自由民主党 (日本)

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日本の旗 日本の政党
自由民主党
Liberal Democratic Party of Japan
Japan LDP HQ.jpg
自由民主党本部
総裁 安倍晋三
副総裁 高村正彦
幹事長 二階俊博
参議院議員会長 橋本聖子
成立年月日 1955年昭和30年)11月15日
前身政党 自由党
日本民主党
本部所在地
〒100-8910
東京都千代田区永田町1-11-23
北緯35度40分42.6秒 東経139度44分29.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.741417度 / 35.678500; 139.741417
衆議院議席数
290 / 475   (61%)
(2016年7月14日現在)
参議院議席数
122 / 242   (50%)
(2016年7月26日現在)
都道府県議数
1,338 / 2,675   (50%)
(2015年12月31日現在[1]
党員・党友数
987,182人
(2015年12月31日現在[2]
政治的思想・立場 保守主義[3]
反共主義[3]
中道右派右派
機関紙 自由民主
政党交付金
172億2079万 円
(2016年4月1日決定[4]
公式サイト 自由民主党
シンボル 陰十四菊
シンボルマーク「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと
党歌「われら」
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自由民主党(じゆうみんしゅとう、英語: Liberal Democratic Party of Japan)は、日本の政党である。現在の与党衆議院参議院第1会派を形成している。略称は自民党(じみんとう)、自民(じみん)、LDP(エルディーピー)。1字表記の際は、と表記される。

概要[編集]

1955年昭和30年)に自由党日本民主党の「保守合同」により結成された保守政党太平洋戦争大東亜戦争)前の二大政党立憲政友会立憲民政党、戦時中の翼賛政治の中核を担った会派である翼賛議員同盟翼賛政治会大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛政治に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)と護国同志会(日本協同党の前身)、また敗戦直後に結成された日本自由党日本進歩党日本協同党の流れを汲む。

結党以来ほぼ全時代にわたって政権与党の座にあり、結党から60年間で野党にあった期間は4年ほどである。そのため、戦後日本を代表する政党であるといってよい。

党の運営は、永らく執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは、一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたためである。同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルであった [注 1]。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。1990年代に政治改革の一環として選挙制度小選挙区比例代表並立制となり、以降は党本部の統制力が強まっている。

広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いているが、正式な党章は地に白線で描いた「中央に『自民』のモノグラムを置いた十四弁陰菊花紋章」である。また、かつては緑色の象をシンボルマークにしていたこともある。

自民党は多数の政治家を輩出しており、90年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。総理大臣では細川護熙羽田孜鳩山由紀夫、その他では小沢一郎亀井静香岡田克也などである。

党名[編集]

党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して作られた「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった[5]。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ」[6]などの意見が出て採用されず、党内で話し合われた結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。

菅直人鳩山由紀夫が結党した旧民主党小沢一郎の作った自由党が登場した後は、党の正式名称である「自由民主党」を使うと混同される恐れがあるため、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。機関紙も、それまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した。

野党となった2009年(平成21年)9月、党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更論が出た[7]。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため結果として改名はされなかった[8][9]

党史[編集]

結党と55年体制成立[編集]

1955年自由党日本民主党保守合同による自由民主党結成大会。

1950年代当時、日本の政党は保守・革新両勢力ともに分立状態にあった。1955年(昭和30年)、左派右派に分裂していた日本社会党が先んじて再統一で合意したことから、保守勢力にも統一した保守政党が急務という声が高まり、保守合同が実現した。自由党日本民主党は、両党の公認だけで当時の定数(467)を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避けることも目的の一つだった。

政治学者北岡伸一によると、政党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派官僚派、戦前派・戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だったという[10]自由民主党の派閥は、結党時は8派閥が存在し、「八個師団」と称された。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注 2]。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した[注 3]

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[11][12][13]。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党に金を渡し、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた[13]。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している[13]

高度経済成長と党安定期[編集]

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与野党の対立が深刻化したが、岸内閣が退陣した後、自民党は「経済のことはこの池田にお任せください」と言う池田勇人総裁のもとで、経済政策を重視する路線転換を行った。また、安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げていくようになり、外交をめぐる政治運動は退潮していくようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」[14]オフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[15]

1964年、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出して、自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」[16]と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中で、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して、1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったが、全体として安定期であった。また、地方の建設業界に対して一定の公共事業を発注するなど特定利権は生じるものの、いわゆる「均衡ある国土発展」と呼ばれる、富の再分配政策を行って地方の経済を回していくことを重視し、「一億総中流」を唱えるなど平等を重視する保守本流派が主流となって、農山漁村や地方小都市など地方を支持基盤としてきた。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、社会党や共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は民主社会党の離反や公明党、共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。

保革伯仲と党内抗争[編集]

佐藤長期政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。

田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった、福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった[17]1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。

1974年7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、保革伯仲と呼ばれる時代となった[18]。同年12月には田中金脈問題で田中は総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選挙は行われず、自由民主党副総裁椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。

1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の河野洋平山口敏夫ら6人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが、党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが、結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れ(後に無所属議員の追加公認で過半数は確保した)となった。三木は選挙の責任を取り、総理総裁を辞任した。以降国会は与野党伯仲の不安定状態が続いた。さらに田中は離党しながらも最大派閥のオーナーとしてふるまい続け、のちの政治改革運動と、自民党の下野につながってゆく。

1976年12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる[19]福田内閣は当初、内閣支持率は低かった[19]が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した[20]1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。

大平は、1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙一般消費税の導入を公約として掲げたが、自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたが、大平は辞任要求には応じず、選挙後の首班の座を巡って事実上の党内分裂状況に陥った。特別国会での首班指名選挙の投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が、衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派鈴木善幸が就任し、「和の政治」を掲げて党内融和に尽力し、行財政改革に取り組んだ。

二重権力構造と保守回帰[編集]

1980年代に入ると、革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。

1982年(昭和57年)11月の党総裁選挙に鈴木善幸は立候補せず、中曽根康弘河本敏夫安倍晋太郎中川一郎の4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が過半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、党総裁選挙では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた[16]

中曽根はスローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革公社民営化規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。

1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。

1984年(昭和59年)に鈴木善幸福田赳夫らが、田中派大番頭の二階堂進を総裁に推す二階堂擁立構想が同じ田中派の金丸信によって潰されると、やがて田中派は分裂の兆しを見せ始める。ついに、1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で、派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は木曜クラブを離脱した竹下に対して「同心円でいこう」[21]と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、かつての政治力を失った。代わって、田中派を離脱した竹下が金丸信の後ろ盾により、台頭するようになる。

中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙第38回総選挙第14回参院選)で自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席(衆議院)、74議席(参議院)を獲得した。選挙後、特例で中曽根の党総裁任期一年延長が決まった。また、8月に新自由クラブは解党し、多くの党員は自民党に合流した。

1987年(昭和62年)10月の党総裁選挙ではニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎竹下登宮澤喜一のいわゆる安竹宮3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話し合いをした結果、候補者一本化を中曽根に委ねた。結果として竹下を総裁にするという中曽根裁定が下った。なお、このとき皇民党事件が同時に進行していた。こうして中曽根内閣は日本電信電話公社日本専売公社の民営化、国鉄分割民営化、1987年度予算で防衛費1%枠撤廃するなどの政策を実現して4年11か月の長期政権を終えた。

1988年(昭和63年)7月の臨時国会竹下内閣消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出した。同じ頃、リクルート関連会社であるリクルートコスモス社の値上がり確実な未公開株政界官界財界の多数の有力者や有力者の秘書、家族らに譲渡されていたとするリクルート事件が発覚した。野党は税制改革関連六法案の審議よりもリクルート問題の解明を優先すべきだと主張して、審議拒否や関係者の証人喚問等を要求し、国会はたびたび空転した。野党は法案採決の際に牛歩戦術などで抵抗し、12月9日には副総理兼蔵相であった宮澤がリクルート問題で辞任したが、12月24日に税制改革関連六法案は成立した。

1989年(昭和64年)1月7日には昭和天皇が崩御し、元号昭和から平成となった。

同年4月1日には消費税が導入されたが、同月に竹下は総理辞任の意思を表明した。5月22日に東京地検特捜部は中曽根派の藤波孝生をリクルート事件に関与した疑いで受託収賄罪在宅起訴し、藤波は自民党を離党した。5月25日に衆議院予算委員会は中曽根を証人喚問し、その後、中曽根は自民党を離党した。竹下の後継総裁には様々な候補が取りざたされたが最終的には後継総裁指名を一任されていた竹下と党四役はリクルート事件に関係がなく、外務大臣を務めていた中曽根派の幹部である宇野宗佑を推薦し、宇野も受諾した。6月2日、宇野は党両院議員総会の「起立多数」により総裁に就任し、6月3日には竹下内閣は総辞職した。

同年6月に宇野が総理総裁に就任するやいなや、宇野の女性スキャンダルが発覚した。宇野は女性スキャンダルに対して明確に否定することはなかった。7月の第15回参院選ではリクルート事件、消費税問題、農産物自由化問題のいわゆる三点セットが争点となり、自民党は逆風にあって当選者はわずか36議席にとどまり、敗北した。一方、土井たか子委員長率いる社会党は女性候補者を多数擁立してのマドンナ旋風を巻き起こし、改選議席の2倍を越す46議席を獲得して躍進した。参議院では与野党勢力が逆転(比較第一党は維持)、宇野は総理総裁を辞任した。

8月の総裁選挙には海部俊樹林義郎石原慎太郎の3人が立候補し、竹下派、旧中曽根派の支持に支えられた海部俊樹が過半数の票を獲得して総理総裁に就任した。海部内閣は少派閥である河本派の海部を党内最大派閥である竹下派会長の金丸信、派閥オーナーの竹下、党幹事長の小沢一郎のいわゆる金竹小3人が背後から操るという構造であり、「二重権力」と指摘された[22]

1991年(平成3年)9月、海部内閣は重要な政治テーマとなっていた政治改革について決着を図るべく、臨時国会にて衆議院の選挙制度に小選挙区制を導入する政治改革法案を提出した。しかし、9月30日、衆議院政治改革特別委員会理事会にて政治改革法案の廃案が決まった。この廃案決定に対して海部は「重大な決意で臨む」と発言して[16]衆議院を解散する構えを見せたが、党内の反発と、海部を支持していた竹下派の解散反対もあり、解散を断念した。海部は10月の党総裁選への立候補も辞退して退陣した。

55年体制崩壊と連立時代の到来[編集]

1991年(平成3年)10月27日、総裁選で宮澤喜一が勝利し、72歳にして総理総裁に就任した(参議院議員経験者としては初)。ところが1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により国民の政治不信が増大し、自民党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。また、金丸信が失脚したことにより竹下派後継争いに敗れた小沢一郎と羽田孜らは竹下派後継の小渕派と袂を分かち、改革フォーラム21(羽田派)を結成した。

政治改革が必要との流れを受けて、宮沢内閣は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から三塚派若手の武村正義や、羽田派など、これに反発した自民党議員が大量に離党した。内閣不信任案が可決されて国会が解散となっての1993年(平成5年)の第40回衆院選では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数にはとうてい届かず、保守3新党(日本新党新生党新党さきがけ)が大勝した。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民の連立政権が成立し、結党以来の自民党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。宮澤はこの選挙結果を受けて総理総裁を辞任し、7月30日に行われた総裁選で渡辺美智雄を破って勝利した河野洋平が総裁に就任した。自民党が野党に転落すると、連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、細川内閣小選挙区比例代表並立制を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、1994年(平成6年)1月29日、自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。

連立政権は細川、新生党の羽田孜と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党・日本新党・公明党と、社会党・さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の村山富市委員長を首相に推す奇策で、1994年(平成6年)6月30日、社会党・さきがけとの連立政権として与党に復帰した。

1996年(平成8年)1月11日、自民党の橋本龍太郎首班となり、同年の第41回総選挙では、過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。1996年(平成8年)に改革を訴える民主党の結成によって政権維持のために行政改革を迫られた橋本内閣では、大きな政府路線を志向する平成研究会(旧経世会)系議員と、小さな政府路線を志向する清和政策研究会(森派)系議員との間で不協和音が生まれるようになる。

旧非自民連立政権側は、主に新進党に集約されていたが、この情勢を見て、今度は新進党などから自民党に移籍・復帰する議員が現れ、自民党側も積極的に引き抜いた。その結果、1997年(平成9年)には総選挙を経ることなく過半数を回復。年末には新進党は解党し、1998年(平成10年)には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。

橋本政権下の経済政策の失敗により同年の第18回参院選で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから、橋本内閣は総辞職、小渕恵三が後継となり小渕内閣が発足した。政権安定のため、1999年(平成11年)、小沢一郎率いる自由党(旧新進党小沢派)の政策を呑む形で自自連立を組み、その後10月に公明党との自自公連立政権を新たに組み、2000年(平成12年)には自由党の離脱で、自由党から分裂した保守党(後に保守新党)との自公保連立政権に変わった。この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まった。小渕が病に倒れると森喜朗が後継となり森内閣が発足。しかし、森自らの度重なる失言やKSD事件などの不祥事もあり支持率は低迷、加藤の乱が勃発。その後、森内閣は総退陣に追い込まれ、山崎拓加藤紘一小泉純一郎YKK小泉内閣の樹立を達成した。

構造改革とねじれ国会[編集]

経済面では、1991年(平成3年)にバブル景気が終焉を迎える。冷戦が終結しグローバル化が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な政治手法が機能しなくなっていたが、経済政策を劇的に転換する事が出来ず、経済成長効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な財政出動を続け、国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになった。右肩上がりの経済成長を前提とした経済政策の転換を迫られることになり、そうした時代的要請から、2001年(平成13年)に小泉内閣が発足する。小泉純一郎は、公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を民間企業地方自治体に委譲すべきとする聖域なき構造改革を主張し、旧来の地方への利益分配により政党の支持基盤を磐石なものとしてきた大きな政府路線から小さな政府路線に政策を転換した。2003年(平成15年)に保守新党を吸収してからは、自公連立政権となった。

小泉は、国民的な人気を集め、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。発足時(2001年4月)の第1次小泉内閣内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位(当時)の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

小泉は、2002年(平成14年)9月に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現させるなど積極的な外交にも取り組んだ。

2003年(平成15年)10月の第43回衆議院議員総選挙を控え、選挙前に小泉が中曽根康弘宮澤喜一両元首相に比例代表の73歳定年制を適用する方針を表明。83歳の宮澤は引退を表明した一方、85歳の中曽根が頑強に抵抗して話題となった。結局、中曽根はこれを受け選挙に出馬しなかった。結果、自民党と公明党、保守新党の与党3党で絶対安定多数を維持したものの、自民党は10議席を減らし、与党全体としては12の議席減となった(選挙後に保守新党は自民党に吸収されたため、自民党は単独過半数は確保している)。

2004年(平成16年)7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、これが影響し選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。

2005年(平成17年)8月、第162回通常国会における郵政民営化法案参議院否決後に行われた第44回衆院選では、「小泉劇場」と言われるポピュリズム的政治手法をとり、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得、歴史的圧勝をおさめた。その一方で「抵抗勢力」とされた議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、党公認の候補(いわゆる「刺客候補」)に敗れ落選したことで、党内保守派(主に民族派)および保守系の議連が大きな打撃を受けた結果、「自民党が保守政党でなくなっていく」可能性が指摘された[注 4]

2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位であり平成時代最長ならびに21世紀最初の長期政権となった。

しかし小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指した構造改革の負の部分に苦しむことになる。本来結党以来の地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自民党離れが進み、年金記録問題閣僚のスキャンダルもあって、安倍政権下の第21回参院選では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院第1党から転落した。衆議院参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が安倍晋三、福田康夫麻生太郎と毎年のように変わった。

2度目の野党時代と再度の与党復帰[編集]

2009年(平成21年)8月30日の第45回衆院選では、低迷する景気による閉塞感や、首相の指導力低下など、国民の不満は過去にないほど高まり、自民党は首相経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫し、民主党に衆議院第1党の座を明け渡すことになった。獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。前回下野した時は野党とはいえ衆議院での比較第1党であったため、自民党が衆議院で第1党を失ったのは、結党以来初めてのことであった。大臣経験者を含む現職国会議員の離党が相次ぎ、2010年(平成22年)6月までの1年弱で現職国会議員の離党者が15人に上った[23]。この参院選惨敗ならびに下野の責任を取り、総理総裁の麻生太郎は引責辞任。直後の2009年自由民主党総裁選挙に勝利した谷垣禎一が総裁に就任。

反転攻勢のきっかけは、2010年7月の第22回参院選である。自民に代わって第一党となった民主党に加え、社会民主党(社民党)・国民新党が連立を組み民社国連立政権としてスタートしたものの、鳩山由紀夫内閣の失政と崩壊、続く菅直人の失言などに助けられて、改選第1党となり与党の参院過半数獲得を阻止した。

2011年(平成23年)、菅内閣東日本大震災の対応不手際などで総辞職。代わって野田佳彦が首相となったものの、野田内閣は発足当初から閣僚の不祥事や離党者が連発し、民主党は分裂寸前であった。2012年(平成24年)9月の総裁選で安倍晋三が返り咲きを果たすと、野田との党首討論で解散総選挙の言質を引き出すことに成功する。12月、第46回衆院選で自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得[24](その後鳩山邦夫が復党し295人)、3年3か月ぶりに与党復帰を果たした。

以降、民主党は党勢を政権獲得前にまで回復させることができず、低迷している。また、中堅野党の日本維新の会みんなの党なども分裂・解党を繰り返しており、野党は停滞状況にある。そのため、2013年(平成25年)の第23回参院選で公明党と合わせて過半数割れを解消、2014年(平成26年)の第47回衆院選でも現有議席をほぼ維持するなど、自民党優位の体制は継続している。

2016年(平成28年)の第24回参院選では、民進党(民主党が改称)・共産党社民党生活の党の野党4党が共闘し、全一人区で候補者を一本化(民共合作)して選挙戦に臨んだが、その一人区では32選挙区中21勝11敗で勝ち越すなどして、自民党は追加公認も含め56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。また、いわゆる「改憲勢力」(自公におおさか維新の会日本のこころを大切にする党、その他改憲に前向きな諸派・無所属議員を加えた勢力)が衆参両院で3分の2を超え、憲法改正の発議要件を満たすことになった。その後、無所属で活動していた平野達男が入党したことで、27年ぶりに参院単独過半数を回復した。

略史[編集]

前史[編集]

  • 1953年(昭和28年)頃から、保守合同への動きが活発化[25]
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
    • 5月 自由党・日本民主党の両党幹部会談[25]
    • 6月 緒方竹虎・自由党総裁と鳩山一郎・日本民主党総裁による党首会談。「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみる。両党から選出された委員からなる政策委員会・新党組織委員会が置かれる[25]
    • 10月 政策委員会・新党組織委員会を新党結成準備会に切り替える。

結党から1970年代まで[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

2010年代[編集]

政策[編集]

1955年結党時[編集]

1955年の結党時には、「立党宣言」、「綱領」、「党の性格」、「党の使命」、「党の政綱」の5文書を作成した。

立党宣言[編集]

1955年の「立党宣言」で政治の使命は民生の安定、公共福祉の増進、自主独立、平和の確立とし、立党の政治理念は議会民主政治と、個人の自由と人格の尊厳とした[28]

1955年綱領[編集]

1955年の「綱領」で以下を記載した[29]

  1. 民主主義、文化的民主国家。
  2. 平和と自由、自主独立。
  3. 公共の福祉、個人の創意と企業の自由、経済の総合計画、民生安定と福祉国家。

党の性格[編集]

1955年の「党の性格」で以下を記載した[30]

  1. 国民政党として階級政党に反対。
  2. 平和主義政党として国際連合憲章の精神に則り世界平和に努力。
  3. 真の民主主義政党として基本的人権を尊重し、階級独裁共産主義に反対。
  4. 議会主義政党として、極左極右全体主義に反対。
  5. 進歩的政党として、闘争や破壊は排し伝統秩序を保持しつつ現状改革
  6. 福祉国家の実現をはかる政党として、社会主義経済独占資本主義を廃し、自由企業を基本に計画性を付与し生産増強、社会保障完全雇用、福祉国家を実現。

党の使命[編集]

1955年の「党の使命」では社会主義共産主義など反米勢力を批判し、日本国憲法戦後民主主義を“日本の弱体化の一因”と指摘。“正しい民主主義と自由こそが必要であり、わが党は憲法改正で国民の負託に応える”と述べた[31]

党の政綱[編集]

1955年の「党の政綱」で以下を記載した[32]

  1. 国民道義の確立と教育の改革 - 正しい民主主義と祖国愛の高揚、国民情操の純化向上
  2. 政官界の刷新 - 選挙制度や公務員制度の改正、中央と地方の責任行政体制、行財政の効率化
  3. 経済自立の達成 - 年次計画による経済政策、農林漁業の安定、中小企業の振興、労使協力体制の確立、原子力の平和利用
  4. 福祉社会の建設 - 社会保障施策の整備、生活環境の改善、社会正義に立脚した福祉社会
  5. 平和外交の積極的展開 - 自由民主主義諸国との協力、国際連合への加入、原水爆の禁止
  6. 独立体制の整備 - 現行憲法の自主的改正自衛軍備

2005年綱領[編集]

2005年11月22日の党大会で理念と「新綱領」を発表した[33]

2010年綱領[編集]

2010年(平成22年)1月24日、第77回定期党大会にて「平成22年綱領」[34]を決定した。

  • 「現状認識」として、天皇の下に[35]、また日米同盟を基軸とする外交政策で平和な日本を作り上げたとした。立党目的のうち「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」は達成されたが、独自の伝統・文化の喪失、経済成長の鈍化、財政悪化、少子化などの現実があり、もう1つの立党目的である「日本らしい日本の確立」が重要とした。平成21年総選挙の敗北を反省し、護り続けてきた自由(自由主義)は市場原理主義でも無原則な政府介入主義でも無いとして、自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由とした。
  • 我が党は常に進歩を目指す保守政党である - 自由主義、民主制、秩序の中の進歩、真実を語る、多様な組織との対話
  • 我が党の政策の基本的考え - 新憲法の制定、自主防衛、自助自立する個人の尊重、市場経済、地域社会と家族の絆、公正な政策、財政の効率化と税制改正
  • 我が党は誇りと活力ある日本像を目指す - 家族・地域社会・国への帰属意識、合意形成を怠らぬ民主制、努力するものが報われる社会、国債残高の減額、世界平和への義務

その他[編集]

憲法草案
自由民主党が野党であった2010年に発表した自民党政策集

組織[編集]

党員[編集]

最低限の要件として、党則第3条において「本党の目的に賛同する日本国民で、党則の定めるところにより忠実に義務を履行すると共に国民大衆の奉仕者として積極的に党活動に参加する者」と定められている。また、年齢については別途定めるとされている[46]が、2015年(平成27年)現在は満18歳から入党申し込みをすることが可能である。

入党を希望する者は、所定の入党申込書に本人が自筆で記入し、初年度の党費を添えて支部または都道府県支部連合会に提出する。その際に、既存党員1名の紹介を付けることが必要である[47]。なお後述の「名義貸し」が起こる可能性を考慮して、職域支部であっても事前に特定個人の名前を印刷した入党申込書を配り、一定の時期に回収するなどといった行為は禁止されている。紹介者となる既存党員が身の回りにいない場合は、東京・永田町の自民党本部1階にある広報コーナーか最寄りの都道府県支部連合会事務所で相談に応じている。このため広報コーナーには党所属の国会議員の誰かが毎日交替で常駐している。

党籍は一般党員、家族党員、特別党員の3種類に分かれており、一般党員の党費は年間4,000円。家族党員は年額2,000円だが、同一生計内に一般党員1名がいないといけない。特別党員は年間20,000円以上であれば、政治資金規正法の範囲内で出す金額を自由に決められる。なお一般党員であっても自由国民会議会員と両立することができ、政治資金の面でより強力かつ効果的な支援をすることができる。

20歳以上(もしくはその年に20歳になる者)で直近2年間連続して党費の滞納がないことを条件に、総裁選挙の投票権が与えられる[48]

他党から自民党への移籍を希望するときは、国会議員の場合は総裁または幹事長、都道府県議や自治体議員は県連会長に直接会って了承されなければならない[注 7]

党員数は1991年(平成3年)には約547万人を記録していたが、その後は名義貸し党員の表面化や法改正による禁止措置などを受け一貫して減少傾向にある(後述)。参院選比例代表の非拘束名簿式が導入された2001年(平成13年)には200万人を割り、野党転落した2009年(平成21年)末には所属国会議員の激減や支持団体が離反が相次いだこともあり、結党以来初めて100万人を割った。2012年(平成24年)8月30日現在の集計では党員・党友数は78万9348人[49]となり、2008年より15万人以上も減退した[50]

名義貸し党員[編集]

自民党の党員はピーク時の1991年(平成3年)には547万人いたが、積極的に活動したのは半数にも満たなかった。これは、特に職域支部において明らかに党活動に参加する意思のない者が支部を通じて入党したかのように見せかける「名義貸し」が行われていたことが原因である。

当時は総裁選挙における党員・党友票の扱いが現在と異なり、有効投票1万票を議員票1票に換算して基礎票としていたため、たとえ1票の重みが議員票の1万分の1であったとしても、1人でも多くの個人党員を獲得することが議員の所属する派閥が推す候補者を総裁選で勝たせるのに必要であったという事情がある。

また1983年(昭和58年)に導入された参議院比例代表選挙で、自民党の名簿上位に登載されるには立候補予定者が自らの傘下の党員を多く獲得しその名簿を提出する必要があったため、立候補予定者が所属または関係していた利益団体が党費を立て替えて支持者、宗教団体であれば信者を多数自民党に入党させることもあり、それが弊害化していった。

名義を貸しただけの党員の党費は支部自体や、支部を構成する圧力団体が行う政治献金によって払われたものとして処理されていた。党員証も支部預かりとなって本人には渡されず、当時の機関紙だった「自由新報」も各個人まで届かなかった。総裁選挙の投票権も本人の知らないところで処理され、支部長の支持する国会議員が所属していた派閥の候補者にまとめて投票されるなど事実上の組織票として取り扱われることすらあった。このように計上された党員数は国政選挙の有無にあわせて乱高下を繰り返していた。

1990年代に党員数が急減したのは、政治資金規正法の改正によって名義貸しが罰則付きで禁止され、急速に解消されていったことにも一因がある。

本部[編集]

国会議事堂の北西にある国有地財務省所有)を年間約8970万円(2011年時点)で賃借し[51][52]、その土地上に建築した9階建てのビル「自由民主会館」を本部としている。所有者は財団法人自由民主会館。延べ床面積は約1万5600平方メートルで大規模な本部ビル[注 8]ではあるが、約1万6000平方メートルある日本共産党本部の方が大きく、日本最大ではない[53]

1955年の結党当時は東京・平河町砂防会館本館2・3階を賃借していた。東京オリンピック開催に伴う国道246号の拡幅工事で立ち退きが必要になったため、同様に立ち退きを迫られた日本社会党(後の社会民主党)と共に国有地を割り当てられたという経緯がある[54]

国有地を割安で借りていることからしばしばその是非が問題とされているが、貸主である財務省はあくまで適正賃料であると主張している[52][54]。また衆議院が所有する国有地約1320平方メートルを駐車場として使用しているが、こちらについては一切賃料を支払っていない(財務省所有部分と同水準とした場合、賃料は年間約3500万円とされる)。自民党側は「衆議院議員用の駐車場として利用しており問題はない」としているが、他党の衆議院議員の利用は警備上の理由などで断っているという[51][54]

地方組織[編集]

自民党は衆議院の小選挙区、参議院の選挙区ごとに選挙区支部基礎自治体ごとに支部(地域支部)を擁する[55]他、一定の職域ごとに職域支部(しょくいきしぶ)を置くことができる[56]とされており、都道府県ごとにこれら支部を束ねる連合会を設置している。都道府県支部連合会は通常、県連(けんれん)、都連(とれん、東京都)、府連(ふれん、大阪府・京都府)、道連(どうれん、北海道)などと省略される。

県連会長は現職国会議員から選ぶことを原則とするが、県連が分裂状態になって前会長が辞任した場合など、やむを得ない時は都道府県議会から出した例もある。県連幹事長は地元の都道府県議会から出すのが通例である。県連総務会長、政調会長は都道府県議会だけでなく、同一県内にある政令指定都市の市議会からも選ばれるが、東京都連のように幹事長以外がすべて国会議員という例ももちろん可能である。

選挙区支部[編集]

衆議院選挙区支部は、小選挙区選挙で勝利した現職議員を支部長とするのが基本だが、比例復活当選した議員、および次回総選挙における小選挙区公認予定者も所属する。ただし、比例復活者に対しては「支部長選任基本方針」[57]とよばれる内規に基づき、毎年審査が行われる。

小選挙区での敗北が1回の者については選挙終了後に選挙区支部長に再任するが暫定的なものとし、1年後に活動内容の審査を行い総裁と幹事長の許可を得て正式なものとなる。直近2回連続で小選挙区敗退し比例復活となった者については、次の総選挙まで1年ごとに審査を繰り返し、最悪の場合は支部長交代という形で政界から引退させることも視野に入れる。民進党やおおさか維新の会、生活の党など野党の対立候補者が際立って強い地盤を持っている場合は考慮するが、それでも本人の地元での活動が鈍ければ差し替えのための候補者公募を行う。なお2回連続で小選挙区敗退、比例復活もできずに落選した者は、以後自民党の公認を受けることができない。

参議院選挙区選挙の当選者と次回立候補予定者は、都道府県連の下に置かれる「参議院選挙区支部」の支部長となる。衆議院比例代表単独で立候補し当選した議員、および参議院比例区選出議員は出身都道府県ごとに置かれる衆参両院どちらかの「比例区支部」に所属しその支部長となる。また、都道府県知事や基礎自治体の長、地方議会議員が自民党の公認を受け当選した場合には、選挙区を管轄区域とする「地方選挙区支部」を当選者1人につき1つ置くことができる[58]。さらに、党員ではあるが選挙区に空きがない有力候補予定者のために都道府県に「衆議院選挙区第二支部」を置く事がある[注 9]

地域支部[編集]

地域支部には、地元の選挙区選出の都道府県議会議員と、その地域の基礎自治体議会の議員が所属するが、国会議員が選挙区支部長と兼任で地域支部長を務める場合もある。選挙区支部の国会議員や公認予定者と緊密な連携を取ると共に、地域内の一般党員の受け皿となる。

職域支部[編集]

自民党の職域支部は、業界団体などにおいて50人以上の党員が集まった場合、党本部と都道府県支部連合会の許可を得て発足させることができる。ただし、東京都支部連合会においては業界団体中央が作る政治組織がそのまま支部とみなされることも多い。

参議院自由民主党[編集]

参議院自由民主党は各種業界・団体代表者の割合が高く、このためもあって派閥に対する帰属意識が衆院に比べて弱い。1989年(平成元年)の第15回参議院議員通常選挙で大敗、過半数割れして以降、自民党の参院勢力は常に過半数割れか、もしくは半数ギリギリの状況であるため、参院対策が重要視されている。

参院自民党の執行部人事は総裁の専権事項ではなく、参院議員会長の指名により決定する。ただし参院議員会長は閣僚経験者でなければならないため、会長が所属する派閥の領袖たる衆議院議員の指令で決まってしまい、結果的に長老支配や密室政治の温床となることもある。

また閣僚人事も派閥領袖より参院議員会長・参院幹事長の意向が優先される参議院枠が存在する。特に、参院議員会長の影響力が強いと総理総裁の人事権や派閥力学を超えて、閣僚人事権を事実上支配してしまうこともある。

離党と賞罰[編集]

一般党員の場合、毎年5月以降に所属の支部を通じて党費の請求を行い、その年の年末(12月28日)までに納入が確認できなければ、自動的に離党扱いとなる。

現職国会議員が離党する場合、幹事長宛に離党届を提出[59]し、党紀委員会において処分の対象にならないことを確認した上で了承を得る必要がある[60]。地方議員は都道府県支部連合会会長宛てで同様の手続きを踏む。党紀委員会または県連会合で了承されないときは処分の対象となり、その場合多くは除名となる。また議員及び党員が汚職または選挙違反などの刑事事犯により逮捕された場合は、判決確定まで党員資格停止とし、禁固以上の有罪判決が確定したときは無条件で除名に切り替える[61][注 10]。不起訴、起訴猶予になったとしても自民党の名誉を傷つけたと判断されれば処分の対象にすることができる[62]

その他、党紀委員会の処分としては重い順に、除名、離党勧告、党員資格停止、公認取り消し、国会・政府での役職停止、党内役職停止、幹事長厳重戒告、党則遵守勧告がある[63]。また、幹事長が出せる処分としては国会・政府での役職停止の前に「辞職勧告」をすることができる[64]

このうち、党員資格停止、党内役職停止は最大2年までの期限付きとする[65]。離党勧告は期限を付けることができる。期限付きとなった場合、その期限までに離党届が提出されたときは党紀委員会でこれを了承しなければならず、将来の復党の可能性も与えられる。提出されない場合は除名処分に切り替わる[注 11]

一度離党した議員が復党を希望する場合は、入党申込書を県連ではなく幹事長、場合によっては総裁宛に提出し、最低でも党紀委員会の審査を受けて了承されなければならない[66]。この時、除名処分を受けていると原則として二度と復党できず[注 12]、同時に所属していた自民党会派も退会となる[注 13][注 14]

執行部[編集]

歴代総裁(党首)[編集]

自由民主党シャドウ・キャビネット[編集]

歴代執行部役員[編集]

党役員[編集]

総裁 安倍晋三  
副総裁 高村正彦  
幹事長 二階俊博  
幹事長代行 下村博文  
幹事長代理  
選挙対策委員長 古屋圭司  
組織運動本部長 山口泰明  
広報本部長 平沢勝栄  
国会対策委員長 竹下亘  
総務会長 細田博之  
両院議員総会長  
政務調査会長 茂木敏充  
参議院議員総会長 橋本聖子  
参議院幹事長 吉田博美  
参議院政策審議会長  
参議院国会対策委員長  
  • 総裁は派閥を正式に退会、党四役以上は形式的に派閥を離脱。
  • かつては首相・衆参両院議長・副総裁の経験者からなる最高顧問が存在したが1990年代中期に廃止された。

党内派閥[編集]

閨閥[編集]

自民党およびその前身たる保守政党から輩出された歴代首相の多くが、同一の閨閥に属する[67]


主な支持母体[編集]

党友組織[編集]

党員が加入することも可能。日本国籍を有する者に限られる。「自民党にモノ言う応援団」を標榜している。1977年(昭和52年)創設時の初代代表は保守派の論客として知られた作曲家黛敏郎

政治資金団体[編集]

1976年(昭和51年)1月1日指定。法人用の党友組織でもある。自由国民会議同様に、日本国籍を有する個人でも入会可能。しかし個人会員は日本国籍を有する者に限られ、外資系企業が法人会員になることや在日外国人が個人会員になることは、政治資金規正法の規制により不可能である。

同和団体[編集]

1986年(昭和61年)結成。元幹事長野中広務が自民党離党後も京都府本部最高顧問を務め、人権擁護法案成立に向けて尽力している。

友好団体[編集]

事実上の支援団体[編集]

  • 現在は「中立」としている団体を含む。
カテゴリー 団体
財界団体
業界団体
  • 全国郵便局長会(全特):郵政民営化が問われた2005年衆院選以降は自民党議員だった郵政造反組で結成された国民新党を支援していたが、2013年参院選では改正郵政民営化法の成立を受け、再び自民党を支援している[71]
  • 日本医師会2009年(平成21年)政権交代後は会長・副会長でねじれ状態にある。翌年の参院選では民自みで組織内候補が分裂した。
  • 日本看護協会:政権交代後は特に同協会の政治団体である看護連盟が強く協力関係を留めた。
  • 日本薬剤師会:薬剤師でつくる業界団体。2010年(平成22年)の野党転落後の参院選でも看護連盟と共に組織内候補を当選させている。
  • 日本歯科医師会:医師会に次ぐ支持団体であったが、政権交代前後で「与党支持」の方針によって現在は地方支部の一部支持に留まる。
  • 日本理学療法士協会:理学療法士でつくる業界団体。組織内候補を擁立している。
  • 日本診療放射線技師協会:診療放射線技師でつくる業界団体。組織内候補を擁立している。
  • 日本臨床衛生検査技師会:組織内候補を擁立している。
  • 全国老人福祉施設協議会:組織内候補を擁立している。
  • 大樹全国会議長谷川憲正参議院議員(国民新党)が立ち上げた政治団体で、郵政民営化時に全国郵便局長会を脱会した者の大多数が移った(これとは別に、国民新党自体も職域支部「憲友会」を作っている)。もっとも、与野党隔てなく関係を重視する観点から、大樹全国会議も自民党との関係作りに腐心している状況である。
  • 全国貸金業政治連盟全国貸金業協会の政治団体。与党を中心に政治献金・パーティー券購入などを行っている
  • 全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協):自民党遊技業振興議員連盟(自民党パチンコ議連)に所属する議員を通じて、パチンコ業界と関係を築いている。また、11名の議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める。
  • 電気事業連合会:個々の電力会社が“役員の自発的行為”という形で個人献金を行なっている。加盟9社のうち沖縄電力幹部だけが献金をしていない。
宗教団体
組合系
政治思想系

近年の動向[編集]

前述されたように自民党は財界や保守層からの支持が根強い。小泉純一郎政権時は、マスコミ報道を効果的に利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・従来政治に関心が無かった層からも幅広い支持を集めた。第44回衆議院議員総選挙では党広報担当の世耕弘成民間企業広告代理店と協力して自らのイメージを高め反対勢力のイメージを落とそうとするメディア戦略を行った(B層)。

自民党は都市部と過疎地の経済格差の是正を重視する保守本流政策を田中角栄内閣以来踏襲し、農山漁村や地方小都市からの支持が根強かったが、近年では環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) を推進するなど、自由競争による経済効率を重視する政策への転換を図り、公共事業の削減を進めている。そのため、東京などの大都市では支持が増加し、他方で公共事業に大きく依存する農山漁村や地方小都市からの支持を失いつつある。地方組織は弱体化しつつあり、党員数も減少傾向にある[要出典]

第24回参議院議員通常選挙2016年)において東京都選挙区で当選した6候補の自治体別得票率(所属政党別)と自治体別平均世帯年収の相関。データは東京都選挙管理委員会および総務省統計局による[75][76]

また、経済格差の是正から格差拡大へと政策転換したことにより、貧困層においても自民党離れが進んでいる。過去10年間の自民党支持率の推移を世帯年収別に見ると、2005年には富裕層から貧困層までほぼ同じ割合が自民党を支持していたのに対し、2015年には富裕層における自民党支持が増えた一方で貧困層における支持は低下した(以下の表を参照[77]。世帯収入300万円未満の層では自民党離れが進み、無党派層が増えている[77]。例えば、第24回参議院議員通常選挙2016年)において東京都選挙区では、自民党の候補者(中川雅治および朝日健太郎)は平均世帯年収が高い自治体でより多くの票を獲得していたのに対し、平均世帯年収が低い自治体では票を伸ばすことができなかった(右グラフを参照)。

自民党支持率の推移(世帯年収別)[77]
世帯年収 2005年12月 (%) 2015年3月 (%)
1000万円以上
 43
 46(増加3)
750万〜1000万円
 37
 48(増加11)
500万〜750万円
 40
 41(増加1)
300万〜500万円
 42
 41(減少1)
300万円未満
 40
 36(減少4)

2010年(平成22年)6月9日には、主に若年層・特にインターネット上で活発に活動する層の取り込みを狙い、新たに公認ボランティア組織として『自民党ネットサポーターズクラブ』(J-NSC)を設立した(従来存在した「チーム世耕」の公然化)。J-NSCでは入会資格を「18歳以上で日本国籍保持者」として会費を無料とし、従来の党員・党友よりも幅広い層の取り込み、並びにいわゆる「ネット選挙」の本格的解禁に備えることを狙っている。

対外関係[編集]

アメリカ合衆国[編集]

アメリカの共和党日米安全保障条約、また韓国や太平洋諸国との同種の二国間軍事同盟(これが為、アジア太平洋地域に集団安全保障体制は存在しない)に基づく東アジア外交を重視し、さらには#党史にも述べられているように結党に深く関与しているため、およそ50年間にわたり政権を執ってきた自民党もその条約体制を概ね支持する意味から共和党政権との外交関係を重視してきた。発足以来、アメリカにおいて共和党の対立政党である民主党による政権はケネディジョンソンカータークリントンおよびオバマの各政権があるが、概ね共和党の外交政策を踏襲したケネディ政権を除いては民主党は東アジアにおける安全保障政策および東アジア外交を重視しない方針を取ってきたため、自民党とアメリカ民主党との外交関係は薄いのが現状である。

共和党政権ではとりわけ、日中国交回復の実現で協力した田中政権とニクソン政権、新自由主義に基づく経済戦略と国際戦略で協調路線を取った中曽根政権とレーガン政権・小泉政権とブッシュ政権がそれぞれ深い外交関係を持つものであった。アメリカの財政改善を重視したクリントン政権(1993年2001年)以降、日本とアメリカの外交関係は疎遠なものとなり、2009年(平成21年)発足した日本の民主党政権においても対アメリカ外交に関する基本的方針は確立されていない。

中華人民共和国[編集]

日中友好議員連盟には多数の議員が所属し、高村正彦が会長、町村信孝が副会長を務める。また、北京オリンピックを支援する議員の会河野洋平会長など100人以上の議員が参加している。なお日中緑化推進議員連盟には二階俊博らが所属している。国交回復を田中角栄が主導したため、田中派の流れをくむ平成研究会は伝統的に親中派が多いとされる。

中華民国 (台湾)[編集]

日華議員懇談会には多数の議員が所属し、自民党内には伝統的に岸信介など親台派の議員も数多く存在する。田中派とライバル関係にあった清和会は、親台湾派(反共)が多いとされる。また、2015年現在の総裁である安倍晋三は、日台友好を主たる目的とする亜東親善協会の会長を首相就任前まで務めていた。

大韓民国[編集]

日韓議員連盟に自民党議員177名が参加している。2012年12月に発足した第2次安倍内閣は、日韓関係修復のため第46回衆議院議員総選挙の総合政策集に明記していた政府主催による「竹島の日」記念式典の見送りを決定[78]した他、自民党の額賀福志郎を首相特使として派遣し朴槿恵次期大統領との首脳会談を要請した[79]

朝鮮民主主義人民共和国[編集]

南北分断固定以後は韓国同様にその存在を認めておらず、朝鮮労働党との交流は主に日本社会党が「友党」として積極的に行ってきた。その中で1990年(平成2年)には金丸信日本社会党田邊誠と共同で訪朝団を結成し(金丸訪朝団)、国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党・社会党・朝鮮労働党の3党で交している。

北朝鮮による日本人拉致問題の発覚後は、表立った交流は事実上行われていない。また超党派の北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟日朝国交正常化推進議員連盟に参加している議員もいるが、これらはむしろ反北朝鮮の立場である。

政党交付金[編集]

  • 2009年(平成21年) - 139億8032万円
  • 2010年(平成22年) - 102億6381万円
  • 2011年(平成23年) - 101億1468万円
  • 2012年(平成24年) - 101億5400万円

党勢の推移[編集]

衆議院[編集]

選挙 当選/候補者 定数 議席占有率 備考
(結党時) 299/- 467 64.02% 党のあゆみ」による
第28回総選挙 ○287/413 467 61.46% 追加公認+11
第29回総選挙 ○296/399 467 63.38% 追加公認+4
第30回総選挙 ○283/359 467 60.60% 追加公認+11
第31回総選挙 ○277/342 486 57.00% 追加公認+3
第32回総選挙 ○288/328 486 59.26% 追加公認+12
第33回総選挙 ●271/339 491 55.19% 追加公認+13
第34回総選挙 ●249/320 511 48.73% 追加公認+12、死去-1
第35回総選挙 ●248/322 511 48.53% 追加公認+10
第36回総選挙 ○284/310 511 55.58% 追加公認+3
第37回総選挙 ●250/339 511 48.92% 追加公認+9
第38回総選挙 ○300/322 512 58.59% 追加公認+4、新自由クラブより合流+5
第39回総選挙 ○275/338 512 53.71% 追加公認+11
第40回総選挙 ●223/285 511 43.64% 追加公認+8、離党-3
第41回総選挙 ○239/355 500 47.80%
第42回総選挙 ●233/337 480 48.54% (連立政権では過半数維持)
第43回総選挙 ●237/336 480 49.38% 追加公認+4、保守新党より合流+4
第44回総選挙 ○296/346 480 61.67% 翌年の復党合流+11
第45回総選挙 ●119/326 480 24.79% 離党-4、繰上当選+2、補選当選+1
第46回総選挙 ○294/337 480 61.25% 復党+1
第47回総選挙 ○289/352 475 61.05% 追加公認+1、入党+3、離党-1

参議院[編集]

選挙 当選/候補者 非改選 定数 議席占有率 備考
(結党時) 118/- - 250 47.20% 党のあゆみ」による
第4回通常選挙 ○61/118 61 250 48.80% 追加公認+2、死去-2、非改選入党+2
第5回通常選挙 ○71/101 62 250 53.20% 追加公認+2
第6回通常選挙 ○69/100 73 250 56.80% 追加公認+1
第7回通常選挙 ○71/95 69 250 56.00%
第8回通常選挙 ○69/93 68 250 54.80%
第9回通常選挙 ●63/94 72 252 53.57% 追加公認+1、繰上当選+1
第10回通常選挙 ●62/95 64 252 50.00% 追加公認+1
第11回通常選挙 ○63/77 61 252 49.20% 追加公認+3、離党-2
第12回通常選挙 ○69/77 66 252 53.57% 追加公認+1、非改選入党+1
第13回通常選挙 ○68/90 69 252 54.37%
第14回通常選挙 ○72/83 71 252 56.75% 追加公認+2
第15回通常選挙 ●36/78 73 252 43.25% 追加公認+2
第16回通常選挙 ○69/82 39 252 42.86% 追加公認+1
第17回通常選挙 ●46/66 65 252 44.05% (連立政権では過半数維持)
第18回通常選挙 ●44/87 59 252 40.87% 追加公認+2
第19回通常選挙 ○64/76 47 247 44.94% 保守党5と統一会派)
第20回通常選挙 ●49/83 66 242 47.52% (連立政権では過半数維持)
第21回通常選挙 ●37/84 46 242 34.30% 入党+1、離党-12、議員辞職-1
第22回通常選挙 ○51/84 33 242 34.71% 離党-1
第23回通常選挙 ○65/78 49 242 47.11%
第24回通常選挙 ○55/73 65 242 49.58% 追加公認+1、非改選入党+1

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書ISBN 4-00-430904-2

1)各会派所属議員数及び会派の動き(召集日現在)」(衆議院、2009年)、/h11to02b.htm (2) 参議院(1990年 - 1999年)(2)参議院 (召集日現在)(1996年 - 2003年)(2)参議院 (召集日現在)(2001年 - 2008年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はなく、国会の記録は、議長就任による党籍離脱が行われたあとで-1となっている。

所属国会議員[編集]

地方政治[編集]

  • 地方議員:3048人
    • 都道府県議会:1271人
    • 市議会:1301人
    • 特別区議会:286人
    • 町村議会:69人
  • 政党支部数:7,252

政党収入額[編集]

2010年(平成22年) - 439億1,820万円

得票総数[編集]

  • 第21回通常選挙 - 選挙区18,606,193票・比例代表16,544,671票
  • 第45回総選挙 - 小選挙区27,301,982票・比例代表18,810,217票
  • 第22回通常選挙 - 選挙区19,496,083票・比例代表14,071,671票
  • 第46回総選挙 - 小選挙区25,643,309票・比例代表16,624,457票
  • 第23回通常選挙 - 選挙区22,681,192票・比例代表18,460,404票

連立政党[編集]

これまでに自由民主党が連立政権を組んだ政党を列記する。

その他、閣外協力では自由連合村山改造内閣に、改革クラブが小渕第2次改造内閣と第1次森内閣に政務次官を出している。副大臣大臣政務官を一切出さない閣外協力では麻生内閣における(新党改革の前身で08年夏結成)改革クラブがある。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 上州戦争森奥戦争などの「名物選挙区」も存在した。
  2. ^ さらに、残った無所属の小沢貞孝も後に社会党入りしたため、二大政党以外は共産党の1人だけだった。
  3. ^ 社会党は自民党の半分程度であったが、全議席の1/3を確保して自民党の目指す憲法改正を阻止することには意義があった。以降概ねこの議席比率が保たれたため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれた。
  4. ^ 「教科書・拉致・靖国…メンバー相次ぐ落選 自民「保守派」思わぬピンチ」(『産経新聞』 2005年9月14日)
  5. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党したのは・西岡武夫(1980年)、河野洋平(1986年)、山口敏夫(同)。新自クを離党したのは小林正巳(1980年)と、参議院議員の有田一寿(1979年8月)
  6. ^ ちなみに単独過半数を回復した251人目は北村直人である。
  7. ^ この例を適用されたのが改革クラブから移籍した松下新平で、当時の総裁だった谷垣禎一に直接面会して了承されている。
  8. ^ もっともかつて“世界一の金持ち政党”といわれた中国国民党本部(野党転落を期に現在は売却)やフランス共産党本部(世界的建築家オスカー・ニーマイヤー設計)など、大規模な党本部施設をもつ政党は少なくない。
  9. ^ 森田健作は2003年の総選挙で中西一善に地盤を譲った後、千葉県知事選挙に立候補するまで「東京都衆議院選挙区第二支部長」であった。
  10. ^ この適用例としては2005年に逮捕された中西一善がいる。
  11. ^ 直近の例としては郵政解散の時の亀井郁夫がいる。亀井はその後、国民新党へ移籍した。
  12. ^ この例外として上川陽子がいる。
  13. ^ そのために復党が議題に上らなかった例として郵政解散のときの野呂田芳成がいる。
  14. ^ また党分裂に積極的に関与したという理由で新党の最高幹部が除名される例もあり、最近では旧国民新党代表を経験した亀井静香綿貫民輔、旧たちあがれ日本で共同代表を務めた与謝野馨、新党改革元代表で第19代東京都知事の舛添要一らがいる。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]