国鉄103系電車

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国鉄103系電車
クハ103-248量産冷房・延命N40改造車2005年1月10日 大阪環状線大正駅
クハ103-248
量産冷房・延命N40改造車
2005年1月10日 大阪環状線大正駅
営業最高速度 100 km/h
設計最高速度 100 km/h
起動加速度 2.0[* 1] - 3.3[* 2] km/h/s
減速度 3.5 km/h/s(常用最大)
5.0 km/h/s(非常)
編成定員 48(席)+88(立)=136名[* 3]
54(席)+90(立)=144名[* 4]
最大寸法
(長・幅・高)
20,000 ×2,832 ×3,935 mm
車体材質 普通鋼
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
主電動機 直流直巻電動機
MT55形 110kW×4基 / 両
駆動装置 中空軸平行カルダン駆動方式
制御装置 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
バーニア制御(地下鉄対応型)
台車 ウイングばね式コイルばね台車
DT33・TR201
制動方式 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
手ブレーキ
製造メーカー 汽車製造東急車輛製造近畿車輛川崎車輛/川崎重工業日本車輌製造帝國車輛工業日立製作所
  1. ^ 4M4T編成
  2. ^ 8M2T編成(1000番台)
  3. ^ 先頭車
  4. ^ 中間車

国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車

国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

また、本項ではインドネシアの鉄道会社 (PT. Kereta Api) に譲渡された車両についても記述する。

目次

概要[編集]

基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。

国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定[1]している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造[2]を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策[3]などを施して改善した車両も存在した。なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と言われたこと[4]もあったが、当時の関係者によって完全に否定[5]されている。最高速度は100km/hとなっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である[6]

本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本[7]となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系にも応用[8]された。

新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両であるが、全車が同時に存在したことはない。

JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれたが、老朽化による新型車両への取り換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)では2001年、東日本旅客鉄道(JR東日本)では2009年に形式消滅となった。

分割民営化時(1987年)と2013年現在の在籍両数比較
会社 JR東日本 JR東海 JR西日本 JR九州 総計
1987年 2,418両 70両 894両 54両 3,436両
2013年 0両 0両 288両 54両 342両


歴史[編集]

開発までの経緯[編集]

101系全電動車化計画の失敗[編集]

1957年に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された[9]。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定ではピーク電流が、き電設備に負荷をかけすぎることがわかり、試作車による12月の営業運転開始時から101系は本来の性能を出すことができず[10]、せっかくの高性能車としてのオール電動車編成をもてあますことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかどうかのチェックを見落としていた[11]。すでに昭和32年度にモハ90形が150両予算計上されており1958年(昭和33年)春から夏にかけて続々と落成されたが、これら量産車も試作車同様本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる[12]。き電設備が原因で全てのモーターを有効に活用できないのであればモーターの数を減らした編成で運転した方が車両新製コストが安いことから、昭和33年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。

101系電車の使用方法の検討[編集]

第2次5ヵ年計画での昭和40年度編成両数想定[13]
混雑時 閑散時 備考
編成 時隔 編成 時隔
京浜東北 8 2'00" 8 5'00"
山手 8 2'00" 8 4'00"
赤羽 8 5'30" 4 5'30"
中央急行 10 2'00" 8 5'00"
中央緩行 8 2'30" 8 5'00"
南武 6 3'00" 4 6'00"
横浜 8 10'00" 2 - 4 15'00"
常磐 9 3'00" 6 6'00" 混雑時の時隔は中距離電車等との平均

1959年に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成のみの8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6%以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法についても、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が101系にて可能かどうかの検討が始められる。

これらの観点から、1959年11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T+付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた[14]。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年秋頃から実用化[15]され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、MT比が1:1でなくてもモーターを冷やす時間が少ないことから、計算上でも101系に不利になってしまった。

新形通勤電車の構想[編集]

101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた[16]。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用として国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電鉄が1959年2月以降1650形の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており[17]、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000形の営業運転を開始した[18]。また、小田急では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)年度中に落成している。

架線温度上昇問題[編集]

性能を殺しつつも中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)年には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84%に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上してきた[19][20]。この問題は、架線を平行に並べるダブルトロリー方式を用いることで改善できることもあり、取り急ぎ中央線と中央緩行線の工事を行っている。

101系のパワーアップを検討[編集]

101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、イニシャルコストが高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120kWのMB3039A形[21]電動機を101系2両に搭載し、1961年1月に中央線や山手線にて試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、増備車と合わせて編成単位での長期試験を行うことも検討されている[22]

限界性能の6M4T化[編集]

1960年初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足[23]にあったことから、101系の編成を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入しようとした[24]。これを実現させるには中央線の編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた[25]

標準形通勤電車の設計へ[編集]

新形通勤電車の投入候補線区[11]
候補線区 検討
対象
平均駅間
距離 (km)
平均速度
(km/h)
中央緩行 1.27 39.6
総武 1.74 46.0
京浜東北 1.45 44.4
阪和 1.26 38.6
常磐 - 2.64 52.8
京阪神緩行 - 3.29 56.7

一方、首都圏の通勤事情は年々悪化し、1961年1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる[26][27]。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始したのである。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、同線を走っていた旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された[28]101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備せざるを得なかったのは待ったなしのラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低コストで大量に量産しうる新形通勤電車が必要となった。(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。

101系では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標[29]とされたが、6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/s程度の加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指すことになった[30]

運転時隔と車両性能の検討[編集]
場内信号機建植に特例がある区間(昭和40年)[31]
線名 区間
東北本線 東京 - 大宮間(電車線)
東海道本線 東京 - 横浜間(電車線)
根岸線 横浜 - 磯子間[32]
山手線 電車線
中央本線 東京 - 高尾間
総武本線 御茶ノ水 - 千葉間
常磐線 日暮里 - 松戸間
大阪環状線 全線

国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を閉塞という区画で区切り信号機により追突を防止する信号保安というシステムを用いている。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が進行信号で走行する必要があるが、特にラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。京浜東北線と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した[33]。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔をさらに縮めようとしたが、電力設備が追いつかずに挫折し旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたわけだが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なので、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄+黄)や65km/h以下で進む減速信号(黄+緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた[34]

ホーム中間信号機が設置してある線区での運転時隔は、列車最後部がホーム中間の信号機を通過するまでの走行時間が重要となり、その場合は4.0km/h/sの高加速度でも2.0km/h/sの加速度でも運転時隔にはさほど差がないことが判明した。ホーム中間に信号機がある場合、後続列車への影響は駅を出た列車の最後尾がホームを出た先にある出発信号機を通過する時間ではなく、ホーム中間の信号機を通過するまでの時間が重要となり、ホーム中間の信号機は列車停止位置の最後尾から100m以下であるため、列車の起動加速度を究極まで高めたとしても得られる効果が低いためだ。運転時分の算定にはブレーキ初速度やホーム中間の信号機の位置、列車の長さなど、いくつかのパラメータを与えれば求まる計算式があり、それらを様々な条件を当てはめてシミュレートした結果、起動加速度2.0km/h/s・減速度2.5km/h/s程度、ブレーキ初速度60km/h程度、ホーム中間の信号機を設けていることが適していることがわかった[35]。これらのことから、新形通勤電車の設計にあたっては、起動時の電流量が多くなり電力設備に負荷をかける加速度を高めるのではなく、加速度は低く2.0km/h/s程度に抑え、ブレーキ減速度を3.5km/h/sと高めにとることにした[36]

なお、場内信号機の建植位置は、運転保安設備基準規程[注 1]により駅の列車停止位置より150m以上外方と決められているが、表の路線では特例としてこの基準によらずホーム中央などに場内信号機を設置することができるようになっている。1961年当時の山手線品川 - 新宿 - 田端間でホーム中間に信号機が設置されていたのは一部の駅だけであった[37]が、ホーム中間信号機ありきの運転時隔計算とそれを元に設計した新形通勤電車の登場もあり1974年までに全駅でホーム中間に信号機の整備が完了[38]している。

車体の設計[編集]

車体は101系をベースにしているがいくつか変更点がある。床材は、101系のリノールを塗り固めた構造が修繕作業に手間がかかることから、103系では床鋼板の上に床仕上げ材を貼った簡単なものとなった。モーター付き車両の側面には主電動機などの回転機の冷却風の取込用として風取り入れ口を設けた[39]

主電動機の設計[編集]

101系が中央線など駅間距離が長い路線でないと使えない電車になってしまったのは、オール電動車で設計されていたものを最終的に6M4Tとモーターの付いていない車両を編成中に増やしたことによるモーターの過負荷が原因である。特に通勤線区は駅間距離が短い路線が多いため、101系電車で運転しようとすると、モーター車の比率を高めるか限流値を下げて運転速度を落とすしかなかった。これは、ひとえに101系に用いられているMT46Aという主電動機の熱容量が小さかったことが原因である。熱容量にはモーターの絶縁材が大きく関わっており、MT46Aの温度上昇限度は電機子が特別B種の120度まで、界磁がH種で150度までの制約があり、電流を流した時に発生する熱は電流の二乗に比例するため、大きな電流を流して加速度を高めると電動機が加熱しすぎて絶縁材の寿命が短くなる。温度が8度上がるだけで絶縁材の寿命が半減するという「8度半減則」という法則[40]もあり、保守を考えるなら、許容温度以上の負荷使用は、特別な場合を除き避けなければならなかった。

RMS電流は求める線区の運転曲線から列車の電流量を計算により求める手法[41]である。その列車が実際に運転を行った後は、当然主電動機の温度が上昇するが、これを最初から一定の電流を流して同様な温度上昇になる数値を計算により求めることともいえる。よって、その列車が計算上与えた運転曲線通りに運転できるかどうかは、RMS電流を計算して主電動機の連続定格電流以下か、一時間定格電流の80%以下の電流値であることが求められる。ちなみに、基準運転時分作成のための速度定数業務では速度定数査定基準規程(昭和39年12月10日)によって様々な条件が課せられるが、主電動機の温度制限に関する第33条の内容は下記の通り。

  • 第33条 主電動機の温度は、次の各号に揚げる場合、その温度上昇の許容限度内にあるとみなす。
    1. 運転線図における加速区間の平均加速電流及びその他区間の電流が1時間定格以内の場合
    2. 運転全区間のR.M.S電流(平均自乗平方根電流)が1時間定格の80%以内の場合
    3. 運転線図に基づいて温度上昇を計算した結果が許容限度内にある場合

限流値を一時間定格電流以下に設定して運転する旧形国電と違い、MT46以降の電車用主電動機は電流の過負荷に対する耐性が一時間定格電流の160%までで設計されており、起動電流を大きく取って加速度を高めると、場合によってはモーターが過負荷運転になる場合もあった。そこで1959年(昭和34年)の秋頃から、主電動機の温度上昇限度をオーバーせずに運転線図を作成し運転計画を立てることが当然となり、そのためにはRMS電流計算により推定する[42]ことが基本となった。

前述のように、101系をモデルチェンジした回生ブレーキの採用や出力の増強が見送られ、運転時隔や架線への影響、消費電力量などの経済性なども含めて通勤用途に適した主電動機を新たに設計することになった。消費電力量や起動電流の面からは定格速度を低く取る方が良いが、あまり低く取りすぎると力行率が増して回復運転余力がなくなるほか、高速運転のために界磁を極端に弱める必要が出たり、電気ブレーキ使用時に過電圧になる可能性もある[43]。これらを勘案し、下記の通り標準形通勤電車用としてMT55形主電動機を開発した。回生ブレーキの採用は、製造時のコストが後のランニングコストの低減をはるかに上回る試算になったため見送られた[11]

MT55の概要[編集]

103系通勤電車用として、端子電圧375VのMT55が設計されたが、想定される速度域や消費電力量などを考慮し、全界磁定格回転数は1,250rpmで103系に搭載した場合の定格速度は33.5km/hという中速形の電動機となった。高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で最大限弱めることとし、弱め界磁率を35%と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時におけるRMS電流を1時間定格の80%、回復余力を10%と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、主電動機出力は110kWとした[44]。定格速度は36.5km/hとなり、定格回転数は1,350rpmとなった。これは定格速度が低く、実際の運転では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85%界磁上においてバランスをとっている[45]。また最大許容端子電圧をMT54などの750Vではなく900Vまでにしたことで、電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。

101系との主電動機比較[編集]

8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年10月の山手線10両編成化の際には6M4Tとなるため、MT比が3:2となった。単純に編成出力だけを見れば101系の2,400kWに対し本系列は2,640kWと大きく、「10両ならば103系は不要で101系でいい[46]」という意見も存在した。

実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、定格引張力が小さい101系は[注 2]本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならないという問題がある。

同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線における101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。

  • 運転時分を同等とした場合の限流値は本系列で415Aに対し101系では480Aとなる[注 3]
  • 同試算によると101系に比べ本系列の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の編成出力だけを基準とした意見は必ずしも正確ではない。

101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)がおおむね不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足りない[47]との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていた

さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300%にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことができるメリットがある。

そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線本系列10両編成投入の際に、運転局で長短所について検討しているが、省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認[48]している。したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことも長所となる。

国鉄電車用主電動機との比較[編集]

主電動機の能力を示す指針としては出力よりもSRPを用い、電動機進歩の比較としてSSRP[49][50]を用いるケースが多いが、専門的な分野であるため一般的ではない。その結果、本来SRPやSSRPで比較すれば低い定格回転数で高い許容回転数を出す103系のMT55電動機は優秀な電動機であるのだが、103系の高速運転時のモーターがブンブンと回るだけと、あたかも高回転では103系のモーターが能力外であると勘違いさせるような記述[51]も一部に見受けられる。ただしMT55を定格速度が低い103系のセッティングで使う場合、定出力領域は64km/hで終わり、それ以上高速になると出力が落ち始める。これは113系や115系の84km/hに比べて低いばかりか、定格出力の小さい101系の67km/hよりも低い数値[52]であり高速域では持てる出力を出し切れていないといえる。なお、参考までに下記に国鉄の主な主電動機のSSRPとSRPを示す。SRPとは許容回転数÷定格回転数×電動機容量(馬力HP)で、SSRPはSRPを主電動機重量で除したものである。

国鉄電車用主電動機の能力[52][53][54]比較(参考値)
MT30 MT40 MT46A MT54 MT55 MT60 MT61 MT63 WMT61A (JR西日本)
主な形式 モハ72形 モハ72形 101系 113系 103系 201系 205系 207系(国鉄) 205系1000番台
許容回転数 (rpm) 2000 2000 4320 4320 4400 4850 4600 6000 5100
定格回転数 (rpm) 780 870 1860 1630 1350 1890 1540 2200 1540
電動機容量 (kW) 128 142 100 120 110 150 120 150 120
電動機容量 (HP) 171.7 190.4 134.1 160.9 147.5 201.2 160.9 201.2 160.9
SRP 440.3 437.7 355.4 426.4 479.8 516.3 480.6 548.7 532.9
電動機重量 (kg) 2100 1970 740 800 980 835 800 535 800
SSRP 0.21 0.22 0.48 0.53 0.49 0.62 0.60 1.03 0.67

本系列の投入先[編集]

新形通勤電車の概要がまとまってくると、どの線区に投入するかが焦点となった。1962年(昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。

1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、さらに限流値を350A→480Aにするための変電所増強計画が提案・検討されていた。変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415Aの場合、101系6M2Tの限流値480Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と判断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、捻出される101系を総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。電動車比率が上がったことから限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように変電所増強が完了するまで、新性能化がなされていながらも旧性能車並の運転速度に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。

試運転[編集]

1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつかの問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。

量産[編集]

1964年(昭和39年)以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、1970 - 1980年代昭和40 - 50年代)の首都圏近畿圏など日本都市圏通勤輸送を支えた。

山手線への投入[編集]

1964年(昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度だけで202両が製造された。捻出された101系(カナリア色)は当初の予定どおり総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。

駅間距離の長い線区への進出[編集]

京阪神緩行線 クハ103-154先頭の7両編成(1983年)

増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも本系列が投入され始めることになった。1962年の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い常磐線(平均速度52.8km/h)と京阪神緩行線(同56.7km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定に関しては、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離 (1.34km) や平均速度が参考にされた。比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40%からさらに弱めた35%にするなどの措置が必要であり、MT55形が35%まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。

もとより当時の多くの路線の最高速度は95km/hであり、80km/hを超える高速域では101系より加速力が高い[注 4]ため特に大きな問題にはなっていない。しかし、快速列車から逃げ切るために高加速高速の通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局には1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、関西支社として本系列で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した(詳細は京阪神緩行線#新形通勤電車構想を参照)。

35%まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30km/h台であることから、平均駅間距離が2km台の京浜東北線[注 5]1965年(昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。

  • ノッチオフの速度が上がったことから、本系列の歯車比を1:5.6にする。
  • MT54形主電動機により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索。

しかし、いずれも本系列に比べて特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても本系列の経済性が高く、無理に高速タイプにする必要はないとの結論を得た。これらの調査結果を受け、1967年(昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーのディスクブレーキ付きTR212形付随台車を採用した[注 6]

通勤電車初の10両貫通編成の出現(山手線)[編集]

1968年10月1日のダイヤ改正において、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭なこともあり、夜間は山手線の車両を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に収容する必要があり、山手線で使用する56編成のうち実に34編成をこれら電車区に夜間疎開しなければならなかった。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年3月に開始すると共に山手線のホーム延伸工事も進めていった。1967年4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らすことが可能になった。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった[55]。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて急ピッチで準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した[56]

9月から増結用の新製車が続々と山手線に配属されて、10月1日から既存の8両編成の中間に増結し10両運転を開始した。このことによって山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみのいわゆる貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事[57]であり、運転中に余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増結用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が目に見えて緩和された[58]。ラッシュ緩和に効果のある貫通編成だが、車庫の検修庫の設備が貫通編成の長さだけ必要な関係で、10両運転をしている他の線区では設備の都合で3両+7両編成などの分割編成にしなければならないケースもあったが、常磐線・京浜東北線など設備の整っている電車区の編成は一部が1970年から10両貫通編成にて運転されるようになる。

快速運用への投入(阪和線)[編集]

阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年6月から6両運転を開始[59][60]していたが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年11月現在で319%[61]となっていた。このような状況において、さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて一部の設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山) - 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた[62]。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用にこれまで使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。

運転速度向上による問題(東海道・山陽線)[編集]

京阪神緩行線への投入から3年後の1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキが作動せずに故障と紛らわしいと運転士から苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧継電器を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された[63]

3両編成による運転の開始(阪和線)[編集]

JR西日本の阪和線の支線、羽衣線に使用されている103系(2014年3月31日撮影)


阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間は3両編成の旧形国電により運転されていたが1977年春に阪和線用を含め33両の増備車があり同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。 この一連の投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した[64]。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線によるものが最初のケースとなった。



通勤輸送での冷房化の推進[編集]

昭和40年代前半になると家庭でもクーラーが普及し始め、通勤型電車についてもクーラーの要求が増していく。そこで国鉄では103系と113系にて冷房装置の試作を昭和45年に行い、昭和48年度より103系は基本的に冷房車による製造を行っていく。冷房装置付きの103系が増備されることで各線区の冷房化率が上がっていった。

数字でみた国鉄での冷房率の推移[編集]

国鉄広報部が毎年1回出している「数字でみた国鉄」では昭和49年版から通勤用車両の冷房化率が掲載されている。以下に201系の量産が始まる昭和57年版までの冷房化率の推移を示す。一部は101系冷房改造車によるものも含まれるが、103系が昭和50年代に大量に増備された結果、通勤輸送における冷房化率が向上した。

JR化後[編集]

3500両近い103系がJRに承継されて使用されたが、各社それぞれの経営計画に従って運用線区の変更や置き換えなどが行われていくようになった。

15両運転の開始(常磐快速線)[編集]

常磐線は上野 - 取手間の通勤形電車を用いた運転と、取手以北の近郊形電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年3月改正において近郊形電車については15両に編成を増強したが、取手以南の通勤形電車は依然10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252%と首都圏でも最も混雑する路線となった。そこで、通勤形電車の編成増強のため、1988年3月改正をめどに設備などの工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完成することから、着ぶくれによる混雑が始まる昭和62年12月から一部の通勤形電車の15両運転を開始した。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである[65]

近郊路線への進出(山陽本線・呉線)[編集]

1991年度からJR東西線の開業を見越し同線に乗り入れる予定であった片町線では、103系から地下乗り入れ対応の207系に置き換えを始めた。同線から捻出された103系は100両を超えそのほとんどが冷房車であったことから、関西本線・阪和線の非冷房車置き換えに転用されたが、一部は115系に非冷房車が残っていた山陽本線下関運転所に冷房化率改善のため転出した[66]。103系は過去にも通勤区間で駅間の長い路線に投入されたことはあったものの、近郊形電車の運用区間に直接転用されたことはなかったがゆえに、趣味誌では、その使用方法について疑問が投げかけられ始めた。特に下関所の105系で山陽本線岩国以西についてはトイレなし編成での運用の実績はあったものの、103系の投入によりこの問題が大きくなったとされ[要検証 ]約半年で広島運転所に転配され、広島付近の運用に改められている。

ワンマン運転の開始(阪和線羽衣支線[編集]

ワンマン改造車

JR西日本阪和線鳳 - 東羽衣間で3両編成で運転してきたが、日中は1両編成でも事足りることから1987年6月1日よりクモハ123+クモハ123+クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両編成、夕ラッシュ以後は2両編成と柔軟な運用に改められた[67]。その後1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で初めて開始した[68]。同様なワンマン運転はその後JR九州の筑肥線でも行われている他、車内に運賃箱を設置した車内収受タイプのワンマン運転はJR西日本の播但線や加古川線でも行われている。

改造工事[編集]

103系は長期間にわたり使用されているため、国鉄時代から様々な改造工事が行われている。工事内容などの詳細は後述する。

車両改造工事(用途変更)[編集]

車両自体の用途を変更するための改造工事で、他系列から103系化されたもの、103系から他系列に改造したもの、中間車の先頭車改造、中間車の電装解除などが必要の都度行われている。

他形式から103系化されたもの
103系と車体構造の違いが少ない101系のうち、103系が量産を開始した後も総武線10両化用として製造された101系付随車や制御車は、経年が浅いため103系に編入されている。また、仙石線用の72系アコモ車は旧形車の下回りに車体を103系ベースで製造して組み合わせたもので、車体自体の経年が浅かったことから下回りを103系に合わせて改造して編入した。
中間車の先頭車改造
  • モハ103形1500番台のクモハ103形1500番台化(JR九州)
  • モハ102形1500番台のクモハ102形1500番台化(JR九州)
  • モハ103形のクハ103形2550番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクハ103形2500番台化(JR西日本)
  • モハ103形のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクモハ102形3500番台化(JR西日本)
  • モハ103形のクモハ103形3550番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクモハ102形3550番台化(JR西日本)
中間車の電装解除など
  • モハ103形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
  • モハ102形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
  • モハ103形のサハ103形2500番台化(JR西日本)
  • モハ102形のモハ102形5000番台化(JR西日本)
  • サハ103形のサハ102形5000番台化(JR西日本)
  • モハ103形のモハ103形3500番台化(JR東日本)
  • モハ102形のモハ102形3500番台化(JR東日本)
先頭車の改造
  • クモハ103形0番台のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
  • クモハ103形5000番台のクモハ103形2500番台化(JR西日本)
  • クモハ103形5000番台のクモハ103形3500番台化(JR西日本)
  • クハ103形のクハ103形3500番台化(JR東日本)

車両改造工事(延命関係)[編集]

車両の寿命は各社の規程などにより決められているが、本来の車両の置き換え時期を延命工事により伸ばし、その間の車両投資を抑制しライフサイクルコストを低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。電車においては1981年(昭和56年)度に国鉄小倉工場が423系に対して施行したのが最初であるが、103系は翌1982年(昭和57年)年度から延命工事が行なわれるようになった。

  • 特別保全工事(国鉄・JR東日本・JR東海・JR西日本)
  • リフレッシュ工事(国鉄・JR東海)
  • 延命N工事(JR西日本)
  • 延命NA工事(JR西日本)
  • 延命NB工事(JR西日本)
  • 車両更新工事(JR東日本)
  • 延命N40工事(JR西日本)
  • 体質改善40N工事(JR西日本)
  • 体質改善30N工事(JR西日本)

車両改造工事(機能追加等)[編集]

103系は様々な線区に転用され使用されたこともあり、線区固有の設備を車両に追加設置する工事などもあった。また、機能的な面や腐食対策などでも改善が加えられるケースも含めて、下記のような項目にて改造された。

  • 前照灯シールドビーム化改造
  • 屋根の塗り屋根化改造
  • 冷房取付改造
  • 前面排障器取付改造
  • ドアの半自動改造
  • パンタグラフの2台化改造
  • ワンマン運転対応改造
  • トイレ設備取付改造
  • 自動分割解結装置取付改造
  • 電気連結器取付改造
  • 列車無線取付改造
  • ATC機器取付改造
  • ATS-P機器取付改造
  • 戸袋窓埋込改造
  • 妻窓埋込改造
  • ドアレール座ステンレス化改造
  • ガラス抑え方式変更改造

廃車[編集]

103系は大量に製造されたために、JR化後20年経過した2007年4月時点でもまだ600両近い車両が在籍していた。廃車のほとんどは老朽廃車であるが、一部事故による廃車が下記の通り存在する。

国鉄時代の事故廃車[編集]

1970年5月20日、根岸線新杉田 - 洋光台間で下り電車が土砂崩壊に乗り上げ、前位側2両にあたるクハ103-548とモハ102-169が大破した[69]。その結果この2両は1971年3月27日付けで廃車[70]となっている。モハ102-169とペアを組むモハ103-105は整備の上、新たに製造されたモハ102-445とペアを組んで復帰している(窓枠の異なる車両同士でのユニット)。

JR東日本の事故廃車[編集]

1988年12月5日、中央緩行線東中野駅構内に停車中の103系10両編成に、後続の201系10両編成が追突[71]。103系の後位側9両(クハ103-277・モハ103-334・モハ102-490・サハ103-326・モハ103-21・モハ102-21・サハ103-327・モハ103-336・モハ102-492)が中間車の8両が回復不能として1989年3月23日付け[72]で、先頭車で被追突車であるクハ103-277が1989年7月25日付け[73]で廃車となっている。

JR西日本の事故廃車[編集]

1994年8月3日、福知山線三田 - 新三田間で下り電車がトラックと衝突[74]、前位側先頭車であるクハ103-839が大破した。その結果同車は1994年8月10日付けで廃車[75]となっている。

他形式等との比較[編集]

本形式は、製造期間が20年以上に及んだため、その間の技術向上などを反映しにくく、製造後30年近く経っても大量に残っていたこともあり、技術的に陳腐化しているとの指摘もあった[76]。特にオイルショック以後の省エネという観点において回生ブレーキを装備していなかったことの指摘もある上、JR東日本が製造した209系通勤形電車の車内に103系電車との消費電力量比較が掲示されたことと相まって、浪エネと表現した記事も見られるようになる。鋼製車体で回生ブレーキを装備しない本形式が過去にどのような比較等をなされているかを示す。

旧形国電や101系との電力消費量率の比較(1966年頃)[編集]

103系が経済性が高いと言われる所以は、単にMT比1:1による運転が出来て車両費などが安いという点だけでなく、高い加速度と高い減速度によって経済運転が可能な部分が大きい。設計当時は後者のメリットを語る記述が多かったのだが、回生ブレーキ車が広まり、軽量ステンレスやアルミ車などが標準になった21世紀以降では、その経済性が目立たなくなったばかりか、103系が他系列よりも消費電力量が少なく経済的であるということすら過去の話になりつつある。下表は103系が量産され始めた当時に試算された他形式との比較表であり、103系が他形式よりも有利であることがわかる[77]。電力消費率は、1kmまたは1000tkmあたりの消費電力量だが、ここでは1000tkmを用いている。また、消費電力量は運転時分の伸ばせばそれだけ減る傾向にあるが、103系の消費電力量、消費電力量率は他の形式に比べて運転時分が短い状態での数値である。同じ運転時分ベースで考えると更に103系の消費電力量等は下がる。

103系と旧形72系・101系の消費電力量率等の比較
線名 車種 編成と限流値 運転時分 電力消費率 比率 備考
山手線 旧形 5M3T 210A 53分40秒 58.3kWh/1000tkm 100
101系 6M2T 300A 53分20秒 52.5kWh/1000tkm 90
6M2T 480A 48分40秒 55.4kWh/1000tkm 95 参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
103系 4M4T 415A 50分00秒 48.6kWh/1000tkm 83
京浜東北線 旧形 6M4T 210A 79分20秒 47.7kWh/1000tkm 100 参考値。京浜東北線で旧形の10連は運転されていない
旧形 5M3T 210A 78分50秒 47.9kWh/1000tkm 101
101系 6M4T 480A 73分20秒 46.0kWh/1000tkm 97 参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
103系 6M4T 415A 72分40秒 44.0kWh/1000tkm 92

113系やMT54の歯車比1:5.60車との比較(1975年頃)[編集]

同一駅間における運転時分は、起動加速度を高くとり低い速度で惰行に移る方が省エネになる。このように103系は駅間距離が長くても到着時分は113系などと遜色なく、消費電力量も少ないという結果が出ている。車両の最高速度が高いからといって、必ずしも目的地への到達時間が短くなるわけではない[78]。下表は113系と101系の主電動機をMT54にした架空形式、そして103系の3種類の形式を2M2T300%乗車、回復余力10%という条件で1km - 5kmの駅間距離の運転時分と消費電力量を計算したものだが、113系は限流値が低く起動加速度が低いため、省エネ率なども低くなっている[79]

103系と113系・101系のMT54換装車(架空形式)の消費電力量と運転時分の比較
1km 2km 3km 4km 5km 備考
113系 12.5kWh 106秒 19.0kWh 154秒 24.4kWh 199秒 29.2kWh 244秒 33.3kWh 289秒
101'系 11.1kWh 101秒 18.0kWh 151秒 23.2kWh 197秒 27.0kWh 240秒 31.7kwh 284秒 101系の主電動機をMT54に換装した架空形式
103系 10.2kWh 96秒 16.5kWh 148秒 21.4kWh 196秒 26.2kWh 242秒 31.9kWh 285秒

営団6000系や301系などアルミ車との比較(1975年頃)[編集]

鉄道車両の電力消費量は、物理的に考えると編成重量に比例する。つまり車体が軽量であればあるほど、同じ乗客を乗せている場合の電力消費量は低くなるため、昭和30年代中頃よりステンレスやアルミによる車両軽量化が始まった。国鉄では、ライセンスの問題もありステンレス車は一部の試作車両のみに終わるが、営団地下鉄5号線(現、東京メトロ東西線)乗り入れ用として、昭和41年にアルミ車体の301系が103系をベースに設計されている。しかし、アルミ車体は製造費が高いこともあって301系の製造は合計56両で終わり、その後は地下乗り入れ用の車両も103系が製造されていく。特に営団地下鉄9号線(現、東京メトロ千代田線)では営団側がアルミ車体回生ブレーキ付きの6000系を使用していたのに対し、国鉄側が回生ブレーキを持たず、電動車比率の高い103系であり、営団側からも早期のチョッパ制御など省エネ車の導入を要請されていた。一時はコスト高で断念した車両の軽量化であるが、昭和48年末のオイルショック以後、省エネが社会問題となっていた事から、アルミ車体にした場合の効果を再考し、山手線などの冷房付き103系10両編成をアルミ車にした場合で各車両に10t荷重がかかった状態(満車は20tで査定される)では消費電力量が11%削減できると予測している[80]。また、営団千代田線でも我孫子 - 代々木公園間で乗車率50%で実測したのが下表で、車体の軽量化と回生ブレーキを有する事で営団6000系は103系に比べて消費電力量が40%少ない結果となった。

営団6000系と103系地下型との消費電力量比較
103系1000番台 営団6000系
編成 8M2T 6M4T
編成重量 358t 288t
力行電力 (kWh/km) 25.0 20.1
回生電力 (kWh/km) 0 -5.3
消費電力量 (kWh/km) 25.0 14.8
比率 100 60

旧型国電や101系との比較(1981年頃)[編集]

経済運転については、動力費が原価の部分であると考えるなら企業内で取り上げられて当然であり、各鉄道会社でも古くは蒸気機関車の石炭消費量の節約方法など活発に行われてきた。103系のような通勤電車の場合も同様に経済運転の手法が確立されており、通勤電車のように起動・停止が連続するものに関しては、定格速度を低く取る事で起動抵抗を早く抜け抵抗ロスを少なくし、高速域は界磁を弱めて対応することが得策である。一定駅間を同一時分で運転する場合は、加速度を高くとり惰行時間を多く取ればブレーキ初速が遅くなりブレーキによるエネルギー損失を防げ、加速度を大きく取ると103系のような直流直巻電動機を用いる場合、定格速度が低くなるが、これは逆に起動時の抵抗ロスを減らす効果がある。抵抗損失は抵抗の抜ける速度の二乗に比例して増大するため、101系や旧型国電に対して抵抗を抜ける速度が約30km/hと低い103系は、これらの形式に比べて格段に抵抗損失が少なくなっている。結果として、103系を用いることで首都圏などの通勤線区では10%程度省エネとなっている[81]

駅間が長く高速運転できる形式との比較(1985年頃)[編集]

103系電車が阪和線や東海道・山陽緩行線などに投入されると、駅間距離が長い路線では、一般に最高速度やブレーキ初速が高い運転がなされているため、投入当初は運転士などからの苦情も多かった。しかし、原因の追及などによりそれらの不満は解消されることになる[3]が、このことが恒久的な問題点だと記事にしたケース[76]などもあり、駅間が長く高速運転をする線区では103系は全く適さないと思われるようになった。しかし車両設計事務所の川添雄司は、103系は駅間の長い路線や最高速度が高い路線など別形式が有利に見える路線でも、データを見ると103系に有利な数字が出るとしている。東海道本線・山陽本線などでは、3ドアの113系を4ドアにしたような車両でよいのかもしれないが、比較すると103系の方が消費電力量が少ない。103系は駅間の短いところから長いところまで使える上に、価格も安いと述べている[82]。このことは前述の113系等との1km - 5kmの運転時分や消費電力量の比較などを見ても明らかである。

山手線205系との比較(1986年頃)[編集]

昭和60年9月から昭和61年9月まで山手線の103系と205系それぞれ1編成に積算電力計を設置し、実車による消費電力量調査を行っている[83]。力行時の効果は205系が軽量ステンレス車体やボルスタレス台車などの採用で編成あたり65トン軽いという要素があり、補機については103系が主抵抗器の強制冷却用ブロアモーターがあること、冷房装置が205系の省エネタイプのAU75Gに比べて古いタイプであることなどによる差も含んだデータとなっている。回生率などのデータはその路線での運転方法と綿密な関連があるので、このデータはあくまでも山手線のものである。

山手線での消費電力量比較 (kWh/km)
103系電車 205系電車 備考
力行 23.14 19.85 3.29
回生 0 -4.55 4.55
補機 7.92 4.49 3.43 MG等
消費電力量 31.02 19.79 11.26

京浜東北線205系・209系との比較(1993年頃)[編集]

209系の車内に貼り付けられていたステッカー。

京浜東北線209系電車が配置されると、実際の消費電力量を車両サイドで調査している[84]。この結果を受けて、209系などのJR東日本の新系列通勤形電車には「この電車は、従来の半分以下の電力で走っています」のステッカーが貼られた車両もあった。補機は考慮されていないが、山手線205系での比較にあるように、103系は消費電力量の大きな冷房装置などを使っていることや抵抗器を強制冷却していることなどから、これらを含めると差はさらに広がる。

京浜東北線での消費電力量比較 (kWh/km)
103系電車 205系電車 209系電車 備考
力行 18.12 16.16 12.97
回生 0 -4.19 -4.38
補機 - - - 考慮していない
消費電力量 18.12 11.97 8.58
比率 100 66 47

大量生産の弊害[編集]

103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、特に試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が一部の短区間路線を除き1990年代初めには置きかえられていた反面、103系は最終増備車が1984年(昭和59年)製であることから、21世紀に入っても大量に残っていた。初期に製造された車両を少量数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、最新の車種との格差が広がる結果となった。

原因[編集]

通常の大量生産される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは考えにくい。例えばスーパーカブのように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられてきた。しかし、103系電車は試作車が落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に205系が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えるには至らなかった。これらは下記のような理由によるものである。

標準化による技術の停滞[編集]

国鉄では1960年(昭和35年)頃から日本国有鉄道規格、いわゆるJRS (Japanese National Railways Standards) が整備されはじめる[85]標準化の効果はコストが低減すること、品質が安定すること、作業能率が上がること、安全性が高まることなどメリットが多く[86]、大量の資材調達を行う国鉄が導入することは当然のことであった。標準化による技術の阻害については、標準品を継続して使いつつ技術の進歩を蓄積し、一定のタイミングでモデルチェンジをおこなうことで技術開発との調和ができると考えられていた[86]が、結果的には単純化の考えにより特定メーカーごとの特徴が出にくくなったこと、特定会社に有利にならないように配慮したことが逆にメーカーの競争力を奪ったことなど、技術革新テンポに合致せず技術の停滞を招く原因にもなり、JR後に規格自体が廃止された[87]

国鉄の財政赤字[編集]

車両を軽量化すればランニングコストが下がるほか、加速力が質量と関係があることから、加速性能や高速性能のアップが見込める。1960年代に入ると各社ともアルミやステンレス車体の試作車を製造しはじめ、国鉄でも関門トンネル用や営業車ではサロ153形やキハ35形などでステンレスを用いた車両を製造していたが、地下鉄東西線への乗り入れ用として1966年(昭和41年)にアルミ車体の301系を完成させる[88]。301系では1両あたり5t近い車体軽量化が図られたほか、台車を空気ばね付きとして乗り心地を改善している。アルミ車体の採用によって103系と同一走行システムでありながら問題点を解決できることが判明していながら、素材の価格が鋼板の6倍から7倍するアルミを用いた車両を大量に製造することは当時の国鉄には難しく、地下乗り入れ用の301系ですら1971年(昭和46年)の西船橋延長用の増備車は製造コストの安い103系1200番台になってしまった。これは軽量化で顕著な効果があったとしながらも、財政事情が悪い国鉄では同じ予算で1両でも多くの車両を製造したいという考え[89]があり、財政赤字が車両の改善をも影響を及ぼしていることがわかる。

チョッパ制御車の開発遅れ[編集]
チョッパ制御電力節減比較[90]
山手 京浜東北 中央
力行時の節減 4.4% 3.0% 0.6%
回生時の節減 22.9% 23.4% 21.3%

営団地下鉄が1965年(昭和40年)に銀座線の2000形を使用して国内初のチョッパ試験を行い結果的に6000系電車として量産を開始した。国鉄でも1967年(昭和42年)3月に101系電車を改造して力行チョッパ試験を行ったのち1969年(昭和44年)11月には装置を一新し回生ブレーキも含めたテストを行った。しかし、回生ブレーキの結果に難があり、翌1970年(昭和45年)年11月にも現車試験を行ったが、回生ブレーキ時の界磁電流制御が今後の課題とされた[91]。力行制御としては既に合格の域に達していたが、抵抗を低い速度で抜ける103系電車との比較では、重い装置を積んでチョッパ制御を力行だけで使うメリットがほとんどなく、回生ブレーキとの組み合わせが求められた。電機子チョッパ制御による回生ブレーキは発生電圧を抑える必要があるのだが、103系で用いているMT55は定格速度が低く、高い速度からの発電ブレーキでは発生電圧が高くなるという特性があった。これらを改善するため、1972年(昭和47年)に直並列チョッパ装置を開発し、工場での試験では高速からの回生ブレーキに対しても有効であることが確認された。しかし、当時の労使関係のこじれから、この装置を使った現車走行試験が運転できない状態となっており、1974年(昭和49年)6月まで現車試験は行われなかった。国鉄の場合、標準化の観点もあり、同一システムを通勤形のみならず近郊形などにも波及させなければならない困難さがつきまとい、地下鉄のようにブレーキ初速度が低い場所や誘導障害の範囲が限定される状態では導入できる技術も、多くの路線で使うことが前提になる国鉄車での採用には、様々な問題点をクリアしていかねばならなかった。特に標準品との兼ね合いで設計が制約されることがあり、直並列チョッパのような余計な開発時間が必要になる要因を作っていたのも事実である。1975年(昭和50年)頃からは回生ブレーキの特殊性が理解され、チョッパ制御に適した主電動機の設計が認められることになり、チョッパ制御と対になるMT60主電動機の開発と、それを用いた回生システムなどが詰められていく[92]。結果的には、チョッパ制御の201系試作車が登場したのは1979年(昭和54年)1月であった。右表は電機子チョッパ制御車と103系の消費電力を試算したときの比率で、103系を100とした場合の節減率だが駅間の長い中央線では電機子チョッパ制御のメリットがほとんどないことがわかる。なお、回生失効は考慮していない。

個別案件[編集]

103系は様々な線区で使用されたことにより、線区特性などに合致しないケースなども多く見受けられた。それは経営判断としての投入なのであるが、それ自体に疑問を投げかけられる場合もある。また、故障などの頻度を他形式と比べた場合に、103系は車両数が多いことから同じ故障率の場合他形式より数が多くなるのは当然である。なお、原因を解明したとしても、それが水平展開されずに他線区でも同様な問題点が発生する場合もある。

衝動について[編集]

山手線の103系が40km/hから50km/hの間で電気ブレーキを掛けた場合に前後衝動が激しく、乗客にけが人が出ることもあった。そこで運転士が2段ブレーキを用いて対策を講じたが、ブレーキ距離などの問題があった。そこで、原因究明の結果、103系のMT55は電気ブレーキの立ち上がり時に急激に電流が流れることで大きなブレーキ力が発生していたことがわかり、対策を講じた。それによって、101系よりもブレーキ時の衝動は少なくなった[93]

製造名目[編集]

103系は大量に生産されたが、そのおのおのに何の目的で製造されたかという製造名目がある。年度計については早期債務や1次債務での発注は年度初めに投入される部分であるが、1960年代前年度末までに入っていたことがあり、それに従い、年度末までに投入された予算は年度をまたいでも前年度で計上しているものもある。

構造[編集]

車体[編集]

車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、外観は前面以外において101系とほとんど差がないが、床下機器が大きく変更された。製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。

走行装置[編集]

主電動機[編集]

MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低回転数トルク特性を重視して定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形とした。原設計は日立製作所が担当[95]

台車[編集]

  • 試作車用台車
  • 量産車用台車
    • DT33形電動台車
      • DT26C形の量産化形式。主電動機のMT55形がMT46系と比較して磁気容量確保や低定格回転数化のため大直径化したのに合わせ、車輪径は通常の860mmより大きい910mm、ホイールベースは通常の2100mmより長い2300mmとした。
      • 歯車比は15:91=1:6.07であるが、860mm車輪径換算で1:5.73に相当。
    • TR201形付随台車
      • TR62X形の量産化形式。
    • TR212形付随台車
      • TR201形のブレーキを再度ディスクブレーキ化した形式。

101系からの変更点[編集]

クハ103-235 運転台
  • 車内床のコルク材の使用をやめ、床の厚みが薄くなり台枠底面の高さがやや上昇。
  • パンタグラフは高圧引通線の短縮化などを目的にM車(クモハ103形・モハ103形)に搭載。
  • 運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小。
  • 運転台機器は人間工学を駆使した以下のものに改良。
    • 視認性を重視したメーター類配置
    • 操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコン・ブレーキハンドル・運転士座席
    • 扱いやすさの観点から多用するスイッチ類を制御卓に集約
  • 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加。
  • 主電動機および電動発電機冷却風取入口は電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用。
  • 正面行先表示器の拡大。
  • 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約。
  • 電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形から独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'車に搭載。
  • ドアエンジンを変更。

形式[編集]

本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。車両の方向は東海道本線基準で奇数向きは東京寄り、偶数向きは神戸寄りを表す。

クモハ103形 (Mc)
モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期の1965年 - 1968年に限られた。本系列は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる[注 10]
クモハ102形 (Mc')
モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機などの補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。国鉄は車種が増えることを避けたために1970年から製造された1200番台5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形から改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となった。
モハ103形 (M)
クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様にパンタグラフと主制御器を搭載する。
モハ102形 (M')
クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機と空気圧縮機を搭載する。
クハ103形 (Tc)
制御車。75 - 91および線区の事情で方向転換した車両を除く0・900・1000・1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。クモハ103形と同時に製造された500番台は偶数向き専用。
サハ103形 (T)
運転台のない付随車で量産化開始の1964年から製造された。

車種分類[編集]

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。

0番台[編集]

0番台
クモハ103-1312004年8月28日 大川
クモハ103-131
2004年8月28日 大川
起動加速度 2.0 km/h/s
保安装置 ATS-SW・P・Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)

1964年から1984年まで製造された、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

1964年 - 1967年製造車[編集]

クハ103-6
1964年 - 1967年製造車グループ

クモハ103-1 - 133・モハ103-1 - 159・モハ102-1 - 292・クハ103-1 - 114・501 - 616・サハ103-1 - 225が該当する最初の量産車グループ。山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。試作編成に存在しなかったクモハ103形サハ103形が追加された。山手線に先行投入されていた試作車は、のちにこのグループに合わせた仕様に改造されている。

1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアがステンレス製に変更されており、それ以前に製造された鋼製ドア車も一部を除いてステンレス製のものに交換されたが、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在している。

1967年 - 1970年製造車[編集]

サハ103-279
1967年 - 1970年製造車グループ

上記に続いて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305が該当する。1967年(昭和42年)に「昭和42年度本予算追加車」が常磐線に、続く「昭和42年度第3次債務車」が阪和線にと高速運転中心の路線への投入が開始され、本系列の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループでもある。

クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。本グループからは高速運転対策として、付随車の台車を踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更している。

地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年(昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、後年になってシールドビーム2灯に改造された車両が多数である。1975年に大井工場(現在の東京総合車両センター)で事故復旧工事施工のクハ103-544、同じく1977年施工のクハ103-4をはじめ、1979年からは本格的に施工された。 一方で未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、2000年(平成12年)11月6日廃車の京葉電車区所属クハ103-562が、最後の白熱灯車両である。

試作冷房車(1970年製造)[編集]

1968年(昭和43年)に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が5000・5100系電車増備車に冷房を装備したのを皮切りに、私鉄において冷房を取付けたロングシート車両が登場した[注 11]のに呼応し、私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して山手線に10両編成1本が試験投入された。

試作車冷房編成[注 12]
車両番号 クハ103-179 モハ103-279 モハ102-434 サハ103-306 モハ103-280 モハ102-435 サハ103-307 モハ103-281 モハ102-435 クハ103-178
冷房装置
製造会社
AU75X形
三菱電機
AU74X形
日立製作所
AU73X形
東芝
クハ103-178
試作冷房車
床下にMGを搭載

冷房方式の比較・検討のために以下の仕様となった。

  • 異なるメーカーの試作した3種の試作冷房装置を屋根上に搭載。
    • 冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental) を意味するサフィクス(接尾辞、拡張子)。
  • 同じ冷房装置を搭載する車両でも、各車で送風ダクト本数や室内通風口の位置といった風道構造、扇風機の有無などの差を付けた。
  • 冷房電源用のMGは、通常のモハ102形搭載とは別途に編成両端のクハ103形に出力210kVAのものが各1基ずつ搭載され、それぞれ5両給電とした。

冷房装置の本体構造には次の大きな相違点がある。

  • AU73X形:AU74X形…冷房装置の内部に3基の小型ユニットクーラーを集約
  • AU75X形…冷房装置の内部に2基の大型ユニットクーラーを集約
    • 1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利。

後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を試作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定された。

  • 翌1971年以降冷房装置と扇風機を併用したAU75系としてこれら3社の手で量産が開始。

このグループはクハ103形が最後の白熱灯式前照灯採用車であるが、冷房搭載のほかに以下の設計変更が行われた。

  • 客室窓を製造工数低減と気密性向上の観点から外ハメ式のユニット窓に変更
  • 運転席下の通風口を省略
  • 客室座席を人間工学に配慮した新型に変更
    • 座面低下・奥行きの延長・背もたれの角度も増大を実施
  • 座席下の客室ヒーターとその設置方法を改良
    • 暖房放射面積の増大と暖房能力の強化の観点から、従来7人掛け中央に1基設置→U字型の取付幅が広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置へ変更

当初は池袋電車区(現在の池袋運輸区)に配置されていたが、1978年(昭和53年)の冷房試験終了後に量産冷房車と同仕様に改造。1979年(昭和54年)以降は山手線のATC化に伴う転配により、各車がばらばらに転属を繰返すようになった。

2000年(平成12年)4月3日に習志野電車区(現在の習志野運輸区)配置の4両より廃車が始まり、2005年(平成17年)11月22日に京葉車両センター配置のサハ103-307をもって全車廃車となった。

1971年 - 1972年製造車[編集]

クハ103-184
1971年 - 1972年製造車グループ
クハ103(京阪神緩行線7両編成)
1971年 - 1972年製造車グループ

モハ103-282 - 330・モハ102-437 - 486[注 13]・クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323が該当。発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループであるが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、俗に「1次改良車[注 14]」とも呼ばれる。

変更点は次の通り。

  • 客室窓をユニットサッシに変更。
  • クハ103形の前照灯を新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯に変更。
  • 冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口を復活。
  • 主制御器をCS20A形からCS20D形に改良。

冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、分割民営化後に軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する[注 15]。冷房改造時にクハ103形の前面通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の1973年(昭和48年)製造車と同一形状となった。 京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区(現・網干総合車両所明石支所)に新製配置されており、クハ103形は188が松戸電車区(現・松戸車両センター)に新製配置された以外はすべて関西に配属され、JR西日本に承継されたのも特徴である。

1973年製造車[編集]

クハ103-239

前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載して製造されたグループで、モハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569・クハ103-213 - 268・サハ103-324 - 359が該当する。京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、既存の非冷房車編成に組み込まれることから例外的に非冷房車として製造された(後にAU75系冷房装置にて冷房改造)。

上述のとおり冷房装置としてはAU75系が採用されたが、電力供給用電動発電機 (MG) はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な出力 (160kVA) の物を搭載して、一括給電するように変更され、本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定された。これにあわせて、車体2・4位側[注 16]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置。

また、以下の改良も行われた。

  • 居住性の改善目的で、座面拡張と蛍光灯の増設を実施。
  • クハ103形の前面通風口は冷房化により再び廃止。
  • 主電動機をISOネジ採用のMT55A形に変更。
  • 後位側面に電動行先表示器方向幕)を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更。
    • 併せて前面の行先表示器を電動化と位置若干変更を実施。
  • 行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓を廃止。
  • 客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、その下の妻窓上段を固定化。
  • 終着駅での折返しによる長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設。
    • 各車両の両端2か所の側引戸を閉、中央2か所を開とする。

当初、山手線・中央線快速(主に特別快速で運用された)および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に1974年(昭和49年)新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属した。「低運転台+新造時からシールドビーム」形態のクハ103形は関東地区では極めて少数派となった。中央線快速残存車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼電車区に転属。さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。

1974年 - 1981年製造車[編集]

モハ103-504走行音(大阪環状線新今宮-天王寺 2013/12/17収録)

モハ103-414 - 786・モハ102-570 - 899・2001 - 2043・クハ103-269 - 499・701 - 844・846・848・850[注 17]・サハ103-360 - 503が該当する。

本グループでは、クハ103形に大幅な設計変更が実施された。

  • 踏切事故対策や視認性向上のために高運転台構造に変更。
    • 窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯を設置。
  • 山手線・京浜東北線ATC化のため準備工事を施工。
    • 運転台後部にATC装置(ATC-6形)搭載のため機器室を設置し、同部分の戸袋窓を廃止。
    • ブレーキ弁がME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更。

のちに中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850はATC関連を非装備で製造され[注 18]、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME40A形ブレーキ弁装備で落成した。

さらにグループ全体で以下の変更が行われた。

  • 北陸トンネル火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台などの地下鉄乗入車と同じA-A基準に準拠。
    • 妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。
    • ただし地下線の走行は考慮しないため、前面貫通扉は未設置。
  • 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は有効に使われないまま、本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止された。
  • 1977年後期製造車からは座席下の蹴込み板がステンレス製になるなど、車内の完全無塗装化が行われた。

なお、本グループをもってクハ・サハ103形は製造終了となった。


1983年 - 1984年製造車[編集]

モハ102-2050

モハ103-787 - 793・モハ102-2044 - 2050の計14両が該当する。

201系の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じた以下の設計変更を実施した。

  • ゴム布張り屋根から塗屋根へ変更。
  • クーラー・パンタグラフの横のランボードを201系と同一形状に変更。
  • 各窓支持Hゴムが材質変更により白から黒に。
  • 側扉開口部周囲を完全溶接化。

赤羽線の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、それぞれ池袋電車区に配属された。

  • モハ103-787 - 791+モハ102-2044 - 2048の5ユニットがカナリア色で埼京線開業前の赤羽線用。
  • モハ103-792・793+モハ102-2049・2050の2ユニットがウグイス色で205系投入直前の山手線用。

その後、カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年(昭和60年)9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区(現在の川越車両センター)に転属し、そのまま埼京線で運用された。分割民営化時には、全車JR東日本に承継された。

クハ103形500番台[編集]

クハ103-580

1965年(昭和40年)に京浜東北線への本系列投入が開始されたが、当初は基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無かったことから3両と7両に編成を分割して使うこととなった。投入当時は京浜東北線の10両設備が未完成であったことから暫定的に2両+6両の8両編成で使用された。2両と6両に分ける必要があるため奇数向きの先頭車としてクモハ103形が設計され、反対側はクハ103形0番台が連結された。しかし、クモハ103と対になるクハ103形は向きが偶数向きに固定されることから、両渡り式のクハ103形0番台では、ジャンパ栓納めや床下の配線が一部省略できること、両栓のジャンパ連結器を片栓の物にできることでコストダウンが図れることから、1966年(昭和41年)年4月以降の10両編成対応の製造分から、偶数向きの片渡り式にしたクハ103形500番台に設計変更された。クハ103形0番台との外見上の違いは、正面右下にあったジャンパ連結器納めがない点である。クハ103-617番以降の台車がディスクブレーキのTR212形に変更されている。また、陸前原ノ町区の車両の一部はジャンパ栓を片栓から両栓に改造している。

試作車[編集]

モハ103形・モハ102形・クハ103形900番台[編集]

モハ103-902

1963年に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。量産車との相違点を以下に示す。

  • 台車が、DT26C形(電動車)・TR62X形(付随車)を装着。
  • ジャンパ連結器が、KE58形2基(19芯×2)。
    • このためKE70形1基の量産車とは混結不可。
  • 製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(量産車は黒文字)とした。

当初は1 - を称していたが、1964年(昭和39年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された。

  • モハ103/モハ102-1・2→モハ103/モハ102-901・902
  • クハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904
    • 上記改番のため、クハ103-1 - 4・モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」車両。

1967年(昭和42年)2月に量産車化改造が施工された後は量産車と混用されたが、最終配置はクハ103形が豊田電車区で青梅五日市線、電動車ユニットが川越電車区で埼京線で、それぞれ老朽化により最後まで冷房化されることなく1992年(平成4年)までに全車廃車となった。

モハ103形・モハ102形910番台[編集]

加減速時に発生する空転を防止する観点から、1967年に制御段数を力行55段・ブレーキ51段と大幅に増やしたCS30形超多段バーニア式制御器を搭載した試作車の区分である。

制御器搭載のモハ103-911 - 913とユニット間の引通線を一部変更したモハ102-911 - 913の合計3ユニット6両が製造された。品川電車区に配置され、山手線で試験が行われた結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用された。精密なバーニア機構は製造コストが高く保守にも手間がかかることから、1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。

山手線で910番台は1編成に集約の上で運用されていたが、同線の205系化により他線区に転出させる際、特殊な制御器淘汰を名目に以下の転用改造が施工された。

  • 冷房改造され160kVA-MGを搭載していたモハ102-911・913以外の4両については電装解除のうえ、後述のサハ103形800番台に改造。
  • モハ102-911は浦和電車区に転属、モハ103-107とユニットを組成。
  • モハ102-913は豊田電車区に転属、モハ103-62とユニットを組成。
    • 新ユニット組成車は、ほぼ同時期に保全工事を施工された非冷房車(後にAU712形で冷房化)。
    • ユニットを組替で捻出されたモハ102-172・62はサハ103形800番台に改造。

1994年にモハ102-913が、1995年にモハ102-911が廃車となり区分番台消滅した。

地下鉄対応車両[編集]

地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と並行して製造された。乗入先各線はすべて保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。

1000番台[編集]

1000番台
1000番台 登場時の塗色1985年
1000番台 登場時の塗色
1985年
起動加速度 3.3 km/h/s
保安装置 ATS-B・P
ATC-4(1000番台)
1000番台常磐快速線転用後
2003年4月7日

常磐緩行線帝都高速度交通営団(営団、現・東京地下鉄千代田線直通運転用として、1970年(昭和45年)から10両編成16本160両が製造され、松戸電車区(現在の松戸車両センター)に配置された。落成から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。

0番台からは以下の設計変更が行われた。

  • A-A基準に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材を使用。
  • 主回路ヒューズ箱は屋上へ移設。
  • クハ103形前面に貫通扉を設置。
    • 前面窓下へは警戒の意味で太帯を配置[96]
    • 前面運行番号表示窓上方と側面幕板部には青21号の国鉄マーク(JNRマーク)を掲出。
  • 千代田線用ATC機器を乗務員室直後の床上搭載としたため該当部分の戸袋窓は廃止。
  • 営団から要求された加速性能を実現するため編成中両先頭車以外の全車を電動車化 (8M2T)。
    • 主電動機の限流値を上げ、制御器は910番台で解説した改良型のバーニヤCS40形制御器を搭載。
  • トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式を採用。
  • 乗入協定に従い前照灯をシールドビーム2灯化。
  • 塗装は灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯。

千代田線開通以後、長らく国鉄側所属車両として千代田線直通専用に充てられたが、営団が新造した回生ブレーキが使用可能な電機子チョッパ制御6000系より電力消費量が格段に多い[注 19]ことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する[注 20]という問題が発生したことから、1984年から1986年(昭和61年)3月までに203系へ置き換えられ(詳細は常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照)、捻出された本区分番台は以下の経過をたどった。

近畿・広島地区用105系への改造・転用
地上線(常磐快速線・成田線)への転用
  • 松戸区残存の104両は地上線(常磐快速線・成田線(我孫子 - 成田間))に転用され、後にATC機器を撤去。青緑1号一色に塗色変更された。
    • 当初は、当グループのみで編成を組んでいたが、後に地上用0番台とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された。1987年の国鉄分割民営化時には全車JR東日本に継承。

1990年(平成2年)には10両編成1本が営団東西線乗入用として三鷹電車区(現在の三鷹車両センター)に転属し、営団東西線用ATC-3形(色灯式信号用ATC)・デッドマン装置付マスコンハンドル化・塗色変更を施工した。廃車は2002年(平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線・成田線へのE231系0番台の投入によって2004年(平成16年)3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって2003年(平成15年)5月30日に、それぞれ運用を終了し全車廃車となった。

1200番台[編集]

1200番台
1200番台2003年5月25日
1200番台
2003年5月25日
起動加速度 3.3 km/h/s
保安装置 ATS-BPATC-3
クハ103-1201
常磐快速線転用後
1993年2月1日 我孫子

中央・総武緩行線・営団東西線直通運転用のグループで、301系の増備車にあたる。国鉄の財政難により、地下鉄乗り入れ車の製造コスト低減のために製造された本系列の区分番台で、301系と同じ7両 (6M1T) 編成を基本としたため、地上形にはないクモハ102形 (Mc') が開発・製造された。1970年に1本(7両)、1972年(昭和47年)・1978年(昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。

1000番台からの変更点を以下に示す。

  • ATC機器は東西線のWS-ATC(国鉄名称:ATC-3型)対応機器に変更。
    • そのため乗務員室直後の戸袋窓が復活。
  • 機器配置を301系に合わせたため蓄電池の搭載車などが異なる。
  • 塗装は301系に合わせたためライトグレー(灰色8号)に黄帯(黄5号)の塗装。
    • ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったことから「銀色の電車」という案内が行われていた。
  • 雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の本系列と共通とした。
  • 地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット窓を採用。座席寸法も301系と同一に変更した。
  • 主電動機も第2編成以降は後期型MT55Aを搭載した。

1987年の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承され、全車、AU712形集約分散式冷房装置により冷房改造を施工し、一部は常磐快速線に転用された(以降の状況については、#1200番台塗色変更・10両編成化関連も参照)。最後の1200番台となったK9編成が、拝島駅に留置されたまま2003年7月31日に大宮工場(現在の大宮総合車両センター)へ廃車回送された。これをもって本区分番台は消滅した。

1500番台[編集]

1500番台
クハ103-1513(製造当初)1983年2月24日 西宮
クハ103-1513(製造当初)
1983年2月24日 西宮
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-SK
ATC-9
クハ103-1514 車内

唐津線筑肥線・福岡市地下鉄1号線(現在の空港線)直通運転用として、1982年に6両編成 (4M2T) 9本54両が製造された。編成番号は3両ずつに分かれており、小倉工場に回送する際も3両ずつに分割される。

製造当時、すでに常磐緩行線・千代田線直通用としてチョッパ制御の203系が製作されていたが、筑肥線は筑前前原以西の駅間距離が長く列車密度も低いため、ブレーキ頻度や回生負荷の面でチョッパ制御車を導入しても省エネ効果や回生制動力が期待できないことから、製作費の安い本系列が一部設計変更のうえ導入され[97]、唐津電車区(現在の唐津鉄道事業部唐津運輸センター)に配置された。

本区分番台の変更点を以下に示す。

  • 機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に自然通風式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形を搭載。
  • 電動発電機は、コスト削減のため急行形の廃車発生品を搭載。
  • 車体や内装は実質的に本番台と同時期に製造された201系を基本としており、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。
  • A-A基準準拠のため、先頭車両は105系に類似した貫通扉を有する前面デザインを採用[98]
  • 塗装はスカイブルー(青22号)にクリーム色(クリーム1号)の帯。
  • 国鉄車を示すJNRマークをクハ103形正面に掲出。
  • 折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切るドアカット機能を搭載[98]

1987年の国鉄分割民営化で全車がJR九州に継承されたが、同社に継承された本系列は本グループのみである(その後の状況については、#JR九州も参照)。分割民営化後、4本が先頭車化改造により2分割されて3両編成化された(#編成分割参照)ため、2010年時点は13本54両となった。3両編成は限定運用、6両編成は303系代走運用も担当している。乗入先の地下鉄空港線内でのワンマン運転には対応しておらず、同線内のホームドアとの連動もできないため、地下鉄線内では車掌が乗務しドア開閉は車掌スイッチとともにホームドア開閉ボタンを操作している。なお、クハ103-1504は1998年3月に今宿駅付近で強風により脱線破損したが、復旧している。

各線区ごとの歴史[編集]

仙石線[編集]

クモハ103-9
仙石線対応改造車

1979年より仙石線の旧形車(主に72系)の置換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車投入で捻出された山手線・京浜東北線・横浜線・青梅・五日市線で運用されていた0番台初期車が転用された。首都圏とは異なる寒冷地の仙石線事情から、投入時に以下の改造を施工した。

  • 塗装をスカイブルーに統一。
  • 出入り口の半自動ドア化。
  • 客室ヒーターの増設。
  • タブレット使用区間が存在したため、乗務員室扉直後の戸袋窓をタブレット衝突による破損防止の観点から埋込[注 21]
  • 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設。
  • 前面窓ガラスにデフロスタを取付(後に熱線入ガラスと交換されたため撤去)。
  • ATS-S形車上装置の搭載。

全車JR東日本に継承されたが、1993年までに全車廃車となった。

仙石線への車両更新車の投入[編集]

1989年以降に在来形本系列置換え用として仙石線に入線した車両は、車両更新工事が施工されたが、通常の更新車と異なり、以下の改造が施工された。

  • 窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換、
  • ドアを窓が大きいタイプに交換
    • 車両更新を終えてから転入した3編成は窓とドアの交換が省略
  • 前面窓を2枚窓化
  • 運行番号表示器の列車愛称・種別表示器

のちに扇風機やベンチレーターの撤去も施工されたが、更新車も老朽化が進み205系3100番台に置換えが決定し、[注 22]2004年7月までに17編成が運用を終了し、廃車・解体された。

RT-235編成[編集]

仙石線での本系列運用は2004年7月に一旦は終了したが、2006年以降に予定された多賀城駅付近の立体交差化工事の際に車両不足が想定[注 23]されることから、本編成のみ保留車として郡山総合車両センターで留置された。2006年11月に同センターで復帰のための整備が施工され、2007年3月19日より正式に営業運転に復帰した。

復帰の際に以下の改造工事も併せて施工された。

  • クハ103-235にトイレと車椅子スペースを設置[注 24]
  • ATS-Sn→ATS-Psに変更。
  • モハ103-343のパンタグラフをシングルアーム式2基に変更(本系列初かつ唯一)。
  • 台車をグレー塗装化。
  • 座席モケットを205系と同タイプに変更。

復帰後は平日朝のラッシュ時に区間運転2往復のみ限定で運用された。しかし、老朽化と首都圏配置車の需給調整の結果、南武線209系2200番台投入により205系が捻出できることになり、2009年10月21日を最後に営業運転を終了[99]。同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され[ネット注 1]、2010年1月に解体された[ネット注 2]

仙台車両センター宮城野派出所RT-235編成
← 石巻
クハ103-235 モハ103-343 モハ102-499 クハ103-236
  • 4両とも中央線快速→中央総武緩行線→仙石線と転属してきた車両である。

中央本線名古屋地区[編集]

クモハ103-36
中央本線名古屋地区対応改造車

1977年にATC対応車の投入で捻出された0番台初期車が中央本線(中央西線名古屋地区)に投入され、神領電車区(現在の神領車両区)に配置された。初期投入分が京浜東北線・横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と比較的統一された。投入時に以下の改造を施工した。

  • 塗装をスカイブルーに統一。
  • 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設(後期に投入されたものについてはワイパー増設がされていない)。
  • 前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去している)。
  • 先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置(後期に投入されたものについては設置されていない)。
    • サボを使う関係で冷房車でも方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などのステッカー貼付による固定表示とした。

運用はラッシュ時に10両編成とされていたが、以下の変遷を経ている。

← 名古屋
中津川 →
転入時
クハ103 サハ103 モハ102 クモハ103 クハ103 モハ102 モハ103 サハ103 モハ102 クモハ103
1986年11月1日ダイヤ改正後
クハ103 モハ102 クモハ103 クハ103 モハ102 モハ103 サハ103 サハ103 モハ102 クモハ103

投入当初は置換え前の72系が5+5両編成であり、近い両数による組成としたためで、1986年11月1日ダイヤ改正後は輸送力適正化のため日中運転用の付属編成を3両とした。

川越線・八高線[編集]

3000番台
2005年2月6日 拝島

種車は1974年(昭和49年)に仙石線用72系4両編成5本計20両の車体を郡山工場(現在の郡山総合車両センター)で同時期製造の本系列と同等の車体に更新[注 25]したアコモデーション改良車のモハ72形970番台・クハ79形600番台で、1985年 - 1986年に大井工場(現在の東京総合車両センター)・大船工場(現在の鎌倉車両センター)・大宮工場(現在の大宮総合車両センター)・新津車両所(現在の新津車両製作所)で本系列編入改造を施工した番台区分である。

モハ72形970番台・クハ79形600番台は、1980年までに本系列投入による仙石線の未更新旧形車両が置換え後も運用されていたが、1985年に同線の車両が本系列に統一されたために運用を喪失した。しかし、車体更新からの経年が浅かったことと当時の国鉄が逼迫する財政であったために転用先が検討された。

ほぼ同時期に埼京線の開業ならびに川越線電化が完成し、大宮 - 川越 - 高麗川間の区間運転用電車が必要となった。そのため、旧性能電車の新性能化[注 26]という国鉄的には稀な改造工事を施工しての投入となった。車端部装着の製造銘版には昭和27年(=1952年)や昭和29年(=1954年)など改造種車の製造年が記載されており、本系列オリジナル車より10年も前から存在していたことになる。

路線の関係で全車がJR東日本に継承され、AU712形冷房装置とインバーター (SIV) を搭載して冷房化、側面行先表示機も同時に搭載する改造が施工された。

1996年(平成8年)には八高線八王子駅 - 高麗川駅間の電化完成に伴い同線でも運用開始されるとともに、輸送力増強と新たに投入された本系列3500番台改造車、209系3000番台と編成を合わせることから、豊田配置となっていたサハ103形3000番台を川越線用3000番台編成に組込4両編成となった。これにより3000番台は全車川越電車区配置となり、以下の編成が組成された。

103系3000番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
 
編成番号 クモハ102
3000番台
モハ103
3000番台
サハ103
3000番台
クハ103
3000番台
廃車
ハエ51 3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
2004年10月
ハエ52 3002
(大宮)
3002
(大宮)
3002
(大井)
3002
(大宮)
2005年5月
ハエ53 3003
(大宮)
3003
(大宮)
3003
(大井)
3003
(大宮)
2005年11月
ハエ54 3004
(大船)
3004
(大船)
3004
(大井)
3004
(大船)
2003年11月
ハエ55 3005
(新津)
3005
(新津)
3005
(大井)
3005
(新津)
2004年11月
  • ( )内は本系列化改造施工工場。
  • 旧番号との対照は72系の該当項目を参照。

老朽化により205系3000番台・209系3100番台への置換えで廃車が進行し、2005年(平成17年)10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運用を終了。その後もハエ53編成が予備車扱いで残存したが[注 27]、同年11月中旬までに全車廃車・解体され区分消滅した。

八高線 一部電化関連(3500番台)[編集]

1996年3月の八高線八王子駅 - 高麗川駅間の電化では、川越線用3000番台が同線でも運用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が不足した。そのため、209系3000番台4本の新製と0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の改造を施工され川越電車区に投入された。

本改造施工車は新たに3500番台に区分された。半自動扉は3000番台の手動開閉方式に対し、本区分は押ボタン開閉方式とされた。

103系3500番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
ハエ56 クハ103
-3501
モハ102
-3501
モハ103
-3501
クハ103
-3502
旧番号 (725) (2047) (790) (738)

3000番台と共通運用使用されたが、2005年(平成17年)4月に廃車・解体された。JR西日本に播但線用「3500番台」区分車が存在するが、関連ならびに重複車番はない。

山陽本線下関・広島地区[編集]

下関運転所(現在の下関総合車両所)の115系非冷房車置換えのため、山陽本線下関地区に本系列が投入されることになり、以下の転入対応改造が吹田工場鷹取工場で施工された。

  • ATS-S形・列車無線の搭載
  • 瀬戸内色への塗装変更
  • 方向幕不使用のため行先表示板(サボ)受けの設置(サボ受け設置位置の弱冷車表記は干渉するため移設されたが、弱冷車表記は移設前後とも使用していない)

1992年5月から順次運用開始したが、トイレ未装備が不評であったことからトイレ装備の近郊型電車に置き換えられ広島運転所に転属。後の転入車とともに広島地区での運用に投入された。

  • 側面方向幕の使用が開始されたがサボ受けは残存(前面方向幕は広島支社配置の他形式同様に使用されておらず、運行表示器には編成番号を掲出。方向幕使用開始後に転入の4両編成1本はサボ受けが未設。)。
  • 車両需給の関係で一部は関西地区に再転属したが、サボ受けは未撤去。

2007年から順次関西地区で余剰となった113系[注 28]に置換えられ廃車となった。2008年に3本のみ配置されている3両編成のクハ103-86・170・171にトイレの設置と側面方向幕が移設された。

2011年3月1日にE-07編成をもって広島運転所所属の4両編成が完全消滅した。

2013年3月16日改正で広島地区で残存しているのはD編成(3両編成)3本が現存するだけとなっている。全3編成ともJR西日本の地域別単色化の対象で、黄色一色となっている。

山陽本線岡山地区[編集]

下関地区と同様に115系非冷房車を置換えるため、1994年より広島支社に続いて岡山支社にも投入され、独自の「マスカット色」に塗装変更された。岡山電車区に4両編成5本20両配置で、山陽本線岡山地区や宇野線などで運用。

1994年岡山地区転入編成構成
クハ103 モハ103 モハ102 クハ103

編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。

  • 冷房装置は全車一般的なAU75形搭載。
  • 中間MM'ユニット3組に延命N40施工。
  • ほかの14両がN延命工事・戸袋窓閉塞施工済。

長らくこの20両で推移していたが、ロングシートである点やトイレがない点が不評であったために、2004年213系「マリンライナー」の転用により運用離脱し、3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が奈良電車区にそれぞれ転属し、MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車された。残存1編成は予備車とされたが2006年に廃車され、一時期完全に運用を離脱していた。その直後にアーバンネットワークでの車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車がそのままの塗装で転入して、本系列の運用が再開されていた。

2006年岡山地区転入編成構成
クモハ103 モハ102 サハ103 クハ103

1994年転入車と同じ0番台であるが、すべて上記の編成構成かつ初期車の率が高く1本は戸袋窓が存置されているなど比較的状態が悪いのが特徴。その後現在までに数度の車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。ただし、塗装は転出元車両基地時代のままで統一されていない。2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工のままである[100]

播但線投入(3500番台)[編集]

3500番台
クモハ103-3508
クモハ103-3508
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-Sw・P

1998年3月14日の播但線姫路 - 寺前間の電化完成に伴い、同区間で本系列が投入されることになった。需要とワンマン運転の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにクモハ103形2500(元・5000)番台ユニットから9本が1997年から1998年にかけて3500番台に区分改造され、網干総合車両所に配置された。改造種車には状態の良い車両が選定されたため、製造の新しいユニットが中心である。JR東日本に同じ番台区分が存在したが、関連性ならびに設定形式が異なるために車番重複はない。改造はすべて網干総合車両所で施工されている。

クモハ103形3500番台
寺前側の制御電動車。クモハ103形2500番台が種車。3503・3509は運転台上部にパンタグラフを追加設置するためのパンタ台を設置[101]
  • クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509
クモハ102-3508
クモハ102形3500番台
姫路側の制御電動車。改造種車になっていたクモハ103形2500番台とユニットを組むモハ102形0番台に運転台の設置改造を施工。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせ1971 - 73年製造の「1次改良型」とされた。一部に廃車発生品が流用されており、機器捻出のために廃車された車両も存在する。
  • モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509

全車とも同時に体質改善40N工事を施行。一部に延命N40工事施工車が存在するが、該当車は重複施工となった。

クモハ103-3501・クモハ102-3501編成は、体質改善40N施工車で乗降ドアのガラスの支持方が205系と同様であり、車外から見てガラス周りに金属フチがない異端車[101]

また本区分ではワンマン運転時対応のため以下の特化した装備を持つ。

  • 運転席からの視認性向上のために運転台仕切りの設置と妻面貫通扉の窓を拡大。
  • 車内で運賃収受が行われることから運転台仕切りにバスタイプの運賃表示器と非ワンマン時は運転台背面に格納できる運賃箱を設置。
  • ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから車外客用扉付近に出入口を明示するLED表示器を設置。

ワンマン対応工事と同時にEB装置の設置がなされている。2005年から2007年にかけてクモハ102形に後述の3550番台と同型のトイレが設置され、該当部分の窓が埋め込まれた。2009年以降、ATS-PやTE装置の取り付けが順次行われている[102]

日根野電車区からの応援編成[編集]

応援編成

3500番台に加え、2006年3月には日根野電車区から阪和線で運用されていた0番台6両編成1本[注 29]を借り受けた。姫路駅高架化工事の進展によって山陽本線ホームと播但線ホームを構内で入換することが一時的にできなくなり、221系電車による朝ラッシュ時の応援運用が不可能になるためである。ラッシュ時以外に使用されないことから、3500番同様の改造は施工されずに塗装も阪和線のスカイブルーを維持。同年11月に検査期限が近づき、かつ同時期に223系2000番台4次車投入で運用に余裕が発生した113系6両編成と交換された。

全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、同年12月15日付けで廃車された。

和田岬線投入[編集]
和田岬線用車

2001年和田岬線電化に伴いスカイブルー塗装で延命N40工事車統一の6両編成1本が網干総合車両所明石品質管理センターに配置された。1本しかないため本編成が検査などで運用を外れた場合は同所の207系[注 30]で運用される。

同線に列車の運行が無い日中時間帯に乗務員訓練に使用されるため、前面にワイパーが3本取付られた。

また、乗務員室と客室間の仕切り窓の形状は独特な角ばった形状で、ガラスの支持方法は他の延命N40と異なりゴム押さえではなく金属押さえになっている。

和田岬線用R1編成
クハ103
-247
モハ103
-389
モハ102
-545
モハ103
-397
モハ102
-553
クハ103
-254

加古川線投入(3550番台)[編集]

3550番台
クモハ102-3554後部の窓がない部分がトイレ
クモハ102-3554
後部の窓がない部分がトイレ
起動加速度 2.5 km/h/s
保安装置 ATS-Sw

2004年12月19日の加古川線全線電化に伴い播但線と同様にワンマン運転対応の2両編成が投入されることになった。網干総合車両所加古川派出所に8本が配置されたが、これらは様々な変更が加えられたために新たに3550番台へ区分された。

改造施工は吹田工場と下関車両センターだが、両者には床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。落成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅や、網干総合車両所などに留置された。3500番台とともに比較的分割・併合が多い路線に配置されるが、どちらも電気連結器などは未装備である。

3500番台ではクモハ103形ユニットの反対側のモハ102形に運転台が設置されて組成されたが、本区分では体質改善40N工事施工済のMM'ユニットが種車となった。この時期の体質改善は簡略化した30N工事に移行していた上に3500番台に改造されずに残存するクモハ103形ユニットは年齢が高い車両が多く[注 31]、さらに前面形状を変更することから既存の運転台がそのまま使えないという事情があった。

種車は森ノ宮電車区・奈良電車区の編成からMM'ユニットを抜き取り、両端に運転台を設置した。運転台形状はそれまでの改造車から大幅に変更され、前照灯を窓下に配置したり、2編成併結時に乗客の通行ができるよう貫通扉を設置し、105系に近いスタイルとなった。この措置は同時期に改造されたクモハ115形1600番台との共通点が見られる。

クモハ103形3550番台
霜取パンタ装備車
クモハ103形3550番台
モハ103形0番台に運転台設置改造を施工した谷川方制御電動車。一部は運転台上部へ冬期架線霜取用パンタグラフを増設。
  • モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558
クモハ102形3550番台
モハ102形0番台に運転台設置改造を施工した加古川方制御電動車。同社の本系列で初めて洋式車椅子非対応トイレを設置した。
  • モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558


改造工事[編集]

改造工事は、主に車両の用途を変更するような形式間改造と呼ばれるもののほかに、耐用年数を延長するための延命工事、線区の特性に合わせた付加設備を追加するもの、車両の性能や旅客設備の向上をはかるものなどがある。ここでは国鉄時代とJR化後に大きく分けて説明する。国鉄時代からJR化後も継続して工事を続けたようなものは国鉄時代に始めた改造の方で取り上げる。

国鉄時代の改造工事[編集]

国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、一度投入した車両を改造して別の用途に振り向けた。

101系の103系連結対応工事[編集]

1970年(昭和45年)12月10日より大阪環状線の一部を8両編成化した。大阪環状線は101系または103系の6両編成が25本配置されており、ラッシュ時2分40秒間隔運転を行っていたが、8両編成化にあたりラッシュ時の時隔を3分に戻し、捻出される6両編成4本24両を既存の6両編成に組み入れる編成替えを行い、6両編成12本を8両編成12本に組成しなおした[103]。しかし、101系は8両化に際して4M4T編成が組めず6M2T編成になることから、編成替えにあたってサハ101とサハ100が余ったため、そのサハを103系6両編成に組み込み103系も8両編成にするため若干の小改造をおこなったものである。森ノ宮電車区所属のサハ100-55・58・サハ101-55・58の計4両に、ジャンパ連結器をKE57形2基からKE70形1基へ交換、貫通幌を交換する小改造を吹田工場で施工した。この4両は独自工事で、番号変更は行われず1979年(昭和54年)までに全車復元され片町線の101系編成の5 → 6連化用に転用された。

サハ103形750番台[編集]

1964年(昭和39年)度から赤字経営となった国鉄は、車両増備においても無駄をなくすことが求められていた。モーターの付いていない101系は簡単な改造で103系と連結できることからサハ101形を103系化改造したものがサハ103形750番台である。下記の30両が国鉄時代に改造されているが改造にあたっては103系として継続して使うことから経年の浅い101系の車両を選んでいる。サハ100形も同様工事を施工して700番台とする計画も存在したが実施されなかった。車体そのものにはほとんど手を加えられていないことや元々本系列が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ないが、細部ではサハ101形の車高はサハ103形よりやや低く、台車もDT21T形もしくはTR64形という若干の差異がある。

改造時期・種車形態・改造内容により以下の5種に細分できる。

  1. サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767
    • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置を施工。
  2. サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770
    • 改造時にAU75形で冷房化されていたサハ101形が種車のグループ。側面行先表示器は未設置。
  3. サハ101-282・299→サハ103-771・772
    • 2.と同形態だが、種車がサハ101形200番台のグループ。200番台はMG・CPを搭載車であったが、改造時に撤去。側面行先表示器は未設置。101系試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に搭載。
  4. サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776
    • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房・側面行先表示器ともに未設置。JR東日本継承車の775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車された。JR東日本継承車の774は豊田→中原→松戸と転属。松戸区ではエメラルドグリーンに塗装されたが、101系車体ではこれが唯一の例である。
  5. サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780
    • 改造時にAU75形で冷房化改造済のサハ101形が種車のグループ。改造時に側面行先表示器を設置。779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車をTR212形に交換。

分割民営化時にはJR東日本とJR西日本に継承。一部は延命工事が施工されたが、高車齢車が多かったことから早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本で765が廃車となったのを最後に全廃となった。

冷房化改造[編集]

103系は1973年(昭和48年)以降の製造車は基本的に冷房車となったが、それまでの非冷房車についても旅客サービス改善の目的から1975年(昭和50年)度以降冷房改造工事をおこなう事になった。冷房装置は新製冷房車と同じAU75形の集中冷房装置で、搭載にあたり車体の補強や側面行き先表示器の追加をおこなった。冷房用電源も新製冷房車と同じくモハ102形に160kVAのMGを搭載することになり、既存の20kVAのMGと交換して対応した。これらは新製冷房車に準じたものである。また、これらとは別に1975年夏に関西地区で両端の先頭車のみ非冷房車の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように所属車両基地で施工された。その後関東地区にも同様の事例が発生したが、こちらでは両端の乗務員室内に新たに冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を工場施工で取付けた。1981年(昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、非冷房先頭車全車に冷房制御スイッチ取付が施工された。

クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造[編集]

クハ103-188
番号下の白線に注意

1983年に常磐線で車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103-93・188・627・636に対して施工された併結対応改造。

  • 乗務員室に非常用ブザーの取付ならびに非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付。
    • 188は車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)を併せて実施。
  • 施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線を追加。


川越線区間運転用改造[編集]

仙石線時代の4両編成×5本から3両編成×5本への編成組替を含む本系列化改造である。

72系アコモ改良車仙石線編成
石巻
仙台
クハ
79600
モハ
72970
モハ
72970
クハ
79600
103系3000番台川越線区間運転車編成
← 高麗川
大宮 →
クモハ102
3001 - 3005
モハ103
3001 - 3005
クハ103
3001 - 3005

本系列化改造を施工するにあたり、制御器をはじめとする一部機器は新品としたが、以下で示す機器・部品の有効活用が行われた。

  • 1985年に集中台検[注 32]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出したMT55形主電動機とDT33形台車を電動車に搭載。
  • クハ103形の台車は、101系廃車発生品のDT21T形を搭載。
  • 電動発電機 (MG) は、モハ72形970番台が装備していたものをクモハ102形に移設。

また、種車の構造を有効に活用するため、0番台車とは以下の差異がある。

  • 中間電動車のモハ72形に搭載されていたパンタグラフを活かしつつ3両編成を組成することから、0番台のクモハ103形+モハ102形の構成から本区分番台ではクモハ102形+モハ103形に変更となった。
    • 通常ユニット相手の電動車側に搭載されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニット外側に搭載。
    • 床下機器類の配置も0番台と逆位置の配置となる。
  • 主電動機冷却風は車体側面に設置された風道から採風していたが、元々は制御車であったクモハ102形では新たな風道設置は大工事なるため未施工。
    • 本区分番台では、モハ103形と共に主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ103形の風道・取入口は1両を除いて改造時に埋込れた。
    • クモハ102形搭載のMGについても同様の方式とした。
  • 川越線も仙石線同様に冬期寒冷となるため72系時代からのTK8形半自動扉[注 33]は残存。
  • 仙石線時代はタブレットが使用されていたため、タブレット衝突による運転室扉直後の戸袋部窓破損を防止する観点から保護板が設置されていたが、一部車両は保護板を撤去し埋込れた。
    • このため同時期のATC車と酷似した外観となった。
  • 仙石線時代の検査担当が郡山工場であったことから、検査時には交流区間を機関車に牽引される配給回送となっていた。そのため通常の尾灯とは別に外吊式の標識灯掛けフックが存在する。
    • 後に一部車両は撤去。
  • 冷房化改造・側面行先表示機の搭載は経費の都合で見送り。

なお、形式ごとの種車には以下の関連がある。

  • クハ79600(偶数)→クモハ102形
  • クハ79600(奇数)→クハ103形
  • モハ72970(偶数)→モハ103形
  • モハ72970(奇数)→休車

青梅・五日市線4両編成化対応改造[編集]

サハ103-3004

上記の改造に漏れたモハ72形5両は暫くの間休車となったが、1986年11月のダイヤ改正で青梅・五日市線の3両編成が4両化されることになり、電装解除されてサハ103形3000番台となった。電動車であったことから、屋根上にパンタグラフ台が残るなどの特徴のほか、機器類も流用品である。オレンジバーミリオン(朱色1号)に塗装され豊田電車区配置となり、以下の編成を組成した。

103系3000番台青梅・武蔵五日市線組込編成
立川
クモハ103
0番台
モハ102
0番台
サハ103
3000番台
クハ103
500・900番台

関西方面編成数増加関連(2000・2050番台)[編集]

1986年(昭和61年)の関西本線大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[注 34]に伴い先頭車が不足したため、余剰となっていた101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の番台区分とされた。

クハ103形2000番台
  • 非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に配属され、主に関西本線で運用。
    • クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004
クハ103形2050番台
  • 非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に配属され、主に阪和線で運用。
    • クハ101-78・83→クハ103-2051・2052

前述のサハ103形750番台同様、車体にはほとんど手が加えられていないが、101系と本系列では前面の窓形状が異なっているため、サハ103形750番台より差異が目立っている。全車とも冷房装置・側面行先表示器の搭載は未施工のままであった。

分割民営化時には全車JR西日本に継承された。1991年(平成3年)に2052が阪和線のATS-P形化に際し対応工事を施工されないまま京阪神緩行線に転用されたものの[注 35]、経年や事故で早期に廃車対象となり1992年(平成4年)までに全車廃車・解体され区分消滅した。

105系への改造[編集]

JR東日本の改造工事[編集]

本系列は、大量輸送に特化した国鉄の標準型通勤形電車という形態から、20年以上に渡り製造が継続された。そのため性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年(昭和58年)3月の中央線快速が201系への、1986年(昭和61年)4月の常磐緩行線が203系への置換え完了を除外すると進行せず、分割民営化時には現役車両はすべて承継された。しかし、その後はJR各社で新型車の開発・投入による置換えにより急速に廃車が進行した。だが、その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造施工例も多く、様々な新区分番台も発生した。

クモハ103形ATS-P搭載車(左)

同社では、東中野駅列車追突事故以降にATS-P形化を促進させた。単に機器搭載のみならず、ME40形ブレーキ弁搭載車の大半はME48形への交換が行われた。ただし、クモハ103形は、車上機器の搭載スペースが不足したことから、苦肉の策で運行番号表示窓を潰して搭載。運行表示器は前面ガラスに設置した。

また、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工された。

  • 南武線・鶴見線用(全車)京浜東北線・常磐快速線用(一部)…外幌取付とそれに伴う妻窓閉鎖。
  • 京葉線用…先頭車にスカート(排障器)を取付。
  • 常磐快速線用…運行番号表示器をLED式に変更。

しかし、1990年代からは205系・209系E231系などの量産とこれらへの置換えにより廃車が進行した。首都圏では2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱。同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転、その翌日の車両展示会を最後に営業運転が終了し、仙石線では最後まで残っていたRT-235編成が2009年(平成21年)10月21日に営業運転を終了した。

これにより、同社の本系列は消滅。なお、以下で同社が施工した大掛かりな改造工事について解説を行う。

AU712形による冷房化[編集]

FTUR-300-102形搭載車
冷房電源MG供給形AU712搭載車

国鉄時代から引き続き非冷房車に対して冷房改造工事をおこなっていたが、従来からのAU75系冷房装置での改造は構体の補強なども踏まえ、1両あたり2000万円から3000万円の費用と2ヶ月から3ヶ月の改造時間を要すことに問題点があった。そこでJR九州が1987年(昭和62年)度から18000kcal/h×2の床置きタイプのAU2Xを開発し費用・工期ともに三分の一で改造できるようになり、早期の冷房化率100%を達成した。しかし、乗客の多い通勤形電車の場合の必要な冷房能力を計算したところ240%乗車時に30%の人が快適と感じるには42000kcal/hの能力が必要である[104]。これらを考慮してJR東日本では同年9月、サハ103-128の屋根上両車端部に1基ずつ取り付ける分散冷房装置日立FTUR-300-102形を試作した。1988年(昭和63年)度から同様な屋根上配置のAU712形冷房装置(冷房能力21000kcal/h×2)を開発して非冷房車の冷房改造を進めていく。当初は冷房用電源はモハ102形に搭載されるMGによったが同年下期からは屋根上にSC24形補助電源装置 (SIV) を取り付け、他車からの電源供給が無くても冷房が使えるようにした。その結果、冷房用の引き通し線を車体に設けておらずAU75系搭載車と混結した場合に、AU712冷房改造車をまたいでの冷房電源の供給が出来ず、一部編成でAU75冷房装置があるが冷房が効かない編成も存在した。2005年(平成17年)にモハ103-185+モハ102-340の廃車により営業車両から退いた。

クハ103形への自動分併装置(電気連結器)の取付[編集]

クハ103-574
自動分併装置取付車

1989年から分割併合運用の多い以下のクハ103形に自動分併装置取付工事取付が施工された。

  • 京葉電車区…基本編成蘇我方・付属編成東京方
  • 豊田電車区…青梅・五日市線用4両編成
  • 松戸電車区…基本編成取手方・付属編成上野方
    • 松戸区基本編成の一部には、取手方先頭車にクモハ103形が組込まれていたが、クモハ103形への施工は工事内容が煩雑となることから、他車両基地からの転入車も活用しクハ103形に統一した上で施工。

車両更新工事[編集]

本系列には国鉄時代から特別保全工事が施工されていたが、同社では、1988年(昭和63年)から一層徹底した施工内容による延命工事に切り替えられた。施工対象は、1967年 - 1972年製造車(のちに1972年以降製造車に対しても施工)で、一部車両は上述のAU712形による冷房化も同時に施工された。

  • 工事内容
    • 屋根鋼板補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
    • 雨樋取替
    • 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺)
    • 側窓枠取替
    • 外板塗装更新
    • 空気配管取替および除湿装置取付
    • 主回路配線引替
    • ジャンパ連結器の取替および片栓車の両栓化
    • 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
    • 室内化粧板とカーテン取替
    • シートモケット取替(フットライン入り)
    • 握り棒・荷物棚のステンレス化
    • 吊手の取替
    • 各ゴム類の黒ゴム化(戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム)
    • 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式 : 一部車両はドア自体を金属押え方式のものに交換)

本工事は複数の工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、仕様に差異が見られる。*大井工場施工車の一部は袖仕切設置が施工。

1992年(平成4年)に低コストで量産可能な901系(現209系)が登場するとJR東日本は方針を転換。以後は更新工事を中止し、新造車による老朽車の置換えに移行した。

訓練車[編集]

モヤ102-3

1991年に同社では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を訓練用に整備することになった。予備車の削減で一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である。

本系列の訓練車編成は非冷房車3両3編成が整備され、豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため営業用車両から事業用車両に変更となり、新形式のモヤ102形となった(モハ102-138・140→モヤ102-1・)。

1991年整備訓練車編成
豊田電車区 クモハ103-44 モヤ102-1 クハ103-522
浦和電車区 クモハ103-45 モヤ102-2 クハ103-540
松戸電車区 クモハ103-64 モハ102-168 クハ103-54

その後、改造種車が非冷房だったこと、ATC・ATS-S形・P形が未搭載で本線運転に制約があったことから、1995年に冷房車の4両3編成と交代となった。豊田・浦和配置編成は、前回と同様にモハ102形をモヤ102形に改造(モハ102-508・519→モヤ102-3・4)

1991年整備訓練車編成
豊田電車区 クハ103-341 モハ103-363 モヤ102-4 クハ103-342
浦和電車区 クハ103-399 モハ103-352 モヤ102-3 クハ103-400
松戸電車区 クハ103-335 モハ103-274 モハ102-429 クハ103-336
  • 浦和配置車は、同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、旧仕様の本系列では訓練に対して実用性が低くなることもあり、2000年に廃車。
  • 豊田配置車は、201系四季彩編成が訓練車を兼ねることから、2001年に廃車。
  • 松戸配置車は、MM'ユニットが同区我孫子派出の車輪転削装置改修に伴う予備車確保のために白帯や「訓練車」の文字を消して営業車に復帰した経歴を持つ。同区の本系列が営業離脱した2006年に廃車。

これにより本系列の訓練車編成は消滅。

910番台転用関連[編集]

CS30形超多段バーニア式制御器搭載試作車の同ユニットは一般車とは混結運用ができないことから、山手線から転用する際には以下の2グループにわかれた。

  1. 別ユニットのモハ103形と新ユニットを組成
    • モハ102-911+(モハ103-62)
    • モハ102-913+(モハ103-107)
      • ユニット組成時にモハ102形2両はAU75形冷房改造車、モハ103形は非冷房車。後にモハ103形2両はAU712形で冷房化。
  2. サハ103形化改造
    • CS30形制御器搭載のモハ103-911 - 913・モハ102-912・上述のユニット解除されたモハ102形2両の計6両は以下の改造を施工されサハ103形800番台となり、松戸電車区配置で常磐快速線に投入された。
      • 電装関係機器の撤去
      • モハ103形はパンタグラフの撤去とベンチレータの設置
      • 台車をTR201形へ交換
        • モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→サハ103-801 - 806
      • 全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載。国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年(平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年(平成15年)に廃車。

1200番台塗色変更・10両編成化関連[編集]

301系(左)と103系1200番台(右)の併結
2002年8月28日 西船橋

1989年に中央・総武緩行線に205系がステンレス地に黄帯[注 36]で登場し、東西線直通電車と間違える乗客に誤乗防止の観点から本系列ならびに301系の帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルー(青22号)に変更[注 37]した。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更された。1987年4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし[注 38]、白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという小変化はあったが、廃車時まで大きな変化はない。

ラインカラー変更とほぼ同時期ながらも冷房改造が若干早期に行われたため、冷房改造された黄帯車編成も存在した。同時にクモハ102形を除く全形式に側面行先表示器を搭載し、前面方向幕も連動電動化[注 39]

1991年12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた本系列5本(35両)と301系2本(14両)はすべて10両編成に組み替えられることとなった。運用に対して余裕が生じていたために12両が常磐快速・成田線用として松戸電車区に転出[注 40]した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(のちのK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。

残存車は、7両編成時代の旧K12・K13編成を中心に以下の車両を組み合わせ10両の新K6・K7編成を組成した。

  • モハ103・102-1202[注 41] : 松戸転出の旧K9編成から捻出
  • モハ103-1207+モハ102-1205 : 残存の旧K11編成から捻出
  • サハ103-429・430[注 42] : 浦和電車区から転入

モハ103-1207+モハ102-1205を抜き取られた旧K11編成は、そのまま5両編成で新K9編成となり[注 43]、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成した。*のちに301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。

編成表(10両統一後)
 
号車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
編成番号 K6 クハ103
-1204
モハ103
-1211
モハ102
-1208
モハ103
-1210
モハ102
-1207
サハ
103-430
モハ103
-1214
モハ102
-1210
モハ103
-1212
クモハ102
-1204
K7 クハ103
-1205
モハ103
-1202
モハ102
-1202
モハ103
-1207
モハ102
-1205
サハ103
-429
モハ103
-1213
モハ102
-1209
モハ103
-1215
クモハ102
-1205
K9 クハ103
-1203
モハ103
-1208
モハ102
-1206
モハ103
-1209
クモハ102
-1203
 

前面強化工事[編集]

成田線大菅踏切事故運転士殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事が1995年3月末までに施工された。113系などでは車両基地で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、本系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取付る工事を施工した。1974年以降に製造された高運転台車は製造当初から前面が強化されているため改造対象外であった。1993年12月までの大宮工場にて施工車は尾灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに譲渡された初期先頭車は全車がこの形態。

各線からの撤退[編集]

201系・205系・209系・E231系などの投入・転用により下記のとおり撤退した。時期は定期運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。

  • 山手線 1988年6月
  • 横浜線 1989年2月
  • 埼京線・川越線(大宮 - 川越間) 1990年12月
  • 京浜東北線・根岸線 1998年3月
  • 中央・総武緩行線 2001年3月
  • 青梅線・五日市線 2002年4月
  • 中央緩行線・営団東西線 2003年6月
  • 仙石線 2009年10月(2004年7月 - 2007年3月は運用されず)
  • 南武線 2004年12月
  • 八高線・川越線(八王子 - 川越間) 2005年10月
  • 京葉線 2005年11月
  • 武蔵野線 2005年12月
  • 鶴見線 2005年12月
  • 常磐快速線・成田線(我孫子 - 成田間) 2006年3月

JR東海の改造工事[編集]

70両を承継したが、1965年から翌1966年にかけて製造された初期車両のみであったことから、一部の冷房車を含む20両を更新工事など一切行わずに廃車し、残った50両には以下の改良工事を施工した。

塗色変更[編集]

承継車はすべてスカイブルーであったが、後述のリフレッシュ工事施工車両は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗り替えられた。新塗色の登場は1989年。当初は前面にJRマークがなく、帯に切れ目がなかった。

C-AU711A形による冷房化[編集]

モハ102-97
C-AU711A形冷房改造
床下SIV搭載
リフレッシュ工事施工
(側窓の変化に注意)

JR東日本のAU712形と同様に工期短縮と経費削減の観点から、C-AU711A形集約分散式2基搭載による改造工事が施工された。モハ102形には冷房電用SIVを搭載。青22号の塗色のままC-AU711A形を搭載した車両も存在していた。

リフレッシュ工事[編集]

室内のアコモ関係に他の車両との格差が目立つようになったことから、特別保全工事に211系5000番台の水準をベースとした室内のリフレッシュ工事を併施した。内容を以下に示す。

  • 側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化
  • 側扉・妻扉取替
  • 握り棒・荷物棚のステンレス化
  • 座席袖仕切取付
  • バケットシート化
  • 塗色変更

これらのメニューは、全車同様ではなく車両により異なったことから、側扉・側窓・冷房などに差異が発生した。施工後は、朝夕を中心に中央西線(名古屋 - 瑞浪間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時輸送に投入されたほか、関西本線でも3両編成が単独で運用された。老朽化とともに高速化された新形式が増えるにつれてダイヤ上のネックとなり、313系の導入に伴い1999年(平成11年)に定期運用から離脱、2001年(平成13年)までに全車廃車となった。

JR西日本の改造工事[編集]

承継車両の多くが初期から中期型車であったことから、積極的に延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。

羽衣線関連[編集]

羽衣線用2500番台
画像の編成は唯一体質改善車が含まれる

羽衣線には1987年クモニ143形荷物電車改造のクモハ123-5・6が投入されたが、同時にラッシュ時3両運転用増結車として日根野電車区のクハ103-194が投入され、1995年阪神・淡路大震災後の応援車両として貸し出されるまでの間専属で運用された。

1989年秋からはワンマン運転を行うことになり、クハ103-194・クモハ123形2両および予備車として本系列3両にワンマン運転対応改造が施工された。なお、クハ103-194は1991年にWAU102形による冷房化改造と延命N工事が施工された。

阪神大震災の後、クハ103-194はJR神戸線の応援編成に転用され、代替として大阪環状線で使用されていたサハ103-758に朱色のままワンマン運転対応改造を施工し、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運用された。

阪神大震災後の応援運用を終えた上述3両は、クハ103-194が事故廃車となったクハ103-839の補充として福知山線に転出し、あわせて塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示機が手動であるなど異端な存在であったことから、後述の3500番台へ運転台部品供出のため1997年に廃車された。

クモハ123形2両はクモハ84形置き換えのため岡山電車区に転出し、新たにワンマン運転対応改造を施工したクモハ103-23+モハ102-105+クハ103-26が追加投入された。

2007年には2編成6両にワンマン運転対応改造が施工される一方、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。1編成は、通常は一般のサハ103形を挟んだ4両編成にて阪和線で運用されている。

WAU102形による冷房化[編集]

WAU102形搭載車

JR西日本の冷房改造は、当初は国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、1988年より改造コスト削減と早期の改造進展のため、車体にかかる重量が分散されダクト設置も不要のWAU102形分散式を1両あたり3基搭載する方法に改められた。

冷房電源は通常のモハ102形へのMG増強ではなく、1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用静止形インバータ (SIV) 搭載で対応している。WAU102形は製造会社による形状の違いも認められており、東芝製と三菱電機製では外部ルーパー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。

WAU102形搭載車は同車エリアに広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、特に関西地区では優先的に廃車が進められた。2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣線予備編成4連1本の廃車をもって近畿圏からは消滅し、廃車発生品のWAU102形や電源用SIVは105系の体質改善工事の際に一部が再利用された。

2013年3月現在で残存しているのは以下の編成のみである。

広島運転所WAU102形冷房装置搭載車編成
クモハ103-48 モハ102-145 クハ103-86
クモハ103-2501 モハ102-403 クハ103-171
クモハ103-2502 モハ102-404 クハ103-170

関西本線関連(2500・2550番台)[編集]

クハ103-2551

国鉄時代に関西本線(大和路線)では、列車増発を編成短縮と編成数増加させることからクハ101・100形改造のクハ103形2000・2050番台で対応した。この方針は民営化後も引き続き行われたが、不足する先頭車は余剰中間車の改造で対応することになり1988年に以下の2形式7両が改造された。

クハ103形2500番台
モハ102形が種車で前位側に運転台を設置。方向転換し偶数向き専用。
  • モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504
クハ103形2550番台
モハ103形が種車で奇数向き専用。
  • モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553

両区分共通の改造内容は次に示す。

  • 電装解除と2550番台ではのパンタグラフの撤去。
    • ランボードや一部車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置。
    • 2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設。
  • 台車は種車のDT33形を小改造したWDT33T形を継続使用。
  • 新設運転台は同社の方針から1974年以降製造の高運転台型ではなく、1次改良型の低運転台・シールドビームタイプ。

2500番台が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194のを補充する必要からである。

改造時は全車非冷房であったが、のちに全車ともWAU102形による冷房化を施工。しかし種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は播但線用3500番台へ運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態のよい余剰車に置換えられて2006年3月1日に全廃された。

片町線 一部電化関連(5000・2500番台)[編集]

1989年3月11日に片町線(学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された松井山手以西は7両編成での運転は可能であるが、以東の各駅はホーム長が短く入線不可であった。そのため松井山手駅で京橋寄りの4両を切離し、木津寄りの3両のみが入線するという運用で対応することになった。さらに翌1990年には木津駅乗入れ編成を4両編成とする組成変更が行われた。

← 京橋
木津 →
1989年3月11日 - 1990年
クハ103 モハ103 モハ102 サハ102 クモハ103 モハ102 クハ103
松井山手分離編成   木津直通編成
1990年 -
クハ103 モハ103 モハ102 クモハ103 モハ102 サハ103または102 クハ103
松井山手分離編成   木津直通編成
  • +は電気連結器使用。
  • この書体は以下で解説する連結・解放用装備搭載改造が施工され5000番台に区分された車両である。
クモハ103形5000番台
  • クモハ103-48・モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001 - 5016
分割・併合の迅速化のため、電気連結器と電気空気開閉器を搭載した区分。5001はクモハ103形が種車。他の15両はモハ103形に運転台を設置して対応し、新番号は5004をのぞいて古い順に振り直された。新設運転台は、上述のクハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプだが、5001を含め奥行きがやや広く運転台直後の戸袋窓が改造時からない。種車が多岐に渡るため、前面以外の形態は各車ごとに異なっている。非冷房車を種車とする5001-5003は改造時に冷房化(WAU102形)された。
サハ102形5000番台
  • サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013
クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から改造された。電気連結器などの装備の際、既存の床下機器と干渉するため方向転換されため通常のサハ103形と前後逆配置となり取扱が異なることから、別形式とされた。運用上、松井山手駅に残されるため標識灯掛が設置され、運用範囲が狭いことから改造両数もクモハ103形5000番台より3両少ない13両(4両編成そのものが3本少ない)。5001を除いて新番号は古い順に振り直され、車両ごと形態に差異がある。編成構成の変更により1年足らずで改造の意義が失われ、装備撤去と車番を-5000としたサハ102形0番台となった。方向転換は行われず、側面方向幕の設置位置[注 44]など、サハ103形との外観差異はその後も残った。
モハ102形5000番台
  • モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041→モハ102-5001 - 5013
編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手としてモハ102形0番台から改造された。改造内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はなされていない。
サハ103形2500番台
  • モハ103-232 → サハ103-2501
編成組成の変更に伴いモハ103形0番台から改造された付随車でクハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態である。当初4両編成に組成されていたサハ102形を木津直通編成に転用されたが、編成本数に対して3両少なく車両不足が生じた。2両は一般のサハ103形が転用されたが、残りの1両はユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造され余剰となったモハ103-232を種車として改造した。同時にWAU102形による冷房改造および延命N工事を施工された。

片町線運用からの転用[編集]

クモハ103-2507 ※2011年3月廃車

本区分番台は、1993年 - 1995年に207系の新製投入により、順次関連装備を撤去の上で他線に転用された。

クモハ103形
5001は原番復帰、5002以降は車番を-2501の2500番台に区分された。1997年 - 1998年にかけて9両が播但線用3500番台に改造され、2011年10月現在では以下の車両が残存する。
  • 広島運転所 : 48・2501・2502(48はユニットを組むモハ102-145とともに延命N40施工)
  • 日根野電車区 : 2503・2504・2505(2504はユニットを組むモハ102-451とともに体質改善40N施工、2503・2504は羽衣線用ワンマン運転対応工事施工)

なお、広島運転所の48は2011年現在、新製時からクモハ103であった車両で唯一の現存車両である。

サハ102形
1・9 - 13は延命N40が施工されたが、2008年に最後の1両であった9が廃車されて形式消滅。
モハ102形
他線転用時などに電気連結器を撤去した車両もあったが、電気空気開閉器を撤去した段階で元番号への復帰を実施。廃車となった車両がある一方で体質改善工事施工車もあるが、標識灯掛が残存しているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なる。
サハ103形
他線区に転用されることなく廃車となった。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換[編集]

ATS-P形搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工された。電源投入方式がJR東日本と異なるため非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。その後117系などに採用されたME49系への交換が開始された。

座席モケット交換[編集]

イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換したが、その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。優先座席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されている。福知山線脱線事故によりJR東日本から転入した8両のうち、広島運転所に投入されたクハ103形2両は2010年の廃車までJR東日本仕様のままであった。

腐食対策[編集]

延命の一環として、腐食の原因を取り除く、各種の改造がなされた。

窓閉塞
雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、1990年より戸袋窓の、1997年からは妻面窓の閉鎖工事を施工した。2007年7月現在で戸袋窓残存車は日根野電車区・岡山電車区・広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から1枚固定ガラスへの交換車も存在している。
扉交換
腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換している。新扉は車両によって窓の支持方法が異なるほか、貫通扉はオリジナルより窓下方が長いものであり、現存するほぼ全車が施工済みである。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られ金属地むき出しが多数である。
前面金属板設置
窓支持用Hゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う施策である。

スカート設置[編集]

201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的でスカート(排障器)が設置され、全先頭車に施工された。

延命工事[編集]

国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものをのぞくと、内容によって以下の4種に分かれる。

延命N
製造から30年の使用を目指し外板整備・機器の一部更新・配管の交換および内壁の張替。1972年までの製造車大半が該当。
延命NA
国鉄時代の特別保全工事施工車に内壁の張替など前述の延命N工事と同様の工事を施工。施工済部分は省略。
延命NB
1970年以前製造の初期車が対象で延命N工事と同時にWAU102形搭載冷房改造・側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換を施工。施工車両は11両にとどまり、2006年4月までに全車運用終了により廃車。
延命N40
製造から40年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換・内壁の張替・窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など上述3種よりも徹底した内容の工事。主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも施工。この工事で採用された黒色サッシは取付部枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少。

体質改善工事[編集]

1996年以降、後継の207系との落差改善ならびに延命N40工事以上の徹底した延命を目的としたリニューアル工事が施工された。工事施工車の車番標記は、国鉄時代の丸ゴシック体→JR西日本独特の書体(モリサワ新ゴ)に変更。ただし、森ノ宮所属の制御車前面車番表記は国鉄書体。

体質改善40N[編集]

老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため以下の工事を施工。

  • 張上屋根化
  • 屋根上通風器の撤去
  • 一部外板のステンレス化
  • 側面ルーバーの形状変更
  • 方向幕の形状変更
  • 運転台の整備
  • 運転台・ドア窓支持の変更
  • 運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化
  • ドア間窓を下段固定・上段上昇の3分割バス風逆T字サッシに交換
  • 車端部窓を固定1枚窓サッシに交換
  • 内壁・床の張替
  • 座席クッションの更新
  • 荷棚のパイプ化
  • 照明へのカバー取付
  • 扇風機→ラインデリアへの交換
  • 冷房風道のラインフロー化
  • 車内スピーカーの更新・増設


本工事の施工1号となった森ノ宮電車区所属(当時)8両編成1本は試作車ともいえる存在で、以下の相違点がある。

  • ドアエンジンがTK4形からドア上部設置の直動式に交換
  • 座席全交換(207系と同一の下部が空洞の片持ち式)
  • 前灯は原形維持
  • 妻窓残存(のちに埋込み)
  • 下枠交差式パンタグラフの取り付け(のちに交換)

後にこの編成は中間のサハを除き日根野電車区へ転属したが、2013年3月に廃車となった。これらの工事内容は次第に冷房風道のラインフロー化→従来風道の再用やラインデリア→扇風機などの簡略化が進み、2002年からは後述の30N工事に移行した。

体質改善30N[編集]

2002年以降新車投入ペースが速まり本系列の車齢も高まってきたことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小された。特に直接保守面・接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋などが原形のままとされた。1973年以降に製造された車両のうち、延命工事を含む上述5種類の更新未施工のクハ103形とMM'ユニットが対象と施工対象とされた。2005年までに2両(モハ103-405+モハ102-561)[注 45]をのぞく全車に施工され終了した。

現状[いつ?][編集]

JR東日本の場合と異なり、かつてはしばらく本系列を使用する方針により、編成替えにより延命工事施工車や後期製造車で状態不良車を置き換えるという、本系列同士の置換えなどで対応してきた。しかし、延命期間を経過したことや方針の変更などで、2010年頃から廃車の進行が急速になってきている。その後、短編成化や新型車両(225系5000番台)投入に伴う運用見直しなどで、サハ(体質改善40N施工車も含む)・WAU102形冷房搭載車の多くが廃車となったほか、ユニット窓車(延命N40施工車も含む)にも廃車が発生しており、片町線(学研都市線)・東海道・山陽本線(JR京都・神戸線)福知山線(JR宝塚線)では、JR東西線への入線対応や高速化のために、207系に置換えられてすでに運用されていない。

2006年 - 2007年には、JR京都・神戸・宝塚線系統に321系が投入され、201系が大阪環状線や関西本線(大和路線)などに、205系が阪和線に転用された[注 46]関係で、大規模な本系列の転属と廃車が行われた。また、山陽本線等の岡山地区電化区間では、置換えと転入を繰り返した後に、2010年3月のダイヤ改正で再び定期運用から離脱している。そして、2011年3月のダイヤ改正では225系5000番台投入により、日根野電車区では直接代替廃車となったほか、運用見直しによる森ノ宮電車区からの転入車により置き換えられ、両区とも配置車両が大幅に減少している。

JR九州の改造工事[編集]

編成分割[編集]

筑肥線筑前前原を境に断面輸送量が大きく異なることから、以西運用の短編成化を行うことになり、1989年に小倉工場で6両編成9本のうち4本に対して3両編成8本に分割する改造が施工された。

1500番台編成
タイプ
編成番号
6両 クハ103 モハ103 モハ102 モハ103 モハ102 クハ103 E01+E02, E03+E04
E05+E06, E07+E08
E09+E10
3両A クハ103 モハ103 クモハ102[* 1]   E11, E13, E15, E17
3両B   クモハ103[* 1] モハ102 クハ103 E12, E14, E16, E18
  1. ^ a b 6両→3両編成で運転台設置改造施工車
  • 編成番号+1500で各形式の車両番号となる

改造内容の概略は、6両編成組成時の3両目となるモハ102形と4両目となるモハ103形にクハ103形1500番台相等の運転台を取付、それぞれクモハ102形クモハ103形としたものである。そのため改造該当編成は2種類のパターンとなった。以下で改造の詳細・特徴について解説をする。

  • 形式変更のみで車両番号はモハ時代のものを踏襲。
  • クハ103形の前面貫通路が地下鉄区間での非常脱出用であるのに対し、クモハ2形式の貫通路は併結時に通路となるため幌枠・貫通幌を装備する。
  • 分割併結時の省力化ならびに時間短縮化の観点から電気連結器を装備する。
  • 福岡市地下鉄空港線用ATOは未搭載。
    • 乗入れ運用は6両編成に限定されることから、筑前前原以東でクモハ2形式を中間に封じ込む形態を採る。

スカート設置[編集]

踏切事故対策として国鉄時代から先頭車にスカートを取付を施工開始し、JR化後に全車取付を完了した。

ワンマン改造[編集]

ワンマン用ドアスイッチ及びモニターが追加されている

2000年3月11日ダイヤ改正から西唐津 - 筑前前原間で車内で運賃を収受しないワンマン運転を開始した[105]。ワンマン運転に対応するための改造工事を1999年末から2000年3月にかけて小倉工場で実施した[106]。施工内容は車外スピーカーの追設・ドア開閉時に駅ホーム設置のカメラ映像を確認可能な安全確認用液晶モニターを設置している。

トイレ設置[編集]

2002年度下期より本系列としては初となるトイレの設置が行われ、全編成の唐津向き先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレが設置された。これに際し、トイレ設置部分の側窓・妻窓が埋め込まれ、車椅子スペースとしたトイレ向い側の側窓を1/4程度に縮小された。この改造によりJR九州の電車編成でのトイレ設置率は100%を達成している。

現状[いつ?][編集]

福岡市地下鉄空港線内(姪浜駅を含む、以下同様)には2004年までにホームドアが設置されており、その動作には本来自動列車運転装置 (ATO) や電気指令式ブレーキによる定位置停止装置 (TASC) が必要とされる。しかし本番台区分にはこれらの機器は搭載されておらず、地下鉄区間に乗り入れる際は必ず車掌が乗務し、停止位置は運転士が目視で調整、ホームドアは車掌がホーム設備のスイッチで操作している。

本来の製造目的であった地下鉄区間への乗り入れは、VVVFインバータ制御でATOを搭載する303系の導入・増備時に車両運用を見直したことから、現在は1日18往復と減少している。

筑肥線筑前前原駅以西での3両編成でのワンマン運転(駅収受方式)は本番台区分のみが対応している。

本来E01 - E10編成を連結し6両編成で使用される運用において、検査などで編成の一方が運用を離脱しているときには、両方のまたは一方の編成をE11 - E18編成で補った状態で使用されることがある。後者の場合は幌枠のある先頭車が中間車と連結され、貫通幌は通常どおりに使用可能である。

なお、2015年度より筑肥線・福岡市地下鉄直通運転に新車両を6編成36両導入することがJR九州より発表された[ネット注 3]

その他の改造[編集]

AU720形冷房装置搭載
松戸電車区所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのAU720形に交換した。効果の程は不明だが、結局一般車と区別なく廃車された。JR西日本でも日根野・森ノ宮両電車区所属車に同様の工事を施工した車両が存在する(WAU709形)。

試験[編集]

103系をベースにしていくつかの車両試験がおこなわれた。

チョッパ制御試験[編集]

103系が量産を開始した直後から、電機子チョッパ制御の試験などが活発化し1970年(昭和45年)に阪神7000系が日本で最初のチョッパ制御営業車として運転を始めた[107]。国鉄でも1967年(昭和42年)に101系を用いたチョッパ試験テストをおこなったほか、103系を母体にして1969年(昭和44年)11月23日から12月1日までモハ103-59に取り付けて根岸線で試験をおこなったほか、1974年(昭和49年)7月にもモハ103-57に取り付けて根岸線で試験をおこなっている[108]

VVVF試験[編集]

JR東日本では1990年(平成2年)度から既存の抵抗制御車に対してのVVVF制御改造について研究を進めていたが1992年(平成4年)2月にJR東日本のクモハ103-87を東芝府中工場でVVVFインバータ装置と901系のモーター等の搭載改造をおこないJR大船工場で現車試験を行った[109]。JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。

DDM試験[編集]

JR東日本が開発中だったダイレクトドライブ・モーターをモハ103-502に搭載し、試験を行った。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子によるVVVFインバータ化も同時施工されE993系との比較実験もされたが、実験の終了にともない廃車された。同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。

車両塗装[編集]

BYR color wheel.svg この節ではを扱っています。
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101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である[110]。また、JR設定色は塗料も含めすべて公式な呼称が存在しないため最も一般的と思われる呼称で紹介している。

なお、一部に車両の転属などで各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。

現在の運用線区〔 〕は所属 過去の運用線区〔 〕は所属
ウグイス
黄緑6号 7.5GY6.5/7.8)
JNR EC T103-318.jpg
スカイブルー
青22号 3.2B5/8)
JNR EC M103-140.jpg
エメラルドグリーン
青緑1号 2BG5/8)
JNR EC M102-430.jpg
オレンジバーミリオン
朱色1号 0.5YR3/8.8)
JNR EC T102-2.jpg
カナリアイエロー
黄5号 2.5Y7.5/8.8)
JRE-EC103.jpg
  • 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。

地下鉄対応車両[編集]

過去の運用線区〔 〕は所属
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8)
JNR EC Tc103-1013.jpg
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8)
JNR EC Mc102-1202.jpg
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
  • 中央・総武緩行線 ・営団地下鉄東西線〔三鷹電車区〕
    • 直通運転開始当初の帯色はカナリアイエローだったが、205系の登場による誤乗防止のため1989年(平成元年)より帯色をスカイブルーに変更した(直通する東西線のラインカラーに合わせた)。
JNR EC Mc102-1203.jpg
スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
+クリーム色(クリーム1号 1.5Y7.8/3.3)
JNR EC Tc103-1508.jpg
  • 以上4種類は車体地色+帯色の組み合わせ塗装である。

JR設定色[編集]

現在の運用線区〔 〕は所属 過去の運用線区〔 〕は所属
九州色
  • 筑肥線・福岡市地下鉄空港線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
    • 1995年10月からシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)というカラーリングに変更された。また2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。
    • 写真は上が初代九州色、下が2代目九州色
 
JNR EC Tc103-1504.jpg
JNR EC Tc103-1516.jpg
仙石色□→□  
JNR EC Tc103-580.jpg
JNR EC Mc103-155.jpg
東海色  
  • 中央西線・関西本線〔最終配置 : 神領電車区〕
    • リフレッシュ工事(後述)施工車に塗られた塗装。それまでの青22号から変更された。クリーム色をベースに、窓下にオレンジと緑色(「湘南色」、または「JR東海色」ともいう)の帯が入る。床下機器もグレー一色に塗装された。
JNR EC Tc103-77.jpg
マスカット色  
  • 山陽本線(岡山地区・広島地区)
    • 薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というものだった。薄緑はマスカット岡山県の名産品の1つであることに由来している。広島地区の車両は岡山からの転属車両。瀬戸内色の車両と共通運用されていた。
JNR EC Tc103-234.jpg
瀬戸内色  
L25 Mc103-2501 750.jpg
瀬戸内地区地域統一色
  • 広島シティネットワークエリア(山陽本線・呉線)〔広島運転所
    • JR西日本が2009年度から行っている地域に合わせた統一塗装で、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージして、濃黄色の塗装が施されている。床下機器もグレー一色に塗装されている[ネット注 4]
JNR EC Mc103-48.jpg
播但色 (DIC N-727)
  • 播但線姫路 - 寺前間(網干総合車両所)
    • ワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー (DIC N-958) のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN BANTAN103 の文字が書かれている。
 
JR EC Mc103-3508.jpg
加古川色
  • 加古川線(加古川鉄道部→網干総合車両所)
    • エメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN KAKOGAWA103 の文字が書かれている。前面窓周りは黒色で塗装。
 
JR EC Mc102-3554.jpg

ラッピング・イベント塗装[編集]

桜島線(JRゆめ咲線)[編集]

森ノ宮電車区の6両編成4本が、沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のPR車両として、それぞれ違ったテーマのラッピングを施されていた。

各車両のデザイン名称とコンセプトは次の通り[ネット注 5][ネット注 6][ネット注 7]

  • パワーオブハリウッド号(運転終了[ネット注 8]
    • USJのメインアトラクションのキャラクターを用いて、華やかさやエキサイティングをイメージした車両。
  • ウッディー・ウッドペッカー号(運転終了[ネット注 9];オレンジ色に再塗装された。)
  • アメリカの街並風景号(運転終了)
    • 園内にあるロマンチックな街並風景をデザインした大人向けのシックをイメージした車両。
  • ユニバーサルグローブ号(運転終了)
    • USJのロゴマークやグローブを用いてシンプルでワールドワイドをイメージした車両。
  • セサミストリート 4−D ムービーマジック号(運転終了[ネット注 10] ;もとユニバーサルグローブ号。妻面はユニバーサルグローブ編成の名残で白1色であった。)
    • 想像力豊かに4Dの楽しさが体験できる「セサミストリート 4-D ムービーマジック」の魅力を表現した車両。
  • アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号(運転終了 ;もとアメリカの街並風景号;2012年先頭車2両は日根野電車区へ転属、中間車4両は2両ずつもとセサミストリート 4−D ムービーマジック号およびもとウッディー・ウッドペッカー号に組み込まれ、いずれもオレンジ色に再塗装された。)
    • アトラクションのスリリングなアクションシーンをダイナミックに表現した車両。

加古川線[編集]

網干総合所に所属する加古川線用の2両編成4本に横尾忠則がデザインした車両が、加古川線が電化された2004年12月19日から運用されている。2010年5月15日から車両の全般検査のため順次運用を終了し[ネット注 11]、2012年11月18日をもって運行を終了した[ネット注 12]。各編成の運転開始日・終了日・テーマは次の通り。

  • 眼のある電車「見る見る速い」( M1 編成、2004年12月19日 - 2011年5月15日)
    • 緑のある中で目立たなければならず、列車の外を眺める眼と列車を眺める人々の眼を表現するために、車体に眼がデザインされたもの。
  • 「銀河の旅」( M2 編成、2005年12月18日 - 2011年6月19日)
    • 加古川線の電化1周年を記念してデザインされた。
  • 「滝の音、電車の音」( M5 編成、2006年3月12日 - 2011年10月10日)
    • 加東市発足を記念してデザインされた。
  • 「走れ!Y字路」( M8 編成、2007年6月10日 - 2012年11月18日)
    • 西脇市の夜のY字路がモデルになっている。

現車に施された4種類のラッピング以外にさらに2種類ラッピング案が存在していたが、諸般の事情により採用されなかった[ネット注 13]

播但線[編集]

銀の馬車道号
(2009年2月15日 福崎 - 甘地間)

生野銀山朝来市)と飾磨港姫路市)を結ぶ約49kmの馬車専用道路であった生野鉱山寮馬車道、通称「銀の馬車道」をPRするためにデザインされた車両で、網干総合車両所に所属する2両編成3本にラッピングが施されている[111][ネット注 14][ネット注 15]

JR EC Mc103+Mc102-3506.jpg
JR EC Mc103+Mc102-3507.jpg
JR EC Mc103+Mc102-3509.jpg


そのほか[編集]

アニメ・ドリームトレイン1999用
イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。
関門・海峡物語

譲渡[編集]

福知山線脱線事故関連[編集]

モハ102-841
戸袋窓閉塞後車内

2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の一部廃車および既存車両の帯色変更工事・117系のATS-P形非装備による同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足するようになった。そのためJR東日本から武蔵野線で運用されていた8両編成1本を同年7月28日付で購入した。

クハ103
-828
モハ102
-842
モハ103
-686
モハ102
-841
モハ103
-685
モハ102
-840
モハ103
-684
クハ103
-821

同社に入籍後は、既存車と編成を組み替えられ以下の配置経歴を持つ。

  • クハ103-821・828 : 広島運転所(E04編成)
  • モハ103-684+モハ102-840+モハ103-685+モハ102-841 : 宮原総合運転所→日根野電車区(K801編成→K606編成)
  • モハ103-686+モハ102-842 : 森ノ宮電車区(モリ17編成)→奈良電車区(NS402編成)→日根野電車区(J404編成→J414編成)

車両不足解消後には順次戸袋窓閉塞工事が施工されたが、貫通扉は廃車まで窓の小さいものを装備し続けていた。

2010年6月21日付けでクハ103-821・828が廃車となった。また2011年3月にモハ103-686+モハ102-842が吹田工場へ、4月にはモハ103-684+モハ102-840+モハ103-685+モハ102-841も幡生工場へそれぞれ廃車回送され、全廃された。

インドネシアへの売却[編集]

2004年(平成16年)、JR東日本が保有していた下記の16両が、インドネシア鉄道会社(PT Kereta Api)に有償譲渡された。

クハ103-815 モハ103-752 モハ102-2009 クハ103-822
クモハ103-105 モハ102-231 サハ103-246 クハ103-597
クハ103-359 モハ103-654 モハ102-810 クハ103-384
クモハ103-153 モハ102-321 サハ103-210 クハ103-632

これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、すべて後期製造車もしくは車両更新工事施工車が選ばれた。その後は東急8000系8500系を導入することとしたため16両で終了となった。現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器と前面窓に投石対策として金網が設置され、元都営6000形や東京メトロ(営団)の車両とともに日本のODA・政府開発援助により整備されたジャカルタ首都圏の通勤電車で、有料の急行 (Ekspres) ・準急(Semi Ekspres/2008年に種別廃止)・Ekonomi AC(2007年新設)用として運用される。

当初、塗装は武蔵野線時代のまま使用されていたが、その後窓周りが黄色のツートンに塗られた。2008年秋頃には濃い青を基調とした新たな塗装に変更され、2011年には東海色を基調した塗装に変更された。現地でもJR 103と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。行先表示は前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器(方向幕)は使用しない。JR時代の行先表示幕や路線図がそのまま掲出されている。

北海道へ渡った103系[編集]

JR北海道では、電化区間札幌近郊の交流電化区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや車両自体にも徹底した耐寒・耐雪構造が必要なことから、国鉄時代から1両も本系列が配置されたことはなかったが、1998年(平成10年)8月に103系8両が機関車牽引で入線した[112]

保存車[編集]

クハ103-1
吹田総合車両所に保管されている[ネット注 16]
クハ103-525
東京都府中市東芝府中事業所に譲渡後、機器類を改造された状態で留置されている。車体はオレンジ一色に塗り替えられた。
クモハ103-147
個人へ譲渡された。
クハ103-713
鉄道博物館に乗務員室側約9mのカットボディが保存されている。
クモハ103-18
美濃太田車両区に保管されている。屋外留置のため腐食や褪色が見られる。2011年3月14日にオープンしたリニア・鉄道館の展示リストには入っていない。
クモハ103-110
大阪府立消防学校で訓練施設として使用されている。[注 47][注 48]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 第46条第1項第3号
  2. ^ MT55、MT46ともに弱め界磁定格のため100%界磁に換算して比較すると、電動車1ユニット当たり103系が約9500kgに対して101系は約6300kgとなり約1.5倍の差がある。
  3. ^ 101系は限流値480Aで63分、本系列は限流値415Aで62分50秒の基準運転時分である。鉄道ファン2006年4月号。
  4. ^ 弱め界磁最終段の定格速度は101系の67.5km/hに対して64.0km/hで僅かに下回るが、電動機出力との相乗値では上回る。また100km/h時のユニット当たり引張力が101系の約1300kgに対して約1900kg(111系とほぼ同じ)であることからも、103系の方が高速性能に優れることがわかる。
  5. ^ 検討時の平均駅間距離は赤羽 - 蒲田間の値で、京浜東北線全体では2km台となる。
  6. ^ ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を開発したのではなく、偶々開発終了と常磐線への投入時期が重なった。
  7. ^ 回転数は全界磁時1250rpm、35%界磁時2370rpm。最高回転数4400rpm。
  8. ^ 全界磁時33.5km/h、35%界磁時64.0km/h。
  9. ^ 1000・1200・1500番台を除く
  10. ^ ただし、1987年からの常磐快速線での15両運転開始から2000年頃までは、増結用付属5両編成の一部に2M3T(下り寄りからTcMM'TTc)の編成があり、成田線で単独運行されたこともある。
  11. ^ 通勤型電車というカテゴリーでは、それ以前の1959年(昭和34年)に名古屋鉄道5500系電車が冷房を装備して登場しているが、クロスシート車両であり登場当初優等列車に優先的に使用されていたことには注意する必要がある。
  12. ^ 番号は従来車の続番。
  13. ^ モハ102形がモハ103形より1両多く製造された理由は、1971年に発生した洋光台事故で廃車となったモハ102-105の補填として製造されたモハ102-445が含まれるため。
  14. ^ これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。
  15. ^ JR西日本に継承された車両のうち、JR化後にWAU102形で冷房改造された車両については、側面の電動方向幕の取り付けが行われていない。
  16. ^ 東海道本線基準で山側
  17. ^ クハ103形・モハ102形の車番がそれぞれ701 -・2001 -と途中から飛番号になっているが、これは過去に製造された500・900・1000番台などとの干渉を防ぐための措置であり、飛番に伴う仕様変更はない。
  18. ^ クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設搭載工事を施工し、池袋電車区へ転属。
  19. ^ そのため、両者の車両使用料に格差が生じた。
  20. ^ 無論ホームや車内の乗客にも熱風が浴びせられる。
  21. ^ 自動信号化後の1984年に転入したクモハ103-1・2・144・149・クハ103-74・81・92・503の8両は未施工。
  22. ^ クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323が該当。発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループであるが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、俗に「1次改良車」と呼称される。
  23. ^ 構内配線の変更から本来は多賀城止り列車が、東塩釜まで延長運転せざるを得ない状況になるため、編成不足が予測されることから予備編成確保を迫られた。
  24. ^ 当初は準備工事で営業運転開始時に設置完了。
  25. ^ ただし、冷房装置や側面行先表示機は未搭載。
  26. ^ 理由として、車体は新形であるが老朽化を含め下回りは旧性能電車のため検査周期が短く対費用効果の観点からも不利であったこと。埼京線開通の際に投入予定であった本系列が同じ路線を走行する場合に性能的にダイヤ編成上の障害となる恐れがあったためとされる。
  27. ^ 予備車期間中に205系3000番台の車両故障で代走運用に投入され、これが本当の最終運用となった。
  28. ^ 一部を除き高速化対応を解除。
  29. ^ 寺前方からクハ103-15+モハ103-15+モハ102-15+モハ103-16+モハ102-16+クハ103-16。元は中間に延命N40工事を受けたサハ102-10・13も組み込まれていたが、貸出時に廃車。
  30. ^ 207系3両編成(平日など需要が大きいときは2本併結される)に最大ノッチ段数を制限するストッパーを取付けて運転する。
  31. ^ 3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは2011年3月廃車となった。
  32. ^ 予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換などとしてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。
  33. ^ 停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬期の車内保温の目的で装備される。3000番台の場合はドアに取手が付いており、手動で開閉するものを装備。なお、取手には2種類の形状が存在し、ともに装備する車両も存在した。
  34. ^ 国鉄では1980年代より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(フリークエント・サービス、広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期には全国的に先頭車が不足する傾向にあった。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照。
  35. ^ 京阪神緩行線#分割民営化前後も参照。
  36. ^ 本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明ステッカーを205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。
  37. ^ 帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。
  38. ^ 灰色で塗りつぶしていた時期もある。
  39. ^ この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加。
  40. ^ 松戸転出車は、クモハ102形には電気連結器取り付けが見送られたほか、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから1993年 - 1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの1000番台は2002年以降の廃車である。
  41. ^ 三鷹区では冷房用電源を装備していたMM'ユニット6組のみで、10両編成では2組の組成が必要なことから、第3 - 5編成が残存した。転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにもかかわらず、モハ103・102-1202(三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車)が残されたのは冷房電源のためであり、この2両は松戸転出車廃車後も2003年5月まで運用され続けた。
  42. ^ 元々A-A基準、AU75形集中式冷房装置装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。
  43. ^ この編成には両方の先頭車に幌が取り付けられた。
  44. ^ 向きが反転しているため、通常は偶数向きクハを除き揃っている側面方向幕の位置が逆側になる。
  45. ^ 2011年3月30日をもって廃車
  46. ^ 2011年3月には宮原電車区に転属しJR京都・神戸線に転用された
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ネット上の出典及び注釈[編集]

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出典[編集]

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参考文献[編集]

通史[編集]

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  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集 : 103系電車
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  • 斎藤幹雄 「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 P.107 - P.112
  • 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集 : 101系 その顔の世界
  • 大熊孝夫 「103系通勤形電車 誕生までのはなし」、『鉄道ファン』、No.540 (交友社)83-105頁、2006年4月 
  • 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集 : 究極の標準形通勤電車103系
  • 特集 : 究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 P.152 - P.153
  • 来住憲司 「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.32 - P.49
  • 岡本祐次 「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.50 - P.53
  • 編集部 「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年8月号 No.478 P.52 - P.61
  • 毛呂信明『103系物語』戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車JTBパブリッシング 2012年6月発行 ISBN 9784533086991
  • 杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』(JTBパブリッシング 2013年11月発行 ISBN 9784533094231
  • 交通新聞社『103系メモリアル』 2013年11月発行 ISBN 9784330423135

参考資料[編集]

運転・設備・理論に関わるもの[編集]

  1. 福崎直治(国鉄工作局)・沢野周一(国鉄工作局)『電車と電気機関車』岩波書店、1964年4月30日
  2. 川島泰太郎(国鉄東鉄局運転部電車課)『電車運転曲線と操縦理論』交友社、1955年6月25日
  3. 竹崎確(国鉄技師長室)『運転総論』ヘッドライト社、1967年12月1日
  4. 運転設備研究会編(国鉄運転局 明本昭義ほか24名)『運転設備』日本鉄道運転協会、1973年3月25日
  5. 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道(改訂版)』電気学会、1964年5月25日(12版)
  6. 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道ハンドブック』電気学会、1962年9月20日
  7. 内田富彦(国鉄運転局列車課)『輸送計画論』交通書房、1956年8月10日
  8. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 理論編』日本鉄道図書、1964年12月25日
  9. 吉江一雄(元国鉄輸送局設備課)『電車輸送と建設』交友社、1981年5月1日(再版)
  10. 井上進(元JR東日本運輸車両部輸送課長)ほか7名『列車ダイヤと運行管理』成山堂書店、2008年11月28日
  11. 大沢健(国鉄東京鉄道管理局運転部調査課)『目で見てわかる運転取扱規程技術図典』交友社、1968年6月20日(改訂再版)
  12. 電車運転理論研究会編(関東鉄道学園運転第一科長 一杉治夫ほか2名)『電車運転理論』交友社、2006年8月30日(24版)

歴史に関わるもの[編集]

  1. 佐藤信之(亜細亜大学講師)『首都圏の国電 戦後の発展史』グランプリ出版、2005年6月20日
  2. 佐藤信之(亜細亜大学講師)『東京圏鉄道プロジェクト 都市鉄道整備の展開』電気車研究会、1995年1月10日

構造に関わるもの[編集]

  1. 菊池直助(元中央鉄道学園運転第2課長)ほか9名『直流電車』交友社、1965年3月1日(新訂改版)
  2. 松田新市『高速度電動機と駆動装置』電気車研究会、1958年6月25日
  3. 入江則公(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両の基礎理論』1984年10月1日(再版)
  4. 川添雄司(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両概論』電気車研究会、1971年12月1日
  5. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 構造編1』日本鉄道図書、1964年9月20日
  6. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか15名『電車運転工学 構造編2』日本鉄道図書、1966年7月1日
  7. 関東鉄道学園電車研究会『直流用新形電車教本』交友社、1986年3月8日(改訂増補12版)
  8. 国鉄大井工場電車修繕研究会編『電車の修繕』交友社、1969年7月15日(改訂再版)
  9. 『鉄道技術研究所80年史』日本国有鉄道鉄道技術研究所、1987年3月31日
  10. 浅野幸夫(国鉄運転局車務課課長補佐)ほか4名『車両用無接点装置の基礎と応用』交友社、1972年2月18日(4版)
  11. 久保田博(国鉄小倉工場長)『最新鉄道車両工学』交友社、1972年12月10日(改訂4版)
  12. 杉山武史(国鉄鉄道技術研究所)ほか26名『鉄道車両と設計技術』大河出版、1980年12月15日

鉄道会社の経営等全般に関わるもの[編集]

  1. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1960』日本国有鉄道、1960年
  2. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1961』日本国有鉄道、1961年
  3. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1963』日本国有鉄道、1963年
  4. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1964』日本国有鉄道、1964年
  5. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1965』日本国有鉄道、1965年
  6. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1966』日本国有鉄道、1966年
  7. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1967』日本国有鉄道、1967年
  8. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1968』日本国有鉄道、1968年
  9. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1969』日本国有鉄道、1969年
  10. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和34年版』日本国有鉄道、1959年10月
  11. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和37年版』日本国有鉄道、1962年10月14日
  12. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1963 昭和38年版』日本国有鉄道、1963年10月14日
  13. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1964 昭和39年版』日本国有鉄道、1964年10月14日
  14. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1965 昭和40年版』日本国有鉄道、1965年12月20日
  15. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1966 昭和42年版』日本国有鉄道、1966年10月14日
  16. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1967 昭和42年版』日本国有鉄道、1967年10月14日
  17. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1968 昭和43年版』日本国有鉄道、1968年10月1日
  18. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1969 昭和44年版』日本国有鉄道、1969年10月5日
  19. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1970 昭和45年版』日本国有鉄道、1970年10月1日
  20. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1971 昭和46年版』日本国有鉄道、1971年10月1日
  21. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1972 昭和47年版』日本国有鉄道、1972年10月1日
  22. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1973 昭和48年版』日本国有鉄道、1973年10月30日
  23. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1974 昭和49年版』日本国有鉄道、1974年10月1日
  24. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1975 昭和50年版』日本国有鉄道、1975年10月1日
  25. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1976 昭和51年版』日本国有鉄道、1976年10月1日
  26. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1977 昭和52年版』日本国有鉄道、1977年10月20日
  27. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1978 昭和53年版』日本国有鉄道、1978年10月30日
  28. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1979 昭和54年版』日本国有鉄道、1979年10月14日
  29. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1980 昭和55年版』日本国有鉄道、1980年10月14日
  30. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1981 昭和56年版』日本国有鉄道、1981年
  31. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1982 昭和57年版』日本国有鉄道、1982年12月1日
  32. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1983 昭和58年版』日本国有鉄道、1983年12月15日
  33. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1984 昭和59年版』日本国有鉄道、1985年1月30日
  34. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1985 昭和60年版』日本国有鉄道、1985年10月14日
  35. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1986 昭和61年版』日本国有鉄道、1986年10月14日
  36. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 30年版』交通協力会、1955年3月10日
  37. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 31年版』交通協力会、1956年3月10日
  38. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 32年版』交通協力会、1957年3月15日
  39. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1961』交通協力会、1961年3月20日
  40. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1962』交通協力会、1962年3月20日
  41. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1963』交通協力会、1963年3月20日
  42. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1964』交通協力会、1964年3月20日
  43. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1965』交通協力会、1965年3月20日
  44. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1966』交通協力会、1966年3月20日
  45. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1967』交通協力会、1967年3月20日
  46. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1968』交通協力会、1968年3月20日
  47. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1969』交通協力会、1969年3月15日
  48. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1970』交通協力会、1970年2月20日
  49. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1971』交通協力会、1971年3月1日
  50. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1972』交通協力会、1972年3月20日
  51. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1974』交通協力会、1974年3月20日
  52. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1975』交通協力会、1975年3月20日
  53. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1976』交通協力会、1976年3月10日
  54. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1977』交通協力会、1977年3月10日
  55. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1978』交通協力会、1978年3月10日
  56. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1979』交通協力会、1979年3月15日
  57. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1981』交通協力会、1981年3月15日
  58. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1982』交通協力会、1982年3月15日
  59. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1983』交通協力会、1983年3月15日
  60. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1984』交通協力会、1984年3月15日
  61. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1985』交通協力会、1985年3月15日
  62. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1988』交通協力会、1988年3月15日
  63. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1989』交通協力会、1989年3月15日
  64. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1990』交通協力会、1990年3月15日
  65. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1991』交通協力会、1991年3月15日
  66. 国土交通省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 2004』交通協力会、2004年3月25日

専門記事[編集]

  1. 岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課) 「中央線(東京 - 三鷹間)の増強計画について」『交通技術』1958年3月号、pp.2 - 6。
  2. 伊東正信(国鉄総裁室調査課) 「昭和33年度国鉄の工事計画について」『交通技術』1958年5月号、pp.6 - 8。
  3. 酒井弘(国鉄本社電気局電力課) 「通勤輸送に対処する自営電源と送電網」『交通技術』1958年6月号、pp.32 - 33。
  4. 国鉄臨時車両設計事務所 『これからの鉄道車両』1959年1月、pp.11 - 15。
  5. 大塚長一郎(京浜急行電鉄車両部長) 「補償線輪付車両用主電動機について」『電気車の科学』1959年5月号、pp.11 - 14。
  6. 塚本清治(国鉄技師長室) 「昭和34年度の技術課題について」『交通技術』1959年7月号、pp.2 - 5。
  7. 榊原三郎(国鉄運転局客貨車課補佐) 「昭和35年度電車計画の展望」『電車』1960年1月号、pp.28 - 33。
  8. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、pp.18 - 21。
  9. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車 (1)」『電気車の科学』1960年2月号、pp.12 - 15。
  10. 「通勤電車とドア」『交通技術』1960年2月号、p.27。
  11. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、pp.21 - 26。
  12. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (1)」『電車』1960年4月号、pp.12 - 20。
  13. 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (2)」『電車』1960年5月号、pp.32 - 39。
  14. 真宅正博・井上等(国鉄臨時車両設計事務所) 「国鉄試作電力回生ブレーキ電車」『電気鉄道』1960年9月号、pp.25 - 29。
  15. 真家昇(東鉄局電力課) 「中央線電車線路整備工事について」『電気鉄道』1960年10月号、pp.14 - 16。
  16. 井ノ口章太郎(国鉄本社電気局電力課) 「国鉄関東地区の電気需要と供給力」『交通技術』1961年3月号、pp.2 - 5。
  17. 小沼清志(国鉄技師長室) 「昭和36年度の国鉄技術課題」『運転協会誌』1961年6月号、pp.26 - 27。
  18. 大城康世・川添雄司(国鉄外務部・元国鉄関東支社大井工場) 「こんごの通勤電車」『JREA』1961年6月号、pp.14 - 17。
  19. 太田清水(国鉄鉄道技術研究所電気材料調査研究室) 「H種絶縁」『電気鉄道』1961年9月号、pp.23 - 24。
  20. 太田益次(大阪鉄道管理局電気部変電課) 「大阪環状線の時間短縮に伴う運転用電力について」『電気鉄道』1962年6月号、pp.6 - 8。
  21. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「今後の電車用主電動機」『電車』1962年7月号、pp.36 - 43。
  22. 萩原仁太郎(仙台鉄道管理局福島電力区・元千葉鉄道管理局電力課) 「トロリー線の集電摩耗とその対策について」『電気鉄道』1962年9月号、pp.9 - 12。
  23. 久保田博(国鉄工作局車両課補佐) 「103系通勤電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、pp.27 - 34。
  24. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、pp.35 - 44。
  25. 河合肇(国鉄運転局客貨車課) 「新形通勤電車103系および101系の次期投入線区について」『電車』1963年1月号、pp.45 - 51。
  26. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「103系電車の概要」『電気車の科学』1963年2月号、pp.6 - 10。
  27. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「新通勤形103系電車」『電気鉄道』1963年3月号、pp.11 - 13。
  28. 佐藤武士(静鉄静岡運転所) 「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、pp.26 - 37。
  29. 寺島和年(前大鉄運転部電車課長) 「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.25 - 27。
  30. 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局) 「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.35 - 37。
  31. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.4 - 6。
  32. 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所) 「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.72 - 73。
  33. 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、pp.66 - 76。(注 : ガラスバインドとハンダレス整流子関係)
  34. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1)」『電車』1964年5月号、pp.12 - 18。
  35. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、pp.45 - 54。
  36. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、pp.66 - 68。
  37. 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、p.18。
  38. 大石一男(静鉄静岡運転所) 「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、pp.52 - 53。
  39. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2)」『電車』1964年6月号、pp.85 - 93。
  40. 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、p.31。
  41. 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐) 「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、pp.22 - 27。
  42. 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、pp.54 - 56。
  43. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (1)」『電車』1964年10月号、pp.73 - 78。
  44. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (2)」『電車』1964年11月号、pp.32 - 35。
  45. 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、pp.31 - 33。
  46. 小田急電鉄株式会社 『新設計の通勤車について』1965年2月1日、pp.1 - 16。(注 : 2600形の設計時資料)
  47. 森章(東鉄局電気部電力課長) 「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.19 - 22。
  48. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所) 「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.23 - 25。
  49. 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長) 「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、pp.8 - 11。
  50. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所) 「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、pp.20 - 22。
  51. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課) 「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、pp.13 - 19。
  52. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1)」『電気鉄道』1965年8月号、pp.24 - 26。
  53. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2)」『電気鉄道』1965年9月号、pp.21 - 24。
  54. 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区) 「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、pp.27 - 31。
  55. 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士) 「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、pp.13 - 17。
  56. 佐藤善一「列車運転における電力消費率」、『電気鉄道』第20巻第9号、鉄道電化協会、1966年9月、 2-6頁、 NAID 40018094663 (国鉄電気局電化課)
  57. 高藤茂(国鉄池袋電車区長) 「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、pp.24 - 27。(注 : 103系電車のブレーキ衝動対策関係)
  58. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工) 「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、pp.39 - 43。
  59. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工) 「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、pp.31 - 35。
  60. 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課) 「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、pp.2 - 18。
  61. 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区) 「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、pp.17 - 21。(注 : 列車運転時の電圧変動関係)
  62. 金子一彦(国鉄新宿変電区) 「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、pp.16 - 20。
  63. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (I)」『電気鉄道』1968年3月号、pp.9 - 12。
  64. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (II)」『電気鉄道』1968年4月号、pp.22 - 24。
  65. 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長) 「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.4 - 7。
  66. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.8 - 10。
  67. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (III)」『電気鉄道』1968年5月号、pp.19 - 21。
  68. 高橋金吾(国鉄運転局列車課) 「電気車の運転性能 (IV)」『電気鉄道』1968年6月号、pp.18 - 21。
  69. 高橋金吾(国鉄運転局列車課) 「電気車の運転性能 (V)」『電気鉄道』1968年8月号、pp.13 - 15。
  70. 宇津木弘(東京西局運転部電車課) 「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、pp.37 - 40。
  71. 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局) 「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、pp.13 - 17。
  72. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (1)」『電車』1981年2月号、pp.25 - 29。
  73. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (2)」『電車』1981年3月号、pp.18 - 23。
  74. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (3)」『電車』1981年4月号、pp.22 - 25。
  75. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (4)」『電車』1981年5月号、pp.52 - 54。
  76. 島秀雄(宇宙開発事業団理事長) 「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、pp.56 - 57。
  77. 加進昇(車両設計事務所電気車補佐) 「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、pp.18 - 23。
  78. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (1) -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、pp.26 - 31。
  79. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (2) -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、pp.15 - 21。
  80. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (3) -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、pp.10 - 14。
  81. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (4) -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、pp.16 - 20。
  82. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (5) -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、pp.23 - 28。
  83. 石川陽一(車両局設計課) 「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、pp.6 - 9。
  84. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1)」『電車』1987年8月号、pp.31 - 37。
  85. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2)」『電車』1987年9月号、pp.25 - 29。
  86. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3)」『電車』1987年10月号、pp.24 - 29。
  87. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4)」『電車』1987年11月号、pp.19 - 26。
  88. 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム) 「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、pp.21 - 29。
  89. 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、pp.20 - 23。
  90. 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課) 「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、pp.24 - 27。
  91. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1)」『電車』1988年5月号、pp.17 - 24。
  92. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2)」『電車』1988年7月号、pp.33 - 39。
  93. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3)」『電車』1988年8月号、pp.49 - 57。
  94. 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、pp.28 - 29。
  95. 曽根悟(工学院大学電気工学科教授) 「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、pp.10 - 18。
  96. 日本規格協会 「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.957 - 1032。
  97. 日本規格協会 「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.2026 - 2030。

地下鉄対応・他形式からの改造番台[編集]

  • 中村新一・野元 浩「103系3000番代通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67
  • 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103
    • 当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
  • 久保 敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109

国鉄資料[編集]

  1. 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1964年
  2. 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1971年3月
  3. 車両設計事務所『電車性能曲線』1962年
  4. 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1964年2月
  5. 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1969年3月
  6. 車両設計事務所『電気機関車性能曲線』1962年
  7. 車両設計事務所『新性能電車用主電動機』1968年3月
  8. 運転局『電車気動車加速力曲線』1966年
  9. 運転局『速度定数便覧』1972年

関連項目[編集]

  • 東武8000系電車・・・約20年もの長期にわたって712両が製造されたため「私鉄の103系」と言われることがある。

外部リンク[編集]

  • CLUB103 - 各車ごとの写真など