NHK紅白歌合戦
この記事は言葉を濁した曖昧な記述になっています。 |
NHK紅白歌合戦 | |
---|---|
ジャンル | 音楽番組 / 特別番組 |
出演者 | #各回の概要参照 |
オープニング |
歌の力 (番組テーマ曲) |
エンディング | 蛍の光 |
製作 | |
プロデューサー |
石原真 (CP、2005年・第56回 - ) |
制作 |
NHK (放送:総合テレビ) |
放送 | |
音声形式 | ステレオ放送[1] |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1951年1月3日・第1回 - 現在(テレビ放送は1953年1月2日・第3回から) |
放送時間 | 毎年12月31日19:15 - 23:45 |
放送分 | 270分 |
回数 | 62 |
公式サイト | |
特記事項: 1951年・第1回から1953年1月・第3回までは正月の放送。大晦日(12月31日)の放送は1953年12月・第4回から。よって1953年は放送が2回あった。 放送時間は2011年・第62回現在。20:55 - 21:00は『NHKニュース』を放送。 |
NHK紅白歌合戦 | |
---|---|
ジャンル | 音楽番組 / 特別番組 |
放送方式 | 生放送 |
放送期間 | 1951年1月3日(第1回) - 現在 |
放送時間 | 毎年12月31日19:15 - 23:45(270分) |
放送回数 | 62 |
放送局 | NHKラジオ第1 |
出演 | #各回の概要参照 |
テーマ曲 | 歌の力 |
プロデューサー | 石原真(CP、2005年・第56回 - ) |
公式サイト | 公式サイト |
特記事項: 放送時間は2011年・第62回現在。20:55 - 21:00は『NHKニュース』を放送。 |
『NHK紅白歌合戦』(エヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、NHKが(1953年12月・第4回から)毎年12月31日(大晦日)の夜に生放送する男女対抗形式の大型音楽番組。通称は『紅白』。会場は(1973年・第24回から)NHKホール。テレビ放送は1953年1月2日・第3回からである。デジタル双方向機能対応番組。
放送メディア・放送時間
- 1951年・第1回から1953年1月・第3回まではラジオ放送の正月の特別番組としてNHKのスタジオで行っていたが、テレビ放送開始で大きな会場で放送する必要が出てきた。当時は現在の会場であるNHKホールはまだなく、日本劇場を借りることになったが、NHKは劇場を借りる際、当初は正月で打診したが、正月は全て正月公演で埋まっていたため、偶々空いていたのが1953年12月31日であったことから、第4回以降、12月31日に放送することになった経緯がある[2]。
- 国内向けにはNHKの総合テレビとラジオ第1で放送される。かつてはBS2(1984年・第35回より)・BShi(1989年・第40回より)でも放送されていた。このうちBS2ではBモードステレオ放送で、BShiでは5.1chサラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめた(これら2波は完全デジタル化に伴うBSプレミアムへの整理統合及びそれに伴う番組編成の見直しから2010年・第61回を以って終了)。ラジオ中継では、客席上のラジオ中継席からステージ上で行われていることの実況とともに放送。海外向けにはNHKワールド・プレミアムとNHKワールド・ラジオ日本で放送される(短波放送は地域により数時間遅れまたは第2部のみの放送だが、2007年・第58回以降は東南アジア・アジア大陸地域の同時放送のみ。2009年・第60回以降は衛星ラジオでも全世界に向けて放送)。またNHK主体ではないが、海外の現地ケーブルテレビチャンネル(主として日本専門チャンネル)を通じて放送される場合がある(NHKワールド・プレミアム放送の際には字幕がないため)。
- 開始時刻は1967年・第18回以降長らく21:00(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年・第40回から19:20に、2009年・第60回は19:15に繰り上がった。その後、開始時刻は回によって19:15から20:00の間で推移している。第2部の開始は21時台、特に1994年・第45回以降は21:30に固定されているが、2009年・第60回と2011年・第62回は30分繰り上がり21:00となった。
- 終了時刻は1962年・第13回以降一貫して23:45である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。
- 2部制となった1989年(平成・第40回以降、第1部と第2部の間の5分間(1999年・第50回、2003年・第54回、2004年・第55回は10分間)は、その年の最後の『NHKニュース』を放送する。ただし、BShiは別番組に差し替えとなっており、2006年・第57回までは「デジタル紅白○○(西暦)」と題した独自番組を放送していたが、2007年・第58回 - 2010年・第61回は番組案内スポットを放送していた。
- 総合テレビはリアルタイム字幕放送を実施(中断ニュースも含む)。
番組内容
その年を代表する女性歌手を紅組(あかぐみ)、男性歌手を白組(しろぐみ)に分け、対抗形式で歌や演奏を披露する。番組初期において、男女混成グループは女性ボーカルのみが紅組で単独出場したり、男性ボーカルのみが女性ボーカルのパートも兼ねて男性陣のみで白組に出場する等の処置が取られていた[3]。男女混成グループが初めて出場したのは、1968年・第19回のピンキーとキラーズである[4]。男女混成グループの組分けや出場した組の例外については以下の事例がある。
- 男女混成グループの場合は、男女の人数に係わらずメインボーカルの性別を優先する。
- DREAMS COME TRUEやいきものがかりなどなら紅組
- サザンオールスターズやAqua Timezなどなら白組
- ただし、枠が空いている組に振り入れられる場合があるとされ、1971年・第22回のはしだのりひことクライマックス、1972年・第23回の青い三角定規はメインボーカル的存在が女性であるにも係わらずそれぞれ白組から出場
- ソロ歌手としての出場する場合は性別による(白組のサザンオールスターズのメンバーの原由子[紅組]など)
- 2005年・第56回でフジテレビ系列『ワンナイR&R』内でガレッジセールのゴリが女装(歌手デビュー)したキャラであるゴリエが女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。正確にはGorie with Jasmine & Joannとして活動しており、メインボーカルはゴリエではなく、女性であるジャスミン・アレンとジョアンであるため(ゴリエ本人も若干ソロパートがある)、紅組出場となった。一方、2006年・第57回に同じく女装スタイルでゴリエと異なり全編自身による歌唱の桜塚やっくんが(本人の強い意向により)紅組での出場が内定したと一部スポーツ紙に報道されていた(結局、落選したため実現には至らず)。
- 2005年・第56回で和田アキ子がm-flo loves AKIKO WADAとして白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。
- 男女のデュエットは基本的に紅組
- ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。また、ソロ歌手同士の男女デュエットではないものの、2011年・第62回では、薫と友樹、たまにムック。名義でコンビを組む芦田愛菜と鈴木福が、紅白の勝敗には係わらない形で個々に紅組・白組から出場した。
- 2007年・第58回では、性同一性障害を抱える戸籍上は男性の中村中が紅組で出場した。
- 先述の原・和田のように、このシステムの結果、紅白両組から出場経験を持つ者も存在する。
労働基準法による制限から、中学生以下の年少の歌手や年少者が含まれるアイドルグループなどは第1部に集中的に出演する。当該の年少者は第2部には応援合戦・アトラクションなどでも出演しない。
選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲または代表曲(過去のヒット曲など)である。その回のテーマに沿った歌が選ばれる場合もある。選曲の傾向や例外には次の事例がある。
- 発売前の楽曲を歌唱した者もいる。
- 桜田淳子が本人のヒット曲ではない『セーラー服と機関銃』(薬師丸ひろ子)を歌った(1982年(昭和57年)・第33回)。
- 2000年代後半以降、演歌・歌謡歌手は新曲の歌唱を敬遠されがち(正確には1990年代頃からその傾向が徐々に増えていた。この間2001年・第52回、2004年・第55回は比較的多くの演歌歌手がポップス歌手同様新曲の歌唱が多かったが、これ以外は新曲を歌唱する演歌歌手が少数派となっている)で、過去のヒット曲が選曲される傾向にあり、且つ同じ曲が何度も歌われることも多い。例えば、中村美律子は1989年のヒット曲『河内おとこ節』を現在まで8回歌っている。同じ曲が何度も歌唱されることに関しては、週刊誌等のメディアに「何故、毎年同じ歌?」のような批判記事が出ることがある。ただし、小林幸子、五木ひろし、氷川きよしは一部の回を除き毎回行われた年に発売されたシングルの新曲を歌っている。
- 選曲権は基本的に歌手側には与えられずに、番組側から歌手側へ一方的な押し付け状態となるケースが多く、歌手から反発を買うことがある。1991年・第42回では未発表曲『BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜』の歌唱を番組側に拒否されたHOUND DOGが出場を辞退した。(後述の話と関連するが)2009年・第60回の出場を最後に勇退を表明した布施明はその理由の1つに「(自身の)歌唱曲が固定している」ことを挙げた。その一方で、選曲に歌手側の意向が汲まれたとされるケースも存在する。
紅・白両軍の歌手が1組ずつ同じ曲を歌い、直接対決となり、「同曲対決」が実現したことがある。
「歌合戦」と称しているものの、演奏のみで歌わないグループの出場もある。1990年・第41回のG-クレフや2003年(平成15年)・第54回の女子十二楽坊など。
歌唱時間は1組で3分程度が定番[5]だが、例外もある。釈の長い曲を紅白で歌唱する場合、なんらかの対応が取られることがある。
歌の間には応援合戦やアトラクションが行われ、かつてはほとんど恒例というべき出し物もあった。
- 1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。
- 出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例であった。2002年・第53回以降はそれが電子メールに変化している。
- Eテレやその年話題となったキャラクター達が着ぐるみで登場することもある他、動物が登場したこともある。
放送前に出場歌手の歌唱曲や曲順を原則全て公開している。
トリ歌手は紅・白とも演歌・歌謡歌手が務めることが多かったが、2010年・第61回では紅組トリにDREAMS COME TRUE(翌2011年・第62回では出場辞退)、白組トリおよび大トリにSMAPと両軍共にポップス歌手及びグループがトリに起用された。同回の曲順発表の際に番組側が「昨年、60回のメモリアルを終え、今年は新しい紅白の新しい時代の雰囲気を薫らせたかった。当代を代表する2組にお願いした」「演歌も1年を象徴するヒット曲が生まれるならトリも考えていく」と説明、並びに今後も基本的にポップス歌手をトリに起用する方針であるとも取れる内容のコメントをしている[6]。だが、この方針とは裏腹に翌2011年・第62回では白組トリおよび大トリには前年に続きSMAPが起用されたのに対し、紅組トリには演歌歌手である石川さゆりが起用された(石川の歌唱曲は1977年の楽曲『津軽海峡・冬景色』である)。
- かつてトリ歌手は「ソロ歌手でなくてはいけない」とのルールがあったが、2003年・第54回にSMAPが白組トリおよび大トリに起用されたことでこの慣例はなくなった。1992年・第43回では、紅組トリに由紀さおり・安田祥子、白組トリおよび大トリに同紅白で解散のステージとなっていたチェッカーズと紅・白ともにグループを起用する構想が挙がっていたが、このルールがあったために双方ともに見送りとなった経緯がある(紅組トリに関しては、由紀が単独出場してトリで歌唱し、安田が舞台裏でコーラスをするという形となった)。
- 先述の通り、初期におけるトリは圧倒的に演歌・歌謡歌手からの起用が多かった。初めてポップス歌手同士がトリを務めたのは、1978年・第29回であり、紅組トリに山口百恵、白組トリおよび大トリに沢田研二が起用された。この年が「演歌不作の年」とも評される程に、演歌勢で目立ったヒットがほとんど生まれなかった反面、ニューミュージックブームの到来であったため、ヒット作による出場作の不作でもあった。ポップス系で多くのヒット作や話題があったことから、企画の段階からこの年の紅白のラストは人気No.1のポップス系歌手で、という方針は固まっており、先に紅組トリに百恵を起用することを決定。その後、彼女の対戦相手として最も適材な歌手として当時の男性ポップス系歌手人気No.1の沢田が白組トリに起用されることとなったと言われている。ただし、これ以降ポップス歌手同士がトリという事例は先述の2010年・第61回まで待つこととなる。また、紅組の10代の歌手が紅白のトリ歌手に起用されたのも百恵が最年少で紅白史上初(紅白両組ともに平成生まれでは未だにいない)となっており、その記録は未だに破られていない。
- 現時点において、2年連続でポップス歌手同士がトリを務めたというケースはない。
- トリに初出場の歌手が起用されるケースは極めて稀である。
勝敗はゲスト審査員と会場の観客および地上デジタルテレビ放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査とその結果の発表方式は回によって異なる。
番組のフィナーレは、一部の回を除き『蛍の光』を全出演者(出場歌手・司会者・ゲスト審査員)で大合唱される恒例である。例外として、東京オリンピックを翌年に控えた1963年・第14回は『東京五輪音頭』が歌われた。また、2007年・第58回は『蛍の光』とセットという形で、SMAPと槇原敬之のメインボーカルにて『世界に一つだけの花』も全員で合唱された。
- 合唱の指揮者は藤山一郎が逝去する前年の1992年・第43回まで務めた(1971年・第22回は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年・第8回まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出演記録であった(現在の番組最多出演記録は白組出場歌手の北島三郎が持っている)。
- 藤山が逝去したため、1993年・第44回から2005年・第56回まで作曲家の宮川泰が務めた。
- 宮川が逝去したため、2006年・第57回以降は作曲家・歌手の平尾昌晃が指揮を務めている。
放送するにあたっては、番組内でのサプライズやトークも進行台本にト書きされており秒単位での進行が行われている。バックバンドやダンサーを含む出演者ら本人及び、照明からセットを含むゲネプロを行い本番同様の綿密な予行演習が連日にわたり実施される。
未曾有の大震災が日本国内で発生した年の紅白は震災復興を後押しする内容で放送となるケースがある[7]。
司会者とは別に「応援団」「サポーター代表」「紅白応援隊」「紅白デジタル応援隊」といったポジションが登場する回もある。これらは番組PRや番組の盛り上げに一役を買う位置付けである。また、ゲスト審査員へのインタビューを専ら担う「審査員リポート」という役が設けられたこともある(この役はNHKアナウンサーが担う。ゲスト審査員のインタビューは通常、総合司会や組司会が行う)。
出場者の決定
基本的には前年の紅白が終了してからの1年間にヒット曲を出した歌手を対象として出場者の選考が行われる。現在では本人や所属レコード会社・所属事務所に対して選考対象とされることや出場への意思の有無の確認が行われ、これと平行して世論調査・アンケートやNHK内での数ヶ月間にも及ぶ事前の内部作業などを経て選考対象者の絞り込みも行われてゆき、その出場者は例年11月頃に行われる選考会議で最終決定され、出場者が発表され正式に出場が決定する。
過去には本人に対しては出場決定後の通知のみであった。そのため、江利チエミや田原俊彦などで出場決定後に本人が辞退の意志を表明するという出来事が起きている。
出場者の発表当日には司会者および出場予定者の代表者が出席しての記者会見が行われ、これには競合関係にある民放各局も含めたマスコミ各社の取材陣が集まり、『NHKニュース』を始め各メディアでも報道され、年末が近くなってきたことを示す風物詩の1つになっている。また、情報は記者会見とほぼ同時にプレスリリース・特設公式ウェブサイトなどでも並行して順次公表される。
紅白出場者の選考については、第一義的には音楽業界での活躍・CDセールスの実績・実力・知名度・話題性・歌唱力などが重要となるが、他にもNHK番組への出演・関与や番組主題歌の歌唱など、「NHKに対する貢献度」が選考を左右する要素として決して小さからぬ割合を占めている。そのため、大きなヒット曲や話題性がなくとも、日頃のNHK各種番組への積極的な出演やテーマ曲などの楽曲提供を評価されて選出され、紅白の舞台でNHK番組のテーマ曲や過去のヒット曲を歌う者が例年見られている。このこともあって、紅白には主に演歌系を中心に「紅白常連組」などと呼ばれる多数回出場の実績を持つ中堅・ベテラン歌手が存在している。
特に『連続テレビ小説』の主題歌やオリンピック・FIFAワールドカップのNHK中継番組テーマ曲、NHK全国学校音楽コンクール課題曲(中学校の部)を担当した者については、出場しやすい面がある[8]。ボーカルの桜井和寿による「音楽で勝敗を決める番組に出演したくない」との理由で出場辞退を続けてきたMr.Childrenが、2008年の北京オリンピック・北京パラリンピックの同中継テーマ曲『GIFT』を担当した縁で同年の第59回への出場を受け入れたというケースもある。ただし、NHKがオリンピック中継実施時に自局テーマ曲を設けるようになった1988年のソウルオリンピック以降、同テーマ曲を担当した歌手がその年の紅白に出場するという事例は中々実現しなかった[9]。初めてこのようなケースが実現したのは、2004年・第55回のゆずである(同年のアテネオリンピックの同中継テーマ曲『栄光の架橋』を同紅白で歌唱)。ちなみに、それ以降冬季・夏季ともにオリンピック開催年において、同中継テーマ曲を担当した歌手はその年の紅白に出場して同テーマ曲を歌唱するようになっている。
音楽業界で大きな実績を残しながらも、年内を以っての解散を決定したバンド・グループや、引退・休業を発表した歌手を選出することがある[10]。この場合、紅白がラストステージ(ないし最後のテレビ・ラジオ出演)となること、その出演が社会的関心事となる場合も少なくない。また、紅白出演を以って活動休止に入った歌手が翌年以降の紅白に出演して活動再開を果たすというケースも見られる[11]。
童謡やそれに類する子供向けの映画主題歌などの楽曲も、童謡歌手出身で声楽家・歌手として大成した安田祥子・由紀さおり姉妹が手掛けるまでは出にくかった一面があり、NHKの番組関連の楽曲を別とすれば出演の事例は少ない。かつては番組開始が21時であったことから、子供向けの楽曲であること以外にも、童謡歌手は低年齢である場合が多いことから、古くより深夜帯に掛かる番組であることや、その後も労働基準法などとの兼ね合いで中学生以下の子供の出場が事実上不可能であった点も、出場への大きなネックとなっていた。
逆に社会現象あるいは音楽市場全体の動向に影響を与えたと言える程の一大ブームを巻き起こしたジャンルの場合、視聴率への大きな波及が期待できることもあり、ジャンルとしては勃興期にあっても複数のグループを選出することがある(1990年代のヴィジュアル系の各バンドなど)。
1975年・第26回のずうとるび以後、民放番組からデビューした企画ユニット・ソロ歌手(番組内のキャラクター)も出場しており、特に1990年代後半以降は多くの民放番組出身歌手が出場するようになった。その場合、該当番組内でそれらの人物が「紅白を狙う」と公言したり、出場が決まった際には紅白本番中やその舞台裏の模様を後日番組内で「紅白ドキュメント」などと銘打って放映したりすることがある。また、これらの歌唱時には番組共演者が応援ゲストとして登場することもある。NHK側は話題となっている民放番組出身ユニット・歌手に出場してもらうことで視聴率獲得への期待をしている面があり[12]、民放局側も自局番組出身のユニット・歌手を紅白に出場させることに協力的な姿勢であるという[13]。ちなみに、これらの登場シーンは視聴率が跳ね上がることも多い。一方、1980年代ではフジテレビ系列『夕やけニャンニャン』出身のおニャン子クラブが民放色の強さ等が理由で落選したということもあった。
上記の話と関連するが、お笑いタレントや役者、声優、会社員など本業が歌手でない者の出場も見受けられる。
1990年代頃から海外アーティストの招聘にも積極的であり、アジア・南米からも出場者が現れている。2004年・第55回のイ・ジョンヒョン、Ryuの出場や、2008年・第59回のエンヤの特別ゲスト枠での出演は話題になった。一方、過去には2010年・第61回、それまで9年間連続出場が続き、この年も民放などを中心に少なからぬマスコミが複数出場も予想していた韓国のK-POP勢が悉く不選出となったこともある[14]。翌2011年・第62回ではK-PОP勢から3組が出場している。
出場者については、所属する芸能事務所毎に一定の枠、すなわち数的制限が設けられる慣例があるとされる。この慣例については、2009年・第60回出場歌手発表後に番組側は「枠を設けたことはない」と説明した[15]が、番組終了後にジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川が「NHKに2枠固定と言われ意固地になっていた」と事務所毎の一定枠が存在することを示唆する発言をしている[16]。ただし、2005年・第56回の出場歌手発表時にマスコミから番組側に「ジャニーズ事務所の歌手・グループを出さないのか?」との質問が出された際、番組側が「ジャニーズさんにはもっと出してほしいとお願いしているんですが・・・」と返答していた[17]。
かつて、二部制が導入された1980年代前半までは芸能事務所毎の枠という概念そのものが存在していなかった。このため1974年・第25回)では、出場歌手の紅白計50組中10組を当時全盛期にあった渡辺プロダクションに所属する歌手が占める、つまりは出場枠の1/5を一事務所が独占するという状況も見られた。だが、現在は一定の枠が事実上として設けられるこの慣例の存在もあり、かつての渡辺プロ程の規模で特定の一事務所が出場枠の一定割合を専有することは事実上不可能になっている。
渡辺プロダクションの全盛期が過ぎ去るのと入れ替わる様に1980年代から芸能界で大きな影響力を持つようになったジャニーズ事務所に所属するタレントの歌手としての出場は、1994年・第45回 - 2008年・第59回まで、近藤真彦の返り咲き出場を例外とすればSMAP・TOKIOに限定されていた。状況に変化があったのは2009年・第60回で、この両者に加え嵐とNYC boys(NYCの前身。「こども紅白歌合戦」に出場したスノープリンス合唱団も含めると5組)が出場した[18]。翌2010年・第61回でも、白組司会の嵐を含め4組が出場した。とはいえ、この2010年にはメンバーの井ノ原快彦が総合テレビでのレギュラー番組『あさイチ』で司会を務めていることなどから出場を有力視されていた[19]V6が不選出という事例もあった。
ソロ歌手とグループ、あるいはソロ別名義等での活動を掛け持ちする歌手も多数存在するが、紅白では原則同じ1人の歌手が複数名義にわたって出場することはない。数少ないケースとして、沢田研二が1989年・第40回において、沢田ソロ・ザ・タイガースの2名義で出場したことがある。他に2005年・第56回、2006年・第57回において、同時出場したハロー!プロジェクトのソロ歌手・ユニットが同パッケージから出演し、結果一部の人物が複数名義で同時出場を果たしている。
「出場辞退」
紅白については、セールス実績や話題性などから出場を確実視されていた歌手・グループの選出・非選出と同様に、出場予定者の出場辞退や直前の欠場、つまりエントリーの変更が、出場と同様か時にそれ以上に大きな社会的話題となる場合がある。
紅白出場を「興味ない」などという理由や1980年代から自身のカウントダウンコンサートを含む大晦日当日の別の仕事で辞退する者も多く存在している。
NHKは公共放送でありその番組は国民が払う受信料によって制作され、出場者に対して支払われるギャランティーもまたそれによって賄われている。そのため、すなわちイメージがクリーンであることも、出演者の選出・決定にあたって満たし、また出場当日まで守り続けなければならない重要な必要条件の1つとなっている。
過去から現在に至るまで、暴力団関係者との不適切な関係や、金銭面のトラブルなどといったスキャンダル・不祥事の発覚により、「出場を希望したが不祥事を理由に落選」という形にされる前に、「内々で自主的に辞退」という形を取って歌手サイドが自ら選考から降り、出演を断念するケースが幾度も繰り返されている。また、この様な出来事を巡って週刊誌などで音楽業界や芸能界の暗部を窺わせる様な報道が見られることもある。
特にいわゆる“黒い交際”の発覚、すなわち暴力団・ヤクザなどの反社会的勢力が絡むスキャンダルが表面化することは、紅白出場を目指す人物にとっては大きなタブーで、選考にも決定的な悪影響を及ぼす。それは大物歌手・ベテラン歌手であっても例外ではなく、過去には長年紅組トリを独占していた美空ひばりが、1973年、暴力団構成員であった弟のかとう哲也の逮捕をきっかけに、三代目山口組・田岡一雄との関係を問題視される形で事実上の落選となり、以後は「自発的に出場辞退」という形をとり続けたが、実際には紅白を事実上追われて、正式な出場歌手としてはついに復帰できなかったことは有名である。2008年にも同様に暴力団組長が主催したゴルフコンペに複数のベテラン歌手が参加したことが発覚、この歌手たちについてNHKは「当面は番組出演見合せ」という措置を取り、歌手たちの所属する事務所は「辞退という形を取った」と主張したものの、この年の第59回ではやはり事実上の落選という形になった。また、1986年の第37回では、北島三郎・山本譲二が1月に暴力団主催の宴席に出席していたことがマスコミ報道で暴露され、本番の差し迫った12月29日に出場辞退を余儀なくされ、代役として角川博と鳥羽一郎を選出したものの、今度は鳥羽が自身も暴力団と過去に関わりがあったことを自ら暴露し、この一件に対するNHKの偽善の姿勢を批判して辞退、最終的には30日午後というギリギリの段階で、31日夜のスケジュールが偶々空いていたシブがき隊を確保して代替出場させ、どうにか取り繕ったという事例も発生している。この様な「黒い関係」については、暴力団関係者のものであることが意図的に伏せられた宴席に芸能人が招待・招聘され出席し、マスコミ報道による暴露で当事者や所属事務所が初めてその事実を把握したようなケースでも、その年の紅白出場に向けては致命的なマイナスとなる[20]。その他、2011年には、暴力団の影響力排除を目的とした各都道府県の暴力団排除条例の施行の進捗や、8月に島田紳助が暴力団との交際の発覚を理由に芸能界を引退し大きな話題になったことなどもあり、NHKも暴力団排除指針を公表しており、同年の第62回の選考を巡って、黒い交際の情報がある人物は排除しなければならず、NHKが出場候補者の人選に通常より神経を使い、報道局など組織内の多くのリソースも投入していると各メディアで報じられた。
不祥事以外の事故や疾病などのアクシデントでもその内容や時期によっては、出場の可否を巡る話題が発生するケースもある。2008年・第59回では浜崎あゆみが直前に右手を負傷し緊急手術を受ける事態となり、紅白直前の日程のテレビ出演(テレビ朝日系列『ミュージックステーションスーパーライブ2008』)のキャンセルを余儀なくされたものの、最終的に紅白には出場を果たした。だが、この際には浜崎が出場できるか辞退を余儀なくされるかを巡って、さらには浜崎は通常は右手でマイクを握ることから、紅白に出場する場合どうやってマイクを使用するかについてまで、当日の放送開始のギリギリまで各種マスコミで様々な情報が交錯した。
また、ベテランの域に達すると、「紅白常連組」として知られていた歌手の中にもいわゆる「紅白卒業」を表明し、以後は基本的に選考・出場を辞退(不出場)するようになる者が見られる(島倉千代子、三波春夫、都はるみ、布施明など)。なお、この際に歌手サイドから述べられる理由は、「引き際を大切にしたい」「後進に道を譲る」「自らの楽曲やジャンルに対する番組制作サイドの軽視への不満(同じ過去のヒット曲ばかり歌わされる、同じジャンルの有望な若手・中堅に出場機会が与えられない、など)」「毎年繰り返される落選への恐怖に耐えられない」など様々である[21][22]。この他、連続出場していた歌手が、落選を機に「出演の意思が無い」という姿勢を取った事例や、連続出場が途絶えた回を境に「紅白卒業」を明言した歌手もいる(中山美穂など)。
ただし、NHKは基本的に選考の過程や理由などを詳らかにはしておらず、非選出者については発表記者会見の質疑応答の中で特に話題になった一部の者についてのみ個別に最低限の事情を明らかにしている程度で、NHKのニュース番組・番組情報等もほぼ触れない。また、民放各局・その他各メディアの選出・非選出にまつわる悲喜こもごもの芸能ニュースも大半はその記者会見の質疑応答の内容と「芸能関係者」からの情報・コメントを抜粋したものという構成である。
なお、出場が正式決定した後になってから、いわゆる不祥事・スキャンダル以外の歌手側の都合で出場を辞退し、代替出場の歌手が立てられたケースは少ないものの、以下の事例がある。
- 第2回 松島詩子 - 理由:本番当日に交通事故に遭遇したことによる負傷。代役は越路吹雪。
- 第6回 サンディー・シムス - 理由:飛行機が欠航した影響で、本番当日までに滞在先の香港[23]から東京に戻れず。代役は芦野宏。
- 第7回 雪村いづみ - 理由:本番当日の急病(胃痙攣)のため。代役は立てられなかったが、雪村の親友である江利チエミが急遽、出場者の印の赤い花を2つ胸に付けて雪村の分と合わせ2曲を歌唱した。
- 第21回 江利チエミ - 理由:「ヒット曲がない」という歌手側の意向。代役は日吉ミミ。
- 第22回 内山田洋とクール・ファイブ - 理由:ボーカルの前川清の急病[24]。代役はフォーリーブス。
- 第39回 田原俊彦 - 理由:当初、レコード会社・所属事務所の同意を得てNHKが出場を決定したが、田原本人が「紅白は卒業した」として辞退を表明。代役は男闘呼組。
- 第42回 HOUND DOG - 理由:歌唱曲の選曲を巡ってNHKとの間でトラブルとなり辞退。代役はバブルガム・ブラザーズ。
- 第55回 後浦なつみ - 理由:安倍なつみの詩の盗作発覚により辞退。残りの2人(後藤真希と松浦亜弥)でユニット名も改めて出場。
この他、出場する予定だったグループの一部の人物が、病気・負傷・不祥事などの理由により欠場・出場辞退という事態になり、残りのメンバーで出場したケースも存在する。
司会者
出場歌手同様、司会者の人選もメディアが大きく取り上げており、メディアによる司会者の予想が行われたり、オリコンが大衆に向けて紅白の司会者希望調査を実施したりする。ただし、メディアに司会起用が有力(内定したとする場合もある)であると報じられた人物が実際非選出だったというケースも多くある。
紅組司会・白組司会・総合司会と司会分担されており、紅組司会と白組司会は出場歌手の紹介などを行い、総合司会は全体の進行を行う。
司会進行の形式は、2006年・第57回まで大部分を両軍司会がそれぞれ下手(紅組)、上手(白組)(1953年12月・第4回のみ逆であった)に分かれて別々に進行するものだったが、2007年・第58回以降は番組の最後などを除き下手席で両軍司会が揃って進行する形に移行している。
紅組司会は基本的に女性が務め主に歌手、女優、元お笑いタレントといった女性芸能人が務めており、1953年1月・第3回、1954年・第5回、1986年・第37回、1998年・第49回 - 2004年・第55回まではNHKの女性アナウンサーが務めている。白組司会は基本的に男性が務め番組初期から1967年・第18回、1970年・第21回 - 1986年・第37回、2001年・第52回 - 2004年・第55回まではNHKの男性アナウンサーが務めており、1968年・第18回、1969年・第19回、1986年・第37回 - 2000年・第51回、2005年・第56回以降は歌手、俳優、フリーアナウンサー、上方落語家といった男性芸能人が務めている。また、紅組司会を男性が務めたケース(1人目は1955年・第6回、1956年・第7回の当時NHKアナウンサーの宮田輝、2人目は2007年・第58回のSMAPの中居正広)[25]や組司会が複数となったケース(1986年・第37回、2003年・第54回の両軍2人体制、2010年・第61回と2011年・第62回の白組司会の嵐の5人体制)もある。なお、白組司会を女性が務めたケースはない。組司会について、2007年・第58回の司会発表の際に番組側は、「紅組司会が女性でなくてはいけないということではない」と説明している[26]。
総合司会は基本的にNHKアナウンサーが務め、男性が務めることが多いが1988年・第39回以降はNHKの女性アナウンサー1人のみや男女1人ずつの2人体制が務めるケースもある。NHKアナウンサー以外が務めたケースは過去に2人のみで、1人目は1983年・第34回のタモリ、2人目は2005年・第56回のみのもんた(正式なものではない)である(なお、NHKアナウンサー以外の女性が務めたケースはない)。また、総合司会の名義が進行役というのもあり、総合司会が正式であったり・正式ではないのもある。
- ※1986年・第37回は紅組司会が目加田賴子・斉藤由貴、白組司会が千田正穂・加山雄三という体裁だが、事実上は目加田・千田は斉藤・加山の補佐役という体裁だった。
- ※2005年・第56回は正式には司会の区別はなく、みのもんた、山根基世、仲間由紀恵、山本耕史の4人で「グループ司会」という体裁を採っていたが、事実上は紅組司会が仲間、白組司会が山本、総合司会がみのと山根という体裁だった。
司会選出にあたっては、基本的にNHKの番組で活躍する人物が選ばれることが多く、『連続テレビ小説』・『大河ドラマ』の出演(主演)女優・俳優、人気歌手(出場歌手)、同局の人気バラエティ番組・音楽番組の司会者、NHKの看板アナウンサーなど様々な人選がされており、司会経験が手薄な人物が選出されることも珍しくない。また、1994年・第45回 - 1996年・第47回まで白組司会を務めた古舘伊知郎や2005年・第56回に司会を務めたみのもんたのように民放のアナウンサー出身者(前者はテレビ朝日、後者は文化放送)からの選出もされている。なお、民放のアナウンサー出身である女性が司会に選出されたケースはない。
司会が決定すると、出場歌手発表時同様、記者会見を開き発表することが恒例。また、紅白の司会者は各テレビ情報誌の年末年始号の表紙に起用されることも多い(紅白の司会を務めるにあたってのインタビューも掲載される)。
出場歌手が組司会を兼任する場合もあり、その際は基本的に出場歌手・組司会どちらも同じ組から行うが、例外として2007年・第58回のSMAPの中居正広は出場歌手はSMAPとして白組で、組司会は紅組で行った。1968年・第19回、1969年・第20回、1986年・第37回 - 1988年・第39回、1997年・第48回は出場歌手同士の両軍司会となった。美空ひばり(1970年・第21回、大トリも。なお司会と大トリを兼任したのは紅白史上唯一)、森昌子(1985年・第36回)、和田アキ子(1987年・第38回)は紅組司会を兼任した回で紅組トリを務めた(男性歌手が組司会を兼任してトリを務めたケースはない)。なお、出場歌手が組司会を兼任する場合、その人物の歌手としての出番の曲紹介は基本的に相手組司会・総合司会・出場歌手・応援団・応援ゲストが代理で担当するが、本人が自ら紹介することもある。また、本業が歌手の人物が出場歌手には落選した上で司会を務めたケース(紅組司会をそれぞれ務めたペギー葉山(1966年・第17回)、九重佑三子(1967年・第18回)[27])、司会を務めた翌年に歌手として初出場を果たしたケース(紅組歌手の松たか子(1997年・第48回)[28])、同じ回に歌手初出場と初司会を双方果たしたケース(紅組歌手と紅組司会を兼任した斉藤由貴(1986年・第37回)[29])もある。
現時点において、NHKアナウンサーが全ての回で司会に携わっている。これは紅白生放送中になんらかの有事(重大事件・事故・災害など)が発生した場合や芸能人司会者が本番直前にアクシデント(病気・負傷・不祥事など)により出演不能となった場合への対応の意味合いもあるとされる。特に2001年・第52回 - 2004年・第55回までは当時NHK会長の海老沢勝二による「NHK色を強めたい」との強い意向により、司会陣が全員NHKアナウンサーで固められた。
司会の台本は電話帳数冊分におよぶものである。また、司会は放送内でアドリブを入れることも中々できないという。
ゲスト審査員
その年を代表する著名人(タレント・俳優・女優・スポーツ関係者・音楽関係者・文化人など)が起用されることが恒例。審査への参加は勿論、番組内で随所に番組の感想を述べたりする。
翌年の『大河ドラマ』の主演者は出場歌手や組司会に選出されない限り、ゲスト審査員に起用されることが多い。その年の日本プロ野球・メジャーリーグで活躍(主に優勝・タイトル獲得者)した選手・監督や大相撲で実績を残した力士も選ばれやすく、また近代オリンピック開催年ではメダル獲得者が選ばれることも恒例。
2004年・第55回までNHK番組制作局長が務める審査委員長というポストがあった。
ゲスト
1955年・第6回のトニー谷を皮切りに多くの著名人が、出場歌手や司会者の応援(バックダンサー等も含む)・コーナー出演者としてゲスト出演している。その年に話題を集めたお笑いタレントがゲスト出演し、ネタを披露することも恒例である。
出場歌手でない歌手がゲスト扱いで出演して、歌唱(歌唱時間は比較的短めの場合あり)するケースもある(後述する「特別枠」や「特別出演」と銘打って出演する者は別)[30]。V6とKinKi Kidsは先述の出場枠の関係等から正規出場歌手としての出演経験がないものの、1999年・第50回に第1部(KinKi kids)・第2部(V6)のコーナーのプレゼンターとしてそれぞれゲスト出演し、コーナー内で持ち歌[31]の一部を歌唱したという事例がある(また、両組ともそれより以前にバックダンサー・コーラスでの出演経験はある)。
2008年・第59回にはフジテレビアナウンサーの中村仁美(羞恥心 With Pabo)、2009年・第60回には当時日本テレビアナウンサーの羽鳥慎一(FUNKY MONKEY BABYS)と民放の現役アナウンサーがそれぞれ出場歌手との縁でゲスト出演した。
話題性
毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年・第13回の調査開始以降での最高視聴率は1963年・第14回の81.4%(関東地区、以下同じ)[32]。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称された。今日では地方でも視聴率は低下傾向が続いている。最低視聴率は2004年・第55回の39.3%である[32]。それでも毎年、年間視聴率では民放の人気番組を抑え、ベスト5にランクインしている(ビデオリサーチ調べ)。
紅白への出演がアーティストの翌年初頭のCD売り上げに少なからず影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている[33]。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得したケースとしては1986年・第37回出場の吉幾三の『雪國』(1987年2月9日付)、2002年・第53回出場の中島みゆきの『地上の星』(2003年1月20日付)、2006年・第57回出場の秋川雅史の『千の風になって』(2007年1月22日付)2008年・第59回出場の秋元順子の『愛のままで…』(2009年1月26日付)がある。2003年・第54回に大トリを務めたSMAPの『世界に一つだけの花 (シングル・ヴァージョン)』はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌2004年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。また、紅白歌唱を機に注目され大ヒット・再ヒットした楽曲を翌年の紅白で連続して歌唱するというケースも見られる(その際、2回目の「紅白効果」が生まれたというケースもある)。
司会者・出場者・曲目・曲順(メディアがトップバッターやトリの予想を行うことも多い)などが決定すると、その都度大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は『NHKニュース』だけでなく、新聞各社や民放各局の情報番組やワイドショーでも大きく報じられる。芸能レポーターの梨元勝によれば民放に紅白の取材が開放されたのは1981年・第32回以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日系列『アフタヌーンショー』の突撃取材だったという[34]。これ以降、今でも民放各局の情報番組やワイドショーは紅白の存在を無視することができなくなっている。
2003年・第54回と2004年・第55回ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。
紅白放送中、番組に関してNHKに電話やFAX、電子メールを送ってくる視聴者もまた多い。関係者が著書『はい、NHKです』で明らかにしたものによると、放送開始からしばらくは、いわゆる「応援メッセージ」が多いが、そのうちに出場歌手の人選や選曲、曲順などへのクレームが多くなってくるという。若者ではなく、いわゆる「懐メロ」や演歌しか聞かない年配からのクレームが多い。
歌唱中のパフォーマンス
- 紅白では歌唱中に視聴者や観客を驚かせたり、結果として世間を騒がせる原因となる演出やパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子や美川憲一の、ステージと一体化した豪華な衣装は特に有名であり、衣装対決の通称で広く知られる(「歴史」の「1970年代 - 1990年代」の節を参照)。
- 1974年・第25回に初出場でトップバッターを務めた西城秀樹のステージにおいて、西城自身の考案によりドライアイスの白煙噴出による演出が紅白史上初めて行われた[35]。
- 大トリ歌手の歌の場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。1981年・第32回の大トリを務めた北島三郎の『風雪ながれ旅』では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった。
- 番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年・第57回のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう音楽番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。
- 1982年・第33回 - サザンオールスターズの桑田佳祐が三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「とにかく、受信料は払いましょう! 裏番組(を見たい場合)はビデオで見ましょう!」という発言で、賛否両論が巻き起こった。
- 1985年・第36回 - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。この影響により、2000年に『ポップジャム』に出演するまでNHKの番組出演ができなくなった。
- 1991年・第42回 - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
- 1992年・第43回 - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームの形をした袋をいくつも巻きつけて登場した。さらに、演奏途中では尻を露出した。
- 2006年・第57回 - DJ OZMAが全身肌色のボディスーツを着て股間の部分にキノコの模型をつけた姿で舞台に登場。女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかもゴールデンタイムであることの配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。総合司会の三宅民夫が番組中に「全裸ではない」と説明した。その後、放送倫理・番組向上機構 (BPO) から回答要請を受けた。この影響によりDJ OZMAは活動を一時休止を余儀なくされ、その後も活動に大きな制約が掛かるなど尾を引き続け、これが最終的には2008年の「引退」宣言にまで繋がって行く。
- 同じく第57回 - 川内康範作詞の『おふくろさん』を歌唱した森進一が川内に無断で台詞を入れた同曲を披露(1994年(平成6年)・第45回、2005年(平成17年)・第56回でも森は台詞付の同曲を披露している)。これに川内が激怒し騒動となった(「おふくろさん騒動」を参照)。
観覧方法
- NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎年多数の応募が集まるため、抽選となる。
- 毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月の初旬頃に応募が締め切られる。
- 抽選の結果(当落)は返信はがきの裏面に印刷され、12月上旬に応募者のもとに届けられる。
- 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚に付き2人分まで、当日にNHKホールの座席券と交換できる。座席は無作為に選ばれ、交換するまで分からない。
- ※最多の応募総数は2011年・第62回の1,264,923通(当選倍率:約1,025倍)、それまでの最多であった前年の計759,480通(倍率:578倍)から激増した。2009年・第60回は約591,274通(倍率:約437倍)であり、2010年代以降、爆発的な増加傾向が見られる。ただし、1人何通応募しても当選は1通のみ、複数口の応募者が多数いるので実際の倍率はもっと低い。
なお、2006年・第57回の募集から、応募資格が次のいずれかに制限されることになった。
- 上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。
これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開収録番組の応募(例 : NHK歌謡コンサート)で実施されていたものと同様である。ただし、規則で禁止されている当選はがきの転売行為については全く対策がなされていない。
歴史
開始当初 - 1960年代
- 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が放送された。番組はディレクターの近藤積の発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を制作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったがGHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った『汽車ポッポ」は元は『兵隊さんの汽車』という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした『リンゴの唄』で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白には出場していない)。
- 当初はこの1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から放送の約5年後の1951年正月にタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。1951年・第1回の大トリは藤山一郎で、『長崎の鐘』を歌唱。1953年1月・第3回では、テレビでの実験放送が実施された。第3回までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年の12月31日(大晦日)には第4回が放送され、この第4回を機に『紅白音楽試合』同様となる大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の開催を行った理由は、当時、年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。
- 会場は第1 - 3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。1953年12月31日・第4回のラジオ・テレビ同時中継開始以降は東京宝塚劇場や日本劇場(日劇)・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年・第24回以降は渋谷のNHKホールに固定されて今日に至る。
- 黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年・第5回からラジオ中継の音声を録音していたオープンリールテープが1999年末に発見され、NHKに提供された。この第5回以降、ラジオ中継の音声は、全て上記の男性から提供された物かどうかは詳細不明だが、1962年・第13回までの全ての回の音声が現存する。一方、現存する写真は1952年・第2回が最古で、以降、全ての回の写真が現存する。これは放送局用ビデオテープ(2インチVTR)は非常に高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他の番組に使い回されていたためである。そして、現存する映像は全編だと1963年・第14回が最古で、前年の1962年・第13回もラジオ中継の音声と共に当時のニュースでごく一部が紹介された映像が残っている。なお、1964年・第15回からカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存せず、ラジオ中継の音声が現存する。1964年を除いた1963年以降の1960年代は全ての回の映像が現存するが、ほぼ白黒のみ(そのうち、1965年・第16回は欠落部分があるがカラーVTRも、1968年・第19回は保存状態は良くないがカラーフィルムも現存する)である。1970年・第21回はカラーで現存するがフィルム映像で保存状態が良くなく、一部が欠落している。1971年・第22回はカラーのビデオ映像で現存するが保存状態の良くない部分がある。1972年・第23回からNHKがVTRで保存するようになり、この第23回からの現存映像はカラーのビデオ映像で安定している(第23回以降も全ての回の映像が現存する)。
- 黎明期(1956年・第7回頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年・第8回を以て戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年・第10回では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌1960年・第11回では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章が、1961年・第12回では当時NHKで放送中であった『夢であいましょう』の「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになってゆく。そして1962年・第13回では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
- テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が1962年・第13回から開始される。翌1963年・第14回において、81.4%の視聴率を記録する[32]。これは、紅白史上及びビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。
- 美空ひばりは1963年・第14回から1972年・第23回まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。だが翌1973年・第24回に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕されたことが発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の紅白も落選となった(その後、1979年・第30回に藤山一郎とともに「30回記念特別ゲスト」扱いで出演、『リンゴ追分』などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となった)。
- 1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。1967年・第18回のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルーコメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルタレントが長髪にする例も出たため当然ながら長髪は解禁になった。1989年・第40回にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年・第50回にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。
- 沖縄は米国の施政権下にあったため、1964年・第15回まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌1965年・第16回からテレビは沖縄テレビ、ラジオはラジオ沖縄がそれぞれスポンサーを付けるという形で放送を開始した。テレビは1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始するとその年の第19回から同局での放送となり、1972年の本土復帰で現在のNHK沖縄放送局としての放送となった。ラジオは1972年にNHK沖縄放送局がラジオ放送再開するとその年の第23回から同局での放送となった。
- 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
- 詳細は以下を参照。
- 1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年
1970年代 - 1990年代
- 1970年代になると新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。
- 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年・第24回にかぐや姫の『神田川』の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年・第29回でも山口百恵の『プレイバックPart2』の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(ちなみに、別音楽番組『レッツゴーヤング』、『NHKヤング歌の祭典』では「真っ赤なクルマ」として歌った)。
- 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年・第25回から9年間白組司会を務めた山川静夫が降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会の1982年・第33回の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年・第35回の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後はテレビの音楽番組が減るなど状況の変化や裏番組の影響もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。
- 1989年・第40回から紅白は2部構成になった。この年昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
- 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの1つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年・第36回の『夫婦しぐれ』で十二単を、翌1986年・第37回の『別離』ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年・第42回の『冬化粧』では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林と美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。ちなみに、小林と美川が紅白で着用する豪華衣装は、本番・出場歌手発表の遥か前である時期から制作開始される。
- 1981年・第32回から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は舞台の後ろから入場行進をするようになった。また応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ば頃から応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年・第42回から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオ(音声専用スタジオであるCR-506スタジオ)にて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよく言われる。2002年・第53回ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。
- 1970年代までオープニングの入場行進で流れていた『乾杯の歌』(別名「スタイン・ソング」。作曲:E・A・フェンスタッド。ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは1980年・第31回・1981年・第32回及び1985年・第36回 - 1987年・第38回・1980年・第40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは『乾杯の歌』のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、現在は司会者・出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。
- 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年・第47回の出場者のうちTRF、安室奈美恵、華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。
- 1990年・第41回において、初めてNHKホール以外から中継で歌唱するという演出が行われた。しかし、中継先で歌う演出はNHKホールの観客や、他の紅白出場歌手達にも不評を買い、その後、中継先で歌う演出は12年後の2002年・第53回まで行わなかった(しかし、中継演出が復活して以降、その演出が定着している)。
- 1990年代以降、オリジナルソング・テーマソングを制作し、番組内で出場歌手らによって大合唱されるという演出が行われることがある。
- 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPAN・LUNA SEA・GLAY・L'Arc〜en〜Cielらが出場した。また、ポップス歌手も比較的に出演へ積極的であったこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入った。
- 詳細は、以下を参照。
- 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年
2000年代 -
- 21世紀の紅白は国民の生活様態の多様化などに加えてBSでもサイマル放送されるようになり(先述の通り、BSサイマル放送は2010年・第61回を最後に廃止)、地上波テレビ放送の視聴率が低下傾向にある。また、紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。
- 全盛期を過ぎていたり、音楽セールスや絶対的な知名度があるとは言えないような歌手が多く出場するようになり、視聴率は再び40%前後へと低下している。特に2003年・第54回では裏番組『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』(TBS系列)に3分のみではあるが、初めて時間帯視聴率1位を逆転される事態が発生した(同『K-1』でボブ・サップ対曙太郎戦放映時)。
- 2000年以降の大トリでは2004年・第55回の小林幸子を除き白組歌手が務めており、2年連続で務めているのは2010年・第61回と2011年・第62回のSMAPしかいない。
- 2000年以降の先行トップバッターでは2000年・第51回の藤井隆と2005年・第56回の細川たかしを除き紅組歌手が務めており、特に2008年・第59回から浜崎あゆみが4年連続で務めている。
- 2002年・第53回以降、演歌歌手の出演数が従来の半分以下になった。
- 紅白を辞退するポップス歌手も見られる一方、モーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らエイベックス勢、嵐などジャニーズ事務所所属のアーティスト、aiko、中島美嘉、絢香、コブクロ、AKB48など紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い[36]。さらに中島みゆき、松任谷由実、Mr.Childrenなどの大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。
- SMAPは2003年・第54回の大トリを務めた。トリ及び大トリはグループとしては史上初、ポップス歌手としては1978年・第29回の沢田研二以来25年ぶり2回目の快挙だった。しかし、翌2004年・第55回には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年・第56回には返り咲き出場し、2回目の大トリを務め、視聴率上昇に大きく貢献した。その後も2010年・第61回(3回目)と2011年・第62回(4回目)で大トリを2年連続で務めている。
- 個人のスケジュールの都合やイメージ戦略により会場以外の場所から中継出演する歌手も多くなっており、重鎮的存在である和田アキ子や北島三郎が苦言を述べている(中継で出演することで自身の歌のステージ以外のリハーサル(オープニング・エンディング・ショーコーナー等)への参加の必要がなくなるため)。
- 2002年・第53回では、「サポーター代表」というポジションが設けられ、この年上半期の連続テレビ小説『さくら』の出演者であった高野志穂(紅組サポーター)・小澤征悦(白組サポーター)が務めた。
- 2004年には、紅白も担当したNHKプロデューサーが5000万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、同年の第55回では出場歌手選考の透明感を出すことを目的に「紅白に出場してほしい歌手」と題された世論調査が実施された。ただ、歌手からの反発もあり、翌2005年・第56回には視聴者から紅白で聞きたい歌を募ったアンケート『スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』が実施された。しかし、こちらも組織票が多く寄せられるなど、トラブルがあり、1年限りで廃止となった。
- 2006年以降の1月1日(元日)、総合テレビでは紅白終了の40分後に紅白の常連だったさだまさし司会の生放送番組『年の初めはさだまさし』(さだが紅白出場をしなくなった2008年・第59回以降も継続)放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに登場する者もいる。
- 2006年・第57回では、視聴者から出場歌手や司会者への応援メッセージをはがき・FAX・電子メールおよび携帯電話のメールサービスで受け付けるという企画を行った。寄せられたメッセージの一部は放送内におき該当歌手の歌唱前において、総合司会(三宅民夫・黒崎めぐみ)によって読み上げられた。
- 2007年・第58回以降の内容の傾向としては、出場歌手が行うアトラクションが廃止され、歌重視のシンプルな構成になっている。また、紅組・白組いずれにも属さない「特別枠」や「紅白応援隊」が新たに登場するようになった。
- 2007年・第58回から2009年・第60回記念までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年はクイズ特番『クイズ紅白検定』が放送された。
- 2008年・第59回以降はエンディングにて、得点集計の間、全出場歌手登場シーンのハイライトを放送している(「特別枠」での出演者も含まれる)。
- 2010年・第61回以降は紅白オリジナル・キャラクター・ウタ♪ウッキーが制定されている。
- 詳細は、以下を参照。
審査方法の歴史
- ? - 1962年・第13回 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。
- 1963年・第14回、1964年・第15回 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。
- 1965年・第16回 - 1968年・第19回 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。
- 箱の中には籠が2つ入っており、ラジオ第1で現在放送されている『ふるさと自慢歌自慢』ではこの方式で勝敗を決めている(審査員は3名。3回戦まで行なうためボールは合計9個)。
- 1969年・第20回 - 1980年・第31回 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両チームの得点を集計する。その後、ゲスト審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。
- 1981年・第32回から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986年・第37回 - 1991年・第42回は行われず)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。団扇の得票数が多かったチームにボールが2個加算され、ゲスト審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。
- 2002年・第53回、2003年・第54回には客席審査員(前者は観客の一部、後者は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これは、総合テレビ『爆笑オンエアバトル』の方式によるものである(詳細は爆笑オンエアバトル#審査方法を参照)。
- また2002年・第53回からはデジタル放送(2002年・第53回からはBSデジタル放送、2003年・第54回からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった(リモコンで紅組の場合は赤ボタン。白組の場合は青ボタンを押して投票。)。客席審査同様、お茶の間審査で優勢だったチームにボールが2個加算される。
- 申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。
- 2004年・第55回は客席は審査に参加せず、ゲスト審査員(11票)とお茶の間デジタル審査員(2票)の13個のボールで勝敗を争う形となった。お茶の間審査では白組の圧勝だったが、ゲスト審査員の8人が紅組に投票したため紅組の優勝という結果となった。
- 2005年・第56回には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは前年の件や不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける『ポップジャム』のブレイクレーダー方式が用いられた。
- 2006年・第57回からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、この回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、ゲスト審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換える形となった。
- 中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個ずつ。
- 最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個ずつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。この関係で状況によっては(通常の大会ではこのボールが奇数になるためにありえなかった)引き分けによる両軍優勝の可能性もあった。
- 「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。
- 2007年・第58回は「ケータイ審査員」が50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となり、審査方法は再び審査員の投票総数で勝敗を競う方式になった。これには中間審査の票数も加算される。
- 2008年・第59回以降もほぼ同様の審査方式であるが中間審査は1回のみとなり、結果発表はステージ上のLEDパネルに映し出す形を採っている。
- 2011年・第62回は基本の審査方法はこれまでと同じだが、最終審査のみの得票数で競う形を採った。
視聴者投票で白組出場歌手のファンによる白組への組織的な投票が行われているとの指摘がある[37]。
各回の概要
この節の加筆が望まれています。 |
(放送時間、大トリおよび先行トップバッターを務めた組、組司会の出場歌手兼任については書きかけです。)
現時点での通算成績は、紅組29勝・白組33勝で白組がリードしている。2005年・第56回から2011年・第61回まで白組が6連勝しており、これが現在まででの最多連勝記録である。
回数 | 放送日 | 紅組司会 | 白組司会 | 総合司会 | 勝 | 平均視聴率 |
---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1951年1月3日 | 加藤道子 | 藤倉修一 | 田辺正晴 | 白 | 記録なし |
第2回 | 1952年1月3日 | 丹下キヨ子 | 白 | |||
第3回 | 1953年1月2日 | 本田寿賀 | 宮田輝 | 志村正順 | 白 | |
第4回 | 1953年12月31日 | 水の江滝子 | 高橋圭三 | 北出清五郎 | 紅 | |
第5回 | 1954年12月31日 | 福士夏江 | 石井鐘三郎 | 紅 | ||
第6回 | 1955年12月31日 | 宮田輝 | 紅 (5-4) | |||
第7回 | 1956年12月31日 | 白 | ||||
第8回 | 1957年12月31日 | 水の江滝子 | 紅 (7-4) | |||
第9回 | 1958年12月31日 | 黒柳徹子 | 紅 (7-4) | |||
第10回 | 1959年12月31日 | 中村メイコ | 紅 (7-4) | |||
第11回 | 1960年12月31日 | 白 | ||||
第12回 | 1961年12月31日 | 穂坂俊明 | 白 | |||
第13回 | 1962年12月31日 | 森光子 | 宮田輝 | 石井鐘三郎 | 白 | 80.4% |
第14回 | 1963年12月31日 | 江利チエミ | 紅 (19-8) | 81.4% | ||
第15回 | 1964年12月31日 | 白 | 72.0% | |||
第16回 | 1965年12月31日 | 林美智子 | 白 (14-11) | 78.1% | ||
第17回 | 1966年12月31日 | ペギー葉山 | 紅 (22-3) | 74.0% | ||
第18回 | 1967年12月31日 | 九重佑三子 | 紅 | 76.7% | ||
第19回 | 1968年12月31日 | 水前寺清子 | 坂本九 | 宮田輝 | 白 (10-7) | 76.9% |
第20回 | 1969年12月31日 | 伊東ゆかり | 紅 (10-7) | 69.7% | ||
第21回 | 1970年12月31日 | 美空ひばり | 宮田輝 | 北出清五郎 | 紅 (81-79) | 77.0% |
第22回 | 1971年12月31日 | 水前寺清子 | 鈴木文弥 | 白 (102-98) | 78.1% | |
第23回 | 1972年12月31日 | 佐良直美 | 山川静夫 | 紅 (59-42) | 80.6% | |
第24回 | 1973年12月31日 | 水前寺清子 | 紅 | 75.8% | ||
第25回 | 1974年12月31日 | 佐良直美 | 山川静夫 | 土門正夫 中江陽三 |
紅 | 74.8% |
第26回 | 1975年12月31日 | 相川浩 | 白 | 72.0% | ||
第27回 | 1976年12月31日 | 紅 | 74.6% | |||
第28回 | 1977年12月31日 | 白 | 77.0% | |||
第29回 | 1978年12月31日 | 森光子 | 白 | 72.2% | ||
第30回 | 1979年12月31日 | 水前寺清子 | 中江陽三 | 紅 | 77.0% | |
第31回 | 1980年12月31日 | 黒柳徹子 | 紅 | 71.1% | ||
第32回 | 1981年12月31日 | 生方恵一 | 白 (22-11) | 74.9% | ||
第33回 | 1982年12月31日 | 紅 (19-16) | 69.9% | |||
第34回 | 1983年12月31日 | 鈴木健二 | タモリ | 白 (19-10) | 74.2% | |
第35回 | 1984年12月31日 | 森光子 | 生方惠一 | 紅 (31-2) | 78.1% | |
第36回 | 1985年12月31日 | 森昌子 | 千田正穂 | 紅 (22-11) | 66.0% | |
第37回 | 1986年12月31日 | 目加田頼子 斉藤由貴 |
千田正穂 加山雄三 |
吉川精一 | 白 | 59.4% |
第38回 | 1987年12月31日 | 和田アキ子 | 加山雄三 | 紅 (18-9) | 55.2% | |
第39回 | 1988年12月31日 | 杉浦圭子 | 白 (19-8) | 53.9% | ||
第40回 | 1989年12月31日 | 三田佳子 | 武田鉄矢 | 松平定知 | 紅 (20-7) | 1部 38.5% 2部 47.0% |
第41回 | 1990年12月31日 | 西田敏行 | 白 (13-4) | 1部 30.6% 2部 51.5% | ||
第42回 | 1991年12月31日 | 浅野ゆう子 | 堺正章 | 山川静夫 | 紅 (8-7) | 1部 34.9% 2部 51.5% |
第43回 | 1992年12月31日 | 石田ひかり | 白 (15-2) | 1部 40.2% 2部 55.2% | ||
第44回 | 1993年12月31日 | 森田美由紀 | 白 (21-6) | 1部 42.4% 2部 50.1% | ||
第45回 | 1994年12月31日 | 上沼恵美子 | 古舘伊知郎 | 宮川泰夫 | 紅 (9-8) | 1部 40.1% 2部 51.5% |
第46回 | 1995年12月31日 | 宮本隆治 草野満代 |
白 (13-4) | 1部 44.9% 2部 50.4% | ||
第47回 | 1996年12月31日 | 松たか子 | 白 (9-4) | 1部 41.6% 2部 53.9% | ||
第48回 | 1997年12月31日 | 和田アキ子 | 中居正広 | 宮本隆治 | 白 (9-4) | 1部 40.2% 2部 57.2% |
第49回 | 1998年12月31日 | 久保純子 | 紅 (9-4) | 1部 45.4% 2部 57.2% | ||
第50回 | 1999年12月31日 | 中村勘九郎 | 白 (7-6) | 1部 45.8% 2部 50.8% | ||
第51回 | 2000年12月31日 | 和泉元彌 | 紅 (9-4) | 1部 39.2% 2部 48.4% | ||
第52回 | 2001年12月31日 | 有働由美子 | 阿部渉 | 三宅民夫 | 白 (9-4) | 1部 38.1% 2部 48.5% |
第53回 | 2002年12月31日 | 紅 (9-6) | 1部 37.1% 2部 47.3% | |||
第54回 | 2003年12月31日 | 有働由美子 膳場貴子 |
阿部渉 高山哲哉 |
武内陶子 | 白 (15-0) | 1部 35.5% 2部 45.9% |
第55回 | 2004年12月31日 | 小野文惠 | 阿部渉 | 堀尾正明 | 紅 (8-5) | 1部 30.8% 2部 39.3% |
第56回 | 2005年12月31日 | 仲間由紀恵 | 山本耕史 | みのもんた 山根基世 |
白 | 1部 35.4% 2部 42.9% |
第57回 | 2006年12月31日 | 中居正広 | 三宅民夫 黒崎めぐみ |
白 (13-5) | 前半 30.6% 後半 39.8% | |
第58回 | 2007年12月31日 | 中居正広 | 笑福亭鶴瓶 | 松本和也 住吉美紀 |
白 | 前半 32.8% 後半 39.5% |
第59回 | 2008年12月31日 | 仲間由紀恵 | 中居正広 | 松本和也 小野文惠 |
白 | 前半 35.7% 後半 42.1% |
第60回 | 2009年12月31日 | 阿部渉 | 白 | 前半 37.1% 後半 40.8% | ||
第61回 | 2010年12月31日 | 松下奈緒 | 嵐 | 白 | 前半 35.7% 後半 41.7% | |
第62回 | 2011年12月31日 | 井上真央 | 紅 | 前半 35.2% 後半 41.6% |
- 一部の回の優勝チームに付記された括弧内の数字は、最終審査結果の票数。
- 総合司会のうち、1967年・第18回までと1974年・第25回の土門・中江、1983年・第34回のタモリ、1994年・第45回の宮川の名義は「進行役」。また、総合司会が正式であるものは1968年・第19回から1969年・第20回、1983年・第34回から2004年・第55回、2006年・第57回からである。
- 2005年・第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表されたが、実際の放送では仲間が主に紅組歌手、山本が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのは実質上生放送の全ての進行を統括する総合司会的な役割、山根は進行役的役割という形で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。
- 2010年・第61回と2011年・第62回に白組司会を務めた嵐(大野智、櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤)は紅白史上初のグループでの組司会である。
回数 | アナウンサー |
---|---|
2000年・第51回 | 阿部渉 |
2001年・第52回 | 小野文惠、高市佳明 |
2002年・第53回 | 小野文惠、高市佳明 |
2003年・第54回 | 小野文惠、藤崎弘士 |
2004年・第55回 | 藤崎弘士、住吉美紀 |
2005年・第56回 | 藤崎弘士、黒崎めぐみ |
2006年・第57回 | 小田切千、島津有理子 |
2007年・第58回 | 小田切千、塚原愛 |
2008年・第59回 | 山田康弘、神田愛花 |
2009年・第60回 | 山田康弘、神田愛花 |
2010年・第61回 | 小松宏司、黒崎めぐみ |
2011年・第62回 | 小松宏司、橋本奈穂子 |
歴代トリ歌手とその曲目
この節の加筆が望まれています。 |
(大トリを務めたチームで色付きがないのである不明のケースが分かったら色を加えるよう宜しくお願い致します。)
色付きの枠が大トリ(不明のケースもある。)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トリ回数を示す。
回数 | 年 | 紅組トリ | 白組トリ | ||
---|---|---|---|---|---|
歌手 | 曲目 | 歌手 | 曲目 | ||
第1回 | 1951年 | 渡辺はま子(初) [初] | 桑港のチャイナ街 | 藤山一郎(初) [初] | 長崎の鐘 |
第2回 | 1952年 | 渡辺はま子(2) [2] | 火の鳥[39] | 藤山一郎(2) [2] | オリンピックの歌 |
第3回 | 1953年 1月 |
笠置シヅ子(2) [初] | ホームラン・ブギ | 灰田勝彦(2) [初] | 野球小僧 |
第4回 | 1953年 12月 |
淡谷のり子[40](初) [初] | アデュー | 藤山一郎(4) [3] | 丘は花ざかり |
第5回 | 1954年 | 渡辺はま子(4) [3] | 東京の薔薇 | 霧島昇(3) [初] | 石狩エレジー |
第6回 | 1955年 | 二葉あき子(6) [初] | バラのルンバ | 藤山一郎(6) [4] | ニコライの鐘 |
第7回 | 1956年 | 笠置シヅ子(4) [2] | ヘイ・ヘイ・ブギ | 灰田勝彦(4) [2] | 白銀の山小舎で |
第8回 | 1957年 | 美空ひばり(2) [初] | 長崎の蝶々さん | 三橋美智也(2) [初] | リンゴ花咲く故郷へ |
第9回 | 1958年 | 美空ひばり(3) [2] | 白いランチで十四ノット | 三橋美智也(3) [2] | おさらば東京 |
第10回 | 1959年 | 美空ひばり(4) [3] | 御存知弁天小僧 | 春日八郎(5) [初] | 東京の蟻 |
第11回 | 1960年 | 島倉千代子(4) [初] | 他国の雨 | 三橋美智也(5) [3] | 達者でナ |
第12回 | 1961年 | 島倉千代子(5) [2] | 襟裳岬 | 三波春夫(4) [初] | 文左たから船 |
第13回 | 1962年 | 島倉千代子(6) [3] | さよならとさよなら | 三橋美智也(7) [4] | 星屑の街 |
第14回 | 1963年 | 美空ひばり(8) [4] | 哀愁出船 | 三波春夫(6) [2] | 佐渡の恋唄 |
第15回 | 1964年 | 美空ひばり(9) [5] | 柔 | 三波春夫(7) [3] | 俵星玄蕃 |
第16回 | 1965年 | 美空ひばり(10) [6] | 柔 | 橋幸夫(6) [初] | あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム〜 |
第17回 | 1966年 | 美空ひばり(11) [7] | 悲しい酒 | 三波春夫(8) [4] | 紀伊國屋分左衛門 |
第18回 | 1967年 | 美空ひばり(12) [8] | 芸道一代 | 三波春夫(9) [5] | 赤垣源蔵 |
第19回 | 1968年 | 美空ひばり(13) [9] | 熱祷 | 橋幸夫(9) [2] | 赤い夕陽の三度笠 |
第20回 | 1969年 | 美空ひばり(14) [10] | 別れてもありがとう | 森進一(2) [初] | 港町ブルース |
第21回 | 1970年 | 美空ひばり(15) [11] | 人生将棋 | 森進一(3) [2] | 銀座の女 |
第22回 | 1971年 | 美空ひばり(16) [12] | この道をゆく | 森進一(4) [3] | おふくろさん |
第23回 | 1972年 | 美空ひばり(17) [13] | ある女の詩 | 北島三郎(10) [初] | 冬の宿 |
第24回 | 1973年 | 島倉千代子(17) [4」 | からたち日記 | 北島三郎(11) [2] | 帰ろかな |
第25回 | 1974年 | 島倉千代子(18) [5] | 襟裳岬 | 森進一(7) [4] | 襟裳岬 |
第26回 | 1975年 | 島倉千代子(19) [6] | 悲しみの宿 | 五木ひろし(5) [初] | 千曲川 |
第27回 | 1976年 | 都はるみ(12) [初] | 北の宿から | 五木ひろし(6) [2] | 愛の始発 |
第28回 | 1977年 | 八代亜紀(5) [初] | おんな港町 | 五木ひろし(7) [3] | 灯りが欲しい |
第29回 | 1978年 | 山口百恵(5)[初] | プレイバックPart2 | 沢田研二(6) [初] | LOVE (抱きしめたい) |
第30回 | 1979年 | 八代亜紀(7) [2] | 舟唄 | 五木ひろし(9) [4] | おまえとふたり |
第31回 | 1980年 | 八代亜紀(8) [3] | 雨の慕情 | 五木ひろし(10) [5] | ふたりの夜明け |
第32回 | 1981年 | 森昌子(9) [初] | 哀しみ本線日本海 | 北島三郎(19) [3] | 風雪ながれ旅 |
第33回 | 1982年 | 都はるみ(18) [2] | 涙の連絡船 | 森進一(15) [5] | 影を慕いて |
第34回 | 1983年 | 水前寺清子(19) [初] | あさくさ物語 | 細川たかし(9) [初] | 矢切の渡し |
第35回 | 1984年 | 都はるみ(20) [3] | 夫婦坂 | 森進一(17) [6] | 北の螢 |
第36回 | 1985年 | 森昌子(13) [2] | 愛傷歌 | 森進一(18) [7] | 女もよう |
第37回 | 1986年 | 石川さゆり(9) [初] | 天城越え | 森進一(19) [8] | ゆうすげの恋 |
第38回 | 1987年 | 和田アキ子(11) [初] | 抱擁 | 五木ひろし(17) [6] | 追憶 |
第39回 | 1988年 | 小林幸子(10) [初] | 雪椿 | 北島三郎(25) [4] | 年輪 |
第40回 | 1989年 | 石川さゆり(12) [2] | 風の盆恋歌 | 北島三郎(26) [5] | 夜汽車 |
第41回 | 1990年 | 都はるみ(22) [4] | 千年の古都 | 森進一(23) [9] | おふくろさん |
第42回 | 1991年 | 和田アキ子(15) [2] | あの鐘を鳴らすのはあなた | 谷村新司(5) [初] | 昴-すばる- |
第43回 | 1992年 | 由紀さおり(13) [初] | 赤とんぼ〜どこかへ帰ろう | 北島三郎(29) [6] | 帰ろかな |
第44回 | 1993年 | 石川さゆり(16) [3] | 津軽海峡・冬景色 | 北島三郎(30) [7] | まつり |
第45回 | 1994年 | 都はるみ(26) [5] | 古都逍遥 | 五木ひろし(24) [7] | 気笛 |
第46回 | 1995年 | 和田アキ子(19) [3] | もう一度ふたりで歌いたい | 細川たかし(21) [2] | 望郷じょんから |
第47回 | 1996年 | 坂本冬美(9) [初] | 夜桜お七 | 北島三郎(33) [8] | 風雪ながれ旅 |
第48回 | 1997年 | 安室奈美恵(3) [初] | CAN YOU CELEBRATE? | 五木ひろし(27) [8] | 千曲川 |
第49回 | 1998年 | 和田アキ子(22) [4] | 今あなたにうたいたい | 五木ひろし(28) [9] | 酒ひとり |
第50回 | 1999年 | 和田アキ子(23) [5] | あの鐘を鳴らすのはあなた | 北島三郎(36) [9] | まつり |
第51回 | 2000年 | 天童よしみ(5) [初] | 道頓堀人情 | 五木ひろし(30) [10] | 山河 |
第52回 | 2001年 | 和田アキ子(25) [6] | 夢 | 北島三郎(38) [10] | 山 |
第53回 | 2002年 | 石川さゆり(25) [4] | 天城越え | 五木ひろし(32) [11] | おふくろの子守唄 |
第54回 | 2003年 | 天童よしみ(8) [2] | 美しい昔 | SMAP(12) [初] | 世界に一つだけの花 |
第55回 | 2004年 | 小林幸子(26) [2] | 雪椿 | 五木ひろし(34) [12] | 雪燃えて |
第56回 | 2005年 | 天童よしみ(10) [3] | 川の流れのように | SMAP(13) [2] | Triangle |
第57回 | 2006年 | 川中美幸(19) [初] | ふたり酒 | 北島三郎(43) [11] | まつり |
第58回 | 2007年 | 石川さゆり(30) [5] | 津軽海峡・冬景色 | 五木ひろし(37) [13] | 契り |
第59回 | 2008年 | 和田アキ子(32) [7] | 夢 | 氷川きよし(9) [初] | きよしのズンドコ節 |
第60回 | 2009年 | DREAMS COME TRUE(13) [初] | MIDDLE OF NOWHERE その先へ |
北島三郎(46) [12] | まつり |
第61回 | 2010年 | DREAMS COME TRUE(14) [2] | 生きてゆくのです | SMAP(18) [3] | This is love Triangle |
第62回 | 2011年 | 石川さゆり(34) [6] | 津軽海峡・冬景色 | SMAP(19) [4] | SMAP AID 紅白SP[41] |
歴代トップバッター歌手とその曲目
この節の加筆が望まれています。 |
(先行トップバッターを務めたチームで色付きがないのである不明のケースが分かったら色を加えるよう宜しくお願い致します。)
色付きの枠が先行トップバッター(不明のケースもある。)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トップバッター回数を示す。
紅白歌合戦の主な記録
裏番組
民放各局は、「牙城」を崩そうと、毎年様々な番組を用意し、挑んでいる。
このうち、紅白と連動・共存を図ろうとしているのはテレビ東京である。夕方から21時台にかけて『年忘れにっぽんの歌』を編成。紅白出場歌手の中には梯子をする人も少なくないが、放送時間が丸被りとならない事や、日本レコード大賞の日程が変わった事から、大きな混乱は近年起こっていない。また、紅白終盤からは『東急ジルベスターコンサート第2部』を中継している。
他の各局は日本テレビは『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の特別番組である『笑ってはいけないシリーズ』を筆頭にバラエティ番組の派生特別企画を中心に編成している。『ガキの使いやあらへんで!!』では2010年以降、裏番組の視聴率では唯一2桁台を記録し、「1人勝ち」状態となっている。また、日本テレビは過去にも1980年代に『忠臣蔵』などの時代劇、1990年代に『ダウンタウンの裏番組をブッ飛ばせ!!』で2桁台をマークしている。
かつて2000年代において、紅白の強力な対抗馬として総合格闘技の大晦日興行の中継を行っていたが、後に全ての地上波が撤退し、スカパー!のPPVで行っている。また、1960年代には当時絶大な人気を誇ったボクシング中継で対抗していた時期もあったが、紅白の視聴率が最も高かった時期であり全く歯が立たなかった。2006年のフジテレビは全日本フィギュアスケート選手権のエキシビションを放送した。
2010年以降、『ガキの使い』以外の裏番組の視聴率では(特に格闘技番組を撤退したTBSやフジテレビで)4〜5%台と低迷している。
同じコンセプトを持つ企画など
- NTV紅白歌のベストテン
- 青白歌合戦 - SPACE SHOWER TVが主催し、2004年(平成16年)12月15日に東京体育館で開催したイベント。
- 「○○紅白歌合戦」というタイトルのNHK紅白歌合戦のパロディについては、紅白歌合戦 (曖昧さ回避)を参照。
- ブラジルでは日系人移民が多いということもあり、毎年年末に日系人市民による「日系移民紅白歌合戦」が開催されている。NHKも開催に協力している。[46]
脚注
- ^ ステレオ2音声。
- ^ ただし後述の通り、前身『紅白音楽試合』は大晦日での放送だった。
- ^ この他、初期は異性のコーラスも禁止されており、曲目そのものの変更や女性コーラスを少年コーラスに差し替えるなどの処置も取られていた。
- ^ ただし、初出場時のみ男性メンバーは歌手席に座れなかった。
- ^ 『スポーツニッポン』2010年11月23日付
- ^ 『日刊スポーツ』2010年12月27日付
- ^ 『リアルライブ』2011年12月21日付
- ^ 2010年・第61回では、同年のNHKバンクーバー冬季オリンピック中継のテーマ曲『BLESS』を提供したL'Arc〜en〜Cielが2000年・第51回以来10年ぶりに出場した。一方、同年の2010 FIFAワールドカップを含むNHKサッカー中継テーマ曲『タマシイレボリューション』を担当したSuperflyの出場はなかった。
- ^ 2000年・第51回では、同年のシドニーオリンピックの同中継テーマ曲『Get U're Dream』を担当したZARDの出場が内定したとメディアに報じられていたが、坂井泉水の体調の関係で幻となった。
- ^ 小畑実、都はるみ、チェッカーズ、安室奈美恵、X JAPAN、絢香など。
- ^ 都、安室。
- ^ 『スポーツニッポン』2008年11月25日付
- ^ 『毎日jp』2008年11月25日付
- ^ なお、この2010年・第61回においてはK-POP勢は選考段階では挙げられていたものの、最終的にはNHKがオファーそのものを見送ったと説明している。“【紅白歌合戦】今年人気の「K-PОP」勢ゼロ なぜ?”. MSN産経ニュース. (2010年11月24日) 2011年8月18日閲覧。。
- ^ “嵐10周年で初出場「最高のステージに」”. デイリースポーツ. (2009年11月24日) 2009年11月24日閲覧。
- ^ “NHKと相思相愛!ジャニーズ“枠固定”撤廃へ”. スポーツニッポン. (2010年1月1日)
- ^ 『東奥日報』2005年12月1日付
- ^ “嵐が初紅白「ジャニーズ2枠」の慣例突破”. ニッカンスポーツ. (2009年11月23日) 2009年11月24日閲覧。
- ^ “変わる紅白歌合戦”. リアルライブ. (2010年11月11日) 2010年11月25日閲覧。
- ^ 1986年の事例では、鳥羽一郎が「自分もこのような暴力団との仕事上の付き合いはある。歌手ならこのような付き合いは避けられない」と述べており、この様な問題点があることを暗に指摘している。なお、鳥羽は代役出場を辞退するという異例のケースとなった。
- ^ “ポップス軽視の紅白に疑問!布施明が突然の卒業宣言”. スポーツニッポン. (2009年12月30日) 2009年12月30日閲覧。
- ^ “紅白常連組の辞退…耐えられなかった落選への恐怖”. スポーツニッポン. (2009年12月30日) 2009年12月30日閲覧。
- ^ 実際の滞在先は当時国交と直行便がなかった韓国のソウルとも言われている。
- ^ 前川以外のメンバーは紅組の藤圭子のバックコーラスとして出場したものの、正式な出場者のエントリーからは外された。
- ^ 当然白組司会も男性(前者は両年とも当時NHKアナウンサーの高橋圭三、後者は笑福亭鶴瓶)であったため、両軍とも男性の司会となった。
- ^ ただし、翌2008年・第59回では当時NHK会長の福地茂雄による「男女による組司会が望ましい」との意向で男女の組司会に戻された。
- ^ この2回は「例え歌手であっても組司会に専念してもらう」というNHKの方針があったため。
- ^ 1996年の紅組司会。翌1997年に歌手デビュー。
- ^ 斉藤にとっては歌手としても組司会としてもこの回が最初で最後の出演である。
- ^ 初めてのケースは1969年・第20回のザ・ドリフターズ。
- ^ V6は『Believe Your Smile』、KinKi Kidsは『フラワー』。
- ^ a b c NHK総合「紅白歌合戦」の視聴率、ビデオリサーチ、2008年1月17日
- ^ 『日経エンタテインメント!』2004年3月号、122頁。
- ^ 『週刊朝日』2006年12月29日号
- ^ 『日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送)にて紹介。
- ^ 『アサ芸プラス』2011年12月9日付
- ^ 『週刊新潮』2011年1月13日号
- ^ NHK総合「紅白歌合戦」|ビデオリサーチ
- ^ ただし、歌唱曲は『桑港のチャイナ街』とする説もある。
- ^ ただし、渡辺はま子がトリを取ったとする有力説もあり、合田道人の著書・「紅白歌合戦の真実」(幻冬舎刊)では、渡辺をトリとする説が採用されている。この回での渡辺の歌唱曲は『ああモンテンルパの夜は更けて』。
- ^ 『not alone〜幸せになろうよ〜』、『オリジナル スマイル』
- ^ ただし、歌唱曲は『東京シューシャイン・ボーイ』とする説もある。
- ^ ただし、歌唱曲は『ダゴタの黄昏』とする説もある。
- ^ 『ガラスの十代』、『パラダイス銀河』、『Diamondハリケーン』、『剣の舞』
- ^ 『LOVEマシーン』、『ザ☆ピ〜ス!』、『恋愛レボリューション21』(モーニング娘。)、『付き合ってるのに片思い』(Berryz工房)、『都会っ子 純情』(℃-ute)、『LALALA 幸せの歌』(ハロプロワンダフルオールスターズ)
- ^ 2009年12月30日特番「紅白歌合戦AtoZ」でその模様が紹介された。
出典・参考文献
- NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(NHKサービスセンター 2000年(平成12年)1月)
- 50回を記念して出版されたカラー版のムック。紅白歌合戦の公式記録的な性格を持つ。
- 合田道人『怪物番組紅白歌合戦の真実」(幻冬舎 2004年(平成16年)11月 ISBN 4-344-00702-6)
関連項目
外部リンク
- 「NHK紅白歌合戦」公式サイト (日本語)
- 「NHK紅白歌合戦」メイキングインタビュー(テレビコ) (日本語)
- 「NHK紅白歌合戦」公式アカウント (@nhk_kouhaku) - X(旧Twitter) (日本語)