ガストン・マッツァカーネ
ガストン・マッツァカーネ | |
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基本情報 | |
フルネーム | ガストン・ウゴ・マッツァカーネ |
略称表記 | MAZ |
国籍 |
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出身地 | 同・ラプラタ |
生年月日 | 1975年5月8日(48歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 2000 - 2002 |
過去の所属チーム | ミナルディ、プロスト、フェニックス |
出走回数 | 21 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
最終戦 | 2001年サンマリノGP |
ガストン・ウゴ・マッツァカーネ(Gastón Hugo Mazzacane, 1975年5月8日 - )は、アルゼンチン人レーシングドライバー。2000年3月12日にF1デビューを果たした。
プロフィール[編集]

ロードツーリズムレースで活躍した、レーシングドライバーのヒューゴを父に持つ。南アメリカF3、イタリアF3、欧州F3000を経て1999年にミナルディのテストドライバーとなり、2000年からセカンドドライバーとしてF1デビューを果たす。新人ではあったものの、チームメイトのマルク・ジェネより優れたパフォーマンスを見せ、17戦中11戦完走。入賞はなかったものの、シーズンで全23人中3番目に多いラップ数を記録した。アメリカGPではウェットからドライにタイヤ交換するタイミングを遅らせ、一時3番手まで浮上。2年連続チャンピオンのミカ・ハッキネンを抑えて走行し、インディアナポリスの大観衆を沸かせた。
2001年の始めにアロウズをテストするが、2001年1月にプロストのセカンドドライバーとして出走することが決定。しかし、チームメイトのジャン・アレジに比べてパフォーマンスが芳しくなかったことを理由にシーズン途中の第4戦サンマリノGPを最後にチームから放出され、ルチアーノ・ブルティにシートを譲ることとなった。
2002年にF1に新しく参戦すると期待されたチーム、フェニックスと契約をするが、チーム自体F1に参戦することはなかった(フェニックス自体、前年に経営破綻したプロスト・グランプリの資産をトム・ウォーキンショーらが買い取ったもので、チームとしての実体はないに等しかった)。
その後、アメリカに渡り2004年にチャンプカー・ワールド・シリーズに参戦。73ポイントを獲得し、シーズン17位であった。
2005年以降は南米に戻ってトップレースV6、フォーミュラ・トラック、ロードツーリズムなどに参戦している。
F1での年度別成績[編集]
年 | 所属チーム | 車番 | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 |
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2000年 | ミナルディ | 21 | 0 | 21位 | 10位・2回 | 0回 |
2001年 | プロスト | 23 | 0 | 25位 | 12位・1回 | 0回 |