国鉄103系電車

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国鉄103系電車
(量産冷房車・延命N40改造車、大阪環状線)
(量産冷房車・延命N40改造車、大阪環状線)
起動加速度 2.0*1 ~3.3*2km/h/s
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 100km/h
減速度 3.5km/h/s(常用最大)
5.0km/h/s(非常)
編成定員 48(席)+88(立)=136名 *3
54(席)+90(立)=144名 *4
最大寸法
(長・幅・高)
20,000 ×2,832 ×3,935 mm
軌間 1,067mm
電気方式 直流1,500V
出力 主電動機 MT55
110kW×4基 / 両
駆動装置 中空軸平行カルダン駆動方式
制御装置 直並列組合せ制御、抵抗制御、弱め界磁制御
ブレーキ方式 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
備考 *1 : 4M4T編成
*2 : 8M2T編成(1000番台)
*3 : 先頭車
*4 : 中間車
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国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車

国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

また、本項ではインドネシアの鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両についても記述する。

目次

歴史

開発

101系における全電動車化計画とその中止

1958年から中央線を皮切りに量産車の導入が開始された101系は、特急形急行形などと共通設計のモーターの歯数比を変更して使用し、これによる全電動車方式で高加速性能を実現することを前提に設計され、当時の典型的な高性能通勤電車の一つであった。しかし、その設計理念は、通勤五方面作戦など緊急性の高いラッシュ対策に追われ、この理念が要求する変電所容量や架線設備の強化にまで手が回らない、当時の国鉄の財政状況およびスケジュールに適合せず、中央線においても変電所容量の不足から、全電動車方式での運用を断念し、電動機を装備しない付随車の挿入が実施されることとなった。

本来、全電動車で運用することが前提の101系の設計においては、付随車の挿入による電動車(M)と付随車(T)の比率(MT比)変更は、性能の大幅な低下を招いた。しかも、特に財政上要求が強かったMT比1:1での運用は、定格出力100kW/hのMT46形を主電動機とする101系の場合、その出力曲線と減速歯車の歯数比の関係で事実上不可能[1]であり、MT比1:1を実現してより低コストに、そして大量に新型通勤電車を量産するには、主電動機の設計を変更し、定格出力を強化して特に低速域での牽引力を向上する必要があった。

新形通勤電車の要件

101系が設備面で能力低下を強いられた事から国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を上げた。カルダン駆動による新性能車では初期の全M車を前提とする101系に代表されるグループを高性能車、MT比1:1を目指して経済性を追求する103系に代表されるグループを高経済車と呼ぶことがある。私鉄各社でも高性能車から高経済車への移行が見られ、日本の鉄道史での大きな流れの一つであった

電動機の設計

そのような状況下1960年1月には101系の電動機出力を120kW/hに増強した試験車による試運転を実施し、高出力・高回転型の電動機を検討した他、1960年3月には回生ブレーキ付の101系910番台を試作製造している。 これらの試験結果と新形通勤電車の投入予定線区(1959年当時で山手・京浜東北・総武緩行・中央緩行・城東・阪和)の線区特性を考慮した結果、高回転型のMT46形の出力増強型では目標とする性能が得られない事から、新形通勤電車用の低回転型のMT55形が開発される事になった。

MT55型電動機は、

  • 主として8両の運転を想定し、MT比1:1程度
  • 駅間距離が短く平均速度が比較的低い路線

に適合するような設計となっている。 また、投入予定線区で8両運転をする事を前提にして当時の主電動機を用いてシミュレーションを行った結果、MT55形は新形通勤電車用の電動機として最大の目標であった低消費電力を達成できたこと以外に、駆動時の発熱に余裕があるため将来のスピードアップにも耐えうること、1パンタグラフあたりの集電電流が小さいので架線の温度上昇も防げること、などの利点が認められ以後の通勤電車の主電動機として大いに採用されることになった。

切迫した電力供給事情

中央線の101系は全電動車方式で投入されたが変電所等の能力が追いつかず限流値を480アンペア(A)から350Aに下げて運転した。6M4T運転になり限流値を420Aまで戻す事ができたが、M車比率が高い場合は電力事情以外にも架線温度上昇などの問題も発生していて架線増強も併せて行う必要があった。

そのような苦労もあり、1961年春に首都圏での次の101系投入先は変電所能力が他線に比べて大きかった山手線に決定される。その山手線ですら電力事情から限流値を300Aに設定しなければならない他、主電動機の温度上昇を抑えるため電気ブレーキも未使用にしなければならず、山手線一周は旧形車よりも時間がかかった。 101系による新性能化を進めるためには、変電所設備等の増強をセットにする必要があり多大な費用がかかること、線区ごとで細かな設定が必要になるため経済的で運転に関して制約のない通勤車への要望が高まってゆく。

103系の投入先

新形通勤電車の概要がまとまってくると103系をどの線区に投入するかが焦点となった。1962年6月頃には103系を山手線に投入するのかどうか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきであるという議論がなされている。1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、更に限流値を350A、480Aにできるような変電所増強が計画されていた。

しかし103系4M4Tの限流値415Aで使用した場合、1962年秋の変電所増強分で101系6M2Tの限流値480Aでの運転と一周の所要時間で、ほぼ同等な運転を行うことができた。そのため103系を山手線に入れることを早急に決めなければ不要な変電所増強を行うことになる事から1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ1962年11月5日の常務会にて103系電車は山手線に、山手線で使用中の101系は総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われたが、電動車比率が上がった事から限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧形車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように変電所の増強が完了するまで新性能化がなされていながらも旧形車なみの運転速度に甘んじなければならなかったのが当時の首都圏の電力事情であった。

試運転

1963年3月25日先行試作車1編成が落成し9か月にわたる試運転を繰り返した後12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつか問題が発生していたものの早急な新車投入が求められていたことから最低限の手直しで量産車を発注している。

量産

1964年以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより、日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、昭和40~50年代(1970~1980年代)の東京大阪など日本大都市圏の通勤輸送を支えた。

最初の投入先

1964年5月より103系の量産車が山手線に配置され1964年度だけで202両が製造された。山手線に使われていた101系は当初の予定通り総武緩行線に転出し別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で使用された。

駅間距離の長い区間への進出

量産が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異なる路線にも103系が使われ始めることになる。実は1962年の新形通勤電車の投入線区には常磐線(平均速度52.8Km/h)と京阪神緩行線(同56.7Km/h)も含まれていたが、103系の仕様決定に関してはこれらの路線を除いた対象線区での平均速度が参考にされている。103系が駅間距離の短い線区向けという特徴がある以上、駅間距離の長い線区に対しては何らかの改善または新形式の設計が必要と考えていたからで、1964年には京阪神緩行線の新性能化に対して関西支社に103系で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。大鉄局では1950年代後半に京都-神戸の短距離快速の増発のために快速から逃げ切れるだけの性能を有した高性能通勤電車を要求した事があり、4扉ロングシート、歯車比1:4.82、均衡速度103km/h、250%乗車時の時速100km/hまでの加速度1.3km/h/sという101系全電動車編成でも不可能な性能だったが、これは複々線区間の外側線が本社管轄だった事から自由な増発が出来ず、内側の複線区間に快速と緩行を押し込まれた事により必要となった形式であり、1964年当時大鉄局としては、現在の線路使用方法(内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や103系を指す)でも使えるとの認識を示している。

1965年の京浜東北線への投入時、ノッチオフの速度が上がった事から、103系の歯車比を1:5.6にすることやMT54による通勤電車の可能性を模索したが、いずれも現状の103系に比べて特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても現状通り103系電車の方が経済性が高く、無理に高速タイプにする必要は無いとの結論を得た。

これらの調査結果を受け、1967年末から常磐線に103系が投入される際にも特に大きな設計変更は考えられなかったが、このころ、メンテナンスフリーのディスクブレーキ付き台車TR212が開発されていたので、ブレーキ使用頻度が高くなる事もあり常磐線投入車から、このディスクブレーキ付き台車を用いる事になった。[2]

運転速度向上による問題点

駅間距離の長い区間での運転が増えると、様々な問題点が発生することになる。京阪神緩行線に投入された3年後の1972年3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかる事から保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキがオフになり故障と紛らわしいため運転士から苦情が多く、さらに保護回路が作動する際に衝動が大きく乗り心地にも影響を与える等の問題が出ることがわかった。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため101系に取り付けられていた減圧継電器は取り付けていなかった事も原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し1972年度中に過電圧を防止する対策が講じられた[3]

車体構造

車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、101系とは外観は前面以外においてほとんど差が無いが、床下構造が大きく変わっている。また、製造が進むにつれどんどん近代化していき、初期製造車と最終増備車を比べてみるとかなり違っている。

基本性能

MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離1.36km程度の通勤線区にて運用されることを前提に、主電動機を、低回転数時のトルク特性重視で定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形(定格出力110kW/h)とし、85%界磁での定格速度を36.5km/hに設定して電力消費量を抑えた経済車である。加速度は4M4Tで2.0(6M4Tでは2.3)km/h/sとなるように設定されていた[4]

比較的駅間が短く速度の低い路線への使用を目的として設計されているため、継続して高速運転を行う線区には不向きとされる。また高速運転時を配慮して弱界磁を35%として設計したが、実効値は40%程度で100km/hまでの所要時間は2分程度かかっていた。京阪神緩行線など一部の線区では設計通りの35%になるように小改造を行い高速性能を改善した車両もある。

本形式の設計は帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系飯田線用の119系121系にも応用された。

新造車3,447両の他、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両となっている。ただし奈良線和歌山線の電化開業および可部線新性能化用として0・1000番台から61両(JR化後、事故廃車補充用として更に1両)、仙石線在籍車両のうちの4両が105系に改造され、また事故廃車となった車両も数両あったため、3,503両が同時に存在したことはない。

101系からの変更点

  • 車輪径の拡大に伴い台枠底面の高さがやや上昇した。
  • パンタグラフを高圧引通線の短縮化などを目的にM'車からM車(クモハ103形、モハ103形)に設置した。
  • 運転中の乗務員が軌道の流れによる圧迫感を感じるのを防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
  • 運転台機器は、視認性を重視したメーター類の配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコンとブレーキハンドル、扱いやすさの点から制御卓にまとめられたスイッチ類、疲労軽減を図った運転士座席など人間工学を駆使したものに改められた。
  • 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加した。
  • 主電動機および電動発電機冷却風取入口は、電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
  • 正面行先表示器を拡大した。
  • 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約した。電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形とはせずに独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'(モハ102形)に搭載した。
  • ドアエンジンを変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、西武建設所沢工場が西武451系電車用として開発したST式戸閉装置を採用した。

形式

写真は#車両塗装の節も参照。 本系列は電動車にユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。なお、車両の方向は東海道本線基準で奇数は東、偶数は西を表す。

クモハ103形(Mc)

モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器など、主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期に限られた。103系は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる(製造初年度:1965年)。

クモハ102形(Mc')

モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機空気圧縮機など、補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。国鉄が車種が増えることを嫌ったために1200番台の5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形がこれに改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となっている(製造初年度:1970年)。

モハ103形(M)

クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様に、パンタグラフと主制御器を搭載する(製造初年度:1962年)。

モハ102形(M')

クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に、電動発電機と空気圧縮機を搭載する(製造初年度:1962年)。

クハ103形(Tc)

103系の制御車。75~91および線区の事情で方向転換した車両を除く0番台、900番台、1000番台、1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される(製造初年度:1962年)。

サハ103形(T)

運転台のない付随車である(製造初年度:1964年

車種分類

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や後述する番号の重複を避けるために番号区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。

0番台

0番台
鶴見線で運用されていた初期車
鶴見線で運用されていた初期車
起動加速度 2.0km/h/s
保安装置 ATS-SW.P.Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)
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1964年から1984年まで製造された[5]、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

1964年~1967年製造車

クハ103-6
クハ103-6
  • 最初の量産車グループである。山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。
  • クモハ103-1~133、モハ103-1~159、モハ102-1~292、クハ103-1~114・501~616、サハ103-1~225がこれに該当し、試作編成に存在しなかったクモハ103形サハ103形が追加されている。
  • 山手線に先行投入されていた試作車は、後にこのグループに合わせた仕様に改造されている。
  • 1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」では、客用ドアがステンレス製になり、それ以前に製造された鋼製ドアの車両も一部を除いてステンレス製のものに交換されている。また、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用された車両も存在した。


1967年~1970年製造車

サハ103-279
サハ103-279
  • 上記に続いて製造された量産車グループである。1967年に「昭和42年度本予算追加車」として常磐線に、そして続く「昭和42年度第3次債務車」として阪和線に、と高速運転中心の路線への投入が開始され、103系の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループである。
  • クモハ103-134~155、モハ103-160~278、モハ102-293~433、クハ103-115~177・617~638、サハ103-226~305がこれに該当する。クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、このグループで製造が打切られた。
  • 高速運転対策として、クハとサハの付随台車がそれまでの踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更された。
  • 地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年までに製造された先頭車(クハ103-1~179・500番台・900番台全車、クモハ103-1~155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、1975年大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-544、同じく1977年に大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-4を始め、1979年からは本格的にシールドビーム2灯に改造されるようになった。2000年11月6日に廃車された、京葉電車区のクハ103-562が、未改造のまま白熱灯で残された最後の車両であった。


試作冷房車(1970年製造)

床下にMGがある試作冷房車のクハ103-178
床下にMGがある試作冷房車のクハ103-178
  • 1959年名鉄5500系電車を皮切りに私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、私鉄とのサービス格差の改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入されたグループである。
  • 冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用のMGは別途、編成両端のクハ103形に210kVAのものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電とした。
  • 編成は、クハ103-179-モハ103-279-モハ102-434(以上三菱電機製「AU75X形」搭載)-サハ103-306-モハ103-280-モハ102-435-サハ103-307(以上日立製作所製「AU74X形」搭載)-モハ103-281-モハ102-436-クハ103-178(以上東芝製「AU73X形」搭載)となった。番号は従来車の続番である。これらは同じ冷房装置を搭載する車両でも各車で送風ダクトの本数、室内通風口の位置といった風道構造や扇風機の有無などの差が付けられていた。なお、冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental)を意味するサフィクスである。
  • AU73X形とAU74X形は1つの冷房装置の内部に3つの小型ユニットクーラーを集約し、AU75X形は1つの冷房装置の内部に2つの大型ユニットクーラーを集約するという構造の相違があり、1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2者の方が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利であった。後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を製作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定され、AU75X形を基本に冷房装置と扇風機を併用したAU75系として翌年以降これら3社の手で量産が開始された。
  • このグループは冷房搭載の他、客室窓が製造工数低減と気密性向上のためにユニットサッシに変更され、運転席下の通風口は省略されていた点も特徴である。また、103系としては最後の白熱灯式前照灯を採用したグループでもある。本グループは試験の終了後、1978年に量産冷房車と同じ仕様に改造された。
  • 本グループから客室座席が人間工学に配慮した新型になり、背もたれの角度が増大するとともに座面も低く奥行きのあるものに変更された。あわせて座席下にある客室ヒーターとその設置方法も改良され、従来7人掛け中央に1基のみ設置されていたものが、U字型の取り付け幅の広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置する形に変更され、暖房放射面積の増大と暖房能力の強化が行われた。
  • 当初は上記の編成として池袋電車区に配置されていたが、山手線のATC化に伴う転配により、1979年以降は各車がばらばらに転属を繰返すようになった。2000年4月3日に当時習志野電車区に配置されていた4両より廃車が始まり、2005年11月22日に当時京葉電車区に配置されていたサハ103-307をもって全車廃車となった。


1971年~1972年製造車

クハ103-184
クハ103-184
  • 発注の時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループである。
  • モハ103-282~330、モハ102-437~486、クハ103-180~212、サハ103-308~323がこれに該当する。
  • 客室窓がユニットサッシに、先頭車の前照灯が新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯にそれぞれ変更されており、また主制御器がCS20A形からCS20D形に改良されるなど、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が見られることから、俗に「1次改良車[6]」とも言われる。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口は復活した。
  • 冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する。冷房改造時に通風口は埋込まれており、現存車両は全て後述の1973年製造車と同一の前面形状となっている。
  • 京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区に新製配置されており、特に先頭車はクハ103-188が松戸電車区に新製配置された以外は全て関西に配属・JR西日本に承継されたのも特徴である。


1973年製造車

クハ103-239
クハ103-239
  • 前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載[7]して製造されたグループである。
  • モハ103-331~413・モハ102-487~569、クハ103-213~268、サハ103-324~359がこれに該当する。
  • 上述の通り冷房装置としてはAU75系が採用されたが、これに電力を供給する電動発電機はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な大容量品(160kVA)を搭載して、一括給電するように変更された。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定されたものである。これに併せて、車体2・4位側[8]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。
  • 室内も座面拡張、蛍光灯の増設が行われ、居住性の改善が図られている。先頭車前面窓下の通風口は再び廃止された。
  • 後位側面に電動行先表示器を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更した。また、これに併せて前面の行先表示器を電動化し、位置も若干変更している。この行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓が埋められている。客室内3位側妻窓上部には配電盤が設置され、その下の妻窓上段が固定化された。
  • 終端駅での折返しによる長時間停車を考慮し、半閉回路[9]を新設した。
  • 当初山手線・中央快速線および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して、関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に1974年新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属している。よって、「低運転台+新造時からシールドビーム」の形態の車両は関東地区では極めて少数派となった。
  • 中央快速線に残った先頭車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼(→習志野)電車区に転属し、さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。


1974年~1981年製造車

クハ103-347
クハ103-347
乗務員室後部に戸袋窓がある非ATC高運転台のクハ103形(クハ103-831)
乗務員室後部に戸袋窓がある非ATC高運転台のクハ103形(クハ103-831)
  • 踏切事故対策や視認性向上のために先頭車が高運転台構造に変更され、窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯が設けられるなど、前面デザインが大きく変化したグループである。
  • モハ103-414~786、モハ102-570~899・2001~2043、クハ103-269~499・701~844・846・848・850[10]、サハ103-360~503がこれに該当する。この内、クハ103-797・799~808・810~815・817~844・846・848・850がATC非装備で製造された。クハ・サハの製造はこの製造分をもって終了した。
  • 山手線と京浜東北線ATC化のため、運転台後部にATC装置(ATC-6形)の設置スペースが設けられ、同部分の戸袋窓が廃止された。機構的には、運転台のブレーキ弁がME40A形からATC対応として非常抜き取り化されたME48形に変更されたのが特徴である。
  • 後に中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入され、該当車両のうちクハ103形についてはATCの省略と戸袋窓の復活、旧式のME40形ブレーキ弁装備という5次車以前との折衷仕様で製造[11]されている。
  • このグループ以降、北陸トンネル列車火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台等地下鉄乗入車と同じA-A基準に対応しているのも特徴である。これに伴い、妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。ただし、地下線運用は考慮しないため、前面貫通扉は非設置である。
  • 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、有効に使われないまま本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止されている。


1983年~1984年製造車

モハ102-2050
モハ102-2050
  • 赤羽線の10連化及び山手線輸送改善の件名で新製された、103系の最終新製車グループである。
  • モハ103-787~793、モハ102-2044~2050の計14両がこれに該当する。なお、これらの車両をもって103系の新製が終了した。
  • これらの車両は、5ユニット(モハ103-787~791とモハ102-2044~2048)がカナリヤ色で埼京線開業前の赤羽線用として、2ユニットが(モハ103-792・793とモハ102-2049・2050)ウグイス色で205系投入直前の山手線用として、それぞれ池袋電車区に配属された。
  • 201系の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じて以下の変更が実施された。
  1. 屋根のゴム布張りから塗屋根への変更
  2. クーラーとパンタグラフの横のランボードの形状を201系と同一に
  3. 各窓支持ゴムを白Hゴムから黒Hゴムに
  4. 側扉開口部周囲を完全溶接化
  • その後カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区に転属し、そのまま埼京線で運用された。
  • JR化後205系の増備に伴い1988年度に山手線用だった2ユニットが、1989年にモハ103-791・モハ102-2048を除く4ユニットがそれぞれ浦和電車区へ、1990年にモハ103-791・モハ102-2048が豊田電車区へ転属した。
  • 1996年3月の八高線の電化に伴い、浦和電車区に所属していたモハ103-790・モハ102-2047は1995年12月に3500番台に改造され古巣の川越電車区に戻った。
  • 1996年8月~9月に3500番台に改造されたユニットを除く10両が豊田電車区へ転属となり、ここでそれを除く12両が揃ったが2002年にモハ103-792・793とモハ102-2049・2050が廃車となった。この4両の使用期間は、廃車前の休車期を除くと実質17年半であった。
  • さらに2004年に残った8両が京葉車両センターへと各区所への転配属を繰り返し、最後にJR東日本の103系全廃計画により2005年、新造から21年で全車廃車されている。

500番台

クハ103-580
クハ103-580
  • 1965年に京浜東北線に103系が投入されることになったが、京浜東北線では当初基本編成と付属編成に分けて運転を考えていた事と、当時の車両基地の構内有効長などの関係で3+7(当初2+6)の分割編成とする必要があった。そこで新たに奇数向き先頭車のクモハ103形が設計され、その反対側にはクハ103形の0番台車が連結された。[12]しかし、クモハ103と対になるクハ103形は基本的に偶数向きに固定され方向転換する必要が無い事からクハ103形0番台を片渡りとし偶数向き専用とした500番台が設計された。なおクモハ103形と対をなすことから、製造はクモハ103形と同じく1968年までしか行われていない。0番台クハとの外見上の違いは、前面ジャンパ栓納めの有無である。617以降では、台車がディスクブレーキのTR212に変更されている。


試作車

900番台

モハ103-902
モハ103-902
  • 1963年に山手線に先行試作車として新造された車両である。4両編成2本が製造された。当初は1~を名乗っていたが、量産車とは台車の構造が異なる(電動台車 DT26C形 付随台車 TR62X形を採用)、引き通し線もジャンパ栓(19芯のKE58形×2本)も異なるため混結ができない、などの理由から、1964年3月31日付で番号を901~に変更して区別された。製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(以降の車両は黒文字)で書かれていた。引き通しや台車など量産車と異なる仕様については、1967年2月に量産車に合わせる改造が施された。
  • 晩年はクハが青梅・五日市線、モハが埼京線に転じ、他の量産車と混用されていたが、老朽化により、最後まで冷房化されることなく1992年までに全車廃車された。
  • 車番の対応は以下の通り
モハ103・102-1・2→モハ103・102-901・902
クハ103-1~4→クハ103-901~904
  • 上記のため、現存しているクハ103-1・2、すでに廃車されているクハ103-3・4・モハ103・102-1・2は「2代目」の電車である。

910番台

  • 空転防止の観点から1967年に制御段数を力行55段、ブレーキ51段と大幅に増やした超多段バーニア式制御器の試作車として製造された車両である。試作されたCS30形制御器を搭載するモハ103-911~913と、これらとユニットを組むために引通線の一部を変更したモハ102-911~913の中間車のみ合計3ユニット6両が製造された。
  • これらを用いた試験の結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用されたが、精密なバーニア機構は製造コストが高く、保守にも手間がかかることから、結局1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。
  • 山手線が10両運転を開始した後、910番台は1つの編成に集約されて使用されていたが、205系化により他線区に転出させる際、冷房改造され冷房用MGを搭載したモハ102-911・913以外については電装解除の上サハ103形800番台に改造された。また、このとき相方を失ったモハ102-911は浦和電車区に、モハ102-913が豊田電車区に転属となり、ほぼ同時期に保全工事を施工されていた両区のモハ103非冷房車(モハ103-107、モハ103-62)とユニットを組み直し、捻出されたモハ102-172、62は後述のサハ103-800番台に改造された。1994年に913が、1995年に911が廃車となり、現在は区分台消滅している。

地下鉄対応車両

地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と平行して製造された。乗入先各線は全て保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。かっこ内は対応する地下鉄路線を示す。

1000番台

1000番台
1000番台の登場時の塗色(1985年撮影)
1000番台の登場時の塗色(1985年撮影)
常磐快速線を走る1000番台。前面に貫通扉を持つ(2003年4月撮影)
常磐快速線を走る1000番台。前面に貫通扉を持つ(2003年4月撮影)
起動加速度 3.3km/h/s
重量 29.1t(クハ103)

~37.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-B.P
ATC-4(1000番台)

常磐緩行線帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄千代田線

  • 1970年より10両編成16本160両が製造され松戸電車区に配置された。千代田線用ATC機器を搭載したため、乗務員室後部の戸袋窓が製造当初からないことと、地下鉄乗入基準(A-A基準)に従って前面貫通路が設けられ、車両部品は全て不燃・難燃材料が使われているのが特徴である。営団から要求された加速性能を実現するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車(MT比8:2)とした上でモーターの限流値を上げ、制御器は910番台の項で記述した改良型のCS40形を搭載している。
  • 塗装については灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯が入れられた。
  • 乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯化され、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配された[13]
  • 国鉄車であることを示すため、前面の運行番号表示器上方と車両上方側面には青21号の国鉄マーク(JNRマーク)が掲げられた。
  • 登場から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。
  • 騒音防止の観点から、主抵抗器は自然通風式が採用された。しかし、営団が新造したチョッパ制御車の6000系より電力消費量が格段に多いことや、トンネル内において抵抗器からの排熱によってトンネル温度が上昇するという問題が起こったことから、203系への置換えが開始され、これは1986年3月までに完了した。これについては常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照。
  • 余剰となった車両のうち、56両は105系に改造され奈良線桜井線和歌山線和歌山列車区)と可部線広島運転所)へ転属した。残った車両はATC機器など千代田線乗り入れ機器を撤去し、塗装を青緑1号一色に変更のうえ常磐快速線と成田線に転用された。さらに、1990年には10両編成1本が営団東西線用のATC-3形(色灯式信号用ATC)およびデッドマン装置付マスコンハンドルを取付け、塗色変更を実施した上で東西線乗入用(三鷹電車区、詳細は国鉄301系電車を参照)に転用された。
  • 廃車は比較的遅い2002年からで、松戸区の車両は常磐快速線へのE231系0番台の投入によって2004年3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台への投入によって2003年5月30日に、それぞれ運行を終了し、全車廃車となった。

1200番台

国鉄301系電車を参照。

1500番台

1500番台
クハ103-1513(製造当初)
クハ103-1513(製造当初)
クハ103-1514 車内
クハ103-1514 車内
起動加速度 3.3km/h/s
重量 34.1t(クハ103)

~42.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-SK
ATC-9

唐津線筑肥線福岡市地下鉄空港線

  • 全車が6両編成として9編成54両が製造された。ただし編成番号は3両ずつに分かれており、小倉工場に回送する際も3両ずつに分割される。後に4編成が先頭車化改造により2分割されて3連化されたので、現在は13編成54両となっている。唐津鉄道事業部唐津運輸センター所属。
  • 製造当時、常磐緩行線用として203系電車を発注していたが、筑肥線用としては国鉄の財政事情と列車密度の低さから103系とされた。機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、保守低減のため、制御器は超多段式のCS40形ではなく0番台と同じCS20形になっている。また電動発電機や空気圧縮機についても、コスト削減のため急行形の廃車発生品を利用している。ただし、車体や内装は201系、先頭部は105系とそれぞれ同様のスタイルを採用し、イメージアップを図っている。塗装もスカイブルーにクリーム色の帯というオリジナルのものが用意された。国鉄車を示すJNRマークが正面に入っていた。また、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。
  • 3両編成は限定運用、6両編成は303系の代走としての運用も持つ。乗入先の地下鉄空港線内でのワンマン運転には対応しておらず、同線内のホームドアとの連動もできない。このため、地下鉄線内で運転されるときは車掌が乗務し、ドア扱いの際は車掌スイッチ操作と共にホームドア開閉リモコンを手動で操作している。
  • 折返時等の長時間停車での車内保温のため4ドアのうち3ドアを締切る機能を装備している。
  • クハ103-1504は1998年3月今宿駅付近で強風により脱線し破損したが、復旧された。

国鉄時代の改造

国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、一度投入した車両を改造して別の用途に振り向けた。

101系サハ101形編入(750番台)

1970年大阪環状線103系の8両編成化にあたり、不足した付随車の補充として森ノ宮電車区101系100形サハ100-55・58、サハ101形サハ101-55・58の計4両が、両形式で形状が異なっていたジャンパ連結器(KE57形からKE70形へ)や貫通幌などが103系と同一のものに交換されれて組み込まれた。

この4両は吹田工場の独自工事で、番号不変のまま1979年まで使用された後、全車通常形態に復元の上で片町線の101系編成の5→6連化用に転用された。

1972年より、国鉄全体の工事としてサハ101形の編入工事が実施された。こちらは改造後、正式に103系のサハ103形750番台として区分された。なお、サハ100形も同様に改造して「700番台」とする計画も存在したが、こちらは実現しなかった。

車体そのものにはほとんど手を加えられていないものの、元々103系が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ない。ただし、細部では101系の車高は103系よりやや低く、台車形式も異なる(DT21T形またはTR64形)という若干の差異が見られた。

新番号は連番で付されているが、改造時期、種車の形態、改造の内容によって以下の5種に細分できる。

  • タイプI:サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751~767
非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置がなされた。
  • タイプII:サハ101-123・124・126→サハ103-768~770
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。側面行先表示器は設置されなかった。
  • タイプIII:サハ101-282・299→サハ103-771・772
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形200番台から改造されたグループ。200番台はMG・CPを搭載する車両であったが、改造時に撤去されている。側面行先表示器は設置されなかった。また、この2両は試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に設置されている。
  • タイプIV:サハ101-115・116・127・128→サハ103-773~776
非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房、側面行先表示器共に設置されなかった。後年、JR東日本に継承された-775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車されている。
また、同じくJR東日本に継承された-774は豊田中原松戸電車区(全て当時の名称)と転用され、松戸電車区ではエメラルドグリーンに塗装された(→#車両塗装)。オリジナルの101系も含め、エメラルドグリーンの101車体はこれが唯一の例である。
  • タイプV:サハ101-119・120・121・122→サハ103-777~780
改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。改造時に側面行先表示器が設置された。また、779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車が103系と同一のTR212形に交換された。

JR化後はJR東日本とJR西日本に継承された。一部は延命工事が実施された車両も存在したが、車齢の高い車両が多かった事から早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本でサハ103-765が廃車となったのを最後に全廃となった。

仙石線投入

クモハ103-9 ドアを手で開けるための取っ手が追加された
クモハ103-9 ドアを手で開けるための取っ手が追加された

1979年より、仙石線の旧型車(主に72系)の置き換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車(1974年~1981年製造)の投入で余剰となった、0番台初期車が投入された。この関係から、山手線京浜東北線横浜線青梅五日市線と様々な出自の車両が集まったが、塗装はスカイブルーに統一(→#車両塗装)されていた。

首都圏とは異なる仙石線の事情から、出入り口の半自動ドア化・客室ヒーターの増設など寒地向け改造が実施されていた。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#103系前期車参照。全車JR東日本に継承された。

名古屋地区投入

クモハ103-36
クモハ103-36

仙石線(→#仙石線投入)と同様に、ATC対応車の投入で余剰となった0番台初期車が神領電車区に投入された。こちらは初期投入分が京浜東北線と横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と、比較的統一されていた。塗装は仙石線同様にスカイブルーに統一されており、同線と異なり浸透しなかった(→#塗色変更)ものの、国鉄が名古屋地区のラインカラーもスカイブルーにしようとしていたと取れる。

転入に当たって運転席前面ガラスの霜取り用にデフロスターを取り付けた他、ワイパーの増設、サボ受けの設置等が行われている。サボを使う関係で冷房車でも方向幕の表示は行っていない。また、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などの固定表示としていた。

ラッシュ時10両編成で運転していたが、投入当初は首都圏でよく見られた3+7両編成ではなく6+4両編成で運転されていた。これは置き換えた国鉄72系電車が5+5両編成であり、それに近い両数としたためである。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正からは日中の短編成高頻度運転に伴い、日中運転用の付属編成を3両とするため、7+3両編成となった。

クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造

クハ103-188 番号下に白線が見える
クハ103-188 番号下に白線が見える

1983年常磐線で車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103形0番台4両(クハ103-93・188・627・636)に対して1000番台併結対応改造が施工された。

内容は乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付で、-188のみ車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)が併せて行われている。この工事の施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線が追加された。

3000番台(川越線電化など)

3000番台(拝島駅)
3000番台(拝島駅)

国鉄は1974年以降、仙石線に72系4両編成5本計20両、車体を当時製造されていた103系0番台と同一のものに載替える改造を行った車両を投入した(→国鉄72系電車#モハ72形970番台・クハ79形600番台)。

この72系20両は車体だけは103系とほぼ同一であったことから、103系の投入(#仙石線投入)によって1980年までに同線の未更新の旧型車両が置換えられた後も使用されていたが、1985年に同線の車両を103系に統一するために追加投入された103系により置換えられ、運用を失った。

一方首都圏では、この時期国鉄は川越線の電化を行っており、大宮駅川越駅高麗川駅間の区間運転のために電車が必要となった。モハ72形970番台・クハ79形600番台の車体は製造後年数が浅かったため、これらの転用によって必要分を賄う事になり、1985年に集中台検[14]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出した103系のMT55形主電動機とDT33形動力台車、101系の廃車で発生したDT21T形付随台車をこれらの車体と組み合わせて新性能化[15]した上で川越電車区(→川越車両センター)に投入した。

これにより、これらの車両は103系に編入されることになったが、以下の理由により一般の103系とは様々な差異が生じており、3000番台と区分された。なお、車端部につけられた製造銘版には改造種車の製造年である昭和29年製造と記載されており、オリジナル103系よりも10年も早くから存在していた事になっている。

  • 仙石線時代の編成はクハ-モハ-モハ-クハであったのに対し、当時3両編成で使用する計画であったために、クハ-モハ-クモハの編成に変更された。一般的な103系の3両編成は制御電動車がパンタグラフ・制御器を搭載するクモハ103形、中間電動車が補器類を搭載するモハ102形となるが、中間車にパンタグラフが取付けられていた種車の車体構造を極力活かす目的で、制御電動車が補器類を搭載するクモハ102形、中間電動車がパンタグラフ・主制御器を搭載するモハ103形に改造された。この車種の違いと車両の向きにより、通常ユニット相手の電動車側に設置されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニットの外側に設置された。
  • クハ103形の台車は101系発生品のDT21T形が装着されたが、これは#101系サハ101形編入(750番台)の項でも触れた通り、103系のTR212形とは異なる形状であった。さらに費用の問題から冷房化は見送られ、クモハの存在と共に通常の103系0番台1974年度以降製造車には見られない、大きな特徴となった。
  • 103系やモハ72形970番台は主電動機の冷却風を車体側面に設置された風道から採風していたが、元々主電動機を持たなかったクハ79形600番台はその設備を持たず、新たに車体に風道を設置するのでは工事が大掛りとなるので実施されなかった。そこで、モハ72形970番台から改造されるモハ103形と共に、主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ72形970番台の風道と取入口は1両を除いて改造時に埋め込まれている。また、クモハ102形に搭載のMGについても同様の方式とされた。なお、このMGはモハ72形970番台が装備していたものが流用されている。
  • 川越線も仙石線同様に冬季寒冷となるため、72系時代からの半自動扉機能[16]が残された。このため、戸閉装置は72系時代からの半自動扱の容易なTK8形が引き継がれ、103系とは異なったものとなった。
  • 仙石線時代、タブレットが使用されていたため、タブレットがぶつかる事を考慮して運転台直後の戸袋部には窓は設けられず、その場所には保護板が設置されていた。一部の車両は改造時に保護板が撤去され、同時期のATC車然とした外観となった。
編成構成は以下の通り。
大宮
  • クハ103形3000番台
  • モハ103形3000番台
  • クモハ102形3000番台
サハ103-3004
サハ103-3004

上記の改造に漏れたモハ72形5両は電装解除されてサハ103形3000番台となった。機器類は他3車種と同様、流用品である。これらは1986年11月のダイヤ改正青梅線の3両編成を4両化するのに使用された。これらはかつて電動車であった関係から、屋根上にパンタグラフ設置跡が残るなどの特徴がある。

編成構成は以下の通り。
立川
  • クモハ103形0番台
  • モハ102形0番台
  • サハ103形3000番台
  • クハ103形500番台・900番台
この書体は組み込み先の編成。

JR化後は路線の関係で全車がJR東日本に継承され、AU712形冷房装置を搭載して冷房化がなされた。1996年には八高線の電化に伴い同線でも使用されるようになると共に、輸送力増強でサハ103形3000番台が川越線の他の3000番台編成に組込まれ、仙石線時代と同じ4両編成となった。また、0番台を改造した3500番台の4両編成1本が増備された(→#八高線 八王子~高麗川間電化関連(3500番台))。

しかし、老朽化により205系等と交代で廃車が進められ、2005年10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運行を終了した。その後もハエ53編成(クハ103-3003以下4両)が予備車扱いで残存し、実際に車両故障で運行に入ったこともあった(これが本当の最終運用となった)が、同年11月中旬までに全車が廃車・解体されて消滅した。

※旧番号との対照は、72系の該当項目を参照。

関西方面編成数増加関連(2000・2050番台)

1986年関西本線(大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[17]に伴い先頭車が不足したため、余剰となっていた101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の2形式が設定された。

  • クハ103形2000番台:クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001~2004
非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に投入され、主に関西本線で使用された。
  • クハ103形2050番台:クハ101-78・83→クハ103-2051・2052
非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に投入され、主に阪和線で使用された。

同様の存在であるサハ103形750番台同様、車体にはほとんど手が加えられていない。101系と103系では前面の窓形状が異なっているため、サハ103形750番台より差異が目立つ車両となった。また、全車とも冷房や側面行先表示器の設置はなされなかった。

JR化後は、両線と共に全車がJR西日本に継承された。やはり、経年や事故で早期に廃車対象となり、1991年にクハ103-2052が阪和線のATS-P形化に際し、対応工事をなされないまま京阪神緩行線に転用される動き(京阪神緩行線#分割民営化前後(1983~1994年)参照)があったものの、1992年までに全車廃車・解体されて消滅した。

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