井上隆智穂
| 井上 隆智穂 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 |
|
| 出身地 | 兵庫県神戸市 |
| 生年月日 | 1963年9月5日(55歳) |
| F1での経歴 | |
| 活動時期 | 1994 - 1995 |
| 所属チーム |
'94 シムテック '95 フットワーク |
| 出走回数 | 18 |
| タイトル | 0 |
| 優勝回数 | 0 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| 初戦 | 1994年日本GP |
| 最終戦 | 1995年オーストラリアGP |
井上 隆智穂(いのうえ たかちほ、1963年9月5日 - )は、日本の元フォーミュラ1ドライバーで元レーシングドライバー、実業家。兵庫県神戸市出身。血液型:O型。日本国外では「タキ・イノウエ (Taki Inoue) 」と呼称及び表記されることが多い。
目次
経歴[編集]
デビュー以前[編集]
神戸生まれ。幼少期に生沢徹などが載った雑誌などを見たことがきっかけでレーサーを志すようになる[1]。12歳の時には両親に内緒でレーシングカートを購入し、近所をバイクで走っていた高校生に混じって住宅街を走ったりしていた。
その後、自宅の近所にある片山義美のガレージ「カタヤマレーシング」を訪れ、練習用にマツダ・ファミリアを購入し、レース用に改造するとともにレースデビューに向けて練習に励んだ[2]。またこの頃はレース参戦資金捻出のために、ホテルでアルバイトをする。
デビュー/ジュニアフォーミュラ時代[編集]
1985年11月に、富士フレッシュマンシリーズに参戦してレースデビュー。1986年には、富士フレッシュマンシリーズの担当メカニックからの勧めもありイギリスに渡り、ドニントン・パーク・サーキットで開催されていた名門レーシングスクール「ジム・ラッセル・レーシングスクール」に入学し、卒業レースで2位を獲得する。その後、デイビッド・シアーズにライセンスの有無、スポンサーの有無を尋ねられレースに誘われる。
1987年には、イギリスのフォーミュラ・フォード1600のブランズハッチとスネッタートン選手権にスポット参戦した。1988年には同じくイギリスのフォーミュラ・フォード1600の、RACとエッソの両選手権にシーズン参戦した。当初はスポンサーの無い状態で走ったがすぐに資金不足となり、「物乞いするように」会社を訪ね歩いたという。
シーズン終了後に、イギリスF3選手権への参戦を目指しF3マシンのテスト走行を行う。1989年に日本に帰国したもののスポンサーを見つけることができず、一旦レースから離れスポンサー獲得活動をする傍ら、モータースポーツ専門誌「レーシングニュース」の編集部で働く[3]。
全日本F3時代[編集]
1990年[編集]
1990年から全日本F3選手権にシリーズ参戦した(クリアリーカナディアン ・ダラーラ)。しかしこの年は、バブル景気絶頂時で参戦台数が40台近くになるなど参戦台数が多い中で、マシンのセッティングが日本の環境に合わなかったため苦戦し連続予選落ちを喫した。この為オフシーズンにはイタリア本社に掛け合って、日本の環境に合うマシンを開発させた[4]。
1991年[編集]
1991年からは、英会話教室などを運営するNOVA GROUPのレース部門として、「スーパーノヴァ・レーシング」として参戦を開始した。マシンは改良されたものの上位争いをできるほどではなく、さらにこの年もバブル景気を受けて参加台数が40台を超える激戦であり入賞せずに終わった。最高位は10位[5]。
1992年[編集]
1992年には、チームメイトに同じく後にF1に上がる中野信治を起用した。コースに習熟したことや、ダラーラが日本の環境に合うマシンの開発に成功したこともあり、中野がポイントランキング5位を獲得し、井上もコンスタントに入賞圏内に入りポイントランキング10位を獲得した。シーズン最高位は4位[6]。またこの年よりインターナショナルF3リーグにも参戦した。
1993年[編集]
1993年にもコンスタントに入賞圏内を走り、昨年を上回るシーズンポイントランキング9位を獲得するなどの活躍を見せ(ランキング10位は同じく後のF1ドライバーの高木虎之介)、シーズン最高位4位を獲得した[7]。
また、F1日本グランプリの前座では日本人ドライバー最高位の予選3位を獲得し、F1関係者に存在を強くアピールした。さらに、インターナショナルF3リーグでも、54台が参戦する中を勝ち進み日本人ドライバー中3位(総合11位)を獲得した。
なお、F3では一貫してダラーラ・シャシーに乗り、「ダラーラ・ワークス」として中継などでも言われることがあったが、これはチームを設立した際、国内のシャシー販売代理店ル・マン商会が販売を断ったため、当時日本未参入だったイタリアのコンストラクターのダラーラに注文せざるを得なかったという事情がある。
その後井上は、物流大手のニッパックのサポートを受け、藤池省吉とともに「ダラーラ・オートモビル・ジャパン」を設立し、ダラーラ・シャシーの日本総輸入元を請け負った(現在は先述のル・マン商会である、現・株式会社ルマンが代理店である)。
国際F3000時代[編集]
1994年には再びヨーロッパに渡り、国際F3000選手権にチームと共にステップアップした。上位入賞を度々飾ったチームメイトのヴィンセンツォ・ソスピリに比べ、井上の成績は安定していたものの念願の表彰台獲得は果たせなかった。最高位は入賞直前の7位(当時入賞は6位までであった)。なおこの年の国際F3000選手権には、その後同じくF1ドライバーとなる野田英樹もフォルティから参戦していた。
なおこの頃、井上は自らのメインスポンサーでもあるNOVA GROUP総帥猿橋望の「秘書的な役割」を担っており、レースの無い平日にはNOVAの東京本部に勤務していたという。
F1[編集]
1994年[編集]
上記のとおり国際F3000選手権に参戦していたが、日本企業のNOVAやユニマットなどのスポンサーを持込み、1994年のF1日本GPで新興チームのシムテックからF1デビューを果たす。非力で古いトランスミッションを搭載した時代遅れなマシンにもかかわらず、予選を26位で通過したものの、決勝レースは豪雨のため片山右京やジョニー・ハーバートなどほかの複数のドライバー同様にホームストレート上でスピンしてリタイアした。
国際F3000で所属していたのがスーパーノヴァレーシング(大口出資者に語学学校のNOVAがいた)で、F1参入の際もNOVAがスポンサーであったため、古舘伊知郎はフジテレビジョンの実況で、井上を「F1駅前留学」と評した。
当初は1995年よりスーパーノヴァ・レーシングによるF1参戦を視野に入れ、元トムスGBのスタッフと共にデザインを起こすまで進められていたが中断した。さらにシーズン後に行われたF3000のテスト走行では終始好タイムを出していたために、F1シーズン参戦とF3000継続を迷ったものの、後述のようにF1シーズン参戦のオファーがあったためにF1への本格ステップアップを決めた。
1995年[編集]
翌1995年には中堅チームのフットワーク・アロウズに移籍してF1フル参戦した。F1にシーズンフル参戦した日本人レーシングドライバーとしては中嶋悟(1987年)、鈴木亜久里(1989年)、片山右京(1992年)に次ぐ4人目であり、さらに3人とは違い、日本の自動車メーカーからのサポートを全く受けずに参戦を実現したため注目を浴びた(中嶋はホンダ、鈴木はヤマハと無限、片山はヤマハのエンジンを搭載したマシンで参戦している)。しかしその後日本国内でF1中継を担当しているフジテレビジョンは、日本の自動車会社からのサポートを全く受けずに参戦をした井上を、中継や関連番組で多く取り上げることはなかった。
チームメイトはジャンニ・モルビデリとマッシミリアーノ・パピス。チームの慢性的な資金不足によるテスト不足(実際はシーズン中にテストは全く行われなかった)やエンジンパワーに劣るハートエンジンを搭載したマシンの競争力、信頼性の低さにも苦しめられたものの、予選で中段の位置を得ることも多く、予選では3回チームメイトを上回ったが、完走5回、最高位はイタリアGPの8位であった(当時入賞は6位まで)。
この年の井上は、現在でも取り上げられることの多い2度の珍しい事故に見舞われた。
- モナコGPのフリー走行でマシンがストップ。井上が乗車したままレッカー車にロープで牽引されピットへ戻ろうとしている最中、後方から猛スピードで走行してきたオフィシャルカー(同年に引退したラリー・ドライバーのジャン・ラニョッティがドライブしていた)に追突されマシンが横転した。井上は軽い脳震盪を起こし、またマシンは大破したが、ヘルメットを被っていたため大事に至らず、決勝レースには出場できた。
- ハンガリーGPではエンジントラブルのためマシンを停めた直後、エンジンから出火。シャーシにダメージが及ぶことを恐れ、消火器を持って自ら消火しようとした所、後方からやってきたタトラのレスキューカーに振り返りざま撥ねられた。井上はボンネットに乗り上げ、脚の傷みのため倒れこんでしまったが、この時も大事には至らなかった。この事故はその後、F1ファンの間で井上を象徴する出来事として語り継がれており、自らも事あるごとにネタにするほどである。2015年にはハンガリーGPの30周年記念にちなみF1公式サイトが選んだ「印象深い出来事ベスト30」で、この事件が4位に選ばれた[8]。
しかしこの2つの珍しい事故が、レーシングドライバー引退後も井上の存在を多くのモータースポーツファンの脳裏に留めさせることになった。
なおこの年、スーパーノヴァ・レーシングは国際F3000シリーズタイトルを獲得。ドライバーズランキングもヴィンセンツォ・ソスピリがチャンピオン、リカルド・ロセットが2位という成功を収めた。なお、この時のドライバーは共に1997年にデビューしたローラ・チームよりF1にエントリーしたものの、両者共に予選落ちし、ローラが開幕戦のみで撤退をしたため、シートを失う目に合った。
1996年[編集]
1996年はフットワーク・アロウズのジャッキー・オリバーから残留のオファーを受けたが固辞し[9]、その後ラルースやロータス、ミナルディと交渉した結果、ミナルディへの移籍が決まった。
その後イタリアで行われた参戦発表会に参加し、フィオラノ・サーキットでのテスト走行も行っていたが、シーズン開幕直前になって突如井上はシートを失う。持込みスポンサーであるユニマットが急きょ他の日本のチームへのスポンサーを決めたために、参戦の後ろ盾を失ったためとも報じられた。後に井上はこれを『Racing On』誌のインタビューで認めたが、詳細は語ろうとしなかった。結局このまま井上はF1を去ることとなった。
F1以後[編集]
F1以後は、1996年の鈴鹿1000kmにコンラッド・モータースポーツのポルシェ・911GT2参戦したのと(18周にエンジントラブルでリタイア)、1999年の全日本GT選手権第2戦からクラブイエローマジックのフェラーリ・F355でGT300クラスに4戦参戦したが[10]、これを最後にレーシングドライバー活動を終えている(しかし下記のように、その後も様々な形でレーシングマシンのドライブを行っている)。
なお上記の全日本GT選手権への参戦であるが、JGTCのGT300のチームに、チームの消滅でF1シートを喪失したソスピリのためのシートを掴もうと帰国したが、チーム側から井上自身の参戦を熱烈にオファーされ、「フェラーリに乗れるのであれば」と了承したという。
引退後[編集]
レーシングドライバー引退後はモンテカルロに在住し、1998年ごろより、イギリスでの若手ドライバー育成への限界を感じ、スーパーノヴァ・レーシングの株をシアーズ親子に売却し、オーナーの座を退く。
この頃より日本と往復しつつ様々なビジネスに取り組んでおり、ソスピリの他に高橋毅のマネージメントを担当するほか、一時は2002年に倒産したレイナードの欧州における資産を引き継いだとされる「International Racing Management(IRM)」社の経営陣にも名前を連ねていた[11]。
2001年にスーパーノヴァ・レーシングの同僚だったヴィンセンツォ・ソスピリが、イギリスのFortec Motorsportに協力する形で設立したFortec Italia Motorsportにスーパーノヴァ・レーシングのデイビッド・シアーズと共に旧型F3000マシンや人員、資金を提供し「ユーロノヴァ・レーシング」と改名した。井上がチームオーナー[12]、ソスピリが社長兼チーム監督として、GP2やインターナショナル・フォーミュラ・マスターなどのミドル及びジュニアフォーミュラカテゴリで活動していた。
2011年シーズンをもってスーパーノヴァ・レーシングがGP2から撤退したが、本人のTwiiterによれば、それまで「フルスポンサー」とよべる程度の支援を行っていたようである。Fortec Italia Motorsport時代は、スーパーノヴァ・レーシングや英会話学校のNOVAと共通したロゴを使用していた。なお同時期から、南アフリカのシエラレオネに「Thunderball」という名の鉱山会社を運営しており、盟友デイビッド・シアーズも関わりを持っているようである。
現在[編集]
チームオーナー[編集]
現在はヴィンセンツォ・ソスピリとともに、レーシングチーム「ヴィンセンツォ・ソスピリ・レーシング」を主宰し、アジアン・ル・マン・シリーズやブランパンGTアジア、ランボルギーニ・スーパートロフェオなどの複数の選手権で、ランボルギーニ・ウラカンGT3を走らせている[13]。
また、佐藤公哉やケイ・コッツォリーノ、黒田吉隆、笹原右京、根本悠生、道見ショーン真也、澤田真治、佐藤万璃音ら若手ドライバーのヨーロッパ挑戦をサポートしており、かつては下田隼成や関口雄飛[14]、セルゲイ・シロトキン[15]のサポートも行っていた。
2016年/2017年には、関口とコッツォリーノをアジアン・ル・マン・シリーズに「ヴィンセンツォ・ソスピリ・レーシング」で参戦させていた[16]ほか、2017年のマカオグランプリに参戦した関口に同行している。
執筆活動[編集]
さらに、TwitterやFacebookを活用しており、モータースポーツ関係のみならず、政治、経済など様々なジャンルに発言を行い、現役時代さながらの舌鋒で発信している。特にF1やF2、GP3チームの経営事情やドライバーの移籍情報に詳しく、2012年よりキミ・ライコネンがF1復帰することを世界中のどのメディアよりも速くリークし[17][18]、小林可夢偉のザウバー離脱についても語っていた。
2016年5月には、初の著書となる「タキ井上が教えます! リアルな裏F1」(東邦出版)を上梓した。また、東京中日スポーツで連載を行っているほか、週刊プレイボーイなどにも度々寄稿している。
エピソード[編集]
- 井上のF1参戦当時、全日本F3000選手権での表彰台獲得経験がある中谷明彦や野田英樹などの、国内で活躍していた日本人レーシングドライバーに対して発給されなかったスーパーライセンス が井上に発給されたことに対して、「井上がスーパーライセンスを金で買った」と揶揄する論評が日本国内の一部のモータースポーツジャーナリストの間で見られたと自らの著書などで語っている[19][20]。これに対して井上は「F1速報」のインタビューで、「自分がスーパーライセンスをお金で買ったとか言う人がいるけれど、そんな人はいない」と語っている[21]。当時のスーパーライセンスの発給基準は「実質的に国際F3000選手権に1シーズン出場しているか、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、南アフリカのF3選手権の現チャンピオンか、前年のF1世界選手権に5回以上スタートしている」となっており[22]、中谷や野田(1995年のフォルティからのスポット参戦前の再発給申請時点)はこれを完全にクリアしていなかったが、井上は1994年に国際F3000選手権にシーズン参戦しただけでなく入賞直前の7位を獲得しており、発給基準を完全にクリアしている。
- 日本の大手自動車メーカーの後ろ盾がないままに(つまり自分自身のスポンサー活動による資金調達のみで)F1にレギュラー参戦した日本人ドライバーは、現時点においては井上と小林可夢偉、山本左近しかいない。「本当にF1で活躍するような日本人ドライバーを育てたいのなら『金は出しても口は出すな』と言いたいですね」と発言している。また、2007年初めにはトロ・ロッソの買収を検討し、2008年末のホンダの撤退時はバーニー・エクレストンからホンダの買収を持ち掛けられたことを明かしている[23]。
- 自身のレーシングドライビングの技量については自虐的に語ることが多いが[24][25]、参戦時には、性能が劣るマシンでの参戦にも拘らず、現代のF1のレギュレーションであれば入賞となる8位と9位を記録した。全日本F3選手権でも参戦後期の1992年以降はコンスタントに上位入賞を記録していた[26]。
- 2010年には、かつて自らがドライブしたフットワーク・FA16を入手し、かつての姿にレストアするなどしている[27]。
- 2013年にはイギリス『AUTOSPORT』誌の非公式チャットで行われた「過去20年間で最悪のF1ドライバー」を選ぶ議論に参加し、自分をアピールして選出された[28]。ユーロノヴァが参戦するAUTO GPのハンガロリンクラウンドには、消火器を持って参上すると発表した[12]。
- 2014年にはイギリスのテレビ番組「トップ・ギア」の企画で、ポール・リカール・サーキットを2012年型のロータスF1でドライブし[29]、当時のロータスF1の現役ドライバーのロマン・グロージャンの8秒落ちのタイムで走行している[30]。
主なレースでの年度別成績[編集]
F1[編集]
| 年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | シムテック | S941 | BRA | PAC | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | EUR | JPN Ret |
AUS | 45位 | 0 | |
| 1995年 | フットワーク | FA16 | BRA Ret |
ARG Ret |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON Ret |
CAN 9 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL 12 |
ITA 8 |
POR 15 |
EUR Ret |
PAC Ret |
JPN 12 |
AUS Ret |
24位 | 0 |
JGTC[編集]
| 年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999年 | クラブイエローマジック | フェラーリ・F355 | GT300 | SUZ | FSW 8 |
SUG Ret |
MIN | FSW 12 |
TAI | TRM Ret |
32位 | 3 |
著書[編集]
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 「F1速報PLUS2」三栄書房 2010年 P.50
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.33 2016年
- ^ 「F1速報PLUS2」三栄書房 2010年 P.51
- ^ 「F1速報PLUS2」三栄書房 2010年 P.51
- ^ JAFモータースポーツ
- ^ JAFモータースポーツ
- ^ JAFモータースポーツ
- ^ 30 memorable Hungarian Grand Prix moments - formula1.com・2015年7月22日
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.116 2016年
- ^ JAFモータースポーツ
- ^ https://www.duedil.com/company/04240987/international-racing-management-limited/people
- ^ a b "1カ月遅れのエイプリルフール?!". STINGER.(2013年5月1日)2013年5月1日閲覧。
- ^ コッツォリーノと道見、今季Sトロフェオに参戦 - AUTOSPORTS Web・2015年3月30日
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.170 2016年
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.176 2016年
- ^ 「【AsLMS】関口雄飛参戦のVSR、富士で4位フィニッシュ。チームは2位浮上」motorsport.com 2016年12月7日
- ^ “Raikkonen return with Williams talk intensifies”. Yalla.F1. (2011年10月24日) 2011年11月30日閲覧。
- ^ “ウィリアムズ、キミ・ライコネンとの契約のためにカタールに飛ぶ?”. F1 Gate.com. (2011年10月25日) 2011年11月30日閲覧。
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.66 2016年
- ^ 「日本人F1ドライバー鈴鹿激闘史」ネコ・パブリッシング 2014年 P.78
- ^ 「F1速報PLUS2」三栄書房 2010年 P.52
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.21/ P.62 2016年
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.com からのアーカイブ
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.27 2016年
- ^ Interview: Top Gear meets Taki Inoue, F1's worst-ever driver, Top Gear 13 Aug 2015
- ^ JAFモータースポーツ
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.com からのアーカイブ
- ^ "自称ワーストF1ドライバー、井上隆智穂". ESPN F1.(2013年2月8日)2013年5月1日閲覧。
- ^ Twitter@Takiinoue 2014年5月27日
- ^ 「日本人F1ドライバー鈴鹿激闘史」ネコ・パブリッシング 2014年 P.79
外部リンク[編集]
- Taki Inoue (takiinoue) - Twitter
- Euronova Racing
- 株式会社Thunderball
- Motor Sport Magazine - Taki Inoue: interview with a pay driver
- 井上隆智穂インタビュー・F1参戦のメカニズムその1
- 井上隆智穂インタビュー・F1参戦のメカニズムその2
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