十二単

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大正13年(1924年)、五衣唐衣裳(俗称 十二単)を着用した皇太子妃・良子女王(後の香淳皇后)
五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都御所にて)

十二単(じゅうにひとえ)は、平安時代の10世紀から始まる女性用の装束である。日本の装束のひとつで、明治大正時代に編纂された国史等では女房装束(にょうぼうしょうぞく)正装と記載されている[1]

  • 本来十二単とは袿を重ね着した重ね袿姿を呼んだ名であったが、後世の俗語で五衣唐衣裳を指す場合が多い。
  • 馴染のある日本の年中行事である雛まつりなどでは、十二単衣とも記される。

概要[編集]

後世になって五衣唐衣裳を十二単と俗語で呼ぶ風潮があるが、このような風潮は「平家物語」の異本『源平盛衰記』の中にある「十二単」という言葉の意味を、世間では取り違えられて広まったものとみられている。五衣唐衣裳を宮中では十二単とは呼ばないからである[2]。 {{Quote|弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され|「源

「かさね」(重ね・襲)[編集]

袿の上下に重ねることを「重ね(かさね)」といい、一方袷の表地と裏地の色の取り合わせによって透けて見える具合を「襲(かさね)」と言う。(この使い分けは長崎盛輝らがおこなっているが、歴史的にみてそうした区別が実在したとは考え難い。)

重ねは袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされたところでもある。『栄花物語』には当時の女房が工夫を凝らしたさまが詳述されている。ある女房は重ねに凝り、通常よりも多く20枚以上の衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には5枚となり、それ以後「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれ女房装束に定着されるようになった。

このような重ね・襲ねの取り合わせを「重ね・襲ねの色目」というが、色目については主に季節感を取り入れた組み合わせになっている。春夏秋冬・または植物や色単体のグラデーションによりおびただしい数の種類があり、着用の季節や行事が厳密に定められていた。これらの季節感などを無視した取り合わせを用いることはマナー違反・センスがないと見なされ、当時の女性が工夫を凝らして装ったことが当時の物語や日記などに垣間見ることができる。

襲ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび。表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅・裏は紫または蘇芳)桜(表は白・裏は赤または蘇芳)などがある。

重ねも同様で、色の重ね方に決まりがあり、重ねる色の数やグラデーションの具合でそれぞれに固有の呼び名(裾濃・匂いなど)があった。ただし、重ねと襲には同じ名称のものもあるため、古典研究の際の混乱の元にもなっている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 八代国治, 早川純三郎, 井野辺茂雄 編 『国史大辞典 挿絵及年表』 1908年 吉川弘文館
  2. ^ 高田 倭男 『服装の歴史』 2005年 中公文庫 ISBN 4-12-204611-4

外部リンク[編集]


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