国鉄D51形蒸気機関車

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D51形蒸気機関車
JNR D51 SteamLoco Double header at okoba loop.jpg
肥薩線混合列車を牽くD51 545号機 (1970年)
基本情報
動力方式 蒸気
製造所 川崎車輛汽車製造
日立製作所浜松工場
日本車輌製造大宮工場
鷹取工場小倉工場
長野工場土崎工場
郡山工場苗穂工場
三菱重工業
製造日 1935年 - 1950年
総製造数 1,184両
主要諸元
軸配置(ホワイト式) 2-8-2
軸配置(アメリカ式) ミカド
軸配置(日本式) 1D1
軌間 1,067 mm
全長 19,730 mm
全高 3,980 mm
最大軸重 14.30 t
総重量 78.37 t(運転整備)
テンダ重量 47.40 t(運転整備)
炭水車重量 125.77 t
燃料種別 石炭
燃料容量 10.0 t
水容量 22.0 m³
ボイラ 過熱式(水容量:6.0 m³)
ボイラ圧力 14 kg/cm²(初期型)
15kg/cm²(標準型)
火格子面積 3.27 m²
大煙管寸法本数 140 mm×5,500 mm×35本
小煙管寸法本数 57 mm×5,500 mm×94本
煙管伝熱面積 147.4 m²
火室伝熱面積 17.5 m²
全蒸発伝熱面積 168.8 m²
過熱器形式 シュミット式
過熱伝熱面積 41.4 m²
気筒 単式2気筒
気筒寸法 550 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式
営業最高速度 85 Km/h
出力 1,400 PS
定格出力 1,280 PS
単独ブレーキ 空気ブレーキ
列車ブレーキ 自動空気ブレーキ
経歴
運用者 鉄道省日本国有鉄道
形式 D51形
同一形式両数 1,110両
車両番号 D51 1 - 949, 1101 - 1161
愛称 デゴイチ・デコイチ
運用地域 日本全国
保存 180両(動態2両)
経歴
運用者 胆振縦貫鉄道→鉄道省
形式 D51形
同一形式両数 5両
車両番号 D5101 - D5105→D51950 - D51954
運用地域 北海道
経歴
運用者 台湾総督府鉄道
台湾鉄路管理局
形式 D51形→DT650形
同一形式両数 37両
車両番号 DT651 - DT687
運用地域 台湾
経歴
運用者 国連軍→韓国鉄道庁
(現・韓国鉄道公社(KORAIL)
形式 D51形→ミカ(미카)7形
同一形式両数 2両
車両番号 D51101・102→ミカ7 1・2
運用地域 韓国
経歴
運用者 サハリン州鉄道
形式 D51形
同一形式両数 30両
車両番号 D51-1 - D51-30
運用地域 ソ連

D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。

主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、その所属両数は総数1,115両に達しており、ディーゼル機関車電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。なお、一時的に籍を置いた1162 - 1166号機(→台湾鉄路管理局DT678 - 682)を含めると1,120両になるが、この5両については通常はカウントの対象外とされる。

デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった[1][2]。また、「デコイチ」という愛称もある。

誕生の背景[編集]

1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、その影響で日本国内で発生した昭和恐慌により、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。そのため、恐慌発生以前に計画されていた貨物用の新形機関車の製造は中断されていた。

その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められた。そこで1936年(昭和11年)から製造されたのが本形式である。C11形ボイラーで実用化された電気溶接技術を応用して製造され、当時の設計主任である島秀雄は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げている[3]

構造[編集]

設計の基本となったのは、同じく軸配置2-8-2(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形で、三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通である。ボイラー使用圧力は当初D50形の13 kg/cm²に対して14 kg/cm²と1 kg/cm²昇圧、シリンダー径を縮小しつつ牽引力の若干の増大を図っている。

また、リベット接合部を電気溶接で置き換えるなど、構造と工法の見直しを行って軸重の軽減と全長の短縮を実現し、全国配備が可能となった。最大動軸重を14.3 tに引き下げ、これによりD50形では入線が困難だった丙線への入線が可能とされた。ただし、標準形以降は最大・平均共に動軸重が増大し、特に最大動軸重は最終的に15.11 t(第4動軸)とD50形(14.99 t(第1動軸))以上の値となっている。全長は初期形でD50形より571 mm短縮された。フロントオーバーハングの大きいD50形は、退行運転や推進運転時に、軽量な二軸車を中心として連結相手を脱線させてしまう事故をしばしば起した。この問題は本形式で前部デッキと先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面、先台車周辺の保守が困難になり、検修陣にはD50形と比して本形式を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17 mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19 mを、それぞれ超過するD50形は60フィート (18.3 m) 転車台での転向が難しく、通常は20m転車台での転向を必要としていた。この短縮により亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、本形式の運用範囲拡大に大きく貢献している。

戦時形ではボイラー使用圧力15 kg/cm²への引き上げがなされ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した[4]。初期形、標準形についても戦後に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。但し、燃焼室を装備していない為、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えない。

電気溶接の全面的な採用と共に動輪輪芯は箱形化され、形態的には同時期設計のC57形との共通点が多い。

製造時期による区分[編集]

本形式は製造時期と形態から三種に大分される。以下にその特徴を記す。

初期形[編集]

1号機 (ナメクジ型)
1号機 (ナメクジ型)
D51 51 (ナメクジ型)
D51 51 (ナメクジ型)
D51 23 (おおナメクジ型)
D51 23 (おおナメクジ型)

D51 1 - 85・91 - 100

  • 先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20・8-20A(8-20Aは91 - 96のみ)、動力逆転機搭載
  • 初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水暖め器レール方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」の通称もある。また、汽車製造会社製の22・23号機はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれている。なお、23号機はキャブ側面にタブレットキャッチャーを、ランボード上にナンバープレートを装着していた。この両機は後に保守上の都合等から通常の「ナメクジ」型に改装されている。また、このグループは運転台の奥行きが標準形に比して短い。文献によっては、設計主任の島秀雄の配慮により機関車を大きく見せるために通常よりも小さく作ったものであると記述されたものがあるが、D50形よりも前頭部を短くしたために後部が重くなってしまい、そのバランスをとるために小型化したものである[5]。ゆったりした運転台を持つD50形に比べ乗務員の労働環境として劣悪で、「D50形では広い運転台の片隅に置いておいた弁当が傷むことはなかったが、狭いD51形の運転台では置いておいた弁当が(ボイラーの熱で)腐ることがあった」といった証言が残されている。また、第1動軸から順に軸重が14.99t・14.80t・14.79t・14.21tと第1動軸を重く第4動軸を軽く配分してあり、牽き出し時に重心が後へ移動することで各動軸の軸重が平均化されるため空転が発生しにくい設計だったD50形と比較して動軸の重量配分に明らかな不備があり、動軸重が第1動軸から順に13.17t・14.30t・14.23t・14.30tで列車牽き出し時などの過荷重状態で第1動軸の軸重が低下し額面上の性能向上にもかかわらず空転が頻発する傾向が強かったため、乗務員の評価は良くなかったとされる。
  • ナメクジ形は、構造上汎用形の集煙装置が取り付けられないため、配置が区別されており、標準形と同仕様へ改造された例も見られる。なお、この呼び名は当初は鉄道ファンの間での通称だったが、後には初期形D51を区別する呼称として国鉄内部でも用いられた。なお、山口線で蒸気機関車運転の復活が決定された際、D51 1が復活予定候補に挙がったが、集煙装置が取付不可だったために予定機から外された経緯がある。代わりに抜擢されたC57 1とC58 1には、巨大なD51形(標準形)用長野工場(現:長野総合車両センター)式集煙装置が搭載された。

標準形[編集]

D51 720 (標準型)
D51 720 (標準型)
標準型D51の運転席
標準型D51の運転席

D51 86 - 90・101 - 954

  • 先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20A・B、動力または手動(ねじ式)逆転機搭載
    • 8-20Aは86 - 90・101 - 106・199 - 211に連結。AとBの相違点は炭水車の台車で、Aは軸ばねにコイルばねを用い、側枠を一体鋳鋼製としたTR24形類似のもの、Bは軸ばねに重ね板ばねを用い、側枠を接板台枠構造としたものである。
    • 逆転機は134号機以降、微妙な操作が行いにくい動力式から手動式に戻された。
  • 前述のとおりナメクジ形は重量配分が悪く、重量列車牽き出し時に空転が多発する傾向があり、本来一番重く設定されてしかるべき第1動軸の軸重が13.17tと第2 - 第4動軸に比して1t以上軽く、適正な重量配分ではなかった。そのため、19371938年に浜松工場で製造された86 - 90号機において改良試作が行われ、給水暖め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更する等の設計変更が行われた。これによりナメクジ形で問題とされた点は概ね改善された。ただし、ナメクジ形と比較すれば改善されてはいたものの、先行形式であるD50形と比較すると動輪、とくに牽き出し時などに重心移動でどうしても実効軸重が低下する第1動輪の粘着性能が劣り(標準形の昇圧後で動軸重は第1動軸から順に14.73t・14.77t・14.95t・15.11t。つまり、1次形と比較して多少の改善はあったものの第1動軸から順に第4動軸まで軸重が順に増えていくという、重量列車や勾配線での列車の牽き出し時に問題となる軸重の配分状況に変化はない)、ボイラー圧力の引き上げなどによりシリンダー出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていた。そのため、粘着性能の良否が直接列車定時運行に影響する北陸本線信越線などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する機関区が少なからず存在した。これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、当時在籍していたD50形が戦時中の酷使で疲弊、老朽化し、他区からの転入による代替車両の確保が事実上不可能となってから、つまり本形式以外の選択肢が消滅して以後のことである。なお、本形式については戦時中以降、輸送力増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロントデッキなどにコンクリート塊の死重を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている。また、標準形の導入を本格的に受け入れるようになった後、敦賀機関区では集煙装置を考案し、それを煙突上に搭載することで、煙害対策と併せてこの重心問題の改善を図っている。
  • その後1938年6月竣工の101号機以降はこの仕様で新製され、この姿が広くD51のイメージとして流布することとなった。
  • なお、このグループでは一部に台枠が圧延鋼板をくりぬいた棒台枠ではなく、D51 354 - 359・403 - 405など、鋳鋼製台枠を採用したものが存在する他、1943年度製造分以降では、除煙板やナンバープレート、テンダーの石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行した。戦後はこれらも徐々に標準形と同等の仕様となるように改修が行われている。

戦時形[編集]

D51 1072(戦時形)

D51 1001 - 1161

  • 先台車:LT128、従台車:LT157、テンダー:10-20、手動(ねじ式)逆転機
  • 昭和19年度発注グループ(1944年から1945年にかけて竣工)は、上述の標準形後期やD52形と同様にランボードデフレクターなどに木材などの代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化[6]、といった簡素化に加え、台枠を省略した底形炭水車に変更するなど、より一層の資材節約と工期短縮を図った戦時設計とし、また前述の通り缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られた。このため新形式としてもよいところ、途中欠番を置いて1001から付番した[4]。しかし、粗悪な代用材料の使用や、本来はリベット2列が基本だったボイラーなどの重要接合部をリベット1列にしたり、溶接不良などが原因でボイラー爆発などの重大事故が多発し、乗務員には「爆弾を抱えて運転する気分」などと酷評された。戦後、これらの車両は、代用材使用部品の正規部品への交換、状態不良ボイラーの新製交換などにより性能の標準化が行われたが、性能面に影響のなかった部位はそのまま存置され、カマボコ形ドームや炭水車の形状などに特徴が残った(なお、きわめて少数ではあるが、戦後の改装時に、炭水車を船底形から標準型と同じものに振り替えた例もある)。ごく一部の号機は、煙室前面と煙室扉上部の欠き取りもそのまま残されていた。

製造[編集]

量産を進める段階で国内情勢が戦時体制へと突入し、貨物機である本形式に対する需要が非常に大きくなったため、国内の大型機関車メーカー5社と国有鉄道の工場(工機部)のうち8工場が製造に参加し、1936年から1945年(昭和20年)までの間に1,115両もの多数の車両が製造されることとなった。そのうちの8両については、国有鉄道の発注ではなく、私鉄の戦時買収南樺太内地化にともなって鉄道省へ編入されたもの、外地向けのものが戦況の悪化にともなう制海権喪失により発送できなくなり、国有鉄道籍を得たものである。また、955 - 1000は欠番となっているが、戦時型を1001から付番し番号で区別したためである。そのため、国有鉄道所有機のラストナンバーは1161である。

これらの他、戦前から台湾総督府鉄道向けに製造されたものが32両(1944年製の5両は、一時的にD51 1162 - 1166として借入使用された)、戦後にソビエト連邦サハリン州鉄道向けに輸出されたものが30両、国連軍に納入されたものが2両、さらに1951年に台湾鉄路管理局向けに輸出された5両が存在する。これらを合わせると、D51形は1,184両製造されたことになる。

鉄道省(国有鉄道)[編集]

国有鉄道発注車は、全部で1,107両である。その製造の状況は、次のとおりである。

  • 1935年度(23両)
  • 1936年度(25両)
    • 川崎車輛(14両) : D51 24 - 37(製造番号1738 - 1742・1783 - 1791)
    • 汽車製造(5両) : D51 38 - 42(製造番号1451 - 1455)
    • 日立製作所(6両) : 43 - 48(製造番号813 - 818)
  • 1937年度(52両)
    • 川崎車輛(27両) : D51 49 - 67・71 - 78(製造番号1807 - 1819・1824・1825・1828 - 1831・1890 - 1897)
    • 日立製作所(3両) : D51 68 - 70(製造番号868 - 870)
    • 汽車製造(17両) : D51 79 - 85・91 - 100(製造番号1532 - 1538・1560 - 1569)
    • 浜松工場(5両) : 86 - 90(製造番号19 - 23)
  • 1938年度(127両)
    • 汽車製造(6両) : D51 101 - 106(製造番号1570 - 1575)
    • 川崎車輛(14両) : D51 107 - 120(製造番号1932 - 1945)
    • 日立製作所(27両) : D51 121 - 133・173 - 186(製造番号990 - 1002・1040 - 1053)
    • 日本車輌製造(39両) : D51 134 - 172(製造番号594・595・660 - 696)
    • 大宮工場(8両) : D51 187 - 194(製造番号1 - 8)
    • 浜松工場(8両) : D51 199 - 206(製造番号24 - 31)
    • 鷹取工場(7両) : D51 211 - 217(製造番号1 - 7)
    • 小倉工場(7両) : D51 220 - 226(製造番号16 - 22)
    • 長野工場(3両) : D51 229 - 231(製造番号1 - 3)
    • 土崎工場(2両) : D51 232・233(製造番号1・2)
    • 郡山工場(3両) : D51 234 - 236(製造番号1 - 3)
    • 苗穂工場(3両) : D51 237 - 239(製造番号1 - 3)
  • 1939年度(196両)
    • 大宮工場(10両) : D51 195 - 198・243 - 244・469 - 472(製造番号9 - 18)
    • 浜松工場(15両) : D51 207 - 210・245 - 250・473 - 477(製造番号32 - 46)
    • 鷹取工場(11両) : D51 218・219・251 - 254・478 - 481・490(製造番号8 - 18)
    • 小倉工場(10両) : D51 227・228・255 - 258・482 - 485(製造番号23 - 32)
    • 苗穂工場(4両) : D51 240 - 242・489(製造番号4 - 7)
    • 長野工場(3両) : D51 259・260・486(製造番号4 - 6)
    • 土崎工場(3両) : D51 261・262・487(製造番号3 - 5)
    • 郡山工場(3両) : D51 263・264・488(製造番号4 - 6)
    • 川崎車輛(45両) : D51 265 - 309(製造番号2143 - 2152・2168 - 2177・2191 - 2197・2200 - 2209・2212・2211・2210・2213 - 2217)
    • 日立製作所(50両) : D51 310 - 359(製造番号1189 - 1237・1240)
    • 日本車輌製造(27両) : D51 379 - 405(製造番号754 - 780)
    • 汽車製造(15両) : D51 442 - 456(製造番号1861 - 1875)
  • 1940年度(184両)
    • 日立製作所(43両): D51 360 - 378・589 - 612(製造番号1238・1242・1239・1241・1243・1244・1246・1245・1247 - 1257・1420 - 1431・1434・1433・1432・1435 - 1443)
    • 日本車輌製造(45両) : D51 406 - 441・613 - 621(製造番号781 - 816・891 - 899)
    • 汽車製造(20両) : D51 457 - 468・581 - 588(製造番号1786 - 1887・2024 - 2031)
    • 大宮工場(10両) : D51 506 - 515(製造番号19 - 28)
    • 浜松工場(13両) : D51 518 - 530(製造番号47 - 59)
    • 鷹取工場(10両) : D51 491 - 500(製造番号19 - 28)
    • 小倉工場(9両) : D51 535 - 543(製造番号33 - 41)
    • 長野工場(3両) : D51 548 - 550(製造番号7 - 9)
    • 土崎工場(3両) : D51 551 - 553(製造番号6 - 8)
    • 郡山工場(4両) : D51 555 - 558(製造番号7 - 10)
    • 苗穂工場(4両) : D51 559 - 562(製造番号8 - 11)
    • 川崎車輛(17両) : D51 564 - 580(製造番号2417 - 2433)
    • 三菱重工業(3両): D51 632 - 634(製造番号323 - 325)
  • 1941年度(79両)
    • 鷹取工場(6両) : D51 501 - 505・690(製造番号29 - 34)
    • 大宮工場(2両) : D51 516・517(製造番号29・30)
    • 浜松工場(5両) : D51 531 - 534・685(製造番号60 - 64)
    • 小倉工場(4両) : D51 544 - 547(製造番号42 - 45)
    • 土崎工場(1両) : D51 554(製造番号9)
    • 苗穂工場(1両) : D51 563(製造番号12)
    • 日本車輌製造(25両) : D51 622 - 631・670 - 684(製造番号932 - 941・995 - 1000・1020 - 1028)
    • 三菱重工業(17両) : D51 635 - 641・660 - 669(製造番号326 - 332・336 - 345)
    • 日立製作所(18両) : D51 642 - 659(製造番号1460 - 1477)
  • 1942年度(112両)
    • 浜松工機部(12両) : D51 686 - 689・819 - 826(製造番号65 - 76)
    • 鷹取工機部(9両) : D51 691 - 694・831 - 835(製造番号35 - 43)
    • 日立製作所(33両) : D51 695 - 727(製造番号1669 - 1668・1679 - 1691)
    • 日本車輌製造(12両) : D51 728 - 739(製造番号1130 - 1141)
    • 川崎車輛(20両) : D51 748 - 767(製造番号2692 - 2701・2718・2719・2725 - 2728・2763 - 2766)
    • 汽車製造(13両) : D51 773 - 785(製造番号2256 - 2261・2282 - 2286・2303・2265)
    • 三菱重工業(13両) : D51 791 - 803(製造番号360 - 372)
  • 1943年度(163両)
    • 日本車輌製造(33両): D51 740 - 747・846・847・916・917・1063 - 1083(製造番号1182 - 1187・1215 - 1220・1229 - 1249)
    • 川崎車輛(40両) : D51 768 - 772・843 - 845・918 - 949(製造番号2866 - 2873・2892 - 2901・2908 - 2917・2953 - 2964)
    • 汽車製造(15両) : D51 786 - 790・866 - 875(製造番号2326 - 2330・2355 - 2364)
    • 三菱重工業(35両) : D51 804 - 818・896 - 915(製造番号373 - 387・399 - 418)
    • 浜松工機部(12両) : D51 827 - 830・848 - 852・861 - 863(製造番号77 - 88)
    • 鷹取工機部(15両) : D51 836 - 842・853 - 860(製造番号44 - 58)
    • 日立製作所(13両) : D51 876 - 888(製造番号1814 - 1826)
  • 1944年度(146両)
    • 日立製作所(19両) : D51 889 - 895・1051 - 1062(製造番号1827 - 1837・1886 - 1888・1890・1889・1891 - 1893)
    • 三菱重工業(50両) : D51 1001 - 1050(製造番号419 - 468)
    • 日本車輌製造(46両) : D51 1084 - 1129(製造番号1272 - 1289・1291 - 1318)
    • 川崎車輛(31両) : D51 1130 - 1160(製造番号3008 - 3011・3013 - 3024・3026 - 3028・3030 - 3042)

恵須取鉄道[編集]

D511・D512 → D51 864・865 : 恵須取鉄道樺太)より買収。

1944年未成のまま買収された樺太の孤立鉄道より編入したもので、概ね標準形に準ずるが、寒冷地対策として製造時より密閉キャブであり、炭水車の前端部にも風除けを立ててキャンバス製のを運転台との間に設けていたのが特徴である。1943年、汽車製造製(製造番号2235・2331)。この2両は樺太には送られず、北海道内で使用された。

胆振縦貫鉄道[編集]

D5101 - D5105 → D51 950 - 954 : 1944年胆振縦貫鉄道より買収

内地私鉄がD51形同等機を新造した唯一の事例である。D5101 - D5103の3両は同鉄道開業前の1940年5月に設計認可を得て、開業直後の1941年1月に竣工した。厳密な竣工日は順に1941年1月9日、11日、13日。以後輸送力強化のため、それぞれ1942年7月17日・1943年5月7日付でD5104・D5105が増備された。製造はD5101 - D5104が汽車製造(製造番号2021 - 2023・2234)、D5105が日立製作所(製造番号1785)で、いずれも同時期の国鉄向けに準じた仕様で竣工しており、形態も標準形と同様である。

日本窒素[編集]

D51 1161 日本窒素より購入。

海南島の日窒興業石碌鉄道で使用するため日本車輌製造本店で製造されたものの、海軍の敗退で制海権が失われ、発送できなくなったものを国鉄が購入した。戦時形であり、D51形全体で見ても唯一の1945年製(製造番号1373)で、鉄道研究者の実見により、工作方法がより簡素化されていたのが確認されている。

また、この日窒興業石碌鉄道には、1942年および1943年に5両のD51形 (D51 621・632 - 635) が供出のうえ使用されていた。

台湾総督府鉄道・台湾鉄路管理局[編集]

動態復元された台湾鉄道管理局DT668号機

当時、日本の統治下にあった台湾総督府鉄道向けに1939年から1944年にかけ32両 (D51 1 - 32) が製造されたもので、形態的には1 - 27が標準形に、28 - 32が戦時形に属する。このグループは、日本国有鉄道籍を有したことはない。製造の状況は次のとおりである。

  • 1939年度(3両)
    • 川崎車輛 : D51 4 - 6(製造番号2218 - 2220)
  • 1940年度(3両)
    • 汽車製造 : D51 1 - 3(製造番号1888 - 1890)
  • 1941年(12両)
    • 川崎車輛 : D51 7 - 18(製造番号2416・2463 - 2470・2591 - 2593)
  • 1942年(6両)
    • 汽車製造 : D51 19 - 24(製造番号2231 - 2233・2262 - 2264)
  • 1943年(3両)
    • 日立製作所 : D51 25 - 27(製造番号1737 - 1739)
  • 1944年(5両、戦時形)
    • 日立製作所 : D51 28 - 32(製造番号1674 - 1678)

このうち、戦時形のD51 28 - 32は制海権喪失で発送できず、一時的な措置として国有鉄道が借り入れ、D51 1162 - 1166として使用された。この時期、本土ではすでに戦時形(1000番台)が製造されていたが、この5両は戦前の標準形と似る形態(ドームはかまぼこ形でなく、標準形と同じ形状)で製造された。これは、外地向けゆえ、大日本帝国の威信を保つためといわれている。しかし、見た目こそ標準形だったが、ドーム以外の実態、炭水車などは内地向けに製造されたものと同じ戦時形で、性能、機能面で劣るため、使用晩期はボイラ圧力が12kg/cm²に制限されていた。この5両は、戦後1946年4月になって台湾に発送された。台湾のD51形は、戦後台湾鉄路管理局に引き継がれ、DT650形 (DT651 - DT682) と改称された。

戦後の1951年、国際連合の援助による中華民国の注文で、5両の標準形(カウキャッチャー付き、炭水車はやや大型化)が台湾に輸出され、DT683 - DT687とされた。製造は汽車製造が3両(DT683 - DT685・製造番号2608 - 2610)、新三菱重工が2両(DT686・DT687・製造番号718・719)だった。この5両が、D51形として最後の新製機となった。

ソビエト連邦(樺太)向け輸出車[編集]

1949年、ソビエト連邦へ輸出物資の一環として、30両が樺太に送られた。なお、よく賠償物資として輸出との誤解がみられるが、正規の条約である日ソ共同宣言の締結は1956年であり、条約締結以前に賠償物資の請求は原則的にありえない。そして日ソ共同宣言時には条約第6項においてソビエトは日本に対し賠償請求権を放棄している。また当時の複数の文献「機関車」第3号(1949年11月発行)や「交通技術」51号(1950年10月号)にも正規の輸出との記述が存在する。一方「賠償輸出」という記述が見られ始めたのは、往時の記録があいまいになりだし、孫引きが増加した1970年代以降のことである。

これらは、同年1月から4月にかけて5社で製造されている。樺太向けに輸出されたものは、国内向けのものと区別するために、形式番号と車両番号の間にハイフンが入っている(例えば、国内向けは「D51 27」であるのに対して、樺太向けは「D51-27」)。また防寒のために運転席は密閉構造になっているなど、一部構造が国内向けとは異なっている。

なお、形式やナンバープレートにロシア語で使用されるキリル文字の「Д」ではなく、ラテン文字の「D」が使われている。蒸気機関車研究家の臼井茂信は、サハリン占領後も鉄道システムは日本式だったためではないかと推測している。

樺太向けD51形の製造の状況は、次のとおりである。

  • 日本車輌製造(7両) : D51-1 - 7(製造番号1512 - 1518)
  • 川崎車輛(7両) : D51-8 - 14(製造番号3170 - 3176)
  • 日立製作所(6両) : D51-15 - 20(製造番号2032 - 2037)
  • 汽車製造(5両) : D51-21 - 25(製造番号2576 - 2580)
  • 三菱重工業(5両) : D51-26 - 30(製造番号665 - 669)

国連軍・韓国鉄道庁[編集]

1950年朝鮮戦争勃発とともに鉄道は主要な攻撃対象となり、多数の機関車が破壊された。この被害補充のために米第8軍国連軍名義で日本に蒸気機関車を発注するが、他社が南満州鉄道朝鮮総督府鉄道設計図を流用して「ミカイ形」を製造するなか、三菱重工業のみがD51形を標準軌・密閉キャブ化して納入した。製造の状況は次のとおりである。

  • 1950年(2両)
    • 三菱重工業 : D51101・D51102(製造番号705・706)

2両とも休戦後に韓国鉄道庁(現・韓国鉄道公社(KORAIL))に引き渡され、ミカ7形1・2として1960年代まで使用された。

戦後の改造機[編集]

戦後、軍需貨物輸送の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による旅客の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年から1947年にかけて急遽C57形32両とC59形73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、1948年の段階で機関車メーカー各社は大量の仕掛品在庫を抱えていた。

だが、その後は預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、1948年GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、C61形旅客用機関車が33両製造されている。新規製造ではなく、書類上改造扱いだったため、予算会計上の規制を回避できた。既に車籍が存在していれば、実際には完全な新製であっても書類上「改造」とすることで会計監査上の指弾を免れうる、といういかにも官僚主義的なこの回避策は、戦前の統制経済初期段階から地方私鉄では車両確保の常套手段と化していた方策である。つまり国鉄当局は、貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用すればよい、というデ・グロートの助言をこれ幸いと言質にとって、戦前から監督官庁としてその手口を知悉していたこの策を講じた。また、このプランは仕掛状態で宙に浮いていたC57形未成車の部材、ひいては突然の予算凍結で困窮を強いられたメーカー各社の救済という意味合いもあり、33両といういかにも中途半端な製造両数も仕掛部材の残数に由来する。

さらに、1960年には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となっている。

個別の改造機として注目すべきは、1956年11月の運転業務研究会発表資料として軸重可変機構を付与された、奈良機関区所属のD5165である。当時の奈良機関区は中在家信号場前後に加太越えの難所を擁す関西本線を担当しており、重量級列車の機関車運用には困難を伴い、特に上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい本形式は、その改善が望まれていた。D5165での改造は、この問題を解決するために提案されたもので、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変え、これにより動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替え可能とするもの[7]である。この軸重可変機構は、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、撒砂量の減少により軌道保守の負担軽減にも資するという特徴を有し、さらに単純に甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なり、上り勾配区間や構内などの必要な区間のみを軌道強化すればよく、本形式の運用線区に制約を加えるものではない、というメリットもあった。もっとも、この方式は動力近代化の方向性が定まってからの改造のためか他車には波及せずに終わっている。ただし、D5165はその後奈良機関区から吹田第一機関区へ転じ、吹田操車場の入換機として、比較的長期にわたりこの仕様のままで運用された。なお、この軸重可変の思想は本形式の後継車となったDD51形において形を変えて日の目を見ている。

その他にもD51形は使用線区の事情に応じて様々な改造が施され、北海道東北地方では寒冷地対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施され、品質の悪い石炭を常用する常磐線で運行されていた水戸平機関区配置のD51 112・121・123・248・313・381・389・411・503・551・645・647・672・695・821・914・931・946・1024・1068の20両[8]には1仕業での投炭量が4 - 5トンを超過していたことから、機関助士の2人乗務を避けるべく自動給炭装置(メカニカル・ストーカー)を追加搭載、長野では砂撒き管の増設が行われている。その他にも重油併焼装置やATS用発電機の設置、副灯の設置、キャブの屋根の後方への延長、運転室左右の前面部への旋回窓の設置、さらには変形(切り取り式)デフや集煙装置(変形デフや集煙装置の形状は担当工場ごとに細かく異なる)の装備、誘導通風装置(ギースル・エジェクタ)の取り付けなど、変化のバリエーションは多い。重油併燃装置用の重油タンクの装備位置は地域ごとに異なり、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースがある(大型の3000リットルタンク装備車は東北地方に多かった)。また、肥薩線大畑越えに使用された人吉区のD51は、ボイラー上のタンクの容量不足を補う為に助手席側ランボード上に200リットルの補助タンクを装備していた。誘導通風装置は、1963年3月に長野工場で改造されたD51349を皮切りに、117・120・167・226・232・241・252・276・285・293・308・315・328・345・357・371・391・413・457・492・509・539・570・605・711・725・733・742・842・952・953・1037・1042・1119の合計35両に対して取り付けられた。シンダの溜まりが多く、また火の粉止めとしての効果も得られるなど好成績で、秋田機関区や北海道の各機関区、特に追分機関区所属車に対して集中的にこの改造が実施されている。

その中でも北海道で活躍したD51 54は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装され、ナメクジ形ながら標準形の風貌を持つことで知られた。この機関車は特異な改造だったため、オリジナルを尊重する愛好家からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」という愛称で呼ばれた。

運用[編集]

室蘭本線で貨物列車を牽くD51 260 (1974年頃)

全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた。ただし、四国では土讃本線限定で使用された。貨物用のため地味な存在だったが、中央本線(中央東線・中央西線とも)や函館本線の”山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、急行をはじめとする優等列車を含む旅客列車の牽引に使われることも多く、羽越本線などのような平坦路線でも旅客列車牽引に使われた例があった。D51形は軸重が重いため、多くは東海道本線山陽本線東北本線などの幹線の貨物列車を中心に牽引した。中にはお召し列車を牽引した車両や、新鶴見操車場吹田操車場などの基幹ヤードでハンプ押上げ用として使用された車両[9]もある。

運転・保守両面では一部勾配線(後述)を除き概ね好評を博し、全国的に鉄道車両の保守状態が劣悪だった第二次世界大戦終結直後でも、D51形は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。

しかし、本来の使用目的である重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。また、車体長短縮のために生じた前後方向の重心位置のアンバランスを運転台の小型化で是正しようとするなど、乗務員の作業環境を無視した設計となっていたため、運転台が広くしかも乗り心地に優れるD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曽福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は戦時中など他に選択肢が存在しない状況になるまで、初期型を受け入れない対応を行っていた。標準形が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。

さらに前記の各区は標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では1941年にD51形が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している[10]。これに対して平坦線を担当する各区は稲沢機関区を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。

戦時中にはボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心にコンクリート製の死重をフロントデッキに搭載するなどの対策が講じられている。

1941年から生産されたC59形は、当初の計画では本形式とボイラ-を共通設計として量産効果や保守の容易化といったメリットが出る予定だったが、本形式において前後方向の重心問題が解決しなかったことで共通設計を断念し、対策として本形式のものを基本としつつ煙管長を500mm延長して重心を前方にシフトさせた専用ボイラーを別途設計することを強いられている。しかも、それでさえ従軸の軸重が過大で列車牽き出し時に車輪の割損事故を引き起こすなど、ボイラー火室付近の重量が過大であることを示すトラブルが頻発しており、この点からも、本形式のボイラーは機関車の重心設計という点で決して好ましいデザインではなかったことが見て取れる。

国鉄形蒸気機関車の中でも特にその末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」[要出典]、「代表機」[11]、「代名詞」[11]などと表現されることもある本形式であるが、実際には前述のように基本設計レベルで深刻な問題を抱えており、その広範な運用と知名度は、戦時体制に伴う貨物機大量需要から来た膨大な量産の結果に過ぎなかった。

夕張線(現・石勝線)・室蘭本線の貨物列車牽引では、夕張方面の炭鉱から室蘭港へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたこともあった。1953年(昭和28年)時点では本形式で函館本線小樽築港 - 滝川間と室蘭本線岩見沢 - 追分間で牽引定数が換算185両 (=1,850t)、追分 - 室蘭間で換算260両 (=2,600t) を設定。1952年(昭和27年)2月に追分 - 室蘭間で3,000tの牽き出し試験をしたところ、成績は良好だったものの単線区間の線路有効長の関係で実施に至らなかった。ここは9600形でも2,000t牽引を行った区間であり、夕張方面の炭坑から追分駅を経て苫小牧駅付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえセキの積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、牽き出しさえすれば、後は室蘭港まで引っ張っていけたからである。なお、牽き出しは非常にゆっくりしたもので、一両ずつ連結器がぶつかる音をたてながら行われた。この列車の尋常ではない長さは、空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、多く連なるセキが空気を巻き込んで抵抗が増え、速度が上らなかったほどである。大戦中は10‰勾配区間でD51形に8620形補機としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所要数の増加を招くことから中止となった。

旅客列車の牽引では、函館本線急行の牽引が特筆されるが、これは函館 - 長万部を単機で、長万部 - 小樽の通称「山線」を重連で牽引するも、高速運転で各部の損耗の速さによる検修の負担と、振動の激しさと連続力行で助士2人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大からC62形への転換が行われ、1971年にはDD51形ディーゼル機関車に置き換えられた。山線区間の仕業は機関車、乗務員共に限界に挑むものであり、牽引機が更新されるたび、運転時分も短縮していった。

電化やディーゼル化の影響による余剰廃車が本格的に出始めたのは1967年頃からのことで、蒸気機関車の最後の時期まで多くのD51形が残っていた。特に1960年代から1970年代にかけて石北本線東北本線奥羽本線伯備線などの急勾配区間において重連や3重連などで活躍する姿は当時の「SLブーム」の波に乗り、鉄道ファン写真家マスコミ関係者などの間で大変な人気を集めた。

また、羽越本線をはじめとする日本の原風景が残っていた線区を走る雄姿を撮影する鉄道ファンの姿も多かった。

しかし、製造両数が多いこともあって、当然蒸気機関車の中でも残存両数が多く、他の機関車よりも多く見ることができたため、鉄道撮影を主とするファンの中には他の少数派形式が来ることを期待していて、D51形が来ると「またD51か」とため息を漏らす者も多く居たという。

最後に残ったのは北海道の追分機関区に所属していた5機で、C57 135牽引(現:鉄道博物館所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の1975年12月24日まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終貨物列車(夕張線6788列車)並びに国鉄最後の蒸機本線走行となった。

これらの国鉄蒸気機関車の最後を飾った追分区所属のD51形は、地元、追分町(現・安平町)(241号機)や東京都台東区上野の国立科学博物館(国鉄工場最終出場蒸気機関車603号機)などといった各地に保存が決定していたが、1976年4月13日深夜に発生した追分機関区扇形庫火災により、国鉄最後の蒸気牽引入れ換え運用機79602号機や、配属されたばかりの新鋭ディーゼル機関車(DD51形)8両と共に4両(241・465・603・1086号機)が焼失した。現在、安平町の鉄道資料館には旧追分機関区の機関庫の火災で焼失した当初の静態保存予定機である241号機他の代わりとして、小樽築港機関区や追分機関区などで使用されていた320号機が静態保存されている。320号機は、本来は静態保存を予定していなかったが、急遽、静態保存機となったものである。なお、最終5機の内、916号機のみが前橋市前橋こども公園に保存されている。

日本国外では、台湾でDT650形として37両が使用された。台湾で使用されていたものは既に全車廃車となっているし、うち4両が静態保存されていたが、2011年11月に、DT668は動態保存にして復活された。これから観光用、イベント用として運用する予定。

サハリンで使用されたものは引退後6両 (1・2・23・25・26・27) が帰国し、各地に保存されているほか、現地でも4号機が観光列車として運行されている。

廃車後のD51形[編集]

蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、廃車、除籍後実に178両が全国各地の鉄道保存展示施設博物館公共施設学校公園などで静態保存されることとなった。そのうち187・488・745号の3両は準鉄道記念物に指定されている。これらのほか、2両(200号機、498号機)が動態保存されている。

以下に、静態保存機の番号と所在地を示す。

動態保存[編集]

JR東日本 498号機[編集]

東日本旅客鉄道(JR東日本)が、1988年に動態復元した機関車である。

D51 200

JR西日本 200号機[編集]

西日本旅客鉄道(JR西日本)の梅小路蒸気機関車館に保存されている200号機は動態保存されており、車籍も有するが、全般検査を受けていないため本線走行はできず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)のみに留まっている。車籍は1979年にいったん抹消(有火保存)されたが、1987年に復活している。

また、同機は新人蒸気機関車運転士の教習訓練車としても使用されている。

2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

2017年頃に、新たな本線運転可能な動態保存機として運用できるよう、今後大規模な修理が行われることを2014年10月17日にJR西日本より発表された[13]

ロシア国鉄D51-4[編集]

サハリン州のユジノサハリンスク機関区に配置され、主に日本からの観光客を対象とした特別列車を牽引している。

台湾鉄路管理局DT668号機[編集]

2011年10月28日に海線にて試運転を行った後、11月11日の内湾線の記念運転を経て正式に動態復活となった[14]

D51形を題材とした作品[編集]

「デコイチ」と「デゴイチ」[編集]

本形式の愛称としては「デイチ」、「デイチ」ともに用いられている。現在は「デイチ」が多く見られるが、過去には、各鉄道趣味誌においても「デイチ」の表記が多く存在していた[15]。なおこの愛称については、本来は「デイチ」だがSLブーム以降「デイチ」の方が一般的になった、という見解もある[16]竹島紀元は、戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、「鉄道現場のスラングのようなものでその発生や普及変遷について確実な状況はつかめない」と断った上で、以下のような点を指摘している[17]

  • 戦前の鉄道趣味雑誌の『鉄道趣味』には「凸丸」「凸一」という表記もあったと記憶している。
  • 「デコイチ」は「デコマル」の伝でつけられたと推察される。
  • 鉄道の現場用語ではたとえば「架線」を「セン」、「パンタグラフ」を「パン」のようになまる場合が多いため、本来「デゴマル」だったものが「デコマル」と呼ばれるようになった可能性がある。

一方、1950年頃の国鉄職員が、Dの51だから「デイチ」だと言ったとする記述もある[18]。従って俗称は少なくともこの頃に「デイチ」のみだったとは言えない。

初期形(半流線形)の愛称の「なめくじ」は、1936年3月発行の『鉄道趣味』で宮松金次郎が「上から見た処は丁度ボイラーの上に這い廻るなめくじです」と記したものが始めで、後年になって広まったものとされる。

脚注[編集]

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  1. ^ JR東日本公式サイト車両図鑑 D51498
  2. ^ 梅小路蒸気機関車館公式サイト 蒸気機関車群D51200号機/1号機
  3. ^ 「第18章 日本の代表的SL D51」『日本の鉄道史セミナー』(p143)。ただし、軸重バランスの悪さや空転癖など、本人の項目で述べられているように客観的に見ると成功作とは言えない機関車である。
  4. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』No.633 p.102。
  5. ^ 高木宏之「改稿 国鉄蒸機発達史」、『RailMagazine 2008年9月号』、ネコ・パブリッシング、2008年。
  6. ^ ただし日立製の12両は普通型ドームで製作されている。
  7. ^ 渡辺肇「D51形式の分類と形状」、『SL No.2 1969』、交友社、1969年、pp84 - 105 の記述による。
  8. ^ 渡辺の前掲書による。なお、これらは常磐線電化後は分散配置となっている。
  9. ^ 吹田操車場で使用された車両では、入換え時の見通しを改善する目的から除煙板を撤去した。当時使用されていた51号機は保存のさいに除煙板を復元。
  10. ^ 『Rail Magazine 2008年12月号』、ネコ・パブリッシング、2008年、p.59
  11. ^ a b D51形200号機/1号機(梅小路蒸気機関車館)
    D51形蒸気機関車(交通科学博物館)
  12. ^ “D51譲ります 静岡市が引き受け先公募へ”. 中日新聞. (2013年3月29日). http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20130329/CK2013032902000098.html 2013年4月22日閲覧。 
  13. ^ 持続的なSL動態保存の体制の整備について
  14. ^ 朝日ドットコム(2011年11月11日)
  15. ^ 「今年50歳を迎えたデコイチ」、『鉄道ファン』、交友社、1986年12月。 若林泰之「木曽のデコイチ」、『鉄道ファン 臨時増刊号』、交友社、1969年12月。
  16. ^ 『鉄道ピクトリアル』2008年6月号 (No.804)「特集・SLブーム」、40頁。
  17. ^ 『鉄道ジャーナル』1973年11月号「こちらジャーナル編集室」、112頁
  18. ^ 内田百「区間阿房列車」、『第一阿房列車』福武文庫、1991年、47頁。この文章が1951年2月から4月に書かれていることは、同書271頁参照。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 「汽車会社蒸気機関車製造史」1972年、交友社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 4」1978年、交友社刊
  • 高田隆雄監修「蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊、万有ガイドシリーズ12
  • 高砂雍郎「鉄道広報による国鉄機関車台帳〔機関車編〕」1991年、鉄道史資料保存会刊
  • 鉄道ピクトリアル 1966年12月号(No.191)
  • 久保田博 『日本の鉄道史セミナー』 グランプリ出版2005年5月18日、初版、pp. 39 - 46。ISBN 978-4876872718

関連項目[編集]