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{{出典の明記|date=2016年10月}} |
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| 芸名 = 石原 裕次郎 |
| 芸名 = 石原 裕次郎 |
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| ふりがな = いしはら ゆうじろう |
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| 本名 = 石原 裕次郎 |
| 本名 = 石原 裕次郎 |
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| 愛称 = ボス、Yujiro、タフガイ、裕ちゃん、裕さん |
| 愛称 = ボス、Yujiro、タフガイ、裕ちゃん、裕さん |
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| その他の賞 = [[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|石原裕次郎賞]](追悼創設)<br />[[映画の殿堂]](1990年)<br />[[毎日映画コンクール]](特別賞:死後) |
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'''石原 裕次郎'''(いしはら ゆうじろう、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[12月28日]] - [[1987年]]([[昭和]]62年)[[7月17日]])は、[[昭和|昭和時代]]を代表する[[俳優]]、[[歌手]]であり、[[司会者]]や[[モデル (職業)|モデル]]などの[[マルチタレント]]、また、[[実業家]]・[[ヨットマン]]としても活動していた。[[身長]]178cm。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。愛称は'''タフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー'''。[[石原プロモーション]]元代表取締役社長(初代)兼会長。 |
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兄は[[政治家]]で[[小説家]]の[[石原慎太郎]]。 |
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== 来歴 == |
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=== 概要 === |
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[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]で生まれ、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]に育つ。父・石原潔([[山下汽船]]社員)は[[愛媛県]]、母・光子は[[広島県]][[宮島町|宮島]]の出身<ref>{{Cite web |url=http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |title=石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜 |work=グレートマザー物語 |publisher=テレビ朝日 |date=2002-02-24 |accessdate=2016-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021202203720/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |archivedate=2002-12-02}}</ref><ref>[[佐野眞一]]『てっぺん野郎─<span style="font-size:90%;">本人も知らなかった石原慎太郎</span>』([[講談社]] 2003年)</ref>。 |
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マリア幼稚園(現在の[[小樽藤幼稚園]])卒園、[[小樽市立稲穂小学校|稲穂国民学校]]時代に[[競泳]]や[[天狗山 (小樽市)|天狗山]] で[[スキー]]に親しむ。[[逗子市立逗子中学校|逗子中学校]]時代からは[[バスケットボール]]に熱中した。その後、[[慶應義塾高等学校]]を目指すが受験に失敗し、[[慶應義塾志木高等学校|慶應義塾農業高等学校]]に籍を置くが、[[1951年]]に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]][[政治学部|政治学科]]に内部[[進学]]するが、[[放蕩]]生活に明け暮れる。 |
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大学在学中から、俳優を目指し[[東宝]]と[[大映]]、[[日活]]のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー[[水の江瀧子]]と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の[[芥川賞]]受賞作『[[太陽の季節]]』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』では、後に妻となる[[石原まき子|北原三枝]]を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。1963年に[[石原プロモーション]]を設立。1970年代以降は映画から離れ『[[太陽にほえろ!]]』、『[[大都会 (テレビドラマ)|大都会]]』など[[テレビドラマ]]で活躍した。[[戒名]]は陽光院天真寛裕大居士。[[墓]]は[[万成石]][[五輪塔]]で[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にある[[總持寺]]に立てられている。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。 |
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{{quotation|「''美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。''」}} |
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[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。 |
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[[2018年]]7月17日に行われた32回忌法要では、妻である[[石原まき子]]や[[舘ひろし]]、[[神田正輝]]ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した<ref>{{Cite news|title=石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表|date=2018-07-17|url=https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180717-OHT1T50105.html|accessdate=2018-07-20|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref>。 |
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=== ケガ・病気の遍歴 === |
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* 1952年 - バスケットボールの最中に左足膝に大ケガ。 |
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* 1956年 - この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る。幼少時代から[[肝臓]]は悪かったといわれている([[在籍者 (学習者)|高校生]]の頃に[[黄疸]]を発症したことがある)。 |
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* 1957年 - [[自由が丘]]で[[無免許運転]]し右足[[打撲]]。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。 |
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* 1961年 - [[志賀高原スキー場]]でスキーヤーと衝突し右足首[[粉砕複雑骨折]](後に右太股[[腫性膿瘍]]の手術で入院。 |
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* 1964年 - [[ハワイ州|ハワイ]]でヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。 |
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* 1965年 - ヨット乗船中に[[腹痛]]のため大会を途中断念。 |
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* 1967年 - 映画[[黒部の太陽]]撮影時に出水事故に合う。意識を失い、右手親指を[[骨折]]し、指の指紋は全部消え、左足を激しく痛めるなど、大怪我をした。 |
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* 1968年 - 右足打撲で全治1か月入院。 |
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* 1971年 - [[心労]]と[[胸部疾患]](後に急性[[肺炎]]→[[肺結核]]と判明)のため映画宣伝中に入院。 |
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* 1974年 - 階段で転倒し左肩打撲(後に左[[鎖骨骨折]]と判明)。 |
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* 1978年 - 舌下[[潰瘍]]のため入院・手術。その後[[悪性腫瘍]]([[舌癌]])との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。 |
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* 1979年 - 舌下[[白板症]]と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。 |
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* 1981年4月 - 『[[西部警察]]』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り[[慶應義塾大学病院]]に緊急入院。当初[[椎間板ヘルニア]]が疑われたが、その後[[大動脈解離|解離性大動脈瘤]]と診断され(後に右耳が[[難聴]]となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、[[発熱]]が続いた。 |
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* 1984年 - [[肝癌|肝臓癌]]が発覚し、倦怠感・[[腰痛]]の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で[[肝細胞癌]]と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。 |
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* 1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。[[高血圧治療薬|血圧降下剤]]の副作用による肝内[[胆管炎]]と診断。7月に退院後はハワイで静養。 |
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* 1987年4月20日 - ハワイから急遽帰国、直後に慶應義塾大学病院へ検査入院<ref group="注釈">この時石原を治療したチームの中に、後に[[オウム真理教]]に入信し[[地下鉄サリン事件]]などを引き起こした[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]がいた。</ref>。5月2日に一旦退院した([[カテーテル]]治療)ものの、3日後に再入院、容態悪化(高熱)、ついには[[幻覚]]症状([[肝性脳症]])を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開する。しかし16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。 |
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== エピソード == |
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=== 人物 === |
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(以下、呼称については「裕次郎」と記載) |
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==== 映画デビューについて ==== |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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* 父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・[[石原慎太郎]]から心配された。そんな頃に兄は[[水の江瀧子]]より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示した。瀧子はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて[[日活撮影所]]へ降り立った時は素肌に[[ヨット・パーカー]]を羽織り、[[水着|海水パンツ]]に[[ビーチサンダル|ゴム草履]]履きといったいでたちに、その場に居合わせた[[宍戸錠]]と[[小林旭]]は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談{{出典無効|date=2016年10月}})。 |
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* [[1956年]]3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった<ref>近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。</ref>。 |
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* 『太陽の季節』のカメラマンを務めた[[伊佐山三郎]]は水の江瀧子を呼びエキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「[[阪東妻三郎|阪妻]]がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった<ref>石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊</ref>。 |
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* 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。 |
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==== 仕事に対する姿勢 ==== |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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* 俳優業について、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていた。 |
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* セリフ覚えが悪いことで知られ、開いた状態の[[台本]]を机の中に置いて演技を行ったこともあったが、その分、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。 |
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* ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから<ref>以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。</ref>。 |
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*「[[銀座の恋の物語]]」、「[[二人の世界]]」、「[[夜霧よ今夜も有難う]]」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]』には[[1957年]]・[[第8回NHK紅白歌合戦|第8回]]に[[雪村いづみ]]の応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。「歌は素人」という理由で毎年、歌手としての出場を辞退していたといわれている。 |
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* ヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌を[[カバー]]することに消極的だった時代に、積極的に他人の持ち歌(当時のヒット曲や古い流行歌など)をレコードに吹き込んだ。ただ一曲、[[梶芽衣子]]の「怨み節」のカバーについては断られたという<ref>高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1</ref>。 |
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=== 性格 === |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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* 性格として今で言う[[体育会系]]の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという<ref>村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の[https://web.archive.org/web/20100104052832if_/http://muranishi-ch.com/new/news/blog.cgi?mode=main&no=86 ◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」] [[村西とおる]]日記 2009年10月9日より。</ref>。また人前で食事をすることも嫌っていた。 |
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* 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。また、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。」という[[ポリシー]]を持っていた。 |
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* スポーツ界や政財界などを問わず広い交友関係を楽しんだ人物で、誰かに会ったときは必ず、[[上下関係]]分け隔てなく、あいさつのときは立ち上がり、[[握手]]をするという[[礼儀]]正しさでもよく知られていた。 |
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* 気遣いのできる優しい性格と豪快な人柄から[[石原プロモーション]]所属の俳優達からはもちろん、『[[西部警察]]』で共演した[[三浦友和]]および[[柴俊夫]]らからも『石原社長』と呼ばれていた。さらに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。また、現在でも石原プロのイベントなどで名物となっている[[炊き出し]]は、裕次郎が考案したものである。 |
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=== 趣味・嗜好 === |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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* 食べることが好きで、[[懐石]]料理・[[カレーライス]]・[[ビーフステーキ]]、[[葉山町|葉山]][[コロッケ]]等を好み、和洋中問わず好物は多かった。また、料理好きでもあり、[[別荘]]や[[ヨットハーバー]]で[[バーベキュー]]や手[[弁当]]を楽しんだ。嫌いな物は[[鶏肉]]だったという。大病後は妻の食事管理の下[[玄米]]の[[パン]]と[[野菜]][[サラダ]]のみの生活を送っていたという。また晩年には毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に[[塩分]]制限6グラム、小さじ1杯)も実行したとも言われる。 |
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* [[喫煙|チェーンスモーカー]]であり、また大病を患う前は、休暇中には朝食に[[ビール]]を飲むほどの[[辛党|酒豪]]であった。撮影所には、「ビールは酒ではない、水である」という名分で[[冷蔵庫]]が置かれていた。また、[[赤坂東急ホテル]]のバーカウンター端の席で飲んで、その後飲食街に繰り出すことが多かった。[[大動脈瘤]]手術後は身内のパーティではビールをコップ1杯程度にしていたといわれ、喫煙も控えていたが、甥の良純によるとハワイの別荘で夫人の目を盗んでの「お相伴」に付き合わされたという。 |
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* デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿(私服が3000着ほど、トータルで5000着ほど作ったという<ref>さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090617_80137.html (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年6月17日</ref>)。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという<ref>[https://jcc.jp/news/13706605/ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値!] - JCCテレビすべて フジテレビ【[[バイキング (テレビ番組)|バイキング]]】2018年7月19日放送</ref>。 |
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* 兄の影響により、ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったともいわれる。 |
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* 日本では[[力道山]]と[[夏木陽介]]と裕次郎の3人だけと言われる[[メルセデス・ベンツ・300SL]](〈W198〉[[ガルウィングドア|ガルウィング]]クーペのオーナーだった。一部勘違いで[[三橋美智也]]も所有と書かれることがあるが190SLの誤りである。シートは[[深紅]]。車体は[[銀色|シルバー]]<ref group="注釈">ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている。</ref>)を所有していたほか、[[ロールス・ロイス・シルヴァースピリット]]や[[キャデラック]]など複数の高級車を所有するカーマニアであった。 |
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=== 交友 === |
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* [[勝新太郎]]とは家族ぐるみの付き合いで<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/program/cx/83074/1181082/ 【石原裕次郎32回忌でまき子夫人&舘ひろしが坂上に秘話告白】] - gooテレビ番組(関東版) [[直撃!シンソウ坂上]] 2018年7月19日</ref>、互いを「兄弟」と呼び合った仲。裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ<ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090603_79677.html (2)「兄弟」勝新、最後の晩餐(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年6月3日</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090606_79680.html (5)勝新と玉緒のケンカ仲裁(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年6月6日</ref>。 |
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* 1学年下の[[長嶋茂雄]]とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した<ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090602_79676.html (1)昭和に風、長嶋さん語った(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年6月02日</ref>。 |
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* 裕次郎と同じ12月28日生まれの[[渡哲也]]は日活所属だった際、1970年の映画『[[ある兵士の賭け]]』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した<ref>[<!-- https://www.fnn.jp/posts/00337930HDK -->https://sp.fnn.jp/posts/00337930HDK 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔] - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090704_80997.html (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年7月4日</ref>。 |
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* 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた<ref>太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの([[PHP研究所]]) [[増田久雄]]</ref>。 |
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* [[大橋巨泉]]とは映画『[[嵐を呼ぶ男]]』で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、当時大橋は[[ジャズ]]評論家・[[放送作家]]という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後バラエティー番組『[[今晩は裕次郎です]]』で開始途中から構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は『[[11PM]]』の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。 |
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=== その他のエピソード === |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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* [[1960年]]、日本の芸能界で初めて[[記者会見]]を開いた<ref>有吉弘行&劇団ひとり&ビビる大木の天才リトル(2014年3月30日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]){{出典無効|title=検証不可能|date=2016年10月}}</ref>{{出典無効|title=検証不可能|date=2016年10月}}。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻まき子である北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長[[堀久作]]の説得に応じ帰国、[[東京国際空港|羽田空港]]の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。 |
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* [[1961年]]の大けがの際、[[赤木圭一郎]]の訃報の直後に入院していたため、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ支配権下時代]]の[[沖縄県|沖縄]]の[[琉球放送]]が偽の訃報を流すというハプニングがあった。 |
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* [[1965年]]には[[國粹会]]の[[拳銃|ピストル]][[密輸]]事件に絡み家宅捜索を受け、後に[[銃刀法]]違反で有罪となる。 |
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* 甥の(兄・慎太郎の三男)[[石原宏高]]を養子にしたがっていたとも伝えられる。 |
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* 毎年正月には石原プロモーション所属俳優や交友のある有名人とともに[[ハワイ州|ハワイ]]で過ごすのが恒例となっており、その様子は正月特番でも放映された。'''「正月をハワイで過ごす芸能人」'''の先駆けとなった人物でもある。 |
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* 志賀高原スキー場での負傷後、療養を兼ねて信玄の[[隠し湯]]として知られる[[下部温泉]]「[[下部ホテル]]」の別館に妻とともに滞在していた。この別館は裕次郎によって「裕林亭」と名付けられ、現在も客間として提供されている。 |
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* 主演した『[[赤い波止場]]』は[[ジャン・ギャバン]]主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『[[望郷 (1937年の映画)|望郷]]』が元ネタである。『[[赤い波止場]]』のリメイクである[[渡哲也]]主演の『[[紅の流れ星]]』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』の[[ジャン・ポール・ベルモンド]]がモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている<ref>[[洋泉社]] 2016年11月『[[映画秘宝]]コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p</ref><ref>「[[キネマ旬報]]オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より</ref>。 |
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* 1962年、渡米した時「夢の渚」を撮影中のエルビス・プレスリーと対面した。2人が談話している写真が残されている。 |
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* 兄、慎太郎が政界入りすると慎太郎の応援演説を行った。また[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[橋本登美三郎]]は裕次郎を慕っており[[石原プロモーション]]が抱えていた借金を全額肩代わりするから[[参議院議員通常選挙|参議院選挙]]に出馬しないかと要請したが裕次郎は断っている。 |
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=== その他 === |
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{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} |
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1980年1月に[[成城]]の自宅([[上神明遺跡]]内)において、[[古墳時代]]の遺跡、[[土器]]が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロモーション所属俳優だった[[苅谷俊介]]は、石原邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった<ref>[http://naraamt.or.jp/50kinki/kinenkouen.html 「土と役者と考古学」苅谷俊介] 近畿医学検査学会</ref>。 |
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== 家族・親族 == |
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[[ファイル:Ishihara Family.jpg|thumb|300px|right|<center>[[小樽市|小樽]]にて家族写真<br />(左から父・潔、裕次郎、母・光子、兄・[[石原慎太郎|慎太郎]])</center>]] |
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=== 石原家 === |
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; ([[愛媛県]][[松山市]]・[[八幡浜市]]・[[大洲市]]、[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]、[[東京都]]) |
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* 父・'''潔'''([[山下汽船]]社員) |
|||
: [[1899年]]([[明治]]32年)12月生 - [[1951年]]([[昭和]]26年)10月没 |
|||
* 母・'''光子''' |
|||
: [[1909年]]([[明治]]42年)9月生 - [[1992年]]([[平成]]4年)6月没 |
|||
* 兄・'''[[石原慎太郎|慎太郎]]'''(作家、政治家) |
|||
: [[1932年]]([[昭和]]7年)9月生 - |
|||
* 妻・'''[[石原まき子|まき子]]'''(元女優) |
|||
: [[1933年]](昭和8年)7月生 - |
|||
* 子・'''なし''' |
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* 甥・'''[[石原伸晃|伸晃]]'''、'''[[石原良純|良純]]'''、'''[[石原宏高|宏高]]'''、'''[[石原延啓|延啓]]''' |
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裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて[[関連会社]][[役員]]にまで出世した人物である。累代の[[名門|名家]]とも、一代の商才で財を成した新興富裕層とも異なる、[[戦後]]の新興[[中流階級]]に属する。 |
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=== 略系図 === |
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{{main|石原慎太郎#家族・親族}} |
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石原潔━光子 |
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┣━━━━━━━━━━━━━┓ |
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石原慎太郎━典子 石原裕次郎━まき子 |
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┃ |
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┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ |
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石原伸晃 石原良純 石原宏高 石原延啓 |
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== 出演 == |
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<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> |
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=== 映画 === |
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* 『[[太陽の季節]]』([[古川卓巳]]監督、1956年5月17日公開、日活、伊豆役) |
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* 『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』([[中平康]]監督、1956年7月12日公開、日活、滝島夏久役) |
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* 『[[乳母車 (映画)|乳母車]]』([[田坂具隆]]監督、1956年11月13日公開、日活、相沢宗雄役) |
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* 『[[地底の歌]]』([[野口晴康|野口博志]]監督、1956年12月12日公開、日活、ダイヤモンド冬役) |
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* 『[[月蝕 (映画)|月蝕]]』([[井上梅次]]監督、1956年12月19日公開、日活、松木役) |
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* 『若ノ花物語』([[森永健次郎]]監督、1956年12月26日公開、日活) |
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* 『人間魚雷出撃す』(古川卓巳監督、1956年12月26日公開、日活、黒崎中尉役) |
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* 『お転婆三人姉妹 踊る太陽』(井上梅次監督、1957年1月1日公開、日活、大助君役) |
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* 『ジャズ娘誕生』([[春原政久]]監督、1957年4月3日公開、日活、南条春夫役) |
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* 『勝利者』(井上梅次監督、1957年5月1日公開、日活、夫馬俊太郎役) |
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* 『今日のいのち』([[田坂具隆]]監督、1957年6月26日公開、日活、岩本岩次郎役) |
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* 『[[幕末太陽傳]]』([[川島雄三]]監督、1957年7月14日公開、日活、[[高杉晋作]]役) |
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* 『[[海の野郎ども]]』([[新藤兼人]]監督、1957年8月20日公開、日活、千鳥松役) |
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* 『[[鷲と鷹]]』(井上梅次監督、1957年9月29日公開、日活、千吉役) |
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* 『俺は待ってるぜ』([[蔵原惟繕]]監督、1957年10月20日公開、日活、島木譲次役) |
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* 『峠』([[齋藤武市]]監督、1957年11月5日公開、日活) |
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* 『[[嵐を呼ぶ男]]』(井上梅次監督、1957年12月28日公開、日活、国分正一役) |
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* 『心と肉体の旅』([[舛田利雄]]監督、1958年1月9日公開、日活) |
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* 『夜の牙』(井上梅次監督、1958年1月15日公開、日活、杉浦健吉役) |
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* 『[[錆びたナイフ]]』(舛田利雄監督、1958年3月11日公開、日活、橘役) |
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* 『[[陽のあたる坂道]]』(田坂具隆監督、1958年4月15日公開、日活、田代信次役) |
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* 『[[明日は明日の風が吹く]]』(井上梅次監督、1958年4月29日公開、日活、松山健次役) |
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* 『素晴しき男性』(井上海次監督、1958年7月6日公開、日活、団武男役) |
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* 『風速40米』(蔵原惟繕監督、1958年8月12日公開、日活、滝颯夫役) |
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* 『[[赤い波止場]]』(舛田利雄監督、1958年9月23日公開、日活、富永二郎役) |
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* 『嵐の中を突っ走れ』(蔵原惟繕監督、1958年10月29日公開、日活、吉良千吉役) |
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* 『[[紅の翼]]』(中平康監督、1958年12月28日公開、日活、石田康二役) |
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* 『[[若い川の流れ]]』(田坂具隆監督、1959年1月15日公開、日活、曽根健助役) |
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* 『今日に生きる』(舛田利雄監督、1959年3月10日公開、日活、城俊次役) |
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* 『男が爆発する』(舛田利雄監督、1959年4月29日公開、日活、室戸謙作役) |
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* 『山と谷と雲』([[牛原陽一]]監督、1959年5月31日公開、日活、牧戸次郎役) |
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* 『世界を賭ける恋』([[滝沢英輔]]監督、1959年7月12日公開、日活、村岡雄二役) |
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* 『男なら夢を見ろ』(牛原陽一監督、1959年8月9日公開、日活、木島夏雄役) |
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* 『欧州駈けある記』(1959年8月30日公開、日活) |
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* 『清水の暴れん坊』(松尾昭典監督、1959年9月27日公開、日活、石松俊雄役) |
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* 『天と地を駈ける男』(舛田利雄監督、1959年11月1日公開、日活、稲葉鉄男役) |
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* 『男が命を賭ける時』(松尾昭典監督、1959年12月27日公開、日活、小室丈太郎役) |
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* 『鉄火場の風』(牛原陽一監督、1960年1月15日公開、日活、畑中英次役) |
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* 『白銀城の対決』(齋藤武市監督、1960年3月6日公開、日活、伊庭俊介役) |
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* 『あじさいの歌』(滝沢英輔監督、1960年4月2日公開、日活、河田藤助役) |
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* 『青年の樹』(舛田利雄監督、1960年4月29日公開、日活、和久武馬役) |
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* 『天下を取る』(牛原陽一監督、1960年7月13日公開、日活、大門大太役) |
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* 『[[喧嘩太郎]]』(舛田利雄監督、1960年8月10日公開、日活、宇野太郎役) |
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* 『やくざ先生』(松尾昭典監督、1960年9月21日公開、日活、新田悠三役) |
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* 『あした晴れるか』(中平康監督、1960年10月26日公開、日活、三杉耕平役) |
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* 『闘牛に賭ける男』(舛田利雄監督、1960年12月27日公開、日活、北見徹役) |
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* 『激流に生きる男』(野村孝監督、1962年5月1日公開、怪我で出演断念) |
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* 『街から街へつむじ風』(松尾昭典監督、1961年1月14日公開、日活、正木晋一役) |
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* 『[[あいつと私]]』(中平康監督、1961年9月10日公開、日活、黒川三郎役) |
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* 『堂堂たる人生』(牛原陽一監督、1961年10月22日公開、日活、中部周平役) |
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* 『アラブの嵐』(中平康監督、1961年12月24日公開、日活、宗方真太郎役) |
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* 『男と男の生きる街』(舛田利雄監督、1962年1月14日公開、日活、岩崎捷夫役) |
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* 『[[銀座の恋の物語]]』(蔵原惟繕監督、1962年3月4日公開、日活、伴次郎役) |
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* 『青年の椅子』([[西河克己]]監督、1962年4月8日公開、日活、高坂虎彦役) |
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* 『雲に向かって起つ』(滝沢英輔監督、1962年5月1日公開、日活、坂木武馬役) |
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* 『[[憎いあンちくしょう]]』(蔵原惟繕監督、1962年7月8日公開、日活、北大作役) |
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* 『零戦黒雲一家』(舛田利雄監督、1962年8月12日公開、日活、谷村雁役) |
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* 『[[若い人]]』(西河克己監督、1962年10月6日公開、日活、間崎慎太郎役) |
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* 『金門島にかける橋』(松尾昭典監督、1962年11月3日公開、日活、武井一郎役) |
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* 『[[花と竜#1962年|花と竜]]』(舛田利雄監督、1962年12月26日公開、日活、玉井金五郎役) |
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* 『何か面白いことないか』(蔵原惟繕監督、1963年3月3日公開、日活、早坂次郎役) |
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* 『太陽への脱出』(舛田利雄監督、1963年4月28日公開、日活、速水志郎役) |
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* 『[[夜霧のブルース]]』(野村孝監督、1963年6月30日公開、日活、西脇順三役) |
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* 『[[太平洋ひとりぼっち]]』([[市川崑]]監督、1963年10月27日公開、日活、青年役) |
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* 『[[赤いハンカチ]]』(舛田利雄監督、1964年1月3日公開、日活、三上次郎役) |
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* 『[[夕陽の丘]]』(松尾昭典監督、1964年4月29日公開、日活、篠原健次役) |
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* 『鉄火場破り』(齋藤武市監督、1964年7月12日公開、日活、関東政役) |
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* 『殺人者を消せ』(舛田利雄監督、1964年9月19日公開、日活、早川次郎/泉信夫役) |
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* 『敗れざるもの』(松尾昭典監督、1964年10月30日公開、日活、橋本鉄哉役) |
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* 『黒い海峡』([[江崎実生]]監督、1964年12月31日公開、日活、槙明夫役) |
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* 『[[城取り]]』(舛田利雄監督、1965年3月6日公開、日活、車藤三役) |
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* 『[[青春とはなんだ]]』(舛田利雄監督、1965年7月14日公開、日活、野々村健介役) |
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* 『泣かせるぜ』(松尾昭典監督、1965年10月1日公開、日活、響伸作役) |
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* 『[[素晴らしきヒコーキ野郎]]』([[ケン・アナキン]]監督、1965年10月9日公開、日活、Yamamoto役) |
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* 『赤い谷間の決斗』舛田利雄監督、1965年12月29日公開、日活、風間信吾役) |
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* 『[[二人の世界 (1966年の映画)|二人の世界]]』(松尾昭典監督、1966年2月25日公開、日活、北条修一役) |
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* 『青春大統領』(江崎実生監督、1966年4月27日公開、日活、峰岡鷹志役) |
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* 『夜霧の慕情』(松尾昭典監督、1966年6月1日公開、日活、堀部良郎役) |
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* 『夜のバラを消せ』(舛田利雄監督、1966年7月9日公開、日活、徳川新六役) |
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* 『帰らざる波止場』(舛田利雄監督、1966年8月13日公開、日活、津田史郎役) |
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* 『栄光への挑戦』(舛田利雄監督、1966年10月8日公開、日活、宗吾郎役) |
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* 『逃亡列車』(江崎実生監督、1966年12月24日公開、日活、有坂大作役) |
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* 『[[夜霧よ今夜も有難う]]』(江崎実生監督、1967年3月11日公開、日活、相良徹役) |
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* 『嵐来たり去る』(舛田利雄監督、1967年5月3日公開、日活、富坂の英五郎役) |
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* 『波止場の鷹』([[西村昭五郎]]監督、1967年8月12日公開、日活、久須見健一役) |
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* 『東京の田舎っぺ』([[千野皓司]]監督、1967年8月12日公開、日活、声のみ) |
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* 『君は恋人』(齋藤武市監督、1967年11月3日公開、日活、石崎監督役) |
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* 『黄金の野郎ども』(江崎実生監督、1967年12月23日公開、日活、立原英次役) |
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* 『遊侠三国志・鉄火の花道』(松尾昭典監督、1968年1月13日公開、日活、小村伸次郎役) |
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* 『[[黒部の太陽]]』([[熊井啓]]監督、1968年2月17日公開、日活、岩岡役) |
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* 『昭和のいのち』(舛田利雄監督、1968年6月22日公開、日活、日下真介役) |
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* 『忘れるものか』(松尾昭典監督、1968年12月28日公開、日活、岡部司郎役) |
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* 『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』([[稲垣浩]]監督、1969年3月1日公開、東宝、[[上杉謙信]]役) |
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* 『[[栄光への5000キロ]]』(蔵原惟繕監督、1969年7月15日公開、松竹、五代高之役) |
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* 『[[人斬り (映画)|人斬り]]』([[五社英雄]]監督、1969年8月9日公開、大映、[[坂本龍馬|坂本竜馬]]役) |
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* 『嵐の勇者たち』(舛田利雄監督、1969年12月31日公開、日活、島地陶介役) |
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* 『[[富士山頂 (小説)|富士山頂]]』([[村野鐵太郎]]監督、1970年2月28日公開、日活、梅原悟郎役) |
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* 『[[待ち伏せ (映画)|待ち伏せ]]』(稲垣浩監督、1970年3月21日公開、東宝、弥太郎役) |
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* 『[[ある兵士の賭け]]』(キース・ラーセン/千野皓司/白井伸明監督、1970年6月6日公開、松竹、北林宏役) |
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* 『[[スパルタ教育くたばれ親父]]』(舛田利雄監督、1970年8月12日公開、ダイニチ、田上悠三役) |
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* 『[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]](1部)』 ([[山本薩夫]]監督、1970年8月1日公開、ダイニチ、篠崎書記官役) |
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* 『男の世界』([[長谷部安春]]監督、1971年1月13日公開、ダイニチ、紺野忠夫役) |
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* 『甦える大地』([[中村登]]監督、1971年2月26日公開、松竹、植松一也役) |
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* 『[[影狩り#映画|影狩り]]』(舛田利雄監督、1972年6月10日公開、東宝、十兵衛役) |
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* 『影狩り・ほえろ大砲』(舛田利雄監督、1972年10月10日公開、東宝、室戸十兵衛役) |
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* 『反逆の報酬』([[澤田幸弘]]監督、1973年2月17日公開、東宝、沖田徹男役) |
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* 『凍河』([[斎藤耕一]]監督、1976年4月24日公開、松竹、竜野一郎役) |
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* 『[[わが青春のアルカディア]]』([[勝間田具治]]監督、1982年7月28日公開、東映、(声)[[ハーロック|ファントム・F・ハーロックI世]]役) |
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* 『アゲイン』(1984年、新撮部分への出演なし) |
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* 『[[零戦燃ゆ]]』(舛田利雄監督、1984年8月11日公開、東宝、主題歌のみ) |
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=== テレビドラマ === |
|||
* 『[[ダイヤル110番]]』(1958年、日本テレビ) |
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* 『[[小さき闘い]]』(1964年、フジテレビ) |
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* 『[[結婚について・祝婚]]』(1965年、[[TBSテレビ]]) |
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* 『[[黒部の太陽 (テレビドラマ)|黒部の太陽]]』(1969年、日本テレビ) |
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* 『[[太陽にほえろ!]]』(1972年7月-1981年5月、1981年12月-1986年6月、1986年11月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])- 藤堂俊介・捜査第一係長(通称・ボス) |
|||
* 『[[座頭市|座頭市物語]]』(1974年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) |
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* 『[[痛快!河内山宗俊]]』(1975年、フジテレビ) |
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* 『[[座頭市|新・座頭市]]』(1976年、フジテレビ) |
|||
* 『[[大都会 (テレビドラマ)|大都会]]』シリーズ(日本テレビ) |
|||
* 『[[大都会 闘いの日々]]』(1976年1月-9月)- 滝川竜太 |
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* 『[[大都会 PARTII]]』(1977年4月-1978年3月)- 宗方悟郎 |
|||
* 『[[大都会 PARTIII]]』(1978年9月-1979年9月)- 宗方悟郎 |
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* 『[[浮浪雲]]』第二十回(1978年9月、[[テレビ朝日]])- は組の頭岩吉 |
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* 『[[西部警察]]』シリーズ(テレビ朝日)- 木暮謙三 |
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** 『[[西部警察 (PART1)|西部警察 PART-I]]』(1979年10月-1982年4月) |
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** 『[[西部警察 PART-II]]』(1982年5月 - 1983年3月) |
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** 『[[西部警察 PART-III]]』(1983年4月 - 1984年10月) |
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* 『[[木曜ゴールデンドラマ]] 俺たちの明日〜坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春〜』(1980年、日本テレビ) |
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* 『[[ゴリラ・警視庁捜査第8班]]』(1989年、テレビ朝日)- 小暮警視(第1話にて遺影で登場) |
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=== テレビ・ラジオ === |
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==== レギュラー番組 ==== |
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* 『石原裕次郎アワー』(1957年-1959年、[[文化放送]]) |
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* 『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』(1963年-1964年[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) |
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* 『すてきな仲間』(1966年[[テレビ朝日|NET]]) |
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* 『ラジオ広場 やあ!裕次郎です』(1982年、ニッポン放送) |
|||
* 『THE YUJIRO』(2003年-[[ミュージックバード]]) |
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* 『石原裕次郎チャンネル』([[有線ラジオ放送]]) |
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==== ラジオドラマ ==== |
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* 『[[海峡を越えてきた男]]』(1957年、[[ニッポン放送]]) |
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=== CM === |
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* [[エーザイ]](ユベロン) |
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* [[宝ホールディングス|寳酒造]](松竹梅、※宝正宗) |
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* [[資生堂]](ビコーズ) |
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※放映されなかったCMであり、死去直後に『幻のCM』として放送されたほかDVD「生誕80周年記念 石原裕次郎 松竹梅CM集」に収録。 |
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=== 大会出場 === |
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* 大島ヨットレース(1959年・1963年) |
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* トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年) |
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* アドミラルズ・カップ・レース(1977年) |
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* パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年) |
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* インビテーショナル・ゴルフ大会-途中[[ホールアウト]](1986年) |
|||
* 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後) |
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=== パチンコ === |
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* [[CR石原裕次郎]](2009年・[[オリンピア (企業)|オリンピア]]・[[平和 (パチンコ)|平和]]) |
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== 歌手活動 == |
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{{main|石原裕次郎の作品|石原裕次郎のアルバム一覧|石原裕次郎のシングル一覧}} |
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== 書籍 == |
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=== 写真集 === |
|||
* 『[[海とトランペット]]』(1958年[[斎藤耕一]]・[[三笠書房]]) |
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=== 出版 === |
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* 『[[わが青春物語]]』(1958年[[東西文明社]]) |
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=== 連載 === |
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* 『[[裕次郎のつづり方]]』(1958年[[サンデー毎日]]) |
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== 演じた俳優 == |
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* [[テレビ朝日]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』(2004年11月17日 - 21日放送)での配役 |
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** [[萩原竜之介]](幼年期) |
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** [[富岡涼]](少年期) |
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** [[武田航平]](思春期) |
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** [[徳重聡]](青年期) |
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** [[三浦友和]](壮年期・晩年期) |
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* [[NHK BSプレミアム]]『[[裕次郎は死なない〜心に刻まれた5つの物語〜]]』(2017年6月17日放送)での配役 |
|||
** [[横田栄司]](壮年期・晩年期) |
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** [[細田善彦]](青年期) |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 関連項目 == |
|||
* [[石原裕次郎記念館]](北海道小樽市) |
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== 関連人物 == |
|||
* [[小林正彦]] - 所属する事務所で長年に亘り役員を務めた。 |
|||
* [[庭野日敬]](立正佼成会・開祖会長) |
|||
* [[渡哲也]] - 生年は違う(1941年)ものの裕次郎と同じ誕生日である。 |
|||
* [[舘ひろし]] |
|||
* [[神田正輝]] |
|||
* [[宇野重吉]] - 裕次郎が亡くなった半年後の1988年1月9日、[[肺癌]]により73歳で死去。 |
|||
* [[寺尾聰]] |
|||
* [[秋山武史]] |
|||
* [[勝新太郎]] - 弔辞を読む(文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』[[文春新書]]2011年所収) |
|||
* [[三船敏郎]] |
|||
* [[牧村旬子]] |
|||
* [[浅丘ルリ子]] |
|||
* [[カルーセル麻紀]] - 実の妹のようにかわいがった。 |
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* [[八代亜紀]] |
|||
* [[オレハマッテルゼ]] |
|||
* [[島木譲二]] |
|||
* [[ゆうたろう]] - 石原裕次郎のモノマネタレント。幼少期に実際に遭遇し、今でもサインを飾っているという。 |
|||
* [[間寛平]] |
|||
* [[松平健]] |
|||
* [[高倉健]] |
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* [[加山雄三]] |
|||
* [[本間千代子]] |
|||
* [[昔昔亭桃太郎]] |
|||
* [[中田はじめ]] |
|||
* 日活ダイヤモンドライン:[[小林旭]]、[[赤木圭一郎]]、[[和田浩治]]、[[宍戸錠]](新メンバー)、[[二谷英明]](新メンバー)※和田は裕次郎との共演作がない。 |
|||
* [[六平直政]] - 葬儀会場の大道具をつとめていた。このことを後に渡に話したところ、石原プロの関係者に敬意を払われたという。 |
|||
* [[黒木憲ジュニア]](唐木淳) - 裕次郎作品「よこはま物語」を唐木淳時代2000年にカバーしビクターより発売。黒木憲ジュニア(唐木淳)にとって「よこはま物語」はデビュー10周年記念曲。裕次郎も黒木憲ジュニアの父黒木憲の曲「霧にむせぶ夜」をカバーしアルバムに収録している。 |
|||
* [[御木裕]] - 兄慎太郎の紹介により、石原プロでスカウトし、芸名に裕次郎の一文字が付与された。 |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Yujiro Ishihara}} |
|||
* {{Official|www.ishihara-pro.jp/yujiro_index.html }} |
|||
** [http://www.ishihara-pro.co.jp/yujiro/history/1934-1955.html 年譜1934-1955] |
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** [http://www.ishihara-pro.co.jp/yujiro/history/1956-1975.html 年譜1956-1975] |
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** [http://www.ishihara-pro.co.jp/yujiro/history/1976-1995.html 年譜1976-1995] |
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** [http://www.ishihara-pro.co.jp/yujiro/history/1996-2009.html 年譜1996-2009] |
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* {{jmdb name |0226080 }} |
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* {{allcinema name |56239 }} |
|||
* {{kinejun name |89136 }} |
|||
* {{imdb name |id=0410987 |name=石原裕次郎 }} |
|||
* {{URL |movie.walkerplus.com/person/84132/ |石原裕次郎(イシハラユウジロウ,Yujiro Ishihara)|Movie Walker}} |
|||
* {{URL |www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%A3%95%E6%AC%A1%E9%83%8E |石原裕次郎 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇}} |
|||
*{{NHK人物録|D0016010223_00000}} |
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{{-}} |
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{{石原裕次郎}} |
|||
{{石原慎太郎}} |
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{{石原プロモーション}} |
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{{ブルーリボン賞新人賞}} |
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{{エランドール賞新人賞}} |
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{{Normdaten}} |
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{{デフォルトソート:いしはら ゆうしろう}} |
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[[Category:石原裕次郎|!]] |
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[[Category:石原家|ゆうじろう]] |
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[[Category:日本の男優]] |
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[[Category:アクション俳優]] |
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[[Category:ヤクザ映画の俳優]] |
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[[Category:日本の男性歌手]] |
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[[Category:日本のアイドル]] |
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[[Category:日本のタレント]] |
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[[Category:日本の司会者]] |
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[[Category:日本の男性モデル]] |
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2019年10月21日 (月) 16:13時点における版
いしはら ゆうじろう 石原 裕次郎 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
本名 | 石原 裕次郎 | ||||||||||
生年月日 | 1934年12月28日 | ||||||||||
没年月日 | 1987年7月17日(52歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本 兵庫県神戸市須磨区 | ||||||||||
死没地 | 日本 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院 | ||||||||||
民族 | 日本人 | ||||||||||
身長 | 178 cm | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
職業 | 俳優、歌手、司会者、モデル、実業家、ヨットマン、マルチタレント | ||||||||||
活動期間 | 1956年 - 1987年 | ||||||||||
活動内容 | 1956年:『太陽の季節』でデビュー。 | ||||||||||
配偶者 | 石原まき子(北原三枝) | ||||||||||
著名な家族 |
父:石原潔 母:石原光子 兄:石原慎太郎 | ||||||||||
公式サイト | 石原裕次郎/石原プロモーション | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 『太陽の季節』 『狂った果実』 『嵐を呼ぶ男』 『銀座の恋の物語』 テレビドラマ 『太陽にほえろ!』 『大都会』シリーズ 『西部警察』シリーズ | |||||||||||
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石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、昭和時代を代表する俳優、歌手であり、司会者やモデルなどのマルチタレント、また、実業家・ヨットマンとしても活動していた。身長178cm。血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー。石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。
来歴
概要
兵庫県神戸市須磨区で生まれ、北海道小樽市、神奈川県逗子市に育つ。父・石原潔(山下汽船社員)は愛媛県、母・光子は広島県宮島の出身[1][2]。
マリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、稲穂国民学校時代に競泳や天狗山 でスキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中した。その後、慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、1951年に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、放蕩生活に明け暮れる。
大学在学中から、俳優を目指し東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。1963年に石原プロモーションを設立。1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。
「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。
2018年7月17日に行われた32回忌法要では、妻である石原まき子や舘ひろし、神田正輝ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した[3]。
ケガ・病気の遍歴
- 1952年 - バスケットボールの最中に左足膝に大ケガ。
- 1956年 - この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る。幼少時代から肝臓は悪かったといわれている(高校生の頃に黄疸を発症したことがある)。
- 1957年 - 自由が丘で無免許運転し右足打撲。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。
- 1961年 - 志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院。
- 1964年 - ハワイでヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。
- 1965年 - ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
- 1967年 - 映画黒部の太陽撮影時に出水事故に合う。意識を失い、右手親指を骨折し、指の指紋は全部消え、左足を激しく痛めるなど、大怪我をした。
- 1968年 - 右足打撲で全治1か月入院。
- 1971年 - 心労と胸部疾患(後に急性肺炎→肺結核と判明)のため映画宣伝中に入院。
- 1974年 - 階段で転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折と判明)。
- 1978年 - 舌下潰瘍のため入院・手術。その後悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。
- 1979年 - 舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。
- 1981年4月 - 『西部警察』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後解離性大動脈瘤と診断され(後に右耳が難聴となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、発熱が続いた。
- 1984年 - 肝臓癌が発覚し、倦怠感・腰痛の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。
- 1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断。7月に退院後はハワイで静養。
- 1987年4月20日 - ハワイから急遽帰国、直後に慶應義塾大学病院へ検査入院[注釈 1]。5月2日に一旦退院した(カテーテル治療)ものの、3日後に再入院、容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開する。しかし16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。
エピソード
人物
(以下、呼称については「裕次郎」と記載)
映画デビューについて
- 父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・石原慎太郎から心配された。そんな頃に兄は水の江瀧子より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示した。瀧子はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて日活撮影所へ降り立った時は素肌にヨット・パーカーを羽織り、海水パンツにゴム草履履きといったいでたちに、その場に居合わせた宍戸錠と小林旭は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談[出典無効])。
- 1956年3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった[4]。
- 『太陽の季節』のカメラマンを務めた伊佐山三郎は水の江瀧子を呼びエキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「阪妻がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった[5]。
- 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。
仕事に対する姿勢
- 俳優業について、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていた。
- セリフ覚えが悪いことで知られ、開いた状態の台本を机の中に置いて演技を行ったこともあったが、その分、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。
- ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから[6]。
- 「銀座の恋の物語」、「二人の世界」、「夜霧よ今夜も有難う」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『紅白歌合戦』には1957年・第8回に雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。「歌は素人」という理由で毎年、歌手としての出場を辞退していたといわれている。
- ヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌をカバーすることに消極的だった時代に、積極的に他人の持ち歌(当時のヒット曲や古い流行歌など)をレコードに吹き込んだ。ただ一曲、梶芽衣子の「怨み節」のカバーについては断られたという[7]。
性格
- 性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという[8]。また人前で食事をすることも嫌っていた。
- 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。また、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。」というポリシーを持っていた。
- スポーツ界や政財界などを問わず広い交友関係を楽しんだ人物で、誰かに会ったときは必ず、上下関係分け隔てなく、あいさつのときは立ち上がり、握手をするという礼儀正しさでもよく知られていた。
- 気遣いのできる優しい性格と豪快な人柄から石原プロモーション所属の俳優達からはもちろん、『西部警察』で共演した三浦友和および柴俊夫らからも『石原社長』と呼ばれていた。さらに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。また、現在でも石原プロのイベントなどで名物となっている炊き出しは、裕次郎が考案したものである。
趣味・嗜好
- 食べることが好きで、懐石料理・カレーライス・ビーフステーキ、葉山コロッケ等を好み、和洋中問わず好物は多かった。また、料理好きでもあり、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しんだ。嫌いな物は鶏肉だったという。大病後は妻の食事管理の下玄米のパンと野菜サラダのみの生活を送っていたという。また晩年には毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に塩分制限6グラム、小さじ1杯)も実行したとも言われる。
- チェーンスモーカーであり、また大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほどの酒豪であった。撮影所には、「ビールは酒ではない、水である」という名分で冷蔵庫が置かれていた。また、赤坂東急ホテルのバーカウンター端の席で飲んで、その後飲食街に繰り出すことが多かった。大動脈瘤手術後は身内のパーティではビールをコップ1杯程度にしていたといわれ、喫煙も控えていたが、甥の良純によるとハワイの別荘で夫人の目を盗んでの「お相伴」に付き合わされたという。
- デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿(私服が3000着ほど、トータルで5000着ほど作ったという[9][10])。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという[11]。
- 兄の影響により、ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったともいわれる。
- 日本では力道山と夏木陽介と裕次郎の3人だけと言われるメルセデス・ベンツ・300SL(〈W198〉ガルウィングクーペのオーナーだった。一部勘違いで三橋美智也も所有と書かれることがあるが190SLの誤りである。シートは深紅。車体はシルバー[注釈 2])を所有していたほか、ロールス・ロイス・シルヴァースピリットやキャデラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。
交友
- 勝新太郎とは家族ぐるみの付き合いで[12]、互いを「兄弟」と呼び合った仲。裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ[13][14]。
- 1学年下の長嶋茂雄とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した[15]。
- 裕次郎と同じ12月28日生まれの渡哲也は日活所属だった際、1970年の映画『ある兵士の賭け』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した[16][17]。
- 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた[18]。
- 大橋巨泉とは映画『嵐を呼ぶ男』で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、当時大橋はジャズ評論家・放送作家という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後バラエティー番組『今晩は裕次郎です』で開始途中から構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は『11PM』の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。
その他のエピソード
- 1960年、日本の芸能界で初めて記者会見を開いた[19][出典無効]。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻まき子である北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。
- 1961年の大けがの際、赤木圭一郎の訃報の直後に入院していたため、アメリカ支配権下時代の沖縄の琉球放送が偽の訃報を流すというハプニングがあった。
- 1965年には國粹会のピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、後に銃刀法違反で有罪となる。
- 甥の(兄・慎太郎の三男)石原宏高を養子にしたがっていたとも伝えられる。
- 毎年正月には石原プロモーション所属俳優や交友のある有名人とともにハワイで過ごすのが恒例となっており、その様子は正月特番でも放映された。「正月をハワイで過ごす芸能人」の先駆けとなった人物でもある。
- 志賀高原スキー場での負傷後、療養を兼ねて信玄の隠し湯として知られる下部温泉「下部ホテル」の別館に妻とともに滞在していた。この別館は裕次郎によって「裕林亭」と名付けられ、現在も客間として提供されている。
- 主演した『赤い波止場』はジャン・ギャバン主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『望郷』が元ネタである。『赤い波止場』のリメイクである渡哲也主演の『紅の流れ星』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドがモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている[20][21]。
- 1962年、渡米した時「夢の渚」を撮影中のエルビス・プレスリーと対面した。2人が談話している写真が残されている。
- 兄、慎太郎が政界入りすると慎太郎の応援演説を行った。また自民党の橋本登美三郎は裕次郎を慕っており石原プロモーションが抱えていた借金を全額肩代わりするから参議院選挙に出馬しないかと要請したが裕次郎は断っている。
その他
1980年1月に成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロモーション所属俳優だった苅谷俊介は、石原邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった[22]。
家族・親族
石原家
- 父・潔(山下汽船社員)
- 母・光子
- 兄・慎太郎(作家、政治家)
- 妻・まき子(元女優)
- 1933年(昭和8年)7月生 -
裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて関連会社役員にまで出世した人物である。累代の名家とも、一代の商才で財を成した新興富裕層とも異なる、戦後の新興中流階級に属する。
略系図
石原潔━光子 ┣━━━━━━━━━━━━━┓ 石原慎太郎━典子 石原裕次郎━まき子 ┃ ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ 石原伸晃 石原良純 石原宏高 石原延啓
出演
映画
- 『太陽の季節』(古川卓巳監督、1956年5月17日公開、日活、伊豆役)
- 『狂った果実』(中平康監督、1956年7月12日公開、日活、滝島夏久役)
- 『乳母車』(田坂具隆監督、1956年11月13日公開、日活、相沢宗雄役)
- 『地底の歌』(野口博志監督、1956年12月12日公開、日活、ダイヤモンド冬役)
- 『月蝕』(井上梅次監督、1956年12月19日公開、日活、松木役)
- 『若ノ花物語』(森永健次郎監督、1956年12月26日公開、日活)
- 『人間魚雷出撃す』(古川卓巳監督、1956年12月26日公開、日活、黒崎中尉役)
- 『お転婆三人姉妹 踊る太陽』(井上梅次監督、1957年1月1日公開、日活、大助君役)
- 『ジャズ娘誕生』(春原政久監督、1957年4月3日公開、日活、南条春夫役)
- 『勝利者』(井上梅次監督、1957年5月1日公開、日活、夫馬俊太郎役)
- 『今日のいのち』(田坂具隆監督、1957年6月26日公開、日活、岩本岩次郎役)
- 『幕末太陽傳』(川島雄三監督、1957年7月14日公開、日活、高杉晋作役)
- 『海の野郎ども』(新藤兼人監督、1957年8月20日公開、日活、千鳥松役)
- 『鷲と鷹』(井上梅次監督、1957年9月29日公開、日活、千吉役)
- 『俺は待ってるぜ』(蔵原惟繕監督、1957年10月20日公開、日活、島木譲次役)
- 『峠』(齋藤武市監督、1957年11月5日公開、日活)
- 『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督、1957年12月28日公開、日活、国分正一役)
- 『心と肉体の旅』(舛田利雄監督、1958年1月9日公開、日活)
- 『夜の牙』(井上梅次監督、1958年1月15日公開、日活、杉浦健吉役)
- 『錆びたナイフ』(舛田利雄監督、1958年3月11日公開、日活、橘役)
- 『陽のあたる坂道』(田坂具隆監督、1958年4月15日公開、日活、田代信次役)
- 『明日は明日の風が吹く』(井上梅次監督、1958年4月29日公開、日活、松山健次役)
- 『素晴しき男性』(井上海次監督、1958年7月6日公開、日活、団武男役)
- 『風速40米』(蔵原惟繕監督、1958年8月12日公開、日活、滝颯夫役)
- 『赤い波止場』(舛田利雄監督、1958年9月23日公開、日活、富永二郎役)
- 『嵐の中を突っ走れ』(蔵原惟繕監督、1958年10月29日公開、日活、吉良千吉役)
- 『紅の翼』(中平康監督、1958年12月28日公開、日活、石田康二役)
- 『若い川の流れ』(田坂具隆監督、1959年1月15日公開、日活、曽根健助役)
- 『今日に生きる』(舛田利雄監督、1959年3月10日公開、日活、城俊次役)
- 『男が爆発する』(舛田利雄監督、1959年4月29日公開、日活、室戸謙作役)
- 『山と谷と雲』(牛原陽一監督、1959年5月31日公開、日活、牧戸次郎役)
- 『世界を賭ける恋』(滝沢英輔監督、1959年7月12日公開、日活、村岡雄二役)
- 『男なら夢を見ろ』(牛原陽一監督、1959年8月9日公開、日活、木島夏雄役)
- 『欧州駈けある記』(1959年8月30日公開、日活)
- 『清水の暴れん坊』(松尾昭典監督、1959年9月27日公開、日活、石松俊雄役)
- 『天と地を駈ける男』(舛田利雄監督、1959年11月1日公開、日活、稲葉鉄男役)
- 『男が命を賭ける時』(松尾昭典監督、1959年12月27日公開、日活、小室丈太郎役)
- 『鉄火場の風』(牛原陽一監督、1960年1月15日公開、日活、畑中英次役)
- 『白銀城の対決』(齋藤武市監督、1960年3月6日公開、日活、伊庭俊介役)
- 『あじさいの歌』(滝沢英輔監督、1960年4月2日公開、日活、河田藤助役)
- 『青年の樹』(舛田利雄監督、1960年4月29日公開、日活、和久武馬役)
- 『天下を取る』(牛原陽一監督、1960年7月13日公開、日活、大門大太役)
- 『喧嘩太郎』(舛田利雄監督、1960年8月10日公開、日活、宇野太郎役)
- 『やくざ先生』(松尾昭典監督、1960年9月21日公開、日活、新田悠三役)
- 『あした晴れるか』(中平康監督、1960年10月26日公開、日活、三杉耕平役)
- 『闘牛に賭ける男』(舛田利雄監督、1960年12月27日公開、日活、北見徹役)
- 『激流に生きる男』(野村孝監督、1962年5月1日公開、怪我で出演断念)
- 『街から街へつむじ風』(松尾昭典監督、1961年1月14日公開、日活、正木晋一役)
- 『あいつと私』(中平康監督、1961年9月10日公開、日活、黒川三郎役)
- 『堂堂たる人生』(牛原陽一監督、1961年10月22日公開、日活、中部周平役)
- 『アラブの嵐』(中平康監督、1961年12月24日公開、日活、宗方真太郎役)
- 『男と男の生きる街』(舛田利雄監督、1962年1月14日公開、日活、岩崎捷夫役)
- 『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕監督、1962年3月4日公開、日活、伴次郎役)
- 『青年の椅子』(西河克己監督、1962年4月8日公開、日活、高坂虎彦役)
- 『雲に向かって起つ』(滝沢英輔監督、1962年5月1日公開、日活、坂木武馬役)
- 『憎いあンちくしょう』(蔵原惟繕監督、1962年7月8日公開、日活、北大作役)
- 『零戦黒雲一家』(舛田利雄監督、1962年8月12日公開、日活、谷村雁役)
- 『若い人』(西河克己監督、1962年10月6日公開、日活、間崎慎太郎役)
- 『金門島にかける橋』(松尾昭典監督、1962年11月3日公開、日活、武井一郎役)
- 『花と竜』(舛田利雄監督、1962年12月26日公開、日活、玉井金五郎役)
- 『何か面白いことないか』(蔵原惟繕監督、1963年3月3日公開、日活、早坂次郎役)
- 『太陽への脱出』(舛田利雄監督、1963年4月28日公開、日活、速水志郎役)
- 『夜霧のブルース』(野村孝監督、1963年6月30日公開、日活、西脇順三役)
- 『太平洋ひとりぼっち』(市川崑監督、1963年10月27日公開、日活、青年役)
- 『赤いハンカチ』(舛田利雄監督、1964年1月3日公開、日活、三上次郎役)
- 『夕陽の丘』(松尾昭典監督、1964年4月29日公開、日活、篠原健次役)
- 『鉄火場破り』(齋藤武市監督、1964年7月12日公開、日活、関東政役)
- 『殺人者を消せ』(舛田利雄監督、1964年9月19日公開、日活、早川次郎/泉信夫役)
- 『敗れざるもの』(松尾昭典監督、1964年10月30日公開、日活、橋本鉄哉役)
- 『黒い海峡』(江崎実生監督、1964年12月31日公開、日活、槙明夫役)
- 『城取り』(舛田利雄監督、1965年3月6日公開、日活、車藤三役)
- 『青春とはなんだ』(舛田利雄監督、1965年7月14日公開、日活、野々村健介役)
- 『泣かせるぜ』(松尾昭典監督、1965年10月1日公開、日活、響伸作役)
- 『素晴らしきヒコーキ野郎』(ケン・アナキン監督、1965年10月9日公開、日活、Yamamoto役)
- 『赤い谷間の決斗』舛田利雄監督、1965年12月29日公開、日活、風間信吾役)
- 『二人の世界』(松尾昭典監督、1966年2月25日公開、日活、北条修一役)
- 『青春大統領』(江崎実生監督、1966年4月27日公開、日活、峰岡鷹志役)
- 『夜霧の慕情』(松尾昭典監督、1966年6月1日公開、日活、堀部良郎役)
- 『夜のバラを消せ』(舛田利雄監督、1966年7月9日公開、日活、徳川新六役)
- 『帰らざる波止場』(舛田利雄監督、1966年8月13日公開、日活、津田史郎役)
- 『栄光への挑戦』(舛田利雄監督、1966年10月8日公開、日活、宗吾郎役)
- 『逃亡列車』(江崎実生監督、1966年12月24日公開、日活、有坂大作役)
- 『夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生監督、1967年3月11日公開、日活、相良徹役)
- 『嵐来たり去る』(舛田利雄監督、1967年5月3日公開、日活、富坂の英五郎役)
- 『波止場の鷹』(西村昭五郎監督、1967年8月12日公開、日活、久須見健一役)
- 『東京の田舎っぺ』(千野皓司監督、1967年8月12日公開、日活、声のみ)
- 『君は恋人』(齋藤武市監督、1967年11月3日公開、日活、石崎監督役)
- 『黄金の野郎ども』(江崎実生監督、1967年12月23日公開、日活、立原英次役)
- 『遊侠三国志・鉄火の花道』(松尾昭典監督、1968年1月13日公開、日活、小村伸次郎役)
- 『黒部の太陽』(熊井啓監督、1968年2月17日公開、日活、岩岡役)
- 『昭和のいのち』(舛田利雄監督、1968年6月22日公開、日活、日下真介役)
- 『忘れるものか』(松尾昭典監督、1968年12月28日公開、日活、岡部司郎役)
- 『風林火山』(稲垣浩監督、1969年3月1日公開、東宝、上杉謙信役)
- 『栄光への5000キロ』(蔵原惟繕監督、1969年7月15日公開、松竹、五代高之役)
- 『人斬り』(五社英雄監督、1969年8月9日公開、大映、坂本竜馬役)
- 『嵐の勇者たち』(舛田利雄監督、1969年12月31日公開、日活、島地陶介役)
- 『富士山頂』(村野鐵太郎監督、1970年2月28日公開、日活、梅原悟郎役)
- 『待ち伏せ』(稲垣浩監督、1970年3月21日公開、東宝、弥太郎役)
- 『ある兵士の賭け』(キース・ラーセン/千野皓司/白井伸明監督、1970年6月6日公開、松竹、北林宏役)
- 『スパルタ教育くたばれ親父』(舛田利雄監督、1970年8月12日公開、ダイニチ、田上悠三役)
- 『戦争と人間(1部)』 (山本薩夫監督、1970年8月1日公開、ダイニチ、篠崎書記官役)
- 『男の世界』(長谷部安春監督、1971年1月13日公開、ダイニチ、紺野忠夫役)
- 『甦える大地』(中村登監督、1971年2月26日公開、松竹、植松一也役)
- 『影狩り』(舛田利雄監督、1972年6月10日公開、東宝、十兵衛役)
- 『影狩り・ほえろ大砲』(舛田利雄監督、1972年10月10日公開、東宝、室戸十兵衛役)
- 『反逆の報酬』(澤田幸弘監督、1973年2月17日公開、東宝、沖田徹男役)
- 『凍河』(斎藤耕一監督、1976年4月24日公開、松竹、竜野一郎役)
- 『わが青春のアルカディア』(勝間田具治監督、1982年7月28日公開、東映、(声)ファントム・F・ハーロックI世役)
- 『アゲイン』(1984年、新撮部分への出演なし)
- 『零戦燃ゆ』(舛田利雄監督、1984年8月11日公開、東宝、主題歌のみ)
テレビドラマ
- 『ダイヤル110番』(1958年、日本テレビ)
- 『小さき闘い』(1964年、フジテレビ)
- 『結婚について・祝婚』(1965年、TBSテレビ)
- 『黒部の太陽』(1969年、日本テレビ)
- 『太陽にほえろ!』(1972年7月-1981年5月、1981年12月-1986年6月、1986年11月、日本テレビ)- 藤堂俊介・捜査第一係長(通称・ボス)
- 『座頭市物語』(1974年、フジテレビ)
- 『痛快!河内山宗俊』(1975年、フジテレビ)
- 『新・座頭市』(1976年、フジテレビ)
- 『大都会』シリーズ(日本テレビ)
- 『大都会 闘いの日々』(1976年1月-9月)- 滝川竜太
- 『大都会 PARTII』(1977年4月-1978年3月)- 宗方悟郎
- 『大都会 PARTIII』(1978年9月-1979年9月)- 宗方悟郎
- 『浮浪雲』第二十回(1978年9月、テレビ朝日)- は組の頭岩吉
- 『西部警察』シリーズ(テレビ朝日)- 木暮謙三
- 『西部警察 PART-I』(1979年10月-1982年4月)
- 『西部警察 PART-II』(1982年5月 - 1983年3月)
- 『西部警察 PART-III』(1983年4月 - 1984年10月)
- 『木曜ゴールデンドラマ 俺たちの明日〜坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春〜』(1980年、日本テレビ)
- 『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(1989年、テレビ朝日)- 小暮警視(第1話にて遺影で登場)
テレビ・ラジオ
レギュラー番組
- 『石原裕次郎アワー』(1957年-1959年、文化放送)
- 『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』(1963年-1964年日本テレビ)
- 『すてきな仲間』(1966年NET)
- 『ラジオ広場 やあ!裕次郎です』(1982年、ニッポン放送)
- 『THE YUJIRO』(2003年-ミュージックバード)
- 『石原裕次郎チャンネル』(有線ラジオ放送)
ラジオドラマ
CM
※放映されなかったCMであり、死去直後に『幻のCM』として放送されたほかDVD「生誕80周年記念 石原裕次郎 松竹梅CM集」に収録。
大会出場
- 大島ヨットレース(1959年・1963年)
- トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
- アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
- パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
- インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
- 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)
パチンコ
歌手活動
書籍
写真集
出版
連載
演じた俳優
- テレビ朝日『弟』(2004年11月17日 - 21日放送)での配役
- NHK BSプレミアム『裕次郎は死なない〜心に刻まれた5つの物語〜』(2017年6月17日放送)での配役
脚注
注釈
出典
- ^ “石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜”. グレートマザー物語. テレビ朝日 (2002年2月24日). 2002年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月9日閲覧。
- ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社 2003年)
- ^ “石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表” (日本語). スポーツ報知. (2018年7月17日) 2018年7月20日閲覧。
- ^ 近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。
- ^ 石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊
- ^ 以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。
- ^ 高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1
- ^ 村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」 村西とおる日記 2009年10月9日より。
- ^ さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年
- ^ (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月17日
- ^ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値! - JCCテレビすべて フジテレビ【バイキング】2018年7月19日放送
- ^ 【石原裕次郎32回忌でまき子夫人&舘ひろしが坂上に秘話告白】 - gooテレビ番組(関東版) 直撃!シンソウ坂上 2018年7月19日
- ^ (2)「兄弟」勝新、最後の晩餐(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月3日
- ^ (5)勝新と玉緒のケンカ仲裁(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月6日
- ^ (1)昭和に風、長嶋さん語った(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月02日
- ^ 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔 - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日
- ^ (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年7月4日
- ^ 太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの(PHP研究所) 増田久雄
- ^ 有吉弘行&劇団ひとり&ビビる大木の天才リトル(2014年3月30日、フジテレビ)[出典無効]
- ^ 洋泉社 2016年11月『映画秘宝コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p
- ^ 「キネマ旬報オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より
- ^ 「土と役者と考古学」苅谷俊介 近畿医学検査学会
関連項目
- 石原裕次郎記念館(北海道小樽市)
関連人物
- 小林正彦 - 所属する事務所で長年に亘り役員を務めた。
- 庭野日敬(立正佼成会・開祖会長)
- 渡哲也 - 生年は違う(1941年)ものの裕次郎と同じ誕生日である。
- 舘ひろし
- 神田正輝
- 宇野重吉 - 裕次郎が亡くなった半年後の1988年1月9日、肺癌により73歳で死去。
- 寺尾聰
- 秋山武史
- 勝新太郎 - 弔辞を読む(文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』文春新書2011年所収)
- 三船敏郎
- 牧村旬子
- 浅丘ルリ子
- カルーセル麻紀 - 実の妹のようにかわいがった。
- 八代亜紀
- オレハマッテルゼ
- 島木譲二
- ゆうたろう - 石原裕次郎のモノマネタレント。幼少期に実際に遭遇し、今でもサインを飾っているという。
- 間寛平
- 松平健
- 高倉健
- 加山雄三
- 本間千代子
- 昔昔亭桃太郎
- 中田はじめ
- 日活ダイヤモンドライン:小林旭、赤木圭一郎、和田浩治、宍戸錠(新メンバー)、二谷英明(新メンバー)※和田は裕次郎との共演作がない。
- 六平直政 - 葬儀会場の大道具をつとめていた。このことを後に渡に話したところ、石原プロの関係者に敬意を払われたという。
- 黒木憲ジュニア(唐木淳) - 裕次郎作品「よこはま物語」を唐木淳時代2000年にカバーしビクターより発売。黒木憲ジュニア(唐木淳)にとって「よこはま物語」はデビュー10周年記念曲。裕次郎も黒木憲ジュニアの父黒木憲の曲「霧にむせぶ夜」をカバーしアルバムに収録している。
- 御木裕 - 兄慎太郎の紹介により、石原プロでスカウトし、芸名に裕次郎の一文字が付与された。