伏見俊昭

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伏見 俊昭
Toshiaki Fushimi
Cycling (road) pictogram.svg
個人情報
本名 伏見 俊昭
ふしみ としあき
愛称 ゴージャス松野
生年月日 (1976-02-04) 1976年2月4日(41歳)
国籍 日本の旗 日本
身長 181cm
体重 86kg
チーム情報
所属 日本競輪選手会福島支部
期別 75期
分野 競輪&トラックレース
役割 選手
特徴 自在
アマ所属チーム
1991-1994
福島県立白河実業高等学校
プロ所属チーム
1995-
日本競輪選手会福島支部
主要レース勝利
KEIRINグランプリ 2001,2007
日本選手権競輪 2004
オールスター競輪 2001,2008
SSシリーズ風光る 2009
全日本選抜競輪 2011
共同通信社杯秋本番 2010
ふるさとダービー 2回
W杯チームスプリント・シドニー 2003
アジア選手権・ケイリン 2000,2001
アジア選手権・オリンピックスプリント 1999
S級S班 2008-2012
 
獲得メダル
オリンピック
2004 チームスプリント
最終更新日
2012年12月27日

伏見俊昭(ふしみ としあき、1976年2月4日 - )は日本競輪選手自転車競技選手である。福島県白河市出身。日本競輪学校第75期卒業。日本競輪選手会福島支部所属。師匠は班目秀雄。初出走は1995年4月15日伊東温泉競輪場で初勝利は同年5月6日四日市競輪場。身長181cm、体重86kg、水瓶座O型。既婚。

自転車競技での戦績[ソースを編集]

福島県立白河実業高等学校在学中から自転車競技を始め、競輪選手としてデビュー後も、アジア選手権や世界選手権自転車競技大会などへ毎年のように出場を続けたが、2000年シドニーオリンピック代表最終選考会でコンマの差で落選し、挫折を味わう[1]

次大会、2004年アテネオリンピック自転車競技代表に選ばれ、ついに夢を実現させた。チームスプリント種目で第2走者として出場し、長塚智広井上昌己の頑張りもあったが、自身のタイムが伸びず金メダルを逃す。

2008年世界自転車選手権マンチェスター)のケイリンでは決勝5着。北京オリンピックのケイリン種目に出場したが結果は最下位に終わる。

競輪選手としての戦績[ソースを編集]

デビューした翌年にトップクラスのS級へ昇格を果たし、2001年函館競輪場でのふるさとダービーを優勝してからは一気に上位へ進出し、オールスター競輪を優勝し特別競輪を制覇しただけなく、KEIRINグランプリ01にも優勝(歴代12人目)してその年の賞金王に輝いた。

なお2004年にアテネオリンピックで銀メダルを獲得する直前にも日本選手権競輪で優勝を果たしており、メダル獲得への弾みをつけていた。

その後しばらくビッグレースでの勝利には恵まれなかったが、2007年北京五輪挑戦のためのワールドカップシリーズ転戦の中、12月30日KEIRINグランプリ07に獲得賞金上位で出場。先行する山崎芳仁の番手より小嶋敬二の後ろに切り替え、最終直線で先頭に立った小嶋を抜き去って、6年ぶりのグランプリ制覇を飾り、2001年以来2度目の賞金王となると共に生涯獲得賞金が10億円突破となった(2010年4月30日時点での生涯獲得賞金は12億3703万1821円)。

2008年9月15日、北京オリンピック帰りとなる一宮競輪場でのオールスター競輪に出場、決勝戦で紫原政文新田康仁の追い込みを抑え、2001年以来、2度目のオールスター競輪制覇を飾った。この際の優勝インタビューの最後で、開催中に競走中の不慮の事故で非業の死を遂げた内田慶に対し、他地区であるのにも関わらず「そして内田慶、ありがとう」と涙ながらに叫ぶように語った場面は今でも語り草になっている。

2009年は1月の競輪祭決勝で2着となり、5月5日岸和田競輪場にて新設されたGI競走である『SSシリーズ風光る』に出場し、その決勝戦で最終周回3コーナーからの捲りで、先に抜け出していた小嶋敬二をゴール寸前で捕らえ新設GI競走第1回優勝を果たした。そして7月の寛仁親王杯決勝でも3着に入り、これらにより年間獲得賞金が上位になったことからKEIRINグランプリ09へ出場し3着となる。

2010年10月11日奈良競輪場で開催された共同通信社杯秋本番の決勝において、新田祐大 - 山崎芳仁の3番手から抜け出し優勝、これにより年間獲得賞金上位としての最後枠でKEIRINグランプリ2010へ出場したが、またも3着となる。

2011年東日本大震災により自宅が被害を受けたため、交流のあった岩見潤(三重・71期)を頼って、松阪に避難し練習を続けることになったが、8月全日本選抜競輪決勝では逃げる山崎芳仁の後位から最終バック過ぎに番手捲りを放ち、そのまま押し切って優勝した。なおKEIRINグランプリ2011は6着となっている。

S級S班のメンバーとしては2008年に創設されてから2012年まで連続して維持し続けていたが、2012年はGI決勝に勝ち残ったのが競輪祭の決勝9着のみにとどまり、年間獲得賞金も上位に届かなかったため、KEIRINグランプリ2012への出場が叶わず、2013年よりS級1班に所属している。

S級S班の復帰を目指す、2013年ではあるが、目立った成績を残せず低迷が続いている。中でも印象的だったのが、2013年3月3日京王閣競輪場で行われたF1戦の決勝戦において、目標とした同県の新田祐大の番手から身勝手に切り替え、立て直そうと後方から必死で捲る新田祐大をブロックするという暴挙に出る。これは、普段他地区の選手の捲りは止めないのに、味方にはブロックという矛盾な行動と、ナイター開催という事でレース観戦をしている人が多かった事からファンの怒りを買い、このレース以降は伏見選手へ野次が更に増えてしまった。だが、高松宮記念杯競輪決勝では3着であった。

また、初年度より参加が続いていたサマーナイトフェスティバルだが、参考期間において優勝が無かった為、連続出場が8で途切れることになった(2014年から再び出場している)。

2013年12月、競輪グランプリ直前に、理事長を務めていたSS11(エスエスイレブン)が、オリンピックや選手年金への対応の不満から日本競輪選手会を離脱し、新団体として活動することを記者会見で発表した。しかし、これに対し日本競輪選手会が同じレースへの出走拒否、除名処分を掲げて猛反発し、SS11は、いかなる処分も受け入れるとしてわずか1ヶ月足らずで謝罪することとなった。その処分を受け、伏見も2014年5月から半年間の斡旋自粛(事実上の斡旋停止)処分を受け、半年間の自粛欠場状態となった。このため、GP、S級S班はおろか、S級1班の維持も難しい状況となっている。

しかし2014年8月から自粛欠場が解禁される。2015年7月、2年ぶりにG1レースの決勝進出。ただし、G1寛仁親王牌・世界選手権記念トーナメントの結果は8着だった。

主な獲得タイトルと記録[ソースを編集]

競走スタイル[ソースを編集]

先行や捲りの戦法における実力は高く、スピードの違いからスマートな勝ち方をする事が多かったが、時にライバル選手と先行での争いになった場合は積極的な先頭争いを演じる一面もあった。現在は同県の後輩が数多くいることから番手を回る競走が多く、自力を繰り出す時の実力は他の選手に引けを取らなかったが、最近はその自力も通じず、番手選手としての仕事もこなせていない。

エピソード[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]