によるコースアウトなどが重なり入賞圏外の9位でフィニッシュ。これにより初参戦以来の連続表彰台記録および連続入賞記録は9でストップした。その後は、第11戦ハンガリーGP第15戦日本GPで勝利を飾った事などもあり、ポイントリーダーの座を守ったが、チャンピオン獲得の可能性もあった第16戦中国GPでは、タイヤのパンクで自身初のリタイアを経験した。

史上初の新人ドライバーによるチャンピオン獲得の可能性に注目が集まった最終戦ブラジルGPでは、スタートでキミ・ライコネンとアロンソに先行を許し、ミスによるコースアウトやギアトラブルにより後退した。その後、追い上げたものの7位に終わり、ライコネンが逆転でチャンピオンを獲得した。決勝後、ハミルトンの上位3人の燃料温度に違反があるとして審議が行われた。その日のうちにペナルティなしとの判断が下されたものの、2日後にマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。仮にこの3人にタイム加算や失格ペナルティが下された場合、ハミルトンのチャンピオン獲得の可能性は残されていたが、最終的にFIAによりマクラーレンの控訴が棄却されたため、その可能性は消滅した。

結果的にF1史上初のルーキーによるワールドチャンピオン獲得という偉業達成はならなかったものの、このシーズンの多くをポイントリーダーとして過ごし、最終的にチャンピオンとなったライコネンに1ポイント差、前年まで2年連続チャンピオンであるチームメイトのアロンソと同ポイントでシーズンを終えたことで、その才能を遺憾なく見せつける一年となった。

2008年[編集]

2008年、シーズン開幕前にはフェラーリ圧倒的に有利と言われていた下馬評[5]を覆し、開幕戦オーストラリアGPを制した。しかし第2戦マレーシアGPでは予選中に他車のアタックを妨害したとして、グリッド降格ペナルティを受けてしまい、決勝レースでは5位にとどまった。第3戦バーレーンGPでは2度もアロンソに追突するなどのミスから順位を落とし、ノーポイントに終わったが、その後の2戦では表彰台を獲得。第6戦モナコGPでは序盤にガードレールに当たりタイヤをパンクさせるミスを犯し、ピットインを余儀なくされ後退するも、セーフティカーが導入されたレース展開に巧みに対応して中盤には首位に立ち、モナコGP初優勝を飾った。その後の第7戦カナダGPでは、ピットアウト時に赤信号で停止していたライコネンのマシンに追突するミスを犯しリタイアに終わる。この事故により次戦第8戦フランスGPでは10グリッド降格ペナルティを受け、決勝でもシケイン不通過でのオーバーテイクによるペナルティを受け、2戦連続ノーポイント。しかし、大雨の第9戦イギリスGPを独走で制すると、第10戦ドイツGPではセーフティカー導入時の戦略ミス[6]を覆して優勝し、2連勝でポイントリーダーに立つ。その後の6戦は優勝こそないものの、手堅くポイントを上げランキング首位を堅持する。第16戦日本GPでは、スタート直後の1コーナーへの進入で他車を巻き込むミスを犯し、それに対するペナルティで後退し無得点に終わった。しかし続く第17戦中国GPではポールポジションからスタートすると、ファステストラップを記録しながら独走し、圧倒的な強さを見せシーズン5勝目をハットトリックで飾った。

5位以上でフィニッシュすれば、タイトルを争うフェリペ・マッサの成績に関係なくチャンピオン獲得となる絶対的に有利な状況で最終戦ブラジルGPをむかえた。スタートからマッサが首位を快走する中、チャンピオン獲得の最低条件となる5位走行中の68周目にセバスチャン・ベッテルに抜かれ、6位で残り2周を迎えることとなった。ベッテルを抜き返せず、チャンピオン獲得は絶望的に思われた最終ラップ、雨が強まる中ドライタイヤを装着していたティモ・グロックがペースを落としたところを、最終コーナー手前でオーバーテイク。5位で完走し、シーズン前の大方の予想[5]を覆して、アロンソの記録を破り当時のF1史上最年少ワールドチャンピオン記録を樹立した(23歳300日)。

結果的に史上最年少でワールドチャンピオンを獲得はしたものの、前年と比較するとミスや荒い運転が目立ち、他のドライバーやメディアの批判の的になることが多い一年となった[7][8][9][10]

2009年[編集]

2009年もマクラーレンから参戦。チームは大幅なレギュレーション変更の対応に苦しみ、開幕前のテストから不調が報じられた[11]。ハミルトン自身も、開幕戦オーストラリアGPでは決勝前の全セッションでチームメイトのコバライネンにも遅れをとり苦戦が予想されたが、決勝ではグリッド最後尾から追い上げ、4位でゴールした。レース終了後に3位に繰り上がったが、その際の審議で虚偽証言をしたとして失格処分となった。

第6戦モナコGPから第8戦イギリスGPまで3戦連続で予選Q1落ちを喫していたが、第9戦ドイツGPで復活の兆しを見せ[12]予選5番手を獲得。決勝ではスタートでマーク・ウェバーに追突され[13]タイヤがパンクする不運もあり、最下位でレースを終えた。

しかし、次戦第10戦ハンガリーGPでは予選4位を獲得すると決勝では終始安定したペースで11戦ぶりの勝利をあげ、KERS搭載車の初勝利を記録した。続く第11戦ヨーロッパGPでも好調を維持し、シーズン初のポールポジションを獲得し、決勝では終盤のピット戦略ミスがあったが2位表彰台を獲得した。

第13戦イタリアGPではシーズン2度目のポールポジションを獲得するが、決勝では3位走行中のファイナルラップで自身のミスによりクラッシュしてレースを終えた。これにより、シーズン4戦を残してタイトル防衛の可能性が無くなった。続く第14戦シンガポールGPでは2戦連続となるポールポジションを獲得し、ポールトゥーウィンを飾った。その後の2戦でも表彰台を獲得するなど、終盤の8戦では全ドライバーの中で最も多くのポイントを上げる活躍を見せた。

最終的に、コンストラクターランキング上位2チームの4人に次ぐ、ドライバーズランキング5位でシーズンを終えた。

2010年[編集]

2010年もマクラーレンから参戦。チームメイトは前年度チャンピオンのジェンソン・バトン開幕戦バーレーンGP予選では、ポールポジションのセバスチャン・ベッテルから1秒以上の遅れをとり、フェラーリ勢の後塵を拝する4位に留まった。決勝では3位表彰台を獲得したものの、翌第2戦オーストラリアGP第3戦マレーシアGPでは予選Q2敗退を喫するなど、シーズンの苦戦が予想された。

2010年カナダGP。チームメイトのバトンと1-2フィニッシュを飾りランデブー走行を行う

好機が訪れたのは第7戦トルコGP。首位を争っていたレッドブル勢の2人のドライバー、ベッテルとマーク・ウェバーが接触。ベッテルはリタイアに追い込まれ、ウェバーは後退を余儀なくされた。これにより首位に出たハミルトンは2009年シンガポールGP以来、10戦ぶりの勝利をあげた。続くカナダGPではレッドブル以外の車両でこのシーズン初のポールポジションを獲得して見せた。決勝もチームメイトのバトンと1-2フィニッシュで優勝を飾り、ポイントランキングでも首位に躍り出た。次の2戦ではマシンのアップデートが進まずに[14][15]第9戦ヨーロッパGPではセーフティカーを抜きドライブスルーペナルティを受けるものの、チームの巧みなレース戦略で第10戦イギリスGPと2戦連続で2位表彰台を獲得しランキング首位を堅持した。

第11戦ドイツGP以降はレッドブル勢ばかりでなく復調したフェラーリ勢にも遅れをとり始め、第12戦ハンガリーGPではギアボックストラブルでリタイアに終わったことによりポイントランキング首位の座をウェバーに明け渡した。翌第13戦ベルギーGPで優勝し再びタイトル争いで首位に立ったが、第14戦イタリアGPでは1周目に自身のミスによりマッサと接触しリタイアに終わり、続く第14戦シンガポールGPで今度はウェバーと接触し、2戦続けてリタイアしたため首位から陥落。第15戦日本GP終了時点ではベッテルにも先行されたものの、翌第16戦韓国GPで2位表彰台を獲得し、レッドブルの2人が共にリタイアに終わったこともあり、タイトル獲得へ望みをつなげた。最終戦アブダビGPをランキング4位で向かえ、ハミルトンにも辛うじてチャンピオン獲得の可能性が残されていた。優勝することと首位のアロンソが無得点であることが最低条件という最も不利な状況であったが、2位表彰台に留まりチャンピオン獲得には至らず、最終的にドライバーズランキング4位に終わった。

2011年[編集]

2011年もマクラーレンから参戦。開幕前のテストではレッドブルやフェラーリに大きく遅れを取っていたが、開幕戦オーストラリアGPの予選ではポールポジションのベッテルに0.778秒という大差をつけられながらも2位につけ、決勝でも2位表彰台を獲得した。続く第2戦マレーシアGP予選でも好調を維持し2戦連続で2番手につけたものの、決勝では2位を走行中のピット作業ミスで3位に落ち、その後アロンソに追突されタイヤに不調をきたし、さらにはアロンソとのバトル中にストレートで複数回の進路変更を行ったことを咎められ、ペナルティを受け8位に降格となった。しかし、続く第3戦中国GPではベッテルが予選まで全てのセッションでトップタイムをマークする好調さを見せていたが、決勝ではレース終盤でそのベッテルをオーバーテイクしてシーズン初優勝をあげた。

第6戦モナコGPではマッサとマルドナドと接触し、ペナルティを受けて6位に終わった。大雨によりセーフティカースタートとなった第7戦カナダGPではスタート直後にウェバーと接触し、その後ホームストレートでチームメイトのバトンをオーバーテイクしようとした際に追突してリタイアとなった。この2件の接触は共に審議の結果ペナルティの対象とはならなかった[16]ものの、2戦で4件の接触事故を起こし、そのドライビングスタイルが非難を浴びた[17]。4戦続けて表彰台にすら登れないレースが続いていたが、過密スケジュールによる精神的な疲労を理由に直前のいくつかのイベントなどをキャンセルし、休暇を取って臨んだ第10戦ドイツGPでは予選で2番手を獲得し、決勝ではスタートで首位に立つとアロンソとウェバーとの三つ巴の激戦を制し、7戦ぶりとなる2勝目をあげた。第11戦ハンガリーGPではレースの大半を首位で走るが雨が降り出すとスピンし、その際にコースへ戻るスピンターンが危険という理由でドライブスルーペナルティを受け、ウェットタイヤへ交換する作戦も裏目に出て4位に終わった。その後も他車との接触が多く、表彰台に乗れないレースが続いた。

第16戦韓国GPでは昨年のカナダGP以来のポールポジションを獲得し、決勝では1周目にベッテルに抜かれ中盤からペースが上がらずに苦しんだものの、ウェバーとの2位争いを制し久しぶりの表彰台を手にした。ポールポジション獲得後の記者会見で「久しぶりのポールポジションなのに嬉しそうではないのはなぜか」と問い詰められることがあったが、この頃恋人のニコール・シャージンガーと別れており[18]それが影響したのではないかと噂され、こうしたプライベートな問題がパフォーマンスに影響したのではないかという噂を後にハミルトン自身も認めた[19]。しかし、第18戦アブダビGPではフリー走行から好調で、予選Q2でレースウィーク中全体の最速タイムを記録し、ベッテルにポールポジションを奪われたものの、決勝ではスタート直後にベッテルがリタイアしたためトップに上り、その後は安定した走りでアロンソを退け、久しぶりとなる勝利を挙げた。

レッドブル以外のドライバーで唯一のポールポジションを獲得したが、決勝ではピレリタイヤのマネジメントに苦しんだレースが多々あり、レース中のミスや接触も目立った。その結果、12回表彰台に登りドライバーズランキング2位を手にしたチームメイトに対し、共に3勝を上げたものの自身の表彰台は6回に留った。シーズンを通して安定感に欠けたことでドライバーズランキングは5位に終わり、F1のキャリアの中で初めてドライバーズランキングでチームメイトの後塵を拝した。

2012年[編集]

2012年ヘレステスト

2012年もマクラーレンから参戦。テストで好調が噂されたMP4-27は速さを見せ、予選では開幕戦オーストラリアGP第2戦マレーシアGPと連続ポールポジションを獲得し、決勝では第3戦中国GPまで3戦連続3位表彰台を獲得した。

第5戦スペインGPでは予選で2位に0.568秒差をつけてのポールポジションを奪うが、2010年カナダGP同様燃料切れ寸前になり、アタック後にピットに戻ることができずに予選タイム抹消で失格処分[20]となった。決勝は最後尾から唯一2ストップ作戦で走りきり8位入賞。 第6戦モナコGPではレース序盤まで3番手をキープして走行していたが、ピットストップでアロンソとベッテルに逆転され5位でレースを終えた。レース後にはチーム側への不満を露にしたが[21]、続く第7戦カナダGPでアロンソとベッテルとのトップ争いを制してシーズン初優勝を飾った。その後はマシンパフォーマンスとともに調子を落とすものの、第11戦ハンガリーGPでは2位に大差を付けてのポールポジションを獲得すると、決勝ではロータス勢の激しい追い上げを抑えきりポール・トゥ・ウィンで2勝目を上げた。

第12戦ベルギーGPではスタートでロマン・グロージャンに幅寄せされ接触、そのまま多重クラッシュに巻き込まれてリタイアするも、連戦となった翌第13戦イタリアGPでは4度目となるポールポジション、2度目のポール・トゥ・ウィンで3勝目を上げた。第14戦シンガポールGPでも連続となるポールポジションを獲得したが決勝では首位走行中ギアボックストラブルによりリタイア。

その後は復活したベッテルに遅れを取り、マシントラブルも多発したことにより入賞が精一杯という結果が続きタイトル獲得は絶望的となった。数字上は僅かに可能性が残っていた第18戦アブダビGPではフリー走行から復活の兆しを見せ、予選では大差を付けてポールポジションを獲得、決勝でも充分なリードを築いていたがまたもマシントラブルに襲われリタイアに終わり、チャンピオン争いから脱落した。その後の第19戦アメリカGPでは予選2位からポールポジションを獲得したベッテルとのマッチレースを逆転で制し、6戦ぶりの勝利を飾る。最終戦となる第20戦ブラジルGPでは7度目のポールポジションを獲得。雨まじりとなった決勝では序盤首位からバトンに抜かれ順位を落とすも、セーフティカー導入により差が縮まり雨も止んだ中盤に首位に復帰。しかし追い上げてきたニコ・ヒュルケンベルグに追突されリタイアに終わった。

シーズン最多となる7度のポールポジションとベッテルに次ぐ4度の優勝を上げ、その速さを遺憾なく発揮したシーズンであったが、度重なるチームのミスやマシントラブルなどによりポイントを失うレースが多く、ドライバーズランキングは4位で終わった。

第15戦日本GP開催前に、翌2013年シーズンはメルセデス・ベンツから参戦することが発表された。

2013年[編集]

メルセデス W04を駆るハミルトン

2013年はメルセデスから参戦。チームメイトはカート時代の元チームメイト、ニコ・ロズベルグ。 3年で1勝しか上げていないメルセデスへの移籍は賛否両論があり、自身も「移籍してすぐに結果を出せるとは思っていない」と語っていたが[22]、冬のテストでは最後のバルセロナテストでトップタイムを記録し、メルセデスW04は高い競争力を持っているのではと期待された[23]

その期待通り、早くも第2戦マレーシアGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得。しかし、終盤明らかに速かったチームメイトのロズベルグがすぐ後ろを走行していたにもかかわらず、チームオーダーによって順位を維持したため物議を醸した(この時ハミルトン自身は無線で「ニコの方が自分より速いからニコを先に行かせてやってくれ」と言っている[24])。第3戦中国GPでは移籍後初のポールポジションを獲得。決勝では2戦連続となる3位表彰台を獲得した。その後はロズベルグが3戦連続でポールポジションを獲得し第6戦モナコGPでは優勝するなど、チームメイトの後塵を拝することになる。この不調についてハミルトンは、長年居たマクラーレンとメルセデスのマシンの感触の違い、特にブレーキングのフィーリングが違うせいで自信を持ってドライブできないのが原因と語った[25]

得意とする第7戦カナダGPから復調の兆しを見せ、3度目の3位表彰台を獲得。母国である第8戦イギリスGPでは2位以下を0.4秒以上引き離すコースレコードタイムで2回目のポールポジションを獲得。決勝レースも順調に後続を引き離していたが、このレースで多くのマシンを襲ったピレリのタイヤバーストトラブルの最初の犠牲者となり、最後尾まで順位を落としてしまう。終盤はセーフティカーにも助けられ4位まで挽回した。次戦第9戦ドイツGPでも2戦連続のポールポジションを獲得するが、決勝はペースに苦しみ5位フィニッシュ。

カナダと同様に得意とする第10戦ハンガリーGPで3戦連続のポールポジションからポール・トゥ・ウィンを決めて、移籍後の初優勝を果たした。第11戦ベルギーGPまで4戦連続ポールポジションとシーズン中盤には速さを見せたが、その後に圧倒的なパフォーマンスを発揮したレッドブルとベッテルを脅かすには至らず、ドライバーズランキング4位でシーズンを終えた。

キャリアで複数回勝利を上げられなかった初めてのシーズンである。しかし、リタイアしたのは第15戦日本GPのみという安定した走りを見せたこともあって、序盤の予測を覆し同年のポイントは自身が前年にマクラーレンで稼いた得点まであと1点のところまで迫った[26]

2014年[編集]

2014年もメルセデスから参戦。2014年からカーナンバーに固定ナンバー制度が導入され、カート時代に使っていた44を選んだ[27]。偶然だが、44は2007年のデビューからつけてきたナンバーの合計でもある(2、22、1、2、3、4、10)。

レギュレーションの大変革が行われた今年、冬のテストで明らかにライバルをリードしていたのがメルセデスのW05だった。開幕戦オーストラリアGPでポールを獲得し、決勝はパワーユニットのトラブルでリタイアするも僚友のロズベルグが圧倒的なリードで優勝したことによってそれは証明され、チャンピオンシップはハミルトンとロズベルグによって争われることが予想された。 第2戦マレーシアGPグランドスラムを達成しシーズン初勝利を飾る。第3戦バーレーンGPではポールポジションはロズベルグに譲るも、スタートでリードを奪うとその後の激しいバトルを制して勝利をもぎ取る。勢いそのままに第4戦中国GP第5戦スペインGPを連続ポール・トゥ・ウィンで制し、自身初となる4連勝を果たした。

ポイントリーダーとして迎えた第6戦モナコGPだったが予選決勝共に2位で終わり、早々にポイントリーダーの座を奪い返された。予選Q3の最後のアタックで暫定首位のロズベルグを上回るペースを見せた矢先に、前を走行していたロズベルグがブレーキングミスを犯してコース外にマシンを止めた事により黄旗が振られ、タイム更新が不可能となった。 2006年同レースのシューマッハによる「ラスカスゲート」を彷彿とさせるこの出来事により、ロズベルグの無罪が審議により証明されたにも関わらず、ハミルトンは明らかな不満を表し[28]、二人の関係は以降ぎくしゃくしたものとなる。

その後はやや精彩を欠き、特に予選の成績は低迷した[29]第7戦カナダGPはマシントラブルによりリタイア、第8戦オーストリアGPでは2位表彰台に登るものの、それぞれ予選でポール獲得可能なペースがあったにも関わらずミスにより逃している。第9戦イギリスGPでも予選でのミスにより6番手に沈むが、決勝では目覚ましいペースで追い上げ、ポールスタートのロズベルグがギアボックストラブルによりリタイアするのを尻目に2008年以来となる母国優勝を果たした。広がりつつあったポイント差を一気に縮める事にも成功した。しかし第10戦ドイツGP第11戦ハンガリーGPではそれぞれ予選Q1でブレーキトラブルによるクラッシュ、マシンから出火という不運に見舞われ後方スタートを余儀なくされるものの、共に追い上げ3位表彰台まで挽回した。ハンガリーでは終盤タイヤ戦略の異なるロズベルグを前に出すようにチームオーダーが出されるが、それを拒否してポジションを守り切った事によりチーム内で物議を醸した[30][31]

ロズベルグとの間の緊張感はシーズンが進むにつれ大きくなっていったが[32]第12戦ベルギーGPで接触という形で表れる。スタートでポールのロズベルグを抜いてトップにたったハミルトンだったが、次の周にロズベルグに追突された事によりタイヤがパンクし最後方に沈み、最終的にはリタイアした。一方のロズベルグが2位に入った事でまたしてもポイント差を広げられたが、第13戦イタリアGP第14戦シンガポールGPで共にハットトリックを飾り連勝したことにより、シンガポールをリタイアしたロズベルグに代わり再びポイントリーダーの座に立った。その後も第18戦ブラジルGP以外のレースを優勝してロズベルグとの差を広げ、2008年以来となる2度目のワールドチャンピオンに輝いた。

幾度かのマシントラブルや、本人の浮き沈みもあり、予選ではロズベルグに対して7勝12敗と遅れをとり、2014年シーズンから始まった最多ポール獲得者に送られるポールトロフィーも奪われてしまった。しかし、日本GPアメリカGPのようにレースで逆転するケースが目立ち、決勝レースでの強さが光った。その結果、11勝を挙げチャンピオンを獲得した。

2015年[編集]

母国イギリスGPで3勝目を挙げたハミルトン

2015年もメルセデスからワールドチャンピオンとして参戦。カーナンバーは、チャンピオンにのみ権限が与えられる1ではなく44を選択。

昨年同様テストから他を圧倒する速さを見せ、開幕戦オーストラリアGPをハットトリックで制し、幸先よくシーズンをスタートした。第2戦マレーシアGPでは2ストップ作戦をとり、1回ピット回数を減らしてきたフェラーリベッテルに敗れ、2位に終わる。しかし、続く第3戦中国GPをハットトリックで制し、第4戦バーレーンGPは終盤ブレーキトラブルを抱え、ライコネンの猛追を受けたものの、ポールトゥーウインを飾った。

ヨーロッパラウンドに入ると、メルセデスのマシンのスタートシステムに問題を抱え、スタートで出遅れるケースが目立った。また、第6戦モナコGPではトップを快走し、2位ロズベルグを20秒近く離していたが、チームの戦略ミスにより3位で終え、第10戦ハンガリーGPではスタートで後退し、ロズベルグを抜こうとしてコースアウト、さらにリチャルドとの接触によりペナルティを受け、表彰台すら逃したものの、夏休み明けの第11戦ベルギーGPではこれらの問題を克服し、ポールトゥーウィンで制すと、続く第12戦イタリアGPでは自身2度目のグランドスラムを達成した。

第13戦シンガポールGPではメルセデス勢はフリー走行から決勝まで共にペースが上がらず、予選ではセナの持つ連続PP8回の記録に挑んだが、フェラーリ勢とレッドブル勢の後塵を拝する5番手で終え、連続PP記録は7で途絶えた。さらにはレース中盤で今シーズン初のリタイアを喫した。しかし、続く第14戦日本GPではポールポジションをロズベルグに譲ったものの、スタートでトップに立ち、その後は危なげない走りで、憧れのセナに並ぶ通算41勝目を挙げた。第15戦ロシアGPではロズベルグのリタイアで楽にトップに立つと、2位のベッテルに対して、付け入る隙を見せずに勝利を飾る。第16戦アメリカGPでもスタートでロズベルグをかわしてトップに立つが、再度抜き返される。しかし2度のセーフティカーも味方し、さらにはロズベルグがコースアウトした隙を突いて、トップを奪って勝利を収め、2年連続、自身3度目のワールドチャンピオンを獲得した。

フェラーリの大躍進、マシンの問題や、チーム・自身のミス、シンガポールGPでの急失速などもあり、決して楽なシーズンではなかったが、昨年以上の安定感に予選の速さも加わり、シーズンを通してチームメイトであり、チャンピオンシップのライバルであるロズベルグを上回り、2年連続での2桁勝利と、11PPを挙げた。その結果、シーズン中1度もポイントリーダーの座を譲ることなく、自身3度目のワールドチャンピオン戴冠を実現した。

議論を呼んだレース[編集]

2007年ハンガリーGP
予選Q3の終盤、最終アタックを前にピットインしたチームメイトのアロンソが、ピットアウトのタイミングを図るために20秒間停止。ハミルトンはその間にピットインし、アロンソの後で待機していたが、アロンソはチームから発進の指示が下った後も10秒間停止し続けた。ハミルトンは後ろで10秒間余分に待機されたことにより、わずかな差で最終アタックができなかった。アロンソは「ハミルトンの最終アタックの機会を妨害した」と判定され、5グリッド降格のペナルティを受けた。また、チームに対しても「このような行為はスポーツに損害を与える、汚すもの」として、コンストラクターズポイントの獲得を本GPにおいて認めないことと、自チームドライバーが優勝してもコンストラクターズトロフィーは受け取ることができないというペナルティが課せられた[33]
アロンソは「余分な10秒」について、「取り付けられたタイヤは正しいのかを聞いていた」と妨害が故意でないことを主張した。ロン・デニスは、Q3序盤にハミルトンがチームからの無線による指示を無視し、アロンソを先行させなかったことで、予選での戦略を妨害したことが発端と発言している[34]
2008年カナダGP
セーフティカー導入中のピットアウトの際、ピットレーン出口の赤信号を見落とし、ルールに従い停止していたライコネンの後部に激突した。レース後に、次戦フランスGPでの予選グリッド10番手降格のペナルティが科された。また、この件で「レース中なのにピット出口に赤信号を付けるなんて、くだらないルールだ」と、自身のミスを省みずルールを非難するコメントをした[35]
2008年ベルギーGP
首位ライコネンに対して2位ハミルトンは42周目の最終コーナーで外側からオーバーテイクを仕掛けるが、接触を避けるためシケインを不通過してライコネンの前に出た。シケインの不通過を自覚していたため、ホームストレートで一端ライコネンを先行させたが、直後の第1コーナーで再びオーバーテイクした。この行為がレース後の審議で「明確に順位を戻しておらず不十分である」と裁定され、レース後にレースタイムに25秒加算ペナルティが下された。首位でゴールしたが、これにより3位に降格となった。
マクラーレンはこの裁定を不服とし、FIAの国際控訴裁判所に控訴したが、レース中であればドライブスルーペナルティに相当し、抗議や控訴はできないレギュレーションのため、棄却された。マーティン・ウィットマーシュはレース中に、ハミルトンの行為に問題がないことをスチュワードに2度確認したと証言している[36]
FIAの裁定に対する批判の声も多く、議論を呼んだ[37][38][39]
2008年日本GP
スタートに失敗した後、1コーナーへの進入でブレーキングを遅らせて大きく白煙を上げるほどタイヤをロックさせ、ライコネンやマッサらがコース外に退避するかたちとなった。これによりドライブスルーペナルティを受けたが、この処分にハミルトンとチームは重過ぎると反論している。実際過去に、接触を伴わないブレーキングミスのみに対するペナルティの前例はなく、異例の措置といえる。また、このブレーキングについて数名のドライバーから批判の声が上がり[9]、後日GPDAで話し合いがもたれた[10]
2009年オーストラリアGP
4位でゴールした後、トゥルーリのペナルティにより3位に繰り上がったが、4日後に失格の裁定が下された。失格の理由は、故意に紛らわしい証言をしたことによる、「国際スポーティングコード違反」とされた。セーフティカー出動中にトゥルーリがコースアウトし、この間にハミルトンがトゥルーリをオーバーテイク。セーフティカー出動中の追い越しによるペナルティを警戒したチームの指示により再度トゥルーリを先行させた[40]。その後の審議で、ハミルトンがトゥルーリを意図的に先行させたか否かが問われたが、ハミルトンは「意図的ではなかった」と証言した[41]。これによりトゥルーリには、セーフティーカー出動中のオーバーテイクを理由にペナルティが下った。
しかしこのときの審議ではFIAはチームとハミルトンの無線の内容を把握しておらず、無線ではチームがトゥルーリを先行させるように指示していたことが後に明らかになったため意図的に先行させたと判断され、ハミルトンの証言が虚偽であることが発覚した[40]
当初、マクラーレン代表のウィットマーシュは、最初の審議でFIAが無線の内容を把握していることを前提に証言をしていたため誤解が生じ、故意に虚偽の発言をしたわけではない、と主張していたが[42]、ハミルトン自身は、チームのスポーティング・ディレクターのデヴィッド・ライアンから虚偽の証言をするように言われ、それに従ったと発言し、チームもそれを認めた[43]
2011年モナコGP
レース中にロウズヘアピンフェリペ・マッサと、サン・デボーテパストール・マルドナドと接触し、レース後にスチュワードに呼び出され審議の結果ペナルティを受けた。この裁定に対してハミルトンは「最低の冗談」と不満を漏らし、ペナルティを受けた理由については「僕が黒人だからじゃない?」と人種差別があったかのような発言をし、問題となった。2件の接触についても「あのドライバーたちは本当にふざけている。馬鹿げている」とマッサとマルドナードを批判し[44]、物議をかもした。後日ハミルトンはマッサとマルドナード双方に直接電話にて謝罪し、両ドライバーはその謝罪を受け入れるコメントをした[45][46]
またFIAに対しても書簡にて謝罪し、FIA会長ジャン・トッドは「ルイスの発言は受け入れがたいが過剰反応はしたくなかった。裁判所で問題を解決することもできたが正式な手続きはしていない。」と、事実上謝罪を受け入れるコメントをした[47]
これを機に、ハミルトンとマッサとの間で起こったクラッシュはこのシーズンだけで6回(モナコGP、イギリスGP、シンガポールGP、日本GP、インドGP他1回)、マルドナルドとはベルギーGP、2012年ヨーロッパGPなどで接触が生じている。
2013年マレーシアGP
スタートでフェラーリ勢が後退したのを尻目に、レッドブルの2台と抜きつ、抜かれつのバトルを展開していたが、終盤は燃費が厳しくペースを落として3位を走っていたところに、チームメイトのロズベルグが迫ってきていた。明らかにロズベルグのほうが速かったにもかかわらず、ロズベルグもタイヤや燃費をセーブすることを理由に、ロス・ブラウンは順位をキープすることを指示した。結果として、メルセデス移籍後初の表彰台を手にしたが、ロズベルグを先に行かせてレッドブルを苦しめるべきだとの批判もあり、チームオーダーを守らなかったために問題となったレッドブルとは対照的なかたちで物議を醸した[48]
2014年ベルギーGP
予選ではチームメイトのロズベルグに敗れ、2番手に終わったが、レースセットには自信があり、予選終了後の会見では自信を見せていた。決勝レースではスタートでトップを奪ったが、2周目にロズベルグに追突され大きく後退、その後も接触のダメージの影響かペースが上がらず、ポイントをとれる状況でもなかったので、パワーユニットをセーブするためにレース終盤にリタイヤした。チャンピオンを争う2台が接触したということで物議を醸し、スチュワードからロズベルグにペナルティを与えられることもなかったが、この一件でダイムラー本社が介入し、ロズベルグを公式に謝罪させて、懲罰を課した[49]。このレースでの接触が結果として、ハミルトンの自信を確固たるものとし、残り7戦中を5連勝を含む6勝を挙げて、ベルギーの時点では29ポイントもあった差を逆転してチャンピオンを獲得した。
2015年モナコGP
2014年末から長らく引き延ばしていたメルセデスとの3年契約を結び、フリー走行から精力的に走行をこなし、予選ではマシンのバランスに満足していなかったものの、モナコ初ポールポジションを獲得。決勝でも序盤から後続を引き離し、勝利は確実と思われた。しかし、ロマン・グロージャンマックス・フェルスタッペンのクラッシュで導入されたセーフティカーの際にピットインしたが、この時、直前にバーチャルセーフティカーが導入されていたタイミングでは2位ロズベルグとは25秒程あった差が、実物のセーフティカー導入に切り替わり、ピットイン直前にこのセーフティカーに引っかかったことにより10秒近く縮まってしまったこと、またピットストップ時にザウバーのマシンに阻まれてピットアウトが数秒遅れたことにより、この時にステイアウトしていたロズベルグ、さらにはベッテルに抜かれてしまい、抜き返すことができずに3位に終わった。このレースではハミルトンから勝利を奪ったと、メルセデスチームに批判が相次いだ。[50]

上記の他、2007年スペインGPでチームメイトの作戦をばらしてしまう、同年モナコGPでは「ぼくはNo.2ドライバー」と皮肉った発言、2012年ベルギーGP予選でチームメイトに負けたのは新型パーツを使わなかったせいだと批判し、非公開のテレメトリーデータをツイッターに掲載してしまった騒動(ツイッターゲート)など[51][52]、思慮に欠けた言動について度々批判されていた[52]

エピソード[編集]

  • F1参戦当初は父・アンソニー・ハミルトンがマネージャーとしてほぼ全てのグランプリに帯同していた。
  • 弟のニコラス・ハミルトンは脳性麻痺を患っているが、いくつかのグランプリではガレージ内で観戦している。2011年4月には、ブランズ・ハッチで行われたルノー・クリオ・カップに出場し、レーシングドライバーデビューを果たした[53]
  • シュトゥットガルター・ツァイトゥング紙のインタビューの中で、ディスレクシアであることを告白している。[54]
  • 両親は2歳の時に離婚している。10歳になるまで母親のカーメンと暮らし、その後、アンソニーの後妻のリンダ・ニコラスの家に引っ越した。カーメンとは今でも親しい関係にある。
  • 幼い頃からアイルトン・セナに憧れていることを公言しており、しばしばレース後の公式インタビューなどでもそれを感じさせる発言をする。セナが亡くなった日には泣きさけんだと語っている[55]。2010年にイギリスBBCの人気番組「トップ・ギア」の企画で、セナが初タイトルを獲得したマシン「マクラーレン・MP4/4」をドライブしたことがある。ヘルメットカラー・デザインはセナとよく似たものを使用しているが、黄色いヘルメットにした理由を「パパ(父アンソニー)が見つけやすいように」と答えている。セナの遺族に承諾を取って、後ろ側のみセナのデザインにしたヘルメットを使用したこともある。ただし、彼の母国であるブラジルGPは未勝利。
  • 2007年ヨーロッパGPにおいて、1コーナーでコースアウトしてグラベルから脱出できなくなった際、エンジンはかかっていたため、近くのクレーンに吊り上げてもらいレースに復帰した。過去にこのような方法でのレース復帰は前例がなく、それを規制するレギュレーションもなかったが、このようなケースでは全てのドライバーに平等な対応ができないため、以降クレーンでのレース復帰はレギュレーションで禁止された。
  • 2007年には、自伝「My story(マイ・ストーリー)」が出版された。2008年には、その改訂版も出版された[56]
  • 2008年12月、世界的に権威ある「ING/F1 - Racing Formula1 survey」により、視聴習慣や好み、平均的なF1ファンのプロフィールなどを追求するための世論調査が、世界中に渡って徹底的に実施された。調査にはおよそ7万人が投票し、「好きなドライバー部門」で、全体の約27%の票を得て1位に選ばれた。2位は約17%を獲得したキミ・ライコネン[57]
  • 2011年には「僕にとって宿命のライバル、そして最大のライバルは、永遠にフェルナンド(アロンソ)だ。」と語っており、「僕らがプロストとセナだとすれば、彼は僕にとってプロストだ。どちらかのドライバーを選ぶとすれば僕は迷わずアイルトンを選ぶ。だから彼は僕にとってプロストということになるんだ。」とも語っている。ベッテルについては「彼が現代のマンセル?、僕は彼に対してマンセルと同レベルの評価をすることはできない。」と評価している[58]
  • F1直下のカテゴリーとして、フォーミュラ2(1967年〜1984年)、国際F3000(1985年〜2004年)、GP2(2005年〜)と続いてきているこれらのクラスでチャンピオンになったドライバーは、F1ではチャンピオンになれないというジンクスがあったが、40年間続いていたこのジンクスを初めて破ったドライバーである。
  • 母国のイギリスGPではファンサービスのため、レース終了後によくドーナツターンを披露している[59]。このような行為は安全性を損なうとされFIAから厳しく規制されている行為であるため(ただし2014年から一部緩和されている)、近年ドライバーがグランプリで行うことはめったにないが、ハミルトン自身はファンサービスやエンターテイメントの面から見てドーナツターンなどのパフォーマンスに肯定的である。[60]
  • ハンガロリンク上海インターナショナルサーキットを得意としており、双方共に歴代最多タイの4勝を挙げている。
  • ターボエンジン搭載車で21勝を挙げており、これはアイルトン・セナの32勝に次いで2位の記録である。(2015年現在)
  • F1ではカーナンバーが「ゾロ目」の時のみチャンピオンを獲得している。
  • 過去に下記のような賞を受賞している。
2007年11月7日、ドイツの「ビルド・アム・ゾンタック」が選定する、ヨーロッパモータースポーツ界で最も名誉ある賞「ゴールデン・ステアリング賞」を受賞した[61]
2007年12月3日、「オートスポーツ・アワード」において、26年の同賞の歴史の中で初めて「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ブリティッシュ・コンペティション・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の3賞を同時に受賞した[62]
2008年2月18日、「ローレウス世界スポーツ賞」の授賞式において、「年間最優秀成長選手(ブレークスルー・オブ・ザ・イヤー)」を受賞した[63]
2008年11月27日、ドイツのメディアグループ「ヒューバート・ブルダ・メディア・グループ」から、「バンビ賞」を受賞した[64]
2008年12月7日、「オートスポーツ・アワード」において、2年連続で「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した[65]
2008年12月8日、「BRDC」の授賞式において、ゴードン・ブラウン英国首相から「ゴールド・スター」賞が授与され、スターリング・モスから賞を受け取った[66]
2009年2月10日、「インターナショナル・オートモービル・フェスティバル」において、「パルムドール賞」を受賞した[67]
  • ブルドッグの「ロスコー」を飼っており、2013年の開幕前テストの際にはパドックに連れてきていた。その後、バーニー・エクレストンがロスコーにパドックパスを配布したこともあってパドックで散歩する姿がよく見られていたが、最近は姿を見せない。なお、ジョン・ワトソンは「F1パドックに犬はふさわしくない」などと批判していた。[68][69]
  • パガーニに特注したゾンダ760LHを愛車としており、2015年11月9日早朝にモナコで交通事故を起こしている[70]

F1での記録[編集]

更新された記録

レース戦績[編集]

GP2[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 総合順位 ポイント
2006年 ARTグランプリ VAL
FEA

2
VAL
SPR

6
SMR
FEA

DSQ
SMR
SPR

10
EUR
FEA

1
EUR
SPR

1
ESP
FEA

2
ESP
SPR

4
MON
FEA

1
GBR
FEA

1
GBR
SPR

1
FRA
FEA

19
FRA
SPR

5
GER
FEA

2
GER
SPR

3
HUN
FEA

10
HUN
SPR

2
TUR
FEA

2
TUR
SPR

2
ITA
FEA

3
ITA
SPR

2
1位 114

F1[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 WDC ポイント
2007年 マクラーレン MP4-22 AUS
3
MAL
2
BHR
2
ESP
2
MON
2
CAN
1
USA
1
FRA
3
GBR
3
EUR
9
HUN
1
TUR
5
ITA
2
BEL
4
JPN
1
CHN
Ret
BRA
7
2位 109
2008年 MP4-23 AUS
1
MAL
5
BHR
13
ESP
3
TUR
2
MON
1
CAN
Ret
FRA
10
GBR
1
GER
1
HUN
5
EUR
2
BEL
3
ITA
7
SIN
3
JPN
12
CHN
1
BRA
5
1位 98
2009年 MP4-24 AUS
DSQ
MAL
7
CHN
6
BHR
4
ESP
9
MON
12
TUR
13
GBR
16
GER
18
HUN
1
EUR
2
BEL
Ret
ITA
12
SIN
1
JPN
3
BRA
3
ABU
Ret
5位 49
2010年 MP4-25 BHR
3
AUS
6
MAL
6
CHN
2
ESP
14
MON
5
TUR
1
CAN
1
EUR
2
GBR
2
GER
4
HUN
Ret
BEL
1
ITA
Ret
SIN
Ret
JPN
5
KOR
2
BRA
4
ABU
2
4位 240
2011年 MP4-26 AUS
2
MAL
8
CHN
1
TUR
4
ESP
2
MON
6
CAN
Ret
EUR
4
GBR
4
GER
1
HUN
4
BEL
Ret
ITA
4
SIN
5
JPN
5
KOR
2
IND
7
ABU
1
BRA
Ret
5位 227
2012年 MP4-27 AUS
3
MAL
3
CHN
3
BHR
8
ESP
8
MON
5
CAN
1
EUR
19
GBR
8
GER
Ret
HUN
1
BEL
Ret
ITA
1
SIN
Ret
JPN
5
KOR
10
IND
4
ABU
Ret
USA
1
BRA
Ret
4位 190
2013年 メルセデス F1 W04 AUS
5
MAL
3
CHN
3
BHR
5
ESP
12
MON
4
CAN
3
GBR
4
GER
5
HUN
1
BEL
3
ITA
9
SIN
5
KOR
5
JPN
Ret
IND
6
ABU
7
USA
4
BRA
9
4位 189
2014年 F1 W05 AUS
Ret
MAL
1
BHR
1
CHN
1
1位 384
F1 W05 Hybrid ESP
1
MON
2
CAN
Ret
AUT
2
GBR
1
GER
3
HUN
3
BEL
Ret
ITA
1
SIN
1
JPN
1
RUS
1
USA
1
BRA
2
ABU
1
2015年 F1 W06 Hybrid AUS
1
MAL
2
CHN
1
BHR
1
ESP
2
MON
3
CAN
1
AUT
2
GBR
1
HUN
6
BEL
1
ITA
1
SIN
Ret
JPN
1
RUS
1
USA
1
MEX
2
BRA
2
ABU
2
1位 381
2016年 F1 W07 Hybrid AUS
2
BHR
3
CHN
7
RUS
2
ESP
-
MON
-
CAN
-
EUR
-
AUT
-
GBR
-
HUN
-
GER
-
BEL
-
ITA
-
SIN
-
MAL
-
JPN
-
USA
-
MEX
-
BRA
-
ABU
-
2位* 57*
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)
  • * : 今シーズンの順位。(現時点)
  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
  •  : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ガーディアン紙 2006年5月23日
  2. ^ デビュー戦での表彰台は、1996年ジャック・ヴィルヌーヴ以来11年ぶり。
  3. ^ 22歳154日での初優勝は、当時のF1史上4番目の年少記録。
  4. ^ 参戦初年度の複数回優勝はF1史上4人目。
  5. ^ a b F1-Live.com 2008年2月14日
    F1-Live.com 2008年2月16日
  6. ^ F1-Live.com 2008年7月21日
  7. ^ F1-Live.com 2008年6月24日
  8. ^ F1-Live.com 2008年9月16日
  9. ^ a b F1-Live.com 2008年10月16日
  10. ^ a b F1-Live.com 2008年10月17日
  11. ^ F1-Live.com 2009年3月21日
  12. ^ F1-Live.com 2009年7月14日
  13. ^ F1-Live.com 2009年7月17日
  14. ^ GPupdate 2010年6月27日
  15. ^ ESPN F1 2010年7月10日
  16. ^ ESPN F1 2011年6月13日
  17. ^ ESPN F1 2011年6月13日
  18. ^ ESPN F1 2011年10月27日
  19. ^ ESPN F1 2011年11月11日
  20. ^ “FIA、ルイス・ハミルトンの予選失格を説明”. F1-Gate.com. (2012年5月17日). http://f1-gate.com/hamilton/f1_15319.html 2012年5月31日閲覧。 
  21. ^ “ハミルトン、マクラーレンへの不満をぶちまける”. AUTO SPORT web. (2012年5月30日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=41296 2012年5月31日閲覧。 
  22. ^ ESPN F1 2012年10月7日
  23. ^ Skysports 2013年3月5日
  24. ^ Topnews 2013年3月27日
  25. ^ ESPN F1 2013年5月25日
  26. ^ [1]
  27. ^ 2014年2月8日 GPUpdate
  28. ^ ESPN F1 2014年5月25日
  29. ^ BBC Sport 2014年7月25日
  30. ^ ESPN F1 2014年7月28日
  31. ^ ESPN F1 2014年7月29日
  32. ^ ESPN F1 2014年7月29日
  33. ^ F1-Live.com 2007年8月6日
  34. ^ F1-Live.com 2007年8月5日
  35. ^ F1-Live.com 2008年6月11日
  36. ^ F1-Live.com 2008年9月10日
  37. ^ F1-live.com 2008年9月9日
  38. ^ F1-live.com 2008年9月9日
  39. ^ PLANET F1.com 2008年9月8日
  40. ^ a b F1-Live.com 2009年4月2日
  41. ^ F1-Live.com 2009年4月3日
  42. ^ GP update 2009年4月2日
  43. ^ F1-Live.com 2009年4月4日
  44. ^ ESPN F1 6月1日
  45. ^ The F1 Times 2011年6月5日
  46. ^ ESPN F1 2011年6月10日
  47. ^ ESPN F1 2011年6月9日
  48. ^ Topnews 2013年3月26日
  49. ^ Topnews 2014年8月29日
  50. ^ Topnews 2015年5月26日
  51. ^ Jim (2012年9月2日). “ハミルトン、心境吐露で"ツイッターゲート"騒動”. ESPN F1. 2012年9月3日閲覧。
  52. ^ a b Jim (2012年9月3日). “深刻化する"ツイッターゲート"”. ESPN F1. 2012年9月3日閲覧。
  53. ^ ESPN F1 2011年4月4日
  54. ^ topnews 2015年12月26日
  55. ^ The Sun 2007年12月3日
  56. ^ F1-Live.com 2008年12月2日
  57. ^   マクラーレン公式サイト
  58. ^ AutoSport 2011年3月31日
  59. ^ F1-Gate.com 2009年6月22日
  60. ^ AutoSport 2009年7月11日
  61. ^ F1-Live.com 2007年11月9日
  62. ^ F1-Live.com 2007年12月4日
  63. ^ F1-Live.com 2008年2月19日
  64. ^ F1-Live.com 2008年11月27日
  65. ^ F1-Live.com 2008年12月9日
  66. ^ The Official Formula 1 Website 2008年12月8日
  67. ^ F1-Live.com 2009年2月12日
  68. ^ http://f1-gate.com/hamilton/f1_18439.html
  69. ^ http://f1-gate.com/hamilton/f1_19611.html
  70. ^ 疲労のハミルトン、2.8億円のスーパーカーで事故 - AUTO SPORTS 2015年11月13日付

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

タイトル
先代:
キミ・ライコネン
F1ドライバーズチャンピオン
2008年
次代:
ジェンソン・バトン
先代:
セバスチャン・ベッテル
F1ドライバーズチャンピオン
2014年-2015年
次代:
-

Template:メルセデスAMG F1