マリオ・イリエン

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マリオ・イリエン

Mario Illien
マリオ・イリエン(2006年)
生誕 (1949-08-02) 1949年8月2日(74歳)
クール, スイス
業績
専門分野 自動車エンジニア
設計 レースエンジン設計者

マリオ・イリエン(Mario Illien, 1949年8月2日 - )は、スイスグラウビュンデン州クール出身のレース用エンジン設計を専門とするエンジニアの第一人者。

イリエンが6歳の1955年にモーターレースが禁止された国のスイスに住んでいたにもかかわらず、1960年代にスポーツに興味を持ち、スイスに住むスウェーデン人駐在員のジョー・ボニエのキャリアをたどる。

初期のキャリア[編集]

技術製図技師として訓練を受け、ビール大学の工学部で機械工学を学ぶ。

1976年に卒業し学位を取得しエンジニアとしてのキャリアを再開。

1971年、ボニエと共に最初のモータースポーツ関連の仕事に就き、マクラーレンの古いカスタマーシャシーの準備を手伝うが、ボニエは翌年、ル・マン24時間レースローラT280の事故で死亡する。

1972年、フレッド・シュタルダーに雇われ、レーシング・オーガニゼーション・コース・チームが運営するル・マンプロトタイプで使用する、4気筒のクライスラーシムカを改造した。

このエンジンは、1970年代半ばにF2で使用されたが、その時期には、イリエンはシュタルダーの雇用を離れ、ビール大学に再入学していた。

卒業後、彼のキャリアはモータースポーツから軍事工学に移行した。彼はクロイツリンゲン英語版モワグ英語版(現在はジェネラル・ダイナミクスが所有)に参加し、装甲車両用のディーゼル・エンジンを設計した。

モワグにいる間、イリエンはモータースポーツへの関心を維持した。

コスワース[編集]

1979年、30歳で仕事を辞め、ノーサンプトンにあるコスワースの設計部門で働くためイギリスに渡った。

コスワースに5年間勤務し、フォードDFYを含む同社のレーシング・エンジンの設計と開発に貢献した。

ポール・モーガンドイツ語版と出会い、キャリアの次の段階が始まるのもコスワースだった。

イルモア・エンジニアリング設立[編集]

イルモア・シボレー265-Aエンジン英語版
(1986年 - 1993年)

1983年、イリエンとモーガンはインディカー・ワールドシリーズ用のコスワースDFXに取り組んでいたが、より競争力のある代替品が必要であることが判明し、翌年、2人はプロジェクトを開始し、ロジャー・ペンスキーに支援を求めた。

ペンスキーは、ゼネラルモーターズからの資金援助を見つけ、1984年、新会社イルモア・エンジニアリングが設立され、4者はそれぞれ25%のシェアを持った。

モーガンはビジネスの製造と商業面を管理し、イリエンは設計作業を担当し、1986年に、イルモアはインディカーに参戦した。

フォーミュラ1[編集]

イルモア2175Aエンジン
(1991年 - 1994年)
Gフォース・GF05(2001年)
(イルモア・シェビーエンジン搭載車)

1989年、F1に参加することを決め、3.5L V10の開発を開始した(2175A)。イルモアは、1991年にレイトンハウス(CG911)に、1992年にティレル(020B)に供給し、1993年までにメルセデス・ベンツと提携し、ザウバーのデビューシーズン(C12)にザウバーバッジ供給した。1994年にはパシフィック(PR01)に供給した。ザウバーと提携したメルセデスは、1993年後半、シボレーが所有していたイルモアの権益(40%)を購入し、その翌年からザウバーに供給されたエンジンは、メルセデス・ベンツ 2175Bのような名前となった。

1995年、メルセデス・ベンツマクラーレンと手を結んだ後も、イルモアは、メルセデスのエンジンビルダーとしての役割を継続し、1997年にイルモアにグランプリ初優勝をもたらし、その後、米国で達成したようなチャンピオンシップ優勝の成功を収めた。

事業の売却と再編成[編集]

2001年のモーガンの死後、メルセデスは経営への関与を強め、2003年2月12日、55%の株式を取得し、社名をメルセデス-イルモアに変更した。さらに、マーティン・ウィットマーシュの働きかけによって、2005年6月28日、当時、メルセデスの親会社であったダイムラークライスラーが残りの株式を購入して(Mercedes-BENZ HIGH PERFORMANCE ENGINES ltd.)[1][2](HPE 現HPP)が設立されるが、この時イリエンは自身の持つ25%の株式を売却していた。

2003年に消滅した改名前と同一名称の新会社・イルモア・エンジニアリング社(Ilmor Engineering Ltd.)が、2005年6月8日に設立される[3]

スペシャルプロジェクト部門が会社化されて、米国法人の(Ilmor Engineering, inc.)と連動する。

ILMOR Engineering Quarry Road, Brixworth, Northamptonshire, NN6 9UB, UK
2005.06.08 - ILMOR Engineering Ltd.[3]
 
Mercedes Benz HPP Mercedes-Benz Technology Centre[1][2]
Morgan Drive, Brixworth, Northamptonshire, NN6 9GZ, UK
2012.01.04 - Mercedes AMG High Performance Powertrains Ltd.
2005.07.20 - 2012.01.04 Mercedes-Benz HighPerformanceEngines Ltd.
2005.06.28 - 2005.07.20 Mercedes-Benz High Performance Engines Ltd.
2003.02.12 - 2005.06.28 Mercedes-ILMOR Ltd.
1983.10.11 - 2003.02.12 ILMOR Engineering Ltd.

タイムライン[編集]

コスワース B.ホジキンソン D.ソルターズ US ILMOR ENGINEERING Cosworth → US GM Chevrolet → Daimler Mercedes
1979 1979-1983
Cosworth
Engineering
ltd
ベン・ホジキンソン デビッド・
ソルターズ
1979-1983

Cosworth
Engineering ltd
1980
1981
1982
1983
1984 ILMOR
ENGINEERING ltd
1983.12.16-
2003.02.12
各25% ロジャー・ペンスキーGM(シボレー)
各25% M.イリエン、P.モーガン
1985 265A開発 (イルモア-シボレー)
1986 カーディフ大学

マンチェスター大学

D.Eng Mech.
インディカー (イルモア-シボレー) 参戦
1987 15戦中優勝5回、PP8回
1988 15戦中優勝14回、PP14回 McLaren
HONDA
1989 15戦中優勝13回
1990 15戦全勝
1991 レイトンハウス
1992 マーチ, ティレル
1993 (5%+5%→10%) ザウバー

1994 UCL
M.Eng Mech.
パシフィック
(1993.11- :シボレー → +25%) ザウバー
1995 Engineering
(F1)
35%

(Daimler)
Mercedes
(Chrysler)
Mercedes
McLaren
ILMOR


Martin
Whitmarsh
McLaren
1996
1997 ←GP初優勝
1998 Cosworth
Racing
ltd

Racing 1998-




Daimler
Chrysler





2007-
ダイムラーAG
1999
2000 (Indycar)
2001 2001.08-

ILMOR
ENGINEERING ltd

Mercedes-ILMOR ltd

Mercedes-BENZ
HighPerformance
Engines ltd (HPE)
共同設計
2002 (F1)
2003 HPD
と提携
(Indycar)
Mercedes-ILMOR ltd    55%
2003.02.12-2005.06.28            

Mercedes
McLaren
ILMOR






Martin
Whitmarsh
2004
2005  
  ILMOR
ENGINEERING ltd


2005.06.08 -
current
100%

Mercedes-BENZ
HighPerformance
Engines ltd (HPE)

2005.06.28-
2012.01.04
2006
2007 Ferrari GES
(F1)
2008
2009
2010 (Daimler)
Mercedes
F1
2011
2012 (Daimler)
Mercedes
High Performance
Powertrains ltd
(HPP)
イルモア
シボレー
(Daimler)
Mercedes
High Performance
Powertrains ltd
(HPP)

2012.01.04 -
current
2013
2014
2015 McLaren
HONDA
2016 北米ホンダ
HPD
(Indycar)
2017
2018
HONDA
2019
2020
2021
2022

エンジンメーカーへの技術支援サービス[編集]

IRLエンジン 設計運用支援[編集]

2003年2月12日に名前が変更された社内において、45%シェアホルダーのイリエンとペンスキーはスペシャルプロジェクト部門を保持した。

2003年シーズンから2005年シーズンにかけての、北米ホンダのレースエンジン部門・HPDが供給したIRLエンジンの設計開発を支援した[4][5][6][7]。(HIR Indy V8 series)

日本のホンダから派遣されていたHPDチーフエンジニアの堀内大資は、2002年に「毎月のようにイルモアさんのイギリスの研究施設へ通うようになり、開発計画の段階から一緒になってエンジンを仕上げることになった」という。

  • 2003年 HI3R (3.5L)
  • 2004年 HI4R (3.5L)
  • 2004年 HI4R-A (3.0L)
  • 2005年 HI5R (3.0L)

さらに、2006年以降、2011年までのIRLエンジンもこの系統の発展形で、

  • 2006年 HI6R (3.0L) 独占供給
  • 2007年 HI7R (3.5L) 独占供給
  • 2008年 HI8R (3.5L) 独占供給
  • 2009年 HI9R (3.5L) 独占供給
  • 2010年 HI10R (3.5L) 独占供給
  • 2011年 HI11R (3.5L) 独占供給

独占供給に移行したためにブロック、ヘッドなどの、個体数の揃ったこのシリーズから離れられずに、Ilmor Engineering, inc.のトラックサイドでの支援を受けて、さらに継続使用されたが、独占供給によるエンジニアの失職を防ぐものでもあった。

F1 PUの設計支援[編集]

2015年初頭、イリエンはレッドブルルノーのパワーユニットの改良を支援し[8]、タグ・ホイヤーバッジ名義でPUの設計支援をした。

2019年1月のマルコインタビュー報道でホンダPUの振動問題対策に関与[9]

2021年から2022年初頭、イリエン本人のインタビュー記事で、「ホンダsakuraの新骨格PUの設計開発に立ち会った」[10]

2007年から2008年[編集]

イリエンはエスキル・スッタースッター・レーシング・テクノロジー (SRT)を起用し、2007年テストを重ね、2008年、3気筒800ccのX3プロジェクトで会社をMotoGPに参加させた。

脚注[編集]

  1. ^ a b Mercedes-BENZ HIGH PERFORMANCE ENGINES ltd.”. find-and-update.company-information.service.gov.uk. 2022年8月28日閲覧。
  2. ^ a b Mercedes High Performance Powertrains · Morgan Dr, Brixworth, Northampton, UK”. google maps. 2022年8月28日閲覧。
  3. ^ a b Ilmor Engineering Ltd.”. find-and-update.company-information.service.gov.uk. 2022年8月28日閲覧。
  4. ^ Honda | inside HPD 1-1「インディ・プロジェクトの最前線基地として」”. honda.co.jp. 2022年8月1日閲覧。
  5. ^ Honda | inside HPD 1-2「インディ・プロジェクトの最前線基地として」”. honda.co.jp. 2022年8月1日閲覧。
  6. ^ Honda | inside HPD 2-1「IRL用エンジンの開発~イルモアとのコラボレーション」”. honda.co.jp. 2022年8月1日閲覧。
  7. ^ Honda | inside HPD 2-2「IRL用エンジンの開発~イルモアとのコラボレーション」”. honda.co.jp. 2022年8月1日閲覧。
  8. ^ Nimmervoll (2014年12月20日). “Red Bull glücklich über Mario Illiens Kooperation mit Renault” (German). motorsport-total.com. 2015年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月9日閲覧。
  9. ^ ホンダF1、2019年パワーユニット開発”. Formula1-Data. 2022年9月2日閲覧。
  10. ^ Hondaと共に燃焼プロセスの最適化を行ってきたMario Illien” (ドイツ語). auto motor und sport (2021年7月14日). 2022年9月2日閲覧。

外部リンク[編集]