「川端康成」の版間の差分

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| subject = [[無垢]]な[[生命]]への讃仰、[[抒情]]、[[魔界]]<br />自他一如、万物一如、[[アニミズム]]<br /> [[生]]と[[死]]の流転、[[幽玄]]、[[心霊]]<br />[[日本]]の[[美]]の伝統、[[もののあはれ]]
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| notable_works = 『[[伊豆の踊子]]』(1926年)<br />『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(1933年)<br />『[[末期の眼]]』(1933年、随筆)<br />『[[雪国 (小説)|雪国]]』(1935年 - 1948年)<br >『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(1949年)<br />『[[山の音]]』(1954年)<br />『[[眠れる美女]]』(1961年)<br />『[[古都 (小説)|古都]]』(1962年)
| notable_works = 『[[伊豆の踊子]]』(1926年)<br />『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』(1932年)<br />『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(1933年)<br />『[[雪国 (小説)|雪国]]』(1935年-1948年)<br/ >『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(1949年)<br />『[[山の音]]』(1949年)<br />『[[眠れる美女]]』(1960年)<br />『[[古都 (小説)|古都]]』(1961年)
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| spouse = 秀子
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| children = 政子(養女)
| children = 政子([[養女]])、[[川端香男里|香男里]]([[婿養子]]
| relations = 三八郎(祖父)、カネ(祖母)<br />栄吉(父)、ゲン(母)<br />芳子(姉)、恒太郎(伯父)<br />あかり、秋成(孫)<br />黒田秀太郎、秀孝(伯父、従兄)<br />田中ソノ、岩太郎(伯母、従兄)<br />秋岡タニ、義愛(叔母、従兄)
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| influences = [[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]<br />[[ジェイムズ・ジョイス]]<br />[[]]<br />[[]]
| influences = [[武者小路実篤]]、[[江馬修]]<br />[[谷崎潤一郎]]、[[徳田秋声]]<br />[[堀越亨生]]、[[長田幹彦]]<br />[[押川春浪]]、[[野上彌生子]]<br />[[内藤千代子]]、[[有本芳水]]<br />[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]<br />[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]、[[アルチバーセフ]]<br />[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]][[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]<br />[[カミーユ・フラマリオン]]<br />[[源氏物語]]、[[枕草子]]、[[日本の中世文学史|中世文学]]<br />[[禅]]、[[汎神論]]
| influenced = [[岡本かの子]]<br />[[三島由紀夫]]<br />[[福永武彦]]<br />[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]
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'''川端 康成'''(かわばた やすなり、[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]] - [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月16日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。
'''川端 康成'''(かわばた やすなり、[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]] - [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月16日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[文芸評論家]]。[[大正]]から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。[[大阪府]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]][[国文学科]]卒業


大学時代に[[菊池寛]]に認められ[[文芸評論|文芸時評]]などで頭角後、[[横光利一]]らと共に同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。[[西欧]]の[[アバンギャルド|前衛]]文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「[[新感覚派]]」の作家として注目され、[[詩]]的、[[抒情]]的作品、[[浅草]]物、[[心霊]]・[[神秘]]的作品、[[少女小説]]など様々な手法や作風の変遷を見せて「[[奇術師]]」の異名を持った<ref name="jitenmishima">[[原善]]「川端康成」(『三島由紀夫事典』)([[勉誠出版]]、2000年)</ref>。その後は、[[死]]や流転のうちに「日本の[[美]]」を表現した作品、[[連歌]]と前衛が融合した作品など、[[伝統]]美、[[魔界]]、[[幽玄]]、妖美な世界観を確立させ<ref name="jitenmishima"/>、人間の[[醜]]や[[悪]]も、非情や[[孤独]]も[[絶望]]も衆知の上で、美や[[愛]]への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた<ref name="taiyohatori">[[羽鳥徹哉]]「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」(『別冊太陽 川端康成』)([[平凡社]]、2009年)</ref><ref name="bini10">羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。日本人として初の[[ノーベル文学賞]]も受賞し、受賞講演で[[日本人]]の[[死生観]]や[[美意識]]を世界に紹介した<ref name="okubo">[[大久保喬樹]]『日本文化論の系譜――「[[武士道]]」から「『甘え』の構造」まで』([[中公新書]]、2003年)</ref>。
[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町(現在の[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]付近)生れ。[[東京大学|東京帝国大学]]文学部[[国文学科]]卒業。[[横光利一]]らと共に『[[文藝時代]]』を創刊し、[[新感覚派]]の代表的作家として活躍。『[[伊豆の踊子]]』『[[雪国 (小説)|雪国]]』『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』『[[山の音]]』『[[眠れる美女]]』『[[古都 (小説)|古都]]』などで、死や流転のうちに「日本の[[美]]」を表現する。[[1968年]](昭和43年)に[[ノーベル文学賞]]を日本人で初めて受賞した。1972年(昭和47年)4月16日夜、満72歳で自殺(なお、[[遺書]]はなかった)<ref name="album">『新潮日本文学アルバム16 川端康成』([[新潮社]]、1984年)</ref>。<!--[[著作権]]失効年は2022年。-->


代表作は、『[[伊豆の踊子]]』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』『[[雪国 (小説)|雪国]]』『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』『[[山の音]]』『[[眠れる美女]]』『[[古都 (小説)|古都]]』など。初期の小説や[[自伝]]的作品は、川端本人も登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述しているため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究追跡調査されているものも多い<ref name="kawashima">[[川嶋至]]『川端康成の世界』([[講談社]]、1969年)</ref><ref name="hasegawa">[[長谷川泉]]『川端康成論考』([[明治書院]]、1965年)</ref>。
== 経歴 ==
[[File:Yasunari Kawabata 1917.jpg|thumb|left|150px|川端康成(1917年)]]
[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]]、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。父は栄吉([[済生学舎]]卒の医師、明治2年(1869年)1月13日生)、母はゲン(元治元年(1864年)7月27日生)。姉芳子(1895年(明治28年)8月17日生)。


川端は新人発掘の名人としても知られ、[[藤沢恒夫]]、[[ハンセン病]]の青年・[[北條民雄]]の作品を世に送り出し、少年少女の文章、[[豊田正子]]、[[岡本かの子]]、[[中里恒子]]、[[三島由紀夫]]を後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことでも特記される<ref name="album">[[保昌正夫]]『新潮日本文学アルバム16 川端康成』([[新潮社]]、1984年)</ref><ref name="itagaki">[[福田清人]]編・[[板垣信]]著『川端康成 人と作品20』(センチュリーブックス/[[清水書院]]、1969年)</ref>。また、その鋭い審美眼で数々の[[茶器]]や[[陶器]]、[[仏像]]や[[埴輪]]、[[俳画]]や[[日本画]]などの古[[美術品]]の[[蒐集家]]としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い<ref name="taiyo">『別冊太陽 川端康成』(平凡社、2009年)</ref>。
幼くして近親者を亡くす。[[1901年]](明治34年)に父が死去し、母の[[実家]]がある[[大阪府]][[西成郡]]豊里村(現在の大阪市[[東淀川区]])に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三八郎(天保12年(1841年)4月10日生)、祖母のカネ(天保10年(1839年)10月10日生)と一緒に[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]](現在の[[茨木市]])に移った。[[1906年]](明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の[[茨木市立豊川小学校]])に入学。[[笹川良一]]とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。しかし、9月に祖母が死に、[[1909年]](明治43年)には別居していた姉も死亡した。[[1912年]](明治45年)大阪府立茨木中学校(現在の[[大阪府立茨木高等学校]])に首席で入学。2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。下級生には[[大宅壮一]]が在学していた。近所の本屋『虎谷』へは、少ないお金をはたいて本を買いに行っていた。


多くの[[名誉]]ある文学賞を受賞し、[[日本ペンクラブ]]や[[国際ペンクラブ]]大会でも尽力したが、多忙の中、突然[[1972年]](昭和47年)4月16日夜、72歳で[[ガス燃料|ガス]][[自殺]]した(なお、[[遺書]]はなかった)<ref name="album"/>。
作家を志したのは中学2年のときで、[[1916年]]([[大正]]5年)から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に[[短歌]]を投稿するようになった。[[1917年]](大正6年)に卒業すると上京し、[[浅草]]蔵前の従兄の家に居候し、[[明治大学]]予備校に通い始め、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の一部乙、英文科に入った。後年『[[伊豆の踊子]]』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。その後10年間、伊豆[[湯ヶ島]]湯本館へ通うようになった。


== 生涯 ==
[[1920年]](大正9年)に卒業し、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部英文学科に入学。同期に[[北村喜八]]、[[本多顕彰]]、[[鈴木彦次郎]]、[[石濱金作]]がいた。同年、[[今東光]]、鈴木彦次郎、石濱、酒井真人と共に同人誌『[[新思潮]]』(第6次)の発刊を企画。また、英文学科から国文学科へ移った。[[1921年]](大正10年)、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が[[菊池寛]]らに評価され、[[1923年]](大正12年)に創刊された『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の同人となった。国文科に転じたこともあり、大学に1年長く在籍したが、[[1924年]]卒業した(卒論は「日本小説史小論」)。同年、[[横光利一]]、[[片岡鉄兵]]、[[中河与一]]、[[佐佐木茂索]]、今東光ら14人とともに[[同人雑誌]]『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。[[1926年]](大正15年)処女短篇集『感情装飾』を刊行。[[1927年]]([[昭和]]2年)、前年結婚(入籍は1931年(昭和6年)12月2日)した夫人とともに[[豊多摩郡]]杉並町馬橋([[高円寺]])に移転。同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『[[文學界|文学界]]』の同人となった。
=== 生い立ち――両親との死別 ===
[[File:Kawabata Yasunari Osaka01-r.jpg|thumb|160px|川端康成生誕地(撮影2011年)]]
[[1899年]]([[明治]]32年)[[6月14日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市[[天神橋 (大阪市)|天神橋]] 1丁目16-12)に、[[医師]]の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生<ref name="sasagawa">[[笹川隆平]]「川端康成氏の生誕地について」(国文学 1971年7月号に掲載)。『川端康成―大阪茨木時代と青春書簡集』(和泉選書、1991年)</ref><ref name="kawanishi">[[川西政明]]「解説」(『川端康成随筆集』([[岩波文庫]]、2013年)</ref>(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた<ref name="hasegawa2">[[長谷川泉]]「川端康成集注釈」「川端康成年譜」「注釈者あとがき」(『日本近代文学大系42 川端康成・[[横光利一]]集』)([[角川書店]]、1971年)</ref><ref name="taiyonenpu">[[森晴雄]]「川端康成 略年譜」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref><ref name="koyano">[[小谷野敦]]『川端康成伝―双面の人』([[中央公論新社]]、2013年)</ref>)。7か月の[[早産]]だった<ref name="sobo">川端康成「祖母」(若草 1925年9月号に掲載)</ref><ref name="omoidasu">川端康成「思ひ出すともなく」([[毎日新聞]] 1969年4月23日号に掲載)(『写真集 川端康成〈その人と芸術〉』)([[毎日新聞社]]、1969年)</ref>。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校[[済生学舎]](現・[[日本医科大学]]の前身)を卒業し、[[天王寺]]桃山(現・大阪市[[天王寺区]]筆ヶ崎)の病院の[[勤務医]]を経た後、自宅で[[開業医]]をしていたが、[[肺]]を病んでおり虚弱であった<ref name="sasagawa"/><ref name="shindo">[[進藤純孝]]『伝記 川端康成』([[六興出版]]、1976年)</ref>。また、栄吉は[[浪華]]の[[儒家]]寺西易堂で[[漢学]]や[[書画]]を学び、「谷堂」と号して[[漢詩]]文や[[文人画]]をたしなむ多趣味の人でもあった<ref name="shounen">川端康成「少年」([[人間 (雑誌)|人間]] 1948年5月号-1949年3月号に掲載)</ref>。蔵書には、ドイツ語の小説や[[近松門左衛門|近松]]、[[井原西鶴|西鶴]]などの本もあった<ref name="furusato">川端康成「私のふるさと」([[週刊サンケイ]] 1963年7月15日号に掲載)</ref><ref name="gendai">[[中野好夫]]「作家に聴く―川端康成」(文學 1953年3月号に掲載)。中野好夫「川端康成」(『現代の作家』)(岩波新書、1955年)</ref><ref name="itagaki"/>。


しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が2歳となる[[1901年]](明治34年)1月に、妻・ゲンの[[実家]]近くの[[大阪府]][[西成郡]]豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市[[東淀川区]]大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に[[結核]]で死去した(32歳没)<ref name="sasagawa"/><ref name="tomie">川端富枝『若き日の川端康成氏と川端家』(私家版、1970年)。『ノーベル賞受賞の川端康成氏と川端家』(私家版、1971年)</ref><ref name="shindo"/><ref name="kawanishi"/>。栄吉は瀕死の床で、「'''要耐忍 為康成書'''」という[[書道|書]]を遺し、芳子のために「'''貞節'''」、康成のために「'''保身'''」と記した<ref name="fuboeno">川端康成「父母への手紙」(若草 1932年1月号、文藝時代 1932年4月号に掲載)</ref>{{refnest|group="注釈"|この「保身」という文字は川端の生活信条となり、日記の随所に出てくる<ref name="hasegawa2"/>。}}。
『[[雪国 (小説)|雪国]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』などの作品を発表し、1937年『雪国』で文芸懇話会賞を受賞。[[1944年]](昭和19年)『故園』『夕日』などにより[[菊池寛賞]]を受賞。このころ[[三島由紀夫]]が持参した「煙草」を評価する。文壇デビューさせたその師的存在である。[[1945年]](昭和20年)4月、海軍報道班員(少佐待遇)<ref>[[#海軍主計大尉]]p.219</ref>で[[鹿屋航空基地|鹿屋]]へ趣き、[[神風特別攻撃隊]][[神雷部隊]]を取材する。同行した[[山岡荘八]]は作家観が変わるほどの衝撃を受け、川端は「生命の樹」を執筆している<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』</ref>。その後『千羽鶴』『山の音』などを断続発表しながら、[[1948年]](昭和23年)に[[日本ペンクラブ]]第4代会長に就任。[[1957年]](昭和32年)に東京で開催された[[国際ペンクラブ]]大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年に菊池寛賞を受賞した。[[1958年]](昭和33年)に[[国際ペンクラブ]]副会長に就任。また[[1962年]](昭和37年)、[[世界平和アピール七人委員会]]に参加。[[1963年]](昭和38年)には、新たに造られた[[日本近代文学館]]の監事となった。[[1964年]](昭和39年)、[[オスロ]]で開かれた国際ペンクラブ大会に出席。断続的に「たんぽぽ」の連載を『[[新潮]]』に始めた。[[1965年]](昭和40年)に日本ペンクラブ会長を辞任したが、翌年に肝臓炎のために[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院した。


2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「'''黒善'''」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家([[資産家]])で、広壮な家を構える大[[地主]]であった<ref name="shindo"/><ref name="nenpu">羽鳥徹哉「年譜」『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)</ref><ref name="shindo"/>。ところが、ゲンも翌[[1902年]](明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府[[茨木市]]大字宿久庄1丁目11-25)に移った<ref name="sasagawa"/><ref name="kawanishi"/>。
[[1968年]](昭和43年)10月に、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」[[ノーベル文学賞]]受賞が決定した。2010年代に公表された選考資料によると、1961年に最初に候補者となってから7年かかっての受賞だった<ref>2014年現在は、1961年から(選考資料が公開された)1963年まで毎年候補者となっていたことが判明している(「[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG03019_T00C14A1CR8000/ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年]」 日本経済新聞2014年1月3日)。</ref>。12月の[[ストックホルム]]での授賞式には、[[燕尾服]]ではなく、[[文化勲章]]を掛け[[紋付羽織袴]]で臨んだ。記念講演「[[美しい日本の私―その序説]]」<ref>[[エドワード・サイデンステッカー]]英訳を併記し、[[講談社現代新書]]で刊行している。</ref>を行った。翌1969年から1974年にかけ、[[新潮社]]から『川端康成全集』(全19巻)が刊行<ref>1980~84年に、『決定版 川端康成全集』(全35巻補巻2)が刊行。のちに限定一括復刊もした。</ref>された。台北のアジア作家会議、1970年にソウルの国際[[ペンクラブ]]大会<ref>朴正熙の軍事独裁政権下での開催に反対して、[[大江健三郎]]等はペンクラブを退会した。</ref>に出席、日本近代文学館の名誉館長にも就任した。ノーベル賞受賞後発表した作品は、短編が数作品あるだけで、ノーベル賞授与が重圧になったといわれる。


[[File:Kawabatatei.JPG| thumb|160px|宿久庄の川端康成旧居跡(撮影2008年)]]
[[1972年]](昭和47年)[[4月16日]]夜、神奈川県逗子市のマンション「[[逗子マリーナ]]」の自室・仕事部屋で死亡している(ガス自殺とみられている<ref name="album"/>)のが発見された。[[享年]]72。[[戒名]]は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。
宿久庄の川端家は、[[豪族]]や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の[[庄屋]]で大[[地主]]であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で[[財産]]の大半は人手に渡っていた<ref name="fuboeno"/><ref name="juroku"/>。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った<ref name="sasagawa"/>。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府[[東成郡]]鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]]蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時[[衆議院議員]]をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした<ref name="shounen"/>。


川端の家系は[[北条泰時]]から700年続き<ref name="juroku">川端康成「十六歳の日記」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1925年8月-9月号に掲載)</ref>、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の[[祖先]]である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)<ref name="tomie"/><ref name="keizu">[[川嶋至]]「川端康成の系図」(位置 1963年10月号に掲載)</ref>。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の[[坊官]]で、同寺は明治期まで川端家の名義であった<ref name="tomie"/><ref name="juroku"/>。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる<ref name="keizu"/><ref name="jijoden">川端康成「文学的自叙伝」([[新潮]] 1934年5月号に掲載)</ref>。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身([[伯母]]と[[姪]]の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった<ref name="koen">川端康成「故園」([[文藝]] 1943年5月号-1945年1月号に連載)</ref>。父母の病死は幼い康成の胸に、〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に<ref name="fuboeno"/>、記憶のない父母(特に母)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる<ref name="itagaki"/>。
翌[[1973年]]に財団法人川端康成記念会によって[[川端康成文学賞]]が設けられ、現在まで続いている。[[1985年]](昭和60年)には、[[茨木市立川端康成文学館]]が開館した。なお茨木市[[名誉市民]]にもなっている。


=== 「寂寥の家」の神童 ===
== 年譜 ==
幼い頃の康成には一種の[[予知]]能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、[[天気予報]]ができたりと小さな[[予言]]をし、便利がられ<ref name="andon">川端康成「行燈」(風景 1964年2月号に掲載)(『落花流水』)(新潮社、1966年)</ref><ref name="koen"/>、「[[神童]]」と呼ばれることもあった<ref>川端康成「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」([[中央公論]] 1932年2月号に掲載)</ref>。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈[[真綿]]にくるむやう〉に育てられていた<ref name="sobo"/><ref name="abura">川端康成「油」([[新思潮]] 第4号・1921年7月号に掲載。婦人之友 1925年10月号に掲載)</ref><ref name="koen"/>。
[[ファイル:Kawabata yasunari birth.jpg|thumb|川端康成生誕地の碑]]
[[ファイル:Kawabata yasunari museum01s1760.jpg|thumb|茨木市立川端康成文学館]]
[[ファイル:Yasunari Kawabata c1932.jpg|thumb|川端康成(1932年)]]
[[ファイル:Yasunari_Kawabata_c1946.jpg|thumb|川端康成(1946年)]]


[[1906年]](明治39年)4月、三島郡豊川[[尋常高等小学校]](現・[[茨木市立豊川小学校]])に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた<ref name="andon"/><ref name="koen"/><ref name="omoidasu"/>。
* [[1899年]]([[明治]]32年) - [[大阪市]]天満此花町で、開業医の家の長男として生まれる。
{{Quotation|人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では[[雨戸]]をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。|川端康成「行燈――落花流水」<ref name="andon"/>}}
* [[1901年]](明治34年) - 父栄吉、[[結核]]で死去。
* [[1902年]](明治35年) - 母ゲン、結核で死去。祖父母と共に[[大阪府]]下[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]豊川村(現在の[[茨木市]])へ転居。
* [[1906年]](明治39年) - 祖母カネ死去。
* [[1912年]](明治45年) - 旧制茨木[[旧制中学校|中学校]](現[[大阪府立茨木高等学校]])入学。
* [[1914年]]([[大正]]3年) - 祖父死去。大阪市の母の実家に引き取られるが、通学のため茨木中学校の寄宿舎に入る。
* [[1917年]](大正6年) - 茨木中学校を卒業、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]](現[[東京大学]][[教養学部]])に入学。
* [[1918年]](大正7年) - 伊豆を旅する。
* [[1920年]](大正9年) - [[東京大学|東京帝国大学]]英文科に入学。
* [[1921年]](大正10年) - 国文科へ転科。『招魂祭一景』発表(大学時代に第6次『[[新思潮]]』に発表した作品をきっかけに、[[菊池寛]]に認められ、交流を持つようになり、文壇への道が開けた)。
* [[1924年]](大正13年) - 東京帝国大学卒業。[[学士|文学士]](東京帝国大学)取得。同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。この同人誌には、[[新感覚派]]と呼ばれた、新進作家が集まった。
* [[1925年]](大正14年) - 『[[十六歳の日記]]』『孤児の感情』を発表。[[文化学院]]で文学部教師となる。
* [[1926年]](大正15年) - 『[[伊豆の踊子]]』を発表。青森県八戸市の松林慶蔵の三女・秀子(1907年生まれ)と結婚。秀子は文藝春秋『オール読物』の編集長・菅忠雄の家で手伝いとして働いており、菅宅に長期滞在にきた川端と出会う。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - 『美しい!』([[福岡日日新聞]])、『海の火祭』([[中外商業新報]])の新聞連載。
* [[1929年]]([[昭和]]4年) - 『浅草紅団』の新聞連載開始。
* [[1933年]](昭和8年) - 『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』『末期の眼』を発表。
* [[1935年]](昭和10年) - 『[[雪国 (小説)|雪国]]』を発表。
* [[1942年]](昭和17年) - 『[[名人 (小説)|名人]]』を発表。
* [[1943年]](昭和18年) - [[高槻市]]の従兄黒田秀孝の三女・政子(麻紗子とも)を養女にする(のちに[[川端香男里|山本香男里]]を入り婿に迎える)。『故園』『夕日』『父の名』を発表。
* [[1945年]](昭和20年) - [[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員となり、特別攻撃隊を取材する<ref>[[#海軍主計大尉]]p.217</ref>。
* [[1947年]](昭和22年) - 『哀愁』を発表。
* [[1948年]](昭和23年) - 第4代[[日本ペンクラブ]]会長就任。『反橋』を発表。
* [[1949年]](昭和24年) - 『しぐれ』『住吉』『山の音』『千羽鶴』『骨拾ひ』を発表。
* [[1950年]](昭和25年) - 『[[文章読本|新文章読本]]』『[[宝塚歌劇団|歌劇]]学校』を発表。
* [[1957年]](昭和32年) - [[国際ペンクラブ]]副会長として、国際ペンクラブ大会を日本で開催(京都と東京)。
* [[1961年]](昭和36年) - [[文化勲章]]受章。『[[古都 (小説)|古都]]』執筆のため、京都で暮らす。
* [[1965年]](昭和40年) - NHKの[[連続テレビ小説]]で「[[たまゆら_(テレビドラマ)|たまゆら]]」が放映される。
* [[1968年]](昭和43年) - [[ノーベル文学賞]]を受賞し、「[[美しい日本の私―その序説]]」という講演を行う。
* [[1969年]](昭和44年) - 茨木高校の文学碑除幕、[[茨木市]]名誉市民。 [[鎌倉市]]名誉市民。
* [[1972年]](昭和47年) - 仕事場にしていた[[逗子マリーナ]]のマンションにて長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、自殺と報じられる。
* [[1985年]](昭和60年) - [[茨木市立川端康成文学館]]開館。


康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(256日のうち)、しばらくは近所の[[百姓]]女の田中みとが学校まで付き添っていった。小学校時代の旧友のよると、康成の成績はよく、[[作文]]が得意で群を抜いていたという<ref name="tomie"/>。小学校に上がる前から祖母に〈[[いろは順|いろは]]〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい[[読み書き]]はできた〉と川端は当時を述懐している<ref name="andon"/><ref name="omoidasu"/>。なお、[[笹川良一]]とは小学の[[同級生]]であった<ref name="ryoichi">[[笹川良一]]『人類みな兄弟』(講談社、1985年)</ref><ref name="dokuhonnenpu">羽鳥徹哉「川端康成年譜」(『文芸読本 川端康成』)([[河出書房新社]]、1977年。新装版1984年)</ref>。祖父同士が[[囲碁]]仲間であったとされる<ref name="ryoichi"/>。
== 受賞 ==
* [[1937年]]([[昭和]]12年) - 『[[雪国 (小説)|雪国]]』で文芸懇話会賞
* [[1944年]](昭和19年) - 『故園』『夕日』などで[[菊池寛賞]]
* [[1952年]](昭和27年) - 『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』で[[日本芸術院賞]]<ref>『朝日新聞』1952年3月26日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)夕刊、2頁。</ref>
* [[1954年]](昭和29年) - 『[[山の音]]』で第7回[[野間文芸賞]]
* [[1958年]](昭和33年) - 東京国際ペンクラブでの努力により第6回[[菊池寛賞]]
* [[1962年]](昭和37年) - 『[[眠れる美女]]』で第16回[[毎日出版文化賞]]
* [[1968年]](昭和43年) - ノーベル文学賞


しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌[[1909年]](明治43年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという<ref name="fuboeno"/>。芳子の[[危篤]]を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を[[易]]で占った。10歳の康成は姉の[[訃報]]をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた<ref name="soushiki">川端康成「会葬の名人」(のち「葬式の名人」)(文藝春秋 1923年5月号に掲載)</ref>。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に、涙脆く有難がる祖父と暮らしていた当時のことを川端は、〈恥づかしい[[秘密]]のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目[[合掌]]しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている<ref name="omoidasu"/>。
== 栄典 ==
* [[1959年]]([[昭和]]34年) - [[ゲーテメダル]]
* [[1960年]]([[昭和]]35年) - [[芸術文化勲章]](オフィシエ)
* [[1961年]]([[昭和]]36年) - 文化勲章


小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「[[甲]]」であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。康成は[[絵]]が得意であったため、[[文人画]]をたしなんでいた祖父の勧めで[[画家]]になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の[[図書館]]の本は一冊もらさず読んでしまった<ref name="gendai"/>。康成は毎日のように〈庭の[[モッコク|木斛]]の樹上で〉本を読み、[[講談]]や戦記物、史伝をはじめ、[[立川文庫]]の[[冒険小説]]家・[[押川春浪]]を愛読した<ref name="omoidasu"/><ref name="gendai"/>。
== その文学とエピソード ==
数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺した近現代日本文学の頂点に立つ作家のひとりである。しばしば過去より今日に至るまで日本でもっとも美しい文章を書いた作家として紹介されることがある。その主だった作品は研究対象となることが多く、また本人も専門雑誌等に寄稿した創作に関する随筆等ではやや饒舌に記述することがあったため多少の脚色はあるものの、モデルやロケーション、登場事物等の中には純然たる創作(架空のできごと)によるものではなく具体的に判明しているものも多い。


=== 作家志望と「孤児の感情」 ===
府立茨木中学に首席で入学し、近隣からは神童とさわがれたとされている。ただし、随筆等に書かれているように、入学後まもなく川端の興味関心は早くも芸術や大人の世界に向き始めており学校での勉学については二の次となった。現存する中学の卒業成績表によると、[[作文]]の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績であった<ref>郡恵一『康成と壮一と』サンケイ新聞生活情報センター、1982年、25p</ref>が、これは課題の作文の提出を怠ったためである。
[[File:Yasunari Kawabata 1912.jpg|thumb|180px|茨木中学校入学(1912年)]]
[[1912年]](明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許[[保証人]]として、4月に大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])に[[首席]]で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で[[体育|体操]]や[[学校教練|教練]]に厳しく、[[マラソン]]も盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳[[プール]]が作られ、[[オリンピック選手]]も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ[[地下足袋]]が許されていた<ref name="koen"/>。康成は学校まで約一[[里]]半(約6[[キロメートル]])の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった<ref name="album"/>。


しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった<ref name="andon"/><ref name="fuboeno"/>。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている<ref>川端康成「春夜友を訪ふ」(大正3年3月3日付)</ref><ref name="shounen"/>。
洛中に現存する唯一の蔵元[[佐々木酒造]]の日本酒に「この酒の風味こそ京都の味」と、作品名『[[古都]]』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で[[桑原武夫]](京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけ買いに行ったと、桑原は回想している。<ref>追想記『川端康成氏との一夕』([[文藝春秋]]、1972年6月号掲載)、のち『人間素描』筑摩書房。</ref> 


康成は中学2年頃から[[作家]]になることを志し、『[[新潮]]』『[[新小説]]』『[[文章世界]]』『[[中央公論]]』など[[文芸雑誌]]を読み始めた<ref name="gendai"/>。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった<ref name="shounen"/>。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の[[借金]]には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している<ref name="atogaki1">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第1巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは[[汁物]]と[[梅干]]ばかりであった<ref name="shounen"/>。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり[[宿題]]の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる<ref>[[郡恵一]]『康成と壮一と』([[サンケイ新聞]]生活情報センター、1982年)25頁</ref>。
[[日本棋院]]内にある対局部屋「幽玄の間」に、川端の筆による『深奥幽玄』の掛軸がある。


中学3年となった[[1914年]](大正3年)5月25日未明(午前2時)、[[寝たきり]]となっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は[[家相]]学や[[漢方薬]]の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった<ref name="juroku"/>。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『[[十六歳の日記]]』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、[[白内障]]で[[盲目]]となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている<ref name="fuboeno"/><ref name="hinata">川端康成「日向」(文藝春秋 1923年11月号に掲載)</ref>。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、[[孤児]]となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした<ref name="soushiki"/>。祖父の[[遺骨|骨揚げ]]の日のことを康成は、以下のように綴っている<ref name="honehiroi">川端康成「骨拾ひ」(文藝往来 1949年10月号に掲載。1916年執筆)</ref>。
川端が大戦中、神雷部隊に報道班員として赴任していたころ、隊に所属していた杉山幸照少尉曰く、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂でカレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に[[谷田部町|谷田部]]の海軍基地に行くところであった)。杉山は、自身の著作<ref>杉山幸照『海の歌声 神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』行政通信社、1972年</ref> での川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。川端は赴任前に大本営報道部の高戸大尉から「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、高戸は後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している<ref>[[#海軍主計大尉]]p.220</ref>。
{{Quotation|お祖父さんの[[生]]――[[死]]。私は[[撥]]をかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからと[[骨]]が鳴る。小さい方の[[骨壺]]を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、[[同情]]のうちにも、[[好奇心]]をまじへてゐるやうに思はれる。|川端康成「骨拾ひ」<ref name="honehiroi"/>}}


川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている<ref name="soushiki"/>。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、[[下宿人]]根性、被恩恵者根性〉が強まっていった<ref name="atogaki4">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第4巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。また自身の出目(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている<ref name="ichiryu">川端康成「一流の人物」(文藝春秋 1926年7月号に連載)</ref>。
1971年(昭和46年)の[[1971年東京都知事選挙|都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで[[按摩]]を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、[[日蓮]]様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、[[三島由紀夫|三島]]君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという<ref name="kontouko">[[今東光]]「本当の自殺をした男」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1972年6月号に掲載)</ref>。その話を聞いた[[今東光]]も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている<ref name="kontouko"/>。
{{Quotation|私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の[[血統]]が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。|川端康成「一流の人物」<ref name="ichiryu"/>}}


両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「[[霊魂]]」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた<ref name="hato2">羽鳥徹哉「作家案内――川端康成」(文庫版『水晶幻想・[[禽獣 (小説)|禽獣]]』)(講談社文芸文庫、1992年)</ref>。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ<ref name="atogaki4"/><ref name="hato2"/>。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる[[母性|母親的]]な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる<ref name="hato2"/>。
=== 死因について ===

死亡当時、死因は[[自殺]]と報じられ、それがほぼ規定となっている。その一方で、[[遺書]]がなかったことや、死亡前後の状況から自殺を疑い、事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。
8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、[[吹田駅]]から[[茨木駅]]間を汽車で通学するようになったが、翌年3月から[[寄宿舎]]に行くことになった<ref name="atogaki1"/><ref name="nikki191524">川端康成「日記」(大正4年2月4日付)</ref>。

=== 初めての恋慕・小説家への野心 ===
[[1915年]](大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り<ref name="nikki191524"/>、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、[[美男子]]であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた<ref name="abura"/>。2級下の下級生には[[大宅壮一]]や[[小方庸正]]が在学していた<ref name="jijoden">川端康成「文学的自叙伝」(新潮 1934年5月号に掲載)</ref>。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『[[中学世界]]』や『[[少年世界]]』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間で[[スター]]のような存在であったという<ref name="jijoden"/>。康成は、[[武者小路実篤]]などの[[白樺派]]や、[[上司小剣]]、[[江馬修]]、[[堀越亨生]]、[[谷崎潤一郎]]、[[野上彌生子]]、[[徳田秋声]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]、『[[源氏物語]]』、『[[枕草子]]』などに親しみ<ref name="atogaki1"/><ref name="jijoden"/><ref name="bunshou">川端康成「文章について」(芸術科 1933年7月号に掲載)</ref>、[[長田幹彦]]の描く[[祇園]]や[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の[[花柳]]文学にかぶれ、時々、一人で[[京都]]へ行き、夜遅くまで散策することもあった<ref name="jijoden"/>。

同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを[[活字]]にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに[[短歌]]を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や[[絶望]]を感じた<ref name="atogaki1"/>。この頃の日記には、〈[[英語]]ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など[[外国語]]で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でも[[ノーベル賞|ノベル賞]]を思はぬまでもない〉と強い決意を記している<ref>川端康成「日記」(大正5年1月)</ref><ref name="hiramizu">[[平山三男]]・[[水原園博]]「川端康成コレクションのすべて」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。

意を決し、[[1916年]](大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった<ref name="atogaki1"/>。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に[[無垢]]な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの[[同性愛]]的な恋慕を抱く([[肉体関係 (隠語)|肉体関係]]はない)<ref name="shounen"/><ref name="hayashi">[[林武志]]『川端康成研究』([[桜楓社]]、1976年)</ref>。

川端は、〈受験生時分にはまだ[[少女]]よりも[[少年]]に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している<ref name="shounen"/>。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも[[文通]]し、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]と[[東京大学|帝国大学]]入学後も小笠原の実家を訪ねている<ref name="shounen"/>。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と書き送っている<ref name="shounen"/>{{refnest|group="注釈"|小笠原義人の実家は[[京都府]][[京都市]][[下京区]]上嵯峨村(現・[[右京区]][[嵯峨野]])で、一家は[[大本教]]の[[信者]]であった<ref name="yugashima">川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)</ref><ref name="shounen"/>。小笠原義人は1900年(明治33年)11月11日生れ。五男三女の3番目で長男。祖父・弥太郎義信は[[紀伊藩]]士。大祖は[[清和源氏]]源義家の弟・新羅三郎義光で、小笠原家の鼻祖は、長清であるという<ref name="hayashi"/>。義人の父・義之は紀伊藩士・森儀三郎の二男で、義信の養子。母・ヒサは[[加賀藩]]士・御納戸役の飯森薫の長女である<ref name="hayashi"/>。}}。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた<ref name="yugashima"/>。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈[[初恋]]〉だとし、以下のように語っている<ref name="atogaki1"/>。
{{Quotation|私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。|川端康成「独影自命」<ref name="atogaki1"/>}}

この年の9月には、康成と同じ歳の[[中条百合子]]が[[坪内逍遥]]の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央[[文壇]]との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった<ref name="atogaki1"/><ref name="furutani">[[古谷剛武]]『川端康成』([[作品社]]、1936年)</ref>。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の[[従兄]]・秋岡義愛の紹介で、義愛の同級生であった『[[三田文学]]』の新進作家の[[南部修太郎]]と[[文通]]が始まった<ref name="atogaki1"/><ref name="ishihama">[[石濱金作]]「川端君の若い頃」(『現代日本文学全集39川端康成』月報)(筑摩書房、1955年)</ref>。なお、この年の秋には、祖父と暮らした[[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎に売られた<ref name="atogaki1"/>{{refnest|group="注釈"|川端岩次郎は、川端松太郎の妹・シヨの婿である。松太郎は栄吉とゲンの葬儀の際に、押えの[[焼香]]をした人物<ref name="hasegawa2"/>。}}。

=== 一高入学――伊豆一人旅へ ===
[[File:Yasunari Kawabata 1917.jpg|thumb|180px|川端康成(1917年)]]
[[1917年]](大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・満井成吉の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の[[石丸悟平]]から、感動したという返事をもらう<ref name="atogaki1"/><ref>宮崎尚子「新資料紹介 川端康成『生徒の肩に柩を載せて 葬式の日、通夜の印象』」([[熊本大学]]国語国文学研究、2012年)</ref><ref name="koyano"/>{{refnest|group="注釈"|この「師の柩を肩に」は、のち1927年(昭和2年)に、「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し、『[[キング (雑誌)|キング]]』3月号に再掲載された<ref name="hasegawa2"/><ref name="nenpushincho">「年譜」(文庫版『伊豆の踊子』)([[新潮文庫]]、1950年。改版2003年)</ref>。}}。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か[[役場]]に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の[[第三高等学校 (旧制)|三高]]に進学していた<ref name="souichi">[[大宅壮一]]「川端康成君の生活」(新潮 1929年11月号に掲載)</ref>。その雰囲気の中、康成は行く末は〈[[慶應義塾大学|三田]]か[[早稲田大学|早稲田]]の[[文科]]〉に行くつもりだったが、[[首席]]で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として[[東京大学|帝大]]が浮び〉、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]への進学を決意した<ref name="shounen"/>。

教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では[[師範学校|師範]]の二部が適当だ」と忠告するが<ref name="jitsuroku">『実録 川端康成』([[読売新聞社]]、1969年)</ref>、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ上京して[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])にいる従兄・田中岩太郎と[[伯母]]・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や[[駿河台]]の[[明治大学]]の[[予備校]]に通い始めた<ref name="chichino">川端康成「父の名」([[文藝]] 1943年2月-3月号に掲載)</ref><ref name="gendai"/>。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために[[質屋]]通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている<ref name="chichino"/>。康成は、[[浅草公園]]などにもよく出かけ、上京一番に[[麻布区]][[龍土町]]にいる文通相手の[[南部修太郎]]宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った<ref name="ishihama"/>。

9月に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の文科第一部[[乙]]類([[英文科]])に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には[[石濱金作]]、[[酒井真人]]、[[鈴木彦次郎]]、[[三明永無]]、[[守随憲治]]、[[池田虎雄]]、[[片岡義雄]]、[[辻直四郎]]らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。寮で隣室となった石濱は、予備校で康成を一度見かけていて、その時の強い印象が忘れられなかったという<ref name="jinsoku">石濱金作「無常迅速――青春修行記」(文芸読物 1950年5月号に掲載)</ref>。川端は石濱の影響で、[[菊池寛]]、[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]、[[ロシア文学]]をよく読んだ<ref name="jijoden"/>。[[浅草オペラ]]などによく一緒に行き、オペラ小屋で[[谷崎潤一郎]]を見かけたこともあった<ref name="kurenai">川端康成「『[[浅草紅団]]』について」([[文學界]] 1951年5月号に掲載)</ref>。

翌[[1918年]](大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての[[伊豆半島|伊豆]]への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した[[精神]]の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>、10月30日から11月7日までの約8日間、[[修善寺温泉|修善寺]]から[[下田街道]]を[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]へ旅した<ref name="shindo"/>{{refnest|group="注釈"|川端は、親戚の川端松太郎に、[[修善寺温泉]]、[[湯ヶ島温泉]]など旅先から[[絵葉書]]を送っている<ref name="hasegawa2"/><ref name="album"/>。}}。この時に時田かほる(踊子の兄)、岡田文太夫の率いる[[旅芸人]]一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った<ref name="tsuchiya">土屋寛『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年)</ref><ref name="taiyonenpu"/>。[[下田港]]からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた<ref name="jitsuroku"/>。

彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した<ref name="shounen"/>。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『[[伊豆の踊子]]』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり<ref name="yugashima"/>、宿泊した湯ヶ島湯本館へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底[[結核]]により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる[[持病]]があった康成には、[[湯治]]をも兼ねていた<ref name="koen"/><ref name="shounen"/>{{refnest|group="注釈"|川端は、中学の入学試験の体格検査で、右眼の[[視力]]がよくないことに驚いていたが、眼底に[[結核]]の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた<ref name="koen"/><ref name="shounen"/>。}}。

伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に[[白木屋 (デパート)|白木屋]]食堂などに行った。三明永無と白木屋の[[女給]]を張ったりすることもあった。[[1919年]](大正8年)、池田虎雄を通じて[[今東光]]と知り合い、[[本郷区]]西片町(現・[[文京区]][[西片]])に住んでいた今宅へ、寄宿舎からよく遊びに行き、今の父・武平から霊智学([[心霊学]])の話に耳を傾けた<ref name="jisatsu">[[今東光]]「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号に掲載)</ref>。康成は、今東光、[[今日出海]]兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた<ref name="kinran">今東光「川端康成」(『東光金蘭帖』)([[中央公論社]]、1959年)</ref>。6月には一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は[[処女作]]としている<ref name="tatari">川端康成「処女作の崇り」(文藝春秋 1927年5月号に掲載)</ref>{{refnest|group="注釈"|この『ちよ』に関連する作品『処女作の崇り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている<ref name="tatari"/>。この〈千代松〉の[[怪談]]挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない<ref name="hasegawa2"/>。}}。

康成は[[酒]]が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らと[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]や飲食店によく出かけ<ref name="jinsoku"/>、この年、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女(伊藤初代)の女給と出会った。伊藤初代は、[[岩手県]][[江刺郡]][[岩谷堂町|岩谷堂]](現・[[奥州市]][[江刺区]]岩谷堂)の農家出身の父・忠吉と長女として1906年(明治39年)に[[福島県]]で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム([[平出修]]の甥の妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった<ref name="kikuchi">[[菊池一夫]]『伊藤初代の生涯 川端康成の許嫁』(江刺文化懇話会、1991年)。『伊藤初代の生涯続編 エランの窓』(江刺文化懇話会、1993年)</ref>。しかしマダムの[[台湾]]行に伴い店は閉店となり{{refnest|group="注釈"|[[平出修]]の妻の近親の平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、東大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が[[台湾銀行]]に入社するのに同行して行った<ref name="kawanishi"/><ref name="koyano"/>。}}、初代は翌年9月にマダムの親戚の[[岐阜県]][[稲葉郡]][[加納町 (岐阜県)|加納町]]6番地(現・[[岐阜市]]加納)の[[浄土宗]]西方寺に預けられて行った<ref name="jinsoku"/><ref name="kawashima"/><ref name="suzuki">[[鈴木彦次郎]]「川端君と盛岡」(1968年)。「『[[新思潮]]』時代の川端康成」(歴史と人物 1972年7月号に掲載)</ref><ref name="mimei">[[三明永無]]「川端康成の思い出」(『川端康成作品研究』)([[八木書店]]、1969年)</ref><ref name="kawanishi"/>{{refnest|group="注釈"|伊藤初代の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家の婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて[[福島県]][[会津若松市]]へ行って学校守り([[用務員]])となった。忠吉は、そこで大塚サイと知り合い再婚して、初代とその妹・マキの二女を儲けた。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県会津若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の[[岩手県]][[江刺郡]][[岩谷堂町|岩谷堂]]に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて[[子守]]として[[奉公]]に出され、他家を転々とした後、上京してカフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した<ref name="kikuchi"/><ref name="kawashima"/><ref name="kawanishi"/>。}}。

=== 出発――『新思潮』と伊藤初代 ===
[[File:Kan Kikuchi smoking.jpg|thumb|150px|[[菊池寛]](1948年)]]
[[1920年]](大正9年)に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を卒業し、9月に[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]英文学科に入学。同級に[[北村喜八]]、[[本多顕彰]]、[[鈴木彦次郎]]、[[石濱金作]]がいた。しばらくは、[[豊多摩郡]]東大久保181(現・[[新宿区]]新宿7丁目13)の中西方に[[下宿]]している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、[[今東光]]と共に同人誌『[[新思潮]]』(第6次)の発刊を企画し、先輩の[[菊池寛]]に同名の誌名を継承することの諒解を得た<ref name="atogaki2">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第2巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。当時、[[小石川区]]小石川中富坂17番地(現・[[文京区]][[小石川]]2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる<ref name="atogaki2"/><ref name="jijoden"/>。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる<ref name="kinran"/>。11月から川端は、[[浅草区]]浅草小島町13の高橋竹次郎方([[帽子]]洗濯修繕屋)の二階に下宿した<ref name="sasagawa"/>。

翌[[1921年]](大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、[[靖国神社]]の[[招魂祭]]での17歳の[[サーカス|曲馬]]娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈[[視覚|ヴイジユアリゼイシヨン]]の力〉を褒められた<ref name="atogaki2"/>。[[久米正雄]]、[[水守亀之助]]、[[加藤武雄]]、[[南部修太郎]]、[[中村星湖]]、[[小島政二郎]]、[[佐佐木茂索]]、[[加島正之助]]、『[[萬朝報]]』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる<ref name="atogaki2"/>。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、[[本郷区]]の[[根津]]西須賀町13(現・文京区[[向丘 (文京区)|向丘]]2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・[[千駄木]]5-32)の佐々木方、同町(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。下宿代払いの不規則に退宿を求められる川端を友人らが助けていたという<ref name="mimei"/>。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。

この年の秋に川端は、伊藤初代(当時15歳)との結婚を決意し、石濱金作らから「独身送別会」を開いてもらった<ref name="jinsoku"/>。友人たちの友情に感涙した川端は<ref name="jinsoku"/>、9月16日に三明永無と共に、初代のいる[[岐阜県]]の西方寺に赴き、2度目の10月8日の訪問で初代と[[長良川]]湖畔の宿で結婚の約束を果たし、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った<ref name="kawanishi"/>。その後10月16日に、石濱、鈴木、三明と共に[[岩手県]][[岩谷堂町|岩谷堂]]字上堰で小学校の[[学校用務員|小使い]]をしている父親・忠吉と学校の宿直室で面会し承諾をとった<ref name="kagaribi">川端康成「篝火」([[新小説]] 1924年3月号に掲載)</ref><ref name="fuboeno"/><ref name="suzuki"/>。

川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈[[奇跡]]のやうに美しい夢〉を持ち<ref name="nanpo">川端康成「南方の火」([[新思潮]] 1923年7月号に掲載)</ref>、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た<ref name="jijoden"/>。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた<ref name="jijoden"/><ref name="nanpo"/>。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている<ref name="jijoden"/>。
{{Quotation|私は幼くから[[孤児]]であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の[[安心立命]]に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。|川端康成「文学的自叙伝」<ref name="jijoden"/>}}

=== 横光との出会い・婚約破談 ===
[[File:Yokomitsu Riichi.JPG||thumb|150px|[[横光利一]](1928年)]]
同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は菊池寛の家で[[横光利一]]と初めて出会い、夕方、3人で[[牛鍋]]を食べにいった<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki2"/><ref name="shindo"/>。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、[[純潔]]な凄気〉を川端は感じた<ref name="jijoden"/>。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから[[友達]]になれ〉と川端に言った<ref name="jijoden"/>。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった<ref name="choyoko">川端康成「横光利一弔辞」(人間 1948年2月号に掲載)</ref><ref name="jijoden"/>。

その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ<ref name="hijou">川端康成「非常」(新思潮 1924年12月号に掲載)</ref>。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、浅草のカフェ・アメリカの女給をする<ref>川端康成「彼女の盛装」(新小説 1926年9月号に掲載)</ref><ref name="nanpo"/><ref name="kawashima"/>。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大[[美人]]」がいると噂されるほどになり、「赤い[[コール天]]の[[足袋]]をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと[[今日出海]]は述懐している<ref>[[今日出海]]「川端さんとの五十年」(『新潮臨時増刊 川端康成読本』)(新潮 1972年6月・臨時増刊号に掲載)</ref>{{refnest|group="注釈"|初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指しし、撲るとか斬ると言っていたのを知った[[今東光]]は、相棒の[[宮坂普九]]と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている<ref name="jisatsu"/>。}}。

〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった<ref name="yugashima"/><ref name="atogaki3">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第3巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref><ref name="arare">川端康成「霰」(太陽 1927年5月号に掲載)</ref><ref name="nanpo"/>{{refnest|group="注釈"|[[石濱金作]]が、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、[[岐阜県]][[稲葉郡]][[加納町 (岐阜県)|加納町]]にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる<ref name="atogaki4"/><ref name="kawanishi"/>。この人物が誰なのかは、川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている<ref>川端康成「日記」(大正12年・大正13年)</ref>。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている<ref name="morimoto">[[森本穫]]『魔界の住人 川端康成』上巻・下巻(勉誠出版、2014年)</ref>。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという<ref name="morimoto"/>。}}。初代はカフェ・アメリカの[[支配人]]の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった<ref name="hatorikaisetsu">羽鳥徹哉「『川端康成』編 解説」『作家の自伝15 川端康成』(日本図書センター、1994年)</ref><ref name="kawashima"/>。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い[[稲妻]]相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki2"/>。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や[[掌の小説]]などに描かれることになる<ref name="atogaki3"/>{{refnest|group="注釈"|伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『明日の約束』『青い海 黒い海』『伊豆の帰り』『父母への手紙』『大黒像と駕籠』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『火』『雨傘』『処女作の祟り』『母国語の祈祷』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『[[母の初恋]]』『再婚者』『日も月も』『離合』『[[美しさと哀しみと]]』がある<ref name="atogaki3"/><ref name="taiyonenpu"/><ref name="itagaki"/><ref name="hasegawa2"/>。}}。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった<ref name="jijoden"/>。12月には、『[[新潮]]』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た<ref>川端康成「感謝――私の得た最初の原稿料」(文章倶楽部 1925年1月号に掲載)</ref><ref name="atogaki2"/>。

=== 時評家として――傷心と関東大震災 ===
[[1922年]](大正11年)1月に「創作月評」を『時事新報』に発表し、川端は先ず[[文芸批評家]]として[[文壇]]に登場した。2月には月評「今月の創作界」を載せ、翌年まで度々作品批評を書いた。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる<ref name="atogaki2"/>。6月に英文学科から[[国文学科]]へ移籍した<ref name="nenpu"/>。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんで出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた<ref name="atogaki4"/>。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念し、〈新しい文藝〉について、〈新進作家の作品は、[[科学者]]の[[詩]]ではなく、若い娘の[[踊り|踊]]でなければならぬ。またこの[[魔]]は[[処女|生娘]]が好きだ〉と論じている<ref>川端康成「創作月評」(時事新報 1922年12月号に掲載)</ref>。

また、この年の夏には、[[失恋]]の痛手を癒すために再び[[伊豆半島|伊豆]]に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、[[無垢]]に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="dokuhonnenpu"/>。
{{Quotation|私は精神の打撃に遭ふと、心疲れが来る前に体の衰へるのを感じ、その徴しとして足が痛み出すのである。さうした心の潰えと体の衰へと、寒さも加はつたせゐの足の痛みで、去年の暮にも、私は湯ヶ島に逃れて来たのであつた。[[四緑]][[丙午]]の小娘のためである。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(「少年」作中)<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>}}

[[1923年]](大正12年)1月に[[菊池寛]]が創刊した『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。[[横光利一]]や[[佐々木味津三]]と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った[[自伝]]作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』に発表した。また、この年に[[犬養健]]と知り合った<ref name="album"/>。

9月1日に、[[本郷区]]駒沢千駄木町38(現・[[文京区]]千駄木1-22)の下宿で[[関東大震災]]に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水と[[ビスケット]]を携帯して何日も歩いた<ref name="atogaki4"/><ref name="jijoden"/>。[[今東光]]と共に[[芥川龍之介]]も見舞い、3人で[[吉原 (東京都)|吉原]]どの被災の跡を廻った<ref name="akutagawa">川端康成「芥川龍之介氏と吉原」(1929年1月号に掲載)</ref>。川端は、〈幾百幾千〉もの[[死体]]を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、[[出産]]と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし<ref name="taika">川端康成「大火見物」(文藝春秋 1923年11月号に掲載)</ref>、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が[[恋]]をすることを考へた〉と綴った<ref name="taika"/>。

=== 『文藝時代』――新感覚派と抒情 ===
[[1924年]](大正13年)3月に[[東京大学|東京帝国大学]][[国文学科]]を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。[[学年制と単位制|単位]]が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・[[藤村作]]の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。[[大宅壮一]]が川端と[[石濱金作]]を住家に招いて、卒業祝いに[[鶏]]を一羽つぶして振る舞ってくれた<ref name="atogaki12">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第12巻』)(新潮社、1951年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『[[新小説]]』に発表した。5月には、郷里の[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]役所で[[徴兵検査]]を受けたが、体重が十[[貫]]八百三十[[匁]](約41キログラム)で不合格となった。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという<ref name="sasagawa"/>。

[[File:1929 bungei group.jpg|thumb|210px|『文藝時代』同人。右から[[菅忠雄]]、川端、[[石浜金作]]、[[中河与一]]、[[池谷信三郎]]]]
10月には、[[横光利一]]、[[片岡鉄兵]]、[[中河与一]]、[[佐佐木茂索]]、[[今東光]]ら14人で同人雑誌『[[文藝時代]]』を創刊し、さらに[[岸田国士]]ら5人も同人に加わった{{refnest|group="注釈"|『文藝時代』の同人は、[[伊藤貴麿]]、[[石濱金作]]、川端康成、[[加宮貴一]]、[[片岡鉄兵]]、[[横光利一]]、[[中河与一]]、[[今東光]]、[[佐佐木茂索]]、[[佐々木味津三]]、[[十一谷義三郎]]、[[菅忠雄]]、[[諏訪三郎]]、[[鈴木彦次郎]]、[[岸田国士]]、[[南幸夫]]、[[酒井真人]]、[[三宅幾三郎]]、[[稲垣足穂]]であった<ref name="atogaki9">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第9巻』)(新潮社、1950年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref><ref name="album"/>。川端は、[[牧野信一]]、[[三宅幾三郎]]も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対の意向を示している<ref name="raikan">『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』(新潮社、1984年)</ref>。その後翌年1925年(大正14年)4月に、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に載った「文士採点表」をめぐって今東光が脱退し『文党』に行った<ref name="atogaki9"/><ref name="shindo"/>。横光利一も「文士採点表」に憤慨し、菊池寛と『文藝春秋』に対して[[読売新聞]]に投書を送ったが、川端が横光をなだめて、一緒に読売新聞社に行き、その速達を返してもらったという<ref name="atogaki9"/>。}}。横光は、[[劇団]]を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという<ref name="atogaki9"/>。主導者の川端は、これからは[[宗教]]に代り[[文芸]]が人間[[救済]]の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「[[頭ならびに腹]]」により、同人は「[[新感覚派]]」と評論家・[[千葉亀雄]]により命名されようになった<ref>[[千葉亀雄]]「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号に掲載)</ref><ref>『新潮日本文学アルバム44 横光利一』(新潮社、1994年)</ref>。

[[ヨーロッパ]]に興った[[ダダイズム]]の下に「芸術の革命」が目指された[[アバンギャルド]]運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月に[[プロレタリア文学]]派により創刊された『[[文藝戦線]]』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した<ref name="nenpu"/>。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、[[掌編小説]]を掲載することが多かった。これらの小品群([[掌の小説]])のは、未来派やダダイズムの影響により、既成の[[道徳]]によらない自在な精神を表現したものが多く、[[失恋]]や[[孤児]]根性の克服し新しい世界への飛躍の願望が秘められている<ref name="dokuhonnenpu"/>。こういった極く短い形式の小説を創りことの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且[[和歌]]や[[俳句]]や[[川柳]]のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される〉日が来ることを川端は夢みていた<ref>川端康成「掌篇小説の流行」(文藝春秋 1926年1月号に掲載)</ref><ref name="itagaki"/>。

[[1925年]](大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病[[日記]]を[[西成郡]]豊里村の黒田家の[[倉]]から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「[[十六歳の日記]]」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の[[処女作]]である〉としている<ref>川端康成「あとがき」(『川端康成選集第6巻』)([[改造社]]、1938年)</ref>。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(雑誌『[[オール讀物]]』の[[編集長]])の家([[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に[[逗子海岸|逗子]]の海に誘った<ref name="hideko">川端秀子『川端康成とともに』(新潮社、1983年)</ref>。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている<ref name="hideko"/>。川端は当時、[[本郷区]]林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した<ref>川端康成「第一年」(新潮 1925年12月号に掲載)</ref>。12月には、[[心霊]]的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に[[神秘]]性が加味されてきた<ref name="dokuhonnenpu"/>。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した<ref name="nenpu"/>。

[[1926年]](大正15年・昭和元年)1月と2月に「[[伊豆の踊子]]」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は[[麻布区]]宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、胸を悪くした菅忠雄が静養のために[[鎌倉]]へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った<ref name="hideko"/>。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)<ref name="hideko"/>。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている<ref name="hideko"/>。
{{Quotation|その時の荷物というのが、お祖母さんの[[家紋]]入りの蒲団や[[風呂敷]]、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという[[仏像]]六、七体とご[[先祖]]の[[舎利]]まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。|川端秀子「川端康成とともに」<ref name="hideko"/>}}

6月には、掌編小説([[掌の小説]])を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され{{refnest|group="注釈"|前年1925年(大正14年)の秋に文藝日本社から処女作品集『驢馬に乗る妻』が刊行予定だったが、出版社の破産で実現しなかった<ref name="shindo"/>。}}。友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、[[大宅壮一]]、[[江戸川乱歩]]、[[豊島与志雄]]、[[尾崎士郎]]、[[岡本一平]]・[[岡本かの子|かの子]]夫妻などもいた。また、この年の春には、[[衣笠貞之助]]、[[岸田国士]]、[[横光利一]]、[[片岡鉄兵]]らと「新感覚映画連盟」を結成し、川端は『[[狂つた一頁]]』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正[[モダニズム]]の成果であるこの作品は9月に公開され、[[ドイツ表現主義]]の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている<ref name="kuritsubo">[[栗坪良樹]]「作家案内―川端康成」(文庫版『[[浅草紅団]]/浅草祭』)([[講談社文芸文庫]]、1996年)</ref><ref name="album"/>。

『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚映画連盟」は立ち消えとなった<ref name="atogaki5">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第5巻』)(新潮社、1949年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した<ref name="atogaki6">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第6巻』)(新潮社、1949年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった<ref name="husao">[[林房雄]]「文学的回想」(新潮 1953年10月-1954年12月号に連載)。『文学的回想』(新潮社、1955年)</ref>。

=== 湯ヶ島から杉並町馬橋へ ===
[[1927年]](昭和2年)正月、前年の[[大晦日]]に[[梶井基次郎]]が[[温泉療養]]に[[湯ヶ島温泉]]にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した<ref name="kajiisoto">[[梶井基次郎]]「[[外村繁]]宛ての書簡」(昭和2年1月1日付)</ref><ref name="kajii">『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)</ref><ref name="atogaki5"/>。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『[[伊豆の踊子]]』の単行本の[[校正]]を手伝ってもらった<ref name="sonota">川端康成「『[[伊豆の踊子]]』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号に掲載)</ref><ref name="kajiiyodono3">梶井基次郎「[[淀野隆三]]宛ての書簡」(昭和2年3月7日付)</ref><ref name="kajii"/>。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている<ref name="kajiisoto"/><ref name="kajiiyodono">梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年1月4日付)</ref>。

湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々([[淀野隆三]]、[[外村繁]]、[[三好達治]])、[[十一谷義三郎]]、[[藤沢恒夫]]、[[小野勇]]、[[保田与重郎]]、[[大塚金之助]]、[[日夏耿之介]]、[[岸田国士]]、[[林房雄]]、[[中河与一]]、[[若山牧水]]、[[鈴木信太郎]]、[[尾崎士郎]]、[[宇野千代]]、[[萩原朔太郎]]らも訪れた<ref name="jijoden"/><ref name="atogaki5"/><ref name="hideko"/>。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている<ref name="jijoden"/>。3月に横光利一ら同人に、[[永井龍男]]、[[久野豊彦]]、藤沢恒夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。

4月5日、[[上野精養軒]]で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した[[東京府]][[豊多摩郡]][[杉並町]][[馬橋]]226(現・[[杉並区]][[高円寺]]南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ<ref name="atogaki5"/><ref name="sonota"/><ref name="hideko"/>。その家では、原稿料の代りに[[読売新聞社]]から貰った[[カツラ (植物)|桂]]の[[碁盤]]を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った[[花梨]]の机を譲った<ref name="tsukue">川端康成「四つの机」([[読売新聞]] 1940年7月2日号に掲載)</ref>。その机は[[池谷信三郎]]も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた<ref name="tsukue"/>。

同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に[[大宅壮一]]が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元次郎の娘)と秀子は、偶然同じ[[青森県]][[三戸郡]][[八戸町]](現・[[八戸市]])出身であった<ref name="hideko"/>。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。[[妊娠]]していた妻・秀子が、6月頃(7月の[[芥川龍之介]]が自殺より少し前)、[[慶応病院]]で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった<ref name="hideko"/>。8月から『[[中外商業新報]]』に初の長編[[新聞小説]]「海の火祭」を連載開始する。

=== 不振時代――熱海から馬込文士村 ===
同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え[[内湯]]もある[[熱海温泉|熱海]][[熱海温泉#熱海七湯|小沢]]の島尾[[子爵]]の[[別荘]]を借りて移り住んだ<ref name="dorobo">川端康成「熱海と盗難」([[サンデー毎日]] 1928年2月5日号に掲載)</ref>{{refnest|group="注釈"|熱海を舞台にした作品には、『椿』『死者の書』『女を殺す女』などがある<ref name="itagaki"/>。}}。[[林房雄]]によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという<ref name="husao"/>。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている<ref name="atogaki12">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第12巻』)(新潮社、1951年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。この頃は川端や元[[新感覚派]]の作家にとって不作不振の時期であった<ref name="itagaki"/>。

当時は、[[プロレタリア文学]]が隆盛で、『文藝時代』の同人であった[[片岡鉄兵]]が左傾化した。[[武田麟太郎]]や[[藤沢恒夫]]も、プロレタリア文学運動に加わり、[[石濱金作]]の転換、[[今東光]]と[[鈴木彦次郎]]が旧[[労農党]]に加入し、[[横光利一]]は極度に迷い動揺した<ref name="itagaki"/>。そんな中、川端は[[マルクス主義]]に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の[[自由主義]]者なれども、「[[戦旗]]」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か[[唯物論]]にすら至らず、[[心霊]]科学の霧にさまよふ〉と語っていた<ref name="usoto">川端康成「嘘と逆」(文學時代 1929年12月号に掲載)</ref>。

[[File:Chiyo Uno.jpg|thumb|left|110px|[[宇野千代]]]]
翌[[1928年]](昭和3年)、熱海の家に昨年暮から[[梶井基次郎]]が遊びに来て毎日のように[[囲碁]]などに興じていたが<ref>梶井基次郎「[[仲町貞子]]宛ての書簡」(昭和3年3月20日付)</ref>、正月3日に、真夜中に[[泥棒]]に入られた<ref name="dorobo"/>。川端は当初、[[襖]]を開けて夫婦の寝部屋に覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという<ref name="dorobo"/>。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った<ref name="dorobo"/>。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り<ref name="dorobo"/>、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した<ref>梶井基次郎「川端秀子宛ての書簡」(昭和3年2月25日付)</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに、逃げる泥棒を川端が玄関まで追ったが、梶井基次郎は怖くて、秀子夫人から呼ばれても部屋から下りて来られなかったという<ref name="dorobo"/><ref name="hideko"/>。}}。3月には、政府の[[左翼]]弾圧・[[共産党]]の検挙を逃れた林房雄、[[村山知義]]が一時身を寄せに来たこともあった<ref>川端康成「村山知義氏と熱海」(サンデー毎日 1928年11月25日号に掲載)</ref>。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった<ref name="atogaki12"/>。

3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため{{refnest|group="注釈"|その後、支払わなかった家賃の催促が家主から無かったため、そのままになったが、家賃を遺して退去したのは、この熱海だけであるという。〈[[商人]]を踏み倒したことはなかつた〉と川端は語っている<ref name="atogaki12"/>。}}。5月から[[尾崎士郎]]に誘われて、[[荏原郡]][[入新井町]]大字新井宿字子母澤(のち[[大森区]]。現・[[大田区]][[西馬込]]3丁目)に移ったが、隣りの[[ラジオ]]屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡[[馬込町]]小宿389の臼田坂近辺(現・[[南馬込]]3丁目33)に居住した<ref name="hideko"/>。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い[[牡丹]]のような模様だったため)<ref name="hideko"/>。[[馬込文士村]]には尾崎士郎をはじめ、[[広津和郎]]、[[宇野千代]]、[[子母沢寛]]、[[萩原朔太郎]]、[[室生犀星]]、[[岡田三郎]]のほか、[[川端龍子]]、[[小林古径]]、[[伊東深水]]などの[[画家]]もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという<ref name="jijoden"/>。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して[[流産]]した<ref name="hideko"/>。

=== 浅草時代――流行作家へ ===
[[File:Yasunari Kawabata 1930+wife and sister.jpg|thumb|180px|左から君子(妻の妹)、川端、妻・秀子(自宅にて、1930年)]]
[[1929年]](昭和4年)4月に[[岡田三郎]]らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には[[浅草公園]]近くの[[下谷区]]上野桜木町44番地(現・[[台東区]][[上野桜木]]2丁目20)に転居し、再び学生時代のように[[浅草]]界隈を散策した<ref>川端康成「上野桜木町へ」(文學時代 1929年11月号に掲載)</ref>。この頃から何種類もの多くの[[小鳥]]や[[犬]]を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月に[[レヴュー (演芸)|レビュー]]劇場・[[カジノ・フォーリー]]が旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという<ref>[[望月優子]]「浅草の川端先生」『生きて愛して演技して』(平凡社、1957年)</ref>。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「[[浅草紅団]]」を『[[東京朝日新聞]]』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた{{refnest|group="注釈"|浅草を題材とした「浅草物」には、続編の『浅草祭』や、『踊子旅風俗』『[[日本人アンナ]]』『「鬼熊」の死と踊子』『白粉とガソリン』『鶏と踊子』『浅草日記』『化粧と口笛』『[[浅草の姉妹]]』『浅草の九官鳥』『妹の着物』『二十歳』『寝顔』『虹』『田舎芝居』『[[夜のさいころ]]』などがある<ref name="itagaki"/><ref name="shindo"/>。}}。

また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉[[左翼]]文学の嵐の圧力に[[純文学]]が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという[[堀辰雄]]の言葉に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい[[右翼]]〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した<ref>川端康成「文芸雑帖」(近代生活 1929年10月号に掲載)</ref>。

[[File:Tasuo Hori.jpg|thumb|left|110px|[[堀辰雄]]]]
同じ10月には、堀辰雄、[[深田久弥]]、[[永井龍男]]、[[吉村鉄太郎]]らが創刊した同人誌『文學』に、[[横光利一]]、[[犬養健]]と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、[[アンドレ・ジッド|ジイド]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]など新[[心理主義]]の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『[[聖家族 (小説)|聖家族]]』、横光利一の『[[機械 (小説)|機械]]』などが生れるのも翌年である<ref name="itagaki"/>。

[[1930年]](昭和5年)、前年12月に結成された[[中村武羅夫]]、[[尾崎士郎]]、[[龍膽寺雄]]らの「[[十三人倶楽部]]」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の[[十字軍]]」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった<ref name="itagaki"/>。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている<ref name="jijoden"/>。また同年には、菊池寛の[[文化学院]]文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、[[日本大学|日大]]の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した<ref name="hideko"/>。この頃は次第に[[昭和恐慌]]が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった<ref name="dokuhonnenpu"/>。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「[[意識の流れ]]」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。

続いて翌[[1931年]](昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『[[改造 (雑誌)|改造]]』に発表した。[[時間]]や[[空間]]を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている<ref name="itagaki"/>。4月から、[[書生]]の[[緑川貢]]を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した<ref name="hideko"/>。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・[[梅園龍子]]を引き抜いて、洋舞([[バレエ]])、[[英会話]]、[[音楽]]を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが<ref>川端康成(新潮 1932年4月号に掲載)</ref><ref name="shindo"/>、そのバレエ鑑賞が、その後の『[[雪国 (小説)|雪国]]』の島村の人物設定や、『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』などに投影されることになる<ref name="dokuhonnenpu"/><ref name="shindo"/>。この年の6月には、画家・[[古賀春江]]と知り合った。12月2日には妻・秀子との[[婚姻届]]を出した{{refnest|group="注釈"|この年に[[大宅壮一]]の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた[[青森県]][[八戸市]]出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許[[保証人]]になるため夫婦の籍を入れたとされる<ref name="hideko"/>。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる<ref name="morimoto"/>。}}。

=== 『禽獣』――虚無の眼差し ===
[[File:Yasunari Kawabata c1932.jpg|thumb|180px|上野桜木町の自宅にて]]
[[1932年]](昭和7年)2月に、過去の[[失恋]]の痛手を題材とした[[心霊]]的な作品「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」を『[[中央公論]]』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた<ref name="fuboeno"/><ref name="hideko"/>。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して[[関東大震災]]後に[[仙台市]]に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)<ref name="hatorikaisetsu"/>。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った<ref name="hideko"/>{{refnest|group="注釈"|伊藤初代は、川端と婚約破棄した後、中林忠蔵と結婚し、1923年(大正12年)に長女・珠江を儲けたが、中林は1927年(昭和2年)6月に肺病で死去。上京後知り合った桜井五郎と再婚し、1929年(昭和4年)に長男が生れるが夭折し、1931年(昭和6年)11月に次男が生れた。初代は桜井との間に7人の子供を儲け、内3人が死んで、4人を育てて、1951年(昭和26年)2月に数え年46歳で死去した<ref name="kikuchi"/><ref name="hatorikaisetsu"/><ref name="kawashima"/>。}}。その申し出を断われ、その後初代は二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『[[母の初恋]]』)の題材となる<ref name="kawashima"/>。同月24日には親しかった[[梶井基次郎]]が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『[[朝日新聞]]』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。

[[1933年]](昭和8年)2月に『[[伊豆の踊子]]』が初めて映画化された(監督・[[五所平之助]])。同月には[[小林多喜二]]が殺されて、[[プロレタリア文学]]は実質上壊滅する<ref name="itagaki"/>。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「[[禽獣 (小説)|禽獣]]」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城([[上林暁]])であった<ref name="album"/>。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端がもつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている<ref name="tabibito">[[三島由紀夫]]「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号に掲載)。『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年)に所収。</ref><ref name="shindo"/><ref name="seiyo">三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」(國文學 解釈と鑑賞 1957年2月号に掲載)</ref>。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった<ref name="dokuhonnenpu"/>。

それと同時に[[少女小説]]を書くことも増え<ref name="dokuhonnenpu"/>、同月には「夏の宿」を『[[少女倶楽部]]』に発表した。この夏は[[房州]]の[[興津町 (千葉県)|上総興津]](現・[[千葉県]][[勝浦市]])で過ごした。9月10日に親しかった画家・[[古賀春江]]が死去した(38歳没)。10月には、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[林房雄]]、[[武田麟太郎]]、[[深田久彌]]、[[宇野浩二]]、[[広津和郎]]、[[豊島與志雄]]らと文芸復興を目指した雑誌『[[文學界]]』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、[[横光利一]]、[[藤沢恒夫]]、[[里見弴]]らも加わった。世の暗い風潮と[[大衆小説|大衆文学]]の氾濫の中で、川端は[[純文学]]の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した<ref>川端康成(文芸通信 1934年1月号に掲載)</ref><ref name="itagaki"/> <ref name="shindo"/>。

11月は、結びでの[[悪魔]]との問答に、〈おれは[[小説家]]といふ[[無期懲役]]人だ〉という一句が出てくる「[[散りぬるを (小説)|散りぬるを]]」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「[[末期の眼]]」を『文藝』に発表した。[[芥川龍之介]]の[[遺書]]に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった<ref name="itagaki"/>。また、川端は「[[奇術師]]」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「[[奇術]]」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた<ref name="matsugo">川端康成「[[末期の眼]]」(改造 1933年12月号に掲載)</ref>。12月21日には、親しかった[[池谷信三郎]]が死去した(33歳没)。この年から川端は、[[岡本かの子]]から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた<ref name="itagaki"/>。

=== 『雪国』の世界と新人発掘 ===
[[1934年]](昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、[[島崎藤村]]、[[徳田秋声]]、[[正宗白鳥]]、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元[[警保局]]長・[[松本学]]主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は[[風]]の来るにつれ、[[水]]の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている<ref name="jijoden"/>。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて[[新潟県]]の[[越後湯沢]]([[南魚沼郡]][[湯沢町]])に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の[[芸者]]・松栄(本名・小高キク)に会った<ref name="takahashi">[[高橋有恒]]「『[[雪国 (小説)|雪国]]』のモデル考――越後湯沢のおける川端康成」(人間復興 1972年秋季号・11月号に掲載)</ref>。これをきっかけに、のちに『[[雪国 (小説)|雪国]]』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、[[下谷区]][[谷中坂町]]79番地(現・[[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]])に転居した<ref name="hideko"/>。

8月に癩病([[ハンセン病]])の文学青年・[[北條民雄]](本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後[[文通]]が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「[[勲章]]」を貰うようなものであったという<ref name="fukuda">福田清人「川端康成」(『十五人の作家との対話』)(中央公論社、1955年)</ref>。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている<ref name="shinsin">川端康成「新進作家」</ref>。
{{Quotation|世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。|川端康成「新進作家」<ref name="shinsin"/>}}

[[1935年]](昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]・[[直木三十五賞|直木賞]]が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた[[太宰治]]との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し[[慶応病院]]に入院した<ref name="hideko"/>。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『[[イタリアの歌]]』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した<ref name="inochi">川端康成「『[[いのちの初夜]]』推薦」(文學界 1936年2月号に掲載)</ref>。また、この年に横光利一が『[[四人称#純粋小説論|純粋小説論]]』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ<ref>川端康成「文芸時評」(文藝春秋 1935年6月号に掲載)</ref><ref>川端康成「『純粋小説』と通俗小説」(新潮 1935年7月号に掲載)</ref>、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、[[林房雄]]の誘いで、[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]]浄名寺宅間ヶ谷(現・[[鎌倉市]]浄名寺2丁目8-15、17,18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった<ref name="husao"/><ref name="hideko"/><ref>林房雄「川端さんの家」(『川端康成全集第9巻』月報)(新潮社、1960年)</ref>。

[[1936年]](昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した<ref name="hideko"/>。同月には川端の推薦により、「[[いのちの初夜]]」と名付けられた北条の作品が『[[文學界]]』に掲載され、[[文壇]]に衝撃を与えた<ref name="itagaki"/>。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ましながら<ref name="inochi"/>、〈真価を知られることなしに生き、さうして死〉んでゆく無名の作家たちの〈真価〉を世に知らせることを、[[文芸批評家]]としての一つの使命ともしていた<ref name="jihyou">川端康成「文芸時評」(新潮 1933年6月号に掲載)</ref>。そんな川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は<ref name="yokomitsuoboe">横光利一「覚書」(1936年1月)</ref>、2月20日に、新聞の[[特派員]]として船で渡欧し、川端はそれを[[神戸港]]で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。

[[File:Okamoto Kanoko.jpg|thumb|left|130px|岡本かの子(1920年頃)]]
6月には、[[岡本かの子]]の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。[[芥川龍之介]]をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・[[南部修太郎]]が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの[[明治製菓]]の内田水中亨の斡旋で、[[神津牧場]]見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて[[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢]]を訪れ、[[藤屋 (長野市)|藤屋]]旅館に滞在した<ref>川端康成「軽井沢だより」(文學界 1936年10月号に掲載)</ref>。[[信州]]への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、[[盲目]]の少女を描いた「女性開眼」を『[[報知新聞]]』に連載開始し、「[[夕映少女]]」を『333』に発表した。この年頃から写真館の主人から[[コンタックス]]を譲られ、写真をよく撮ることが多くなった<ref name="atogaki8">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第8巻』)(新潮社、1949年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref><ref name="hideko"/>。

[[1937年]](昭和12年)5月に[[鎌倉市]]二階堂325に転居した(家主は[[詩人]]・[[蒲原有明]])。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『[[雪国 (小説)|雪国]]』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は軽井沢1307番地の[[別荘]]を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『[[婦人公論]]』に連載開始し、「[[乙女の港]]」を『[[少女の友]]』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子([[中里恒子]])を執筆指導しながら合作した作品である。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、「高原」を『文藝春秋』に断続的発表開始する。

同月18日、この軽井沢の別荘を[[堀辰雄]]が[[郵便局]]に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が[[火事]]になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『[[風立ちぬ (小説)|風立ちぬ]]』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた<ref name="horitatsu">『新潮日本文学アルバム17 [[堀辰雄]]』(新潮社、1984年)</ref><ref>川端康成「秋風高原――落花流水」(風景 1962年11月-1964年12月号に断続連載)</ref><ref name="hideko"/>。12月5日に[[北條民雄]]が死去し(23歳没)、[[東京府]][[北多摩郡]][[東村山村]]にある[[ハンセン病]]療養施設「[[全生園]]」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、[[耕治人]]から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる<ref name="hideko"/>{{refnest|group="注釈"|その後、[[耕治人]]は川端に世話になり、戦後の1959年(昭和34年)に『喪われた祖国』を出版する。しかし秀子夫人の弟・松林喜八郎が[[小岩]]の公庫住宅に当たったという話を聞き、自分宅(借金をして[[地主]]から借地した土地)の[[中野区]][[野方町]]1-605(現・中野区野方4-30-9)の隣りに借りた方がいいと、1958年(昭和33年)9月に誘い、そこに家を建て住んだ松林喜八郎と土地問題でトラブルとなり、訴えて敗訴する<ref name="hideko"/><ref name="koyano"/>。}}。

=== 少年少女の文章への親しみ ===
[[1938年]](昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは[[横光利一]]の好意で改造社に口添えして実現したものであったという<ref name="jijoden"/>。7月からは、21世[[本因坊]][[本因坊秀哉|秀哉]][[名人 (囲碁)|名人]]の引退[[碁]]の観戦記を『[[東京日日新聞]]』『[[大阪毎日新聞]]』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『[[名人 (小説)|名人]]』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される[[中央公論社]]の『模範綴方全集』の選者に、[[藤田圭雄]]と共に委託され、多くの[[小学生]]、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、[[豊田正子]]の『[[綴方教室]]』も時評で賞讃した<ref>川端康成「文芸時評」([[東京朝日新聞]] 1938年11月3日号に掲載)</ref>。10月には、「[[日本文学振興会]]」「(理事長・[[菊池寛]])の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。

[[1939年]](昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に[[岡本かの子]]が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、[[坪田譲治]]らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の[[作文]]を私は殊の外愛読する。一口に言へば、[[幼児]]の片言に似た不細工さのうちに、子供の[[生命]]を感じるのである〉と述べ、[[西村アヤ]]の『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに[[天地]]の生命に通ずる近道である〉と語っている<ref name="jihyou"/><ref name="itagaki"/>。7月からは、前々年に訪日した[[ヘレン・ケラー]]に触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。

[[1940年]](昭和15年)1月に「[[母の初恋]]」、「[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]」を発表した。同月、「紅葉祭」([[尾崎紅葉]]忌)のために熱海聚楽ホテル滞在中、熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人の死去に遭遇した。この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の[[結核]]が治った病痕があり、右眼は[[網膜]]の真中なので、[[視力]]が損なわれていたことを知る<ref name="koen"/><ref name="shounen"/>。5月には、「美しい旅」の取材のため[[盲学校]]や[[東京盲唖学校|聾唖学校]]を参観した。この時に、橘川ちゑ([[秋山ちえ子]])という若い女性教師に会い、以後文通をする<ref name="akiyama">[[秋山ちえ子]]『大晦日のローストビーフ――23の物語』(文化出版局、1976年)</ref>。10月に「日本文学者会」が設立され、[[阿部知二]]、[[伊藤整]]らと共に発起人となった{{refnest|group="注釈"|「日本文学者会」の発起人には、[[阿部知二]]、[[伊藤整]]、[[上田広]]、[[岡田三郎]]、[[尾崎一雄]]、[[尾崎士郎]]、[[河上徹太郎]]、[[岸田国士]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[榊山潤]]、[[島木健作]]、[[武田麟太郎]]、[[高見順]]、[[富沢有為男]]、[[中島健藏]]、[[林房雄]]、[[火野葦平]]、[[日比野士郎]]、[[深田久彌]]、[[和田伝]]、[[横光利一]]らがいた<ref name="shindo"/>。}}。またこの年には、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、[[三島市|三島]]、[[興津]]、[[静岡市]]と[[東海道]]へも旅した。

=== 戦時下と敗戦 ===
[[1941年]](昭和16年)1月に[[北條民雄]]の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。4月には、『[[満州日日新聞]]』の招きで[[囲碁]]の催しのため、[[呉清源]]、[[村松梢風]]と共に建国されたばかりの[[満州]]に赴いた<ref name="haisen">川端康成「敗戦のころ」(1955年8月号に掲載)</ref>。[[吉林省|吉林]]、[[奉天市|奉天]]など満州各地を廻り、在満州の[[檀一雄]]、[[田中総一郎]]、[[緑川貢]]、[[北村謙二郎]]らと座談会をし<ref>「座談会」(満州日日新聞 4月13日号に掲載)</ref>、[[新京]](現・[[長春市|長春]])北郊の寛城寺に住む日本人作家の[[山田清三郎]]らに会い、異郷で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる<ref>川端康成「満州国の文学」(藝文 1944年7月号に掲載)</ref>。[[ハルビン市|ハルピン]]で一行と別れて[[承徳市|承徳]]を経て[[北京]]、[[天津]]、[[大連市|大連]]に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも[[関東軍]]の招きで[[山本実彦]]([[改造社]]社長)、[[高田保]]、[[大宅壮一]]、[[火野葦平]]と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、[[撫順市|撫順]]、[[黒河省|黒河]]、[[ハイラル区|ハイラル]]も巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大]などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した<ref name="haisen"/><ref name="koyano"/>。

[[1942年]](昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、[[創元社]]より刊行した。8月には[[島崎藤村]]、[[志賀直哉]]、[[武田麟太郎]]、[[瀧井孝作]]らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『[[名人 (小説)|名人]]』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「[[日本文学報国会]]」の派遣作家として、[[長野県]]伊那郡松尾村の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日([[太平洋戦争]]開戦)に際しては、戦死者の遺文を読んだ感想の「英霊の遺文」を『[[東京新聞]]』に連載発表した(同じ題名で翌年と再来年も書く)。この年、[[ドイツ]]で『[[伊豆の踊子]]』が独訳された<ref name="koyano"/>。

[[1943年]](昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る<ref name="koen"/>。以前から[[養女]]の約束していた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた<ref name="koen"/>。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は[[離婚]]し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の晩酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。

[[1943年]](昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)[[菊池寛賞]]を受賞した。戦時中、[[隣組]]長、防火班長を経験した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『[[源氏物語]]』や[[日本の中世文学史|中世文人]]の文学などの文章に親しむことが多かった<ref name="shounen"/><ref name="aishu">川端康成「哀愁」(社会 1947年10月号に掲載)。『哀愁』(細川書店、1949年)</ref>。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈[[大和魂]]といふ言葉や、[[大和心]]といふ言葉は、[[平安時代]]にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている<ref>川端康成「東海道」(満州日日新聞 1943年7月20日-10月31日号まで連載)</ref>。

戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、[[谷崎潤一郎]]の『[[細雪]]』や、『源氏物語』などが[[発禁]]となっていた<ref name="itagaki"/>。多くの文学者が[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の報道班員として徴用され、なかには進んで[[自由主義]]的な作家の摘発に務めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった<ref name="itagaki"/>。12月25日に[[片岡鉄兵]]が旅先で死去した(50歳没)。[[東京駅]]に片岡の[[遺骨]]を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は[[荻窪]]へ向かった<ref>川端康成「片岡鉄兵の死」(新文學 1945年3月号に掲載)</ref>。

[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員([[少佐]]待遇)となり<ref>[[#海軍主計大尉]]p.219</ref>、[[新田潤]]、[[山岡荘八]](新田と山岡は正式徴用の報道班員)と共に[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に赴き、1か月滞在して[[特別攻撃隊]][[神雷部隊]]を取材した<ref name="haisen"/><ref name="jitsuroku"/>。〈[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた〉と川端は述懐している<ref name="haisen"/>。同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け<ref name="kato">加藤浩『神雷部隊始末記』([[学習研究社]]、2009年)</ref>、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている<ref>川端康成「生命の樹」([[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]] 1946年7月号に掲載)</ref>。

5月1日には、[[久米正雄]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[中山義秀]]、[[高見順]]、[[大佛次郎]]ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を八幡通りに開店した{{refnest|group="注釈"|ほかに、[[大佛次郎]]、[[清水昆]]、[[小島政二郎]]、[[横山隆一]]、[[林房雄]]、[[永井龍男]]らも、日替わりで店番をした<ref name="kamakura">[[高見順]]「敗戦日記」(昭和20年5月22日付)</ref>。}}。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった<ref name="kamakura"/>。8月15日、日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して[[天皇陛下]]の[[玉音放送]]を聞いた<ref name="hideko"/>。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った<ref name="aishu"/>。その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で[[島木健作]]の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った<ref name="shimaki">川端康成「島木健作追悼」(新潮 1945年11月号に掲載)</ref>。
{{Quotation|私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな[[日本]]の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。|川端康成「島木健作追悼」<ref name="shimaki"/>}}

また、川端は夫人に、「これからは、日本の[[教育]]が大変なことになるよ。[[占領軍]]はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという<ref name="hideko"/>。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、[[丸の内ビルディング|東京丸ビル]]、のちに[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[白木屋 (デパート)|白木屋]]二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、[[日本の降伏|敗戦]]のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している<ref name="haisen"/>。
{{Quotation|国を亡ぼした[[戦争]]が避けられたのか避けられなかつたのかを、敗戦後の怨み言などが解くものでない。それを知るのは[[後世]]の[[歴史]]の眼でもない。かりにまた戦争中に戦争の真実を見得なかつた一人の文学者がありとすれば、その人は戦争後に戦争の真実を見得ようはずはない。だまされて戦争をしてゐた人間などは一人もゐないのである。戦争の間にも[[時間]]と[[生命]]は流れ去つた。|川端康成「武田麟太郎と島木健作」<ref name="takeda">川端康成「武田麟太郎と島木健作」(人間 1946年5月号に掲載)</ref>}}

=== 相次ぐ友の死――日本の哀しみへ ===
[[1946年]](昭和21年)1月に、[[木村徳三]]を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』を創刊した。同月27日に大学生の[[三島由紀夫]]の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『[[中世 (小説)|中世]]』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが<ref name="henreki">三島由紀夫「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)</ref>、それ以前の[[学習院]]時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『[[花ざかりの森]]』にも注目し才能を見出していた<ref name="jitenmishima"/><ref name="etsugu">[[越次倶子]]『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)</ref>。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の[[笛]]のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている<ref name="tabibito"/>。川端は6月、三島の「煙草」を『[[人間 (雑誌)|人間]]』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である[[横光利一]]に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった<ref name="chomishi">川端康成「三島由紀夫」(新潮 1971年1月号に掲載)</ref>。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという<ref name="hideko2">川端秀子「続・川端康成の思い出」(『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』月報)(新潮社、1984年)</ref>{{refnest|group="注釈"|三島は来訪する時、可愛い動物の飾りのある[[ケーキ]]や高級菓子を手土産に持参し、秀子夫人が受取ろうとすると、直接政子に手渡ししたがったという<ref name="hideko2"/>。やがてその作戦が尽きると三島は、鎌倉文庫にいた[[山川朝子]]にアイデアの相談をしていたとされる<ref name="hideko2"/>。}}。

同年の3月31日には[[武田麟太郎]]が死去し(42歳没)、初めて[[弔辞]]を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、[[大佛次郎]]、[[岸田国士]]らと「赤とんぼ会」を結成し、[[藤田圭雄]]編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『[[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]]』に発表。一部が[[GHQ]]により削除された<ref name="hideko"/>。10月に[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]]264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は[[山口瞳]])の一家がいた<ref name="yamaguchi">[[山口瞳]]「隣人・川端康成」(『小説・吉野秀雄先生』)(文藝春秋、1969年)</ref>。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と[[日劇]]や[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]を観に行ったりと仲が良かった。山口瞳の息子・[[山口正介|正介]]は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている<ref>[[山口正介]]『江分利満家の崩壊』(新潮社、2012年)</ref>。

[[1947年]](昭和22年)2月に[[日本ペンクラブ]]の再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『[[小説新潮]]』に発表。約13年間を経て、ようやく『[[雪国 (小説)|雪国]]』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている<ref name="aishu"/>。
{{Quotation|戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。|川端康成「哀愁」<ref name="aishu"/>}}

[[File:Yasunari Kawabata c1946.jpg|thumb|160pz|鎌倉市長谷の自宅にて(1946年)]]
12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった[[横光利一]]が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた<ref name="atogaki1"/>。この年から川端は、古[[美術]]への関心を深め、その後、[[池大雅]]・[[与謝蕪村]]の『[[十便十宜]]』、[[浦上玉堂]]の『[[凍雲篩雪図]]』などの名品の数々をコレクションすることになる<ref name="taiyo"/>。

[[1948年]](昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)'''横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく'''〉と、その死を悼んだ<ref name="choyoko"/>。3月には、もう一人の恩人であった[[菊池寛]]も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の[[同性愛]]の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。

川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の[[命]]を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の[[美]]の[[伝統]]のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った<ref name="atogaki1"/>。6月には、[[志賀直哉]]のあとを引き継ぎ、第4代[[日本ペンクラブ]]会長就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、[[東京裁判]]の判決を傍聴した<ref>川端康成「判決の日」(のち「東京裁判判決の日」)(社会 1949年1月号に掲載)</ref>。

=== 鎌倉にて――『山の音』『千羽鶴』===
[[File:Takami Jun and Kawabata Yasunari.JPG|thumb|180px|[[高見順]](左)と川端(1949年4月)]]
[[1949年]](昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『[[山の音]]』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の[[家族]]を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた<ref name="dokuhonnenpu"/>。同月、[[イタリア]]の[[ヴェネツィア|ベニス]]での[[国際ペンクラブ]]第21回大会に寄せて、日本会長として、〈[[平和]]は[[国境線]]にはない〉というメッセージを送った<ref name="shindo"/>。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「[[骨拾ひ]]」を『文藝往来』に発表した。11月には[[広島市]]に招かれ、[[豊島與志雄]]、[[青野季吉]]と3人で[[原爆]]被災地を視察した<ref name="shindo"/><ref name="atogaki10">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第10巻』)(新潮社、1950年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>{{refnest|group="注釈"|川端は同行者を[[豊島與志雄]]、[[小松清]]と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は[[豊島與志雄]]、[[青野季吉]]となっている<ref name="shindo"/>。}}。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した<ref name="tenju">川端康成「天授の子」(文學界 1950年2月-3月号に連載)</ref><ref name="koyano"/>。

[[1950年]](昭和25年)2月、[[養女]]・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・[[長崎市|長崎]]を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった<ref name="atogaki10">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第10巻』)(新潮社、1950年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている<ref name="tenju"/>。長崎では、『[[この子を残して]]』の著者・[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]を見舞った<ref name="album"/>。旅の後、川端は[[京都]]に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた<ref name="atogaki10"/>。そして、焼失したと聞かされていた『[[凍雲篩雪図]]』([[浦上玉堂]]の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている<ref name="touun">川端康成「川端秀子宛ての書簡」(1950年4月26日付)</ref>。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、[[スコットランド]]の[[エジンバラ]]での大会に[[募金]]のアピールを書き送った<ref name="shindo"/>。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]」を『[[朝日新聞]]』に連載開始する。この年、[[鎌倉文庫]]が倒産した。

[[File:Yasunari Kawabata 1951.jpg|thumb|left|130px|林芙美子の葬儀委員長を務める川端(1951年)]]
[[1951年]](昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った<ref name="kikuchi"/>。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に[[林芙美子]]が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日した[[ユーディ・メニューイン]]訪日公演を[[三島由紀夫]]らと観に行った。[[1952年]](昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『[[婦人公論]]』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が[[筑摩書房]]より刊行され、これにより昭和26年度[[芸術院賞]]を受賞した<ref>『朝日新聞』1952年3月26日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)夕刊、2頁。</ref>。授賞式で[[昭和天皇|天皇陛下]]と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて陛下が声をかけたという<ref name="atogaki15">川端康成「あとがき」(『川端康成全集第15巻』)(新潮社、1953年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った<ref name="hideko2"/>。10月に[[大分県]]の招きで、竹田町(現・竹田市)[[九重山|九重高原]]を画家・[[高田力蔵]]の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『[[波千鳥]]』の背景として生かされることとなる<ref>[[高田力蔵]]「川端さん、久住への旅」(『川端文学への視界』1号、1984年)</ref>。

[[1953年]](昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『[[婦人画報]]』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に[[堀辰雄]]が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、[[西川流]][[名古屋]]おどり舞台台本「船遊女」を書き、[[西川鯉三郎]]の振付で上演された。11月には、[[永井荷風]]、[[小川未明]]らと共に[[日本芸術院|芸術院]]会員に選出された。

[[File:Mishima, Kawabata, Masugi.jpg|thumb|160px|左から[[三島由紀夫]]、川端、[[真杉静枝]]([[ユーディ・メニューイン]]訪日公演時)1951年]]
[[1954年]](昭和29年)3月、新設された[[新潮社文学賞]]の審査委員に就任する<ref name="oufuku">「略年譜」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)</ref>。4月には、『山の音』の単行本が[[筑摩書房]]より刊行され、これにより第7回[[野間文芸賞]]を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の[[短編小説|短編]]で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから[[長編小説|長編]]の骨格と[[主題]]とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り<ref name="atogaki15"/>、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら<ref name="atogaki15"/>、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った<ref>川端康成「あとがき」(『再婚者』)([[三笠書房]]、1953年)</ref>。

そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ[[偏執病|偏執狂]]の男を主人公にした「[[みづうみ]]」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の[[シュルレアリスム|超現実的]]な新しい手法と「[[魔界]]」が注目された<ref name="itagaki"/>。この実験的作品は、以前の『[[水晶幻想]]』や、のちの『[[眠れる美女]]』に繋がっていくことになる<ref name="itagaki"/>。5月からは、「[[東京の人]]」を『[[中部日本新聞]]』などに連載開始した。

=== ペンクラブへの貢献――国際的作家へ ===
[[1955年]](昭和30年)1月から「ある人に生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、[[新橋演舞場]]で上演された。同月、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]の英訳で「[[伊豆の踊子]]」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。[[1956年]](昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『[[雪国 (小説)|雪国]]』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を、巧く訳した名訳とされている<ref>長谷川泉・[[武田勝彦]]『川端文学――海外の評価』([[早稲田大学出版部]]、1969年)</ref>。

[[1957年]](昭和32年)3月22日に[[松岡洋子]]と共に、[[国際ペンクラブ]]執行委員会([[ロンドン]]で開催)の出席のため[[東京国際空港|羽田]]から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いに[[フランス]]をはじめ、[[ヨーロッパ]]各国を廻り、[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、[[T・S・エリオット|エリオット]]、[[イニャツィオ・シローネ|シローネ]]らと会った<ref>「川端康成氏の欧州旅行から」グラビア(新潮 1957年8月号に掲載)</ref><ref>[[小松清]]「川端・モーリヤック会見記」(新潮 1957年9月号に掲載)</ref>。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった<ref>[[伊藤整]]「三十歳を迎えるペンクラブ」</ref>。4月には『雪国』が映画化された(監督・[[豊田四郎]])。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った<ref>川端康成「雨のち晴――国際ペン大会を終つて」(朝日新聞 1957年9月10日号に掲載)</ref>。

[[1958年]](昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)[[菊池寛賞]]を受賞した。6月には視察のため[[沖縄県]]に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した[[藤田圭雄]]らが10月21日に[[冲中重雄]]医師に鎌倉まで来てもらい、11月から[[胆石]](胆嚢炎)のため[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院した<ref name="fujita">[[藤田圭雄]]『ハワイの虹』(晩成書房、1978年)。「日記の中の川端さん」(『川端文学への視界』一~三)(1984年-1986年)</ref>。翌[[1959年]](昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、[[西ドイツ]]の[[フランクフルト]]での第30回国際ペンクラブ大会に出席した。7月に、同市から文化功労者として[[ゲーテ・メダル]]を贈られた。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった<ref name="oufuku"/>。

=== 『眠れる美女』『古都』――魔界と伝統美 ===
[[1960年]](昭和35年)1月から「[[眠れる美女]]」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「[[魔界]]」をより明確に展開させたものとして、以前の『[[みづうみ]]』や、その後の『[[片腕 (小説)|片腕]]』に世界観に繋がり、老年にしてなお新しい創造に向かう芸術家としての川端の精進の姿勢がうかがわれるものとなった<ref name="kawashima"/>。5月に[[アメリカ国務省]]の招待で渡米し、7月には[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]での第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――[[ニューヨーク]]で」を『朝日新聞』に発表した。この年、[[フランス政府]]からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の[[芸術文化勲章]](オフィシエ勲章)を贈られた<ref name="shindo"/>。

[[1961年]](昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、[[左京区]][[下鴨]]泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「[[美しさと哀しみと]]」を『[[婦人公論]]』に連載開始する。5月には、[[ノーベル文学賞]]への推薦文を[[三島由紀夫]]に依頼した<ref name="shokan530">三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。三島由紀夫「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』後記)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)</ref>{{refnest|group="注釈"|実際、1961年(昭和36年)に、川端が[[ノーベル文学賞]]を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)の[[スウェーデン・アカデミー]]の情報開示で明らかになった <ref name="zaidan1"> [http://www.asahi.com/culture/update/0921/TKY201209210391.html 川端康成、ノーベル賞は7年越し 谷崎・西脇も候補者](朝日新聞 2012年9月20日号に掲載)</ref>。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった<ref name="nikkei"> [http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG03019_T00C14A1CR8000/ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年]([[日本経済新聞]] 2014年1月3日号に掲載)。</ref><ref name="yomiuri2">「三島ノーベル賞目前だった」([[読売新聞]] 2014年1月4日号に掲載)</ref><ref name="kyoudo3">[http://img.47news.jp/PN/201401/PN2014010301001094.-.-.CI0003.jpg][http://www.47news.jp/CN/201401/CN2014010301001074.html 三島、63年ノーベル賞候補最終6人に残り、あと一歩]([[共同通信]] 2014年1月3日号に掲載)</ref>。なお、6人の中には三島の他に[[谷崎潤一郎]]、[[西脇順三郎]]、川端も名を連ね<ref name="kyoudo3"/>、翌1964年(昭和39年)も同4名が候補に入っていた<ref name="sankei">[http://www.sankei.com/life/news/150102/lif1501020016-n1.html 谷崎、三島、川端、西脇が64年の文学賞候補に]([[産経ニュース]] 2015年1月2日号に掲載)</ref>。}}。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に[[双子]]の姉妹の数奇な[[運命]]を描いた「[[古都 (小説)|古都]]」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統[[林業]]の[[北山杉]]が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に[[睡眠薬]]を常用することが多かった<ref name="kotoato">川端康成「あとがき」(『古都』)(新潮社、1962年)</ref><ref name="dokuhonnenpu"/>。11月には第21回[[文化勲章]]を受章した。

[[1962年]](昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大[[冲中重雄|冲中内科]]に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという<ref name="kotoato"/>。入院中に、[[東山魁夷]]から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた<ref name="kotoato"/>。10月には、[[世界平和アピール七人委員会]]に参加し、[[湯川秀樹]]、[[茅誠司]]らと[[ベトナム戦争]]でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回[[毎日出版文化賞]]を受賞した。同月には、[[掌の小説]]「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。

[[File:Relief of Kawabata Yasunari, Izu, Shizuoka.jpg|thumb|180px|天城峠にある川端のレリーフ]]
[[1963年]](昭和38年)4月に財団法人[[日本近代文学館]]が発足し、監事に就任した。さらに、[[東京都近代文学博物館|近代文学博物館]]委員長となった。5月1日には、大ファンであった[[吉永小百合]]主演の『[[伊豆の踊子 (1963年の映画)|伊豆の踊子]]』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという<ref name="nishikawa">[[西河克己]]『「伊豆の踊子」物語』(フィルムアート社、1994年)</ref>。川端はその後、吉永の20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「[[片腕 (小説)|片腕]]」を『新潮』に連載開始した。[[1964年]](昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に[[尾崎士郎]]、5月に[[佐藤春夫]]が死去し、訃報が相次いだ。6月から「[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]」を『新潮』に断続的連載開始する(未完)。同月には、[[ノルウェー]]の[[オスロ]]での第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。

[[1965年]](昭和40年)4月から1年間、NHKの[[連続テレビ小説]]で書き下ろしの『[[たまゆら_(テレビドラマ)|たまゆら]]』が放映開始された。6月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『[[週刊朝日]]』に発表した。8月に[[高見順]]が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、[[芹沢光治良]]に後をゆずった。11月12日、伊豆[[湯ヶ島温泉]]に『[[伊豆の踊子]]』の文学碑が建立された<ref name="itagaki"/>。この除幕式では、作中の最後に登場する〈受験生〉の少年のモデルである後藤孟(当時59歳)と再会した<ref name="jitsuroku"/>。後藤は、[[蔵前]]高工(現・[[東京工業大学|東京工大]])受験のために[[下田港]]から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった<ref name="jitsuroku"/>{{refnest|group="注釈"|後藤孟は「賀茂丸」で川端と会ったことを以下のように述懐している。
{{Quotation|空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当の[[海苔巻き|ノリ巻き]]をすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「[[下宿]]が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、[[刺青|イレズミ]]をした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。|後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)<ref name="jitsuroku"/>}}}}。[[1966年]](昭和41年)1月から3月まで[[肝臓]]炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・[[高田博厚]])が贈られた。

===ノーベル文学賞受賞――美しい日本の私 ===
[[1967年]](昭和42年)2月28日、[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]らと共に[[帝国ホテル]]で記者会見し、[[中国]][[文化大革命]]は[[学問]][[芸術]]の[[自由]]を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、[[日本近代文学館]]が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が[[川端香男里|山本香男里]]と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという<ref name="hideko"/>。8月に、[[日本万国博覧会]]政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に[[北海道]][[札幌]]に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した<ref name="koyano"/>。

[[1968年]](昭和43年)2月に、「非[[核武装]]に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、[[日本文化会議]]に参加した。6月から7月にかけては、[[参議院選挙]]に立候補した[[今東光]]の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初の[[ノーベル文学賞]]受賞が決定した。その後19日に、アムルクイスト・[[スウェーデン]][[大使]]が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した<ref name="album"/>。受賞理由は、「'''日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため''':"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」であった<ref name="shindo"/>。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)<ref name="zaidan1"/><ref name="nikkei"/>。1964年(昭和39年)まで毎年候補者となっていたことが、2015年時点の情報開示で判明されている<ref name="kyoudo3"/><ref name="yomiuri2"/><ref name="sankei"/>。

翌11月18日には、三島由紀夫・[[伊藤整]]との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、[[NHKテレビ]]、[[NHKラジオ]]で放送された<ref>『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)</ref><ref name="hirayama">[[平山三男]]「作家案内―川端康成:戦後川端文学の意味――分裂する二つの時計」(『再婚者・[[弓浦市]]』)([[講談社文芸文庫]]、1994年)</ref>。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという<ref name="hirayama"/>。11月8日に、秋の[[園遊会]]に招かれて[[昭和天皇]]と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈'''秋の野に鈴鳴らし行く人見えず'''〉と記し、「野に鈴」の「[[野]]」と「[[鈴]]」で〈ノオベル〉とかけた〈[[言葉遊び]]〉の戯句を作っている<ref>川端康成「秋の野に」(新潮 1968年12月号に掲載)</ref>。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している<ref name="yuuhino">川端康成「夕日野」(新潮 1969年1月号に掲載)</ref>。
{{Quotation|「鈴鳴らし行く」[[巡礼]]の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな[[悪鬼]]、[[妖魔]]が棲んでゐるかしれたものではない。日本の秋の夕映えの野に遠音さす[[鐘]]の声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。|川端康成「夕日野」<ref name="yuuhino"/>}}

12月3日に羽田を発ち、[[スウェーデン]]に向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった<ref name="makoto"/>。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという<ref name="itagaki"/>。10日、川端康成は[[ストックホルム・コンサートホール]]で行われた[[ノーベル賞]]授賞式に[[紋付羽織袴|紋付き袴]]の正装で[[文化勲章]]を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分には[[スウェーデン・アカデミー]]において、[[背広|スーツ]]姿で受賞記念講演『[[美しい日本の私―その序説]]』を[[日本語]]で行なった<ref name="jitsuroku"/><ref name="album"/>。この講演は、[[道元]]、[[明恵]]、[[西行]]、[[良寛]]、[[一休宗純|一休]]などの[[和歌]]や[[詩]][[句]]が引用され、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]により同時通訳された。川端は、[[聖ルチア祭|ルチア祭]]の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという<ref name="makoto">[[北條誠]]『川端康成・心の遍歴』([[二見書房]]、1969年。改訂版1972年)</ref>。帰途に寄った[[パリ]]では、[[キスリング]]の『少女』を購入した<ref name="koyano"/>。同12月には、郷里の[[茨木市]][[名誉市民]]となった<ref name="yuuhino"/><ref>川端康成「茨木市にて」(『新潮日本文学15 川端康成集』月報)(新潮社、1968年)</ref>。

[[1969年]](昭和44年)1月27日に、[[国会]]両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した<ref name="nenpu"/>。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうために[[ハワイ大学]]に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学[[博士号]]を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、[[毎日新聞社]]主催の「川端康成展」が開催された(その後、[[大阪]]、[[福岡]]、[[名古屋]]でも開催)。

6月には[[鎌倉市]]の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、[[移民]]百年記念[[サンフランシスコ]]日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。 11月に[[伊藤整]]が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという<ref>川端康成「伊藤整」(新潮 1970年1月号に掲載)</ref>。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった<ref name="oufuku"/>。

=== エピローグ――突然の死 ===
[[1970年]](昭和45年)5月9日に、[[久松潜一]]を会長とする「川端文学研究会」が設立され、[[豊島公会堂]]で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県[[南安曇郡]][[穂高町]](現・[[安曇野市]])の招聘で、[[井上靖]]、[[東山魁夷]]と共にその地を訪れ、[[植木]]屋の養女(正式ではない)の鹿沢縫子(仮名)と出会い、お手伝いに来てもらうように頼んだ<ref>川端香男里・東山すみ『川端康成と東山魁夷――響きあう美の世界』(求龍堂、2006年)</ref><ref name="koyano"/>。6月には、[[台北]]でのアジア作家会議に出席して講演を行なった。続いて、[[京城]]([[ソウル]])での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に[[漢陽大学]]から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、[[大江健三郎]]、[[小田切秀雄]]らは、[[朴正熙]]の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月25日、[[三島由紀夫]]が[[自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]において[[割腹]][[自決]]した([[三島事件]])。[[細川護立]]の葬儀のため上京中だった川端はすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった<ref name="chomishi"/>。

[[1971年]](昭和46年)1月24日、[[築地本願寺]]で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、[[1971年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であったという<ref name="oufuku"/>。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に[[世界平和アピール七人委員会]]から、[[日中国交回復]]の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・秋成(男児)が誕生した<ref name="nenpu"/>。同月21日に[[志賀直哉]]が死去し、25日には[[立野信之]]の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、[[京都国際会館]]の確保の準備や、[[政界]][[財界]]への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。[[謡曲]]『[[隅田川 (能)|隅田川]]』から拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している<ref>[[竹西寛子]]「『母』なるものへの旅心」(文庫版『反橋・しぐれ・たまゆら』)(講談社文芸文庫、1992年)</ref>。同月には、世界平和アピール七人委員会が[[第4次防衛力整備計画|四次防]]反対の声明を出した。

[[1972年]](昭和47年)1月2日に[[フジテレビ]]のビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、[[草柳大蔵]]、[[飛鳥田一雄]]、[[山崎正和]]と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた[[歌碑]](万葉の碑)への揮毫のために[[奈良県]][[桜井市]]を[[保田与重郎]]と共に訪問し[[三輪山]]の麓の[[檜原神社]]の井寺池に赴き、[[倭建命]]の絶唱である「'''大和の国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し'''」を選んだ<ref name="hiramizu"/>。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の[[蓮華]]〉という句を記し、〈[[織田信長]]が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ<ref name="maboroshi">川端康成「夢 幻の如くなり」(文藝春秋 1972年2月・創刊50年記念号に掲載)</ref>。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した<ref name="album"/>。3月7日に急性[[盲腸炎]]のために入院手術し、15日に退院した。同3月。1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の[[英雄]]・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという<ref name="hiramizu"/>。4月12日に、[[吉野秀雄]]の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた<ref>[[吉野壮児]]「『眼』の記憶」(『湘南文学』特集・川端康成と鎌倉)(1992年春)</ref>。

4月16日の午後2時45分過ぎ頃、「散歩に行く」と家族に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた[[神奈川県]][[逗子市]]の[[逗子マリーナ]]のマンションの部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナのマンションを訪れ、異変に気づいた<ref name="morimoto"/>。川端はマンションの自室で、長さ1.5メートルの[[ガス管]]を咥え絶命しているところを発見され、ガス[[自殺]]と報じられた。72歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。[[洗面所]]の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口の[[ガスストーブ]]の栓からガス管を引いて、布団の中で口にくわえていた<ref name="shindo"/>。常用していた[[睡眠薬]]([[非バルビツール酸系|ハイミナール]])中毒の症状があり<ref name="hasegawa2"/>、枕元には、封を切ったばかりの[[ウイスキー]]の瓶とコップがあり、[[遺書]]らしきものはなかったという<ref name="shindo"/>。その突然の死は国内外に衝撃を与えた<ref name="shindo"/>。

鎌倉の自宅[[書斎]]には、『岡本かの子全集』([[冬樹社]]版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった<ref name="shindo"/>。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジした作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという<ref name="hideko"/>。またその後に、書斎の手文庫の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた<ref name="shindo"/>。

[[File:Kawabata yasunari birth.jpg|thumb|180px|川端康成生誕地の碑]]
翌17日に通夜をし、[[高田博厚]]が来て[[デスマスク]]をとった<ref>[[高田博厚]]「死面(デス・マスク)をとる」(『新潮臨時増刊 川端康成読本』)(新潮 1972年6月・臨時増刊号に掲載)</ref>。18日に[[密葬]]が自宅で行われた。政府から[[正三位]][[勲一等旭日大綬章]]に叙勲された<ref name="koyano"/>。5月27日には、[[日本ペンクラブ]]、[[日本文芸家協会]]、[[日本近代文学館]]の三団体葬により、「川端康成・葬」が[[芹沢光治良]]葬儀委員長のもと[[青山斎場]]で執り行われた。[[戒名]]は「文鏡院殿孤山康成大居士」([[今東光]]が名付けた)、「大道院秀誉文華康成居士」。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。

8月に遺稿の「雪国抄」が『[[サンデー毎日]]』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された<ref name="dokuhonnenpu"/>。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『[[美しい日本の私―その序説]]』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「[[山の辺の道]]」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された<ref name="hiramizu"/>。

=== 死後 ===
[[File:Kawabata yasunari museum01s1760.jpg|thumb|180px|茨木市立川端康成文学館]]
[[1973年]](昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって[[川端康成文学賞]]が創設された<ref name="dokuhonnenpu"/>。

[[1976年]](昭和51年)5月に、[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]] 264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された<ref name="dokuhonnenpu"/>。

[[1981年]](昭和56年)5月20日、大阪の[[住吉神社]]境内に、『反橋』の文学碑が建立された<ref name="hideko"/>。6月には、[[長野県]][[上水内郡]][[鬼無里村]](現・[[長野市]]鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の[[道元禅師]]の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された<ref name="hideko"/>。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の[[新嘗祭]]の学校の式の帰り、この地の[[紅葉伝説|鬼女紅葉伝説]]の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった<ref name="shinshu">[[川俣従道]]『川端康成と信州』(あすか書房、1996年)</ref><ref name="hideko"/>。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという<ref name="shinshu"/><ref name="hideko"/>。

[[1985年]](昭和60年)に5月に、[[茨木市立川端康成文学館]]が開館した。

== 評価 ==
=== 特性・芸術観 ===
『[[新思潮]]』発刊、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』同人参加、[[横光利一]]らと共に[[ヨーロッパ]]の[[アバンギャルド|前衛]]文学を取り入れた新しい文学を志した『[[文藝時代]]』創刊で[[新感覚派]]の代表的作家として頭角を現し、その後は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は[[日本ペンクラブ]]会長、[[1968年]](昭和43年)には、日本人で初の[[ノーベル文学賞]]受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、[[モノローグ]]的、[[和歌]]に繋がる川端の作品自体は、時代の[[思想]]や世相に左右されることのない自身の[[芸術]]観に基づいた澄んだ[[詩]]的なものとなっている<ref name="takeuchi">竹西寛子「川端康成 人と作品」(文庫版『[[伊豆の踊子]]』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)</ref>。

そのため、[[政治]]的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、[[プロレタリア文学]]の作家であった[[中野重治]]なども、川端の[[掌の小説]]を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、[[林房雄]]が1926年(大正15年)に[[左翼]]運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる<ref name="husao"/><ref name="shindo"/>。

[[伊藤整]]は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、[[醜]]の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に[[復讐]]せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている<ref name="itosei">[[伊藤整]]「川端康成の芸術」(文藝 1938年2月号に掲載)。『私の小説研究』(厚生閣、1939年)所収。「川端康成」(『作家論』)(筑摩書房、1961年)に再編。</ref>。そして、『[[伊豆の踊子]]』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「[[真実]]を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「[[批評]]眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている<ref name="itosei"/>。

伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『[[十六歳の日記]]』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して<ref name="itosei"/>、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の[[経典]]を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している<ref name="itosei"/>。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「[[マルクス主義|マルクシズム]]と[[モダニズム]]との対立と交流の中」に[[批評家]]として立ちながら、「当時の[[政治小説|政治文学]]と[[大衆小説|娯楽文学]]の両方から身をかわし、大正[[文壇]]の創った[[人間性]]に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している<ref name="itosei"/>。

[[三島由紀夫]]は、川端が「温かい[[任侠|義侠的]]な」人でありながらも、過剰な親切や[[善意]]の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「[[達人]]」「[[孤独]]」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その[[人生]]は全部「[[旅]]」であり、川端を「[[永遠]]の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している<ref name="tabibito"/>。
{{Quotation|[[松尾芭蕉|芭蕉]]のあの[[幻住庵|幻住菴]]の記の「終に無能無才にして此の一筋につながる」といふ一句は、又川端さんの作品と生活の最後の[[マニフェスト|manifesto]] でもあらうが、川端さんの作品のあのやうな造型的な細部と、それに比べて、作品全体の構成におけるあのやうな[[造型]]の放棄とは、同じ芸術観と同じ生活態度から生じたもののやうに思はれる。たとへば川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがついに[[文体]]を持たぬ小説家であるといふのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。|三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」<ref name="tabibito"/>}}
そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「[[ニヒリズム|虚無的]]にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、[[ギリシャ]]の[[彫刻家]]が不安と混沌をおそれて[[大理石]]に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無の[[海]]の上にただよふ一羽の[[蝶]]」のような、あるいは「一条の[[絹糸]]のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている<ref name="tabibito"/>。
[[勝又浩]]は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が[[幽霊]]に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉<ref>川端康成「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月号に掲載)</ref>と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたま[[トンネル]]を越えて、[[まれびと]]となって[[人界]]を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している<ref name="katsumata">[[勝又浩]]「人の文学――川端文学の源郷」(文庫版『一草一花』)(講談社文芸文庫、1991年)</ref>。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、[[美人]]と少年少女と古今東西の第一級の[[美術]]([[建築]]もふくめて)と、そして[[自然]]です〉と述べていることや<ref>川端康成「パリ安息」(朝日新聞PR版 1964年7月12日号に掲載)</ref>、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし<ref name="katsumata"/>、川端が『[[美しい日本の私―その序説]]』で、[[歌人]]や文人たちよりも[[仏教]]者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている<ref name="katsumata"/>。
{{Quotation|[[諸行無常]]の自覚を激しく生きた人々とは、言い換えれば、この生が死者たちの上にあること、死の虚無こそがこの世の源郷なのだと知った人たちに他ならない。彼らもまた「永遠の旅人」なのだ。そして、そんな彼らが唯一信じ、[[鏡]]とも、慰めともした自然とは、生と死、[[この世]]と[[あの世]]をつなぐただ一つの媒介なのである。「霊ども」の促しで生きると、[[孤児]]の[[宿命]]を自覚した川端康成の孤独は、「永遠の旅人」たちのもうひとつの伝統に、最後の慰めを求めたのである。|[[勝又浩]]「人の文学――川端文学の源郷」<ref name="katsumata"/>}}

=== 女性の描き方について ===
川端文学の一つの主題である「[[生命]](いのち)への讃仰」、「[[処女]]」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。
{{Quotation|氏の[[エロティシズム]]は、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふ[[メカニズム]]にあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。|三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」<ref name="tabibito"/>}}

[[川嶋至]]は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のない[[物体|もの]]」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し<ref name="kawashima"/>、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している<ref name="kawashima"/>。

川端にとっては、[[犬]]も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「[[地獄]]」を『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』で見せたことについて以下のように解説している<ref name="best3">三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」(毎日新聞 1955年4月11日号に掲載)。『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年)に所収。</ref>。
{{Quotation|女はイヌのやうな顔をし、イヌは女のやうな顔をしてゐる。作家が自分のうちに発見した地獄が語られたのだ。かういふ発見は、作家の一生のうちにも、二度とこんなみづみづしさと新鮮さで、語られる機会はないはずである。以後、川端氏は、禽獣の生態のやうな無道徳のうちに、たえず盲目の生命力を探究する作家になる。いひかへれば、極度の道徳的無力感のうちにしか、生命力の源泉を見出すことのできぬ悲劇的作家になる。これは深く日本的な主題であつて、氏のあらゆる作品の思想は、この主題のヴァリエーションだと極言してもいい。|三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」<ref name="best3"/>}}

[[羽鳥徹哉]]は、『[[夏の靴]]』の少女、『[[日本人アンナ]]』のアンナ、『[[浅草紅団]]』の弓子、『[[雪国 (小説)|雪国]]』の駒子、『[[古都 (小説)|古都]]』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な[[運命]]に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている<ref name="bini10"/>。

=== 横光利一との比較において ===
[[中村光夫]]は、[[横光利一]]が「[[陽]]」で、その文学に内在する[[劇]]は『[[機械 (小説)|機械]]』に顕著なように「男同志の決闘」である「[[男性]]文学」であるのに対して、川端康成は「[[陰]]」であり、「[[女性]]文学」だとし<ref name="nakamura">[[中村光夫]]「川端康成」(『現代作家論』)(新潮社、1958年)</ref>、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「[[軟体動物]]から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている<ref name="nakamura"/>。そして中村は、[[生田長江]]が指摘したように、横光が「[[播種]]の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している<ref name="nakamura"/>。
{{Quotation|根が素朴で抒情家であり、批評的才能をまったく欠いていた横光氏は、そのときどきの文壇の意識にいつもその制作の態度を直結させていたので、この点で氏の新しい外観の底には大正期の[[私小説]]作家の気風がそのまま生きていたのです。(中略)(横光氏は)実はこの古風な文士気質の所産であったのですが、川端氏は[[批評家]]としても[[一流]]であっただけに、文壇の動きの裏がいつもよく見えていたので、時流にたいして逃避のように映る態度が、実際は自分の足下の土をもっとも着実に掘ることになったのです。|[[中村光夫]]「川端康成」<ref name="nakamura"/>}}

三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「[[人工]]的」な文章傾向の「[[天性]]」を持った作家であったが<ref name="riichi">三島由紀夫「横光利一と川端康成」(『文章講座6』)(河出書房、1955年)</ref>、横光は苦闘し、その天性の[[感受性]]をいつからか「[[理知|知的]]」「[[西欧]]的」なものに接近し過ぎて、「[[地獄]]」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や[[気質]]を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た[[日本]]的[[現実]]、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な[[批評家]]であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。

== 人物像・エピソード ==
=== 黙って凝視する癖 ===
川端康成の鋭い[[眼]]は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれ、それにまつわる話は、[[泥棒]]が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に[[下宿]]していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたという有名な話があるのをはじめ、様々な[[エピソード]]がある<ref name="dorobo"/><ref name="tabibito"/>。

気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ<ref name="tabibito"/>、或る若い初心な女性[[編集者]]は、初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく、2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある<ref name="sunbyo">三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」(風雪 1949年9月号に掲載)</ref><ref name="tabibito"/>。川端自身は[[マイペース]]で長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に、「どうしたんですか」と言ったとされる<ref name="sunbyo"/><ref name="tabibito"/>。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、[[骨董品|骨董]]のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという<ref name="tabibito"/>。

川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も、「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている<ref name="surudoi">川端秀子「あの鋭い眼が……――私の夫に就て語る」(文學時代 1929年12月号に掲載)</ref>。
{{Quotation|初対面の女性などについて、この鋭い観察眼は長所よりも欠点を即座に感じてしまふのです。どんなに美しい人の前に出ても、あああの人にはこんな欠点があつた、などちやんと見抜いてしまふ。然しそれは決して、殊更にアラを探さうといふ意地悪さからではなくて、かう、[[無意識]]にあの鋭い眼が働くのです。私なども、始終起居を共にしながら、あの鋭い眼光には往々射すくめられるのです。|川端秀子「あの鋭い眼が……」<ref name="surudoi"/>}}

[[堀辰雄]]の夫人・多恵子は、「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い<ref>堀多恵子「川端先生のこと」(『川端康成全集第3巻』月報)(新潮社、1960年)</ref>、[[吉行淳之介]]は、「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている<ref name="yoshiyuki">[[吉行淳之介]]「川端康成論断片」(『なんのせいか』)(大光社、1968年)。「川端康成伝」「解説」(『現代日本文学館24』)(文藝春秋、1966年)</ref>。吉行は、川端家を訪れた或る女性が、「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている<ref name="yoshiyuki"/><ref name="makoto"/>。

画家の[[草間彌生]]は、『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している<ref name="hiramizu"/>。

[[梶井基次郎]]は、[[湯ヶ島温泉]]で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴り<ref name="kajiiyodono"/>、[[三島由紀夫]]も、21歳の頃に川端の家を訪問した時の印象を、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、[[殺人]]犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している<ref name="incho">平岡公威(三島由紀夫)「川端康成印象記」(1946年1月27日以降)</ref>{{refnest|group="注釈"|三島由紀夫は、川端との会話での印象を以下のように綴っている。
{{Quotation|「[[学習院]]の連中が、[[ジャズ]]にこり、[[ダンス]]ダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つてゐるやうに思はれる。(中略) 僕が「[[羽仁五郎]]は[[雄略天皇|雄略帝]]の残虐を引用して[[天皇]]を弾劾してゐるが、暴虐をした[[君主]]の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と[[反語]]的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。「近頃[[百貨店]]の本屋にもよく[[学生]]が来てゐますよ」と云はれるから、「でも碌な本はありますまい」と云つたら、「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。雨のしげき道を[[鎌倉駅]]へかへりぬ。|平岡公威(三島由紀夫)「川端康成印象記」<ref name="incho"/>}}}}

しかし三島は、川端と親しくなった以降では、川端が[[外国人]]との交遊の場で、[[西洋人]]を見つめている様子を、「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、[[子供]]が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの[[無垢]]な[[好奇心]]に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或る[[アメリカ人]]の大女のおばあさんが、全く[[文学]]も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている<ref name="tabibito"/>。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している<ref name="sunbyo"/>。
{{Quotation|私がお訪ねしたときに[[トースト]]と[[牛乳]]が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸してたべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。|三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」<ref name="sunbyo"/>}}

[[北條誠]]は、川端の眼光について以下のように語っている<ref name="makoto"/>。
{{Quotation|物事の本質を見きわめようとするから、鋭く見えるのだ。相手を深く識ろうとするから「こわく」見えるのだ。こっちが無心で対座していれば、氏の目は日ごろのその「鋭さ」や「恐ろしさ」からは想像できないような、あたたかいやさしさをたたえて静まっている。|[[北條誠]]「川端康成・心の遍歴」<ref name="makoto"/>}}

孫の秋成が誕生し喜んだ川端は、秋成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち秋成は怖がって泣いたという<ref name="hideko"/>。

なお、川端本人も自分の癖を自覚し、〈人の顔をじろじろと見る私の癖は、[[盲人|盲]]と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉と語っているが<ref name="fuboeno"/>、この癖について[[進藤純孝]]は、川端が幼い時の眼底[[結核]]の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している<ref name="shindo"/>。

=== 温かさと孤独 ===
上記のように川端康成は、[[無口]]と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い<ref name="tabibito"/>。また、訪問客が絶えず、[[新年会]]も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな[[久米正雄]]が「君は全く[[孤独]]だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、[[三島由紀夫]]はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている<ref name="tabibito"/>。

三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、[[清水次郎長]]のような人であるが、その行為はちっとも[[偽善]]的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている<ref name="tabibito"/>。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の[[総理大臣]]」と呼ばれたこともあるという<ref name="koyano"/>。

[[室生犀星]]は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家[[運]]は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている<ref>室生犀星「推薦文」(『川端康成全集』)(新潮社、1959年)</ref>。

川端は、前衛画家・[[古賀春江]]と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた[[高田力蔵]]を助けて、その面倒を見ていた<ref name="bini10"/>。また、[[野上彰 (文学者)|野上彰]]が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『[[アンドルー・ラング世界童話集|ラング世界童話全集]]』の[[印税]]は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという<ref name="fujita"/>。

[[舟橋聖一]]は、[[青野季吉]]が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている<ref name="funahashi">[[舟橋聖一]]「川端さんの寛容」(風景 1961年8月号に掲載)</ref>。
{{Quotation|青野季吉が長逝された。(中略)その病室には、大ぜいの見舞客や見舞品が殺到したらしいが、その中で、特に川端さんが、懇ろに、[[花]]を持っていったり、[[掛け軸]]をはこんだりしている様子に、私は思わず、目がしらを熱くした。昭和年代の作家として、やはり川端さんは、ずば抜けて偉いものだと思う……。そう云えば、[[北條民雄]]氏のときも、川端さんの行動に、私などは唯、あれよあれよと、敬服するだけだった。臆病な私は北條民雄と聞くだけでも、近寄れないのに、川端さんはまるで何ンでもないように、往ったり来たりしていた。|[[舟橋聖一]]「川端さんの寛容」<ref name="funahashi"/>}}

=== その他 ===
川端が大戦中、[[神雷部隊]]に報道班員として赴任していた時、隊に所属していた杉山幸照[[少尉]]曰く、川端は、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂では、[[カレーライス]]を奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に[[谷田部町|谷田部]]の海軍基地に行くところであった)<ref name="sugiyama">[[杉山幸照]]『海の歌声 神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』(行政通信社、1972年)</ref>。杉山は、自身の著作内の川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している<ref name="sugiyama"/>。川端は赴任前に[[大本営]]報道部の高戸大尉から、「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、のちに高戸は、「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している<ref>[[#海軍主計大尉]]p.220</ref>。敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる<ref>海軍神雷舞台戦友会編集委員会編・著『海軍神雷部隊 最初の航空特別攻撃隊』(海軍神雷舞台戦友会、1996年)</ref>。なお、川端が特攻隊の青年たちに触れた作品には『生命の樹』があるが、一部分が[[GHQ]]により削除されたという<ref name="hideko"/>。

[[洛中]]に現存する唯一の蔵元[[佐々木酒造]]の日本酒に、「この酒の風味こそ[[京都]]の味」と、作品名『[[古都 (小説)|古都]]』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で[[桑原武夫]]([[京都大学|京大]][[名誉教授]])と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと、桑原は回想している<ref>[[桑原武夫]]「川端康成氏との一夕」(文藝春秋、1972年6月号掲載)、『人間素描』(筑摩書房、1976年)所収。</ref>。 

[[日本国有鉄道]]([[国鉄]])が1970年(昭和45年)から始めた[[ディスカバー・ジャパン]]の[[キャンペーン]]において、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自ら[[ポスター]]用に揮毫してくれたという<ref>「ディスカバー・ジャパンの衝撃、再び」([[Voice (雑誌) |Voice]] 2010年10月号に掲載)</ref>。

1971年(昭和46年)6月に、[[日立]]の[[セントラルヒーティング]]のテレビ[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演して、世間を驚かせたという<ref>「川端康成氏CM出演の波紋!」([[ヤングレディ]] 1971年7月号に掲載)</ref>。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された<ref name="hachiro">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H2T_U5A220C1CR0000/ 川端康成のカラー映像見つかる テレビCM用か](日本経済新聞 2015年2月24日号に掲載)</ref>。その5分ほどの映像には、詩人の[[サトウハチロー]]による川端についての詩の朗読がついている。サトウの次男の佐藤四郎さんは、「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と話している<ref name="hachiro"/>。

1971年(昭和46年)の[[1971年東京都知事選挙|都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで[[按摩]]を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、[[日蓮]]様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、[[三島由紀夫|三島]]君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという<ref name="jisatsu"/>。その話を聞いた[[今東光]]も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている<ref name="jisatsu"/>。

== 美術コレクション・愛用品など ==
川端は、古[[美術]][[蒐集家]]として知られているが、小学校の時には[[画家]]になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも[[書道|書]]を嗜み、[[日本棋院]]内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の[[掛軸]]をはじめ、いくつもの書を遺している<ref name="taiyo"/>。蒐集は古美術だけでなく、[[古賀春江]]、[[キスリング]]、[[石本正]]、[[梅原龍三郎]]、[[熊谷守一]]、無名の新人画家だった[[草間彌生]]の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている<ref name="taiyo"/><ref name="hiramizu"/>{{refnest|group="注釈"|川端が1955年、当時新進芸術家であった草間彌生の作品を購入したことについては、草間の自伝には言及されているが、川端自身は草間の作品についての文章を残しておらず、どのような作品を購入したのかは一般には知られていなかった。2004年、東京国立近代美術館が草間の展覧会を開催するに際して調査した結果、『雑草』(1953年)と『不知火』(1955年)という2つの作品が川端康成記念会に保管されていることがわかった。<ref name="geijutsu">「特集 おそるべし川端康成コレクション」『[[芸術新潮]]』2007年2月号</ref>}}。川端は[[美術品]]について以下のように語っている。
{{Quotation|美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの[[生]]につながつてゐるやうな思ひがいたします。(中略)美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が[[過去]]へ失つて来た多くのもの、[[現在]]は失はれてゐる多くのものを知るのであります。|川端康成「反橋」<ref name="sorihashi">川端康成「反橋」(風雪別冊 1948年10月号に掲載)</ref>}}

川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]の小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった<ref name="geijutsu"/>。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり[[横光利一|横光]]君の手を思ひ出した〉と語っている<ref>川端康成「天の象徴」(1950年)</ref>。

1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで[[胆石]]で入院していた際には、病院から初めて外出した[[クリスマス・イブ]]の日に古美術店へ行き、〈[[聖徳太子]]は日本の[[キリスト]]ではないか、[[使徒]]ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという<ref>川端康成「口絵解説」(『川端康成全集第3巻』)(新潮社、1960年)</ref><ref name="hiramizu"/>。

[[中国の陶磁器|中国磁器]]の[[汝州]]の『汝官窯[[青磁]]盤』を川端が手に入れた時の挿話としては、骨董屋・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから[[高麗青磁]]だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したが、繭山龍泉堂の人ももちろん汝官窯青磁の実物は見たことはなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという<ref name="kuchie7">川端康成「口絵解説」(『川端康成全集第7巻』)(新潮社、1949年)</ref><ref name="hiramizu"/>。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3枚しかないものだと確認された<ref name="kuchie7"/><ref name="hiramizu"/>。ところが川端はその後、『[[埴輪]] 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった<ref name="hiramizu"/>。

[[浦上玉堂]]の代表作『[[凍雲篩雪図]]』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた<ref>川端康成「口絵解説」(『川端康成全集第3巻』)(新潮社、1960年)</ref><ref name="touun"/>。それ以前に入手した[[与謝蕪村]]・[[池大雅]]の合作『[[十便十宜]]』と共に、川端入手後に[[国宝]]に指定された逸品である<ref>川端康成「口絵解説」(『川端康成全集第7巻』)(新潮社、1970年)</ref><ref name="hiramizu"/>。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に[[古代]]の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている<ref name="sorihashi"/>。

愛用品の時計には、[[ウォルサム]]があり、「リバーサイド」という[[懐中時計]]に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している<ref name="geijutsu"/>。

'''川端の旧蔵品'''
<gallery>
File:Uragami GyokudoTohunshisetsuzu.jpg|浦上玉堂『凍雲篩雪図』(川端康成記念会蔵、国宝)
File:The Chobenzu by Ike Taiga.jpg|『十便十宜』のうち「釣便」(池大雅筆)(川端康成記念会蔵、国宝)
</gallery>

== 死因について ==
死亡当時、死因は[[自殺]]と報じられ、それがほぼ規定となっている。その一方で、[[遺書]]がなかったことや、死亡前後の状況から事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。
;自殺説
;自殺説
#社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「[[もののあはれ]]」の世界に殉じたという文学的見解<ref name="okubo">[[大久保喬樹]]『日本文化論の系譜――「[[武士道]]」から「『甘え』の構造」まで』([[中公新書]]、2003年)</ref>。
#社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「[[もののあはれ]]」の世界に殉じたという文学的見解<ref name="okubo">大久保喬樹『日本文化論の系譜――「[[武士道]]」から「『甘え』の構造」まで』([[中公新書]]、2003年)</ref>。
#:川端は[[日本の降伏|敗戦]]後に、日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである<ref>川端康成『哀愁』(社会 1947年10月号に掲載)。『哀愁』([[細川書店]]、1949年)</ref>という決意のもとに作家活動を続け、『[[美しい日本の私―その序説]]』では、自身にも脈々と受け継がれている古の日本人の心性を語っており、そういった日本人の心性であった「もののあはれ」の世界が、歴史の必然によって近代的世界にとって代わるのならば、自身もその滅びてゆく世界に殉じるしかないと考えていた<ref name="okubo"/>。
#:川端は[[日本の降伏|敗戦]]後に、日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである<ref name="aishu"/>という決意のもとに作家活動を続け、『[[美しい日本の私―その序説]]』では、自身にも脈々と受け継がれている古の日本人の心性を語っており、そういった日本人の心性であった「もののあはれ」の世界が、歴史の必然によって近代的世界にとって代わるのならば、自身もその滅びてゆく世界に殉じるしかないと考えていた<ref name="okubo"/>。
#:自殺をする年に発表された一文『夢 幻の如くなり』には、友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華の歌もあるが、最後には、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬと結ばれており、また、この年の最後の講演も、「私もまだ、新人でいたい」という言葉で締めくくられていた<ref name="album"/>。
#:自殺をする年に発表された随筆『夢 幻の如くなり』には、友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の[[蓮華]]〉の歌もあ、最後には、〈[[織田信長]]が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬと結ばれていた<ref name="maboroshi"/>。また、この年の最後の講演も、「私もまだ、新人でいたい」という言葉で締めくくられていた<ref name="album"/>。
#:遺書はないが、生前に、〈[[マリリン・モンロー]]の遺書がないというのは、無言の死は無言の言葉だと考えますね〉と語っていた<ref name="kikunaka">川端康成(三島由紀夫と中村光夫との座談会)「川端康成氏に聞く」(『文芸読本 川端康成』)(河出書房新社、1962年)</ref>。
#交遊の深かった[[三島由紀夫]]の[[切腹|割腹]]自殺([[三島事件]])に大きな衝撃を受けたという見解。
#交遊の深かった[[三島由紀夫]]の[[切腹|割腹]]自殺([[三島事件]])に大きな衝撃を受けたという見解。
#:川端は葬儀委員長でもあった。川端は、三島君の死から私は[[横光利一|横光]]君が思ひ出されてならない。二人の天才作家の悲劇や思想が似てゐるとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうか」<ref>川端康成「追悼文 三島由紀夫」(新潮 1971年1月号に掲載)</ref>と述べていた。
#:川端は葬儀委員長でもあった。川端は、三島君の死から私は[[横光利一|横光]]君が思ひ出されてならない。二人の[[天才]]作家の[[悲劇]][[思想]]が似てゐるとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうかと述べていた<ref name="chomishi"/>
#老醜への恐怖。
#[[1971年東京都知事選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から立候補した[[秦野章]]の支援に担ぎ出されたことへの羞恥だという見解{{要出典|date=2013年9月}}。(なお、秦野は落選した。川端には本来政治に関心があったという形跡はない。)
#:寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった[[祖父]]・三八郎を世話していた15歳の時の記憶が、老醜への具体的な恐怖となっていた(祖父の看病のことは短編『[[十六歳の日記]]』で描かれている)<ref name="hayashi"/>。
#老い(創作意欲の減少)への[[恐怖]]などによる強度の精神的動揺{{要出典|date=2013年9月}}や、老醜への恐怖<ref name="hayashi"> [[林武志]]『川端康成研究』([[桜楓社]]、1976年)</ref>という見解。
#川端が好きだった家事手伝い兼運転手の女性(仮名・鹿沢縫子)が辞めることを告げられ、もっといてほしいと懇願したが、彼女が[[南安曇郡]][[穂高町]](現・[[安曇野市]])に帰ることになったからという、[[臼井吉見]]の小説『事故のてんまつ』([[筑摩書房]]、1977年)からの見解<ref name="usui">[[臼井吉見]]『事故のてんまつ』([[筑摩書房]]、1977年)</ref><ref>[[小谷野敦]]『私小説のすすめ』([[平凡社]]新書、2009年)195頁</ref>。鹿沢縫子は、伊藤初代同様に父母との縁が薄く、信州(長野県)の[[植木屋]]の養女(正式の養女ではない)となっていた娘で、川端が自宅のお手伝いとして引き取っていた女性<ref name="koyano"/>。川端は自分の養女にすることを希望していたという<ref name="koyano"/>。
#:寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった祖父を世話していた15歳の時の記憶が、老醜への具体的な恐怖となっていた<ref name="hayashi"/>。(祖父の看病のことは短編『[[十六歳の日記]]』で描かれている。)
#:ただしこの『事故のてんまつ』は、遺族より[[名誉毀損]]で提訴を受け、和解の際の条件により絶版となった。研究本的な観点からも、事実と全く異なる的外れの情報(川端や縫子、伊藤初代が[[部落問題|部落]]出身者だという虚偽)や、その女性本人から直接に取材し聞き取っていない不備などを川端研究者からも指摘されている<ref name="morimoto"/>。また、[[部落解放同盟]]長野県連からも差別を助長する本として当時批判された<ref name="morimoto"/>。なお、この鹿沢縫子本人に、2012年(平成24年)時点で接触を試みた[[森本穫]]によると、縫子は面談取材を一切断わるとし、『事故のてんまつ』については、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」と伝えている<ref name="morimoto"/>。
#川端が好きだった家事手伝いの女性が辞めたからという、[[臼井吉見]]の小説『事故のてんまつ』([[筑摩書房]]、1977年)からの見解<ref>[[小谷野敦]]『私小説のすすめ』([[平凡社]]新書、2009年)195p</ref>。
#[[ノーベル文学賞]]受賞後に、小説の創作が思うようにならずに止まってしまったことなど、賞受賞による多忙や重荷による理由。川端は受賞後に、〈この受賞は大変[[名誉]]なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、いしゅくしてしまうんではないかと思っています〉と述べていた<ref name="sanada"/>。連載していた『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』も、受賞決定の10月から途絶えてしまい、未完となった<ref name="sanada"/>。
#:ただしこの作品は遺族より[[名誉毀損]]で提訴を受け、和解の際の条件により絶版となった。
#[[盲腸炎]]の手術をしたり、体調が思わしくなかったことと、[[立野信之]]、[[志賀直哉]]、親しかった[[従兄]]・秋岡義愛の死が立て続けにあり、身も心も揺さぶられて気がめいってしまい、一瞬の魔がさしてしまったという理由<ref name="hideko"/>。

:これらについて、自殺説に批判的な立場からは{{誰|date=2013年9月}}、{{要出典|2については日時が離れていること、3については動機としてはあまりにも弱く、4についてはあくまで文芸評論家の解釈にすぎず具体的証明はないこと、5については主観的記述であり事実検証はされていないことが指摘される|date=2013年9月}}。


;事故死説
;事故死説
#以前より[[睡眠薬]]を常用していた。
#以前より[[睡眠薬]]を常用していた。死亡時に睡眠薬([[非バルビツール酸系|ハイミナール]])中毒の症状があったとされる<ref name="hasegawa2"/>
#川端が[[日本ペンクラブ]]会長時に信頼を寄せた副会長だった[[芹沢光治良]]は、追悼記『川端康成の死』で、自殺ではなかったとする説を述べている<ref>[[芹沢光治良]]『人間の意志』(新潮社、1990年)</ref>。川端は、同年秋に開催の日本文化研究国際会議(日本ペンクラブ主催)の準備でも責任者として多忙であった。
#ふだん自ら操作することのなかった暖房器具の使用ミス(ガスストーブの未燃焼ガスが部屋に充満したとされる){{要出典|date=2013年9月}}。
#川端が日本ペンクラブ会長時に信頼を寄せた副会長だった[[芹沢光治良]]は、追悼記「川端康成の死」で、自殺ではなかったとする説を述べている。また、前後して川端と対面した複数の関係者の証言では、自殺死をにおわせるような徴候はまったくなかったとするものだけが残っている{{要出典|date=2013年9月}}。自身同年秋に開催された国際ペンクラブ大会の準備でも責任者として多忙であった。


== 作品一覧 ==
== 家族・親族 ==
;祖父・川端三八郎(庄屋、戸長、易学研究)
* 『感情装飾』(1926年、[[金星堂]])
:[[天保]]12年([[1841年]])4月10日生 – 1914年(大正3年)5月25日没
* 『[[伊豆の踊子]]』(1927年、金星堂)
:吉川定右衛門(?-1849年没)とマサの次男として出生。兄は直蔵(?-1873年没)。異母妹はシュウ(?-1915年没)。祖父は吉川源右衛門。
* 『[[浅草紅団]]』(1930年、[[先進社]])
:吉川家は、現在の[[大阪府]][[茨木市]]西河原にある旧家で、代々二千石の造り酒屋(自分の田で収穫した酒米で醸造)。
* 『[[水晶幻想]]』(1931年、[[改造社]])
:祖母・峯は川端家出身で、川端家27代目・川端三右衛門幾康(1785年生-1861年没)の姉。幾康の長男で川端家28代目・時次郎(1817年生-1840年没)が天保11年(1840年)に24歳で死去したため、峯の幼い孫・吉川三八郎が川端家に[[養子]]に貰われ、幾康の長男として入籍し、[[文久]]元年(1860年)1月11日に川端家を相続。ちなみに幾康と峯の弟・川端玄了は、黒田家のかもと結婚し、2代目・黒田善右衛門となる。
* 『化粧と口笛』(1933年、[[新潮社]])
:川端家の原籍地は、大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市大字宿久庄1丁目11-25)。檀那寺の[[極楽寺]]は、もとは如意寺の一坊舎だった。
* 『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』(1934年、[[竹村書房]])
:三八郎は、[[嘉永]]7年(1854年)頃に見習[[庄屋]]となり、安政6年(1859年)に庄屋となる。明治になってからは戸長を務めるが、[[茶]]の栽培や[[寒天]]製造などの事業に失敗して、田や山を二束三文で売る。[[易学]]に凝り、[[家相]]論「講宅安危論」を出版しようとしたが叶わず。漢方薬研究もし、「東村山龍堂」という屋号で[[内務省]]から許可を得た数種類の[[漢方薬]]を販売しようとしたが、薬包紙を印刷したまでで立ち消えとなる。雑記「要話雑論集」もある。
* 『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(1935年、[[野田書房]])
:檀那寺(極楽寺)の住職・服部峯雲和尚から[[和歌]]を学び、「萬邦」と号していた。随想集「要話雑論集」の原稿や、「石堂」と号して描いた画手本を遺している。
* 『純粋の声』(1936年、[[沙羅書店]])
:三八郎は、黒田孝(1837年生-1860年没)と結婚し、長男・恒太郎を儲けるが、まもなく孝が死去し、孝の妹・カネを後妻とする。カネとの間に二男(栄吉、富三郎)を儲ける。1871年(明治4年)生れの富三郎は1878年(明治11年)に夭折(7歳没)。
* 『花のワルツ』(1936年、改造社)

* 『[[雪国 (小説)|雪国]]』(1937年、[[創元社]])
;祖母・カネ
* 『[[むすめごころ]]』(1937年、竹村書房)
:天保10年([[1839年]])10月10日生 – 1906年(明治39年)9月9日没
* 『女性開眼』(1937年、創元社)
:旧姓は黒田。2代目・黒田善右衛門(玄了)(1784年生-1852年没)とかもの次女。4人姉弟(孝、カネ、民三郎、トミ)の2人目。弟・民三郎は3代目・黒田善右衛門。
* 『級長の探偵』(1937年、[[中央公論社]])
:黒田家は、[[大阪府]][[西成郡]]豊里村大字3番(現・大阪市[[東淀川区]]豊里6丁目-2-25)の資産家。「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれ、広壮な家を構える大[[地主]]。現在地は[[関西電力]]の寮がある<ref name="shindo"/>。
* 『[[乙女の港]]』(1938年、[[実業之日本社]])
:カネの母・かもは黒田家出身で、父・玄了は川端三平の次男で、黒田家に婿養子となった人物。玄了と川端三右衛門幾康(三八郎の養父)は兄弟。
* 『寝顔』(1941年、[[有光社]])
:カネは、姉・孝の死去により、川端三八郎の後妻となって二男(栄吉、富三郎)を儲ける。
* 『[[愛する人達]]』(1941年、新潮社)

* 『文章』(1942年、[[東峰書房]])
;父・川端栄吉(医師)
* 『美しい旅』(1942年、実業之日本社)
:[[1869年]](明治2年)1月13日生 - 1901年(明治34年)1月17日没
* 『高原』(1942年、[[甲鳥書林]])
:川端三八郎とカネの次男(異母兄・恒太郎が長男)。
* 『朝雲』(1945年、新潮社)
:[[東京市]][[本郷区]]湯島の医学校・[[済生学舎]](現・[[日本医科大学]]の前身)を卒業。大阪府東成郡[[天王寺]]桃山(現・大阪市[[天王寺区]]筆ヶ崎)の桃山病院の[[勤務医]]となり、のちに[[難波]]北詰(現・[[北区 (大阪市)|北区]]若松町)の高橋医院の副院長の経歴あり。1891年(明治24年)5月に医術開業試験に合格し、[[開業医]]の資格を得る。肺を病んでおり虚弱であった。[[日本橋区]]西河岸町の西宮淳園塾にいたとされ、[[浪華]]の[[儒家]]寺西易堂に学び、[[漢詩]]、[[文人画]]を習った。「谷堂」を号した。
* 『愛』(1945年、[[養徳社]])
:[[兵役]]免除の特典(長男は免除される)を利用するため一時、名目上の養子で宮本姓としていたが、1894年(明治27年)に異母兄・恒太郎の死去により、恒太郎の妻であった黒田ゲンと事実上の夫婦となり長女・芳子を儲けたため、1896年(明治29年)6月5日に川端姓に戻った。黒田ゲンは黒田分家を廃家とし、1898年(明治31年)7月9日に川端栄吉とゲンは結婚入籍。その後、長男・康成を儲ける。
* 『駒鳥温泉』(1945年、[[湘南書房]])
:栄吉は、1897年(明治30年)9月1日に、大阪市[[西区 (大阪市)|西区]]北堀江下通6丁目第30、31番屋敷に医院を開業。翌1898年(明治31年)5月に[[東区 (堺市)|東区]]安土町2丁目97番屋敷(現・中央区安土町)に転移。同年9月に[[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市[[天神橋 (大阪市)|天神橋]])に転移。その後、西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・[[東淀川区]]大道町)に転移し、その地で肺病([[結核]])のため死去(32歳没)。戒名は「智光院礼誉義岳良仁禅定門」。
* 『日雀』(1946年、[[新紀元社]])

* 『[[夕映少女]]』(1946年、[[丹頂書房]])
;母・ゲン
* 『温泉宿』(1946年、実業之日本社)
:[[元治]]元年([[1864年]])7月27日生 - 1902年(明治35年)1月10日没
* 『虹』(1947年、[[四季書房]])
:黒田家出身。3代目・黒田善右衛門(民三郎)(1841年-1880年)とエンの長女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の2番目。川端カネとは、[[伯母]]と[[姪]]の関係となる。
* 『一草一花』(1948年、[[青龍社]])
: 1889年(明治22年)10月に川端恒太郎(川端家の長男)と結婚するが、恒太郎の死去により、その異母弟・川端栄吉と再婚。一男一女(芳子、康成)を儲ける。その後、夫・栄吉と同じ結核で死去(37歳没)。
* 『私の伊豆』(1948年、[[弘文堂]])

* 『哀愁』(1949年、[[細川書店]])
;姉・芳子
* 『[[文章読本|新文章読本]]』(1950年)
:[[1895年]](明治28年)8月17日生 – 1909年(明治42年)7月21日没
* 『[[宝塚歌劇団|歌劇]]学校』(1950年、[[ひまわり社]])
:川端栄吉とゲンの長女。両親の死後、母親のすぐ下の妹・タニの婚家・秋岡家に預けられ、弟・康成と離ればなれとなる。13歳で夭折。
* 『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』(1951年、[[新潮文庫]])

* 『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』(1952年、[[筑摩書房]])
;伯父:恒太郎(村長)
* 『再婚者』(1953年、[[三笠書房]])
:[[安政]]5年([[1858年]])7月5日生 - 1894年(明治27年)4月14日没{{refnest|group="注釈"|恒太郎の死亡日については、[[羽鳥徹哉]]は5月14日としているが、[[笹川隆平]]は墓石で確認し、4月14日としている<ref name="sasagawa"/>。}}
* 『日も月も』(1953年、中央公論社)
:川端三八郎と孝の長男。栄吉の腹違いの兄。生後間もなく実母・孝が死去し、叔母のカネが継母となる。改名前の名は「常太郎」。
* 『川のある下町の話』(1954年、新潮社)
:1885年(明治18年)5月、27歳の時に、『清国道中里程図誌』という書物を二酉楼から発刊した。
* 『[[山の音]]』(1954年、筑摩書房)
:[[家督]]を異母弟・栄吉に譲り、黒田ゲンと1889年(明治22年)10月に結婚。黒田家に入夫して分家を立て、西成郡豊里村3番の[[村長]]となる。ゲンとの間に子供のないまま35歳で死去。
* 『[[呉清源]]棋談・[[名人 (小説)|名人]]』(1954年、[[文藝春秋|文藝春秋新社]])

* 『[[童謡 (小説)|童謡]]』(1954年、[[東方社]])
;伯父・黒田秀太郎
* 『伊豆の旅』(1954年、中央公論社)
:[[文久]]2年(1862年)生 – 1918年(大正7年)4月没
* 『東京の人』(1955年、新潮社)
:ゲンの兄。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの長男。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の1番目。
* 『[[みづうみ]]』(1955年、新潮社)
:前妻との間に、長男・忠義を儲ける。忠義は松本家の養子となり、茶舗松本軒の主人となる。後妻・コトとの間には、二男四女(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)を儲ける。次男・伝治(1901年生)は、[[梶井基次郎]]と中学の同級生。
* 『[[燕の童女]]』(1955年、筑摩書房)

* 『[[女であること]]』(1955・56年、新潮社)
;従兄・黒田秀孝
* 『富士の初雪』(1958年、新潮社)
:1896年(明治29年) - 1969年(昭和44年)6月28日没
* 『風のある未知』(1959年、[[角川書店]])
:黒田秀太郎とコトの長男。6人姉弟(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)の3番目。ゲンの[[甥]]。
* 『[[眠れる美女]]』(1961年、新潮社)
:1920年(大正9年)1月に権野富江(1896年生-1983年没)と結婚し、三女(和子、昭子、政子)を儲ける。妻・富江は、勝雅の妹。勝雅は小寺家の養子となる。
* 『[[古都 (小説)|古都]]』(1962年、新潮社)
:秀孝は、毎晩のように[[人力車]]で大阪の[[北新地]]に遊びに行っては帰る遊び人。よその女に産ませた男児・[[鬼追明夫]]もいる。鬼追明夫は、のち[[大阪市立大学]]を卒業し、[[弁護士]]となって[[日弁連]]会長、[[整理回収機構]]社長を務める。
* 『[[美しさと哀しみと]]』(1965年、中央公論社)
:秀孝の遊蕩や[[投機]]の失敗で「黒善」は没落。1925年(大正14年)に家屋敷を手放し、西成区田畑通2丁目11番地へ転居。
* 『[[片腕 (小説)|片腕]]』(1965年、新潮社)
:富江と1935年(昭和10年)頃に別居し、三女・政子は富江が連れていった。富江と離婚後、秀孝は1945年(昭和20年)に再婚する。再婚相手のスミ子は[[阿倍野区]]阪南町2丁目でアパート常盤荘を営む。
* 『落花流水』(1966年、新潮社)

* 『月下の門』(1967年、[[大和書房]])
;叔母・秋岡タニ
* 『[[美しい日本の私―その序説]]』(1969年、講談社) ISBN 4061155806
:[[慶応]]3年(1867年)生 – 1925年(大正14年)1月没
* 『美の存在と発見』(1969年、[[毎日新聞社]])
:ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの次女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の3番目。
* 『ある人の生のなかに』(1972年、[[河出書房新社]])
:秋岡義一(1863年生-1925年3月31日没)に嫁ぎ、一男一女(義愛、俊子)を儲ける。秋岡家は大阪府[[東成郡]]鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]]蒲生)にある素封家。秋岡義一は、1888年(明治21年)に、私立天王寺[[養蚕]]伝習所を設立し、翌年1889年(明治22年)、27歳で鯰江村会議員から村長となり、1891年(明治24年)に東成郡選出の大阪府議会議員、1894年(明治27年)に[[衆議院議員]]に当選。その後1912年(大正元年)に[[京阪電鉄]]監査役、1914年(大正3年)に議員を終えて、1919年(大正8年)に大阪送電株式会社監査役、1922年(大正11年)に[[北大阪電鉄]]取締役社長となる。
* 『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』(1972年、新潮社)

* 『竹の声桃の花』(1973年、新潮社)
;従兄・秋岡義愛
* 『日本の美のこころ』(1973年、[[講談社]])
:1890年(明治23年)生 - 1972年(昭和47年)2月25日没
:秋岡義一とタニの長男。[[芝中学校・高等学校|芝中学]]、[[慶応大学]]卒業。作家・[[南部修太郎]]と同級生だったため、康成に南部を文通相手として紹介する。
:原田元治郎(実業家)の娘・原田綾子と結婚し、原田綿織機に勤務。二男二女(義彦、達子、義之、瑛子)を儲ける。次男・義之([[毎日新聞]]記者)は、康成のノーベル文学賞授賞式に同行した。康成は当初、次女・瑛子を養女に貰いたいと考えていた<ref>川端康成「林房雄宛ての書簡」(1939年7月27日付)</ref>。

;従姉・秋岡俊子
:1894年(明治27年)生 - 没年不詳
:秋岡義一とタニの長女。義愛の妹。三輪田高等女学校を卒業。康成の紹介で、[[西川義方]]と再婚。

;伯母・田中ソノ
:安政5年(1858年) - 1942年(昭和17年)10月24日没
:ゲンの異母姉。川端家の養女となり、川端家から田中家に嫁いだ。
:康成の祖母・カネの死後しばらく、康成と三八郎の面倒を見ていた。康成は、この伯母を慕っており、『父の名』(1943年)で描いている。

;従兄・田中岩太郎(歯科医)
:生年月日没年不詳
:田中ソノの次男。上京し、東京府[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])で[[歯科医]]を開業。母が未亡人となったため、母を自宅に呼び同居。この家に康成は居候しながら受験勉強し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]へ入学。
:岩太郎は、康成と同年齢と女性と結婚し、長男・洋太郎を儲ける。

;叔母・小寺ノブ
:生年月日没年不詳
:ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの三女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の4番目。
:小寺秀松と結婚するが、子供のないまま間もなく死去。小寺秀松は後妻・志津を迎えるが子供が生れず、権野家から勝雅を養子にもらう。権野勝雅の妹は富江。富江は黒田秀孝と結婚。

;叔父・山田豊蔵([[金箔]]師)
:1872年(明治5年) – 1951年(昭和26年)没
:ゲンの異母弟。金箔師・山田甚助に養子となり、五世山田甚助となる。浅草[[北清島町]]37に居住。風変りな叔父として『父の名』(1943年)で描かれている。[[歌沢]]に凝り、「山田金箔児」の名でレコードを出していた頃は、[[熱海市]]天神町に居住。長男・豊明(1919年生-1945年没)は、[[フィリピン]]で戦死。

;妻・川端秀子(戸籍名:ヒテ)
:1907年(明治40年)2月8日生 – 2002年(平成14年)9月7日没
:[[青森県]][[三戸郡]][[八戸町]](現・[[八戸市]])の出身。旧姓は松林。松林慶蔵(1875年-1924年)の次女。5人兄妹(桂二、長女、秀子、君子、喜八郎)の3番目。父・松林慶蔵は当初は鶏卵の商いをしていたが、子供が成長した後は消防団の小頭の仕事を務め、大正13年5月16日に、隣町の火事の消防の際に死去。50歳で殉職。
:父の死後、秀子は東京にいる兄を頼りに上京し、お手伝いとして奉公先で働いていたが、なかなか約束通りに夜学に通わせてもらえず、[[文藝春秋]]の社員募集に応募したところ、そこの面接社員の口ききにより、菅忠雄(『[[オール讀物]]』編集長)の家で働くことになる<ref name="hideko"/>。康成の同人でもある菅忠雄はその頃、最初の妻と[[原宿]]に住んでいたが、その後に[[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26へ転居。[[1925年]](大正14年)5月に、そこで川端と秀子は出会う<ref name="hideko"/>。

;養女・川端政子(通称:麻紗子)
:1932年(昭和7年)2月23日生 -
:黒田秀孝と富江の三女。姉は和子、昭子。母・富江の旧姓は権野。権野家は代々、代官を務めた家。
:1935年(昭和10年)頃から、母・富江は3歳の政子を連れて別居し、その後に離婚。富江は[[心臓弁膜症]]で病弱であったため、1938年(昭和13年)頃、川端康成に政子を養女に出す希望を打診。
:1943年(昭和18年)5月3日に、康成と秀子の養女となる。[[湘南白百合学園中学・高等学校|湘南白百合学園高校]]卒業。
:1967年(昭和42年)7月に山本香男里と結婚。川端家を継ぎ、一男一女(あかり、秋成)を儲ける。

;婿・[[川端香男里]]([[ロシア文学者]]、[[名誉教授]])
:1933年(昭和8年)12月24日生 -
:旧姓は山本。[[英文学者]]・[[山本政喜]](柾不二夫)の三男。5人兄弟(阿母里、ひかり、思外里、香男里、みどり)の4番目。妹は[[若桑みどり]]。
:[[東京大学]][[教養学部]]教養学科フランス文科を卒業し、同大学院[[人文科学研究科]]比較文学比較文化専攻進学。1960年より[[パリ大学]]に留学。1963年に[[北海道大学]]文学部講師、1965年より[[カレル大学]]、[[モスクワ大学]]に留学。
:1967年(昭和42年)7月に川端政子と結婚し、婿養子となる。川端康成記念会[[理事長]]を務める。

;孫・あかり
:1969年(昭和44年)1月29日生 –
:政子と香男里の間に生まれた長女。

;孫・秋成
:1971年(昭和46年)10月9日生 –
:政子と香男里の間に生まれた長男。

== 略年譜 ==
*[[1899年]](明治32年) - 6月14日、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市[[天神橋 (大阪市)|天神橋]]1丁目16-12)で、[[開業医]]の父・栄吉と母・ゲンの長男として生まれる。その後、自宅が大阪府[[西成郡]]豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市[[東淀川区]]大道南)に転居。
*[[1901年]](明治34年) - 2歳。1月に父・栄吉が肺病([[結核]])で死去(32歳没)。母・ゲンの実家・西成郡豊里村大字3番(現・東淀川区豊里6丁目2-25)のに移る。
*[[1902年]](明治35年) - 3歳。1月に母・ゲンが結核で死去(37歳没)。祖父・三八郎と祖母・カネに連れられ、原籍地の大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府[[茨木市]]大字宿久庄1丁目11-25)に移る。姉・芳子は母の妹・タニの婚家の秋岡家の大阪府[[東成郡]]鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市[[城東区]]蒲生)に預けられる。
*[[1906年]](明治39年) - 7歳。4月に豊川尋常高等小学校(現・[[茨木市立豊川小学校]])に入学。9月に祖母・カネが死去(66歳没)。
*[[1909年]](明治42年) - 10歳。7月に姉・芳子が死去(13歳没)。
*[[1912年]](明治45年・大正元年) - 13歳。3月に尋常小学校を卒業。4月に旧制茨木[[旧制中学校|中学校]](現[[大阪府立茨木高等学校]])に首席で入学。
*[[1913年]](大正2年) - 14歳。小説家を志し、文芸雑誌を読みあさる。詩、短歌、俳句、作文などを試作。亡き父の号を付け『第一谷堂集』『第二谷堂集』を編む。
*[[1914年]](大正3年) - 15歳。5月に祖父・三八郎が死去(73歳没)。[[孤児]]となり、8月に豊里村の母の実家([[伯父]]・黒田秀太郎)に引き取られる。祖父の病床記録を綴った日記は、のちの『[[十六歳の日記]]』となる。
*[[1915年]](大正4年) - 16歳。3学期の3月から茨木中学校の寄宿舎に入る。雑誌『文章世界』などに作品投稿を試みる。
*[[1916年]](大正5年) - 17歳。4月に寄宿舎の室長となる。下級生の室員・小笠原義人に[[同性愛]]的な愛情を持つ。地元新聞『京阪新報』に短歌や短編などを載せてもらう。秋に原籍地の宿久庄の家屋敷が分家筋の川端岩次郎に売却される。
*[[1917年]](大正6年) - 18歳。3月、茨木中学校を卒業。[[浅草区]]浅草森田町11番地(現・[[台東区]]浅草[[蔵前]])に住む従兄・田中岩太郎を頼りに上京し予備校に通う。9月に[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]文科第一部乙類(英文科)に入学し、寮生活に入る。同級の[[石濱金作]]、[[鈴木彦次郎]]、[[酒井真人]]、[[三明永無]]らと知り合う。
*[[1918年]](大正7年) - 19歳。10月末に[[伊豆半島|伊豆]]を一人旅する。時田かほる(踊子の兄)、岡田文太夫が率いる旅芸人の一行と道連れとなり、14歳の踊子・加藤たみの無垢な好意に癒される。
*[[1919年]](大正8年) - 20歳。[[今東光]]と知り合う。6月に校内雑誌に処女作『ちよ』を発表。本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)のカフェ・エランで、女給の13歳の少女・伊藤初代と知り合う。
*[[1920年]](大正9年) - 21歳。3月に第一高等学校を卒業。9月に[[東京大学|東京帝国大学]]文学部英文学科に入学。石濱金作、鈴木彦次郎、今東光らと同人誌の発行を計画し、[[菊池寛]]の承諾を得る。
*[[1921年]](大正10年) - 22歳。2月に同人誌、第6次『[[新思潮]]』発刊。4月に『招魂祭一景』を発表。10月に15歳の伊藤初代と婚約するが、すぐに破談する。菊池寛を介し、[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]、[[横光利一]]と知り合う。
*[[1922年]](大正11年) - 23歳。6月に[[国文学科]]に転科。夏に伊豆[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]で、107枚の草稿『湯ヶ島での思ひ出』を執筆し、伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴る。
*[[1923年]](大正12年) - 24歳。1月に菊池寛が創刊した『[[文藝春秋]]』の同人に加入。9月に本郷区駒込千駄木町(現・[[文京区]]千駄木1-22)の[[下宿]]で[[関東大震災]]に遭う。今東光と一緒に芥川龍之介を見舞い、3人で被災の跡を歩く。この年、[[犬養健]]と知り合う。
*[[1924年]](大正13年) - 25歳。3月に東京帝国大学国文科を卒業。10月に横光利一、[[中河与一]]らと同人誌『[[文藝時代]]』を創刊。この同人誌に集まった作家は[[新感覚派]]と呼ばれた。
*[[1925年]](大正14年) - 26歳。8月-9月に『[[十六歳の日記]]』を発表。母の実家の従兄・黒田秀孝が[[投機]]の失敗で家屋敷を手放す。1年の大半を伊豆の湯ヶ島本館で過ごす。
*[[1926年]](大正15年・昭和元年) - 27歳。1月-2月に『[[伊豆の踊子]]』を発表。4月に[[新宿区]][[市ヶ谷左内町]]26の[[菅忠雄]](雑誌『オール讀物』の編集長)の留守宅に移り、住み込みの手伝いの松林秀子と実質的な結婚生活に入る。[[衣笠貞之助]]、横光利一、[[片岡鉄兵]]らと「新感覚映画連盟」を結成し、映画『[[狂つた一頁]]』のシナリオを書き映画上映する。[[掌の小説]]を収録した処女作品集『感情装飾』を6月に刊行。
*[[1927年]](昭和2年) - 28歳。前年[[大晦日]]に湯ヶ島に転地療養に来た[[梶井基次郎]]を湯川屋に紹介する。4月から[[東京府]][[豊多摩郡]][[杉並町]][[馬橋]]226(現・[[杉並区]][[高円寺]]南3丁目-17)に秀子と移住。5月に『文藝時代』が終刊。8月から初の長編新聞小説『海の火祭』を連載発表。12月に[[熱海温泉|熱海]][[熱海温泉#熱海七湯|小沢]]の島尾[[子爵]]の[[別荘]]を借りて翌春5月まで居住。
*[[1928年]](昭和3年) - 29歳。[[家賃]]滞納で熱海を追われ、[[尾崎士郎]]に誘われて5月に[[荏原郡]][[入新井町]]大字新井宿字子母澤(のち[[大森区]]。現・[[大田区]][[西馬込]]3丁目)に移り、その後すぐ同郡[[馬込町]]小宿389の臼田坂近辺(現・[[南馬込]]3丁目33)に転居。[[馬込文士村]]での交友を深める。
*[[1929年]](昭和4年) - 30歳。4月に『近代生活』の同人に加入。9月に[[下谷区]]上野桜木町44番地(現・[[台東区]][[上野桜木]]2丁目20)に転居。一高時代以来、再び浅草に親しむ。10月に[[堀辰雄]]らが創刊した『文學』の同人となる。12月から『[[浅草紅団]]』の新聞連載開始。[[カジノ・フォーリー]]、浅草ブームを起こす。
*[[1930年]](昭和5年) - 31歳。[[中村武羅夫]]、尾崎士郎らの[[十三人倶楽部]]に加入。4月に[[掌の小説]]集『僕の標本室』を刊行。菊池寛の[[文化学院]]文学部長就任に伴い、講師として週一回出講。[[日本大学|日大]]の講師もする。[[犬]]や[[小鳥]]を多く飼い始める。
*[[1931年]](昭和6年) - 32歳。1月と7月に『[[水晶幻想]]』を発表。4月に上野桜木町36番地に転居。10月にカジノ・フォーリーの踊子・[[梅園龍子]]を引き抜き、本格的な[[バレエ]]や[[英会話]]を習わせる。画家・[[古賀春江]]と知り合う。12月2日に松林秀子との婚姻届を提出。
*[[1932年]](昭和7年) - 33歳。1月から『父母への手紙』を断続的に連載発表。2月に『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』を発表。3月上旬に桜井初代(伊藤初代)の訪問を受け、約10年ぶりの再会をする。3月に梶井基次郎が死去。
*[[1933年]](昭和8年) - 34歳。7月に『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』を発表。10月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[宇野浩二]]、[[林房雄]]らと雑誌『[[文學界]]』を創刊。9月に[[古賀春江]]が死去。12月に随筆『[[末期の眼]]』を発表。
*[[1934年]](昭和9年) - 35歳。文芸懇話会の結成に参加し会員となる。5月に随筆『文学的自叙伝』を発表。6月に初めて[[新潟県]]の[[越後湯沢]]([[南魚沼郡]][[湯沢町]])に旅する。8月に癩病([[ハンセン病]])の文学青年・[[北條民雄]]から手紙を受け取り文通が始まる。同月に越後湯沢を再訪し、[[芸者]]・松栄(本名・小高キク)に会う。
*[[1935年]](昭和10年) - 36歳。1月に[[芥川龍之介賞|芥川賞]]・[[直木三十五賞|直木賞]]が創設され、芥川賞の銓衡委員となる。同月に「夕景色の鏡」を皮切りに『[[雪国 (小説)|雪国]]』の各章の断続的発表が始まる。12月に林房雄の誘いで林の隣家の[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[鎌倉町]]浄名寺宅間ヶ谷(現・[[鎌倉市]]浄名寺2丁目8-15、17,18のいずれか)に転居。
*[[1936年]](昭和11年) - 37歳。2月に北條民雄の『[[いのちの初夜]]』を世に紹介し、6月に[[岡本かの子]]の『鶴は病みき』を紹介する。8月に[[明治製菓]]の招待で、初めて[[軽井沢]]を訪れる。12月に『[[夕映少女]]』を発表。
*[[1937年]](昭和12年) - 38歳。5月に[[鎌倉市]]二階堂325に転居(家主は[[詩人]]・[[蒲原有明]])。6月に『[[雪国 (小説)|雪国]]』を刊行し、これにより文芸懇話会賞を受賞。賞金で軽井沢1307番地に別荘を購入する。12月に北條民雄が死去。
*[[1938年]](昭和13年) - 39歳。7月-9月に、21世[[本因坊]][[本因坊秀哉|秀哉]][[名人 (囲碁)|名人]]の引退[[碁]]の観戦記を新聞連載。10月に「[[日本文学振興会]]」(理事長・菊池寛)の理事となる。
*[[1939年]](昭和14年) - 40歳。小学生の綴方運動に深く関わり、5月に「少年文学懇話会」を結成。[[藤田圭雄]]と共に少年少女の作品の選考した『模範綴方全集』が刊行。7月から[[少女小説]]『美しい旅』を連載開始。
*[[1940年]](昭和15年) - 41歳。1月に『[[母の初恋]]』を発表。熱海滞在中に本因坊秀哉名人の死去に遭遇。5月に、『美しい旅』の取材のため、[[盲学校]]や[[東京盲唖学校|聾唖学校]]を参観。10月に「日本文学者会」発足の発起人となる。
*[[1941年]](昭和16年) - 42歳。4月に『満州日日新聞』の招きで[[呉清源]]らと共に[[満州]]に行く。9月にも[[関東軍]]の招きで[[山本実彦]]、[[高田保]]、[[大宅壮一]]と共に満州に再び渡航。10月から自費で[[北京]]、[[大連市|大連]]などを旅行中、開戦間近の極秘情報により急遽11月末に日本に帰国。
*[[1942年]](昭和17年) - 43歳。8月に[[島崎藤村]]、[[志賀直哉]]、[[武田麟太郎]]らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となる。本因坊秀哉の観戦記と死を元にした『[[名人 (小説)|名人]]』の断続的発表が始まる。10月に「[[日本文学報国会]]」作家として、[[長野県]]の農家を訪問。12月8日開戦記念日に『英霊の遺文』を発表(翌年、翌々年も)。
*[[1943年]](昭和18年) - 44歳。3月に、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を[[養女]]にするため大阪に行き、5月に入籍。5月から『故園』を連載発表。
*[[1943年]](昭和19年) - 45歳。『故園』、『夕日』などで第6回[[菊池寛賞]]を受賞。戦時中、[[隣組]]長、防火班長を経験する。
*[[1945年]](昭和20年) - 46歳。4月に海軍報道班員として、[[鹿児島県]][[ 鹿屋航空基地]]に1か月滞在して[[特別攻撃隊]]を取材する。5月に[[久米正雄]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[高見順]]らと共に、鎌倉在住の文士の蔵書を元に、貸本屋「[[鎌倉文庫]]」を開店。8月に[[島木健作]]が死去。9月に大同製紙の申し入れで、鎌倉文庫が出版社として設立。重役の一員として、事務所を構えた[[丸の内ビルディング|東京丸ビル]]、のちに日本橋[[白木屋 (デパート)|白木屋]]二階に通う。
*[[1946年]](昭和21年) - 47歳。1月に鎌倉文庫の雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』を創刊。6月に新人作家・[[三島由紀夫]]の短編『煙草』を紹介する。3月に[[武田麟太郎]]が死去し、初めて弔辞を読む。7月に『生命の樹』を発表。10月に[[鎌倉市]][[長谷寺 (鎌倉市)|長谷]]264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居。ここが終生の住いとなる
*[[1947年]](昭和22年) - 48歳。10月に随筆『哀愁』を発表。この頃から古[[美術]]への関心が高まる。[[日本ペンクラブ]]の再建総会に出席。12月に[[横光利一]]が死去。
*[[1948年]](昭和23年) - 49歳。1月に横光利一の弔辞を読む。3月に[[菊池寛]]が死去。5月から『少年』を連載発表。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が始まり、「あとがき」(のちに『独影自命』)で半生を振り返る。6月に[[志賀直哉]]のあとを継いで、第4代[[日本ペンクラブ]]会長に就任。11月に[[東京裁判]]を傍聴。12月に完結版『雪国』を刊行。
*[[1949年]](昭和24年) - 50歳。4月に芥川賞が復活し、引き続き委員となる。5月から鎌倉を舞台とした『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』、9月から『[[山の音]]』の各章の断続的発表が始まる。
*[[1950年]](昭和25年) - 51歳。2月に『天授の子』を発表。4月にペンクラブ会員らと[[原爆]]被災地の広島・長崎を慰問視察。ペンクラブ国際大会に初の日本代表を送るため、[[エジンバラ]]での大会へ募金のアピールを書く。12月から『舞姫』を連載発表。
*[[1951年]](昭和26年) - 52歳。2月に伊藤初代が死去(44歳没)。5月に『たまゆら』を発表。6月に[[林芙美子]]が死去し、葬儀委員長を務める。
*[[1952年]](昭和27年) - 53歳。2月に『千羽鶴』で昭和26年度[[芸術院賞]]を受賞。10月に[[大分県]]の招待で、[[九重町]]の高原を画家・[[高田力蔵]]の案内で旅する。
*[[1953年]](昭和28年) - 54歳。5月に[[堀辰雄]]が死去し、葬儀委員長を務める。11月に[[永井荷風]]、[[小川未明]]らと共に[[芸術院]]会員に選出される。
*[[1954年]](昭和29年) - 55歳。1月から『[[みづうみ]]』、5月から『東京の人』を連載発表。4月に『山の音』で第7回[[野間文芸賞]]を受賞。
*[[1955年]](昭和30年) - 56歳。1月から『ある人に生のなかに』を断続的連載発表。
*[[1956年]](昭和31年) - 57歳。英訳『雪国』がアメリカで出版。3月から『女であること』を連載発表。
*[[1957年]](昭和32年) - 58歳。3月に[[国際ペンクラブ]]執行委員会出席のため[[松岡洋子]]と共に渡欧。各国を東京大会出席要請願いに廻る。9月に第29回[[国際ペンクラブ]]大会が日本(京都と東京)で開催され、主催国会長として大役をこなす。
*[[1958年]](昭和33年) - 59歳。2月に国際ペンクラブ副会長に選出。3月、東京国際ペンクラブでの尽力により、第6回(1958年)菊池寛賞を受賞。11月に[[胆嚢炎]]([[胆石]])で東大病院に入院。
*[[1959年]](昭和34年) - 60歳。5月に[[フランクフルト]]での第30回国際ペンクラブ大会に出席し、[[ゲーテ・メダル]]を贈られる。
*[[1960年]](昭和35年) - 61歳。1月から『[[眠れる美女]]』を連載発表。5月に[[アメリカ国務省]]の招待で渡米し、7月に[[サンパウロ]]での第31回国際ペンクラブ大会に出席。[[フランス]]政府から[[芸術文化勲章]](オフィシエ勲章)を贈られる。
*[[1961年]](昭和36年) - 62歳。京都に家を借りて滞在し、1月から『[[美しさと哀しみと]]』、10月から『[[古都 (小説)|古都]]』を連載発表。11月に第21回[[文化勲章]]を受賞。
*[[1962年]](昭和37年) - 63歳。[[睡眠薬]]の禁断症状により2月に東大冲中内科に入院。10月に[[世界平和アピール七人委員会]]に参加。11月に『眠れる美女』で第16回[[毎日出版文化賞]]を受賞。
*[[1963年]](昭和38年) - 64歳。4月に財団法人・[[日本近代文学館]]が発足し、監事に就任。[[東京都近代文学博物館|近代文学博物館]]委員長となる。8月から『[[片腕 (小説)|片腕]]』を連載発表。
*[[1964年]](昭和39年) - 65歳。2月に[[尾崎士郎]]、5月に[[佐藤春夫]]が死去。6月に [[オスロ]]での第32回国際ペンクラブ大会に出席。同月から『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』の連載開始(未完)。
*[[1965年]](昭和40年) - 66歳。4月からNHKの[[連続テレビ小説]]で書き下ろしの『[[たまゆら_(テレビドラマ)|たまゆら]]』が放映される。8月に[[高見順]]が死去し、葬儀委員長を務める。10月に日本ペンクラブ会長を辞任(後任は[[芹沢光治良]])。11月、伊豆湯ヶ島に『[[伊豆の踊子]]』の文学碑が建立。作中のモデルの受験生・後藤孟と再会。
*[[1966年]](昭和41年) - 67歳。1月から3月まで[[肝臓]]炎で東大病院中尾内科に入院。4月に日本ペンクラブから胸像を贈られる。
*[[1967年]](昭和42年) - 68歳。2月に[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[石川淳]]らと中国[[文化大革命]]に反対する声明文を出す。4月に[[日本近代文学館]]が開館され名誉顧問に就任。7月に養女・政子が[[川端香男里|山本香男里]]と結婚。山本を入り婿に迎える。
*[[1968年]](昭和43年) - 69歳。2月に「非[[核武装]]に関する国会議員達への請願」に署名。6月に[[日本文化会議]]に参加。6月-7月、[[参議院選挙]]に立候補した[[今東光]]の選挙事務長を務める。10月に[[ノーベル文学賞]]受賞が決定し、12月に[[ストックホルム]]の授賞式に出席し、『[[美しい日本の私―その序説]]』と題する記念講演を行なう。同月、郷里の[[茨木市]][[名誉市民]]に推される。
*[[1969年]](昭和44年) - 70歳。1月に初孫・あかり(女児)が誕生。4月にアメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選出。5月に[[ハワイ大学]]で日本文学の特別講演『美の存在と発見』を行ない、名誉文学[[博士号]]を贈られる。9月に文化使節として[[サンフランシスコ]]で特別講演『日本文学の美』を行なう。6月に従兄・黒田秀孝が死去。同月、[[鎌倉市]]名誉市民に推される。10月、茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の文学碑「以文会友」の除幕式。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務める。
*[[1970年]](昭和45年) - 71歳。6月に[[台北]]でのアジア作家会議に出席。続いて[[京城]]([[ソウル]])での第38回国際ペンクラブ大会に出席。11月に[[三島由紀夫]]が割腹自決([[三島事件]])。
*[[1971年]](昭和46年) - 72歳。1月に三島由紀夫の葬儀委員長を務める。3月-4月に[[1971年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]で[[秦野章]]の応援に立つ。9月に[[世界平和アピール七人委員会]]から[[日中国交回復]]の要望書を提出。10月に2番目の孫・秋成(男児)が誕生。同月、[[立野信之]]の臨終に会い、日本文化研究国際会議(翌年11月開催)の運動準備を託され、年末にかけて募金活動に奔走し健康を害する。11月に最後の小説『隅田川』を発表。同月に日本近代文学館の名誉館長に推される。
*[[1972年]](昭和47年) - 2月に従兄・秋岡義愛の葬儀に参列。3月に[[盲腸炎]]で入院手術。4月16日の夜、[[逗子マリーナ]]のマンションの仕事部屋でガス自殺。長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見される。72歳で永眠。

== 主要作品 ==
=== 作文・習作 ===
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*箕面山(1911年)
*読書(1912年1月)
*友人に登山を勧む(1913年)
*桃山御陵参拝記(1913年)
*大正二年と三年(1913年)
*春夜友を訪ふ(1914年3月)
*弔詩(1914年)
*白骨を迎ふ(1914年)
*藤村詩集(1914年)
*詩人たらむ(1914年)
*雨だれ石を穿つ(1916年)
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*H中尉に(1916年3月)
*淡雪の夜(1916年)
*むらさきの茶碗(1916年)
*月見草の咲く夕(1916年)
*雪報(1916年)
*自由主義の真義(1916年)
*青葉の窓より(1916年)
*少女に(1916年)
*永劫の行者(1916年)
*生徒の肩に柩を載せて(1917年) - のち1927年3月に「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し再発表。1949年に「師の柩を肩に」として『東光少年』に再発表。
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=== 小説・自伝小説 ===
※ 太字は中編・長編小説
{{Columns-start|num=2}}
*ちよ(1919年6月)
*ある婚約(1921年2月)
*招魂祭一景(1921年4月)
*油(1921年7月)
*Oasis of Death(1922年1月)
*一節(1922年3月)
*湯ヶ島での思ひ出(1922年夏)
*帽子事件(1922年9月)
*精霊祭(1923年4月)
*男と女の荷車(1923年4月)
*会葬の名人(のち「葬式の名人」と改題)(1923年5月)
*南方の火(1923年7月) - 改稿同名作が他に2編あり。
*日向(1923年11月)
*篝火(1924年3月)
*生命保険(1924年8月)
*弱き器(1924年9月)
*火に行く彼女(1924年9月)
*鋸と出産(1924年9月)
*バッタと鈴虫(1924年10月)
*非常(1924年12月)
*髪(1924年12月)
*港(1924年12月)
*金糸雀(1924年12月)
*写真(1924年12月)
*白い花(1924年12月)
*月(1924年12月)
*[[十六歳の日記|十七歳の日記]](のち「十六歳の日記」と改題)(1925年8月-9月)
*落葉と父母(のち「孤児の感情」と改題)(1925年2月)
*青い海 黒い海(1925年8月)
*二十年(1925年11月)
*朝鮮人(のち「海」と改題)(1925年11月)
*お信地蔵(1925年11月)
*滑り岩(1925年11月)
*万歳(1925年12月)
*[[有難う]](1925年12月)
*白い満月(1925年12月)
*[[伊豆の踊子]](1926年1月-2月)
*白い靴(のち「夏の靴」と改題)(1926年3月)
*母(1926年3月)
*心中(1926年4月)
*龍宮の乙姫(1926年4月)
*処女の祈り(1926年4月)
*霊柩車(1926年4月)
*雀の媒酌(1926年4月)
*伊豆の帰り(1926年6月)
*神います(1926年7月)
*屋上の金魚(1926年8月)
*祖母(1926年9月)
*大黒像と駕籠(1926年9月)
*彼女の盛装(1926年9月)
*蚕女(1926年9月)
*犠牲の花嫁(1926年10月)
*五月の幻(1926年12月)
*女(1927年2月)
*恐ろしい愛(1927年2月)
*歴史(1927年2月)
*倉木先生の葬式(1927年3月)
*美しい!(のち「美しい墓」と改題)(1927年4月)
*梅の雄蕊(1927年4月)
*柳は緑 花は紅(1927年5月) - 「梅の雄蕊」と併せて「春景色」
*結婚なぞ(1927年5月)
*暴力団の一夜(のち「霰」と改題)(1927年5月)
*馬美人(1927年5月)
*百合の花(のち「百合」と改題)(1927年5月)
*処女作の崇り(1927年5月)
*神の骨(1927年7月)
*'''海の火祭'''(1927年8月-12月)
*薔薇の幽霊(1927年10月)
*盲目と少女(1928年2月)
*死者の書(1928年5月)
*母国語の祈祷(1928年5月)
*故郷(1928年6月)
*叩く子(1928年9月)
*[[笑はぬ男]](1928年)
*貧者の恋人(1928年)
*[[日本人アンナ]](1929年3月)
*死体紹介人(1929年4月-1930年8月)
*顕微鏡怪談(1929年8月)
*踊子旅風俗(1929年9月)
*温泉宿(1929年10月)
*'''[[浅草紅団]]'''(1929年12月-1930年2月)
*花のある写真(1930年4月)
*鶏と踊子(1930年5月)
*縛られた夫(1930年10月)
*針と硝子と霧(1930年11月)
*白粉とガソリン(1930年)
*浅草日記(1931年1月-2月)
*[[水晶幻想]](1931年1月・7月)
*落葉(1931年12月)
*父母への手紙(1932年1月-9月。1933年9月。1934年1月)
*[[抒情歌 (小説)|抒情歌]](1932年2月)
*雨傘(1932年3月)
*喧嘩(1932年3月)
*化粧(1932年4月)
*妹の着物(1932年4月)
*それを見た人達(1932年5月)
*浅草の九官鳥(1932年6月-12月)
*浅草に十日ゐた女(1932年7月)
*化粧と口笛(1932年9月-11月)
*慰霊歌(1932年10月)
*[[浅草の姉妹]](1932年11月)
*開校記念日(1933年2月)
*夏の宿題(1933年7月)
*[[禽獣 (小説)|禽獣]](1933年7月)
*[[散りぬるを (小説)|散りぬるを]](1933年11月-1934年5月)
*キャラメル兄妹(1933年12月)
*南方の火(「篝火」「非常」「霰」を含有)(1934年7月)
*虹(1934年3月-1936年4月)
*水上心中(1934年8月-12月)
*浅草祭(1934年9月-1935年3月)
*扉(1934年10月)
*姉の和解(1934年12月)
{{Column}}
*'''[[雪国 (小説)|雪国]]'''(1935年1月-1937年5月。1940年12月-1947年10月)
*舞姫の暦(1935年1月-3月)
*田舎芝居(1935年5月)
*純粋の声(1935年7月)
*[[童謡 (小説)|童謡]](1935年10月)
*[[イタリアの歌]](1936年1月)
*花のワルツ(1936年4月-7月。1937年1月)
*むすめごころ(1936年8月)
*父母(1936年10月)
*[[夕映少女]](1936年12月)
*'''女性開眼'''(1936年12月-1937年7月)
*'''[[乙女の港]]'''(1937年6月-1938年3月)
*牧歌(1937年6月-1938年12月)
*高原(1937年11月-1939年12月)
*[[金塊 (小説)|金塊]](1938年4月)
*'''花日記'''(1938年4月-1939年4月)
*故人の園(1939年2月)
*'''美しい旅'''(1939年7月-1942年10月)
*母の読める(1939年10月-1940年1月)
*旅への誘ひ(1940年1月-9月)
*[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]](1940年1月)
*[[母の初恋]](1940年1月)
*[[女の夢 (川端康成の小説)|女の夢]](1940年2月)
*[[ほくろの手紙]](1940年3月)
*[[夜のさいころ]](1940年5月)
*[[燕の童女]](1940年6月)
*[[夫唱婦和]](1940年7月)
*日雀(1940年7月)
*[[子供一人]](1940年8月)
*[[ゆくひと]](1940年11月)
*[[年の暮 (小説)|年の暮]](1940年12月)
*寒風(1941年1月-1942年4月)
*朝雲(1941年2月)
*'''[[名人 (小説)|名人]]'''(1942年8月-1947年4月。1951年8月-1954年5月)
*父の名(1943年2月-3月)
*故園(1943年5月-1945年1月)
*夕日(1943年8月-1944年3月) - 『名人』の中の一部
*ざくろ(1943年5月)
*東海道(1943年7月-10月)
*十七歳(1944年7月)
*わかめ(1944年7月)
*小切(1944年7月)
*さと(1944年10月)
*水(1944年10月)
*女の手(1946年1月)
*挿話(のち「五十銭銀貨」と改題)(1946年2月)
*再会(1946年2月)
*さざん花(1946年12月)
*再婚者の手記(のち「再婚者」と改題)(1948年1月-8月)
*生命の樹(1946年7月)
*夢(1947年11月)
*'''少年'''(1948年5月-1949年3月)
*南方の火(1948年8月) - 「海の火祭」の第12章「鮎」の改稿編
*足袋(1948年9月)
*手紙(のち「反橋」と改題)(1948年10月)
*かけす(1949年1月)
*夏と冬(1949年1月)
*生きてゐる方に(1949年1月)
*しぐれ(1949年1月)
*住吉物語(のち「住吉」と改題)(1949年4月)
*'''[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]'''(1949年5月-1951年10月)
*[[骨拾ひ]](1949年10月) - 執筆は1916年
*'''[[山の音]]'''(1949年9月-1954年4月)
*天授の子(1950年2月)
*水晶の玉(1950年3月)
*'''虹いくたび'''(1950年3月-1951年4月)
*笹舟(1950年4月)
*卵(1950年5月)
*地獄(1950年5月)
*蛇(1950年7月)
*'''[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]'''(1950年12月-1951年3月)
*たまゆら(1951年5月)
*岩に菊(1952年1月)
*'''日も月も'''(1952年1月-1953年5月)
*富士の初雪(1952年12月)
*'''川のある下町の話'''(1953年1月-12月)
*無言(1953年4月)
*'''[[波千鳥]]'''(1953年4月-1954年7月) - 『千羽鶴』の続編
*水月(1953年11月)
*'''[[みづうみ]]'''(1954年1月-12月)
*'''東京の人'''(1954年5月-1955年10月)
*離合(1954年8月)
*'''ある人の生のなかに'''(1955年1月-1957年3月。1964年1月)
*故郷(1955年4月)
*雨だれ(1956年1月)
*'''女であること'''(1956年3月-11月)
*'''風のある道'''(1957年1月-1958年10月)
*[[弓浦市]](1958年1月)
*並木(1958年1月)
*'''[[眠れる美女]]'''(1960年1月-1961年11月)
*匂ふ娘(1960年11月)
*'''[[美しさと哀しみと]]'''(1961年1月-1963年10月)
*'''[[古都 (小説)|古都]]'''(1961年10月-1962年1月)
*秋の雨(1962年11月)
*手紙(1962年11月)
*隣人(1962年11月)
*木の上(1962年11月)
*乗馬服(1962年11月)
*人間のなか(1963年2月)
*[[片腕 (小説)|片腕]](1963年8月-1964年1月)
*かささぎ(1963年7月)
*不死(1963年8月)
*月下美人(1963年8月)
*地(1963年8月)
*白馬(1963年8月)
*雪(1964年1月)
*'''[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]'''(1964年6月-1968年10月未完)
*めづらしい人(1964年11月)
*'''[[たまゆら (テレビドラマ)|たまゆら]]'''(1965年1月-1966年3月)
*髪は長く(1970年4月)
*竹の声 桃の花(1970年12月)
*隅田川(1971年11月)
*雪国抄(1972年8月)
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=== 評論・随筆 ===
{{Columns-start|num=2}}
*南部氏の作風(1921年12月)
*林金花の憂鬱(1923年1月)
*大火見物(1923年11月)
*日本小説史小論(1924年3月)
*新しき生活と新しき文藝――創刊の辞に代へて(1924年10月)
*熱海と盗難(1928年2月)
*新人才華(1929年9月)
*上野桜木町へ(1929年11月)
*嘘と逆〈自己を語る〉(1929年12月)
*「伊豆の踊子」の映画化に際し(1933年4月)
*文学的自叙伝(1934年5月)
*旅中文学感(1935年11月)
*軽井沢だより(1936年10月)
*四つの机(1940年7月)
*[[末期の眼]](1933年12月)
*梶井基次郎(1934年9月)
*純文藝雑誌帰還説(1935年12月)
*名人引退碁観戦記(1938年7月-1939年3月)
*日本の母(1942年10月)
*「日本の母」を訪ねて(1942年12月)
*英霊の遺文(1942年12月。1943年12月。1944年12月)
*島木健作追悼(1945年11月)
*武田麟太郎と島木健作(1946年5月)
*哀愁(1947年10月)
*横光利一弔辞(1948年2月)
{{Column}}
*新文章講座(のち「[[文章読本|新文章読本]]」と改題)(1949年2月-1950年11月)
*月下の門(1952年2月-11月)
*古賀春江と私(1954年3月)
*敗戦のころ(1955年8月)
*東西文化のかけ橋――新しい年への期待(1957年1月)
*雨のち晴――国際ペン大会を終つて(1957年9月)
*世界の佳人(1958年1月)
*枕の草子――落花流水(1962年10月)
*秋風高原――落花流水(1962年11月-1964年12月)
*伊豆行――落花流水(1963年6月)
*行燈――落花流水(1964年2月)
*水郷(1965年6月)
*一草一花――「伊豆の踊子」の作者(1967年5月-1968年11月)
*秋の野に(1968年12月)
*夕日野(1969年1月)
*思ひ出すともなく(1969年4月)
*伊藤整(1969年1月)
*夜の虹(1969年6月)
*鳶の舞ふ西空(1970年3月)
*独影自命(1970年10月)
*三島由紀夫(1971年1月)
*志賀直哉(1971年12月-1972年3月)
*夢 幻の如くなり(1972年2月)
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=== 講演・声明 ===
*文化大革命に関する声明(1967年2月) - 三島由紀夫、石川淳、安部公房と共同執筆。
*[[美しい日本の私―その序説]](1968年12月)
*美の存在と発見(1969年5月)
*日本文学の美(1969年9月)
*源氏物語と芭蕉(1970年6月)
*以文会友(1970年6月)

=== 脚本・台本 ===
*[[狂つた一頁]](1926年7月)
*船遊女(1954年9月)
*古里の音(1955年1月)


=== 作詞 ===
=== 作詞 ===
* 生きてゐるのに
* 生きてゐるのに(1967年6月)
** [[1969年]]発売。作曲と歌唱は[[北條暁]]。
**作曲と歌唱は[[北條暁]]。
** カレッジフォークグループの[[エマノンズ]]がカバーした。
** カレッジフォークグループの[[エマノンズ]]がカバーした。

== 著作本一覧 ==
=== 単行本 ===
{{Columns-start|num=2}}
*『感情装飾』(金星堂、1926年6月) - [[掌の小説]]35編を収録。
*『[[伊豆の踊子]]』(金星堂、1927年2月) - 伊豆の踊子、招魂祭一景、[[十六歳の日記]]、ほか7編を収録。
*『僕の標本室』(新潮社、1930年4月) - 母、神の骨、ほか45編を収録。
*『花のある写真』(新潮社、1930年10月) - 死体紹介人、春景色、死者の書、ほか5編を収録。
*『[[浅草紅団]]』(先進社、1930年12月) - 浅草紅団、[[日本人アンナ]]、白粉とガソリン、縛られた夫、浅草日記、水族館の踊子、を収録。
*『化粧と口笛』(新潮社、1933年6月) - 抒情歌、二十歳、水仙、霧の造化、ほか5編を収録。
*『[[水晶幻想]]』([[改造社]]、1934年4月) - 禽獣、父母への手紙、水晶幻想、ほか8編を収録。
*『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』(竹村書房、1934年12月) - 浅草の姉妹、水仙、寝顔、ほか5編を収録。
*『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(野田書房、1935年5月)
*『小説の研究』([[第一書房]]、1936年8月)
*『純粋の声』(沙羅書店、1936年9月) - 文学的自叙伝、ほか38編を収録。
*『花のワルツ』(改造社、1936年12月) - 虹、散りぬるを、童謡、田舎芝居、花のワルツ、を収録。
*『[[雪国 (小説)|雪国]]』([[創元社]]、1937年6月) - 雪国、父母、これを見し時、夕映少女、ほか1編を収録。
*『[[むすめごころ]]』(竹村書房、1937年7月)
*『女性開眼』(創元社、1937年12月)
*『級長の探偵』([[中央公論社]]、1937年12月)
*『[[乙女の港]]』([[実業之日本社]]、1938年4月)
*『短篇集』(砂子屋書房、1939年11月) - 夏の靴、有難う、髪、朝鮮人、馬美人、ほか29編を収録。
*『[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]』(新声閣、1940年12月) - 正月三ヶ日、[[燕の童女]]、日雀、[[母の初恋]]、を収録。
*『寝顔』(有光社、1941年7月)
*『小説の構成』([[三笠書房]]、1941年8月)
*『[[愛する人達]]』(新潮社、1941年12月) - 母の初恋、女の夢、ほくろの手紙、夜のさいころ、燕の童女、夫唱婦和、子供一人、ゆくひと、年の暮、を収録。。
*『文章』(東峰書房、1942年4月)
*『美しい旅』(実業之日本社、1942年7月)
*『高原』(甲鳥書林、1942年7月)
*『女性文章』(満州[[文藝春秋社]]、1945年1月)
*『朝雲』(新潮社、1945年10月) - 朝雲、わかめ、父の名、冬の曲、挿話、ほか5編を収録。
*『愛』(養徳社、1945年11月)
*『駒鳥温泉』(湘南書房、1945年12月)
*『日雀』([[新紀元社]]、1946年4月)
*『[[夕映少女]]』(丹頂書房、1946年4月)
*『温泉宿』(実業之日本社、1946年7月)
*『学校の花』(湘南書房、1946年8月)
*『散りぬるを』(前田出版社、1946年9月) - 散りぬるを、浅草の九官鳥、を収録。
*『虹』(四季書房、1947年9月)
*『一草一花』(青龍社、1948年1月) - 掌の小説集
*『翼の抒情歌』(東光出版社、1948年11月)
*『白い満月』([[ロッテ]]出版社、1948年11月)
*『二十歳』([[文藝春秋|文藝春秋新社]]、1948年11月)
*『花日記』([[ヒマワリ社]]、1948年12月)
*『雪国 完結版』(創元社、1948年12月)
*『[[夜のさいころ]]』([[トッパン]]、1949年1月) - 母の初恋、夕映少女、夜のさいころ、ゆくひと、騎士の死、年の暮、寝顔、を収録。
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*『私の伊豆』([[弘文堂]]、1948年)
*『陽炎の丘』(東光出版社、1949年6月)
*『哀愁』(細川書店、1949年12月) - 哀愁、反橋、しぐれ、住吉、ほか16編を収録。
*『浅草物語』(中央公論社、1950年8月)
*『[[文章読本|新文章読本]]』([[あかね書房]]、1950年11月)
*『[[宝塚歌劇団|歌劇]]学校』(ひまわり社、1950年12月)
*『少年』(目黒書店、1951年4月) - 十六歳の日記、伊豆の踊子、少年、を収録。
*『[[舞姫 (川端康成)|舞姫]]』([[朝日新聞社]]、1951年7月)
*『[[千羽鶴 (小説)|千羽鶴]]』([[筑摩書房]]、1952年2月) - 山の音、千羽鶴、を収録。
*『万葉姉妹』([[ポプラ社]]、1952年8月)
*『再婚者』(三笠書房、1953年2月) - 再婚者、さざん花、白雪、お正月、夢、ほか5編を収録。
*『日も月も』(中央公論社、1953年5月)
*『花と小鈴』(ポプラ社、1953年7月)
*『川のある下町の話』(新潮社、1954年1月)
*『[[山の音]]』(筑摩書房、1954年4月)
*『[[呉清源]]棋談・[[名人 (小説)|名人]]』(文藝春秋新社、1954年7月)
*『[[童謡 (小説)|童謡]]』([[東方社]]、1954年)
*『伊豆の旅』(中央公論社、1954年10月)
*『虹いくたび』([[河出書房]]、1955年1月)
*『東京の人』(新潮社、1955年1月)
*『親友』([[偕成社]]、1955年3月)
*『[[みづうみ]]』(新潮社、1955年4月)
*『続東京の人』(新潮社、1955年5月)
*『たまゆら』([[角川書店]]、1955年7月) - 水月、北の海から、離合、明月、ほか6編を収録。
*『続々東京の人』(新潮社、1955年10月)
*『完結東京の人』(新潮社、1955年12月)
*『[[燕の童女]]』(筑摩書房、1955年9月)
*『[[女であること]](一)』(新潮社、1956年10月)
*『女であること(二)』(新潮社、1957年2月)
*『富士の初雪』(新潮社、1958年4月) - 岩に菊、弓浦市、船遊女、ほか8編を収録。
*『風のある道』(角川書店、1959年7月)
*『[[眠れる美女]]』(新潮社、1961年11月)
*『[[古都 (小説)|古都]]』(新潮社、1962年6月)
*『[[美しさと哀しみと]]』(中央公論社、1965年2月)
*『[[片腕 (小説)|片腕]]』(新潮社、1965年10月)
*『たまゆら(上)』(新潮社、1965年12月)
*『落花流水』(新潮社、1966年5月) - 随筆集
*『月下の門』([[大和書房]]、1967年12月) - 随筆集
*『[[美しい日本の私―その序説]]』([[講談社]]、1969年3月) - 随筆集
*『美の存在と発見』([[毎日新聞社]]、1969年7月) - 随筆集
*『独影自命・続落花流水』(川端康成全集第14巻)(新潮社、1970年)
*『定本雪国』(牧羊社、1971年8月)
*『[[たんぽぽ (小説)|たんぽぽ]]』(新潮社、1972年9月)
*『ある人の生のなかに』([[河出書房新社]]、1972年9月)
*『雪国抄』([[ほるぷ出版]]、1972年12月)
*『日本の美のこころ』(講談社、1973年1月)
*『竹の声桃の花』(新潮社、1973年1月) - 随筆集
*『日本の美のこころ』(講談社、1973年1月)
*『一草一花』([[毎日新聞社]]、1973年10月)
*『天授の子』(新潮社、1975年6月)
*『婚礼と葬礼』(創林社、1978年4月)
*『海の火祭』(新潮社、1979年5月)
*『舞姫の暦』(毎日新聞社、1979年5月)
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=== 選集・全集 ===
*『川端康成選集』(改造社、)
*『川端康成全集』全16巻(新潮社、1948年5月-1954年4月) - 表紙画・題字:[[安田靫彦]]
*『川端康成全集』全12巻(新潮社、1959年11月-1962年8月)
*『川端康成全集』全19巻(新潮社、1969年4月-1974年3月) - のちに限定一括復刊もした。
*『川端康成全集』全35巻・補巻2巻(新潮社、1980年2月-1984年5月)

== 関連人物 ==
;[[芥川龍之介]]
:川端にとり、芥川龍之介は『[[新思潮]]』同人の先輩であり、[[菊池寛]]を通じて知り合った存在であった。[[関東大震災]]の際には、[[今東光]]と一緒に芥川を見舞い、3人で[[吉原 (東京都)|吉原]]界隈の震災跡を歩き、吉原の池の中の多くの凄惨な遺体の数々を見た<ref name="akutagawa"/>。川端は、〈その最も醜い死を故人と共に見た私は、また醜い死を見知らぬ人々より以上に、故人の死の美しさを感じることが出来る一人かもしれない〉と、芥川の[[自殺]]の後に記している<ref name="akutagawa"/>。また、芥川が自殺する前に友人に宛てた[[遺書]]の中で書かれていた、「[[自然]]はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の[[矛盾]]を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである」に着目して、1933年(昭和8年)に随筆『[[末期の眼]]』を書き、芥川の小説作法や芸術観に触れている<ref name="matsugo"/><ref name="katayama">[[片山倫太郎]]・[[田村嘉勝]]「文豪をめぐる八人の作家たち」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。

;[[岡本かの子]]
:川端は岡本かの子の文章作法を指導し、岡本の処女作『鶴は病みき』を紹介するに当たって推薦文を寄稿するなど、献身的に支えると同時に数々の作品に賛辞を送っていた。岡本は犬が苦手で、多くの犬を飼っていた川端家を訪れる時に怯えていたという<ref name="hideko"/>。川端は岡本の死後も、[[多摩川]]の二子神社に建てられた彼女の文学碑の揮毫を担当するなど並々ならぬ思い入れを覗かせていた。晩年も、新たに刊行される『岡本かの子全集』の序文を手入れして改稿するなどしており、その途中の原稿が自宅の書斎の残されていた<ref name="shindo"/>。

;[[石濱金作]]
:川端とは[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]文科、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部を通じての文学仲間であり、[[鈴木彦次郎]]らと共に、学生時代から様々な交遊を持ち、『新思潮』、『文藝時代』などの同人雑誌の仲間であった。

;[[石濱恒夫]]
:学生時代に川端に傾倒し、従兄の[[藤沢恒夫]]の紹介で[[弟子]]入りして鎌倉の私邸に住み込んで師事した人物。1940年(昭和15年)12月の初対面の時に、石濱恒夫の母親は川端が食べるものがなくて困っているかもしれないと息子に[[弁当]]を持たせた<ref name="tsuneo">[[石濱恒夫]]「ノーベル紀行」(『追憶の川端康成』)([[新興出版社啓林館|文研出版]]、1973年)</ref>。石濱は川端について、「身近く世話になったり、親しく励ましつづけてくれた文学上の、たったひとりの恩師」と語っている<ref name="tsuneo"/>。川端の[[ノーベル文学賞]]の授賞式には、娘・春上(当時17歳)と共に随行の一員となった。「春上」という名前は、川端が名付けた。日本の若い娘の[[和服]]姿で花を添えるために、同行を誘われた<ref name="tsuneo"/>。石濱は、授賞式で家族席に座るという好待遇を受けたことを、「どうして私のような者を…」と訊ねると、川端は、「お母さんのお弁当だよ」と答えたという<ref name="tsuneo"/>。

;[[梶井基次郎]]
:[[結核]]の[[温泉療養]]のために[[伊豆市|伊豆]][[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]にやって来た時以来、川端と親交を持ち、『[[伊豆の踊子]]』刊行の[[校正]]を手伝った。梶井は湯ヶ島滞在中、自分の作品を川端に批評してもらったことから、友人にも、「君の作品持つて来ておかないか。僕が持つて行つてもよい。変ちきりんな野心意識なくあの人には読んでもらへると思ふのだ」と勧めていた<ref name="kajiiyodono2">梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年2月1日付)</ref>。川端は梶井の人柄について、〈梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。[[植物]]や[[動物]]の頓狂な話を私はよく同君と取り交した〉と語り<ref name="sonota"/>、〈静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたやうであつた。温かい親切である。しかも作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた。彼はさういふ男である〉と語っている<ref>川端康成「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号に掲載)</ref>。

;[[片岡鉄兵]]
:『文藝時代』の同人で、「新感覚映画連盟」の仲間であった。その後、片岡鉄兵は[[プロレタリア文学]]に影響されて[[左翼|左傾化]]していった。片岡鉄兵の妹の夫・片岡重治(姓が同じ片岡)は、川端の茨木中学時代の同級生で、川端が室長になる前の寄宿舎の室長であった<ref name="andon"/><ref name="atogaki8"/>。重治は[[首席]]で卒業した[[秀才]]だったという<ref name="atogaki8"/>。

;[[菊池寛]]
:川端が友人らと第6次『新思潮』を発刊する際に承諾を得て以来、〈恩人〉として何かと恩顧を受け、作品発表の場から生活面まで多く世話になった作家である。菊池寛は川端の才能を高く買っていたため、川端が伊藤初代と婚約し、仕事が欲しいと依頼した時には、ちょうど洋行するからと自宅の借家を無賃で貸そうとするなど多大な援護を申し出たこともあった<ref name="jijoden"/>。川端の1922年(大正11年)の日記によると、菊池の連載小説『[[慈悲心鳥]]』の下書きは川端がやり、お金を貰っていた<ref name="katayama"/>。「生活第一、芸術第二」を終始モットーとしていた菊池は、貧苦にあえぐ文学青年たちに下原稿を書かせ、報酬を与えていたという<ref name="katayama"/>。生活に困窮していた川端が度々、[[下宿]]代を家主から催促され、菊池が援助していたことも記されている<ref name="katayama"/>。

;[[古賀春江]]
:川端は美術展で、前衛画家・古賀春江と知り合って以来、親交を深め、[[下谷区]]上野桜木町にいる頃には、[[本郷区]]動坂の住む古賀夫妻と互いに行き来する仲であった<ref name="hiramizu"/>。川端は古賀の絵を愛し、前衛的な古賀の絵に〈古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病ひのせゐであらうかと思はれる〉として、〈古賀氏の絵に向ふと、私は先づなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である〉と評している<ref name="matsugo"/>。

;[[佐多稲子]]
:「窪川稲子」の筆名で、1929年(昭和4年)9月に発表した小説『レストラン・洛陽』は、佐多がカフェで女給をしていた時の体験を題材としていたが、この作品の中で、東京のカフェ聚楽や、カフェ・オリエントを転々としていた伊藤初代がモデルとなっていた。この『レストラン・洛陽』は、奇しくも川端が文芸時評(文藝春秋 1929年9月号掲載)で取り上げて激賞したが、川端はそのモデルが初代だとは気づかなかったという<ref>[[佐多稲子]]「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』)([[ゆまに書房]]、1999年)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年)</ref><ref>「川端康成 初恋の手紙発見」([[読売新聞]] 2014年7月9日号に掲載)</ref>。

;[[志賀直哉]]
:川端は志賀直哉の作品を学生時代よく読んだとされるが、そのわりには志賀文学について正面から論じたものはなく、自身の文学との間に一定の距離を置いていたようで、〈私も一昔前志賀氏を「小説の神様」として耽読した一人であるが、(『[[万暦赤絵]]』を)近頃読み返さうとすると、その神経の「[[我]]」がむかむかして堪へられなかつた〉としている<ref>川端康成「文芸時評」(朝日新聞 1933年)</ref>。しかし川端は志賀に畏敬の念を持っており、初対面の1942年(昭和17年)には、〈生きてゐるうちにはかういふこともあるかと幸せだつた〉と語っている<ref name="katayama">[[片山倫太郎]]・[[田村嘉勝]]「文豪をめぐる八人の作家たち」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。川端の随筆の絶筆は『志賀直哉』(1971年12月-1972年3月未完)となり、〈志賀さんの[[太宰治]]評、これが問題である。やがては、太宰氏の「[[如是我聞]]」、志賀さんの「太宰治の死」を生むに至る。〉という文章で終っている。なお、この続きとなる翌月に連載予定の書きかけの原稿があり、志賀と太宰の応酬を語ろうとする文章で、〈「如是我聞」はこんど読み返してみ〉と、途中で切れている<ref name="katayama"/>。

;[[太宰治]]
:第1回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]において、選考委員の川端が太宰の小説の選考に際して、〈例へば、[[佐藤春夫]]氏は「逆行」よりも「道化の華」によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた〉と言ったことに対し<ref>川端康成「[[芥川龍之介賞]]選評第一回昭和十年上半期」(文藝春秋 1935年9月号に掲載)</ref>、太宰が、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。[[小鳥]]を飼ひ、[[舞踏]]を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大[[悪党]]だと思つた」と川端を批判した<ref>[[太宰治]]「川端康成へ」(文藝通信 1935年10月号に掲載)</ref>{{refnest|group="注釈"|この背景には、太宰治の友人・[[檀一雄]]が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」と言い、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる<ref name="katayama"/>。}}。この批判に対し川端も翌月に、〈太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい〉と反駁して、[[石川達三]]の『[[蒼氓]]』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし<ref name="dazaie">川端康成「太宰治氏へ 芥川賞に就いて」(文藝通信 1935年11月号に掲載)</ref>、〈さう分れば、私が「世間」や「金銭関係」のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう〉と述べている<ref name="dazaie"/>。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出した<ref>太宰治「川端康成宛ての書簡」(昭和11年6月29日付)</ref>。しかし、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった<ref name="katayama"/>。川端はこの規定決定時に欠席しており、〈この二つの条件には、多少問題がある〉としている<ref>川端康成「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号に掲載)</ref><ref name="katayama"/>。なお、『[[雪国 (小説)|雪国]]』について太宰は、「川端はずいぶん下手くそな小説ばからい書きつづけていた、だけれどもコケの一念で『雪国』はいい」と言ったとされる<ref name="kikunaka"/>。

;[[谷崎潤一郎]]
:川端との直接的な交遊はないが、川端の友人・[[今東光]]の家に、谷崎潤一郎が1923年(大正12年)1月6日に小林せい子([[葉山三千子]])と遊びに来ていた際、川端(当時23歳)がちょうど今東光の家を訪問したという川端の日記記録がある。その頃、傷心と青春の自己嫌悪の只中にいた川端は、〈(谷崎のような)性格と生活の人に会ふ気にならず〉に、そのまま家に上がることなく、帰っていった<ref>川端康成「日記」(大正12年1月6日)</ref><ref name="atogaki4"/>。ちなみに、後年に川端が書いた『[[山の音]]』や『[[眠れる美女]]』に影響されて、谷崎が老人小説『[[瘋癲老人日記]]』を着想したのではないかと[[中村光夫]]が推測すると、川端は、〈谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは〉と受け流している<ref name="kikunaka"/>。

;[[東山魁夷]]
:1955年(昭和30年)1月刊行の『虹いくたび』の装幀・挿画を東山魁夷が担当したのをきっかけに親交が深まった。川端は東山の絵を愛し、14点の絵を所蔵し。東山の画集へも序文を寄せている<ref name="hiramizu"/>。東山も川端同様に、早くに肉親と死別した天涯孤独の人だった<ref name="sanada"/>。東山は、川端のノーベル文学賞の祝いとして、『北山初雪』を贈呈した<ref name="hiramizu"/>。2005年(平成17年)、[[千葉県]][[市川市]]の東山邸から、川端の書簡40通が発見され、川端家にも東山の書簡が60通保管されている<ref name="hiramizu"/>。

;[[北條民雄]]
:本名は七條晃司。ハンセン病のため東京府北多摩郡東村山村の療養施設・全生園で暮しながら小説を書き、20歳の時に小説原稿を川端に送ったことから、才能を見出されて、『間木老人』『[[いのちの初夜]]』などが川端の紹介により世に広まったが、23歳で亡くなった。『間木老人』の時の筆名「秩父號一」や、『いのちの初夜』の以降の「北條民雄」の筆名は、川端が名付けた<ref name="inochi"/><ref name="shindo"/>。当初、北條は「十條號一」と提案していたが、川端が、それでは実名の手がかりになってしまうとして、「秩父號一」にした。さらに「北條民雄」に筆名を改めたことは、北條本人の希望だったという<ref name="inochi"/>。川端は北條死後も『北條民雄全集』刊行に尽力した。北條は原稿料や印税の金を全て川端に託すことを遺言に書いていたが、川端はその遺言を聞く前から、北條の遺族へ渡すべきものと決めていたため、少しの寄付を取り計った他は、北條の父親へ送った<ref>川端康成「追悼記序」(文學界 1938年2月号に掲載)</ref><ref name="shindo"/>。

;[[北條誠]]
:自身で川端の「押しかけ弟子」と自嘲し、川端を尊敬している作家。川端と知り合いであった橘川ちゑ([[秋山ちえ子]])が友人の弟として、北條誠を川端に紹介した。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・元子(当時20歳)と共に随行の一員となった<ref name="tsuneo"/>。「元子」という名前は、川端が名付けた<ref name="makoto"/>。川端が作詞した歌謡曲『生きてゐるのに』の作曲と歌唱は、息子の[[北條暁]]がしている。

;[[三島由紀夫]]
:戦後の1946年(昭和21年)に川端が三島の『煙草』を推薦して以来、師弟関係とも言える親交を深めた。川端は三島との出会いを、〈二十三歳の三島が現はれた時、私は自分達の二十代を思ひ、明治このかた文学の新機運の出発は常に二十代が主であつたことを思ひ、戦後の二十代の波が来るかと思つた〉と語っている<ref>川端康成「序」(三島由紀夫『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』)(真光社、1948年)</ref>。川端と三島は年齢差を越えて終生、お互いの才能を評価して敬愛し合う間柄となった<ref name="sanada">[[真田邦子]]「孤独と向きあって」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。三島は川端への敬意から、あえて「先生」とは呼ばずに、一人の敬愛する人として「川端さん」と呼び、2人の交わした書簡は公私にわたり、三島の[[結婚式]]の[[媒酌人]]も川端夫婦が務めた。川端が1961年(昭和36年)に三島に執筆依頼したノーベル文学賞の推薦文も、三島は快く応じ<ref name="shokan530"/>、その時は受賞とはならなかった川端は、〈まああなたの時代まで延期でせう〉と三島に送っている<ref>川端康成「三島由紀夫宛ての書簡」(昭和37年4月17日付)</ref>。しかし2人の関係は、川端が三島の「[[楯の会]]」1周年パレード(1969年10月)の出席を見送ったことから微妙になったとされる<ref>[[村松剛]]『西欧との対決―漱石から三島、遠藤まで』(新潮社、1994年)</ref>。三島が1970年(昭和45年)秋に[[自衛隊]][[東富士演習場|富士演習場]]から最後に川端に宛てた鉛筆書きの書簡があったとされるが<ref name="kaori">[[川端香男里]]・[[佐伯彰一]]の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』後記)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)</ref>、川端はその内容にびっくり仰天して、本人(三島)の名誉にならないからと言ってすぐに焼却したと、婿養子の[[川端香男里]]が述べている<ref name="kaori"/>。

;[[横光利一]]
:菊池寛を介して出会ったのをきっかけに川端と親交を持ち、共に「[[新感覚派]]」と呼ばれた作家。何かと親友の川端を援護してくれていたとされる<ref name="jijoden"/>。[[改造社]]から、川端の作品を列冊にして出版したいという申し出があったのは、横光が口添えかもしれないと川端は勘づき、それを直接に横光に訊ねると、「いやあ」と顔を赤らめてソッポを向いていたという<ref name="jijoden"/>。また横光の再婚時の披露宴のために伊豆の湯ヶ島から上京した川端が東京で泊まる所が無いのをすばやく察知し、自分の新婚旅行の逗子ホテルに一緒に行こうと誘ってくれ、思いやりを感じたと川端は語っている<ref name="jijoden"/>。ずっと湯ヶ島に引きこもっていた川端に、「東京に帰るべし」と忠告し、[[東京府]][[豊多摩郡]][[杉並町]][[馬橋]]226(現・[[杉並区]][[高円寺]]南3丁目-17)の借家を探したのも横光であった<ref name="atogaki5"/><ref name="sonota"/>。川端は、〈若い日から戦争前までも、横光君といふ人がゐなかつたら、私はちがつた小説を書いてゐただらうかと思ふ〉と述懐している<ref>川端康成「横光利一文学碑」(1959年12月)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref>。

;[[淀野隆三]]
:梶井基次郎を通じて川端と知り合い、梶井の死後も親交があり、淀野が家業の「淀野商店」(鉄材、鉄器具)を継ぐため京都に帰ってからも、互いの家を行き来し家族ぐるみで交流した<ref name="takashi">[[淀野隆]]『二人だけの「愛・宇宙」六十兆個のバラード』(近代文藝社、2010年)</ref>。川端は淀野の娘・華子を可愛がり、華子は結婚出産後も川端家と交流し、華子の弟・[[淀野隆|隆]]は、ノーベル文学賞の授賞式に同行した<ref name="takashi"/><ref name="koyano"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references /></div>
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* 川端秀子『川端康成とともに』新潮社 1983年
*『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』([[新潮社]]、1970年)
*[[進藤純孝]]『伝記川端康成』六興出版、1976 
*大久保喬樹『川端康成 美しい本の私ミネルヴァ日本評伝選2004 
*『川端康成全集 補巻1 記 手帖 ノート(新潮社1984年)
* [[羽鳥徹哉]]『川端康成全作品研究事典原善編勉誠出版、19986月、ISBN 4-585-06008-1。
*『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄(新潮社1984
*『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)
* 杉山幸輝『海の歌声』行政通信社、1972年3月
*『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
*『新潮日本文学アルバム27 [[梶井基次郎]]』(新潮社、1985年)
*『新潮日本文学アルバム17 [[堀辰雄]]』(新潮社、1984年)
*『新潮日本文学アルバム44 [[横光利一]]』(新潮社、1994年)
*『新潮日本文学アルバム20 [[三島由紀夫]]』(新潮社、1983年)
*『日本近代文学大系42 川端康成・横光利一集』([[角川書店]]、1971年)
*『文芸読本 川端康成』([[河出書房新社]]、1977年。新装版1984年)
*『別冊太陽 川端康成』([[平凡社]]、2009年)
*『川端康成随筆集』([[岩波文庫]]、2013年)
*『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)
*『決定版 三島由紀夫全集第27巻・評論2』(新潮社、2003年)
*『決定版 三島由紀夫全集第28巻・評論3』(新潮社、2003年)
*『決定版 三島由紀夫全集第29巻・評論4』(新潮社、2003年)
*『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
*『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)
*『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
*文庫版『[[浅草紅団]]/浅草祭』([[講談社文芸文庫]]、1996年)
*文庫版『一草一花』(講談社文芸文庫、1991年)
{{Column}}
*文庫版『[[伊豆の踊子]]』([[新潮文庫]]、1950年。改版2003年)
*文庫版『伊豆の踊子』([[集英社文庫]]、1977年。改版1993年)
*文庫版『再婚者・[[弓浦市]]』(講談社文芸文庫、1994年)
*文庫版『水晶幻想・[[禽獣 (小説)|禽獣]]』(講談社文芸文庫、1992年)
*文庫版『反橋・しぐれ・たまゆら』(講談社文芸文庫、1992年)
*文庫版『[[掌の小説]]』(新潮文庫、1971年。改版1989年、2011年)
*『文豪怪談傑作選 川端康成 [[片腕 (小説)|片腕]]』([[ちくま文庫]]、2006年)
*[[大久保喬樹]]『川端康成―美しい日本の私(ミネルヴァ日本評伝選)』([[ミネルヴァ書房]]、2004年)
*[[川嶋至]]『川端康成の世界』([[講談社]]、1969年)
*川端秀子『川端康成とともに』(新潮社、1983年)
*[[小谷野敦]]『川端康成伝―双面の人』([[中央公論新社]]、2013年)
*[[進藤純孝]]『伝記 川端康成』([[六興出版]]、1976年)
*[[杉山幸輝]]『海の歌声』(行政通信社、1972年)
*{{Cite book|和書|author=[[高戸顕隆]]|coauthors=|year=1999|title={{small|私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部}}海軍主計大尉の太平洋戦争|publisher=光人社|isbn=4-7698-2227-8|ref=海軍主計大尉}}
*{{Cite book|和書|author=[[高戸顕隆]]|coauthors=|year=1999|title={{small|私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部}}海軍主計大尉の太平洋戦争|publisher=光人社|isbn=4-7698-2227-8|ref=海軍主計大尉}}
**憂国の至情-大本営海軍報道部「海軍報道班員川端康成」
**憂国の至情-大本営海軍報道部「海軍報道班員川端康成」
*[[羽鳥徹哉]]『作家川端の基底』([[教育出版センター]]、1975年)

*羽鳥徹哉・[[原善]]編『川端康成全作品研究事典』([[勉誠出版]]、1998年) ISBN 4-585-06008-1。
== 関連項目・人物 ==
*[[林武志]]『川端康成研究』([[桜楓社]]、1976年)
* [[新感覚派]]
*[[福田清人]]編・[[板垣信]]著『川端康成 人と作品20』(センチュリーブックス/[[清水書院]]、1969年)
* [[ノーベル文学賞]]
*[[森本穫]]『魔界の住人 川端康成』上巻・下巻(勉誠出版、2014年)
* [[日本ペンクラブ]]
{{Columns-end}}
* [[国際ペンクラブ]]
* [[浦上玉堂]] - 代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られ、現在は川端康成記念会所蔵、国宝。
* [[十便十宜]] - [[与謝蕪村]]・[[池大雅]]の合作。同上、国宝。
* [[少女小説]]
* [[ウォルサム]] - 「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓との縁を感じ愛用したと言われている。
* [[狂つた一頁]] - 日本初の[[アヴァンギャルド映画]]。川端が脚本を担当。
* [[鎌倉文庫]]・[[鎌倉文士]]
* [[菊池寛]]
* [[横光利一]] - 『[[文藝時代]]』、[[新感覚派]]
* [[大江健三郎]] - [[1994年]]ノーベル文学賞受賞者。受賞記念講演で川端の『美しい日本の私』を意識して講演名を『あいまいな日本の私』とした。
* [[三島由紀夫]] - [[芥川龍之介賞|芥川賞]]選考委員としても作品評価にあたる
* [[開高健]] - 同上
* [[臼井吉見]]
* [[エドワード・サイデンステッカー]]
* [[川端康成旧邸]] - 一時的に康成が引き取られていた祖母の実家。
* [[太宰治]] - [[芥川龍之介賞|芥川賞]]で太宰を批判、太宰と文章での言い争いとなった。
* [[岡本かの子]] -岡本が文壇に出る際川端は文章作法を指導する他、彼女の処女作「鶴は病みき」が「文学界」に掲載されるに当たって推薦文を寄稿するなど、献身的に支えると同時に数々の作品に賛辞を送っていた。岡本の死後も、多摩川の二子神社に建てられた彼女の文学碑の揮毫を担当するなど並々ならぬ思い入れを覗かせていた。川端が逗子のマンションで死体として見つかった際には、机上には「岡本かの子全集」に寄せる推薦文の書きかけ原稿が置いてあった。
* [[ディスカバー・ジャパン]] - 川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自らポスター用に揮毫した。
* [[大宅壮一]] - 中学、大学が同じ。また、夫人(大宅壮一の場合は2番目の夫人・愛子)の出身地が[[青森県]][[三沢市]]鍛冶町で共通している。
* [[北条民雄]] - 文才を川端に見出され、川端を師と仰いだ。
* [[川端康成文学賞]] - 死後、川端を記念して作られた賞。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Kawabata Yasunari}}
{{commonscat|Kawabata Yasunari}}
*[http://dmoz.org/World/Japanese/%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%88/%e6%96%87%e5%ad%a6/%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%81%ae%e6%96%87%e5%ad%a6/%e6%97%a5%e6%9c%ac/%e4%bd%9c%e5%ae%b6/%e5%b7%9d%e7%ab%af%e5%ba%b7%e6%88%90/ オープンディレクトリー:アート: 文学: 世界の文学: 日本: 作家: 川端康成]
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* [http://www.kawabata-kinenkai.org/ 川端康成記念会]
*[http://www.kawabata-kinenkai.org/ 川端康成記念会]
* [http://www.hanamiweb.com/kawabata_yasunari.html Hanami Web - Kawabata Yasunari]
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* [http://nobelprize.org/literature/laureates/1968/ Nobelprize.org内の情報]{{En icon}}
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2015年2月28日 (土) 08:26時点における版

川端 康成
(かわばた やすなり)
1938年(39歳頃)、鎌倉二階堂の自宅窓辺で
誕生 1899年6月14日
日本の旗 日本大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市天神橋1丁目16-12)
死没 (1972-04-16) 1972年4月16日(72歳没)
日本の旗 日本神奈川県逗子市小坪
墓地 日本の旗 日本・鎌倉霊園
職業 小説家文芸評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学国文学科
活動期間 1919年 - 1972年
ジャンル 小説文芸評論
主題 無垢生命への讃仰、抒情魔界
自他一如、万物一如、アニミズム
の流転、幽玄心霊
日本の伝統、もののあはれ
文学活動 新感覚派、新興芸術派
代表作伊豆の踊子』(1926年)
抒情歌』(1932年)
禽獣』(1933年)
雪国』(1935年-1948年)
千羽鶴』(1949年)
山の音』(1949年)
眠れる美女』(1960年)
古都』(1961年)
主な受賞歴 文芸懇話会賞(1937年)
菊池寛賞(1944年・1958年)
日本芸術院賞(1952年)
野間文芸賞(1954年)
ゲーテ・メダル(1959年)
芸術文化勲章(1960年)
文化勲章(1961年)
毎日出版文化賞(1962年)
ノーベル文学賞(1968年)
正三位勲一等旭日大綬章(1972年)
デビュー作 『ちよ』(1919年)
『招魂祭一景』(1921年)
十六歳の日記』(1925年。執筆1914年)
配偶者 秀子
子供 政子(養女)、香男里婿養子
親族 三八郎(祖父)、カネ(祖母)
栄吉(父)、ゲン(母)
芳子(姉)、恒太郎(伯父)
あかり、秋成(孫)
黒田秀太郎、秀孝(伯父、従兄)
田中ソノ、岩太郎(伯母、従兄)
秋岡タニ、義愛(叔母、従兄)
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1968年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため

川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年)6月14日 - 1972年昭和47年)4月16日)は、日本小説家文芸評論家大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。

大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、的、抒情的作品、浅草物、心霊神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った[1]。その後は、や流転のうちに「日本の」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界幽玄、妖美な世界観を確立させ[1]、人間のも、非情や孤独絶望も衆知の上で、美やへの転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた[2][3]。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人死生観美意識を世界に紹介した[4]

代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人も登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述しているため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究追跡調査されているものも多い[5][6]

川端は新人発掘の名人としても知られ、藤沢恒夫ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、少年少女の文章、豊田正子岡本かの子中里恒子三島由紀夫を後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことでも特記される[7][8]。また、その鋭い審美眼で数々の茶器陶器仏像埴輪俳画日本画などの古美術品蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い[9]

多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブ国際ペンクラブ大会でも尽力したが、多忙の中、突然1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した(なお、遺書はなかった)[7]

生涯

生い立ち――両親との死別

川端康成生誕地(撮影2011年)

1899年明治32年)6月14日大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生[10][11](川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた[12][13][14])。7か月の早産だった[15][16]。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の病院の勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、を病んでおり虚弱であった[10][17]。また、栄吉は浪華儒家寺西易堂で漢学書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった[18]。蔵書には、ドイツ語の小説や近松西鶴などの本もあった[19][20][8]

しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が2歳となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)[10][21][17][11]。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」というを遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した[22][注釈 1]

2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった[17][23][17]。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市大字宿久庄1丁目11-25)に移った[10][11]

宿久庄の川端康成旧居跡(撮影2008年)

宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた[22][24]。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った[10]。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした[18]

川端の家系は北条泰時から700年続き[24]、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)[21][25]。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった[21][24]。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる[25][26]。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった[27]。父母の病死は幼い康成の胸に、〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に[22]、記憶のない父母(特に母)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる[8]

「寂寥の家」の神童

幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ[28][27]、「神童」と呼ばれることもあった[29]。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた[15][30][27]

1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた[28][27][16]

人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では雨戸をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。 — 川端康成「行燈――落花流水」[28]

康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(256日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが学校まで付き添っていった。小学校時代の旧友のよると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという[21]。小学校に上がる前から祖母に〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している[28][16]。なお、笹川良一とは小学の同級生であった[31][32]。祖父同士が囲碁仲間であったとされる[31]

しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治43年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという[22]。芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身をで占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた[33]。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に、涙脆く有難がる祖父と暮らしていた当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている[16]

小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「」であった[32]。康成はが得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった[20]。康成は毎日のように〈庭の木斛の樹上で〉本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫冒険小説家・押川春浪を愛読した[16][20]

作家志望と「孤児の感情」

茨木中学校入学(1912年)

1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた[27]。康成は学校まで約一半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった[7]

しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった[28][22]。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている[34][18]

康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた[20]。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった[18]。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している[35]。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物梅干ばかりであった[18]。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる[36]

中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった[24]。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている[22][37]。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした[33]。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている[38]

お祖父さんの――。私はをかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからとが鳴る。小さい方の骨壺を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、同情のうちにも、好奇心をまじへてゐるやうに思はれる。 — 川端康成「骨拾ひ」[38]

川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている[33]。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まっていった[39]。また自身の出目(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている[40]

私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。 — 川端康成「一流の人物」[40]

両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた[41]。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ[39][41]。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる[41]

8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、翌年3月から寄宿舎に行くことになった[35][42]

初めての恋慕・小説家への野心

1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り[42]、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた[30]。2級下の下級生には大宅壮一小方庸正が在学していた[26]。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという[26]。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣江馬修堀越亨生谷崎潤一郎野上彌生子徳田秋声ドストエフスキーチェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ[35][26][43]長田幹彦の描く祇園鴨川花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった[26]

同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた[35]。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している[44][45]

意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった[35]。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱く(肉体関係はない)[18][46]

川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している[18]。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている[18]。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と書き送っている[18][注釈 2]。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた[47]。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている[35]

私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。 — 川端康成「独影自命」[35]

この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった[35][48]。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の同級生であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎文通が始まった[35][49]。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎に売られた[35][注釈 3]

一高入学――伊豆一人旅へ

川端康成(1917年)

1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・満井成吉の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平から、感動したという返事をもらう[35][50][14][注釈 4]。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた[52]。その雰囲気の中、康成は行く末は〈三田早稲田文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した[18]

教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが[53]、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ上京して浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台明治大学予備校に通い始めた[54][20]。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている[54]。康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区龍土町にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った[49]

9月に第一高等学校の文科第一部類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には石濱金作酒井真人鈴木彦次郎三明永無守随憲治池田虎雄片岡義雄辻直四郎らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。寮で隣室となった石濱は、予備校で康成を一度見かけていて、その時の強い印象が忘れられなかったという[55]。川端は石濱の影響で、菊池寛芥川龍之介志賀直哉ロシア文学をよく読んだ[26]浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった[56]

1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は[47][18]、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道湯ヶ島へ旅した[17][注釈 5]。この時に時田かほる(踊子の兄)、岡田文太夫の率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った[57][13]下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた[53]

彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した[18]。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり[47]、宿泊した湯ヶ島湯本館へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた[27][18][注釈 6]

伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。三明永無と白木屋の女給を張ったりすることもあった。1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片)に住んでいた今宅へ、寄宿舎からよく遊びに行き、今の父・武平から霊智学(心霊学)の話に耳を傾けた[58]。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた[59]。6月には一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は処女作としている[60][注釈 7]

康成はが飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ[55]、この年、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女(伊藤初代)の女給と出会った。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉と長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の甥の妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった[61]。しかしマダムの台湾行に伴い店は閉店となり[注釈 8]、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った[55][5][62][63][11][注釈 9]

出発――『新思潮』と伊藤初代

菊池寛(1948年)

1920年(大正9年)に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。同級に北村喜八本多顕彰鈴木彦次郎石濱金作がいた。しばらくは、豊多摩郡東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た[64]。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる[64][26]。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる[59]。11月から川端は、浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した[10]

1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた[64]久米正雄水守亀之助加藤武雄南部修太郎中村星湖小島政二郎佐佐木茂索加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる[64]。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、本郷区根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。下宿代払いの不規則に退宿を求められる川端を友人らが助けていたという[63]。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。

この年の秋に川端は、伊藤初代(当時15歳)との結婚を決意し、石濱金作らから「独身送別会」を開いてもらった[55]。友人たちの友情に感涙した川端は[55]、9月16日に三明永無と共に、初代のいる岐阜県の西方寺に赴き、2度目の10月8日の訪問で初代と長良川湖畔の宿で結婚の約束を果たし、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った[11]。その後10月16日に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室で面会し承諾をとった[65][22][62]

川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈奇跡のやうに美しい夢〉を持ち[66]、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た[26]。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた[26][66]。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている[26]

私は幼くから孤児であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。 — 川端康成「文学的自叙伝」[26]

横光との出会い・婚約破談

横光利一(1928年)

同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は菊池寛の家で横光利一と初めて出会い、夕方、3人で牛鍋を食べにいった[26][64][17]。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、純潔な凄気〉を川端は感じた[26]。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから友達になれ〉と川端に言った[26]。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった[67][26]

その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ[68]。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、浅草のカフェ・アメリカの女給をする[69][66][5]。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している[70][注釈 10]

〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった[47][71][72][66][注釈 11]。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった[75][5]。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる[26][64]。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる[71][注釈 12]。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった[26]。12月には、『新潮』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た[76][64]

時評家として――傷心と関東大震災

1922年(大正11年)1月に「創作月評」を『時事新報』に発表し、川端は先ず文芸批評家として文壇に登場した。2月には月評「今月の創作界」を載せ、翌年まで度々作品批評を書いた。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる[64]。6月に英文学科から国文学科へ移籍した[23]。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんで出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた[39]。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念し、〈新しい文藝〉について、〈新進作家の作品は、科学者ではなく、若い娘のでなければならぬ。またこの生娘が好きだ〉と論じている[77]

また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った[47][18][32]

私は精神の打撃に遭ふと、心疲れが来る前に体の衰へるのを感じ、その徴しとして足が痛み出すのである。さうした心の潰えと体の衰へと、寒さも加はつたせゐの足の痛みで、去年の暮にも、私は湯ヶ島に逃れて来たのであつた。四緑丙午の小娘のためである。 — 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(「少年」作中)[47][18]

1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』に発表した。また、この年に犬養健と知り合った[7]

9月1日に、本郷区駒沢千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた[39][26]今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で吉原どの被災の跡を廻った[78]。川端は、〈幾百幾千〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし[79]、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子がをすることを考へた〉と綴った[79]

『文藝時代』――新感覚派と抒情

1924年(大正13年)3月に東京帝国大学国文学科を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。単位が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・藤村作の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。大宅壮一が川端と石濱金作を住家に招いて、卒業祝いにを一羽つぶして振る舞ってくれた[80]。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『新小説』に発表した。5月には、郷里の三島郡役所で徴兵検査を受けたが、体重が十八百三十(約41キログラム)で不合格となった。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという[10]

『文藝時代』同人。右から菅忠雄、川端、石浜金作中河与一池谷信三郎

10月には、横光利一片岡鉄兵中河与一佐佐木茂索今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった[注釈 13]。横光は、劇団を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという[81]。主導者の川端は、これからは宗教に代り文芸が人間救済の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「頭ならびに腹」により、同人は「新感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されようになった[83][84]

ヨーロッパに興ったダダイズムの下に「芸術の革命」が目指されたアバンギャルド運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月にプロレタリア文学派により創刊された『文藝戦線』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した[23]。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、掌編小説を掲載することが多かった。これらの小品群(掌の小説)のは、未来派やダダイズムの影響により、既成の道徳によらない自在な精神を表現したものが多く、失恋孤児根性の克服し新しい世界への飛躍の願望が秘められている[32]。こういった極く短い形式の小説を創りことの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且和歌俳句川柳のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される〉日が来ることを川端は夢みていた[85][8]

1925年(大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病日記西成郡豊里村の黒田家のから発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「十六歳の日記」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の処女作である〉としている[86]。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った[87]。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている[87]。川端は当時、本郷区林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した[88]。12月には、心霊的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に神秘性が加味されてきた[32]。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した[23]

1926年(大正15年・昭和元年)1月と2月に「伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った[87]。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)[87]。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている[87]

その時の荷物というのが、お祖母さんの家紋入りの蒲団や風呂敷、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという仏像六、七体とご先祖舎利まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。 — 川端秀子「川端康成とともに」[87]

6月には、掌編小説(掌の小説)を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され[注釈 14]。友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、大宅壮一江戸川乱歩豊島与志雄尾崎士郎岡本一平かの子夫妻などもいた。また、この年の春には、衣笠貞之助岸田国士横光利一片岡鉄兵らと「新感覚映画連盟」を結成し、川端は『狂つた一頁』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正モダニズムの成果であるこの作品は9月に公開され、ドイツ表現主義の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている[89][7]

『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚映画連盟」は立ち消えとなった[90]。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した[91]。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった[92]

湯ヶ島から杉並町馬橋へ

1927年(昭和2年)正月、前年の大晦日梶井基次郎温泉療養湯ヶ島温泉にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した[93][94][90]。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『伊豆の踊子』の単行本の校正を手伝ってもらった[95][96][94]。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている[93][97]

湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々(淀野隆三外村繁三好達治)、十一谷義三郎藤沢恒夫小野勇保田与重郎大塚金之助日夏耿之介岸田国士林房雄中河与一若山牧水鈴木信太郎尾崎士郎宇野千代萩原朔太郎らも訪れた[26][90][87]。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている[26]。3月に横光利一ら同人に、永井龍男久野豊彦、藤沢恒夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。

4月5日、上野精養軒で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ[90][95][87]。その家では、原稿料の代りに読売新聞社から貰った碁盤を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った花梨の机を譲った[98]。その机は池谷信三郎も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた[98]

同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に大宅壮一が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元次郎の娘)と秀子は、偶然同じ青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身であった[87]。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。妊娠していた妻・秀子が、6月頃(7月の芥川龍之介が自殺より少し前)、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった[87]。8月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始する。

不振時代――熱海から馬込文士村

同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の島尾子爵別荘を借りて移り住んだ[99][注釈 15]林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという[92]。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている[80]。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった[8]

当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎藤沢恒夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作の転換、今東光鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した[8]。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた[100]

宇野千代

1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが[101]、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた[99]。川端は当初、を開けて夫婦の寝部屋に覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという[99]。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った[99]。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り[99]、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した[102][注釈 16]。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった[103]。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった[80]

3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため[注釈 17]。5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した[87]。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)[87]馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎宇野千代子母沢寛萩原朔太郎室生犀星岡田三郎のほか、川端龍子小林古径伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという[26]。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した[87]

浅草時代――流行作家へ

左から君子(妻の妹)、川端、妻・秀子(自宅にて、1930年)

1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した[104]。この頃から何種類もの多くの小鳥を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという[105]。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた[注釈 18]

また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した[106]

堀辰雄

同じ10月には、堀辰雄、深田久弥永井龍男吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリージイドジョイスプルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である[8]

1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫尾崎士郎龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった[8]。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている[26]。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した[87]。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった[32]。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。

続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている[8]。4月から、書生緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した[87]。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが[107][17]、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる[32][17]。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した[注釈 19]

『禽獣』――虚無の眼差し

上野桜木町の自宅にて

1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた[22][87]。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)[75]。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った[87][注釈 20]。その申し出を断われ、その後初代は二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる[5]。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。

1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する[8]。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった[7]。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端がもつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている[108][17][109]。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった[32]

それと同時に少女小説を書くことも増え[32]、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄林房雄武田麟太郎深田久彌宇野浩二広津和郎豊島與志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一藤沢恒夫里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した[110][8] [17]

11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった[8]。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた[111]。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた[8]

『雪国』の世界と新人発掘

1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村徳田秋声正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私はの来るにつれ、の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている[26]。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県越後湯沢南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った[112]。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した[87]

8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという[113]。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている[114]

世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。 — 川端康成「新進作家」[114]

1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した[87]。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した[115]。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ[116][117]、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄名寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄名寺2丁目8-15、17,18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった[92][87][118]

1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した[87]。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた[8]。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ましながら[115]、〈真価を知られることなしに生き、さうして死〉んでゆく無名の作家たちの〈真価〉を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命ともしていた[119]。そんな川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は[120]、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。

岡本かの子(1920年頃)

6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢を訪れ、藤屋旅館に滞在した[121]信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。この年頃から写真館の主人からコンタックスを譲られ、写真をよく撮ることが多くなった[122][87]

1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、「高原」を『文藝春秋』に断続的発表開始する。

同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた[123][124][87]。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる[87][注釈 21]

少年少女の文章への親しみ

1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという[26]。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した[125]。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。

1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語っている[119][8]。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。

1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在中、熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人の死去に遭遇した。この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る[27][18]。5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする[126]。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二伊藤整らと共に発起人となった[注釈 22]。またこの年には、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島興津静岡市東海道へも旅した。

戦時下と敗戦

1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。4月には、『満州日日新聞』の招きで囲碁の催しのため、呉清源村松梢風と共に建国されたばかりの満州に赴いた[127]吉林奉天など満州各地を廻り、在満州の檀一雄田中総一郎緑川貢北村謙二郎らと座談会をし[128]新京(現・長春)北郊の寛城寺に住む日本人作家の山田清三郎らに会い、異郷で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる[129]ハルピンで一行と別れて承徳を経て北京天津大連に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも関東軍の招きで山本実彦改造社社長)、高田保大宅壮一火野葦平と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、撫順黒河ハイラルも巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大]などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した[127][14]

1942年(昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、創元社より刊行した。8月には島崎藤村志賀直哉武田麟太郎瀧井孝作らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『名人』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「日本文学報国会」の派遣作家として、長野県伊那郡松尾村の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日(太平洋戦争開戦)に際しては、戦死者の遺文を読んだ感想の「英霊の遺文」を『東京新聞』に連載発表した(同じ題名で翌年と再来年も書く)。この年、ドイツで『伊豆の踊子』が独訳された[14]

1943年(昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る[27]。以前から養女の約束していた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた[27]。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は離婚し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の晩酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。

1943年(昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。戦時中、隣組長、防火班長を経験した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『源氏物語』や中世文人の文学などの文章に親しむことが多かった[18][130]。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈大和魂といふ言葉や、大和心といふ言葉は、平安時代にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている[131]

戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、谷崎潤一郎の『細雪』や、『源氏物語』などが発禁となっていた[8]。多くの文学者が陸軍海軍の報道班員として徴用され、なかには進んで自由主義的な作家の摘発に務めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった[8]。12月25日に片岡鉄兵が旅先で死去した(50歳没)。東京駅に片岡の遺骨を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は荻窪へ向かった[132]

1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり[133]新田潤山岡荘八(新田と山岡は正式徴用の報道班員)と共に鹿児島県鹿屋航空基地に赴き、1か月滞在して特別攻撃隊神雷部隊を取材した[127][53]。〈沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた〉と川端は述懐している[127]。同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け[134]、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている[135]

5月1日には、久米正雄小林秀雄中山義秀高見順大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した[注釈 23]。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった[136]。8月15日、日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して天皇陛下玉音放送を聞いた[87]。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った[130]。その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で島木健作の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った[137]

私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。 — 川端康成「島木健作追悼」[137]

また、川端は夫人に、「これからは、日本の教育が大変なことになるよ。占領軍はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという[87]。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、敗戦のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している[127]

国を亡ぼした戦争が避けられたのか避けられなかつたのかを、敗戦後の怨み言などが解くものでない。それを知るのは後世歴史の眼でもない。かりにまた戦争中に戦争の真実を見得なかつた一人の文学者がありとすれば、その人は戦争後に戦争の真実を見得ようはずはない。だまされて戦争をしてゐた人間などは一人もゐないのである。戦争の間にも時間生命は流れ去つた。 — 川端康成「武田麟太郎と島木健作」[138]

相次ぐ友の死――日本の哀しみへ

1946年(昭和21年)1月に、木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが[139]、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた[1][140]。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管ののなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている[108]。川端は6月、三島の「煙草」を『人間』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『盗賊』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である横光利一に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった[141]。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという[142][注釈 24]

同年の3月31日には武田麟太郎が死去し(42歳没)、初めて弔辞を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、大佛次郎岸田国士らと「赤とんぼ会」を結成し、藤田圭雄編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『婦人文庫』に発表。一部がGHQにより削除された[87]。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は山口瞳)の一家がいた[143]。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と日劇宝塚歌劇を観に行ったりと仲が良かった。山口瞳の息子・正介は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている[144]

1947年(昭和22年)2月に日本ペンクラブの再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『小説新潮』に発表。約13年間を経て、ようやく『雪国』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている[130]

戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。 — 川端康成「哀愁」[130]
鎌倉市長谷の自宅にて(1946年)

12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった横光利一が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた[35]。この年から川端は、古美術への関心を深め、その後、池大雅与謝蕪村の『十便十宜』、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』などの名品の数々をコレクションすることになる[9]

1948年(昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく〉と、その死を悼んだ[67]。3月には、もう一人の恩人であった菊池寛も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の同性愛の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。

川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分のを余生とし、余生は自分のものではなく、日本の伝統のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った[35]。6月には、志賀直哉のあとを引き継ぎ、第4代日本ペンクラブ会長就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、東京裁判の判決を傍聴した[145]

鎌倉にて――『山の音』『千羽鶴』

高見順(左)と川端(1949年4月)

1949年(昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた[32]。同月、イタリアベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和国境線にはない〉というメッセージを送った[17]。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「骨拾ひ」を『文藝往来』に発表した。11月には広島市に招かれ、豊島與志雄青野季吉と3人で原爆被災地を視察した[17][146][注釈 25]。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した[147][14]

1950年(昭和25年)2月、養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・長崎を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった[146]。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている[147]。長崎では、『この子を残して』の著者・永井隆を見舞った[7]。旅の後、川端は京都に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた[146]。そして、焼失したと聞かされていた『凍雲篩雪図』(浦上玉堂の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている[148]。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、スコットランドエジンバラでの大会に募金のアピールを書き送った[17]。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「舞姫」を『朝日新聞』に連載開始する。この年、鎌倉文庫が倒産した。

林芙美子の葬儀委員長を務める川端(1951年)

1951年(昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った[61]。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に林芙美子が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日したユーディ・メニューイン訪日公演を三島由紀夫らと観に行った。1952年(昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『婦人公論』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が筑摩書房より刊行され、これにより昭和26年度芸術院賞を受賞した[149]。授賞式で天皇陛下と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて陛下が声をかけたという[150]。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った[142]。10月に大分県の招きで、竹田町(現・竹田市)九重高原を画家・高田力蔵の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『波千鳥』の背景として生かされることとなる[151]

1953年(昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『婦人画報』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に堀辰雄が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、西川流名古屋おどり舞台台本「船遊女」を書き、西川鯉三郎の振付で上演された。11月には、永井荷風小川未明らと共に芸術院会員に選出された。

左から三島由紀夫、川端、真杉静枝ユーディ・メニューイン訪日公演時)1951年

1954年(昭和29年)3月、新設された新潮社文学賞の審査委員に就任する[152]。4月には、『山の音』の単行本が筑摩書房より刊行され、これにより第7回野間文芸賞を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の短編で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから長編の骨格と主題とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り[150]、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら[150]、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った[153]

そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ偏執狂の男を主人公にした「みづうみ」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の超現実的な新しい手法と「魔界」が注目された[8]。この実験的作品は、以前の『水晶幻想』や、のちの『眠れる美女』に繋がっていくことになる[8]。5月からは、「東京の人」を『中部日本新聞』などに連載開始した。

ペンクラブへの貢献――国際的作家へ

1955年(昭和30年)1月から「ある人に生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を、巧く訳した名訳とされている[154]

1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアックエリオットシローネらと会った[155][156]。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった[157]。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った[158]

1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄県に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院した[159]。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツフランクフルトでの第30回国際ペンクラブ大会に出席した。7月に、同市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られた。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった[152]

『眠れる美女』『古都』――魔界と伝統美

1960年(昭和35年)1月から「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』に世界観に繋がり、老年にしてなお新しい創造に向かう芸術家としての川端の精進の姿勢がうかがわれるものとなった[5]。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた[17]

1961年(昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した[160][注釈 26]。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった[166][32]。11月には第21回文化勲章を受章した。

1962年(昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという[166]。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた[166]。10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。

天城峠にある川端のレリーフ

1963年(昭和38年)4月に財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという[167]。川端はその後、吉永の20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。1964年(昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去し、訃報が相次いだ。6月から「たんぽぽ」を『新潮』に断続的連載開始する(未完)。同月には、ノルウェーオスロでの第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。

1965年(昭和40年)4月から1年間、NHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映開始された。6月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『週刊朝日』に発表した。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、芹沢光治良に後をゆずった。11月12日、伊豆湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建立された[8]。この除幕式では、作中の最後に登場する〈受験生〉の少年のモデルである後藤孟(当時59歳)と再会した[53]。後藤は、蔵前高工(現・東京工大)受験のために下田港から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった[53][注釈 27]1966年(昭和41年)1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。

ノーベル文学賞受賞――美しい日本の私

1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫安部公房石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命学問芸術自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという[87]。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した[14]

1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アムルクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した[7]。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」であった[17]。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)[161][162]。1964年(昭和39年)まで毎年候補者となっていたことが、2015年時点の情報開示で判明されている[164][163][165]

翌11月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビNHKラジオで放送された[168][169]。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという[169]。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「」と「」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている[170]。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している[171]

「鈴鳴らし行く」巡礼の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな悪鬼妖魔が棲んでゐるかしれたものではない。日本の秋の夕映えの野に遠音さすの声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。 — 川端康成「夕日野」[171]

12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった[172]。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという[8]。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった[53][7]。この講演は、道元明恵西行良寛一休などの和歌が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという[172]。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した[14]。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった[171][173]

1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した[23]。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪福岡名古屋でも開催)。

6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。 11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという[174]。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった[152]

エピローグ――突然の死

1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖東山魁夷と共にその地を訪れ、植木屋の養女(正式ではない)の鹿沢縫子(仮名)と出会い、お手伝いに来てもらうように頼んだ[175][14]。6月には、台北でのアジア作家会議に出席して講演を行なった。続いて、京城ソウル)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎小田切秀雄らは、朴正熙の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月25日、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。細川護立の葬儀のため上京中だった川端はすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった[141]

1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であったという[152]。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交回復の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・秋成(男児)が誕生した[23]。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲隅田川』から拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している[176]。同月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。

1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵飛鳥田一雄山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市保田与重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和の国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ[45]。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ[177]。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した[7]。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月。1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという[45]。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた[178]

4月16日の午後2時45分過ぎ頃、「散歩に行く」と家族に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市逗子マリーナのマンションの部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナのマンションを訪れ、異変に気づいた[74]。川端はマンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、ガス自殺と報じられた。72歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、布団の中で口にくわえていた[17]。常用していた睡眠薬ハイミナール)中毒の症状があり[12]、枕元には、封を切ったばかりのウイスキーの瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという[17]。その突然の死は国内外に衝撃を与えた[17]

鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった[17]。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジした作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという[87]。またその後に、書斎の手文庫の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた[17]

川端康成生誕地の碑

翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった[179]。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位勲一等旭日大綬章に叙勲された[14]。5月27日には、日本ペンクラブ日本文芸家協会日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山斎場で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)、「大道院秀誉文華康成居士」。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。

8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された[32]。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された[45]

死後

茨木市立川端康成文学館

1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された[32]

1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷 264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された[32]

1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された[87]。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された[87]。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった[180][87]。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという[180][87]

1985年(昭和60年)に5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。

評価

特性・芸術観

新思潮』発刊、『文藝春秋』同人参加、横光利一らと共にヨーロッパ前衛文学を取り入れた新しい文学を志した『文藝時代』創刊で新感覚派の代表的作家として頭角を現し、その後は芥川賞銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は日本ペンクラブ会長、1968年(昭和43年)には、日本人で初のノーベル文学賞受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、モノローグ的、和歌に繋がる川端の作品自体は、時代の思想や世相に左右されることのない自身の芸術観に基づいた澄んだ的なものとなっている[181]

そのため、政治的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、プロレタリア文学の作家であった中野重治なども、川端の掌の小説を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、林房雄が1926年(大正15年)に左翼運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる[92][17]

伊藤整は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に復讐せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている[182]。そして、『伊豆の踊子』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「真実を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「批評眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている[182]

伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『十六歳の日記』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して[182]、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の経典を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している[182]。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「マルクシズムモダニズムとの対立と交流の中」に批評家として立ちながら、「当時の政治文学娯楽文学の両方から身をかわし、大正文壇の創った人間性に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している[182]

三島由紀夫は、川端が「温かい義侠的な」人でありながらも、過剰な親切や善意の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「達人」「孤独」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その人生は全部「」であり、川端を「永遠の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している[108]

芭蕉のあの幻住菴の記の「終に無能無才にして此の一筋につながる」といふ一句は、又川端さんの作品と生活の最後のmanifesto でもあらうが、川端さんの作品のあのやうな造型的な細部と、それに比べて、作品全体の構成におけるあのやうな造型の放棄とは、同じ芸術観と同じ生活態度から生じたもののやうに思はれる。たとへば川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがついに文体を持たぬ小説家であるといふのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。 — 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」[108]

そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「虚無的にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、ギリシャ彫刻家が不安と混沌をおそれて大理石に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無のの上にただよふ一羽の」のような、あるいは「一条の絹糸のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている[108]

勝又浩は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉[183]と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたまトンネルを越えて、まれびととなって人界を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している[184]。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、美人と少年少女と古今東西の第一級の美術建築もふくめて)と、そして自然です〉と述べていることや[185]、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし[184]、川端が『美しい日本の私―その序説』で、歌人や文人たちよりも仏教者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている[184]

諸行無常の自覚を激しく生きた人々とは、言い換えれば、この生が死者たちの上にあること、死の虚無こそがこの世の源郷なのだと知った人たちに他ならない。彼らもまた「永遠の旅人」なのだ。そして、そんな彼らが唯一信じ、とも、慰めともした自然とは、生と死、この世あの世をつなぐただ一つの媒介なのである。「霊ども」の促しで生きると、孤児宿命を自覚した川端康成の孤独は、「永遠の旅人」たちのもうひとつの伝統に、最後の慰めを求めたのである。 — 勝又浩「人の文学――川端文学の源郷」[184]

女性の描き方について

川端文学の一つの主題である「生命(いのち)への讃仰」、「処女」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。

氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。 — 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」[108]

川嶋至は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のないもの」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し[5]、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している[5]

川端にとっては、も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「地獄」を『禽獣』で見せたことについて以下のように解説している[186]

女はイヌのやうな顔をし、イヌは女のやうな顔をしてゐる。作家が自分のうちに発見した地獄が語られたのだ。かういふ発見は、作家の一生のうちにも、二度とこんなみづみづしさと新鮮さで、語られる機会はないはずである。以後、川端氏は、禽獣の生態のやうな無道徳のうちに、たえず盲目の生命力を探究する作家になる。いひかへれば、極度の道徳的無力感のうちにしか、生命力の源泉を見出すことのできぬ悲劇的作家になる。これは深く日本的な主題であつて、氏のあらゆる作品の思想は、この主題のヴァリエーションだと極言してもいい。 — 三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」[186]

羽鳥徹哉は、『夏の靴』の少女、『日本人アンナ』のアンナ、『浅草紅団』の弓子、『雪国』の駒子、『古都』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な運命に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている[3]

横光利一との比較において

中村光夫は、横光利一が「」で、その文学に内在するは『機械』に顕著なように「男同志の決闘」である「男性文学」であるのに対して、川端康成は「」であり、「女性文学」だとし[187]、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「軟体動物から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている[187]。そして中村は、生田長江が指摘したように、横光が「播種の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している[187]

根が素朴で抒情家であり、批評的才能をまったく欠いていた横光氏は、そのときどきの文壇の意識にいつもその制作の態度を直結させていたので、この点で氏の新しい外観の底には大正期の私小説作家の気風がそのまま生きていたのです。(中略)(横光氏は)実はこの古風な文士気質の所産であったのですが、川端氏は批評家としても一流であっただけに、文壇の動きの裏がいつもよく見えていたので、時流にたいして逃避のように映る態度が、実際は自分の足下の土をもっとも着実に掘ることになったのです。 — 中村光夫「川端康成」[187]

三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが[188]、横光は苦闘し、その天性の感受性をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『禽獣』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している[108][109]。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している[108][109]

人物像・エピソード

黙って凝視する癖

川端康成の鋭いは特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれ、それにまつわる話は、泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたという有名な話があるのをはじめ、様々なエピソードがある[99][108]

気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ[108]、或る若い初心な女性編集者は、初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく、2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある[189][108]。川端自身はマイペースで長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に、「どうしたんですか」と言ったとされる[189][108]。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、骨董のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという[108]

川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も、「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている[190]

初対面の女性などについて、この鋭い観察眼は長所よりも欠点を即座に感じてしまふのです。どんなに美しい人の前に出ても、あああの人にはこんな欠点があつた、などちやんと見抜いてしまふ。然しそれは決して、殊更にアラを探さうといふ意地悪さからではなくて、かう、無意識にあの鋭い眼が働くのです。私なども、始終起居を共にしながら、あの鋭い眼光には往々射すくめられるのです。 — 川端秀子「あの鋭い眼が……」[190]

堀辰雄の夫人・多恵子は、「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い[191]吉行淳之介は、「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている[192]。吉行は、川端家を訪れた或る女性が、「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている[192][172]

画家の草間彌生は、『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している[45]

梶井基次郎は、湯ヶ島温泉で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴り[97]三島由紀夫も、21歳の頃に川端の家を訪問した時の印象を、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している[193][注釈 28]

しかし三島は、川端と親しくなった以降では、川端が外国人との交遊の場で、西洋人を見つめている様子を、「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、子供が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの無垢好奇心に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或るアメリカ人の大女のおばあさんが、全く文学も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている[108]。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している[189]

私がお訪ねしたときにトースト牛乳が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸してたべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。 — 三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」[189]

北條誠は、川端の眼光について以下のように語っている[172]

物事の本質を見きわめようとするから、鋭く見えるのだ。相手を深く識ろうとするから「こわく」見えるのだ。こっちが無心で対座していれば、氏の目は日ごろのその「鋭さ」や「恐ろしさ」からは想像できないような、あたたかいやさしさをたたえて静まっている。 — 北條誠「川端康成・心の遍歴」[172]

孫の秋成が誕生し喜んだ川端は、秋成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち秋成は怖がって泣いたという[87]

なお、川端本人も自分の癖を自覚し、〈人の顔をじろじろと見る私の癖は、と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉と語っているが[22]、この癖について進藤純孝は、川端が幼い時の眼底結核の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している[17]

温かさと孤独

上記のように川端康成は、無口と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い[108]。また、訪問客が絶えず、新年会も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな久米正雄が「君は全く孤独だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、三島由紀夫はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている[108]

三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、清水次郎長のような人であるが、その行為はちっとも偽善的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている[108]。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の総理大臣」と呼ばれたこともあるという[14]

室生犀星は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている[194]

川端は、前衛画家・古賀春江と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた高田力蔵を助けて、その面倒を見ていた[3]。また、野上彰が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『ラング世界童話全集』の印税は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという[159]

舟橋聖一は、青野季吉が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている[195]

青野季吉が長逝された。(中略)その病室には、大ぜいの見舞客や見舞品が殺到したらしいが、その中で、特に川端さんが、懇ろに、を持っていったり、掛け軸をはこんだりしている様子に、私は思わず、目がしらを熱くした。昭和年代の作家として、やはり川端さんは、ずば抜けて偉いものだと思う……。そう云えば、北條民雄氏のときも、川端さんの行動に、私などは唯、あれよあれよと、敬服するだけだった。臆病な私は北條民雄と聞くだけでも、近寄れないのに、川端さんはまるで何ンでもないように、往ったり来たりしていた。 — 舟橋聖一「川端さんの寛容」[195]

その他

川端が大戦中、神雷部隊に報道班員として赴任していた時、隊に所属していた杉山幸照少尉曰く、川端は、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂では、カレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に谷田部の海軍基地に行くところであった)[196]。杉山は、自身の著作内の川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している[196]。川端は赴任前に大本営報道部の高戸大尉から、「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、のちに高戸は、「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している[197]。敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる[198]。なお、川端が特攻隊の青年たちに触れた作品には『生命の樹』があるが、一部分がGHQにより削除されたという[87]

洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に、「この酒の風味こそ京都の味」と、作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと、桑原は回想している[199]。 

日本国有鉄道国鉄)が1970年(昭和45年)から始めたディスカバー・ジャパンキャンペーンにおいて、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自らポスター用に揮毫してくれたという[200]

1971年(昭和46年)6月に、日立セントラルヒーティングのテレビコマーシャルに出演して、世間を驚かせたという[201]。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された[202]。その5分ほどの映像には、詩人のサトウハチローによる川端についての詩の朗読がついている。サトウの次男の佐藤四郎さんは、「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と話している[202]

1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという[58]。その話を聞いた今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている[58]

美術コレクション・愛用品など

川端は、古美術蒐集家として知られているが、小学校の時には画家になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らもを嗜み、日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の掛軸をはじめ、いくつもの書を遺している[9]。蒐集は古美術だけでなく、古賀春江キスリング石本正梅原龍三郎熊谷守一、無名の新人画家だった草間彌生の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている[9][45][注釈 29]。川端は美術品について以下のように語っている。

美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこのにつながつてゐるやうな思ひがいたします。(中略)美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのであります。 — 川端康成「反橋」[204]

川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、ロダンの小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった[203]。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思ひ出した〉と語っている[205]

1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで胆石で入院していた際には、病院から初めて外出したクリスマス・イブの日に古美術店へ行き、〈聖徳太子は日本のキリストではないか、使徒ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという[206][45]

中国磁器汝州の『汝官窯青磁盤』を川端が手に入れた時の挿話としては、骨董屋・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから高麗青磁だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したが、繭山龍泉堂の人ももちろん汝官窯青磁の実物は見たことはなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという[207][45]。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3枚しかないものだと確認された[207][45]。ところが川端はその後、『埴輪 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった[45]

浦上玉堂の代表作『凍雲篩雪図』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた[208][148]。それ以前に入手した与謝蕪村池大雅の合作『十便十宜』と共に、川端入手後に国宝に指定された逸品である[209][45]。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている[204]

愛用品の時計には、ウォルサムがあり、「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している[203]

川端の旧蔵品

死因について

死亡当時、死因は自殺と報じられ、それがほぼ規定となっている。その一方で、遺書がなかったことや、死亡前後の状況から事故死とする見解もある。それぞれの見解の動機や根拠を以下に挙げる。

自殺説
  1. 社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「もののあはれ」の世界に殉じたという文学的見解[4]
    川端は敗戦後に、〈日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである〉[130]という決意のもとに作家活動を続け、『美しい日本の私―その序説』では、自身にも脈々と受け継がれている古の日本人の心性を語っており、そういった日本人の心性であった「もののあはれ」の世界が、歴史の必然によって近代的世界にとって代わるのならば、自身もその滅びてゆく世界に殉じるしかないと考えていた[4]
    自殺をする年に発表された随筆『夢 幻の如くなり』には、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉の歌もあり、最後には、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結ばれていた[177]。また、この年の最後の講演も、「私もまだ、新人でいたい」という言葉で締めくくられていた[7]
    遺書はないが、生前に、〈マリリン・モンローの遺書がないというのは、無言の死は無言の言葉だと考えますね〉と語っていた[210]
  2. 交遊の深かった三島由紀夫割腹自殺(三島事件)に大きな衝撃を受けたという見解。
    川端は葬儀委員長でもあった。川端は、〈三島君の死から私は横光君が思ひ出されてならない。二人の天才作家の悲劇思想が似てゐるとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうか〉と述べていた[141]
  3. 老醜への恐怖。
    寝たきりで下の始末も自らできずに死んでいった祖父・三八郎を世話していた15歳の時の記憶が、老醜への具体的な恐怖となっていた(祖父の看病のことは短編『十六歳の日記』で描かれている)[46]
  4. 川端が好きだった家事手伝い兼運転手の女性(仮名・鹿沢縫子)が辞めることを告げられ、もっといてほしいと懇願したが、彼女が南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に帰ることになったからという、臼井吉見の小説『事故のてんまつ』(筑摩書房、1977年)からの見解[211][212]。鹿沢縫子は、伊藤初代同様に父母との縁が薄く、信州(長野県)の植木屋の養女(正式の養女ではない)となっていた娘で、川端が自宅のお手伝いとして引き取っていた女性[14]。川端は自分の養女にすることを希望していたという[14]
    ただしこの『事故のてんまつ』は、遺族より名誉毀損で提訴を受け、和解の際の条件により絶版となった。研究本的な観点からも、事実と全く異なる的外れの情報(川端や縫子、伊藤初代が部落出身者だという虚偽)や、その女性本人から直接に取材し聞き取っていない不備などを川端研究者からも指摘されている[74]。また、部落解放同盟長野県連からも差別を助長する本として当時批判された[74]。なお、この鹿沢縫子本人に、2012年(平成24年)時点で接触を試みた森本穫によると、縫子は面談取材を一切断わるとし、『事故のてんまつ』については、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」と伝えている[74]
  5. ノーベル文学賞受賞後に、小説の創作が思うようにならずに止まってしまったことなど、賞受賞による多忙や重荷による理由。川端は受賞後に、〈この受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものは、かえって重荷になり、邪魔にさえなって、いしゅくしてしまうんではないかと思っています〉と述べていた[213]。連載していた『たんぽぽ』も、受賞決定の10月から途絶えてしまい、未完となった[213]
  6. 盲腸炎の手術をしたり、体調が思わしくなかったことと、立野信之志賀直哉、親しかった従兄・秋岡義愛の死が立て続けにあり、身も心も揺さぶられて気がめいってしまい、一瞬の魔がさしてしまったという理由[87]
事故死説
  1. 以前より睡眠薬を常用していた。死亡時に睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があったとされる[12]
  2. 川端が日本ペンクラブ会長時に信頼を寄せた副会長だった芹沢光治良は、追悼記『川端康成の死』で、自殺ではなかったとする説を述べている[214]。川端は、同年秋に開催の日本文化研究国際会議(日本ペンクラブ主催)の準備でも責任者として多忙であった。

家族・親族

祖父・川端三八郎(庄屋、戸長、易学研究)
天保12年(1841年)4月10日生 – 1914年(大正3年)5月25日没
吉川定右衛門(?-1849年没)とマサの次男として出生。兄は直蔵(?-1873年没)。異母妹はシュウ(?-1915年没)。祖父は吉川源右衛門。
吉川家は、現在の大阪府茨木市西河原にある旧家で、代々二千石の造り酒屋(自分の田で収穫した酒米で醸造)。
祖母・峯は川端家出身で、川端家27代目・川端三右衛門幾康(1785年生-1861年没)の姉。幾康の長男で川端家28代目・時次郎(1817年生-1840年没)が天保11年(1840年)に24歳で死去したため、峯の幼い孫・吉川三八郎が川端家に養子に貰われ、幾康の長男として入籍し、文久元年(1860年)1月11日に川端家を相続。ちなみに幾康と峯の弟・川端玄了は、黒田家のかもと結婚し、2代目・黒田善右衛門となる。
川端家の原籍地は、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市大字宿久庄1丁目11-25)。檀那寺の極楽寺は、もとは如意寺の一坊舎だった。
三八郎は、嘉永7年(1854年)頃に見習庄屋となり、安政6年(1859年)に庄屋となる。明治になってからは戸長を務めるが、の栽培や寒天製造などの事業に失敗して、田や山を二束三文で売る。易学に凝り、家相論「講宅安危論」を出版しようとしたが叶わず。漢方薬研究もし、「東村山龍堂」という屋号で内務省から許可を得た数種類の漢方薬を販売しようとしたが、薬包紙を印刷したまでで立ち消えとなる。雑記「要話雑論集」もある。
檀那寺(極楽寺)の住職・服部峯雲和尚から和歌を学び、「萬邦」と号していた。随想集「要話雑論集」の原稿や、「石堂」と号して描いた画手本を遺している。
三八郎は、黒田孝(1837年生-1860年没)と結婚し、長男・恒太郎を儲けるが、まもなく孝が死去し、孝の妹・カネを後妻とする。カネとの間に二男(栄吉、富三郎)を儲ける。1871年(明治4年)生れの富三郎は1878年(明治11年)に夭折(7歳没)。
祖母・カネ
天保10年(1839年)10月10日生 – 1906年(明治39年)9月9日没
旧姓は黒田。2代目・黒田善右衛門(玄了)(1784年生-1852年没)とかもの次女。4人姉弟(孝、カネ、民三郎、トミ)の2人目。弟・民三郎は3代目・黒田善右衛門。
黒田家は、大阪府西成郡豊里村大字3番(現・大阪市東淀川区豊里6丁目-2-25)の資産家。「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれ、広壮な家を構える大地主。現在地は関西電力の寮がある[17]
カネの母・かもは黒田家出身で、父・玄了は川端三平の次男で、黒田家に婿養子となった人物。玄了と川端三右衛門幾康(三八郎の養父)は兄弟。
カネは、姉・孝の死去により、川端三八郎の後妻となって二男(栄吉、富三郎)を儲ける。
父・川端栄吉(医師)
1869年(明治2年)1月13日生 - 1901年(明治34年)1月17日没
川端三八郎とカネの次男(異母兄・恒太郎が長男)。
東京市本郷区湯島の医学校・済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業。大阪府東成郡天王寺桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山病院の勤務医となり、のちに難波北詰(現・北区若松町)の高橋医院の副院長の経歴あり。1891年(明治24年)5月に医術開業試験に合格し、開業医の資格を得る。肺を病んでおり虚弱であった。日本橋区西河岸町の西宮淳園塾にいたとされ、浪華儒家寺西易堂に学び、漢詩文人画を習った。「谷堂」を号した。
兵役免除の特典(長男は免除される)を利用するため一時、名目上の養子で宮本姓としていたが、1894年(明治27年)に異母兄・恒太郎の死去により、恒太郎の妻であった黒田ゲンと事実上の夫婦となり長女・芳子を儲けたため、1896年(明治29年)6月5日に川端姓に戻った。黒田ゲンは黒田分家を廃家とし、1898年(明治31年)7月9日に川端栄吉とゲンは結婚入籍。その後、長男・康成を儲ける。
栄吉は、1897年(明治30年)9月1日に、大阪市西区北堀江下通6丁目第30、31番屋敷に医院を開業。翌1898年(明治31年)5月に東区安土町2丁目97番屋敷(現・中央区安土町)に転移。同年9月に北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市天神橋)に転移。その後、西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・東淀川区大道町)に転移し、その地で肺病(結核)のため死去(32歳没)。戒名は「智光院礼誉義岳良仁禅定門」。
母・ゲン
元治元年(1864年)7月27日生 - 1902年(明治35年)1月10日没
黒田家出身。3代目・黒田善右衛門(民三郎)(1841年-1880年)とエンの長女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の2番目。川端カネとは、伯母の関係となる。
1889年(明治22年)10月に川端恒太郎(川端家の長男)と結婚するが、恒太郎の死去により、その異母弟・川端栄吉と再婚。一男一女(芳子、康成)を儲ける。その後、夫・栄吉と同じ結核で死去(37歳没)。
姉・芳子
1895年(明治28年)8月17日生 – 1909年(明治42年)7月21日没
川端栄吉とゲンの長女。両親の死後、母親のすぐ下の妹・タニの婚家・秋岡家に預けられ、弟・康成と離ればなれとなる。13歳で夭折。
伯父:恒太郎(村長)
安政5年(1858年)7月5日生 - 1894年(明治27年)4月14日没[注釈 30]
川端三八郎と孝の長男。栄吉の腹違いの兄。生後間もなく実母・孝が死去し、叔母のカネが継母となる。改名前の名は「常太郎」。
1885年(明治18年)5月、27歳の時に、『清国道中里程図誌』という書物を二酉楼から発刊した。
家督を異母弟・栄吉に譲り、黒田ゲンと1889年(明治22年)10月に結婚。黒田家に入夫して分家を立て、西成郡豊里村3番の村長となる。ゲンとの間に子供のないまま35歳で死去。
伯父・黒田秀太郎
文久2年(1862年)生 – 1918年(大正7年)4月没
ゲンの兄。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの長男。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の1番目。
前妻との間に、長男・忠義を儲ける。忠義は松本家の養子となり、茶舗松本軒の主人となる。後妻・コトとの間には、二男四女(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)を儲ける。次男・伝治(1901年生)は、梶井基次郎と中学の同級生。
従兄・黒田秀孝
1896年(明治29年) - 1969年(昭和44年)6月28日没
黒田秀太郎とコトの長男。6人姉弟(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)の3番目。ゲンの
1920年(大正9年)1月に権野富江(1896年生-1983年没)と結婚し、三女(和子、昭子、政子)を儲ける。妻・富江は、勝雅の妹。勝雅は小寺家の養子となる。
秀孝は、毎晩のように人力車で大阪の北新地に遊びに行っては帰る遊び人。よその女に産ませた男児・鬼追明夫もいる。鬼追明夫は、のち大阪市立大学を卒業し、弁護士となって日弁連会長、整理回収機構社長を務める。
秀孝の遊蕩や投機の失敗で「黒善」は没落。1925年(大正14年)に家屋敷を手放し、西成区田畑通2丁目11番地へ転居。
富江と1935年(昭和10年)頃に別居し、三女・政子は富江が連れていった。富江と離婚後、秀孝は1945年(昭和20年)に再婚する。再婚相手のスミ子は阿倍野区阪南町2丁目でアパート常盤荘を営む。
叔母・秋岡タニ
慶応3年(1867年)生 – 1925年(大正14年)1月没
ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの次女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の3番目。
秋岡義一(1863年生-1925年3月31日没)に嫁ぎ、一男一女(義愛、俊子)を儲ける。秋岡家は大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)にある素封家。秋岡義一は、1888年(明治21年)に、私立天王寺養蚕伝習所を設立し、翌年1889年(明治22年)、27歳で鯰江村会議員から村長となり、1891年(明治24年)に東成郡選出の大阪府議会議員、1894年(明治27年)に衆議院議員に当選。その後1912年(大正元年)に京阪電鉄監査役、1914年(大正3年)に議員を終えて、1919年(大正8年)に大阪送電株式会社監査役、1922年(大正11年)に北大阪電鉄取締役社長となる。
従兄・秋岡義愛
1890年(明治23年)生 - 1972年(昭和47年)2月25日没
秋岡義一とタニの長男。芝中学慶応大学卒業。作家・南部修太郎と同級生だったため、康成に南部を文通相手として紹介する。
原田元治郎(実業家)の娘・原田綾子と結婚し、原田綿織機に勤務。二男二女(義彦、達子、義之、瑛子)を儲ける。次男・義之(毎日新聞記者)は、康成のノーベル文学賞授賞式に同行した。康成は当初、次女・瑛子を養女に貰いたいと考えていた[215]
従姉・秋岡俊子
1894年(明治27年)生 - 没年不詳
秋岡義一とタニの長女。義愛の妹。三輪田高等女学校を卒業。康成の紹介で、西川義方と再婚。
伯母・田中ソノ
安政5年(1858年) - 1942年(昭和17年)10月24日没
ゲンの異母姉。川端家の養女となり、川端家から田中家に嫁いだ。
康成の祖母・カネの死後しばらく、康成と三八郎の面倒を見ていた。康成は、この伯母を慕っており、『父の名』(1943年)で描いている。
従兄・田中岩太郎(歯科医)
生年月日没年不詳
田中ソノの次男。上京し、東京府浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)で歯科医を開業。母が未亡人となったため、母を自宅に呼び同居。この家に康成は居候しながら受験勉強し、第一高等学校へ入学。
岩太郎は、康成と同年齢と女性と結婚し、長男・洋太郎を儲ける。
叔母・小寺ノブ
生年月日没年不詳
ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの三女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の4番目。
小寺秀松と結婚するが、子供のないまま間もなく死去。小寺秀松は後妻・志津を迎えるが子供が生れず、権野家から勝雅を養子にもらう。権野勝雅の妹は富江。富江は黒田秀孝と結婚。
叔父・山田豊蔵(金箔師)
1872年(明治5年) – 1951年(昭和26年)没
ゲンの異母弟。金箔師・山田甚助に養子となり、五世山田甚助となる。浅草北清島町37に居住。風変りな叔父として『父の名』(1943年)で描かれている。歌沢に凝り、「山田金箔児」の名でレコードを出していた頃は、熱海市天神町に居住。長男・豊明(1919年生-1945年没)は、フィリピンで戦死。
妻・川端秀子(戸籍名:ヒテ)
1907年(明治40年)2月8日生 – 2002年(平成14年)9月7日没
青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)の出身。旧姓は松林。松林慶蔵(1875年-1924年)の次女。5人兄妹(桂二、長女、秀子、君子、喜八郎)の3番目。父・松林慶蔵は当初は鶏卵の商いをしていたが、子供が成長した後は消防団の小頭の仕事を務め、大正13年5月16日に、隣町の火事の消防の際に死去。50歳で殉職。
父の死後、秀子は東京にいる兄を頼りに上京し、お手伝いとして奉公先で働いていたが、なかなか約束通りに夜学に通わせてもらえず、文藝春秋の社員募集に応募したところ、そこの面接社員の口ききにより、菅忠雄(『オール讀物』編集長)の家で働くことになる[87]。康成の同人でもある菅忠雄はその頃、最初の妻と原宿に住んでいたが、その後に新宿区市ヶ谷左内町26へ転居。1925年(大正14年)5月に、そこで川端と秀子は出会う[87]
養女・川端政子(通称:麻紗子)
1932年(昭和7年)2月23日生 -
黒田秀孝と富江の三女。姉は和子、昭子。母・富江の旧姓は権野。権野家は代々、代官を務めた家。
1935年(昭和10年)頃から、母・富江は3歳の政子を連れて別居し、その後に離婚。富江は心臓弁膜症で病弱であったため、1938年(昭和13年)頃、川端康成に政子を養女に出す希望を打診。
1943年(昭和18年)5月3日に、康成と秀子の養女となる。湘南白百合学園高校卒業。
1967年(昭和42年)7月に山本香男里と結婚。川端家を継ぎ、一男一女(あかり、秋成)を儲ける。
婿・川端香男里ロシア文学者名誉教授
1933年(昭和8年)12月24日生 -
旧姓は山本。英文学者山本政喜(柾不二夫)の三男。5人兄弟(阿母里、ひかり、思外里、香男里、みどり)の4番目。妹は若桑みどり
東京大学教養学部教養学科フランス文科を卒業し、同大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻進学。1960年よりパリ大学に留学。1963年に北海道大学文学部講師、1965年よりカレル大学モスクワ大学に留学。
1967年(昭和42年)7月に川端政子と結婚し、婿養子となる。川端康成記念会理事長を務める。
孫・あかり
1969年(昭和44年)1月29日生 –
政子と香男里の間に生まれた長女。
孫・秋成
1971年(昭和46年)10月9日生 –
政子と香男里の間に生まれた長男。

略年譜

  • 1899年(明治32年) - 6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市天神橋1丁目16-12)で、開業医の父・栄吉と母・ゲンの長男として生まれる。その後、自宅が大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に転居。
  • 1901年(明治34年) - 2歳。1月に父・栄吉が肺病(結核)で死去(32歳没)。母・ゲンの実家・西成郡豊里村大字3番(現・東淀川区豊里6丁目2-25)のに移る。
  • 1902年(明治35年) - 3歳。1月に母・ゲンが結核で死去(37歳没)。祖父・三八郎と祖母・カネに連れられ、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市大字宿久庄1丁目11-25)に移る。姉・芳子は母の妹・タニの婚家の秋岡家の大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)に預けられる。
  • 1906年(明治39年) - 7歳。4月に豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学。9月に祖母・カネが死去(66歳没)。
  • 1909年(明治42年) - 10歳。7月に姉・芳子が死去(13歳没)。
  • 1912年(明治45年・大正元年) - 13歳。3月に尋常小学校を卒業。4月に旧制茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)に首席で入学。
  • 1913年(大正2年) - 14歳。小説家を志し、文芸雑誌を読みあさる。詩、短歌、俳句、作文などを試作。亡き父の号を付け『第一谷堂集』『第二谷堂集』を編む。
  • 1914年(大正3年) - 15歳。5月に祖父・三八郎が死去(73歳没)。孤児となり、8月に豊里村の母の実家(伯父・黒田秀太郎)に引き取られる。祖父の病床記録を綴った日記は、のちの『十六歳の日記』となる。
  • 1915年(大正4年) - 16歳。3学期の3月から茨木中学校の寄宿舎に入る。雑誌『文章世界』などに作品投稿を試みる。
  • 1916年(大正5年) - 17歳。4月に寄宿舎の室長となる。下級生の室員・小笠原義人に同性愛的な愛情を持つ。地元新聞『京阪新報』に短歌や短編などを載せてもらう。秋に原籍地の宿久庄の家屋敷が分家筋の川端岩次郎に売却される。
  • 1917年(大正6年) - 18歳。3月、茨木中学校を卒業。浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)に住む従兄・田中岩太郎を頼りに上京し予備校に通う。9月に旧制第一高等学校文科第一部乙類(英文科)に入学し、寮生活に入る。同級の石濱金作鈴木彦次郎酒井真人三明永無らと知り合う。
  • 1918年(大正7年) - 19歳。10月末に伊豆を一人旅する。時田かほる(踊子の兄)、岡田文太夫が率いる旅芸人の一行と道連れとなり、14歳の踊子・加藤たみの無垢な好意に癒される。
  • 1919年(大正8年) - 20歳。今東光と知り合う。6月に校内雑誌に処女作『ちよ』を発表。本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)のカフェ・エランで、女給の13歳の少女・伊藤初代と知り合う。
  • 1920年(大正9年) - 21歳。3月に第一高等学校を卒業。9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。石濱金作、鈴木彦次郎、今東光らと同人誌の発行を計画し、菊池寛の承諾を得る。
  • 1921年(大正10年) - 22歳。2月に同人誌、第6次『新思潮』発刊。4月に『招魂祭一景』を発表。10月に15歳の伊藤初代と婚約するが、すぐに破談する。菊池寛を介し、芥川龍之介久米正雄横光利一と知り合う。
  • 1922年(大正11年) - 23歳。6月に国文学科に転科。夏に伊豆湯ヶ島で、107枚の草稿『湯ヶ島での思ひ出』を執筆し、伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴る。
  • 1923年(大正12年) - 24歳。1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』の同人に加入。9月に本郷区駒込千駄木町(現・文京区千駄木1-22)の下宿関東大震災に遭う。今東光と一緒に芥川龍之介を見舞い、3人で被災の跡を歩く。この年、犬養健と知り合う。
  • 1924年(大正13年) - 25歳。3月に東京帝国大学国文科を卒業。10月に横光利一、中河与一らと同人誌『文藝時代』を創刊。この同人誌に集まった作家は新感覚派と呼ばれた。
  • 1925年(大正14年) - 26歳。8月-9月に『十六歳の日記』を発表。母の実家の従兄・黒田秀孝が投機の失敗で家屋敷を手放す。1年の大半を伊豆の湯ヶ島本館で過ごす。
  • 1926年(大正15年・昭和元年) - 27歳。1月-2月に『伊豆の踊子』を発表。4月に新宿区市ヶ谷左内町26の菅忠雄(雑誌『オール讀物』の編集長)の留守宅に移り、住み込みの手伝いの松林秀子と実質的な結婚生活に入る。衣笠貞之助、横光利一、片岡鉄兵らと「新感覚映画連盟」を結成し、映画『狂つた一頁』のシナリオを書き映画上映する。掌の小説を収録した処女作品集『感情装飾』を6月に刊行。
  • 1927年(昭和2年) - 28歳。前年大晦日に湯ヶ島に転地療養に来た梶井基次郎を湯川屋に紹介する。4月から東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)に秀子と移住。5月に『文藝時代』が終刊。8月から初の長編新聞小説『海の火祭』を連載発表。12月に熱海小沢の島尾子爵別荘を借りて翌春5月まで居住。
  • 1928年(昭和3年) - 29歳。家賃滞納で熱海を追われ、尾崎士郎に誘われて5月に荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移り、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に転居。馬込文士村での交友を深める。
  • 1929年(昭和4年) - 30歳。4月に『近代生活』の同人に加入。9月に下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居。一高時代以来、再び浅草に親しむ。10月に堀辰雄らが創刊した『文學』の同人となる。12月から『浅草紅団』の新聞連載開始。カジノ・フォーリー、浅草ブームを起こす。
  • 1930年(昭和5年) - 31歳。中村武羅夫、尾崎士郎らの十三人倶楽部に加入。4月に掌の小説集『僕の標本室』を刊行。菊池寛の文化学院文学部長就任に伴い、講師として週一回出講。日大の講師もする。小鳥を多く飼い始める。
  • 1931年(昭和6年) - 32歳。1月と7月に『水晶幻想』を発表。4月に上野桜木町36番地に転居。10月にカジノ・フォーリーの踊子・梅園龍子を引き抜き、本格的なバレエ英会話を習わせる。画家・古賀春江と知り合う。12月2日に松林秀子との婚姻届を提出。
  • 1932年(昭和7年) - 33歳。1月から『父母への手紙』を断続的に連載発表。2月に『抒情歌』を発表。3月上旬に桜井初代(伊藤初代)の訪問を受け、約10年ぶりの再会をする。3月に梶井基次郎が死去。
  • 1933年(昭和8年) - 34歳。7月に『禽獣』を発表。10月に小林秀雄宇野浩二林房雄らと雑誌『文學界』を創刊。9月に古賀春江が死去。12月に随筆『末期の眼』を発表。
  • 1934年(昭和9年) - 35歳。文芸懇話会の結成に参加し会員となる。5月に随筆『文学的自叙伝』を発表。6月に初めて新潟県越後湯沢南魚沼郡湯沢町)に旅する。8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄から手紙を受け取り文通が始まる。同月に越後湯沢を再訪し、芸者・松栄(本名・小高キク)に会う。
  • 1935年(昭和10年) - 36歳。1月に芥川賞直木賞が創設され、芥川賞の銓衡委員となる。同月に「夕景色の鏡」を皮切りに『雪国』の各章の断続的発表が始まる。12月に林房雄の誘いで林の隣家の神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄名寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄名寺2丁目8-15、17,18のいずれか)に転居。
  • 1936年(昭和11年) - 37歳。2月に北條民雄の『いのちの初夜』を世に紹介し、6月に岡本かの子の『鶴は病みき』を紹介する。8月に明治製菓の招待で、初めて軽井沢を訪れる。12月に『夕映少女』を発表。
  • 1937年(昭和12年) - 38歳。5月に鎌倉市二階堂325に転居(家主は詩人蒲原有明)。6月に『雪国』を刊行し、これにより文芸懇話会賞を受賞。賞金で軽井沢1307番地に別荘を購入する。12月に北條民雄が死去。
  • 1938年(昭和13年) - 39歳。7月-9月に、21世本因坊秀哉名人の引退の観戦記を新聞連載。10月に「日本文学振興会」(理事長・菊池寛)の理事となる。
  • 1939年(昭和14年) - 40歳。小学生の綴方運動に深く関わり、5月に「少年文学懇話会」を結成。藤田圭雄と共に少年少女の作品の選考した『模範綴方全集』が刊行。7月から少女小説『美しい旅』を連載開始。
  • 1940年(昭和15年) - 41歳。1月に『母の初恋』を発表。熱海滞在中に本因坊秀哉名人の死去に遭遇。5月に、『美しい旅』の取材のため、盲学校聾唖学校を参観。10月に「日本文学者会」発足の発起人となる。
  • 1941年(昭和16年) - 42歳。4月に『満州日日新聞』の招きで呉清源らと共に満州に行く。9月にも関東軍の招きで山本実彦高田保大宅壮一と共に満州に再び渡航。10月から自費で北京大連などを旅行中、開戦間近の極秘情報により急遽11月末に日本に帰国。
  • 1942年(昭和17年) - 43歳。8月に島崎藤村志賀直哉武田麟太郎らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となる。本因坊秀哉の観戦記と死を元にした『名人』の断続的発表が始まる。10月に「日本文学報国会」作家として、長野県の農家を訪問。12月8日開戦記念日に『英霊の遺文』を発表(翌年、翌々年も)。
  • 1943年(昭和18年) - 44歳。3月に、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を養女にするため大阪に行き、5月に入籍。5月から『故園』を連載発表。
  • 1943年(昭和19年) - 45歳。『故園』、『夕日』などで第6回菊池寛賞を受賞。戦時中、隣組長、防火班長を経験する。
  • 1945年(昭和20年) - 46歳。4月に海軍報道班員として、鹿児島県鹿屋航空基地に1か月滞在して特別攻撃隊を取材する。5月に久米正雄小林秀雄高見順らと共に、鎌倉在住の文士の蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を開店。8月に島木健作が死去。9月に大同製紙の申し入れで、鎌倉文庫が出版社として設立。重役の一員として、事務所を構えた東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階に通う。
  • 1946年(昭和21年) - 47歳。1月に鎌倉文庫の雑誌『人間』を創刊。6月に新人作家・三島由紀夫の短編『煙草』を紹介する。3月に武田麟太郎が死去し、初めて弔辞を読む。7月に『生命の樹』を発表。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居。ここが終生の住いとなる
  • 1947年(昭和22年) - 48歳。10月に随筆『哀愁』を発表。この頃から古美術への関心が高まる。日本ペンクラブの再建総会に出席。12月に横光利一が死去。
  • 1948年(昭和23年) - 49歳。1月に横光利一の弔辞を読む。3月に菊池寛が死去。5月から『少年』を連載発表。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が始まり、「あとがき」(のちに『独影自命』)で半生を振り返る。6月に志賀直哉のあとを継いで、第4代日本ペンクラブ会長に就任。11月に東京裁判を傍聴。12月に完結版『雪国』を刊行。
  • 1949年(昭和24年) - 50歳。4月に芥川賞が復活し、引き続き委員となる。5月から鎌倉を舞台とした『千羽鶴』、9月から『山の音』の各章の断続的発表が始まる。
  • 1950年(昭和25年) - 51歳。2月に『天授の子』を発表。4月にペンクラブ会員らと原爆被災地の広島・長崎を慰問視察。ペンクラブ国際大会に初の日本代表を送るため、エジンバラでの大会へ募金のアピールを書く。12月から『舞姫』を連載発表。
  • 1951年(昭和26年) - 52歳。2月に伊藤初代が死去(44歳没)。5月に『たまゆら』を発表。6月に林芙美子が死去し、葬儀委員長を務める。
  • 1952年(昭和27年) - 53歳。2月に『千羽鶴』で昭和26年度芸術院賞を受賞。10月に大分県の招待で、九重町の高原を画家・高田力蔵の案内で旅する。
  • 1953年(昭和28年) - 54歳。5月に堀辰雄が死去し、葬儀委員長を務める。11月に永井荷風小川未明らと共に芸術院会員に選出される。
  • 1954年(昭和29年) - 55歳。1月から『みづうみ』、5月から『東京の人』を連載発表。4月に『山の音』で第7回野間文芸賞を受賞。
  • 1955年(昭和30年) - 56歳。1月から『ある人に生のなかに』を断続的連載発表。
  • 1956年(昭和31年) - 57歳。英訳『雪国』がアメリカで出版。3月から『女であること』を連載発表。
  • 1957年(昭和32年) - 58歳。3月に国際ペンクラブ執行委員会出席のため松岡洋子と共に渡欧。各国を東京大会出席要請願いに廻る。9月に第29回国際ペンクラブ大会が日本(京都と東京)で開催され、主催国会長として大役をこなす。
  • 1958年(昭和33年) - 59歳。2月に国際ペンクラブ副会長に選出。3月、東京国際ペンクラブでの尽力により、第6回(1958年)菊池寛賞を受賞。11月に胆嚢炎胆石)で東大病院に入院。
  • 1959年(昭和34年) - 60歳。5月にフランクフルトでの第30回国際ペンクラブ大会に出席し、ゲーテ・メダルを贈られる。
  • 1960年(昭和35年) - 61歳。1月から『眠れる美女』を連載発表。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会に出席。フランス政府から芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られる。
  • 1961年(昭和36年) - 62歳。京都に家を借りて滞在し、1月から『美しさと哀しみと』、10月から『古都』を連載発表。11月に第21回文化勲章を受賞。
  • 1962年(昭和37年) - 63歳。睡眠薬の禁断症状により2月に東大冲中内科に入院。10月に世界平和アピール七人委員会に参加。11月に『眠れる美女』で第16回毎日出版文化賞を受賞。
  • 1963年(昭和38年) - 64歳。4月に財団法人・日本近代文学館が発足し、監事に就任。近代文学博物館委員長となる。8月から『片腕』を連載発表。
  • 1964年(昭和39年) - 65歳。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去。6月に オスロでの第32回国際ペンクラブ大会に出席。同月から『たんぽぽ』の連載開始(未完)。
  • 1965年(昭和40年) - 66歳。4月からNHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映される。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務める。10月に日本ペンクラブ会長を辞任(後任は芹沢光治良)。11月、伊豆湯ヶ島に『伊豆の踊子』の文学碑が建立。作中のモデルの受験生・後藤孟と再会。
  • 1966年(昭和41年) - 67歳。1月から3月まで肝臓炎で東大病院中尾内科に入院。4月に日本ペンクラブから胸像を贈られる。
  • 1967年(昭和42年) - 68歳。2月に三島由紀夫安部公房石川淳らと中国文化大革命に反対する声明文を出す。4月に日本近代文学館が開館され名誉顧問に就任。7月に養女・政子が山本香男里と結婚。山本を入り婿に迎える。
  • 1968年(昭和43年) - 69歳。2月に「非核武装に関する国会議員達への請願」に署名。6月に日本文化会議に参加。6月-7月、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務める。10月にノーベル文学賞受賞が決定し、12月にストックホルムの授賞式に出席し、『美しい日本の私―その序説』と題する記念講演を行なう。同月、郷里の茨木市名誉市民に推される。
  • 1969年(昭和44年) - 70歳。1月に初孫・あかり(女児)が誕生。4月にアメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選出。5月にハワイ大学で日本文学の特別講演『美の存在と発見』を行ない、名誉文学博士号を贈られる。9月に文化使節としてサンフランシスコで特別講演『日本文学の美』を行なう。6月に従兄・黒田秀孝が死去。同月、鎌倉市名誉市民に推される。10月、茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務める。
  • 1970年(昭和45年) - 71歳。6月に台北でのアジア作家会議に出席。続いて京城ソウル)での第38回国際ペンクラブ大会に出席。11月に三島由紀夫が割腹自決(三島事件)。
  • 1971年(昭和46年) - 72歳。1月に三島由紀夫の葬儀委員長を務める。3月-4月に東京都知事選挙秦野章の応援に立つ。9月に世界平和アピール七人委員会から日中国交回復の要望書を提出。10月に2番目の孫・秋成(男児)が誕生。同月、立野信之の臨終に会い、日本文化研究国際会議(翌年11月開催)の運動準備を託され、年末にかけて募金活動に奔走し健康を害する。11月に最後の小説『隅田川』を発表。同月に日本近代文学館の名誉館長に推される。
  • 1972年(昭和47年) - 2月に従兄・秋岡義愛の葬儀に参列。3月に盲腸炎で入院手術。4月16日の夜、逗子マリーナのマンションの仕事部屋でガス自殺。長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見される。72歳で永眠。

主要作品

作文・習作

  • 箕面山(1911年)
  • 読書(1912年1月)
  • 友人に登山を勧む(1913年)
  • 桃山御陵参拝記(1913年)
  • 大正二年と三年(1913年)
  • 春夜友を訪ふ(1914年3月)
  • 弔詩(1914年)
  • 白骨を迎ふ(1914年)
  • 藤村詩集(1914年)
  • 詩人たらむ(1914年)
  • 雨だれ石を穿つ(1916年)
  • H中尉に(1916年3月)
  • 淡雪の夜(1916年)
  • むらさきの茶碗(1916年)
  • 月見草の咲く夕(1916年)
  • 雪報(1916年)
  • 自由主義の真義(1916年)
  • 青葉の窓より(1916年)
  • 少女に(1916年)
  • 永劫の行者(1916年)
  • 生徒の肩に柩を載せて(1917年) - のち1927年3月に「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し再発表。1949年に「師の柩を肩に」として『東光少年』に再発表。

小説・自伝小説

※ 太字は中編・長編小説

  • ちよ(1919年6月)
  • ある婚約(1921年2月)
  • 招魂祭一景(1921年4月)
  • 油(1921年7月)
  • Oasis of Death(1922年1月)
  • 一節(1922年3月)
  • 湯ヶ島での思ひ出(1922年夏)
  • 帽子事件(1922年9月)
  • 精霊祭(1923年4月)
  • 男と女の荷車(1923年4月)
  • 会葬の名人(のち「葬式の名人」と改題)(1923年5月)
  • 南方の火(1923年7月) - 改稿同名作が他に2編あり。
  • 日向(1923年11月)
  • 篝火(1924年3月)
  • 生命保険(1924年8月)
  • 弱き器(1924年9月)
  • 火に行く彼女(1924年9月)
  • 鋸と出産(1924年9月)
  • バッタと鈴虫(1924年10月)
  • 非常(1924年12月)
  • 髪(1924年12月)
  • 港(1924年12月)
  • 金糸雀(1924年12月)
  • 写真(1924年12月)
  • 白い花(1924年12月)
  • 月(1924年12月)
  • 十七歳の日記(のち「十六歳の日記」と改題)(1925年8月-9月)
  • 落葉と父母(のち「孤児の感情」と改題)(1925年2月)
  • 青い海 黒い海(1925年8月)
  • 二十年(1925年11月)
  • 朝鮮人(のち「海」と改題)(1925年11月)
  • お信地蔵(1925年11月)
  • 滑り岩(1925年11月)
  • 万歳(1925年12月)
  • 有難う(1925年12月)
  • 白い満月(1925年12月)
  • 伊豆の踊子(1926年1月-2月)
  • 白い靴(のち「夏の靴」と改題)(1926年3月)
  • 母(1926年3月)
  • 心中(1926年4月)
  • 龍宮の乙姫(1926年4月)
  • 処女の祈り(1926年4月)
  • 霊柩車(1926年4月)
  • 雀の媒酌(1926年4月)
  • 伊豆の帰り(1926年6月)
  • 神います(1926年7月)
  • 屋上の金魚(1926年8月)
  • 祖母(1926年9月)
  • 大黒像と駕籠(1926年9月)
  • 彼女の盛装(1926年9月)
  • 蚕女(1926年9月)
  • 犠牲の花嫁(1926年10月)
  • 五月の幻(1926年12月)
  • 女(1927年2月)
  • 恐ろしい愛(1927年2月)
  • 歴史(1927年2月)
  • 倉木先生の葬式(1927年3月)
  • 美しい!(のち「美しい墓」と改題)(1927年4月)
  • 梅の雄蕊(1927年4月)
  • 柳は緑 花は紅(1927年5月) - 「梅の雄蕊」と併せて「春景色」
  • 結婚なぞ(1927年5月)
  • 暴力団の一夜(のち「霰」と改題)(1927年5月)
  • 馬美人(1927年5月)
  • 百合の花(のち「百合」と改題)(1927年5月)
  • 処女作の崇り(1927年5月)
  • 神の骨(1927年7月)
  • 海の火祭(1927年8月-12月)
  • 薔薇の幽霊(1927年10月)
  • 盲目と少女(1928年2月)
  • 死者の書(1928年5月)
  • 母国語の祈祷(1928年5月)
  • 故郷(1928年6月)
  • 叩く子(1928年9月)
  • 笑はぬ男(1928年)
  • 貧者の恋人(1928年)
  • 日本人アンナ(1929年3月)
  • 死体紹介人(1929年4月-1930年8月)
  • 顕微鏡怪談(1929年8月)
  • 踊子旅風俗(1929年9月)
  • 温泉宿(1929年10月)
  • 浅草紅団(1929年12月-1930年2月)
  • 花のある写真(1930年4月)
  • 鶏と踊子(1930年5月)
  • 縛られた夫(1930年10月)
  • 針と硝子と霧(1930年11月)
  • 白粉とガソリン(1930年)
  • 浅草日記(1931年1月-2月)
  • 水晶幻想(1931年1月・7月)
  • 落葉(1931年12月)
  • 父母への手紙(1932年1月-9月。1933年9月。1934年1月)
  • 抒情歌(1932年2月)
  • 雨傘(1932年3月)
  • 喧嘩(1932年3月)
  • 化粧(1932年4月)
  • 妹の着物(1932年4月)
  • それを見た人達(1932年5月)
  • 浅草の九官鳥(1932年6月-12月)
  • 浅草に十日ゐた女(1932年7月)
  • 化粧と口笛(1932年9月-11月)
  • 慰霊歌(1932年10月)
  • 浅草の姉妹(1932年11月)
  • 開校記念日(1933年2月)
  • 夏の宿題(1933年7月)
  • 禽獣(1933年7月)
  • 散りぬるを(1933年11月-1934年5月)
  • キャラメル兄妹(1933年12月)
  • 南方の火(「篝火」「非常」「霰」を含有)(1934年7月)
  • 虹(1934年3月-1936年4月)
  • 水上心中(1934年8月-12月)
  • 浅草祭(1934年9月-1935年3月)
  • 扉(1934年10月)
  • 姉の和解(1934年12月)
  • 雪国(1935年1月-1937年5月。1940年12月-1947年10月)
  • 舞姫の暦(1935年1月-3月)
  • 田舎芝居(1935年5月)
  • 純粋の声(1935年7月)
  • 童謡(1935年10月)
  • イタリアの歌(1936年1月)
  • 花のワルツ(1936年4月-7月。1937年1月)
  • むすめごころ(1936年8月)
  • 父母(1936年10月)
  • 夕映少女(1936年12月)
  • 女性開眼(1936年12月-1937年7月)
  • 乙女の港(1937年6月-1938年3月)
  • 牧歌(1937年6月-1938年12月)
  • 高原(1937年11月-1939年12月)
  • 金塊(1938年4月)
  • 花日記(1938年4月-1939年4月)
  • 故人の園(1939年2月)
  • 美しい旅(1939年7月-1942年10月)
  • 母の読める(1939年10月-1940年1月)
  • 旅への誘ひ(1940年1月-9月)
  • 正月三ヶ日(1940年1月)
  • 母の初恋(1940年1月)
  • 女の夢(1940年2月)
  • ほくろの手紙(1940年3月)
  • 夜のさいころ(1940年5月)
  • 燕の童女(1940年6月)
  • 夫唱婦和(1940年7月)
  • 日雀(1940年7月)
  • 子供一人(1940年8月)
  • ゆくひと(1940年11月)
  • 年の暮(1940年12月)
  • 寒風(1941年1月-1942年4月)
  • 朝雲(1941年2月)
  • 名人(1942年8月-1947年4月。1951年8月-1954年5月)
  • 父の名(1943年2月-3月)
  • 故園(1943年5月-1945年1月)
  • 夕日(1943年8月-1944年3月) - 『名人』の中の一部
  • ざくろ(1943年5月)
  • 東海道(1943年7月-10月)
  • 十七歳(1944年7月)
  • わかめ(1944年7月)
  • 小切(1944年7月)
  • さと(1944年10月)
  • 水(1944年10月)
  • 女の手(1946年1月)
  • 挿話(のち「五十銭銀貨」と改題)(1946年2月)
  • 再会(1946年2月)
  • さざん花(1946年12月)
  • 再婚者の手記(のち「再婚者」と改題)(1948年1月-8月)
  • 生命の樹(1946年7月)
  • 夢(1947年11月)
  • 少年(1948年5月-1949年3月)
  • 南方の火(1948年8月) - 「海の火祭」の第12章「鮎」の改稿編
  • 足袋(1948年9月)
  • 手紙(のち「反橋」と改題)(1948年10月)
  • かけす(1949年1月)
  • 夏と冬(1949年1月)
  • 生きてゐる方に(1949年1月)
  • しぐれ(1949年1月)
  • 住吉物語(のち「住吉」と改題)(1949年4月)
  • 千羽鶴(1949年5月-1951年10月)
  • 骨拾ひ(1949年10月) - 執筆は1916年
  • 山の音(1949年9月-1954年4月)
  • 天授の子(1950年2月)
  • 水晶の玉(1950年3月)
  • 虹いくたび(1950年3月-1951年4月)
  • 笹舟(1950年4月)
  • 卵(1950年5月)
  • 地獄(1950年5月)
  • 蛇(1950年7月)
  • 舞姫(1950年12月-1951年3月)
  • たまゆら(1951年5月)
  • 岩に菊(1952年1月)
  • 日も月も(1952年1月-1953年5月)
  • 富士の初雪(1952年12月)
  • 川のある下町の話(1953年1月-12月)
  • 無言(1953年4月)
  • 波千鳥(1953年4月-1954年7月) - 『千羽鶴』の続編
  • 水月(1953年11月)
  • みづうみ(1954年1月-12月)
  • 東京の人(1954年5月-1955年10月)
  • 離合(1954年8月)
  • ある人の生のなかに(1955年1月-1957年3月。1964年1月)
  • 故郷(1955年4月)
  • 雨だれ(1956年1月)
  • 女であること(1956年3月-11月)
  • 風のある道(1957年1月-1958年10月)
  • 弓浦市(1958年1月)
  • 並木(1958年1月)
  • 眠れる美女(1960年1月-1961年11月)
  • 匂ふ娘(1960年11月)
  • 美しさと哀しみと(1961年1月-1963年10月)
  • 古都(1961年10月-1962年1月)
  • 秋の雨(1962年11月)
  • 手紙(1962年11月)
  • 隣人(1962年11月)
  • 木の上(1962年11月)
  • 乗馬服(1962年11月)
  • 人間のなか(1963年2月)
  • 片腕(1963年8月-1964年1月)
  • かささぎ(1963年7月)
  • 不死(1963年8月)
  • 月下美人(1963年8月)
  • 地(1963年8月)
  • 白馬(1963年8月)
  • 雪(1964年1月)
  • たんぽぽ(1964年6月-1968年10月未完)
  • めづらしい人(1964年11月)
  • たまゆら(1965年1月-1966年3月)
  • 髪は長く(1970年4月)
  • 竹の声 桃の花(1970年12月)
  • 隅田川(1971年11月)
  • 雪国抄(1972年8月)

評論・随筆

  • 南部氏の作風(1921年12月)
  • 林金花の憂鬱(1923年1月)
  • 大火見物(1923年11月)
  • 日本小説史小論(1924年3月)
  • 新しき生活と新しき文藝――創刊の辞に代へて(1924年10月)
  • 熱海と盗難(1928年2月)
  • 新人才華(1929年9月)
  • 上野桜木町へ(1929年11月)
  • 嘘と逆〈自己を語る〉(1929年12月)
  • 「伊豆の踊子」の映画化に際し(1933年4月)
  • 文学的自叙伝(1934年5月)
  • 旅中文学感(1935年11月)
  • 軽井沢だより(1936年10月)
  • 四つの机(1940年7月)
  • 末期の眼(1933年12月)
  • 梶井基次郎(1934年9月)
  • 純文藝雑誌帰還説(1935年12月)
  • 名人引退碁観戦記(1938年7月-1939年3月)
  • 日本の母(1942年10月)
  • 「日本の母」を訪ねて(1942年12月)
  • 英霊の遺文(1942年12月。1943年12月。1944年12月)
  • 島木健作追悼(1945年11月)
  • 武田麟太郎と島木健作(1946年5月)
  • 哀愁(1947年10月)
  • 横光利一弔辞(1948年2月)
  • 新文章講座(のち「新文章読本」と改題)(1949年2月-1950年11月)
  • 月下の門(1952年2月-11月)
  • 古賀春江と私(1954年3月)
  • 敗戦のころ(1955年8月)
  • 東西文化のかけ橋――新しい年への期待(1957年1月)
  • 雨のち晴――国際ペン大会を終つて(1957年9月)
  • 世界の佳人(1958年1月)
  • 枕の草子――落花流水(1962年10月)
  • 秋風高原――落花流水(1962年11月-1964年12月)
  • 伊豆行――落花流水(1963年6月)
  • 行燈――落花流水(1964年2月)
  • 水郷(1965年6月)
  • 一草一花――「伊豆の踊子」の作者(1967年5月-1968年11月)
  • 秋の野に(1968年12月)
  • 夕日野(1969年1月)
  • 思ひ出すともなく(1969年4月)
  • 伊藤整(1969年1月)
  • 夜の虹(1969年6月)
  • 鳶の舞ふ西空(1970年3月)
  • 独影自命(1970年10月)
  • 三島由紀夫(1971年1月)
  • 志賀直哉(1971年12月-1972年3月)
  • 夢 幻の如くなり(1972年2月)

講演・声明

  • 文化大革命に関する声明(1967年2月) - 三島由紀夫、石川淳、安部公房と共同執筆。
  • 美しい日本の私―その序説(1968年12月)
  • 美の存在と発見(1969年5月)
  • 日本文学の美(1969年9月)
  • 源氏物語と芭蕉(1970年6月)
  • 以文会友(1970年6月)

脚本・台本

  • 狂つた一頁(1926年7月)
  • 船遊女(1954年9月)
  • 古里の音(1955年1月)

作詞

  • 生きてゐるのに(1967年6月)

著作本一覧

単行本

  • 『感情装飾』(金星堂、1926年6月) - 掌の小説35編を収録。
  • 伊豆の踊子』(金星堂、1927年2月) - 伊豆の踊子、招魂祭一景、十六歳の日記、ほか7編を収録。
  • 『僕の標本室』(新潮社、1930年4月) - 母、神の骨、ほか45編を収録。
  • 『花のある写真』(新潮社、1930年10月) - 死体紹介人、春景色、死者の書、ほか5編を収録。
  • 浅草紅団』(先進社、1930年12月) - 浅草紅団、日本人アンナ、白粉とガソリン、縛られた夫、浅草日記、水族館の踊子、を収録。
  • 『化粧と口笛』(新潮社、1933年6月) - 抒情歌、二十歳、水仙、霧の造化、ほか5編を収録。
  • 水晶幻想』(改造社、1934年4月) - 禽獣、父母への手紙、水晶幻想、ほか8編を収録。
  • 抒情歌』(竹村書房、1934年12月) - 浅草の姉妹、水仙、寝顔、ほか5編を収録。
  • 禽獣』(野田書房、1935年5月)
  • 『小説の研究』(第一書房、1936年8月)
  • 『純粋の声』(沙羅書店、1936年9月) - 文学的自叙伝、ほか38編を収録。
  • 『花のワルツ』(改造社、1936年12月) - 虹、散りぬるを、童謡、田舎芝居、花のワルツ、を収録。
  • 雪国』(創元社、1937年6月) - 雪国、父母、これを見し時、夕映少女、ほか1編を収録。
  • むすめごころ』(竹村書房、1937年7月)
  • 『女性開眼』(創元社、1937年12月)
  • 『級長の探偵』(中央公論社、1937年12月)
  • 乙女の港』(実業之日本社、1938年4月)
  • 『短篇集』(砂子屋書房、1939年11月) - 夏の靴、有難う、髪、朝鮮人、馬美人、ほか29編を収録。
  • 正月三ヶ日』(新声閣、1940年12月) - 正月三ヶ日、燕の童女、日雀、母の初恋、を収録。
  • 『寝顔』(有光社、1941年7月)
  • 『小説の構成』(三笠書房、1941年8月)
  • 愛する人達』(新潮社、1941年12月) - 母の初恋、女の夢、ほくろの手紙、夜のさいころ、燕の童女、夫唱婦和、子供一人、ゆくひと、年の暮、を収録。。
  • 『文章』(東峰書房、1942年4月)
  • 『美しい旅』(実業之日本社、1942年7月)
  • 『高原』(甲鳥書林、1942年7月)
  • 『女性文章』(満州文藝春秋社、1945年1月)
  • 『朝雲』(新潮社、1945年10月) - 朝雲、わかめ、父の名、冬の曲、挿話、ほか5編を収録。
  • 『愛』(養徳社、1945年11月)
  • 『駒鳥温泉』(湘南書房、1945年12月)
  • 『日雀』(新紀元社、1946年4月)
  • 夕映少女』(丹頂書房、1946年4月)
  • 『温泉宿』(実業之日本社、1946年7月)
  • 『学校の花』(湘南書房、1946年8月)
  • 『散りぬるを』(前田出版社、1946年9月) - 散りぬるを、浅草の九官鳥、を収録。
  • 『虹』(四季書房、1947年9月)
  • 『一草一花』(青龍社、1948年1月) - 掌の小説集
  • 『翼の抒情歌』(東光出版社、1948年11月)
  • 『白い満月』(ロッテ出版社、1948年11月)
  • 『二十歳』(文藝春秋新社、1948年11月)
  • 『花日記』(ヒマワリ社、1948年12月)
  • 『雪国 完結版』(創元社、1948年12月)
  • 夜のさいころ』(トッパン、1949年1月) - 母の初恋、夕映少女、夜のさいころ、ゆくひと、騎士の死、年の暮、寝顔、を収録。
  • 『私の伊豆』(弘文堂、1948年)
  • 『陽炎の丘』(東光出版社、1949年6月)
  • 『哀愁』(細川書店、1949年12月) - 哀愁、反橋、しぐれ、住吉、ほか16編を収録。
  • 『浅草物語』(中央公論社、1950年8月)
  • 新文章読本』(あかね書房、1950年11月)
  • 歌劇学校』(ひまわり社、1950年12月)
  • 『少年』(目黒書店、1951年4月) - 十六歳の日記、伊豆の踊子、少年、を収録。
  • 舞姫』(朝日新聞社、1951年7月)
  • 千羽鶴』(筑摩書房、1952年2月) - 山の音、千羽鶴、を収録。
  • 『万葉姉妹』(ポプラ社、1952年8月)
  • 『再婚者』(三笠書房、1953年2月) - 再婚者、さざん花、白雪、お正月、夢、ほか5編を収録。
  • 『日も月も』(中央公論社、1953年5月)
  • 『花と小鈴』(ポプラ社、1953年7月)
  • 『川のある下町の話』(新潮社、1954年1月)
  • 山の音』(筑摩書房、1954年4月)
  • 呉清源棋談・名人』(文藝春秋新社、1954年7月)
  • 童謡』(東方社、1954年)
  • 『伊豆の旅』(中央公論社、1954年10月)
  • 『虹いくたび』(河出書房、1955年1月)
  • 『東京の人』(新潮社、1955年1月)
  • 『親友』(偕成社、1955年3月)
  • みづうみ』(新潮社、1955年4月)
  • 『続東京の人』(新潮社、1955年5月)
  • 『たまゆら』(角川書店、1955年7月) - 水月、北の海から、離合、明月、ほか6編を収録。
  • 『続々東京の人』(新潮社、1955年10月)
  • 『完結東京の人』(新潮社、1955年12月)
  • 燕の童女』(筑摩書房、1955年9月)
  • 女であること(一)』(新潮社、1956年10月)
  • 『女であること(二)』(新潮社、1957年2月)
  • 『富士の初雪』(新潮社、1958年4月) - 岩に菊、弓浦市、船遊女、ほか8編を収録。
  • 『風のある道』(角川書店、1959年7月)
  • 眠れる美女』(新潮社、1961年11月)
  • 古都』(新潮社、1962年6月)
  • 美しさと哀しみと』(中央公論社、1965年2月)
  • 片腕』(新潮社、1965年10月)
  • 『たまゆら(上)』(新潮社、1965年12月)
  • 『落花流水』(新潮社、1966年5月) - 随筆集
  • 『月下の門』(大和書房、1967年12月) - 随筆集
  • 美しい日本の私―その序説』(講談社、1969年3月) - 随筆集
  • 『美の存在と発見』(毎日新聞社、1969年7月) - 随筆集
  • 『独影自命・続落花流水』(川端康成全集第14巻)(新潮社、1970年)
  • 『定本雪国』(牧羊社、1971年8月)
  • たんぽぽ』(新潮社、1972年9月)
  • 『ある人の生のなかに』(河出書房新社、1972年9月)
  • 『雪国抄』(ほるぷ出版、1972年12月)
  • 『日本の美のこころ』(講談社、1973年1月)
  • 『竹の声桃の花』(新潮社、1973年1月) - 随筆集
  • 『日本の美のこころ』(講談社、1973年1月)
  • 『一草一花』(毎日新聞社、1973年10月)
  • 『天授の子』(新潮社、1975年6月)
  • 『婚礼と葬礼』(創林社、1978年4月)
  • 『海の火祭』(新潮社、1979年5月)
  • 『舞姫の暦』(毎日新聞社、1979年5月)

選集・全集

  • 『川端康成選集』(改造社、)
  • 『川端康成全集』全16巻(新潮社、1948年5月-1954年4月) - 表紙画・題字:安田靫彦
  • 『川端康成全集』全12巻(新潮社、1959年11月-1962年8月)
  • 『川端康成全集』全19巻(新潮社、1969年4月-1974年3月) - のちに限定一括復刊もした。
  • 『川端康成全集』全35巻・補巻2巻(新潮社、1980年2月-1984年5月)

関連人物

芥川龍之介
川端にとり、芥川龍之介は『新思潮』同人の先輩であり、菊池寛を通じて知り合った存在であった。関東大震災の際には、今東光と一緒に芥川を見舞い、3人で吉原界隈の震災跡を歩き、吉原の池の中の多くの凄惨な遺体の数々を見た[78]。川端は、〈その最も醜い死を故人と共に見た私は、また醜い死を見知らぬ人々より以上に、故人の死の美しさを感じることが出来る一人かもしれない〉と、芥川の自殺の後に記している[78]。また、芥川が自殺する前に友人に宛てた遺書の中で書かれていた、「自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである」に着目して、1933年(昭和8年)に随筆『末期の眼』を書き、芥川の小説作法や芸術観に触れている[111][216]
岡本かの子
川端は岡本かの子の文章作法を指導し、岡本の処女作『鶴は病みき』を紹介するに当たって推薦文を寄稿するなど、献身的に支えると同時に数々の作品に賛辞を送っていた。岡本は犬が苦手で、多くの犬を飼っていた川端家を訪れる時に怯えていたという[87]。川端は岡本の死後も、多摩川の二子神社に建てられた彼女の文学碑の揮毫を担当するなど並々ならぬ思い入れを覗かせていた。晩年も、新たに刊行される『岡本かの子全集』の序文を手入れして改稿するなどしており、その途中の原稿が自宅の書斎の残されていた[17]
石濱金作
川端とは旧制第一高等学校文科、東京帝国大学文学部を通じての文学仲間であり、鈴木彦次郎らと共に、学生時代から様々な交遊を持ち、『新思潮』、『文藝時代』などの同人雑誌の仲間であった。
石濱恒夫
学生時代に川端に傾倒し、従兄の藤沢恒夫の紹介で弟子入りして鎌倉の私邸に住み込んで師事した人物。1940年(昭和15年)12月の初対面の時に、石濱恒夫の母親は川端が食べるものがなくて困っているかもしれないと息子に弁当を持たせた[217]。石濱は川端について、「身近く世話になったり、親しく励ましつづけてくれた文学上の、たったひとりの恩師」と語っている[217]。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・春上(当時17歳)と共に随行の一員となった。「春上」という名前は、川端が名付けた。日本の若い娘の和服姿で花を添えるために、同行を誘われた[217]。石濱は、授賞式で家族席に座るという好待遇を受けたことを、「どうして私のような者を…」と訊ねると、川端は、「お母さんのお弁当だよ」と答えたという[217]
梶井基次郎
結核温泉療養のために伊豆湯ヶ島にやって来た時以来、川端と親交を持ち、『伊豆の踊子』刊行の校正を手伝った。梶井は湯ヶ島滞在中、自分の作品を川端に批評してもらったことから、友人にも、「君の作品持つて来ておかないか。僕が持つて行つてもよい。変ちきりんな野心意識なくあの人には読んでもらへると思ふのだ」と勧めていた[218]。川端は梶井の人柄について、〈梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。植物動物の頓狂な話を私はよく同君と取り交した〉と語り[95]、〈静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたやうであつた。温かい親切である。しかも作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた。彼はさういふ男である〉と語っている[219]
片岡鉄兵
『文藝時代』の同人で、「新感覚映画連盟」の仲間であった。その後、片岡鉄兵はプロレタリア文学に影響されて左傾化していった。片岡鉄兵の妹の夫・片岡重治(姓が同じ片岡)は、川端の茨木中学時代の同級生で、川端が室長になる前の寄宿舎の室長であった[28][122]。重治は首席で卒業した秀才だったという[122]
菊池寛
川端が友人らと第6次『新思潮』を発刊する際に承諾を得て以来、〈恩人〉として何かと恩顧を受け、作品発表の場から生活面まで多く世話になった作家である。菊池寛は川端の才能を高く買っていたため、川端が伊藤初代と婚約し、仕事が欲しいと依頼した時には、ちょうど洋行するからと自宅の借家を無賃で貸そうとするなど多大な援護を申し出たこともあった[26]。川端の1922年(大正11年)の日記によると、菊池の連載小説『慈悲心鳥』の下書きは川端がやり、お金を貰っていた[216]。「生活第一、芸術第二」を終始モットーとしていた菊池は、貧苦にあえぐ文学青年たちに下原稿を書かせ、報酬を与えていたという[216]。生活に困窮していた川端が度々、下宿代を家主から催促され、菊池が援助していたことも記されている[216]
古賀春江
川端は美術展で、前衛画家・古賀春江と知り合って以来、親交を深め、下谷区上野桜木町にいる頃には、本郷区動坂の住む古賀夫妻と互いに行き来する仲であった[45]。川端は古賀の絵を愛し、前衛的な古賀の絵に〈古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病ひのせゐであらうかと思はれる〉として、〈古賀氏の絵に向ふと、私は先づなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である〉と評している[111]
佐多稲子
「窪川稲子」の筆名で、1929年(昭和4年)9月に発表した小説『レストラン・洛陽』は、佐多がカフェで女給をしていた時の体験を題材としていたが、この作品の中で、東京のカフェ聚楽や、カフェ・オリエントを転々としていた伊藤初代がモデルとなっていた。この『レストラン・洛陽』は、奇しくも川端が文芸時評(文藝春秋 1929年9月号掲載)で取り上げて激賞したが、川端はそのモデルが初代だとは気づかなかったという[220][221]
志賀直哉
川端は志賀直哉の作品を学生時代よく読んだとされるが、そのわりには志賀文学について正面から論じたものはなく、自身の文学との間に一定の距離を置いていたようで、〈私も一昔前志賀氏を「小説の神様」として耽読した一人であるが、(『万暦赤絵』を)近頃読み返さうとすると、その神経の「」がむかむかして堪へられなかつた〉としている[222]。しかし川端は志賀に畏敬の念を持っており、初対面の1942年(昭和17年)には、〈生きてゐるうちにはかういふこともあるかと幸せだつた〉と語っている[216]。川端の随筆の絶筆は『志賀直哉』(1971年12月-1972年3月未完)となり、〈志賀さんの太宰治評、これが問題である。やがては、太宰氏の「如是我聞」、志賀さんの「太宰治の死」を生むに至る。〉という文章で終っている。なお、この続きとなる翌月に連載予定の書きかけの原稿があり、志賀と太宰の応酬を語ろうとする文章で、〈「如是我聞」はこんど読み返してみ〉と、途中で切れている[216]
太宰治
第1回芥川賞において、選考委員の川端が太宰の小説の選考に際して、〈例へば、佐藤春夫氏は「逆行」よりも「道化の華」によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた〉と言ったことに対し[223]、太宰が、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」と川端を批判した[224][注釈 31]。この批判に対し川端も翌月に、〈太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい〉と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし[225]、〈さう分れば、私が「世間」や「金銭関係」のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう〉と述べている[225]。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出した[226]。しかし、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった[216]。川端はこの規定決定時に欠席しており、〈この二つの条件には、多少問題がある〉としている[227][216]。なお、『雪国』について太宰は、「川端はずいぶん下手くそな小説ばからい書きつづけていた、だけれどもコケの一念で『雪国』はいい」と言ったとされる[210]
谷崎潤一郎
川端との直接的な交遊はないが、川端の友人・今東光の家に、谷崎潤一郎が1923年(大正12年)1月6日に小林せい子(葉山三千子)と遊びに来ていた際、川端(当時23歳)がちょうど今東光の家を訪問したという川端の日記記録がある。その頃、傷心と青春の自己嫌悪の只中にいた川端は、〈(谷崎のような)性格と生活の人に会ふ気にならず〉に、そのまま家に上がることなく、帰っていった[228][39]。ちなみに、後年に川端が書いた『山の音』や『眠れる美女』に影響されて、谷崎が老人小説『瘋癲老人日記』を着想したのではないかと中村光夫が推測すると、川端は、〈谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは〉と受け流している[210]
東山魁夷
1955年(昭和30年)1月刊行の『虹いくたび』の装幀・挿画を東山魁夷が担当したのをきっかけに親交が深まった。川端は東山の絵を愛し、14点の絵を所蔵し。東山の画集へも序文を寄せている[45]。東山も川端同様に、早くに肉親と死別した天涯孤独の人だった[213]。東山は、川端のノーベル文学賞の祝いとして、『北山初雪』を贈呈した[45]。2005年(平成17年)、千葉県市川市の東山邸から、川端の書簡40通が発見され、川端家にも東山の書簡が60通保管されている[45]
北條民雄
本名は七條晃司。ハンセン病のため東京府北多摩郡東村山村の療養施設・全生園で暮しながら小説を書き、20歳の時に小説原稿を川端に送ったことから、才能を見出されて、『間木老人』『いのちの初夜』などが川端の紹介により世に広まったが、23歳で亡くなった。『間木老人』の時の筆名「秩父號一」や、『いのちの初夜』の以降の「北條民雄」の筆名は、川端が名付けた[115][17]。当初、北條は「十條號一」と提案していたが、川端が、それでは実名の手がかりになってしまうとして、「秩父號一」にした。さらに「北條民雄」に筆名を改めたことは、北條本人の希望だったという[115]。川端は北條死後も『北條民雄全集』刊行に尽力した。北條は原稿料や印税の金を全て川端に託すことを遺言に書いていたが、川端はその遺言を聞く前から、北條の遺族へ渡すべきものと決めていたため、少しの寄付を取り計った他は、北條の父親へ送った[229][17]
北條誠
自身で川端の「押しかけ弟子」と自嘲し、川端を尊敬している作家。川端と知り合いであった橘川ちゑ(秋山ちえ子)が友人の弟として、北條誠を川端に紹介した。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・元子(当時20歳)と共に随行の一員となった[217]。「元子」という名前は、川端が名付けた[172]。川端が作詞した歌謡曲『生きてゐるのに』の作曲と歌唱は、息子の北條暁がしている。
三島由紀夫
戦後の1946年(昭和21年)に川端が三島の『煙草』を推薦して以来、師弟関係とも言える親交を深めた。川端は三島との出会いを、〈二十三歳の三島が現はれた時、私は自分達の二十代を思ひ、明治このかた文学の新機運の出発は常に二十代が主であつたことを思ひ、戦後の二十代の波が来るかと思つた〉と語っている[230]。川端と三島は年齢差を越えて終生、お互いの才能を評価して敬愛し合う間柄となった[213]。三島は川端への敬意から、あえて「先生」とは呼ばずに、一人の敬愛する人として「川端さん」と呼び、2人の交わした書簡は公私にわたり、三島の結婚式媒酌人も川端夫婦が務めた。川端が1961年(昭和36年)に三島に執筆依頼したノーベル文学賞の推薦文も、三島は快く応じ[160]、その時は受賞とはならなかった川端は、〈まああなたの時代まで延期でせう〉と三島に送っている[231]。しかし2人の関係は、川端が三島の「楯の会」1周年パレード(1969年10月)の出席を見送ったことから微妙になったとされる[232]。三島が1970年(昭和45年)秋に自衛隊富士演習場から最後に川端に宛てた鉛筆書きの書簡があったとされるが[233]、川端はその内容にびっくり仰天して、本人(三島)の名誉にならないからと言ってすぐに焼却したと、婿養子の川端香男里が述べている[233]
横光利一
菊池寛を介して出会ったのをきっかけに川端と親交を持ち、共に「新感覚派」と呼ばれた作家。何かと親友の川端を援護してくれていたとされる[26]改造社から、川端の作品を列冊にして出版したいという申し出があったのは、横光が口添えかもしれないと川端は勘づき、それを直接に横光に訊ねると、「いやあ」と顔を赤らめてソッポを向いていたという[26]。また横光の再婚時の披露宴のために伊豆の湯ヶ島から上京した川端が東京で泊まる所が無いのをすばやく察知し、自分の新婚旅行の逗子ホテルに一緒に行こうと誘ってくれ、思いやりを感じたと川端は語っている[26]。ずっと湯ヶ島に引きこもっていた川端に、「東京に帰るべし」と忠告し、東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家を探したのも横光であった[90][95]。川端は、〈若い日から戦争前までも、横光君といふ人がゐなかつたら、私はちがつた小説を書いてゐただらうかと思ふ〉と述懐している[234]
淀野隆三
梶井基次郎を通じて川端と知り合い、梶井の死後も親交があり、淀野が家業の「淀野商店」(鉄材、鉄器具)を継ぐため京都に帰ってからも、互いの家を行き来し家族ぐるみで交流した[235]。川端は淀野の娘・華子を可愛がり、華子は結婚出産後も川端家と交流し、華子の弟・は、ノーベル文学賞の授賞式に同行した[235][14]

脚注

注釈

  1. ^ この「保身」という文字は川端の生活信条となり、日記の随所に出てくる[12]
  2. ^ 小笠原義人の実家は京都府京都市下京区上嵯峨村(現・右京区嵯峨野)で、一家は大本教信者であった[47][18]。小笠原義人は1900年(明治33年)11月11日生れ。五男三女の3番目で長男。祖父・弥太郎義信は紀伊藩士。大祖は清和源氏源義家の弟・新羅三郎義光で、小笠原家の鼻祖は、長清であるという[46]。義人の父・義之は紀伊藩士・森儀三郎の二男で、義信の養子。母・ヒサは加賀藩士・御納戸役の飯森薫の長女である[46]
  3. ^ 川端岩次郎は、川端松太郎の妹・シヨの婿である。松太郎は栄吉とゲンの葬儀の際に、押えの焼香をした人物[12]
  4. ^ この「師の柩を肩に」は、のち1927年(昭和2年)に、「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し、『キング』3月号に再掲載された[12][51]
  5. ^ 川端は、親戚の川端松太郎に、修善寺温泉湯ヶ島温泉など旅先から絵葉書を送っている[12][7]
  6. ^ 川端は、中学の入学試験の体格検査で、右眼の視力がよくないことに驚いていたが、眼底に結核の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた[27][18]
  7. ^ この『ちよ』に関連する作品『処女作の崇り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている[60]。この〈千代松〉の怪談挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない[12]
  8. ^ 平出修の妻の近親の平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、東大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が台湾銀行に入社するのに同行して行った[11][14]
  9. ^ 伊藤初代の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家の婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて福島県会津若松市へ行って学校守り(用務員)となった。忠吉は、そこで大塚サイと知り合い再婚して、初代とその妹・マキの二女を儲けた。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県会津若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて子守として奉公に出され、他家を転々とした後、上京してカフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した[61][5][11]
  10. ^ 初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指しし、撲るとか斬ると言っていたのを知った今東光は、相棒の宮坂普九と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている[58]
  11. ^ 石濱金作が、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、岐阜県稲葉郡加納町にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる[39][11]。この人物が誰なのかは、川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている[73]。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている[74]。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという[74]
  12. ^ 伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『明日の約束』『青い海 黒い海』『伊豆の帰り』『父母への手紙』『大黒像と駕籠』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『火』『雨傘』『処女作の祟り』『母国語の祈祷』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『母の初恋』『再婚者』『日も月も』『離合』『美しさと哀しみと』がある[71][13][8][12]
  13. ^ 『文藝時代』の同人は、伊藤貴麿石濱金作、川端康成、加宮貴一片岡鉄兵横光利一中河与一今東光佐佐木茂索佐々木味津三十一谷義三郎菅忠雄諏訪三郎鈴木彦次郎岸田国士南幸夫酒井真人三宅幾三郎稲垣足穂であった[81][7]。川端は、牧野信一三宅幾三郎も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対の意向を示している[82]。その後翌年1925年(大正14年)4月に、『文藝春秋』に載った「文士採点表」をめぐって今東光が脱退し『文党』に行った[81][17]。横光利一も「文士採点表」に憤慨し、菊池寛と『文藝春秋』に対して読売新聞に投書を送ったが、川端が横光をなだめて、一緒に読売新聞社に行き、その速達を返してもらったという[81]
  14. ^ 前年1925年(大正14年)の秋に文藝日本社から処女作品集『驢馬に乗る妻』が刊行予定だったが、出版社の破産で実現しなかった[17]
  15. ^ 熱海を舞台にした作品には、『椿』『死者の書』『女を殺す女』などがある[8]
  16. ^ ちなみに、逃げる泥棒を川端が玄関まで追ったが、梶井基次郎は怖くて、秀子夫人から呼ばれても部屋から下りて来られなかったという[99][87]
  17. ^ その後、支払わなかった家賃の催促が家主から無かったため、そのままになったが、家賃を遺して退去したのは、この熱海だけであるという。〈商人を踏み倒したことはなかつた〉と川端は語っている[80]
  18. ^ 浅草を題材とした「浅草物」には、続編の『浅草祭』や、『踊子旅風俗』『日本人アンナ』『「鬼熊」の死と踊子』『白粉とガソリン』『鶏と踊子』『浅草日記』『化粧と口笛』『浅草の姉妹』『浅草の九官鳥』『妹の着物』『二十歳』『寝顔』『虹』『田舎芝居』『夜のさいころ』などがある[8][17]
  19. ^ この年に大宅壮一の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた青森県八戸市出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許保証人になるため夫婦の籍を入れたとされる[87]。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる[74]
  20. ^ 伊藤初代は、川端と婚約破棄した後、中林忠蔵と結婚し、1923年(大正12年)に長女・珠江を儲けたが、中林は1927年(昭和2年)6月に肺病で死去。上京後知り合った桜井五郎と再婚し、1929年(昭和4年)に長男が生れるが夭折し、1931年(昭和6年)11月に次男が生れた。初代は桜井との間に7人の子供を儲け、内3人が死んで、4人を育てて、1951年(昭和26年)2月に数え年46歳で死去した[61][75][5]
  21. ^ その後、耕治人は川端に世話になり、戦後の1959年(昭和34年)に『喪われた祖国』を出版する。しかし秀子夫人の弟・松林喜八郎が小岩の公庫住宅に当たったという話を聞き、自分宅(借金をして地主から借地した土地)の中野区野方町1-605(現・中野区野方4-30-9)の隣りに借りた方がいいと、1958年(昭和33年)9月に誘い、そこに家を建て住んだ松林喜八郎と土地問題でトラブルとなり、訴えて敗訴する[87][14]
  22. ^ 「日本文学者会」の発起人には、阿部知二伊藤整上田広岡田三郎尾崎一雄尾崎士郎河上徹太郎岸田国士小林秀雄榊山潤島木健作武田麟太郎高見順富沢有為男中島健藏林房雄火野葦平日比野士郎深田久彌和田伝横光利一らがいた[17]
  23. ^ ほかに、大佛次郎清水昆小島政二郎横山隆一林房雄永井龍男らも、日替わりで店番をした[136]
  24. ^ 三島は来訪する時、可愛い動物の飾りのあるケーキや高級菓子を手土産に持参し、秀子夫人が受取ろうとすると、直接政子に手渡ししたがったという[142]。やがてその作戦が尽きると三島は、鎌倉文庫にいた山川朝子にアイデアの相談をしていたとされる[142]
  25. ^ 川端は同行者を豊島與志雄小松清と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は豊島與志雄青野季吉となっている[17]
  26. ^ 実際、1961年(昭和36年)に、川端がノーベル文学賞を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)のスウェーデン・アカデミーの情報開示で明らかになった [161]。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった[162][163][164]。なお、6人の中には三島の他に谷崎潤一郎西脇順三郎、川端も名を連ね[164]、翌1964年(昭和39年)も同4名が候補に入っていた[165]
  27. ^ 後藤孟は「賀茂丸」で川端と会ったことを以下のように述懐している。
    空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当のノリ巻きをすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)[53]
  28. ^ 三島由紀夫は、川端との会話での印象を以下のように綴っている。
    学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つてゐるやうに思はれる。(中略) 僕が「羽仁五郎雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、「でも碌な本はありますまい」と云つたら、「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。 — 平岡公威(三島由紀夫)「川端康成印象記」[193]
  29. ^ 川端が1955年、当時新進芸術家であった草間彌生の作品を購入したことについては、草間の自伝には言及されているが、川端自身は草間の作品についての文章を残しておらず、どのような作品を購入したのかは一般には知られていなかった。2004年、東京国立近代美術館が草間の展覧会を開催するに際して調査した結果、『雑草』(1953年)と『不知火』(1955年)という2つの作品が川端康成記念会に保管されていることがわかった。[203]
  30. ^ 恒太郎の死亡日については、羽鳥徹哉は5月14日としているが、笹川隆平は墓石で確認し、4月14日としている[10]
  31. ^ この背景には、太宰治の友人・檀一雄が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」と言い、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる[216]

出典

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  • 文庫版『浅草紅団/浅草祭』(講談社文芸文庫、1996年)
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  • 文庫版『伊豆の踊子』(新潮文庫、1950年。改版2003年)
  • 文庫版『伊豆の踊子』(集英社文庫、1977年。改版1993年)
  • 文庫版『再婚者・弓浦市』(講談社文芸文庫、1994年)
  • 文庫版『水晶幻想・禽獣』(講談社文芸文庫、1992年)
  • 文庫版『反橋・しぐれ・たまゆら』(講談社文芸文庫、1992年)
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  • 『文豪怪談傑作選 川端康成 片腕』(ちくま文庫、2006年)
  • 大久保喬樹『川端康成―美しい日本の私(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房、2004年)
  • 川嶋至『川端康成の世界』(講談社、1969年)
  • 川端秀子『川端康成とともに』(新潮社、1983年)
  • 小谷野敦『川端康成伝―双面の人』(中央公論新社、2013年)
  • 進藤純孝『伝記 川端康成』(六興出版、1976年)
  • 杉山幸輝『海の歌声』(行政通信社、1972年)
  • 高戸顕隆私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部海軍主計大尉の太平洋戦争』光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8 
    • 憂国の至情-大本営海軍報道部「海軍報道班員川端康成」
  • 羽鳥徹哉『作家川端の基底』(教育出版センター、1975年)
  • 羽鳥徹哉・原善編『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998年) ISBN 4-585-06008-1
  • 林武志『川端康成研究』(桜楓社、1976年)
  • 福田清人編・板垣信著『川端康成 人と作品20』(センチュリーブックス/清水書院、1969年)
  • 森本穫『魔界の住人 川端康成』上巻・下巻(勉誠出版、2014年)

外部リンク