ネルソン・ピケ・サーキット
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座標: 南緯22度58分32秒 西経43度23分42秒 / 南緯22.97556度 西経43.39500度
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所在地 | ブラジル・リオデジャネイロ |
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標準時 | GMT -3 |
着工 | 1971年1月 |
オープン | 1978年1月 |
閉鎖 | 2012年11月 |
主なイベント | ブラジルグランプリ (1978-1989), ストックカー・ブラジル, CART (1996-2000), ブラジルグランプリ (ロードレース) (1995-2004) |
Road Course | |
路面 | Asphalt |
コース長 | 5.031 km (3.126 mi) |
コーナー数 | 11 |
レコードタイム | 1:32.507 (リカルド・パトレーゼ, ウィリアムズ, 1989) |
Oval | |
路面 | Asphalt |
コース長 | 3 km (1.864 mi) |
コーナー数 | 4 |
レコードタイム | 0:38.565 (クリスチャン・フィッティパルディ, Newman-Haas, 1999, Cart FedEx Championship Series) |
アウトドローモ・インテルナシオナル・ネルソン・ピケ[1](葡: Autódromo Internacional Nelson Piquet, ネルソン・ピケ・サーキット)、またはジャカレパグア・サーキット(葡: Jacarepaguá)は、ブラジルのリオデジャネイロ市にあったサーキット。以前の全長は5.031km。跡地には2016年リオデジャネイロオリンピックの競技会場が設けられた。
概要[編集]
1978年、リオデジャネイロ市郊外のジャカレパグア湖畔の湿地帯の上に建設された。そのため、コースの高低差は少なく極めて平坦なサーキットである。コース自体は主に2つのストレートと多数の低速コーナーを組み合わせたコースレイアウト。また、コースの背景に広がるリオの山々が見渡せる。
当地では1979年にF1が初開催されて以後、主に1980年代にF1ブラジルグランプリの開催地となり、1983年から1989年まで7年連続でF1シーズン開幕戦の舞台となった。1988年からは、サーキット名称が前年に3度目となるF1ワールドチャンピオンを獲得した地元リオデジャネイロ出身のドライバー、ネルソン・ピケの栄誉を称えて「ネルソン・ピケ・サーキット」に改称された[2]。F1におけるコースレコードは1989年にウィリアムズのリカルド・パトレーゼが記録した1分32秒507。
1989年を最後に、F1ブラジルGPはサンパウロ市のインテルラゴス・サーキットで開催されることになったが、CARTがオーバルトラックで1996年から2000年にかけて開催されたほか、ブラジルの各種国内レースが開催されている。1995年から2004年に掛けてロードレース世界選手権が10度開催され、1999年には阿部典史、2004年には玉田誠が最高峰クラスで勝利を挙げた。250ccクラスでは加藤大治郎が2000年と2001年に勝利し、125ccクラスでは徳留真紀、青木治親、上田昇、宇井陽一、東雅雄が優勝を記録している。
ブラジルではサーキットを正式名称ではなく地名で呼ぶことが常だが、このサーキットについては特に、ブラジリアの同名サーキットとの混同を避けるため、ジャカレパグア・サーキット(Autódromo de Jacarepaguá)という呼称が用いられることが多く、ネルソン・ピケ・サーキットの名を用いる時も大抵は「リオ・デ・ジャネイロの」と補足が付けられる。
2007年問題[編集]
2007年にリオで開催されるパン・アメリカンゲームズで使用する競技用複合施設を建設するために、コースの一部を壊す計画が2005年前半に持ち上がり、ブラジル自動車連盟(CBA, Confederação Brasileira de Automobilismo)などブラジル国内のレース関係者がこの計画に反対の意を表明し行政側と対立するという出来事があった。
2006年はこの問題のため、ブラジル国内で開催されるレースについて、当サーキットでの開催を未定とする、あるいは前年まで開催されていた選手権カレンダーから外す、といった動きが相次ぎ、同国で人気を持つストックカー国内選手権においては、開催こそ実現したものの、競技施設の建設がすでに始まっていた東半分を封鎖した上で、従来のロードコースに使われないようになって久しかったオーバルトラック部を組み合わせた特殊なレイアウトによる開催となり、この問題を多くのレースファンに広く知らしめることとなった。[1]
2006年半ばに実際に着工となった際、サーキットの東半分が封鎖され、従来最終セクションだったテクニカルセクションが取り壊され、結果としてサーキットの最終区間が大きく様変わりすることとなった。
2006年2月の事件[編集]
2006年2月6日、ブラジル自動車連盟(CBA)の会長パウロ・スカリオーネ(Paulo Scaglione)が同市市内において会見を開き、ネルソン・ピケ・サーキットにおける工事を禁じることを求める旨の訴えを翌日2月7日に起こすことを発表した。これにより、サーキットの未来は司法の手に委ねられることとなった(結果的にこの訴えは意味を為さなかった)。
この動きに関連して、かねてパン・アメリカンゲームズの開催を推進していた同市市長セザール・マイア(César Maia)は、仮に施設の建設が不可能となった場合に政治的に痛手を負う恐れが強くなったが、ここで、ひとつの偶然から茶番劇が起きることとなった。CBAの発表の翌々日の2月8日、同年のF1ベルギーGPの開催が中止される旨の発表がなされたことを奇貨として、マイアは翌2月9日にこのサーキットでその代替開催を名乗り出るという政治的パフォーマンスを演じてみせ、その思惑通り、報道から間もなくこの提案はバーニー・エクレストンによって一蹴される結果となった。この代替開催の提案については海外メディアからもいたって冷ややかに受け取られ、結果的にではあるが、ブラジル国外のレース関係者のネルソン・ピケ・サーキットへの関心が低いものであることを示すことともなった。
表向きの発言としては、この時点でマイアはネルソン・ピケ・サーキットには一切手を付けないと確約したものの、CBAはじめブラジルのレース関係者の間では市の対応に対する不信感がかえって強まる結果となった(前述したように市はその後コース改修を行った)。
国内の反応[編集]
2007年のパンアメリカン大会の開催について、ブラジルでは、1960年代以降に同国内で開催されたスポーツイベントの中で最も重要なイベントになると考えられていたため、老朽化が進んだこのサーキットの取り壊しについて、熱心なレースファン以外の一般市民の間では必ずしも反対一辺倒というわけではなかった。
オリンピック会場への転用[編集]

リオデジャネイロ市は2016年夏季オリンピックの誘致活動を行い、2009年10月に開催都市に選定された。2016年8月に行われるリオデジャネイロオリンピックに向けて競技施設の準備が進む中、バーハ・ダ・チジューカ地区のネルソン・ピケ・サーキットを取り壊し、中心会場となるリオ・オリンピック・パーク (Parque Olimpico do Rio) を建設することになった[3]。公募の結果、イギリス人設計士のデザインが採用され、15のオリンピック競技会場と11のパラリンピック競技会場、報道関係者が利用するメディアセンターが建設された[4]。
脚注[編集]
- ^ ポルトガル語の発音にならえば「アウトードロモ」とすべきだが、イタリアのサーキットで使われている慣用にならい、この記事では「アウトドローモ」と表記している。
- ^ ピケ自身もジャカレパグア時代に1983年・1986年とこのサーキットで2勝を挙げている。
- ^ “2016年オリンピック”. wasabi-brazil.com. (2011年4月8日) 2012年1月5日閲覧。
- ^ “リオのオリンピック公園 英国人の設計案がコンテスト制す”. サンパウロ新聞. (2011年8月24日) 2011年12月23日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ネルソン・ピケ・サーキット公式サイト
- SOSリオデジャネイロサーキット - ポルトガル語。ジャカレパグアサーキットの存続問題についてのニュースサイト