国鉄80系電車
国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1949年に開発した、長距離列車用電車形式群の総称である[1]。
目次 |
[編集] 概要
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、客車列車の置き換えを目的に当初から長大編成組成を前提として設計され、電車が長距離大量輸送に耐えることを実証した車両である。
それまで国鉄の主力であった、機関車牽引の客車列車を走行性能で大きく凌駕し、また居住性の面でも初めて肩を並べた電車であった。その出現は、日本の鉄道、特に国鉄を世界に例のない「電車王国」とするきっかけとなり、その基本構想は東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼした。
基本的なメカニズムは、大正時代・太平洋戦争以前から引き継がれて来た国鉄電車の伝統的設計の延長上にあったが、その実は大幅な強化・刷新が図られており、続いて1950年代に出現した70系、72系全金属車体車とともに、あらゆる面から見て「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と呼ぶべきものとなった。
それまで日本における電車は短編成運転が原則で、国鉄・私鉄を問わず運用上の小回りが利くように「モーター搭載車は、すべて運転台付き」とされていた。これに対し、長大編成が前提となる80系では「先頭車はモーターなし、運転台のない中間車だけにモーター搭載」とする中間電動車方式を採用し、乗り心地やコスト面での改善を図った。さらに在来ブレーキシステムの改良により、当時の電車としては未曾有の長大編成である16両編成運転を可能とした。
車体は車端に寄せた片開き片側2ドアでデッキを備え、基本的には客車と同様のクロスシート(客室両端のみロングシート)配置とされた。ただ、ドア幅については乗降を円滑にするため、他の電車と同じく1,100mm幅とされた。32系や52系といった戦前の2扉型長距離電車は、デッキがなく、車室に直接入るドアの両側がロングシートであったが、これに比し、長距離運用を意識して客車に極力近づけた設計としたことは画期的であった。
1950年から1957年までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が量産され、普通列車・準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されたが、1983年までに営業運転を終了し、形式消滅した。
[編集] 車種構成
[編集] 新造形式
- クハ86形(制御車)
- 0番台(基本番台)
- 100番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- モハ80形(中間電動車)
- 0番台(基本番台)
- 200番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- サハ87形(付随車)
- 0番台(基本番台)
- 100番台(座席間隔拡大)
- 300番台(座席間隔拡大・全金属車体)
- サロ85形(二等付随車)
- 0番台(基本番台)
- 300番台(全金属車体)
- クモユニ81形(郵便荷物合造電動車)
[編集] 改造形式
- クハ85形(制御車)
- 0番台(サロ85形・サハ85形0番台改造)
- 100番台(サハ87形改造)
- 300番台(サロ85形・サハ85形300番台改造)
- サハ85形(付随車。サロ85形格下げ)
- 0番台
- 100番台(0番台の3扉化改造車)
- 300番台(ごく短期間のみ在籍。すぐにクハ85形に改造)
- クモニ83形100番台(荷物電動車。クモユニ81改造)
- モハ80形(身延線用パンタグラフ部低屋根化改造車)
- 800番台(モハ80形300番台から改造)
- 850番台(サハ87形100番台から改造。電動車化併施)
[編集] 計画のみで終わった形式
- クハユニ88形(基本編成下り方先頭車用郵便・荷物合造車)
- サロハ89形(付属編成用二・三等合造車)
- モハ82形(1961年に計画されたモハ80形三扉化改造車。同名を称した155系(初代82系)とは無関係)
- 仮称サロ164形(1965年に大糸線乗り入れ用として計画された、サロ85形改造展望電車)
[編集] 製造年・製造所別一覧
| 製作年度 | 製造所 | 日車 | 日支 | 川車 | 近車 | 汽支 | 日立 | 帝国 | 東急 | 新潟 | 宇都宮 | 大井工 | 両数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 形式 | |||||||||||||
| 昭和24年 (1949年) |
モハ80形 | 009 - 012 | 017 - 020 | 005 - 008 | 023 - 024 | 013 - 016 | 001 - 004 029 - 032 |
021, 022 | 025, 026 | 027, 028 | 73両 | ||
| サロ85形 | 003 | 005 | 002 | 004 | 001 | ||||||||
| クハ86形 | 005, 006 | 009, 010 | 003, 004 | 013, 014 | 007, 008 | 001, 002 019, 020 |
011, 012 | 015, 016 | 017, 018 | ||||
| サハ87形 | 007 - 009 | 013 - 015 | 004 - 006 | 010 , 012 | 001 - 003 016 |
||||||||
| 昭和25年 (1950年) |
モハ80形 | 049 - 052 081 - 084 |
057 - 060 065, 066 |
041 - 044 077 - 080 |
045 - 048 | 053 - 056 085 - 086 |
037 - 040 069 - 072 |
069 - 072 | 033 - 036 | 061 - 064 | 067, 068 | 129両 | |
| モユニ81形 | 001 - 006 | ||||||||||||
| サロ85形 | 010 | 012 | 008 | 009 | 011 | 007 | 014 | 006 | 013 | ||||
| クハ86形 | 029, 030 051 - 054 |
033, 034 037, 038 |
025, 026 047 - 050 |
027, 028 055, 056 |
031, 032 | 023, 024 043 - 046 |
041, 042 | 021, 022 | 035, 036 | 039, 040 | |||
| サハ87形 | 029 - 031 | 035 - 037 | 023 - 025 | 026 - 028 | 032 - 034 | 020 - 022 | 017 - 019 | 038 - 040 | |||||
| 昭和26年 (1951年) |
モハ80形 | 087 - 090 | 24両 | ||||||||||
| サロ85形 | 015 - 027 | ||||||||||||
| クハ86形 | 057 - 060 | ||||||||||||
| サハ87形 | 041 - 043 | ||||||||||||
| 昭和27年 (1952年) |
モハ80形 | 091 - 096 | 097, 098 | 20両 | |||||||||
| サロ85形 | 028 - 029 | ||||||||||||
| クハ86形 | 061 - 064 | 065, 066 | |||||||||||
| サハ87形 | 044 - 046 | 047 | |||||||||||
| 昭和29年 (1954年) |
モハ80形 | 099 - 101 | 5両 | ||||||||||
| クハ86形 | 067 - 068 | ||||||||||||
| 昭和30年 (1955年) |
モハ80形 | 110 - 117 | 102 - 109 | 30両 | |||||||||
| クハ86形 | 075 - 079奇 078 - 084偶 |
069 - 073奇 070 - 076偶 |
|||||||||||
| 昭和31年 (1956年) |
モハ80形 | 225 - 239 | 210 - 225 240 - 244 |
200 - 209 | 98両 | ||||||||
| サロ85形 | 030 - 033 | ||||||||||||
| クハ86形 | 105 - 117奇 108 - 120偶 |
106 119 - 131奇 120 - 134偶 |
100 - 104 | ||||||||||
| サハ87形 | 103 - 107 | 108 - 114 | 100 - 102 | ||||||||||
| 昭和32年債務 (1957年) |
モハ70形 | 245 - 251 | 252 - 256 | 28両 | |||||||||
| サロ85形 | 034, 035 | ||||||||||||
| クハ86形 | 133, 135 136, 138 |
137 - 141奇 140, 142 |
|||||||||||
| サハ87形 | 115 - 117 | 118, 119 | |||||||||||
| 昭和32年一次 (1957年) |
モハ80形 | 310 - 317 | 300 - 303 | 304 - 309 | 41両 | ||||||||
| クハ86形 | 311 - 315 | 300 - 304 | 305 - 310 | ||||||||||
| サハ87形 | 305, 306 | 300 - 302 | 303, 304 | ||||||||||
| 昭和32年二次 (1957年) |
モハ80形 | 318 - 332 365 - 383 |
333 - 364 409 - 425 |
384 - 393 | 176両 | ||||||||
| サロ85形 | 300 - 307 | 308 - 311 | |||||||||||
| クハ86形 | 316, 317 328 - 343 |
318 - 327 360 - 372偶 365 - 375奇 |
344 - 351 353 |
||||||||||
| サハ87形 | 307 - 315 321 - 325 |
316 - 320 | 326, 327 | ||||||||||
| 昭和33年債務 (1958年) |
モハ80形 | 394 - 408 | 28両 | ||||||||||
| クハ86形 | 352 - 358偶 355 - 363奇 |
||||||||||||
| サハ87形 | 328 - 331 | ||||||||||||
| 製造所別両数 | 28両 | 194両 | 171両 | 104両 | 43両 | 50両 | 16両 | 22両 | 14両 | 4両 | 6両 | 652両 | |
[編集] 沿革
太平洋戦争終戦後、東海道本線東京地区普通列車をラッシュ対策のために、電気機関車牽引の客車列車から電車に転換する目的で開発されたものである。長年、客車列車を輸送の本流として扱い、電車を補助的なものと捉えていた国鉄が、その方針を転換し、初めて開発した長距離輸送用電車であった。
[編集] 80系以前
東海道本線における長距離電車の運転計画は、大正時代後期の国府津電化時から存在した。この時、長距離用電車(デハ43200系)の新製投入が計画され、実車も落成していたが、関東大震災の発生に伴い、被災車の補充が優先されたためにこの長距離電車計画は断念された[2]。
東海道本線から大船駅で分岐する横須賀線列車については、1930年から東京 - 横須賀間約68kmで、従来の客車に代えて電車を導入し、速度向上やラッシュ対策の実績をあげた。翌1931年からは、32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)を新たに投入、二等車を含む2扉クロスシート車編成として居住性を改善した。
しかし電車化の本命であったはずの東海道本線普通列車は、横須賀線より長距離の運行系統という事情もあり、戦後まで長年にわたり、電気機関車牽引列車で運行されることになった。
[編集] 80系の開発
終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道本線東京地区についても横須賀線と同様、加減速性能・高速性能に優れた電車を用いて列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要に対応しなければならない状況に至った。
このような状況の中、当時、工作局局長の職にあった島秀雄の主導の下、懸案であった東海道本線用長距離電車の開発が企画された。開発に際しては、実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術をふんだんに導入している。
東海道本線の電化は、1934年の丹那トンネル開通時、すでに東京から沼津まで完了しており、国鉄はこの区間(約126km)の普通列車の電車化を計画した[3]。
だが当時、日本の鉄道政策を掌握していた連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、すでに衰退が始まっていたアメリカ合衆国のインターアーバン(都市間電車)の事例から、100kmを超えるような長距離区間における長大編成電車列車の高頻度運行には懐疑的であった。また当時、ドッジ・ラインの下で設備投資の抑制が図られていたこともあり、この電車化計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。
国鉄側は、このような障害の中で製造許可を得るために、横須賀線程度の短距離運転であるという名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略[4]により、ようやくこの長距離電車計画に係る予算を承認させた。
[編集] 営業運転開始後
1950年3月1日、80系電車は「湘南伊豆電車」(→「湘南電車」)の愛称の下で東海道本線・伊東線での定期運行を開始した。
しかし本系列は、営業開始前から試運転列車の車両が火災を起こして焼失するアクシデント[5]に見舞われており、また営業運転でも、当初は初期故障の頻発に悩まされ、世間から「遭難電車」と不名誉な別名を受けたこともあった。しかし、各機器の改良や設計の見直しによる初期故障の解消と、これに伴う性能の安定化が進むにつれ、客車並みの設備と乗り心地、それに何より顕著なスピードアップ効果から、利用者の支持を得るようになっていった。また当時としては斬新な湘南色と呼ばれるオレンジと緑に塗り分けられた。東京口ではその後も、7月には静岡、1951年2月には浜松へと中部地方に運用領域を拡大した。1951年にサロが増備されてからは、「基本10両編成+付属5両編成+郵便荷物車1両」の16両編成での運転を行うようになったが、これは、電車としては当時世界最長編成の列車であった。また1950年10月には東海道本線京都 - 神戸間の急行電車でも52系「流電」の置き換えとして運転開始、こちらは「関西色」と呼ばれるクリームと茶色の塗り分けであった。
また接客設備が電車としては良好であったことから、1950年の運行開始からまもなく、伊豆方面への温泉準急列車「あまぎ」に用いられ、東京 - 熱海間において客車特急列車と同等の所要時間で走行する高速運転を行った。その後、1957年には東京 - 名古屋間を運行する準急列車「東海」、名古屋 - 大阪間を運行する準急列車「比叡」に、それぞれ準急列車仕様の80系300番台車が投入され、従来の客車急行列車を凌ぐ俊足と高められた居住性により、電車でも長距離の優等列車が務まることを実証した。これはその後、日本で長距離列車でも電車が主流を占める傾向の端緒となった。
なお、電車特急の計画(のちの20系→151系)が具体化した段階で、冷房装置の試験データが必要となったため、1957年8月にサロ85020に大井工場で分散式冷房装置を4台設置して試験が行なわれた。冷房用電源として床下に電動発電機を設置した。これは一時的な試験サービスであったが、国鉄の電車では初の冷房車とされる[6]。
[編集] 後期の展開
1960年代以降も国鉄電化の伸張に伴って運用線区を拡大し、首都圏や京阪神地区からは111・113・115系といった後継車の登場で1960年代後半までにほぼ運用離脱したものの、その後も本州内の国鉄直流電化区間の大半で、おもに普通列車として広範に運用された。準急列車(およびその後身の短距離急行)の他、1960年代には長距離急行にも用いられた例があるが、接客設備の不備から短期間の運用に終わっている。
この運用線区の広域化の過程では、さまざまな対策が施されている。身延線投入に際しての、トンネル断面制約による低い架線高対策としての、モハ80形のパンタグラフ部低屋根化(800・850番台化)改造、同じくトンネル断面制約のある中央西線(中津川以北)への投入に際して、モハ80形のパンタグラフの低断面トンネル対応形 (PS23) への交換、地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサロ85形・サハ87形のクハ85形化改造[7]、さらにはサハ87形のモハ80形への改造などが行われた。また蒸気機関車やディーゼル機関車の牽引で非電化区間へ直通するため、サービス電源用バッテリーを搭載した電源車を連結するというユニークな試みも見られた。これらの改造・改良や試行錯誤は、いずれも後続の新性能電車群の運用計画に大きな影響を与えた。
1977年までは東海道本線東京駅乗り入れ列車も存在し、また急行列車(「天竜1号」上諏訪→長野間)の運用も残っていて、事故廃車もなく全車健在であったが、老朽化や機器整備の合理化の見地から、113系2000番台・115系1000番台などの新製投入による代替で、段階的に本格的な廃車が開始された。最後まで運用されたのは、東海道本線での運用を終了後、1977年から飯田線[8]豊橋口の運用に転用された、最終型となる300番台車で[9]、基本4両編成に、朝夕は一部モハ80形(増結側貫通路閉鎖) - クハ85形100番台を増結するという特徴的な運用が行われていたが、これも1983年にはすべて営業運転を終了している[10]。
なお、大阪市港区弁天町の交通科学博物館に、代表形式であるモハ80形とクハ86形、それぞれのトップナンバーであるモハ80001とクハ86001の2両[11]が保存されている。当初は、前照灯など一部のみ手直ししただけで、現役当時に近い状態での保存であり、クハ86001は、前面窓がHゴム支持で側面窓枠がアルミサッシのままであったが、のちに大規模な復元作業が行われた。ただし、一部箇所に復元が不徹底な状態が残っている[12]。80系の保存車はこの2両以外になく、日本全国の鉄道に湘南形ブームを引き起こした前面2枚窓のグループは、1両も保存されることなく全て解体されている。
[編集] 諸元
設計は、国鉄の旅客車開発グループの手により行われ、国鉄初の本格的な長距離電車として、比較的長時間の乗車と高速運転を配慮した構造となっているのが特徴である。
さらに大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は、編成内の電動車と付随車の比率(MT比)を「2:3」とする経済編成を基本とした。
通常運転の最高速度は95km/h(後年は幹線区で100km/h)、設計最高速度は110km/hであったが、1955年には東海道本線での速度試験でMT比4:1の特別編成を組み、125km/hの最高速度を記録している。MT比2:3における起動加速度は毎秒1.25km/hと低いが、客車列車に比較すれば飛躍的な性能向上であった。
[編集] 車体
[編集] 前面形状
先頭車クハ86形のデザインは、1949年末から製造された初期車(クハ86001 - 86020)が、運転台正面が従来のモハユニ61形などのデザインを踏襲した、非貫通3枚窓構成[13]であったが、1950年下期以降製造の第2次車からは正面2枚窓に変更した。
最初にこのデザインを試みたクハ86021・86022は、3枚窓車用の台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、曲面の付いた形状であったが、続くクハ86023以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現、ここに80系の象徴となる2枚窓デザインが完成した。スピード感と近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた(影響については後述車両デザインを参照)。
また1952年度製造の車両からは正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となっている。
[編集] 車体構造・車内設備
側扉は、幅1m(二等車は700mm)の片開き片側2ドアでデッキを備え、基本的には客車と同様のクロスシートであるが、通勤利用も考慮し、客室両端はロングシートとし、座席下には電気暖房を備えた。クロスシート部については、座席のシートピッチ(前後間隔)を従来の客車より縮め、座席数を増やして定員を拡大するとともに通路幅を800mmに広げた。初期車では有効空間を拡大するため座席背ずりの上半分にモケットが張られていなかったが、アコモデーションの面では不評で、第2次車からは背ずり全体にモケットが張られるように改められた。
車体については、当初は台枠構造の簡略化で軽量化を図った程度で、内装は戦前同様に木製、照明も白熱灯であった。なお本系列の半鋼製車については、窓の高さが、客車や従来の電車よりも若干高い設計であった。初期車は客室天井部の通風器が風量調節機能のついた砲金製の大型のものであったが、第2次車からは製造コスト低減のため皿形の簡素なものに改められた。
トイレについてはデッキ側から出入りする構造として、客室との遮断を図っている。進駐軍関係者など外国人の利用を考慮し、初期車の二等車のトイレは洋式としたが、当時の日本人乗客には洋式トイレの使用法を知らない者が多く、汚損・破損や故障が頻発したため、第2次車からは和式に改められた。
1956年の東北・高崎線用増備車[14]では耐寒設計を導入、座席間隔と座席幅を拡大した。側窓の枠は木製からアルミ合金製に改められた他、サロ85形では下降窓が採用された。
1957年製の準急用最終増備車(300番台)は、1955年に製造された10系軽量客車の開発で得られた技術を活かした、セミ・モノコック構造の軽量車体となり、車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、内装も完全に全金属化され、当初から蛍光灯照明となっている。また、サロ85形には専務車掌室並びに車内販売用の控室が設けられた。準急列車への充当を考慮し、当時の標準的な客車に見劣りしないハイレベルなアコモデーションを備える車両として完成した。
[編集] 主要機器
台車や主電動機、主制御器などについては、1947年以降、戦時設計で戦後も大量に増備されていた通勤形電車の63系に試験搭載され、改良を重ねて来た新技術が活かされている。そのシステムは、1950年時点の国鉄における最新・最良の内容といえるものであった。
しかし、高速型台車と中継弁・電磁同期弁付自動空気ブレーキを除けば、先行した関西私鉄各社の戦前型電車に比較した場合、さほど先進的な設計という訳ではなかった。1930年代中期までに新京阪鉄道・阪和電気鉄道・参宮急行電鉄・阪神急行電鉄などの有力な関西私鉄は、6両以上の長大編成や最高速度100km/h超の高速性能を計画し、複雑精緻なU自在弁による長大編成用自動空気ブレーキ(Uブレーキ)[15]や、比較的多段の自動加速制御器[16]、大出力主電動機[17]など、戦後の80系をも凌駕する高度な機器[18]を大量導入していた。
その面で比較すれば、80系のメカニズム全体は決して斬新・贅沢な設計ではない。戦前の関西私鉄による技術開発の成果をも踏まえ、大量増備を考慮してコストを抑制した、経済的かつ堅実な選択が目立つ。
80系の革新性は、むしろさらに大局的な背景から捉えるべきものである。それは「主要幹線の長大編成客車列車を、ほぼ全面的に電車へと置き換える」という、国鉄ならではのかつてない難事を達成するために、(新旧を問わず)合目的な技術を巧みに組み合わせて作り出された事実にあり、既成概念を覆す総合システムとして現実に成立させ、なおかつ大規模に運用したことに真の意義があった。
[編集] 主電動機
主電動機は、戦前からの標準型であるMT30[19]をベースに、絶縁強化・冷却風洞装備などの改良を施したMT40[20]を装架した。当時の国鉄電車用として最強であり、すでに1948年から63系で用いられて実績のあった電動機である。
MT40は、端子電圧差[21]を考慮すると実質的な性能はMT30とほぼ同等のモーターであるが、冷却機構の強化などで信頼性が向上していた。歯車比は、同じMT40を装架する通勤形電車である63系の2.87に対し、高速性能を重視して2.56と小さく取っている。それにより1時間定格速度は全界磁時56.0km/h、60%弱界磁で70.0km/hとなった。
[編集] 主制御器
主制御器は新設計のものを搭載すべきところ開発が間に合わず、1950年度製造の初期形では戦前から長らく国鉄標準機種であった電空カム軸式のCS5を暫定的に装備した。これも1951年以降は、63系での試作開発結果[22]を活かして開発されたCS10電動カム軸式制御装置に変更された。
CS10は、CS5に比べて以下のような特徴を有する。
- 1方向1回転式の電動カム軸化により多段化が実現し、しかも電空カムでは必要であった星車などのカム軸回転停止機構が不要でノッチ飛び事故も発生しなくなった。
- 直並列切り替え時には主回路上に接触器を一旦挿入し、わたり動作中の電動機の引張力の変化を最小限に抑制する橋絡渡りを導入、加速時の直並列切り替えに伴うショックを大幅に軽減した。
- CS5では内蔵で、焼損事故が発生した場合に被害が制御器本体にまで及んでいた断流器を、CB7あるいはCB7A遮断器として別の筐体に格納するように変更し、故障時の被害を最小限に抑えることが可能となった。
- CS9AあるいはCS11[23]界磁弱め接触器を付加し、これらによる弱め界磁と起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで、衝動が小さくスムーズな起動を可能とした。
制御段数は、直列7段、並列6段、弱め界磁1段である。
[編集] 台車
装備する台車は、製造年次によって幾度か変遷が生じている。戦後に製造された国鉄車両であり、当初から全車コロ軸受(ローラーベアリング)を採用したことで、長距離・高速運転で問題となる車軸発熱は低減されていた。
[編集] 初期形
初期形の電動車には新開発の高速運転用台車である、鋳鋼台車のDT16が装備された。このDT16は旧呼称 (TR39A) が示すように、1948年ごろから63系で採用が始まっていた扶桑金属(現在の住友金属工業)製DT14 (TR37) (ウィングばね)・DT15 (TR39) (軸ばね)という軸箱支持機構の構造を違えた鋳鋼台車2種類[24]の使用実績を受け、この内のDT15を基本として改良を加えたものである。DT15からの改良点は、乗り心地を改善するための軸ばねの大型化[25]と、側枠そのものの軽量化[26]の2点である。
このDT16は戦前鉄道省標準型であった「ペンシルバニア型」台車に由来する設計で、ペデスタル部の摺動で軸箱の前後動を拘束しつつ上下動を案内し、また軸箱直上に置かれたコイルばね1組で軸箱を弾性支持する機構を備えるという点ではそれ以前の国鉄電車用台車と同様である。だが、台車枠が一体鋳鋼製となって剛性が飛躍的に向上したことで高速運転により適した特性の追求が可能となり、また長距離運転用ということで特に軸ばね定数が見直され、軸ばねを従来よりも背の高いものに変更してたわみ量を大きくとることで乗り心地の改善が図られている。
付随車の台車は、鋼材組立台車のTR43・TR43Aを装備した。こちらは、従来20m級国鉄電車の標準型台車であったDT12 (TR25) や一般向け客車用標準台車であったTR23の流れを汲む「ペンシルバニア型」鋼材組み立て・ペデスタル支持軸ばね台車であり、DT16に比して特に構造面でやや時代遅れの面があった。ただし、ローラーベアリング化などの改良は施されており、従来の長距離運用において問題視されていた軸受の焼け付きといった不都合はなかった。同種のローラーベアリング付きペンシルバニア型台車 (TR34) は、当時国鉄客車の主力車種であったオハ35形などにおいても標準的に採用されており、客車列車の電車化という80系の設計概念を考えると、これはごく自然な選択であったといえる。なお、これは1951年には小改良を施されてTR45・TR45Aに移行した。
[編集] 1952年以降
1952年以降の製造グループでは、枕ばねに重ね板ばねを使っていたDT16・TR43・TR45に代わり、電動車・付随車ともに枕ばねをコイルばねとして揺動特性を改善した新型鋳鋼台車へ移行した。これにより電動車の台車はDT17となった。これはDT16を基本としつつ側枠・トランサム(横梁)・端梁を一体とした一体鋳鋼台車枠を採用し、揺れ枕の枕ばねを複列配置のコイルばね+オイルダンパで置き換え、側枠の外側に配置することでコイルばねの高さを十分に確保し、なおかつ揺れ枕吊りのリンク長さも最大限に延伸して左右動の揺動周期を拡大した、近代的高速台車の基本形態を確立するものであった。
付随車の台車は、TR48が採用された。これも同様にコイルばね+オイルダンパを枕ばねに採用し、一体鋳鋼台車枠の側枠部分が軸箱周辺で跳ね上がった様な、軽快な外観を持つ。
TR48は、その完成度の高さから、以後300番台の最終増備に至るまで付随台車として採用[27]されている。
[編集] 200番台以降
1956年製造の200番台からは、電動車台車について台車枠をプレス成型部材の溶接組み立て式とし、ゲルリッツ式近似の軸ばね構造[28]をもつDT20Aとされた。この台車では、軸ばねと枕ばねのたわみ量について振動解析が行われ、軸ばねを柔らかく、枕ばねを硬く設定する従来の経験則に基づく組み合わせから、解析結果に基づいて双方のたわみ量を均等とする設定に変更され、これにより乗り心地が改善された。
このDT20Aは、国鉄旧形電車用台車の最終発展形と言える性能の優れた台車であったが、構成部品が多く製作費が高価な上、直後に開発された新性能電車には、別途新構想に基づくDT21系台車が開発されたために、少数の製造に留まっている[29]。
[編集] 試作台車
本系列では車両メーカー各社による試作台車の試用が行われ、モハ80014に川崎車輛製のOK-4(銘板ではOK-IVと表記。国鉄形式DT29)を、クハ86007・サハ87010・サハ87012に新三菱重工業製のMD3(国鉄形式TR38)をそれぞれ装着した。
前者は63系 (OK-1) やオロ41 6 (OK-2) で先行試用されていた軸梁式台車の改良型で、本系列での試用の後、クモヤ93000へ転用されて狭軌での世界最高速度記録(当時)となる175km/hを達成した台車そのものであり、後者も同様に63系などでの試用が行われていた軸梁式台車である。もっとも、その構造は大きく異なっており、軸梁の支持基部を側枠に強固に固定して直進安定性の確保を最優先としたOK-4に対し、軸梁支持基部を側枠から支持腕でつり下げ、これをトーションバーを介して側枠と柔結合することで軸梁部に左右動を許容することで、直進安定性に加えて曲線通過も円滑に行いうるようにしたMD3、とそれぞれの設計意図が明確に示されたデザインとなっている。いずれも試験終了後、標準のDT16・TR43に交換されている。
[編集] ブレーキ
ブレーキシステムには、長大編成電車に適合させた自動空気ブレーキの「AERブレーキ」[30]を国鉄の量産車として初めて採用した。戦前から一部の車両を使って実用試験が繰り返されて来た、電磁空気弁 (Electro-pneumatic valve) [31]付きの「AEブレーキ」を基本として開発されたものである。
これは、従来国鉄電車・客車で標準的に用いられて来た「A動作弁」による「Aブレーキ」[32]の基本システムを踏襲しつつ、中継弁 (Relay valve) を介することでブレーキ力を増幅し、また各車のA動作弁に電磁空気弁を付加して、ブレーキ指令に対する応答速度を高めたものである。この電磁空気弁の併用により、編成の先頭から最後尾まで、ほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては未曾有の長大編成である、16両編成運転が実現した。80系成功のキーの一つとなった技術といえる。
ブレーキシリンダーを車体床下に装架し、ロッドで台車に制動力を伝える点では、在来型電車と変わらなかった。しかし在来型電車が、1両当たり1シリンダー装備で2基の台車を連動させて制動していたのに対し、80系は中継弁使用の恩恵で、台車1台毎に独立した専用ブレーキシリンダーを配置する1両あたり2シリンダー仕様とし、作動性と保安性を向上させている。
[編集] 車体塗色
[編集] 湘南色
80系の独特なオレンジと緑の2色塗装は、「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は、「静岡県地方特産のミカンとお茶にちなんだもの」と俗に言われ、国鉄ものちにはそのようにPRしている。しかし実際には、とある日本国外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装[33]にヒントを得て、警戒色も兼ねてこれに近い色合いを採用したことを、開発に携わった国鉄技術者が証言している。当初発注車は窓周りが比較的濃い朱色であったが、評判が悪かったため、次からみかん色に変更した。ほかにも彩度や明度は、塗料の退色など耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
いずれにせよこの塗色は、以後国鉄の直流近郊形・急行形電車の標準塗色の一つとなり、オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線を走るステンレス車両の211系、さらにJR化後に登場したE231系、E233系にも、帯色として多少色が薄くなってはいるが湘南色が受け継がれている。詳しくは「湘南電車#湘南色」を参照。
また湘南顔の80系および70系で採用された塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、国鉄の初期の試作型気動車のほか多くの私鉄でも採用された。3枚窓の80系1次車は当初はオレンジ色の部分が比較的少なかったが、のちに2枚窓のものと同様に大きくした。
[編集] 関西急電色
東海道本線東京口に続き、1950年10月東海道本線京阪神地区向けとして80系が投入された。これらは、戦前以来の急行電車(関西急電、のちの快速電車)運用に充当すべく、戦前形モハ42系の横須賀線転用と引き替えに新製配置されたものであった。
この「関西急電用」80系は、その初期には戦前のモハ52系流線型電車以来の関西急電の伝統であった「急電色」(「関西色」)に塗装されていた。窓周りがベージュ(クリーム3号)、幕板部および腰板部が焦げ茶色(ぶどう色3号)というこの色の80系は、派手な「湘南色」車と異なり、独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。また塗り分け線も湘南色とは異なっていた[34]。
しかし、1957年の東海道本線全線電化に伴う準急「比叡」用新製車の配置をきっかけとして、80系の塗装は湘南色に統一することが決定したため、この伝統ある塗色は一旦消滅することとなった。(ただし、塗り分け線は湘南色も関西のものの方に揃えられた[35])。この塗色の系譜を引き継ぐ車両が関西に再び出現するのは、急電の後身ともいうべき「新快速」専用車として、117系電車が国鉄末期の1979年に開発された時である。
[編集] 塗り分け調整
80系は、最初に登場したグループから300番台に至るまで、湘南色の塗り分けには微妙な違いがあった。特に全金属車体となった300番台車と、それ以前のウインドシル・ヘッダー付き半鋼製車体の80系各車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なっており、混結運転時には美観の点で難があった。
高槻電車区(現在の吹田工場高槻派出所)と岡山電車区所属の80系を担当していた吹田工場では、編成時の美観を第一に考えて、300番台の塗り分けラインを在来車にできる限り合わせる塗装を行った。その結果、編成として見た場合は塗り分けラインのずれが目立たなくなったが、300番台の車両を単車で見ると、窓下のオレンジ色の部分が殆どなくなるなど、不自然な感もあった。
300番台に対する吹田工場独自の塗り分けは、1978年に岡山電車区配置の本系列が全廃となるまで続けられたが、この間、吹田工場の担当外の地区に転属した車両は、関東・東海方面への転属車については、全般検査の際に元の塗り分けラインに戻されたのに対し、広島運転所および下関運転所(現在の下関総合車両所運用検修センター)に転属した車両については、担当工場であった幡生工場(現在の下関総合車両所本所)が、塗り替え前の塗り分けラインのまま再塗装する方針を採ったため[36]、同じ運転所に異なる塗り分けの300番台が在籍するという事態が生じ、結局下関運転所への本系列の配置がなくなるまで解消することはなかった。
[編集] その他の色の80系
荷物車のクモユニ81形は、大糸線転属に際して青22号一色に塗り替えられ、「海坊主」という愛称で親しまれた。また飯田線転属車は、暫くそのまま使用された後に、郵便室を全荷物室に改めたクモニ83形100番台に形式が改められ、塗装も横須賀色(スカ色)に塗り替えられた。またサハ87001もスカ色化され、飯田線でクモハ52形編成などの中間車として使用された。
新潟地区で70系とともに使用されたサハ85形とサハ87形は、赤2号と黄5号の「新潟色」に塗装されていた。
[編集] 車両デザイン
先頭車クハ86形2次車以降の正面2枚窓デザインは、日本の鉄道車両デザインとして特筆すべきものである。1950年代を通じ、国鉄・私鉄を問わず日本の鉄道界に同種のデザインが大流行することになった。それまでの電車は中央に貫通扉があったため3枚窓の顔のものがほとんどであったが、貫通扉を廃して2枚窓にすると、運転士にとっては運転室も広く、視界が良くなり、またデザイン的にも斬新な印象を与えられたからであるとされる。
基本は、前照灯を中央上部に1灯埋め込み式に設置し、上半部を後傾させて正面中央を折り曲げた「鼻筋の通った」デザインであるが、アレンジメントも多く、前面窓を1段くぼませたもの、前照灯を窓下に降ろして2灯化したもの、「鼻筋」を廃して丸みのあるデザインにしたものなど、無数のアレンジメントを産んだ。さらには、新製車ばかりでなく旧形車を更新改造の際に「湘南型」に改装する例も見られた。その後、それらの鉄道車両を、鉄道ファンは、「湘南タイプ」または「湘南スタイル」・「湘南顔」と総称するようになった。
1950年代当時、日本全国の鉄道における新車への「湘南顔」の流行は凄まじいものがあった。一般の電車は無論のこと、路面電車、電気機関車、気動車やディーゼル機関車にまで急速に伝播し、森林鉄道向け小型ディーゼル機関車(酒井工作所製C4・F4形など)にすら、鼻筋の通った2枚窓の湘南顔を見ることができたのであるから、その影響力は尋常でなかった。このデザインモチーフは日本の鉄道車両界に、一時的ながらかつてないほどの普及を見せたのである。
[編集] 実例
関東私鉄をはじめとする東日本地域においては、京浜急行電鉄・東武鉄道・京王帝都電鉄(→京王電鉄)・東京急行電鉄・小田急電鉄・西武鉄道・相模鉄道など大手・準大手はもちろんのこと、中小私鉄では、例えば日車標準型車体のカルダン車が長野電鉄、秩父鉄道などに、また路面電車でも東京都電・横浜市電など、果ては軽便鉄道や北海道の簡易軌道路線にまで、同種の2枚窓先頭車を持った車両が登場した。ただ路面電車では、湘南顔とすると運転台と出入口との配置に制約が生じることから採用例は限られ、地下鉄では、法令で貫通扉を設けることが義務付けられているため、湘南顔の電車は出現しなかった。
中部以西では、名古屋鉄道・西日本鉄道なども採用し、関西地方の私鉄や静岡鉄道駿遠線、三重交通、それに下津井電鉄など、一部の軽便鉄道にまで影響を与えた。しかし関西では、元々多客時には短編成の電車に随時増結して輸送力を確保する、弾力的な車両運用を好む会社が多く、湘南顔前面では車両間の通り抜けができないことから、運用上は敬遠されることが多かった。
その結果、京阪神急行電鉄(→阪急電鉄)では同種の2枚窓を持った車両は製造されず、その他の会社でも、各社1 - 3形式程度しか湘南顔に類似するタイプの車両は製造されなかった。ただし、南海電気鉄道は湘南顔を持った車両を南海・高野の両線で長く主力車として重用した。
後年、関東でも貫通扉がない事が運用上で様々な支障をもたらす事が表面化し、結果として昭和30年代中ごろまでに湘南顔の流行は終了した。既存の湘南顔車両についても、まず東武鉄道が湘南顔車について貫通扉設置形態に改造し、その他の会社も同様に、湘南型前面を持った車両を次第に前面貫通化改造した例が多く見られた。路面電車でも、都電7000形などで湘南顔を三枚窓の形態に改造した例がある。
しかしそれでも、京王帝都電鉄では固定編成で運用される井の頭線向け(京王線用は1963年の5000系から湘南顔廃止)として、1988年(昭和63年)まで(さらに事故車の代替用では1991年(平成3年)まで)、西武鉄道では1987年(昭和62年)まで、それぞれ湘南顔の電車を新製し続けた。
また157系電車は80系様式のデザインに2,950mm幅車体、高運転台、パノラミックウィンドウを採用した亜種、或いは発展型と捉えられる。この157系のデザインはさらに117系電車および185系電車へと発展する。
また湘南形の欠点を改善した形である153系「東海形」だが、その車体前面中央部から側面にかけての後退幅は80系・70系のものを継承する形で設計された。
[編集] 国鉄および大手私鉄の湘南タイプの代表形式
- 国鉄70系電車
- 国鉄EF58形電気機関車
- 国鉄キハ44000、キハ44100、キハ44200形気動車
- 国鉄キハ44500形気動車
- 国鉄キハ02、03形気動車
- 東武キハ2000形気動車
- 京王2000系電車
- 京王3000系電車
- 西武501系電車
- 西武101系電車
- 西武3000系電車
- 京成1600形電車
- 東急5000系電車 (初代)
- 京急500形電車
- 京急700形電車 (初代)
- 小田急2300形電車
- 名鉄5000系電車 (初代)
- 近鉄800系電車
- 阪神3011形電車
- 南海21000系電車
- 南海11001系電車(モハ11009以降)
- 京阪500形電車 (初代)(更新後)
- 神戸電気鉄道300系電車
- 西鉄1000形電車 (鉄道)
- 西鉄313形電車
など。
[編集] 地方私鉄の湘南タイプの形式
- 留萌鉄道キハ1000・1100形気動車
- 三井芦別鉄道キハ100形気動車
- 夕張鉄道キハ250・300形気動車
- 定山渓鐡道キハ7000形・キハ7500形気動車
- 定山渓鐡道ED500形電気機関車
- 定山渓鐡道1200系電車
- 茨城交通ケハ600形気動車
- 富士山麓電気鉄道3100形電車
- 長野電鉄2000系電車
- 秩父鉄道300系電車
- 静岡鉄道キハD14~キハD20気動車(静岡鉄道駿遠線#気動車)
- 遠州鉄道モハ30形電車
- 加越能鉄道キハ120形気動車
- 三重交通モ4400形電車
- 奈良電気鉄道デハボ1300形電車
- 下津井電鉄モハ103・クハ24形電車
- 高松琴平電気鉄道1010形電車
- 熊延鉄道ヂハ200形気動車
- 島原鉄道キハ4500形気動車
- など。上記のとおり、湘南顔は北海道から四国、九州まで日本全国の広範囲の私鉄に分布していた。
[編集] 80系による長距離急行
80系を用いた最長距離運行の列車は、東京 - 姫路間の臨時夜行急行「はりま」である。1960年6月から1961年7月にかけての運行で、車両不足の理由[37]から、80系が投入された。
定期列車では、上野 - 長岡間の上越線準急「ゆきぐに」2往復のうち、80系で運転されていた1往復を、1962年6月に信越本線新潟電化完成のため、上野 - 新潟間の急行下り「弥彦」・上り「佐渡」[38]に発展させた。
この列車には、高崎線普通列車と共通運用の新前橋電車区(現在の高崎車両センター)所属車両が使われたが、急行列車にはふさわしくない設備[39][40]ながらも、電車ならではの速達性から、旧形客車使用の急行より利用率は高く、好評を博した。なお、この列車は1963年3月に新造された165系に置き換えられている。
[編集] 駿豆鉄道乗り入れ対策
東海道本線三島駅から分岐する駿豆鉄道駿豆線(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)沿線は、伊豆半島中部の温泉観光地帯を控え、太平洋戦争前から国鉄列車の乗り入れ運転が行われていた。
戦中戦後の休止時期を経て、1949年10月から、客車列車による東京 - 修善寺間の温泉直通準急列車が「いでゆ」の愛称付きで再開された。翌年、本系列が東海道本線東京 - 沼津間・伊東線を運行開始すると、修善寺行き温泉準急の電車化が検討されるようになる。
当時の駿豆線は老朽木造電車が走る直流600V電化路線で、客車列車は機関車交換で直通していたが、自走する本系列の直通は難しかった。直流1,500V電化専用であったことから定格の40%しか電圧を確保できず、電動発電機などの補助機器類も満足に動かすのは困難である。
このようなケースの場合、一部私鉄では制御装置・補助機器を低圧/高圧両用切り替えの特殊仕様とした「複電圧車」を少数製造して直通対策とする事例もあったが、保有両数が多く標準化も進められた80系電車に、運行本数の限られた温泉準急専用として特殊な制御器まで積んだ複電圧車を導入するのは得策でなかった。
そこで改造は避けられないものの、編成中の電動車モハ80形の最小限の補機類のみを複電圧仕様に改造するだけで直通可能となる妥協策が考案された。三島駅での構内転線作業に手間が掛かるが、客車列車でも機関車交換の手数を要した箇所であり、全体的には比較的障害の少ないアイデアである。
直流1,500V電化区間で最高速度100km/h以上の性能の電車が、直流600V電化区間で全出力を出せば40km/h程度の速度は出せる。当時の駿豆線は低規格でもとより高速運転は困難であり、その区間も20km足らずで、三島までの東海道本線で120kmにわたり高速運転が可能なら、東京 - 修善寺の全区間では在来客車列車より速度向上できる。駿豆線内での低速割り切りが許容されれば、最重要の主制御器系統は無改造でよく、補助電源系統が複電圧対応であれば済む。こうして、1950年10月から80系電車による駿足の修善寺直通準急「あまぎ」の運転が開始できた。
三島での両線異電圧部分通過を伴う転線は、以下のような手順によって行われた。
- 東海道本線と駿豆線の間には、1500V/600Vの異電圧を通さない、短いデッドセクションのある渡り線を設けている。
- 三島に80系付属 (2M3T) の5両編成が到着する(1度目の停止)。電動車1両(モハ80甲)のパンタグラフを下げて無動力にする。
- 残りの電動車1両(モハ80乙)だけの力でも、ごく低速なら5両編成を移動できるので、渡り線の別電圧区間に反対側のクハ86・モハ甲までを押し込み、モハ乙がデッドセクションに掛かる手前で2度目の停止。ここでモハ乙のパンタグラフを降ろして無動力にする。
- モハ甲の補機類に設置された電圧切り替えスイッチを地上係員が操作、モハ甲のパンタグラフを上げる。モハ甲の動力で、デッドセクション以前に残った3両を含む編成全体を別電圧区間に引き入れ、デッドセクション通過後に3度目の停止。
- モハ乙も補機類の電圧切り替えスイッチ操作を受けてから、パンタグラフを上げる。2両の電動車に同等の電力が供給されるようになり、編成全体を通した平常の総括制御可能状態となる。転線完了。
修善寺準急の三島での特異な転線作業はしばらく続いたが、1M方式の旧形国電である80系ならではの奇策であった。1959年9月に駿豆線自体の電化方式が直流1,500Vへの昇圧を果たしたため、この頓知のような転線も行われなくなった。
[編集] 80系による非電化路線への乗り入れ
電化進展により電車の運転範囲が拡大していた昭和30年代には、行楽客へのサービスを図って、東京近郊の非電化路線への乗り入れ運転を実施した事例がある。中距離の行楽列車などにも適した設備を備える80系も、この種の特殊な運用に充てられた。
非電化区間では蒸気機関車やディーゼル機関車で牽引を行い、機関車との間には控車も兼ねて、客室照明などの最小限の電源を賄うための蓄電池を車載した客車・電車を連結することで、無電源の問題を解決している。
高崎鉄道管理局では、東京と草津を乗り換えなしで結ぶ計画のもと、1960年4月29日から5月末までの土・日曜日に上野 - 長野原間に準急「草津」を運転した。渋川から先の長野原線は当時非電化であり、C11形蒸気機関車+電源車代用のオハユニ71形に80系4両を連結して運転した。1961年5月6日から6月24日の土・日曜日に運転した際には、上野 - 渋川間は153系+80系(4両)とし、渋川から先は80系のみが、前年同様に蒸気機関車牽引で乗り入れた。この時には153系の電磁直通ブレーキ機能を殺して全編成自動ブレーキ制動とし、両系列の制御線接続に特殊ジャンパ線を使うことで併結運転を実現してもいる。
千葉地区では「房総夏ダイヤ」の一環として1963年に準急「汐風」として153系4両が、DD13形ディーゼル機関車重連+電源車代用のクハ16形の牽引で、中野 - 館山間(機関車牽引は千葉 - 館山間)に運転されていたが、1964年の運転では80系6両に置き換えて,列車名も「白浜」に改称。下り中野発・上り新宿着、機関車の連解結を稲毛に変更して運転された。
これらはその後、直通気動車列車の導入や路線電化の進展で、発展的解消を遂げている。
[編集] 80系電車廃車
- 1976年(昭和51年)度
- クハ86形:86004・86049(名カキ)
- 1977年(昭和52年)度
- モハ80形:80002・80095・80096・80100・80113 - 80115・80228 - 80230・80237 - 80241・80244・80251・80301・80305・80327・80329・80367・80380(静シス)・80003・80005・80009・80010・80012 - 80015・80023・80043・80066・80083・80084・80089・80102 - 80108・80110 - 80112・80116・80117(名カキ)・80004・80016・80022・80026・80030・80032・80034・80048・80069・80071・80092・80204・80205・80211・80333・80334・80381(広セキ)・80017 - 80019・80027 - 80029・80035 - 80038・80045・80047・80050・80051・80054・80068・80070・80072・80074 - 80076・80081・80086 - 80088・80098・80099・80101・80236・80252 - 80256(岡オカ)・80024・80080・80082・80207・80250・80395・80396・80399(長モト)・80039・80040・80042・80044・80046・80057 - 80060・80063 - 80065・80215・80220・80321・80339・80368・80371(広ヒロ)
- クハ77形:77001・77006(高シマ)
- クハ85形:85005・85007・85019(岡オカ)・85009・85013・85017(広セキ)・85018(広ヒロ)・85100・85101・85300(長モト)
- クハ86形:86001・86006・86016・86022・86024・86027・86043・86044・86060・86064・86100・86101・86323・86341(広セキ)・86002・86005・86010・86011・86013・86015・86017・86028・86033・86040・86117・86310(広ヒロ)・86003・86007 - 86009・86014・86018・86025・86029・86030・86034・86036・86050・86051・86053・86055・86057・86059・86062・86118 - 86122・86124・86126・86129・86130・86137(岡オカ)・86019・86035・86037・86039・86046 - 86048・86052・86056・86058・86066 - 86068・86076・86077・86079・86084・86138(名カキ)・86082・86102 - 86106・86111・86113・86127・86128・86136(静シス)・86333・86355(長モト)
- サハ85形:85002, 85025, 85027, 85031(岡オカ), 85014, 85021, 85026(広ヒロ)
- サハ87形:87005・87014・87016・87024・87305(広ヒロ)・87006・87019・87020・87022・87025・87028・87039・87041・87300・87301・87309・87315・87319 - 87321(名カキ)・87008(広セキ)・87012・87021・87029 - 87036・87038・87040・87042・87044 - 87046・87102・87104・87113・87308・87310 - 87314・87318・87322(静シス)・87026・87326(長モト)・87119(岡オカ)
- 1978年(昭和53年)度
- モハ80形:80006 - 80008・80011・80021・80025・80031・80033・80041・80052・80053・80055・80056・80061・80062・80073・80077・80078・80090・80091・80097・80200 - 80203・80208・80213・80214・80216・80219・80221 - 80223・80318・80319・80324・80335 - 80338・80369・80370・80374・80394・80398(広セキ)・80020・80049・80079・80085・80093・80094・86209・80210・80212・80218・80247 - 80249・80315・80382・80390・80851・80852(長モト)・80067(広ヒロ)・80109・80233 - 80235(名シン)・80245・80246・80344・80347・80351 - 80356・80360 - 80364・80375 - 80378・80385 - 80388・80401 - 80425(岡オカ)
- クハ77形:77000・77002 - 77004(高シマ)
- クハ85形:85008・85015・85016・85022・85023・85035・85106・85111(広セキ)・85028・85032・85034・85107(名シン)・85033・85102・85103・85105・85110・85301(長モト)
- クハ86形:86012・86020・86021・86023・86026・86032・86038・86045・86061・86107・86109・86110・86114・86116・86123・86125, 86133・86135・86324 - 86326・86328・86330・86331・86335・86336・86344・86345・86352(広セキ)・86031・86054・86131・86132・86134・86139 - 86142・86318・86320 - 86322・86350・86351・86356 - 86365・86367 - 86373・86375(岡オカ)・86041(広ヒロ)・86070・86073・86343・86349(長モト)
- サハ85形:85001・85004(新ナカ)・85101(名シン)
- サハ87形:87002・87007・87009 - 87011(新ナカ)・87003・87004・87027・87105・87106・87328(長モト)・87013・87015・87017・87018・87023・87037・87043・87047・87110(広セキ)・87109・87112・87114 - 87118・87324・87325・87327・87329 - 87331(岡オカ)
- 1979年(昭和54年)度
- モハ80形:80224・80227・80242・80801・80802・80805・80810(名シン)・80306・80328・80346(静シス)
- クハ85形:85303・85304・85307・85308(名シン)
- クハ86形:86065・86071・86078・86312(名シン)・86108・86112・86115(静シス)
- サハ85形:85102・85103(名シン)
- サハ87形:87001(静トヨ)
- クモユニ81形:81001・81002(岡オカ)
- 1980年(昭和55年)度
- モハ80形:80206・80225・80226・80231・80232・80243・80400・80800・80803・80804・80806 - 80809・80811 - 80813(名シン)
- クハ85形:85109(静シス)・85302・85305・85306・85309 - 85311(名シン)
- クハ86形:86063・86069・86072・86074・86075・86080・86303・86316・86327・86337(名シン)
- 1981年(昭和56年)度
- クモユニ81形:81003(長キマ)
- 1982年(昭和57年)度
- モハ80形:80303・80307・80308・80312・80313・80316・80342・80348・80389・80393(静トヨ)
- クハ86形:86304・86311・86314・86315・86317・86319・86332・86340・86346(静トヨ)
- 1983年(昭和58年)度
- モハ80形:80300・80302・80304・80309 - 80311・80314・80325・80326・80340・80341・80343・80345・80349・80350・80365・80373・80379・80384・80391・80392(静トヨ)
- クハ85形:85104・85108(静トヨ)
- クハ86形:86300 - 86302・86305 - 86309・86313・86329・86334・86338・86339・86342・86347・86348・86353・86354・86366(静トヨ)
- クモニ83形:83101 - 83103(静トヨ)
- 1985年(昭和60年)度
- モハ80形:80001(広セキ)
[編集] レプリカ・その他
- 2006年3月10日、東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線東京口から「湘南電車」の3代目車両である113系が撤退するのにあわせ、藤沢駅の3・4番線ホームに80系先頭車クハ86形を模した形のKIOSKが登場した。このレプリカの車両番号は「クハ86023」となっている。
- 2010年9月、JR東日本大宮総合車両センター東大宮センター配置の185系1編成が「草津」運行開始50周年キャンペーンで80系を模した塗り分けの湘南色に変更されている[41]。
- 西武池袋線石神井公園駅近くの病院[42]には、クハ86形300番台の実物大レプリカがあった。扉や窓枠など、部品の一部は実際に80系を製造していたメーカーに発注して実物と同様のものを取り付け、塗装は三鷹電車区の作業員が手がけ、1958年に完成した。内部は診察室や事務室になっており、地元では「電車の病院[43]」として親しまれた。車両番号は実在の車両の隙間を埋める形の「クハ86374」となっていたが、2009年9月に病院の移転とともに解体された。
- 東急東横線祐天寺駅そばにある鉄道カレー店「ナイアガラ」のボックス席は、この80系電車のものである。
[編集] 脚注
- ^ 「系」「系列」という概念は、1964年制定の車両管理規程(総裁達178号)に基づき定められた車両称号基準規程により生じたものであり、80系が開発された1949年当時、国鉄には「系」「系列」という概念が存在しなかった。本項では便宜上の総称として「80系」の呼称を用いる。
- ^ 製造途上の長距離用2扉セミクロスシート車であったデハ43200形は、急遽、客用扉の増設と座席のロングシート化によって通勤車であるデハ63100形に改造され、その中間に組み込まれるべきサロ43100は京浜線に転用、いずれも長距離列車には用いられなかった。
- ^ 電化工事自体は1949年中に静岡・浜松まで完成したが、諸事情から沼津以西への電車投入はやや遅れた。
- ^ 官庁における計画承認では、一般に大規模な計画をそのまま承認させるのは難しいが、たとえ当初規模が小さくとも、一度予算が承認された計画について後から追加予算で規模を拡大することは比較的認められやすい傾向があり、これを逆手にとった策である。後の新幹線計画の承認、およびその予算確保の際にも、この策略的手法が洗練度を高めたうえで活用されている。
- ^ 1950年2月9日に東海道本線保土ヶ谷 - 戸塚間を14両編成で試運転中、13両目のモハ80027と最後尾のクハ86017が焼失。事故車はいずれも復旧されて後日営業運転に投入された。詳しくは湘南電車火災事故を参照。
- ^ 『コロタン文庫 鉄道No.1全百科』P.174(1981年・小学館)
- ^ 運転台取り付けによる。サロ85形の改造の際は、格下げを併せて実施。
- ^ 飯田線にはそれ以前にも急行「伊那」や不定期快速「奥三河」などで運用実績があった。
- ^ これと置き換えられる形で、52系およびその編成に1両組み込まれていたスカ色のサハ87が廃車となっている。
- ^ 後継車の153系も、同時期に系列として運用離脱した。
- ^ 広島地区での山陽本線・呉線運用を最後に廃車されたが、車両保存に理解のあった当時の関係者の判断で、これら2両は保存先が未決定のまま、長期間にわたり放置されたものの、柳井駅構内に保管されていた。なおモハ80001は、車籍が残ったままの留置で、80系としては最後の廃車車両となった。
- ^ これらは新幹線に至る日本の電車発達史上における価値の重要性を認められ、1986年10月14日に準鉄道記念物に指定されている。
- ^ 前面に限り雨樋位置を上に上げた、張り上げ屋根構成となっているが、その基本設計はモハユニ61形のそれに準じる。
- ^ 100番台(モハ80形以外)、200番台(モハ80形のみ)が該当する。
- ^ 空気圧指令のみで12両編成を可能とする。これに対し80系でも採用されているA動作弁によるAブレーキは、中継弁や電磁弁を併用しない場合、電車用では6両編成が上限となる。
- ^ 東洋電機製造の電動カム軸制御器や三菱電機の単位スイッチ制御器など。一部では勾配区間での抑速などを目的とした発電・回生制動の常用が行われており、ブレーキの電空同期という点では未熟で、操作時に制御器とブレーキ弁を使い分ける必要があって乗務員の習熟を要したが、ブレーキシューの摩耗量激減やタイヤ弛緩の抑止など大きな成果を上げていた。
- ^ 軌間が広い標準軌間の路線が多いこともあり、国鉄が端子電圧675V時1時間定格出力100kWの標準電動機であるMT15を採用し始めて間もない1927年には、すでに端子電圧750V時1時間定格出力150kWの東洋電機製造TDK-527Aが新京阪鉄道P-6形用として実用化されている。その後も、国鉄と同じ狭軌用の150kW級電動機である東洋電機製造TDK-529A(端子電圧750V)と日立製作所HS-262AR(端子電圧600V)が、それぞれ阪和電気鉄道モタ300・モヨ100形と南海鉄道電9形用として1929年に完成、1933年には、戦前の電車用主電動機の最大出力を記録する、端子電圧750V時1時間定格出力170kW級の芝浦製作所SE-146が大阪市電気局100形用として完成するなど、電車用主電動機については、速度競争の激しい関西私鉄では、国鉄を大幅に凌駕する大出力電動機の採用が目立った。
- ^ それらは、その多くが欧米製品のライセンス生産、ないしはその改良品を基本としていた。ただし、南海鉄道がその製品を多用した日立製作所は、例外的に戦前から独自開発を一貫して行っていた。
- ^ 端子電圧675V時1時間定格出力128kW、定格回転数780rpm(全界磁時)・1,005rpm(60%界磁時)。
- ^ 端子電圧750V時1時間定格出力142kW、定格回転数870rpm(全界磁時)・1,100rpm(60%界磁時)。
- ^ 戦前の鉄道省時代には、送電時のロスによる電圧降下を1割と見込んで架線電圧を直流1,350Vとし、モーターを2個直列で使用することを前提に、端子電圧を675Vとして主電動機の設計を行っていた。戦後は、逆に変電所から送り出す段階でその降下分を見込んで最大で1,650V程度までの範囲で昇圧した状態で給電し、架線経路中での降圧により架線から集電する段階で定格の直流1,500Vとなるように変更されている。
- ^ 1945年より研究が開始され、1948年より東洋電機製造CS100A(直列6段・並列5段、短絡渡り、逆回転)、日立製作所CS101(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)・CS102(直列7段・並列6段、橋絡渡り、一方向回転)、川崎重工業CS103(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)、と3社4種の制御器を試作し3年にわたり運用試験を実施、その結果を反映して制式化設計が実施された。
- ^ 1952年度予算で発注されたグループ以降に採用。
- ^ これらは側枠・トランサム・端梁の3種の鋳鋼製部品をボルト組み立てする構造で共通し、側枠の軸箱部周辺を除きほぼ同一設計である。なお、両形式ともに側枠とトランサムを結合するリーマーボルトの頭部を納めるための開口部が側枠中央部に設けられ、それぞれ途中で設計変更されているが、この設計変更内容も共通(独立した丸穴を4×2×2=16カ所設けていたものを、横に長い楕円穴1つで丸穴2つ分に代えることで2×2×2=8カ所とした)である。
- ^ これに伴いばね帽部の側枠からの飛び出し量がDT15に比して増大し、この部分が車体の床に食い込んで見える外観となった。
- ^ 肉厚を減らして必要な部分に限って補強用ひれを設け、トランサム固定ボルト穴群の左右外側それぞれに角を丸めた三角形の肉抜き穴を開口するなど、必要な強度を確保しつつ可能な限りの減量が図られた。
- ^ TR48の後継として、DT20Aの付随台車版である仮称TR51も設計されたが、メーカー各社の製造技術の差異や供給能力を勘案して、付随台車は鋳鋼製の本台車が継続採用となった。
- ^ 上天秤ウィングばねを使用する。なお、ゲルリッツ式は第二次世界大戦前にドイツで開発された高速運転対応台車で、2段リンクで長い重ね板ばねを吊り下げた枕ばね部分を特徴とし、これと軸箱直上の板バネをウィングばねで支持する機構を併用する構造となっており、日本でも戦前に32・35系客車を用いてこの台車の試験が実施されていた。DT20で採用された上天秤ウィングばね方式は、このゲルリッツ式の一方の特徴であった、軸箱直上の板ばねによるイコライジング機構を単純な天秤に置き換えたもので、もう一方の特徴である枕ばね部の機構は、軸距が極端に長くなる(一般に3m前後となる)ことが嫌われ、採用されていない。
- ^ 元々は老朽化の著しい、DT10装備のモハ30・31の台車交換用としても使用されるよう設計されたもので、それゆえ軸距 (2,450mm) などの基本寸法はDT10と揃えられ、側受も、新型車用と旧形車用の2カ所を選択可能な様に設計されている。もっとも旧形車の台車については、これを電装解除して制御車に転用することで解決が図られた(主電動機が降ろされることで台車の負荷重量が減り、延命できた)ため、このDT20Aは本系列の他、70系300番台・72系920番台などの、旧形国電最終期の新造車に限定して採用される結果となった。2008年現在は、西武鉄道のE31形電気機関車に、飯田線で最後まで運用されていたモハ80形300番台の廃車発生品が流用されて現存している。
- ^ 自動空気ブレーキの開発元であるウェスティングハウス・エアブレーキ社 (WABCO) 流の命名ルールでは、A動作弁+中継弁+電磁同期弁の組み合わせの場合、空気制御系を優先して「AREブレーキ」と呼称されるのが通常である。だが国鉄では、戦前から試用していたAEブレーキに新たに中継弁を付加した、という実用化の経緯からか、RとEの順序を逆転してこの呼称を用いていた。AMA (ACA, ATA) -REブレーキなどとも通称される。
- ^ その機能から電磁給排弁あるいは電磁同期弁、単に電磁弁などとも呼ばれる。
- ^ 国鉄では、客車用はAVブレーキ装置と呼称。WH社の命名ルールでは、厳密に電動車・制御車・付随車用自動空気ブレーキを区分する場合には、それぞれAMA・ACA・ATAと呼称する。ただし、日本の私鉄などでは編成長が短く付随車が少数であったためか、電動車用で代表して「AMAブレーキ」などと呼称する例が多く見られた。
- ^ オマハオレンジとオリーブグリーンと呼ばれる2色を基本とする塗り分けであるが、境界部に黄色の細帯が入れられるなど、いわゆる湘南色と比べると格段に複雑な塗装であった。
- ^ 先頭車の側面前寄りの幕板部の塗りわけが湘南色は曲線をはさんで段つきで上がるが、関西色は直線で斜めに上がるほか、正面の塗り分けも異なる。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』No.681 P.54。
- ^ 1975年に広島運転所に転属した111系電車に、横須賀色(スカ色)の塗り分け線のまま、湘南色で塗装されたクハ111形が存在したが、幡生工場で湘南色に塗装変更した際に、300番台の場合と同様に元の塗装の塗り分け線のまま塗装したためだった。
- ^ 1962年から1963年にかけては、早期落成した北陸地区用471系を大垣電車区(現在の大垣車両区)と高槻電車区(現在の吹田工場高槻派出所)に貸し出し、定期運用の「比叡」に投入。捻出した153系を「はりま」に投入した実績がある。
- ^ 当時の上越線急行列車は、下り・上りとも発車順に「弥彦」「佐渡」「越路(こしじ)」の順に列車愛称が付けられていた
- ^ 二等車(現在の普通車)に洗面所がなく、車端部に吊革やロングシートが存在し、シートピッチや座席幅の狭い1次車も含まれているなどの問題点があった。
- ^ 準急のまま残ったもう1往復は、1962年1月からサロ153形1両を含む新型車両の153系4M3T7両編成が投入されており、「準急の方が急行より設備が上」という逆転現象が生じてしまった。
- ^ 湘南色となった185系OM03編成が営業運転を開始 - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2010年9月25日
- ^ この病院の理事長は、かつて国鉄や西武鉄道の嘱託医を務めた、鉄道ファンとしても著名な人物でもある。
- ^ 病院敷地内には西武351系電車のカットボディもあったが、2008年4月に解体されている。
[編集] 参考文献
- 浅原信彦『ガイドブック 最盛期の国鉄車両2 戦後型旧性能電車』(ネコ・パブリッシング 2005年) ISBN 4777003485
- 沢柳健一『旧型国電50年』I, II(JTBパブリッシング 2002年)I ISBN 4533043763/II ISBN 4533047173
- 『幻の国鉄車両』(JTBパブリッシング 2007年)ISBN 9784533069062
-
- 沢柳健一『幻のサロ85形改造2階式展望電車』 P178
- 福原俊一『幻の4扉近郊形電車』 P.168 - p.170
- 交友社『鉄道ファン』1999年5月号 No.457 特集・思い出の80系湘南電車
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』各号(1951年7月号 No.1 特集・湘南電車の生い立ち、1965年3月号 No.168 特集・湘南電車15周年記念、1977年8月号 No.337 特集・80系のあゆみ、2000年2月号 No.681 特集・湘南電車50年、2004年3月号 No.743 特集・80系湘南形電車)
- イカロス出版『季刊 j train』Autumn 2005 Vol.19 特集・動力分散化の立役者 湘南電車80系
[編集] 関連項目
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