永井隆 (医学博士)

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永井 隆(ながい たかし 1908年明治41年)2月3日 - 1951年昭和26年)5月1日)は医学博士。「長崎の鐘」「この子を残して」の著者。

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[編集] 生涯

大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献する。 
2月1日 帰還する。大学の研究室助手に復帰。
6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・無料奉仕活動などを行ない、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
8月 森山緑と結婚する。緑との間には一男二女(長女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
長崎医科大学講師に就任する。
日華事変第5師団衛生隊隊長として出征する。
6月 長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。この時、白血球数10万8000、赤血球数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)
8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆する。右側頭動脈切断という重傷を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。
8月10日 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。
8月12日 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
9月10日頃 昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。
10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出する。
1月28日 長崎医科大学教授に就任する。
7月 長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すことになる。
11月17日 長崎医学会にて研究発表。題名は「原子病と原子医学」。
永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)
荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈する。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。
3月 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付ける。
8月 大学を休職し、療養に専念する。
10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。
5月27日 昭和天皇に会う。
5月30日 ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。
8月1日 長崎市長から表彰を受ける。
9月30日 長崎医科大学教授を退官する。
12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける。
5月14日 ローマ教皇特使としてフルステンベルグ大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。
2月3日 白血球数が39万を超える。
4月25日 右肩内出血により執筆不能となる。
5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。21時50分、逝去。享年43。
5月2日 遺体解剖(医学解剖に献体する)。
5月3日 教会葬が執り行われる。
5月14日 長崎市公葬。長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。
  • 1952年(昭和27年) 長崎市に永井隆記念館が開館。
  • 2001年(平成13年)4月4日 長男 永井誠一(まこと)氏逝去。享年66。
  • 2008年(平成20年)2月2日 次女 筒井(旧姓永井)茅乃(かやの)氏逝去。享年66。

[編集] 議論

永井隆の原爆後の発言には議論がある。永井は原爆について「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」(長崎の鐘)と述べ、「原爆投下は人類の罪悪の償いの生贄」であると主張した。この主張でいけば、「帝国主義侵略戦争を始め、最終的に戦争に敗北し、その過程で原爆が長崎に投下された」という日本の責任と、「国際法を無視し、残虐な兵器を用いて住民を虐殺した」アメリカの責任が免責される。永井の作品はこの主張に基づいていたからこそ、アメリカの言論統制を潜り抜け、昭和天皇に会ったり内閣総理大臣顕彰を受けたのである。しかし、永井は政治家ではなく、彼自身が被爆していたことを忘れてはいけない。敬虔なカトリック信者として、彼自身も人類の悲劇の犠牲者として、広島、長崎の人々に対する慰めの意味で、以上の言葉を述べたのであろう。

[編集] 著書

永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。

  • 長崎の鐘(1946年8月)
  • 原子野録音(1947年~1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載)
  • 亡びぬものを(1948年1月)
  • ロザリオの鎖(1948年3月)
  • この子を残して(1948年4月)
  • 生命の河(1948年8月)
  • 花咲く丘(1949年4月)
  • いとし子よ(1949年10月)
  • 乙女峠(1951年4月)
  • 如己堂随筆(1957年12月)
  • 村医(1978年4月)
  • 平和塔(1979年11月)
  • 長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載)

[編集] 関連施設

  • 如己堂、永井隆記念館 (長崎県長崎市)
  • 浦上天主堂 (長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
  • 永井隆博士記念館 (島根県雲南市)

[編集] 参考資料

  • 長崎市永井隆記念館資料
  • 永井隆著「この子を残して」

[編集] 外部リンク

ウィキクォート
ウィキクォート永井隆に関する引用句集があります。