武田豊樹

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武田 豊樹
Toyoki Takeda
Cycling (road) pictogram.svg
個人情報
本名 武田 豊樹
たけだ とよき
生年月日 (1974-01-09) 1974年1月9日(44歳)
国籍 日本の旗 日本
身長 177cm
体重 90kg
チーム情報
所属 日本競輪選手会茨城支部
期別 88期
分野 競輪
役割 選手
特徴 先行・捲り
プロ所属チーム
2003-
日本競輪選手会茨城支部
主要レース勝利
KEIRINグランプリ 2014
日本選手権競輪 2009
オールスター競輪 2009・2014
高松宮記念杯 2012・2015
競輪祭 2012・2015
ふるさとダービー 1回
サマーナイトフェスティバル 2009・2012
東日本王座決定戦 2010・2011・2012
共同通信社杯春一番 2011
S級S班 2009-2013 2015-
最終更新日
2015年6月21日

武田 豊樹(たけだ とよき、1974年1月9日 - )は競輪選手。元スピードスケート選手。北海道斜里郡斜里町出身。釧路緑ヶ岡高等学校(現・武修館高等学校)卒業。身長177cm、体重78kg→85㎏→90kg。

スピードスケート選手として[編集]

高校時代は同学年で後に長野オリンピック500m金メダリストとなる清水宏保よりも好成績を収める。高校卒業後に王子製紙スケート部に入部するも伸び悩み、競輪学校入学を目指すために現役を一時引退し同スケート部を退部したが、競輪のトレーニング中(この時の受験は不合格[1][2][3])に、オフの自転車トレーニング中の清水と再会。一緒に練習したことによりスピードスケートへの想いが徐々に沸きあがり、1998年に現役復帰(所属は橋本聖子が設立した「セイコ・ハシモト・インターナショナル(SHI)」[4])。

清水と一緒に練習することで成績が向上し、ソルトレイクシティオリンピックの代表に選ばれる。初めてのオリンピックとなるソルトレイクシティ大会では500m8位、1000m16位に終わる。同オリンピック後、競輪選手への転向を表明した。

競輪選手として[編集]

日本競輪学校へは植松仁に次いで二人目となる異種目からの特別選抜入試により合格し、卒業後は日本競輪選手会茨城支部所属の選手として本拠地を取手競輪場に据え、十文字貴信の師匠にあたる川村恵三に弟子入りした(スケート時代の頃から川村の指導を得ていた)。

2003年7月4日立川競輪場でデビューを果たし、初出走で初勝利も挙げたが、その2日後落車による骨折の憂き目を味わう。しかしケガからの復帰後は快進撃を続け、デビューから約半年後の2004年1月13日にはA級3班からS級2班へ史上最速の特別昇級を果たしている。その後は一気に競輪界のトップクラスに位置する選手となる。

2005年1月からはラ・ピスタ新橋と契約し、公営競技初となる個人スポンサー名入りユニフォーム(左肩)を着用[5]。年間獲得賞金上位により、年末の最高峰レースのKEIRINグランプリ05へも出場した(3着)。

なお2006年にもヤンググランプリの出場選手として選抜されていたが、昨年既にKEIRINグランプリに出場していたこともあり、自己都合を理由に出場を辞退している。この年4月から、KEIRINのCM「アスリートの思い」(井筒和幸監督)に主人公として出演した[6]

その後も特別競輪における活躍は見せるものの優勝とは縁遠い日々が続いていたが、2008年11月に広島競輪場で行われたふるさとダービーの決勝では、後方6番手から豪快に捲り切って優勝。GII初制覇と共に、この開催限りで廃止された、ふるさとダービー最後の覇者として歴史に名を刻んだ。また、この勝利により年間獲得賞金額が上位になり、2009年は初のS級S班格付となった。

2009年3月には岸和田競輪場で行われた日本選手権競輪の決勝において、最終バック5番手から捲りを放ち、ゴールでは加藤慎平との写真判定となったが微差で退け、ついに特別競輪初優勝を果たしタイトルホルダーとなった。6月の高松宮記念杯決勝では1期先輩に当たる平原康多を番手に回して優勝に導き、7月の寛仁親王牌決勝では平原の後位を回ったが、この時は着外に沈んだ。しかし7月25日に行われた、サマーナイトフェスティバル決勝戦を制し優勝。そして9月23日に行われたオールスター競輪決勝戦では再び平原康多の番手を回り、抜け出しに成功して優勝しGI2勝目を飾った。

これにより史上最高額の賞金王がかかったKEIRINグランプリ09では三度目となる平原の番手から抜け出し直線で粘ったものの、微差で海老根恵太の2着に敗れ、8百万円差で年間賞金総額2億円突破も逃した。

しかし2010年には2月に玉野競輪場で開催された東西王座戦東王座戦で平原の番手から抜け出し優勝を果たし、その後もSSシリーズ風光るでの決勝2着や、特別競輪の決勝に3回出走したことから、年間獲得賞金上位によりKEIRINグランプリ2010への出場を決定させた(6着)。

2011年は、2月に豊橋競輪場で開催された東西王座戦東王座戦と、4月に武雄競輪場で行なわれた共同通信社杯競輪春一番において、共に決勝で平原の番手から抜け出し優勝し、競輪祭での決勝2着を含め獲得賞金上位でKEIRINグランプリ2011への出場を決定させ、グランプリでは2着となったが乱入したファンに追いかけられるハプニングに遭った。

2012年2月高知競輪場で開催された東西王座戦東王座戦で3連覇を果たし、ふるさとダービー同様に最終開催の優勝者として名を刻むことになった。6月には生まれ故郷の北海道で初めて開催された高松宮記念杯競輪の決勝において、冷静に3番手を確保してから直線抜け出して優勝し、3年ぶりのGI優勝を果たした。8月に四日市競輪場で行われたサマーナイトフェスティバルでも3年ぶりに優勝している。さらに12月には競輪祭の決勝で最終バックから捲って年間GI2勝を手にした。

自転車競技においても全日本プロ選手権自転車競技大会のケイリン種目で、2006年〜2009年まで4連覇、さらに2011年も優勝しており大変験がいい。

2013年4月4日川崎記念初日11レースにおいて、通算300勝を達成した[7]。その後も順調に賞金を積み上げてきたが、7月に高知記念での失格(詳細後述)により「あっせん停止」処分を受け、以降2013年一杯まで欠場となった。さらに処分中の同年12月に日本競輪選手会から脱退して「SS11」を新選手会として立ち上げようとしたことに関し、中心的なメンバーとみなされ日本競輪選手会から2014年5月1日より1年間の自粛休場を勧告され、武田もこれを受け入れ2014年1月に復帰したが5月より再び欠場し、その後自粛期間が3ヶ月に短縮されたため8月から再び復帰を果たした。(詳細はSS11 (競輪)の項を参照されたい)

その直後のオールスター競輪の決勝において、混戦の中から3番手を確保して、最終2角からの捲りを決めて優勝し、2年ぶり5度目のGI優勝を果たしたと同時に、年末は2年ぶりにKEIRINグランプリ2014の出場を決めた。そのグランプリでは、競輪祭において自らの先行によって優勝に導いた平原康多の番手を回り、村上兄弟ら近畿ラインの反撃を受ける前に番手捲りを打ってグランプリ初優勝を果たし(21人目の覇者)、自身初となる年間賞金王も手にした。

2015年は高松宮記念杯競輪の決勝において、捲る平原康多の後ろより最終ホームから自力に切り替える形で捲りを放ち、先に番手捲りを打っていた稲垣裕之の後ろに追いついてから直線で差し込み優勝する。その後競輪祭の決勝においても、一旦ホームで平原から離れたものの再度マークする展開から平原の捲りに追走しゴール直前で差し込み優勝している。

2016年は1月9日の和歌山G3初日に落車棄権・帰郷。4月16日の高知G3準決勝でまくり、本年20走目で初勝利を果たした(前年12月8日の佐世保G3最終日特秀以来の1着)[8]ほど前半は不調だったが、サマーナイトフェスティバルの決勝2着とオールスターの決勝4着で年間獲得賞金争いに加わり、競輪祭の決勝で優勝した平原康多の番手から2着に入ったことにより最後の賞金枠でKEIRINグランプリ2016への出場を決定させた。

2017年は地元・取手で行われた全日本選抜競輪で決勝2着に入り、日本選手権と高松宮記念杯競輪でも決勝に進出するなど、前半は好調をキープした。後半ではオールスター競輪の落車での骨折もあり、欠場するなど苦しんでいたが最終的には前半の貯金を活かして、賞金枠上位としてKEIRINグランプリ2017へ出場を決めた。

主な獲得タイトルと記録[編集]

競走スタイル[編集]

かつては特筆されるほど群を抜く豊富なスタミナとトップスピードを誇り、先行した時のバテない力強さを生かして競輪界のトップクラスに上り詰めたが、自転車競技経験の短さからか自らラインの先頭に立つ時の作戦立てには弱い面があった。しかし近年、捲りが主体になってからは中団確保など位置取りの技術に優れ、番手を追走してからの差し脚もきわめて信頼できるもので、車間開けや牽制もこなす他、本格的な追込選手のように内を掬ってインを強襲することもあるほど戦術が豊富になっている。また本人談話で多く見られる「負けパターンを意識した競争」を徹底しており、横の牽制にも強いため大崩れがほとんどないのも特徴といえ、神山雄一郎など同地区の選手から全幅の信頼を置かれている。

エピソード[編集]

  • デビュー前からの実績などが認められたことにより、2006年から1年間ほど競輪のテレビCMに メインの選手として出演していた。
  • デビュー後一時期までスピードスケートとの両立も考えていたようだが、競輪選手として専念するようになった。
  • 同じ元スピードスケート選手であったことから、2007年にデビューした牛山貴広2008年にデビューした今井裕介に対し、師匠として指導を行っている。
  • 特に牛山に対しては厳しいダメ出しをしており、牛山の初完全優勝時には「これでは上にいけない」と叱責した。また、牛山念願の師匠同乗レースが2011年7月の松山サマーフェスティバルで実現し、牛山の番手を回った武田は1着になったものの、「あんな先行をされては困る」と厳しく叱責した。
  • 競輪選手としてS級昇格後の初レース(2004年01月19日西武園競輪場第9競走)では、1着9番、2着8番、3着7番・・・・・9着1番と、着順が外枠から順番になるという珍しい結果であった。
  • KEIRINグランプリ2011で2着に入線した直後、ホームの観客席側から2人が金網を乗り越えてバンク内に乱入し、武田のそばに近寄よろうとして追いかけたものの、係員に取り押さえられるハプニングがあり、武田は身の危険を感じたとして競輪場側の管理体制を非難し、直後に行われた表彰式への出席を拒否した。なお、その後自らブログで、残念なことではあったが相手が2人とも未成年だったことに気づかず対応を過り軽率な発言をしてしまった[9][10]と述べている。
  • 2013年7月25日の高知記念競輪(GIII)初日第11Rの特選競走において、打鐘の時点で先頭にいた中村一将の後ろに位置した際、並走していた根田空史への牽制を行うため中村から後ろへ離れていき、さらに中村がスパートした時点で反応が遅れ単騎で逃げる中村から大きく離されてしまったため、結局中村の逃げ切りを許した上に2位以下7名が大差で入線してしまい、武田を含む7名は過度のけん制による追走義務違反と判定され失格になってしまう[11]。これによりJKAから『あっせん規制委員会』への諮問と8月末まで「あっせん保留」[12]による欠場を通知され、その後8月15日と16日の2日間にわたって行われた『あっせん規制委員会』で「あっせん停止」[12]の処分が決定したが、武田については起因により1ヶ月処分が上乗せされ、失格の日から8月末までの保留と9月から12月末までの停止を合わせた5ヶ月強相当のあっせんが停止される処分[13]が下された。これにより2013年は高知の失格日より年末まで出走できず、KEIRINグランプリ2013の選考から除外が決定したため、2009年から保ち続けてきたS級S班からも陥落した[14]

脚注[編集]

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  1. ^ 翔びたつ若鷲たち - 全輪協PR+S 第26号 更新日:2005年10月4日
  2. ^ 1月29日 過去・現在・未来 武田豊樹 29歳 - 宮嶋泰子
  3. ^ 3月3日 Nステ宮嶋企画 3月4日に「アスリート魂・武田豊樹30歳」を放送 - 宮嶋泰子
  4. ^ 武田豊樹 史上2人目V2で1億円の美酒を/京王閣 - 日刊スポーツ、2015年12月30日6時48分
  5. ^ 公営競技初!ユニフォームにスポンサー広告! - Keirin JP、2005年1月25日
  6. ^ 2006.9.29 日本自転車振興会 「競輪事業活性化プラン」の検討中間報告
  7. ^ 武田豊樹選手(茨城・88期・SS・39歳)の通算300勝達成について - KEIRIN.JP 4月4日付
  8. ^ 武田豊樹が復活の1勝 待望の今年初勝利/高知 日刊スポーツ 2016年4月16日
  9. ^ 武田豊樹激怒!バンクにファン乱入/平塚 - 日刊スポーツ、2011年12月31日
  10. ^ グランプリ中の出来事について - 競輪ステーション・武田豊樹のブログ、2012年1月1日
  11. ^ 高知競輪で追走義務違反 武田ら7選手が失格 - 2013年7月25日サンケイスポーツ
  12. ^ a b 競輪に係る業務の方法に関する規程 - この場合の「あっせん保留」は第134条、「あっせん停止」は第135条の適用となる。
  13. ^ 武田以外は9月から11月末までの停止により4ヶ月強相当の処分となった。
  14. ^ 武田豊樹はあっせん停止4カ月…GP出場はアウト - 2013年8月16日サンケイスポーツ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]