マイケル・アンドレッティ

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マイケル・マリオ・アンドレッティ
Michael Andretti
2017年 インディ500にて
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1962-10-05) 1962年10月5日(61歳)
出身地 ペンシルベニア州ベスレヘム
親族
デビュー 1983
所属 アンドレッティ・オートスポーツ
インディカー・シリーズでの経歴
過去所属
出走回数 317
優勝回数 42
ポールポジション 32
シリーズ最高順位 1位 (1991)
過去参加シリーズ
1983-1992
1993
1994-2002
CARTインディカー・ワールド・シリーズ
フォーミュラ1
CARTインディカー・ワールド・シリーズ
選手権タイトル
1991 1
受賞
1991 CARTインディカー・ワールド・シリーズチャンピオン
マイケル・アンドレッティ
基本情報
フルネーム マイケル・マリオ・アンドレッティ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州ベスレヘム
生年月日 (1962-10-05) 1962年10月5日(61歳)
F1での経歴
活動時期 1993
過去の所属チーム '93 マクラーレン
出走回数 13
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 1993年イタリアGP
テンプレートを表示

マイケル・マリオ・アンドレッティMichael Mario Andretti1962年10月5日 - )はアメリカ合衆国ペンシルベニア州ベスレヘム出身の元レーシングドライバー。1991年CARTチャンピオン。

父はF1インディカー・ワールドシリーズの元チャンピオンで1969年のインディ500優勝者のマリオ・アンドレッティ。息子のマルコと従兄弟のジョンアダムは現役のレーシングドライバー、叔父のアルドと末弟のジェフも元レーシングドライバーである。

2020年現在はインディカー・シリーズに参戦している、アンドレッティ・オートスポーツオーナー。

経歴[編集]

1981年に北アメリカ・フォーミュラ・フォード、1982年に北アメリカ・フォーミュラ・スーパー・veeでチャンピオンを獲得。1983年も北アメリカ・フォーミュラ・アトランティックでチャンピオンを獲得し、また2度目の参戦となったル・マン24時間レースでは、父マリオ、フィリップ・アリオーと組んで総合3位に入っている。順調にキャリアを積み重ね、同年の終盤にはCARTへの参戦を開始。翌1984年より本格参戦となりこの年は最高3位、1985年は最高位2位と順位を上昇させていった。

1986年に、初優勝を含め3勝を挙げランキング2位に食い込むと(PPも3回記録)、1987年にも4勝・2PPでランキング2位に入る等、ほぼ毎年優勝・PPを記録しランキング上位に顔を出すようになる。ただし1988年は未勝利でランキング6位に終わった(PPは1回マークし、非選手権では勝利も記録)。

CART時代(1991年)

1989年よりニューマン・ハースに所属。移籍初年度に2勝・2PPでランキング3位、2年目の1990年に5勝・4PPでランキング2位となり、1991年には8勝・8PPで念願のシリーズチャンピオンに輝く。1992年も1勝・3PPでランキング2位となり、アメリカにおいて、最も成功を収めたレーサーとしての地位を築いた。

F1参戦[編集]

マイケルが1993年のF1でドライブしたマクラーレン・MP4/8

父のF1時代にGPに同行していたマイケルは、アメリカ人ながら元々F1で成功することを夢としていた。1991年秋にフェラーリがチーム批判を繰り返したアラン・プロストを解雇した時にはプロストの後任としてフェラーリでF1に転向するのではないかと話題になり[1]、1991年・1992年とマクラーレン・ホンダのテストに参加した後、1993年にマクラーレンと本契約を結び、F1参戦が実現した。ただし、アンドレッティ曰く[2]、1992年のフェラーリ入りは交渉も進み大詰めを迎えていたのだが、ニューマン・ハース側がその契約を認めず破棄したため、実現しなかったとしている。紆余曲折あり、CARTチャンピオン経験者としてF1参戦することになったマイケルは、契約時に「プロストやアイルトン・セナにも勝つ自信がある」と強気なコメントを発し、F1でも成功できる自信を示していた。

しかし、迎えた開幕戦南アフリカGPではスタートでエンストし、その後デレック・ワーウィックに接触し4周リタイア。第2戦ブラジルGPでは、デビュー2戦目ながら予選5番手を獲得するも、決勝はスタート直後の1コーナーで、ゲルハルト・ベルガーを巻き込んで宙を舞う派手なクラッシュを起こし0周リタイア。そして第3戦ヨーロッパGPでも、オープニング・ラップでカール・ヴェンドリンガーに接触し、0周リタイア。開幕前は注目と期待の大きかったマイケルだが、チームメイトのセナとの予選でのタイム差や、3戦を終了した時点で全て接触リタイア(セナは2勝・2位1回)で全周回合わせても4周足らずという状況に期待の声は急速に薄まっていった。

第4戦サンマリノGPではようやくまともに周回を重ね、一時5位まで上昇したが、結局32周目に単独スピンを喫し4戦連続リタイアに終わった。第5戦スペインGPで5位に入りF1初入賞、その後暫くは完走を続け、第8戦フランスGPでは6位に入り2度目の入賞となった。

しかし第9戦イギリスGPでは、スタート直後にジャン・アレジと接触してスピンを喫し0周リタイア。その後も第10戦ドイツGPでは、5周目の接触事故でリタイア、第11戦ハンガリーGPではスロットルトラブルによりリタイア(マシントラブルによるリタイアはこれのみ)と3戦連続リタイアを喫した。

第12戦ベルギーGPは入賞圏外の8位で完走、続く第13戦イタリアGPでようやく3位表彰台を獲得するが、直後にシーズンの残り3戦を残してマクラーレンとの契約を双方合意の上で解除した。マイケルが翌年からのアメリカ復帰を希望し、アメリカでCART有力チームとの交渉を優先するために契約の解除を申し入れ、ロン・デニスがこれに応じたものであった。結局1度もトップはおろか、マイケルとセナが共に完走したレースでは、セナとも同一周回でフィニッシュしたことは無かった。

アメリカ復帰[編集]

1994年にアメリカへ戻ると、以後毎年勝利を記録し、再びCARTのトップドライバーとして活躍。息の長い活躍から、「ミスターCART」と呼ばれるようになっていった。

2003年には、自らのチームアンドレッティ・グリーン・レーシング (AGR) をチーム・グリーンとジョイントする形で結成。インディカー・シリーズへ転向したが、シーズン途中でドライバー業を引退し、チームオーナー業に専念するようになった。

しかし、2006年のインディ500には「カーナンバー"1"」を付け(IRLではチャンピオン自身にではなく、チャンピオンを輩出したチームに1をつける権利がある)参戦し、久々のレースながら3位を獲得。息子マルコも参戦し2位となっており、レースでは親子対決も見られた。また同レースにおいては、ビル・ブコビッチと同様、3代に渡っての参戦となった。

2007年のインディ500、プラクティス。マイケル(右)とマルコ(左)

その後チームはチップ・ガナッシ・レーシングチーム・ペンスキーの2強に次ぐ有力チームに成長、2007年にダリオ・フランキッティ、2012年にライアン・ハンター=レイがこのチームでシリーズチャンピオンを獲得した。

補足[編集]

F1とインディ(CART)との比較論争[編集]

1993年、自身の輝かしいアメリカでのキャリアに比べて、F1で思うような成績を収められなかったことと、同年に入れ替わる形でF1からCARTに転向したナイジェル・マンセルがCART初年度の初戦でポールtoウィン達成、そして見事にその年のCARTシリーズチャンピオンを獲得したことにより、F1とCARTのドライバーのレベル差が論争の的となった。

F1で採用されているスタンディングスタートに不慣れであったことは、開幕から3戦で総周回数4周足らずという結果から見て取れる。マンセルもCARTのローリングスタートには手を焼いており、レーススタートやリスタートで順位を落とすことが多かった。インディ500でも最後のフルコースコーションでリスタートを失敗し、順位を1位から3位まで落としたことが優勝を逃した理由として大きい[3]

アンドレッティ以外のケースでは、ジャック・ヴィルヌーヴがCARTチャンピオン獲得後にF1でもチャンピオンを獲得したが、アレックス・ザナルディはCARTを席巻しチャンピオン獲得後F1に復帰するものの全く結果を残せなかった。ファン・パブロ・モントーヤは1999年にCARTチャンピオンとなりF1に転向、初年度からF1でも活躍しトップクラスのドライバーとして評価を得ている。 2008年にはCART後継シリーズのチャンプカーで4年連続チャンピオンの金字塔を樹立したセバスチャン・ボーデスクーデリア・トロ・ロッソからF1に参戦し注目を集めたが成績不振で2009年の第9戦ドイツGPを最後に解雇されている。

アンドレッティが期待と裏腹の成績に終わった理由は、「アメリカのオープンな雰囲気とF1の閉鎖的な雰囲気の違いに馴染めなかった点」「欧州に拠点を置かずレース毎にアメリカからサーキットへ入る生活を続けたことから、なかなか思う通りの成績を収めることができなかった点」「当時のF1マシンはサイドプロテクターが無く、肩まで露出するコックピットに恐怖を覚えていた点」があげられることが多い。

しかし後年、息子であるマルコ・アンドレッティは、「当時、将来有望で手頃なテストドライバーであったミカ・ハッキネンが父の後ろで控えていたため、マクラーレンが故意にアンドレッティを悪く見られるような作業をした。セナさえも不憫に思い、自身のスペアカーをレースカーに提供したいとチームに進言したほどだった」と発言し、マクラーレンチームを糾弾している。真偽のほどは定かではないが、マクラーレンはこの発言に対し、公式な回答はしていない。そもそも、シーズン前はハッキネンとアンドレッティのコンビとなる予定だったが、開幕直前にセナがチームに残留することを決意し、その結果、ハッキネンがテストドライバーに降格し、セナとアンドレッティのコンビになったという経緯がある。そのうえ、当時のチームリーダーのロン・デニスは、セナをお気に入りのドライバーとして扱っており、ロータスから移籍したハッキネンに期待をかけていた。そのため、デニスおよびチームが残留したセナを優遇し、ハッキネンを早くデビューさせたいと考え、アンドレッティを冷遇した可能性はある[4]。現にアンドレッティ[5]も、チームの雰囲気がセナ・ハッキネンのコンビになるよう自身に圧力をかけていたとしており、チーム内での神経戦があったことは否めない。

ただ、チームメイトがセナだったことがマイナスに働いた可能性はある。もともと、セナは神経質で内向的な性格と言われており、当人はそこまで悪い関係ではなかったとしたものの、デニスもセナは人間関係を築くことが難しい人物であったとコメント[6]。ハッキネンもテストドライバーの間は穏やかな関係であったが、チームメイトになった途端、彼の態度が冷たいものになったことには驚いたが、ポルトガルGPでセナを上回ったことでセナの態度を変える結果となったとコメント[7]している。 他にも、当時のチーム幹部マーティン・ウィットマーシュの後年のインタビュー[8]によれば、彼の起用は商業的な面(エンジン供給先のフォードがアメリカ人のアンドレッティ起用を要求したことや、アメリカでのF1の不人気を懸念したバーニー・エクレストンを始めとするFIA側からの働きかけがあったとされる)やデニスの独断という面があり、自身は乗り気ではなかった。そのうえ、セナがチームメイトに対し冷徹な一面を見せることがあった点から、その点に関してはアンドレッティに対し同情している。ただし、欧州に拠点を作らない生活をしていたことについては批判しており、彼の実力は認めつつもチームメイトとしては力不足であったと考えている。

ただし、マシンの戦闘力に苦しんだ面はある。F1が当時から現在に至るまでチームごとに独自のシャシーかつハンドメイドに近く、チームの状況により成績およびマシンの戦闘力が左右されることが当たり前であった。それに対し、当時のCARTはレイナード、ローラの二社が競技用に生産した量産品に近く、チームやマシンよりドライバーの腕で成績が左右されるのが基本であった。実際、アンドレッティがマクラーレンのテストに参加した1991年と1992年、参戦した1993年のマシンの性能はそれぞれ異なっており、マシンの特性を把握できなかった可能性はある。また、マンセルやヴィルヌーヴが当時最強の戦闘力を発揮していた年のウィリアムズでドライブできたのに対し、ザナルディとボーデは、所属チームにとって不遇の時代であり、マシンの戦闘力が低い時期に参戦した面もある[9]。実際、本人もテストやフリー走行の経験を本番で生かせなかったことは認めている。

アメリカ人F1ドライバー[編集]

アメリカにはCARTやインディカー・シリーズ、NASCARなどの国内カテゴリーが盛んなことや、前者と比べアメリカ国内でのF1の人気が低いこともあり、F1ドライバーが多く輩出されない。父マリオがF1を引退して以降、アメリカ人のF1参戦者はエディ・チーバーダニー・サリバン、マイケル、スコット・スピードアレクサンダー・ロッシローガン・サージェントの6人しかいない。

私生活[編集]

アンドレッティは1985年11月から1996年までサンドラ・スピノッツィと結婚していた。彼らの間にはマルコ(1987年3月13日 - )という息子とマリッサ(1990年10月31日 - )という娘が生まれた。1997年12月24日にレスリー・ウッドと再婚、ルッカ(1999年9月16日 - )という息子が生まれている。2004年9月7日にレスリーとの離婚を申請。約2年後の2006年7月15日、1994年ミス・ティーンUSAオレゴン州代表でモデル・女優、2000年のPLAYBOYプレイメイト・オブ・ザ・イヤーでもあるジョディ・アン・パターソンとの婚約を発表。2人は2006年10月7日、カリフォルニア州ナパのアンドレッティ・ワイナリーで結婚[10]

ファミリー[編集]

マイケルの出自であるアンドレッティ家は著名なレース一家である。父親はフォーミュラ1インディ500NASCARの伝説的ドライバー、マリオ・アンドレッティ。 弟のジェフ・アンドレッティは、CARTインディ500に参戦。マイケルのおじアルド・アンドレッティ英語版(マリオの双子の兄弟)は事故で引退するまでフォーミュラカーレーサーであった。 アルドの息子ジョン・アンドレッティ(マイケルのいとこ)はNASCARのレギュラーになる以前はインディカーに出場していたが、インディ500に出場するためインディカーに復帰、2007年から2011年にかけて参戦。アルドの他の息子、アダム英語版もレーシングドライバーである。マイケルの息子マルコは2006年にインディカー・シリーズにデビューを果たした。アンドレッティ家は5人の親族(マイケル、マリオ、マルコ、ジェフ、ジョン)が同じシリーズ(CART、チャンプカー、インディカー)に参戦するという名門となった[11]

レース戦績[編集]

ル・マン24時間[編集]

クラス 車番 タイヤ 車両 チーム コ・ドライバー ラップ数 総合順位 クラス順位
1983 C 21 G ポルシェ・956
ポルシェ・935 2.6L Turbo Flat-6
ドイツの旗 ポルシェ・クレマー・レーシング 364 3位 3位
1988 C1 19 D ポルシェ・962C
ポルシェ・935 3.0L Turbo Flat-6
ドイツの旗 ポルシェ AG
375 6位 6位
1997 LMP 9 M クラージュ C36
ポルシェ・935 3.0L Turbo Flat-6
フランスの旗 クラージュ・コンペティション
197 DNF DNF

CART[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 順位 ポイント
1983年 クラコ・レーシング ATL INDY MIL CLE MIS1 ROA POC RIV MDO MIS2 LVG
Ret
LS
Ret
PHX
9
26位 4
1984年 LBH
10
PHX1
3
INDY
5
MIL
4
POR
12
MEA
Ret
CLE
3
MIS1
Ret
ROA
16
POC
Ret
MDO
Ret
SAN
3
MIS2
7
PHX2
3
LS
3
LVG
Ret
7位 102
1985年 LBH
Ret
INDY
8
MIL
Ret
POR
Ret
MEA
4
CLE
7
MIS1
Ret
ROA
2
POC
Ret
MDO
Ret
SAN
Ret
MIS2
Ret
LS
9
PHX
5
MIA
Ret
9位 53
1986年 PHX1
Ret
LBH
1
INDY
6
MIL
1
POR
2
MEA
Ret
CLE
2
TOR
Ret
MIS1
Ret
POC
Ret
MDO
10
SAN
6
MIS2
2
ROA
2
LS
3
PHX2
1
MIA
Ret
2位 171
1987年 LBH
4
PHX
4
INDY
Ret
MIL
1
POR
2
MEA
5
CLE
6
TOR
5
MIS
1
POC
8
ROA
Ret
MDO
Ret
NAZ
1
LS
Ret
MIA1
Ret
MIA
1
2位 158
1988年 PHX
3
LBH
7
INDY
4
MIL
7
POR
11
CLE
Ret
TOR
3
MEA
6
MIS
3
POC
Ret
MDO
Ret
ROA
5
NAZ
2
LS
2
MIA1
1
MIA
Ret
6位 119
1989年 ニューマン・ハース・レーシング PHX
4
LBH
2
INDY
Ret
MIL
2
DET
Ret
POR
6
CLE
Ret
MEA
Ret
TOR
1
MIS
1
POC
3
MDO
3
ROA
Ret
NAZ
5
LS1
7
LS
7
3位 150
1990年 PHX
Ret
LBH
4
INDY
Ret
MIL
5
DET
1
POR
1
CLE
Ret
MEA
1
TOR
2
MIS
Ret
DEN
5
VAN
Ret
MDO
1
ROA
1
NAZ1
6
NAZ
5
LS
3
2位 181
1991年 SRF
Ret
LBH
Ret
PHX
4
INDY
2
MIL
1
DET
Ret
POR
1
CLE
1
MEA
Ret
TOR
1
MIS
Ret
DEN
3
VAN
1
MDO
1
ROA
1
NAZ
3
LS1
1
LS
1
1位 234
1992年 SRF
Ret
PHX
10
LBH
Ret
INDY
Ret
DET
4
POR
1
MIL
1
NHM
2
TOR
1
MIS
Ret
CLE
2
ROA
4
VAN
1
MDO
Ret
NAZ1
2
NAZ
2
LS
1
2位 192
1994年 チップ・ガナッシ・レーシング SRF
1
PHX
Ret
LBH
6
INDY
6
MIL
4
DET
5
POR
Ret
CLE
Ret
TOR
1
MIS
Ret
MDO
5
NHM
5
VAN
3
ROA
Ret
NZR
9
LS
Ret
4位 118
1995年 ニューマン・ハース・レーシング MIA
Ret
SRF
Ret
PHX
2
LBH
9
NZR
Ret
INDY
Ret
MIL
3
DET
4
POR
4
ROA
Ret
TOR
1
CLE
7
MIS
Ret
MDO
Ret
NHM
2
VAN
Ret
LS
4
4位 123
1996年 HMS
9
RIO
Ret
SRF
Ret
LBH
7
NZR
1
MIS1
Ret
MIL
1
DET
1
POR
11
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS2
Ret
MDO
3
ROA
1
VAN
1
LS
9
2位 132
1997年 HMS
1
SRF
2
LBH
Ret
NZR
2
RIO
Ret
STL
11
MIL
2
DET
2
POR
8
CLE
Ret
TOR
4
MIS
Ret
MDO
8
ROA
Ret
VAN
Ret
LS
Ret
FON
Ret
8位 108
1998年 HMS
1
MOT
14
LBH
Ret
NZR
Ret
RIO
5
STL
2
MIL
Ret
DET
10
POR
17
CLE
2
TOR
2
MIS
6
MDO
Ret
ROA
Ret
VAN
2
LS
10
HOU
Ret
SRF
Ret
FON
Ret
8位 108
1999年 HMS
2
MOT
5
LBH
7
NZR
6
RIO
Ret
STL
1
MIL
15
POR
10
CLE
3
ROA
2
TOR
Ret
MIS
4
DET
4
MDO
8
CHI
Ret
VAN
14
LS
10
HOU
3
SRF
5
FON
Ret
4位 151
2000年 HMS
Ret
LBH
Ret
RIO
9
MOT
1
NZR
6
MIL
2
DET
Ret
POR
4
CLE
4
TOR
1
MIS
2
CHI
2
MDO
8
ROA
Ret
VAN
Ret
LS
14
STL
Ret
HOU
13
SRF
Ret
FON
Ret
8位 127
2001年 チーム・モトローラ MTY
4
LBH
Ret
TXS
NH
NAZ
6
MOT
Ret
MIL
2
DET
4
POR
8
CLE
15
TOR
1
MIS
Ret
CHI
Ret
MDO
Ret
ROA
2
VAN
3
LAU
4
ROC
5
HOU
Ret
LS
14
SRF
2
FON
7
3位 147
2002年 MTY
12
LBH
1*
MOT
16
MIL
7
LS
11
POR
9
CHI
15
TOR
11
CLE
2
VAN
6
MDO
3
ROA
10
MTL
8
DEN
13
ROC
10
MIA
8
SRF
9
FON
2
MEX
17
9位 110
  • (Event)1 : ノンタイトル戦。

インディカー・シリーズ[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
2001年 チーム・モトローラ PHX HMS ATL INDY
3
TXS PPIR RIR KAN NSH KTY STL CHI TX2 34位 35
2002年 HMS PHX FON NZR INDY
7
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS KTY STL CHI TX2 38位 26
2003年 アンドレッティ・グリーン・レーシング HMS
6
PHX
Ret
MOT
4
INDY
Ret
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS STL KTY NZR CHI FON TX2 24位 80
2006年 HMS STP MOT INDY
3
WGL TXS RIR KAN NSH MIL MIS KTY SNM CHI 24位 35
2007年 HMS STP MOT KAN INDY
13
MIL TXS IOW RIR WGL NSH MDO MIS KTY SNM DET CHI 27位 17

インディ500[編集]

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1984 マーチ コスワース 4 5 クラコ
1985 ローラ コスワース 15 8 クラコ
1986 マーチ コスワース 3 6 クラコ
1987 マーチ コスワース 9 29 クラコ
1988 マーチ コスワース 10 4 クラコ
1989 ローラ シボレー 21 17 ニューマン・ハース
1990 ローラ シボレー 5 20 ニューマン・ハース
1991 ローラ シボレー 5 2 ニューマン・ハース
1992 ローラ フォード-コスワース 6 13 ニューマン・ハース
1994 レイナード フォード-コスワース 5 6 ガナッシ
1995 ローラ フォード-コスワース 4 25 ニューマン・ハース
2001 ダラーラ オールズモビル 21 3 チーム・グリーン
2002 ダラーラ シボレー 25 7 チーム・グリーン
2003 ダラーラ ホンダ 13 27 アンドレッティ・グリーン
2006 ダラーラ ホンダ 13 3 アンドレッティ・グリーン
2007 ダラーラ ホンダ 11 13 アンドレッティ・グリーン

F1[編集]

(key)

チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1993年 マクラーレン MP4/8 RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
5
MON
8
CAN
14
FRA
6
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
3
POR JPN AUS 11位 7

脚注[編集]

  1. ^ アンドレッティのフェラーリ入りは無し?Kマートのステッカーをフェラーリ側が拒否か GPX 1991年オーストラリアGP号 31頁 山海堂 1991年11月23日発行
  2. ^ 『GP CAR STORY Vol.30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、66-70頁、2019年。
  3. ^ (日本語) 1993 Indianapolis 500, https://www.youtube.com/watch?v=SQpqKsGzWzA 2022年1月19日閲覧。 
  4. ^ 実際、マクラーレンに在籍したことがあるアラン・プロストファン・パブロ・モントーヤデビッド・クルサードフェルナンド・アロンソらは、マクラーレンはジョイントナンバーワンと言いつつも、ロンがお気に入りであるアイルトン・セナ、ミカ・ハッキネン、キミ・ライコネン、ルイス・ハミルトンらに比重が傾くことをそれぞれ状況や言い分は違うが指摘、非難している。
  5. ^ 『GP CAR STORY Vol. 30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、66-70頁、2019年。
  6. ^ 【アイルトン・セナの思い出】PART7:気難しい性格だったセナは、「誰も信用していないも同然だった」www.as-web.jp(2019年5月3日)2020年3月12日閲覧
  7. ^ ホンダエンジンを失ったマクラーレンMP4/8をハッキネンが語る「素晴らしいクルマだが重大な欠点があった」www.as-web.jp(2019年12月9日)2020年3月12日閲覧
  8. ^ 『GP CAR STORY Vol. 30 McLaren MP4/8』(サンエイムック) 、87-89頁、2019年。
  9. ^ 両者はF1歴の長いチームメイトに対し、獲得ポイントで負けている。
  10. ^ Jodi Ann Paterson is Michael Andretti’s Wife”. RightFielders Women in Sports (2007年11月15日). 2013年8月4日閲覧。
  11. ^ Schwartz, Larry. “Mario Andretti synonymous with racing”. en:Motorsports Hall of Fame of America. ESPN. 2013年8月4日閲覧。

外部リンク[編集]

タイトル
先代
デイヴ・マクミラン
ノースアメリカン・フォーミュラモンディアル
チャンピオン

1983
次代
ダン・マーヴィン
先代
テオ・ファビ
インディ500
ルーキーオブザイヤー

1984
ロベルト・ゲレーロと共に
次代
アリー・ルイエンダイク
先代
アル・アンサーJr.
CARTシリーズ チャンピオン
1991
次代
ボビー・レイホール