神山雄一郎

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神山 雄一郎
Yūichirō Kamiyama
Cycling (road) pictogram.svg
個人情報
本名 神山 雄一郎
かみやま ゆういちろう
生年月日 (1968-04-07) 1968年4月7日(48歳)[1][2]
国籍 日本の旗 日本
身長 180cm[2]
体重 87kg[2]
チーム情報
所属 日本競輪選手会栃木支部[1]
期別 61期[1][2][3]
分野 競輪&トラックレース
役割 選手
特徴 追込[2]
アマ所属チーム
1984-1987
作新学院高等部
プロ所属チーム
1988-
日本競輪選手会栃木支部
主要レース勝利
日本選手権競輪 1999
オールスター競輪 1993,1997,1999,2004,2005
高松宮記念杯競輪 1994,1995
競輪祭 1995 - 1997,2000
全日本選抜 1995
寛仁親王牌 1996,1997,2000
共同通信社杯競輪 1993,1996,1997,2001,2002,2015
ふるさとダービー 1993,1998
サマーナイトフェスティバル 2011
新人王 1989
アジア大会 スプリント 1998
アジア大会 チームスプリント 2002
S級S班 2008-2011 2015-2016
最終更新日
2016年12月27日

神山 雄一郎(かみやま ゆういちろう、1968年4月7日[2] - )は、日本競輪選手自転車競技選手。作新学院高等部卒業。日本競輪学校第61期卒業[1]日本競輪選手会栃木支部所属[1]。師匠は荒川博之[2][1]GI 16勝は競輪界史上最多である。B型。KEIRINグランプリ最多出場選手。

戦績[編集]

生い立ち[編集]

栃木県小山市生まれ[2]。生家は自転車屋で、父親は熱心なサイクリング愛好家だった[4]。神山も父親とともにサイクリングをするようになり、休日になると自転車に乗って遠出するようになった[5]。幼稚園時代から運動神経と脚力は抜群だったという[4]神山は、小学校時代には休日になると筑波山太平山まで片道40-50kmの道のりを往復するようになり[4]、さらに長野県岐阜県まで野宿をしながら1日200kmを走破して移動することもあった[6]。神山はこの時期の自身について、苦しいと思いながらも自転車が好きだったため、サイクリングをやめなかったのだろうと振り返っている[6]。幼少の頃から自転車の整備を欠かすことはなかったという[6][† 1]

中学校時代には剣道部に所属し剣道に打ち込んだが、県大会3位、東北大会ベスト16という成績に納得がいかず、自身の運動神経をより発揮できるスポーツとして自転車に目を向けた[8]。神山は自転車部のある作新学院高等部に進学し、自転車部に入部[9]。同校は自宅から約40km離れていたが、鍛錬のため片道約1時間をかけて自転車で通学した[10]。入部1年目の1000mタイムトライアルの記録は1分20秒ほどであったが、長距離のポイントレースを中心としたトレーニングを積んだ結果、3年目には1分6秒にまで記録が伸び、インターハイ国民体育大会の1000m部門で優勝した[10]

日本競輪学校に入学し、首席で卒業[編集]

高校在学中、神山は卒業後の進路としてプロの競輪選手を目指すかアマチュア選手として1988年のソウルオリンピック出場を目指すかの選択を迫られた[11](当時、プロの競輪選手がオリンピックに出場することはできなかった[12])。迷っていた神山であったが、1985年12月、父親に連れられて立川競輪場で開催されたKEIRINグランプリ'85を観戦し、場内の熱気と選手が入場した際の華やかさに魅せられ、競輪選手を目指すことを決めた[13]。さらに、中野浩一滝澤正光井上茂徳本田晴美らプロの選手がどのくらい強いのか挑戦してみたい気持ちもあったという[14]。競輪選手となるには日本競輪学校に入学することが前提となるが、作新学院自転車部は練習場として宇都宮競輪場を使用しており、受験対策に不安はなかったという[15]。その上、インターハイ優勝などの実績が評価されて1次試験は免除され、2次試験についても学科試験と小論文、面接に合格しさえすればいという優遇措置を受けることもできた[16]。1回目の受験で日本競輪学校に入学した神山は、在学中も優れた成績を収め、首席で卒業した[16]。神山はこの時期の自身について、「ボクはね、学校出るまで、ホント、苦労してないんです」と述べている[16]

競輪選手となる[編集]

1988年4月1日に選手登録され、同年5月8日に花月園競輪場でデビューしその日に初勝利を挙げた[3]。デビューから7か月でS級に昇格した[17]。しかし神山によると、この間にA級で成績が伸び悩む時期が存在し、この時期に大きな期待を寄せていた周囲の目が「あいつ、期待してたほどじゃない」と変わるのを経験したという。神山によると、後で振り返ると「大したことない」と思えるものの、当時としては挫折であった[18]。原因はラインを使ったブロックなどの駆け引きに対応しきれなかったためで、ブロックされないよう先行で勝負するようになってから成績が向上し、S級昇格を果たした[17]

1989年には競輪祭新人王戦を優勝。同年、日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞した[17]

1990年日本選手権競輪でも決勝に進出したので、ファンの多くに彼が特別競輪(現在のGI)を取るのも時間の問題だと思わせたが、その後はなかなか特別競輪を取ることができず苦労の日々が続いた。1993年、ようやく地元の宇都宮競輪場での第36回オールスター競輪で優勝した時、感激のあまりファンの前で号泣しながらインタビューに答えた。神山は、デビューからの数年はレースを落ち着いて振り返る余裕がなく、第36回オールスター競輪を優勝した頃にようやく余裕が出てきたと述べている[19]。その後は、1995年に特別競輪を3勝するなど、トップレーサーの地位を不動のものにし、吉岡稔真と共に「横綱」と呼ばれた。そして1999年3月30日静岡競輪場での日本選手権競輪を制したことで、競輪界史上3人目、現行のGI6レース制となってからは史上初となる特別競輪全冠制覇(グランドスラム)を達成した。また、記念競輪(GIII)においては、2007年12月12日広島記念の優勝で、現役選手最高記録となる93回目の記念優勝を飾った[† 2]

2009年寛仁親王牌の決勝で平原康多 - 武田豊樹 - 神山と並ぶことになり、既にKEIRINグランプリ09への出場を決めていた2人に助けてもらう形で自身の優勝を狙ったが、直線で直後に位置していた海老根恵太に阻まれ2着となってしまう。しかしオールスター競輪決勝でも同じ並びで挑むことになり、この時も武田の2着となったが、この特別決勝連続2着で年間獲得賞金上位となり、2005年以来4年ぶりにKEIRINグランプリへ出場し三度目となる平原・武田との並びで挑んだが、勝負どころで前2人への追走に失敗し4着となった。

2010年高松宮記念杯サマーナイトフェスティバルの決勝2着で年間賞金争いの上位となり、地元での開催となった全日本選抜競輪の決勝では神山拓弥武田豊樹との連携で優勝を狙ったが、それを見抜いた佐藤友和に阻まれる形で完敗する。その後もオールスター競輪決勝で4着となるが結局は獲得賞金が足りずKEIRINグランプリへの出場は果たせなかった。

2011年7月松山競輪場で開催されたサマーナイトフェスティバルの決勝において、前を任せた長塚智広の後位から最後の直線で中を割り、先行していた深谷知広を捉え同開催を初めて優勝した。なお2007年12月27日に新設されたS級S班の18選手に選ばれていたが、この年まで4年間格付けを維持し続けた。

通算賞金25億円を突破・800勝を達成[編集]

2012年6月6日大垣競輪場でのFI開催で優勝し、通算獲得賞金額が競輪史上初の25億円を突破[20]。同日時点での通算獲得賞金額は2,500,303,909円で、選手登録日より24年2ヶ月での達成であった[21]

2014年は7月29日に800勝を達成[22]。オールスター競輪の決勝で2着に入り年間賞金獲得額の上位に進出し、11月16日には高松競輪場の記念競輪(GIII)を優勝して記念での最高齢優勝記録(46歳7ヶ月)を更新する。さらに直後の競輪祭決勝でも3着に入り、5年ぶりとなるKEIRINグランプリ2014への出場を賞金枠上位で決定。この優勝からちょうど一ヶ月後の12月16日に行われた広島競輪場の記念競輪(GIII)も優勝して先述の記録を46歳8ヶ月に更新した[23]。なお、2月の全日本選抜決勝の落車で右足腓骨を骨折し、日本選手権を欠場、24回連続出場で記録がストップした年でもあった[24]

2015年、最高齢記録更新となる形でS級S班に返り咲いた年。4月防府競輪場で行われた共同通信社杯競輪の決勝において、山田久徳 - 稲垣裕之の先行ライン後位を追走し、稲垣が番手捲りを放ってから新田祐大を牽制するため外側へ動いた際に内を突くと、最終4角から先頭に出てそのまま押し切って優勝し、GIIIに続きGII最高齢記録も更新。さらにGIでも寛仁親王牌決勝で3着、オールスター決勝で2着に入る活躍を見せ、獲得賞金上位によりKEIRINグランプリへの出場権を獲得した。

2015年11月現在、GI16勝は競輪界史上最多記録であり、特にオールスター競輪ではこれまで5回優勝と、もっぱら相性を良くしている。さらに地元の宇都宮競輪場では非常に強いことでも知られる。一方でKEIRINグランプリGP)にはこれまで15回出場し、1995年から1998年までは同一開催レース4年連続2着[25][† 3]という競輪唯一[† 4]といえる成績を残しているものの、未だ優勝だけは果たしていない。

自転車競技への取り組み[編集]

作新学院高校時代の1986年に開催されたソウルアジア大会のポイントレースで銀メダルを獲得。競輪選手になってからは1989年フランスリヨン世界自転車選手権(世界選)プロ・スプリントに出場し、イタリアクラウディオ・ゴリネリにストレート負けを喫するものの銀メダルを獲得した。ちなみにこのときの世界選の模様をNHKで解説していた中野浩一は、「ゴリネリに遠慮せず自分から一気にスパートをかけていれば勝てた。」と悔しがっていた。1990年の前橋の世界選でもプロ・スプリントに出場したが7位に終わる。

翌年、吉岡稔真が世界選のケイリンに出場することを表明したことから、それに遠慮する形で自転車競技への挑戦は一旦途切れることになり、しばらくは競輪に専念していた。ところが吉岡が1995年の世界選出場を最後に競輪への専念を表明したことから再び自転車競技への意欲を出してきた。さらに1996年アトランタオリンピックからプロ・アマオープンとなり、競輪選手にもオリンピック出場への道が開けることになった[19]。専属トレーナーから挑戦を勧められた神山は、オリンピック出場に意欲を燃やすことになる[26]

ところが国内枠として1枠が設けられた1Kmタイムトライアルの代表選考会において、神山は十文字貴信の前に屈した。神山はこの時、1分3秒台で走破した十文字に1秒以上離され、十文字の強さを実感するとともに「やっぱり自分は五輪には縁がないのかな」と寂しさを覚えたという[26]。この時点において神山のオリンピック出場の道は閉ざされた。しかし後にスプリントのワイルドカード枠が日本にも与えられることが決まった。神山は選考会を勝ち、日本車連は神山を推薦した。晴れてアトランタオリンピック出場を果たすことになった[26]。しかしスプリント種目に出場したものの、一回戦、敗者復活戦ともに敗退に終わった。

1998年バンコクアジア大会ではスプリント決勝で馬渕紀明を下し優勝した。だが、その後のドーピング検査で陽性反応が出てペナルティーとして短期の出場停止処分を受けた。

それでも神山は再度オリンピックへの出場へ意欲を燃やし、2000年シドニーオリンピックではこの大会から新たな種目として設けられることになったケイリンチームスプリント(当時はオリンピックスプリントという名称)に出場。チームスプリントでは長塚智広稲村成浩と組んで5位入賞を果たした[27]。しかしケイリンではお家芸の意地をかけてメダル獲りに意欲を燃やすも敗者復活戦で1位入線するが斜行による妨害を取られて敗戦。失格の裁定が下された神山は涙を流した[27]。神山はラインの駆け引きがなく純粋な走力勝負であるケイリンは競輪とは別種の競技であり、しかもダッシュ力、トップスピードにおいては欧米の選手のほうが力が一枚上であることを実感したという[27]

何とか次のアテネオリンピックではメダルを獲りたいと思っていた神山は、2002年のアジア大会においてチームスプリントに出場しアテネ五輪への夢を抱いていた。ところが2004年のメルボルンの世界選にチームスプリントの一員として帯同したものの、バックアップメンバーの扱い(レギュラーのメンバーは長塚、伏見俊昭永井清史で、同種目予選終了後に永井から井上昌己に変更)であり、出場機会さえなかったことからとうとうアテネ五輪の出場を果たすことはできなかった。もっとも、アテネ五輪のチームスプリントのメンバーに決まった長塚、伏見、井上の3人は、「神山さんがいないメンバーで果たしてアテネで戦っていけるかどうか不安」と一様に漏らしていた。アテネ五輪直後に行われたオールスター競輪では五輪メダル後の凱旋で注目を浴びていた伏見を下し、四年ぶりの特別競輪制覇を果たしている。

なお、神山の自転車競技への取り組みはアテネ五輪の挑戦で一区切りしたようである。

主な獲得タイトルと記録[編集]

獲得メダル
男子 自転車競技
世界選手権自転車競技大会
1989 リヨン プロ・スプリント
アジア競技大会
1998 バンコク 個人スプリント
2002 プサン チームスプリント
1986 ソウル ポイント

競走スタイル[編集]

テビュー当時からトップスピードと持久力を誇り、スプリント競技を行なっているためダッシュ力もあり、他の選手を追走したり並走したりしても全方向に対する動きが抜群であったことから、全盛期は全ての面においてほとんどの選手を凌駕していた。どんな番組でも中団をうまく確保するレース勘は抜群であった。また地元の宇都宮競輪場が500mであることから、直線が長く自力選手不利とされる500m走路においても強さを発揮している(逆に333mバンクをやや苦手としている)。

近年は年齢による脚力の衰えからかつてのような先行・捲りでの強さは影をひそめ、ごく最近ではほとんど追込・マークの戦法主体で戦うようになった[28]。神山本人もけいりんマガジン2007年新年号で「もう自力時代のような華やかな競走はできないかも知れない。」と述べていた。しかし、その位置取りやレース運びのうまさ、特に自分で動く選手の多いメンバーとなった時の「コマ切れ戦」での強さがある。現在ではマーク屋としての「ブロック」「車間切り」「先行選手残し」といった技術レベルも非常に高く、先行選手からの信頼は厚い。

人物[編集]

神山は自身の性格について、感動屋だが人前では感情を表に出さないタイプだと述べている[29]KEIRINグランプリ出場数は最多だが、一度も優勝はしていない。

エピソード[編集]

  • 日本選手権競輪(ダービー)がなかなか獲れなかったが、これはダービーが毎年3月下旬開催であり、花粉症持ちの神山は毎年この時期に調子を落としてしまっていたからである。しかし1999年の駿府ダービーにおいては決勝戦で当時売り出し中の徹底先行であった十文字貴信の後位を回れる好展開が味方し、悲願のグランドスラムを達成した。ただ、レースではゴール直後に2着選手が雄たけびを挙げながらガッツポーズしてしまったため、神山本人はその時点では大喜びできなかった(内心では自分が優勝した手ごたえはあった)。
  • 神山の全盛期は古舘伊知郎がGIの決勝戦中継を一時期担当していた頃にあたり、実況中にその豪快な捲りから「捲り狼」、「太モモ四輪駆動」、「栃木(小山)のヘラクレス」といった異名を与えられた。また「イエスは馬小屋に生まれたが神山は自転車屋に生まれた。」と評した事もある。
  • ライバル吉岡稔真が晩年にいたるまでも、生涯先行に固執した(但し若手先行選手のマークにつくことも時々あった)のに対し、神山は全盛期でも特別競輪決勝においては、十文字貴信太田真一らの若手先行選手の後位につけて優勝するケースも多く、「神山は若手を使い捨てた」と批判される事もある。現在の神山は『追込』(マーク屋)である。
  • その経歴のあまりの華々しさや、ドライなレース展開などからクールな印象を持たれがちであるが、特別競輪初制覇時や四年ぶりの特別制覇となった2004年のオールスター競輪優勝時のインタビューや、同じ栃木県出身で高校の後輩でもあった内田慶がレース中の事故で非業の死を遂げた際にはインタビューで号泣するなど、涙もろい一面がある。
  • 作新学院高校時代から神山が愛用してきたフレームメーカーのサムソンは、2013年6月末で登録消除となった[30]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 神山は競輪選手となってからも、「趣味は自転車いじり」と公言するほどの自転車好きである[7]
  2. ^ それ以前の現役選手最高は滝澤正光の92回。
  3. ^ その次の1999年は3着到達失格。
  4. ^ 公営競技全体ではJRA横山典弘騎手菊花賞で記録している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 競輪打鐘読本、39頁。
  2. ^ a b c d e f g h プロフィール” (日本語). 選手情報:神山雄一郎. JKA. 2012年3月14日閲覧。
  3. ^ a b 通算成績” (日本語). 選手情報:神山雄一郎. JKA. 2012年3月14日閲覧。
  4. ^ a b c 中野2004、10頁。
  5. ^ 中野2004、10-11頁。
  6. ^ a b c 中野2004、11頁。
  7. ^ 競輪打鐘読本、40-41頁。
  8. ^ 中野2004、12頁。
  9. ^ 中野2004、12-13頁。
  10. ^ a b 中野2004、13頁。
  11. ^ 中野2004、13-14頁。
  12. ^ 中野2004、12-13頁。
  13. ^ 中野2004、14頁。
  14. ^ 競輪打鐘読本、40頁。
  15. ^ 中野2004、14-15頁。
  16. ^ a b c 中野2004、15頁。
  17. ^ a b c 中野2004、17頁。
  18. ^ 中野2004、16頁。
  19. ^ a b 中野2004、18頁。
  20. ^ 2012年6月7日 朝日新聞朝刊14版 22ページ
  21. ^ 神山雄一郎選手 競輪史上初の25億円達成について - keirin.jp 2012年6月6日配信
  22. ^ 神山雄一郎800勝「もっと上を」/函館 - 日刊スポーツ、2014年7月30日
  23. ^ 【競輪】広島記念 神山Vで記録更新 - デイリースポーツ 2014年12月16日配信
  24. ^ 神山雄一郎「追い込みで日本一」/岸和田 - 日刊スポーツ、2014年12月29日
  25. ^ 第11回 バンクのつぶやき - 月刊競輪WEB、2015.01.09
  26. ^ a b c 中野2004、19頁。
  27. ^ a b c 中野2004、20頁。
  28. ^ 勝利へのマイウエイ 神山雄一郎選手 - 全輪協『PR+S』第27号 更新日:2005年12月28日
  29. ^ 競輪打鐘読本、39-40頁。
  30. ^ 寛仁親王牌に燃える男たち 東スポweb 2013年07月11日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]