国鉄C62形蒸気機関車

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C62形蒸気機関車(C62がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。

C62 2正面(1994年の大宮工場のイベントにて撮影)
C62 2側面(梅小路蒸気機関車館)
急行ニセコを牽引するC62形重連(1971年)

1948年から翌年にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両(日立製作所21両・川崎車輛(現・川崎重工業)15両・汽車製造13両)が製造され、東海道本線山陽本線など主要幹線優等列車牽引に使用された。日本最大最強の旅客用蒸気機関車である。通称シロクニ

目次

[編集] 改造までの経緯

終戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦と共に大半が余剰となった。一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。これに加えて、買出しによる列車の混雑は激しくなる一方であり、旅客用機関車はさらに不足するようになった。しかし占領軍の方針により機関車の新製が認められることは困難であった。

そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用[1]することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用[2]して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。 占領軍(GHQ)のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)の指示は本形式とC61形がほぼ全機ロールアウト後の1949年3月のことであり、巷間言われるような関係は無い。

これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車であったのに対し、C62形C59形に代わる特別甲線での特急列車急行列車の牽引を目的に改造されたものである。

[編集] 構造

機関車全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mm。軸配置は、従来の2-C-1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2-C-2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変えて[3]先台車のバネ定数を変更[4]することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることが可能[5]で、この軽軸重化は新製時から軽軸重型として製造されたものと、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河以南の東北本線や、仙台以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常型を軽軸重型に改造の上で、軽軸重型の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例通りワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。

なお、軽軸重形は空転防止のためシリンダ内にブシュを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず[6]、また最初に函館本線に転属した3号機はこの対策を施さず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録は無く、機関士の使用感が違ったとの記録も無い[7]

本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(1 - 21号機)、川崎車輌兵庫工場(22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、前後で同一形状のボイラードームケーシングや、意図的にメインロッドとエキセントリックリンクロッドが平行になるように調整された弁装置など、C59形の設計に参加した高田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。

ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000mm、燃焼室付きである。

炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10tおよび水22tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、5号機以降でこれが制式化[8]され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。

本形式は大直径動輪の上に破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、ドームも幅広で扁平なものとなった。また、汽笛は限界に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。

ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m²時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現しており、実際に新造開始直後に山陽本線糸崎 - 八本松間で実施されたC59形[9]との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20%以上節約されるという好成績を収めている[10]

[編集] 運転

1948年に完成したC62形は、当初、広島・糸崎・下関・岡山・姫路・宮原・梅小路といった東海道本線山陽本線沿線の各機関区に分散配置[11]され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。また、1949年には、最初から軽軸重型として完成したタイプが東北本線白河以南[12]常磐線[13]に新製投入された。

1950年10月改正では、東京 - 大阪間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため当時東海道・山陽本線で運用されていたC62形各車のうち、特に調子の良いものが宮原機関区[14]と浜松機関区に集められ、これらを整備の上、当時非電化であった浜松 - 大阪間の牽引に充てることとなった。C62形はこの特急運用においてその持てる性能を遺憾なく発揮したが、特に宮原機関区では、機構上の制約から投炭時に石炭くずが発生しやすい自動給炭機[15]の使用を制限し、人力投炭を行うことによって、乗客に不快感を与えるシンダ(煙突から排出される石炭の燃えカス)の発生を抑止するという、本形式の大きな火格子面積や、関ヶ原越えを含む厳しい線路条件による燃料要求量を勘案すると驚くほかない、過酷な投炭方法を実施したと伝えられている。

東海道本線の電化区間が西に伸びるに従って、C62形の運用区間も西に移動していったが、1956年11月19日の東海道本線全線電化完成によりその座をEF58形電気機関車に譲るまで、「つばめ」・「はと」の牽引機を務めた。

以降も、C62形は山陽本線において京都 - 博多間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」などの当時を代表する優等列車の牽引に充当された。また、東北本線・常磐線においても、1958年に新設された特急「はつかり」など上野 - 仙台間常磐線内の牽引機に抜擢され、この際逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造[16] している。なお、1958年8月に、岩国市付近にて、上り特急「かもめ」号を牽引していた4号機と進駐軍のトレーラーが衝突する事故があり、同機はC62形最初の廃車機となっている。

しかし、幹線電化の進展により運用範囲は狭められていき、1964年10月には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅、その後は呉線経由で運転されていた急行「安芸」などの呉線内(糸崎 - 広島間)での列車牽引に充当され続けたものの、1970年9月末日には、呉線電化完成により最後まで残った糸崎機関区への配置が無くなり、新製配置以来の東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた。

一方、東北・常磐線系統では、「はつかり」が運転開始後わずか2年の1960年に、新開発のキハ80系気動車へ置き換えられて一旦特急仕業が消滅した後も、常磐線内では本形式が「「みちのく」・「十和田」といった客車急行牽引の主力機として重用されていた。1963年に常磐線が平(現・いわき)まで電化されたことに伴い、本形式は平 - 仙台間のみの運用となった。[17]1965年の東北本線盛岡電化の際に新設された20系寝台特急ゆうづる[18]が常磐線経由で運転されることとなったため平 - 仙台間の牽引に抜擢され、これが本形式による最後の定期特急列車運用となった。しかし、この「ゆうづる」も2年後の1967年10月1日には同区間の電化完成[19]ED75形の牽引となり、糸崎機関区へ転属した5両を除く平機関区のC62形は廃車となった。

東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった1950年代後半、北海道の函館本線で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する長万部 - 小樽間の通称・山線区間でのD51形重連運用[20]と、函館 - 長万部間の通称・海線区間での高速運転[21]により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ不調機から保留車が出始めつつあったC62形を軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず1956年9月に3号機が梅小路から発送され苗穂工場に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果は良好で、破格の大型機故に危惧されていた軌道負担増大の問題についても、保線側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌1957年の初頭に好調機は山陽本線へ充当し、その選に漏れた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針[22]の下、宮原機関区所属で保留車となっていた2[23]・30・42号機と、梅小路機関区で余剰となっていた27・32・44号機の6両が選出され、D52形から流用されていた粗製濫造品のボイラーの新製交換と軸重軽減改造を施工した後、小樽築港機関区へ転属の手続きがとられた。 小樽築港機関区への配属後の本形式は、函館本線で「大雪」、「まりも」、「ていね」→「ニセコ」等の急行列車牽引に使用され、もっとも過酷な使用条件であった山線区間の急行運用はD51形による重連からC62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連に変更された[24][25]

1970年には好調故に本務機に多用され走行キロ数が伸びていた32号機と44号機がディーゼル機関車への置き換え計画実施まで1年を残して全検周期に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を改造するほうが大幅に安価ということで2両とも廃車とし、代機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた当時糸崎機関区所属の15・16号機を軸重軽減改造[26]の上で転属させて残り1年間使用し、1971年末に廃車となっている。

なお、一時期は間合い運用で、函館 - 札幌間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線千歳線経由)の函館 - 長万部間や、函館 - 網走間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北[27]の小樽 - 旭川間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した。

最後まで重連運転の残った「ニセコ」も1971年の7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ、大幅にスピードアップ[28]された。翌1972年秋に2号機は動態保存先の梅小路へ転属となり[29]、3号機が臨時列車用として残ったが他の同形機は廃車解体となった。その後、一時休車状態にあった3号機が1973年の一時期に函館本線の普通列車を牽引したことがあった。しかし、この3号機も函館本線の小樽 - 長万部間の完全無煙化により1973年10月末で走行休止となった上で間もなく廃車[30]となり、1976年から1986年秋まで、小樽市の北海道鉄道記念館(その後小樽交通記念館を経て現在は小樽市総合博物館)で静態保存となった。

上記のように優等列車を中心に第一線で華々しく活躍した本形式ではあるが、牽引力が過大である事と動力逆転機装備で運転操作時に微調整が難しいことが嫌われたのか、お召列車を牽引したことは一度もないまま終わっており、特に東海道本線山陽本線沿線では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。乗務員の評価も太いボイラーが運転台一杯に迫っている事に伴う狭さや夏季の温度上昇等、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用した2軸従台車と自動給炭機による高速安定性の良さと焚火労力の低減、大直径のボイラーがもたらした運転上の余裕等は評価されている。

[編集] 主要諸元

  • 全長 21,475mm
  • 全高 3,980mm
  • 軌間 1,067mm
  • 軸配置 4-6-4(2C2) - ハドソン
  • 動輪直径 1750mm
  • シリンダー(直径×行程) 520mm×660mm
  • ボイラー圧力 16.0kg/cm²
  • 火格子面積 3.85m²
  • 全伝熱面積 244.5m²
    • 過熱伝熱面積 77.4m²
    • 全蒸発伝熱面積 167.1m²
      • 煙管蒸発伝熱面積 147.4m²
      • 火室蒸発伝熱面積 17.5m²
  • ボイラー水容量 9.87m³
  • 大煙管(直径×長サ×数) 140mm×5000mm×35
  • 小煙管(直径×長サ×数) 57mm×5000mm×94
  • 機関車重量(運転整備) 88.83t
  • 最大軸重(第3動軸で) 16.08t
  • 炭水車重量(運転整備) 56.34t
  • 機関車性能:
    • シリンダ引張力 13870kg (重)
    • 粘着引張力 12058kg (重)
    • 定格動輪周馬力 1620PS
    • 最大図示馬力 2163PS

[編集] 保存機

C62 2「SLスチーム号」(2007年2月撮影)

1972年10月に鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に2号機が動態保存されており、西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初には京都 - 姫路間で臨時列車「SL白鷺号」を定期的に何度か牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場(現長野総合車両センター)で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」等の本線自力走行や本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されており、現在も動く同機の姿に接することができる。

1997年9月11日午前10時、京都駅の新駅ビル落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはDD51形牽引にて回送されたがその際0番線ホームで機回しを行った。その間20分ほど。新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形がを展示されるという演出がなされた。また1999年8月1日 - 9月12日、アニメの企画「ドリームトレイン1999」のイベントでJR東日本に貸し出され品川駅にて展示された。しかしながら、回送途中に軸焼けしていることが判明したため、それ以降、長距離の移動を伴う貸し出しは行われなくなった。

トップナンバーである1号機は1967年7月14日の除籍後、保存を見越した[31]ためか広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年3月、広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された。しかし国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが1994年に梅小路蒸気機関車館に移されており、通常は外付けの標識灯を端梁に埋め込むなど山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。

在りし日のC62ニセコ号(1994年)

また、国鉄分割民営化直前の1986年10月3日小樽市の北海道鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館)に静態保存されていた3号機が旧手宮線経由で小樽築港機関区に運び込まれ、有火状態への仮復旧が行われた。1987年3月31日から同年4月1日にかけての国鉄分割民営化イベントへの仮復旧状態での参加の後、同年4月より苗穂工場で徹底的な修繕が実施されて動態復元と車籍復帰が実施され、翌年の1988年から函館本線小樽 - 倶知安間で、快速「C62ニセコ号」として復活運転を開始した。後に運転区間は小樽 - ニセコ間に拡大され、ニセコ駅には専用の転車台(新得機関区に以前あったものを転用)も設置された。しかし本機の運転を行っていた北海道鉄道文化協議会が全般検査費用の資金が確保できず、また走行に必要な費用の確保もままならなくなり、さらに1995年に軸受を焼損する事故まで発生。やむを得ず同年11月3日をもって廃止された。この後に北海道鉄道文化協議会は解散した。現在JR北海道は再び蒸気機関車を復活させている[32]が、小型で汎用性が高く運用コストの低廉なC11形となった。

3号機は、将来の復活の可能性に備えて北海道旅客鉄道(JR北海道)苗穂工場に保存されることとなり、しばらくの間車籍を保持していたが、C11形復活や状態などから2000年に除籍され、静態保存機に戻った。

苗穂工場で2007年鉄道の日イベントで公開されたC62 3、クハ780-1とともに体験乗車に使用された。

他に名古屋市千種区東山動植物園に日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機、大阪市港区交通科学博物館に26号機が静態保存されている。また、東京駅丸の内側地下コンコース「動輪の広場」には15号機の動輪3個とメインロッド、それにサイドロッドが組み付けられて保存展示されている。

以上から明らかな通り、特徴的な形状で知られた汽車製造製グループの13両からは1両も保存されていない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして本形式のラストナンバーでもある49号機は常磐線でのさよなら運転を経て1967年秋の廃車後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらずそのまま解体処分に付されてしまった。これは時期的にいわゆるSLブームが社会現象となる直前の時期に廃車されたが故の不運であったが、この49号を含め汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく東北・常磐線系統に配置されて比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていたことが保存車選定に当たって明暗を分ける原因となったともいえよう。

[編集] 特徴ある車両

C62 2のつばめマーク(1994年の大宮工場のイベントにて撮影)
  • 1号機 - 製造当初はテンダーの形状がC59形と同じだった。(量産に合わせて、後に現在の形状に変更。)
  • 2・18号機 - 除煙板(デフレクターとも称す)に『つばめマーク』付き。そのため、2号機は『スワローエンゼル』という愛称で呼ばれていた。また、18号機のツバメは2号機のツバメに比べて頭部を下げた位置で取り付けられており、両機が東海道線で活躍していたころは『下がりツバメ』と称して区別された。しかし18号機の『つばめマーク』は梅小路蒸気機関区に転出の際、外された。
  • 5号機 - 広島第二機関区所属時代、前照灯が銀色・砲弾型のシールドビーム1灯に交換されていた。1965年の糸崎機関区転出後、従来型の前照灯に戻された。
  • 7号機 - ボイラ側面にある砂撒き管が片側1本ずつ外部に露出している変形機。
  • 8・9・10・37号機 - 1957年昭和32年)に大宮工場で列車番号表示板が試験的に取り付けられた。本採用にはならなかったが表示板受けは後年まで残った。また、9号機は仙台機関区所属時代に前照灯をシールドビーム2灯としており、同時期に東北本線で活躍していたD62形にも通じる特異な外見となっていた。
  • 12号機 - 除煙板に『つばめマーク』が付けられたという伝説がある車両。ただし映像等は見つかっておらず文字通り幻のマーク。外部リンクを参照のこと。
  • 17号機 - 1954年12月に東海道本線木曽川橋梁にて129km/hの狭軌蒸気機関車最高速度を達成。
  • 23号機 - 平機関区に所属していた頃に回転式火の粉止めの装備が検討され、煙突が短縮された。また本機は1965年から1967年にかけて平機関区に所属していたC62形の中では一番調子が良く、特急「ゆうづる」牽引に最も多く充てられていた。
  • 25号機 - お召し列車先導列車用特別整備車(1956年11月2日下り「つばめ」牽引運転・お召し本務機C59 108号)。
  • 26号機 - 名古屋機関区当時に浜松工場で運転台通風装置を試験的に取り付け。ボイラが運転台直近に迫るため室内が暑い事から環境改善を狙って機関士席足下に通気口を取り付けた。しかし外気とともにシンダも一緒に吸い込む事からあまり役に立たなかった。
  • 29号機 - 特別整備機関車(ステンレス装飾など)・『宮原のエース』の愛称。
  • 30号機 - お召し列車先導列車用特別整備車(1953年2月28日上り「はと」牽引運転・お召し本務機C59 185号)。
  • 35号機 - 先輪にC59形のものと思われる水かき付きスポーク車輪を装備していた。48号機と違い第1・第2先輪の両方がスポーク車輪となっていた。宮原機関区所属時は29号機と共に同区所属機で「最も調子の良いC62」と評価されている。
  • 38号機 - 増炭覆いをテンダー側板と一体化した変形機。
  • 42号機 - 1953年2月に試作集煙装置取り付け、1956年11月北海道の小樽築港機関区へ転出の際に撤去。
  • 48号機 - 第2先輪にC59形の廃車発生品と思われる水かき付きスポーク車輪を装備していた。本機も特急「ゆうづる」牽引の機会が多かった。また、この号機はC62の中でも最好調機と言われた。

[編集] 改番照合表

改造後 改造前 落成日 製造所 製造番号
C62 1 D52 74 1948年1月17日 日立製作所 1921
C62 2 D52 455 1948年5月20日 1930
C62 3 D52 458 1948年6月18日 1931
C62 4 D52 399 1948年6月30日 1932
C62 5 D52 349 1948年7月20日 1933
C62 6 D52 461 1948年7月31日 1934
C62 7 D52 464 1948年8月25日 1955
C62 8 D52 446 1948年8月29日 1956
C62 9 D52 121 1948年9月6日 1957
C62 10 D52 119 1948年9月23日 1958
C62 11 D52 150 1948年10月6日 1959
C62 12 D52 445 1948年10月23日 1796
C62 13 D52 447 1948年11月20日 1797
C62 14 D52 145 1948年11月30日 1798
C62 15 D52 112 1948年12月15日 1799
C62 16 D52 127 1948年12月22日 1800
C62 17 D52 69 1948年12月30日 1801
C62 18 D52 375 1949年1月26日 1802
C62 19 D52 407 1949年3月6日 1803
C62 20 D52 25 1949年3月14日 1804
C62 21 D52 77 1949年3月20日 1805
C62 22 D52 22 1948年8月20日 川崎車輛 3155
C62 23 D52 23 1948年8月31日 3156
C62 24[33] D52 106
D52 233
1948年9月24日 3157
C62 25 D52 226 1948年9月30日 3158
C62 26 D52 46 1948年10月8日 3159
C62 27 D52 49 1948年10月16日 3160
C62 28 D52 151 1948年10月21日 3161
C62 29 D52 85 1948年10月28日 3162
C62 30 D52 152 1948年11月11日 3163
C62 31 D52 227 1948年11月18日 3164
C62 32 D52 147 1948年11月24日 3165
C62 33 D52 82 1948年11月30日 3166
C62 34 D52 230 1948年12月18日 3167
C62 35 D52 93 1948年12月26日 3168
C62 36 D52 231 1948年11月12日 3169
C62 37 D52 358 1948年9月18日 汽車製造 2450
C62 38 D52 374 1948年9月29日 2564
C62 39 D52 141 1948年10月6日 2565
C62 40 D52 367 1948年10月15日 2566
C62 41 D52 352 1948年10月23日 2567
C62 42 D52 357 1948年11月12日 2568
C62 43 D52 345 1948年11月30日 2569
C62 44 D52 356 1948年12月26日 2570
C62 45 D52 353 1949年3月08日 2571
C62 46 D52 26 1948年3月21日 2572
C62 47 D52 366 1948年3月31日 2573
C62 48 D52 380 1949年4月8日 2574
C62 49 D52 104 1949年4月20日 2575

[編集] C62蒸気機関車が登場する作品

  • 松本零士作の漫画「銀河鉄道999」にも、主役の銀河鉄道超特急999号の牽引機としてC62形が登場する。原作の漫画及び映画版では実車が存在した48号機であったが(松本零士が同機のプレートを保有していた)、テレビアニメ版では実物に敬意を表して架空の50号機になっている。なお、アニメーションを制作するに当たって関係者が梅小路に保存されている2号機を取材し、動輪の動き方や蒸気の噴出の様子等を調査していったと言う。
  • ゲームソフトメーカー、ハドソンの社名は、本形式の軸配置(ハドソン)に由来し、1988年の「C62ニセコ号」運行開始にあたって同社は大口のスポンサーとして名を連ねていた。また、同社が開発したNECホームエレクトロニクス社製家庭用ゲーム機(PC Engine・PC-FX)向けチップセットには、「HuC62xx」(xxは2桁の数字)という型番が与えられていた。
  • 黄金勇者ゴルドラン」にはC62から変形するアドベンジャーと呼ばれる勇者ロボットが登場する。但し、ナンバープレートの表記はC-62である。
  • アニメ「勇者王ガオガイガー」の第3話「聖なる左腕」にも、敵役のロボットに変形する機械素体として2号機が登場。ちなみに3重連状態で登場しているが、なぜか3両ともC62-2というナンバープレートが付いている。
  • 徳田ザウルス作の漫画、「ダッシュ!四駆郎」3巻に登場する。機関区跡地に放置されているが、元機関士の老人(町の子供たちからは「ゴキブリじじい」と呼ばれている)によって手入れされている。子供たちを乗せて走行するシーンもある。また12巻では、ゴキブリじじいに払い下げられ、スクラップ屋に保存されている。プレートの表記は「C62 04」である。
  • 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の冒頭では堀北真希演じる少女・星野六子が22号機牽引の列車に乗り、青森からの集団就職で上京する場面に登場。鉄道模型を撮影した物をCG処理によって画像に取り込んでいる。
  • PCゲーム『RailWay~ここにある夢~』で、主人公の祖父の遺産として登場する。ナンバープレートが外されている為、車体番号は不明(作中の会話から32号機の可能性が高い)。当初は不稼働状態で廃駅を改装した喫茶店「RailWay」の納屋に収められていたが、劇中終盤で主人公の祖母及び国鉄職員だった祖父の友人の手によって稼動状態に復活し、主人公の手で運転される。

[編集] 脚注

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  1. ^ D52より転用のボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機をのぞいては後に新製ボイラーに換装されている。
  2. ^ 財政難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台車枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。
  3. ^ ただし、従台車の支点位置は工場出荷時に決定された位置から変更不可のため、途中での改造時には従台車の新製品あるいは仕様が一致する廃車発生品への交換が必要であった。
  4. ^ 板バネ枚数を16枚から17枚に増やす
  5. ^ 動軸の軸重を3軸合計で48.2tから44.6tへ引き下げ。車両重量そのものはほとんど変化していないため、その分先台車と従台車の負担が増大することになる。
  6. ^ 昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述が無い。
  7. ^ D62と混同され広まった可能性が指摘される。
  8. ^ ただし初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。
  9. ^ ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型が選出された。
  10. ^ C59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いため。
  11. ^ そのほとんどが当初各メーカーに近い機関区に配置されている。具体的には、日立製は浜松に配置された6号機と後期製造の軽軸重形3両(19 - 21号機。宇都宮機関区に配置)を除く全車が岡山以西の各機関区に、川車製はやはり浜松に配置された28号機以外が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製も45号機以降の軽軸重形(水戸機関区に配置)以外は岡山・宮原・梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されており、その偏りは明らかである。これは納品後の不具合洗い出しと運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的であったと見られる。
  12. ^ 当初は宇都宮機関区に配置。なお、試験的に白河以北へも入線したことはあったが、勾配の連続する郡山 - 福島を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。
  13. ^ 当初は水戸機関区に配置。
  14. ^ その中でも29号機をはじめとする好調機・2号機などの普通機・不調機と識別のためにナンバープレートの色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループが優先的に急客牽引に充当された。
  15. ^ スクリュー状の送りねじを回転させて給炭するため、途中で石炭が粉砕されやすい。
  16. ^ 当時尾久機関区に所属していた7 - 11号機、19 - 22号機が改造対象となった。
  17. ^ 電化の進展により本形式の一部は仙台機関区に転属し、一時は東北本線仙台 - 青森間の旅客列車を牽引することも検討されたが、線路保守側からC62形の入線による線路への悪影響が懸念されたことや、既にDD51形ディーゼル機関車の量産が始まっていたこともあって実現には至らず、仙台機関区に配属された本形式は目立った運用も無いまま1965年度中に全車廃車となった。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていたC60形・D62形とほぼ同一であった。
  18. ^ この「ゆうづる」にはヘッドマーク(黒岩保美デザイン)が掲げられていたが、「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、C62形に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインされた。このため、上野 - 平間の牽引機であるEF80とのマッチングは意図的に度外視され、非常に目立たない状態となった。
  19. ^ 電化工事そのものの完成は同年8月であり客車急行や一部普通列車は順次ED75形牽引となったが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響もあって「ゆうづる」は上り列車のみ9月30日まで本形式が牽引した。
  20. ^ 同形式はストーカー非装備であったことから機関助士2人による人力投炭を強いられた。
  21. ^ 振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた。
  22. ^ 当時は山陽本線の寝台特急牽引で本形式の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。
  23. ^ 東海道時代に除煙板につばめマークを取り付け、人気を集めた。
  24. ^ この運用ではC62 2が重連の先頭に立つことが多かったが、これはファンサービスが目的ではなく、前補機は長万部でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためであった。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して運用による負担が軽いため、東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用するのは検修側・運用側両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。なお、急行「大雪」のC62形牽引時代末期には通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。
  25. ^ また、函館本線の七飯 - 大沼(旧:軍川)間については、1966年10月に下り線の勾配緩和のために建設された、通称:"藤城線"と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、渡島大野仁山(旧:仁山信号場)を通る、仁山越えの従来線(現在、渡島大野・仁山を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっている)経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転していた(ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」の通常期の下り列車については、この仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引であった)。
  26. ^ 交換が必要な従台車は32・44号機からの廃車発生品を流用した。
  27. ^ 前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年10月のダイヤ改正以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→1978年10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→2006年3月のダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急オホーツク9・10号」の母体となった列車。
  28. ^ 高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも約30分ほど所用時分の短縮が実現した。
  29. ^ 本来は現存最若番車を保存する方針であったが、ツバメマークによる人気からC62形では1号機が現存していたにもかかわらず、2号機が選定された。
  30. ^ 正式な除籍は1976年3月末に実施された。
  31. ^ 梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定において、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時この1号機が存在したため当初は当然に候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず変更となった模様である。
  32. ^ 現在の運転はJR北海道自身で行っている。
  33. ^ D52形2両の状態不良のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶のいずれも戦時設計の低規格ボイラーである。後に戦時製造の甲缶を含めて殆どのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 庄田秀「C62トップナンバー 9年ぶりに安住の地へ」 交友社『鉄道ファン』1976年8月号 No.184 p80~p83
  • 西村勇夫「回想 C62形二羽のつばめ」 交友社『鉄道ファン』2002年10月号 No.498 p104~p111
「幻のつばめ」C62 18号機の記録写真と東海道C62形の特急運転
  • 西村勇夫「C62 42とある特急機関士」その1 交友社『鉄道ファン』2003年11月号 No.511 p124~p130
C62 42号機の車歴と試作集煙装置始末、2(2003年12月号)と3(2004年1月号)は萱原登「-つばめ・はと- C62特急に乗務した6年間」前・後編

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ