フアン・ラモン・ヒメネス
| フアン・ラモン・ヒメネス Juan Ramón Jiménez |
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| 誕生 | 1881年12月24日 アンダルシア州ウエルバ県モゲール |
| 死没 | 1958年5月29日(76歳) サン・フアン |
| 職業 | 詩人 |
| 国籍 | |
| ジャンル | 純粋詩 |
| 主な受賞歴 | ノーベル文学賞(1956年) |
| 配偶者 | セノビア・カンプルビー(en:Zenobia Camprubí) |
| サイン | |
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フアン・ラモン・ヒメネス(Juan Ramón Jiménez Mantecón[1]、1881年12月24日 - 1958年5月29日)はスペインの詩人。彼が近代詩で成し遂げた最も大きな業績は、純粋詩の確立である。1956年にノーベル文学賞を受賞した。フワン・ラモーン・ヒメーネスとも。
目次 |
[編集] 伝記
ヒメネスは、1881年12月24日、スペイン南部アンダルシア州ウエルバ県の県都ウエルバ近郊のモゲール(en:Moguer)という町で、父ビクトル・ヒメネス、母マリア・プラ・マンテコン[1]の第4子・次男として生まれた。彼は家業を継ぐためにセビリア大学で法律を学んだがその道には進まず詩に傾倒し、1900年、アンダルシア出身の先輩詩人フランシスコ・ビリャエスペーサ(en:Francisco Villaespesa)に誘われてマドリードに赴き、モデルニスモ文学を代表する詩人ルベン・ダリオの強い影響を受けた。同年、芸術的分野へ進むことに理解を示してくれた父親を亡くしたことで精神に不調を来たしたため、フランスボルドーの精神療養施設に入所し、その期間にフランス詩の知識を深めた。彼は療養生活中にもモデルニスモ詩人たちと交流を続け、詩作を続ける。1905年には、帰郷して静養を続けた。後にこの時の経験を元に散文詩集『プラテーロとわたし(es:Platero y yo)』を執筆する。1911年、健康を回復してマドリードに戻り、文学者活動をさらに旺盛に進める。
1916年、1913年に知り合って以来、恋愛関係にあったプエルトリコ出身のセノビア・カンプルビー(en:Zenobia Camprubí)と結婚し、アメリカを旅行する。彼女は、ラビンドラナート・タゴールの翻訳者として著名でもある。結婚を契機として自らに確かな個性を見出し、これより以後、韻律を廃した自由詩“純粋詩”の確立へと自覚的に向かう。
1936年、スペイン内戦が勃発すると、夫妻はキューバ、アメリカに逃れた。1946年、ヒメネスが心臓病を患い、妻セノビアと関係の深いプエルトリコに落ち着いた。ヒメネスは後にメリーランド大学カレッジパーク校の、スペイン語とスペイン文学の教授となった。1951年以降、プエルトリコに定住する。1956年、彼はノーベル文学賞を受賞したが、3日後、その報せが届いた日に妻が子宮癌で死去した。彼自身は2年後の1958年5月29日、妻と同じ病院で亡くなり、妻とともに故郷モゲールに葬られた。
彼の作品中、故郷での静養の間、常に彼を背中に乗せて歩いた愛ロバ・プラテーロや故郷の風景、様々な人々との交流を描いた『プラテーロとわたし』が世界的にも最も有名である。また妻と共同でアイルランドの作家の戯曲の翻訳なども手がけた。彼は存命中、莫大な数の詩を発表し、詩集になったものだけでも40余冊を数える。
[編集] 略歴
- 1881年12月23日、スペインアンダルシア州ウエルバ県モゲール(en:Moguer)に生まれる。
- 1887年、地元のサン・ホセ学院に入学。
- 1893年、カディス県のプエルト・デ・サンタ・マリア学院に入学。
- 1896年、セビリア大学に入学[2]、法律を学ぶとともに、詩に傾倒する。
- 1900年、アンダルシア出身の先輩詩人ビリャエスペーサ(en:Francisco Villaespesa)に誘われマドリードを訪れ、文学サークルの一員となり、ルベン・ダリオに出会い、その強い影響でモデルニスモ文学に傾倒する。7月、父ビクトル急死、衝撃を受け精神に不調を来す。
- 1901年、フランスの精神療養施設に入所、その期間にフランス詩の知識を深める。同年末、マドリードの療養施設に移る。療養生活中にもモデルニスモ詩人たちと交流を続け、詩作を続ける。
- 1905年、モゲールに帰郷、静養を続けるが、この間、詩作も続けた。
- この時の経験を元に『プラテーロとわたし』(縮約版1914、完全版1917)[3]を執筆する。
- 1911年、健康を回復し、マドリードに戻り、さらに旺盛な活動を開始。
- 1913年、プエルトリコから留学していたセノビア・カンプルビー(en:Zenobia Camprubí)と大学の寮で知り合い、恋愛関係となる。
- 1916年1月末、ニューヨーク滞在中のセノビアの許へ発ち、3月2日、同市にて挙式、そのままアメリカ東部を旅行し、6月7日帰国、マドリードに新居を構える。
- 1936年7月、スペイン内戦が勃発、スペイン共和国政府のワシントン駐在名誉文化担当官として妻を伴い出国。以後、アメリカ・プエルトリコ・キューバなどで活動を続ける。
- 1951年、これより後、妻セノビアの故郷であるプエルトリコに定住。
- 1956年10月25日、ノーベル文学賞受賞。当時、妻セノビアは病床にあり、その報せが届いた10月28日に没した。
- 1958年5月29日没。遺骸は妻と共に故郷モゲールに送られ、6月6日埋葬。
[編集] 作品
岩波文庫に先述の『プラテーロとわたし』(2001、ISBN 4-00-327331-1)が、長南実による訳で収められている。
また、彌生書房の〈世界の詩〉シリーズに、彼の詩作を概観する伊藤武好・伊藤百合子共訳の『ヒメネス詩集』が収められている。
[編集] 注釈
- ^ a b Mantecónは母の姓(人名#スペイン語圏の名前参照)。
- ^ 岩波文庫『プラテーロとわたし』の「一八九六年、十五歳のとき」(384頁)との記述に基づくが、彌生書房『ヒメネス詩集』では「十六歳のとき(一八九八年)」(153頁)となっている。
- ^ 上掲『プラテーロとわたし』によれば、「一九一四年、『プラテーロとわたし』が初めて一冊の本となり、マドリードのラ・レクトゥーラ社から出版された。それまで断片的に発表されていた散文詩一三五篇の中から、編集者が児童向けの読み物として六三篇を選び、作者がこれに一篇を書きくわえた縮約版である」(387頁)、「一九一七年、『プラテーロとわたし』の完全版が、マドリードのカリェーハ社から出版された」(388頁)とのことだが、『ヒメネス詩集』では1907年から執筆を始め、4年後(1911年)に世に出した(155頁)とある。
[編集] 参考文献
- 伊藤武好・伊藤百合子訳 『ヒメネス詩集』 彌生書房〈世界の詩〉、1968年、ISBN 4-8415-0206-8。
- 篠田一士ほか編 『世界文学大事典』3 集英社、1997年、ISBN 4-08-143003-9、594頁。
- 長南実訳 『プラテーロとわたし』 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年、ISBN 4-00-327331-1。
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