永井隆 (医学博士)

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永井 隆
1946年
人物情報
生誕 1908年2月3日
日本の旗 日本 島根県松江市
死没 1951年5月1日(満43歳没)
日本の旗 日本 長崎県長崎市
国籍 日本の旗 日本
出身校 長崎医科大学
学問
研究機関 長崎医科大学
プロジェクト:人物伝
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永井 隆(ながい たかし、1908年明治41年)2月3日 - 1951年昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1908年(明治41年)2月3日島根県松江市にて、医師であった父の寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生。お産の時、頭が大きくて産道に引っかかったままだったので、医者が胎児を切って外に出そうとしたが、母が強く反対して医者が帰ってから何時間かしてようやく生まれた[1]。漢方医であった祖父文隆より1字を授かりと命名[2]。同年秋には父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)に移り住んだ[2]

1920年(大正9年)飯石小学校を優等で卒業して郡長賞をもらったが、島根県立松江中学校は補欠の三番目でようやく入学を認められた[3]。県立松江中学校では5年生に級長となり、当時摂政宮であった昭和天皇を全校生徒の先頭に立って迎えた[4]。運動は苦手で運動会の競争はいつもビリから二番目だったと回想している[5]

1925年(大正14年)、松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学。当時高校のドイツ語教師であったフリッツ・カルシュからドイツ語を学んだ[6]。高校卒業する頃には唯物者となっていたが[7]、後の1947年(昭和22年)12月に高校の恩師である松原武夫宛のはがきによれば、キリスト教徒である彼から初めてイエス・キリストについて話を聞いている[8]。高校では3年間弓の稽古をしたが、上達せずに止めている[9]

長崎医科大学[編集]

1928年昭和3年)3月 、松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学[10]。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格[11]であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献[12]。この部活動で上海杭州にも遠征している[13]。また、同大学のアララギ支社に入って、歌会にも参加した[14]

高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に脳溢血で急逝したのを機に霊魂があると信じるようになる[15]。その後、パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった[16]浦上天主堂近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑(洗礼名:マリア)に出会った。森山家は先祖は隠れキリシタンで信者を指導し、教会暦を伝承する帳方であった。

1932年(昭和7年)5月、大学卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性中耳炎にかかり[17]、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った[18]。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという[18]

2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望した内科をやめて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった[19]。1930年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した末次逸馬[20]の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。

1933年(昭和8年)2月1日、幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍[21]。この間、緑から送られた公教要理を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた[22]

1934年(昭和9年)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の守山松三郎神父を訪れる。同年6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした[23]。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会 (ヴィンセンシオ会、Society of Saint Vincent de Paul)に入会[24]。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。

1935年(昭和10年)2月、急性咽頭炎に蛋白刺激療法を試そうとして雑菌を注射した後にアナフィラキシー症状を起こして危篤となった。そのため、終油の秘蹟を受けた。大学の景浦内科部長の手により助けられたが、それ以来喘息が持病となった[24]

支那事変[編集]

1937年(昭和12年)、長崎医科大学の講師に就任。長女の郁子が生まれる。同年7月の支那事変(日中戦争)勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征[25]。河北・河中・河南で計72回の戦闘に従軍した[26]。現地では日本軍のみならず、中国人への医療にも従事し、現地の知事から感謝の印として対幅の書を贈られた[27]。また、現地でも長崎のヴィンセンシオ会から必要な物資を送ってもらい、現地の聖ヴィンセンシオ会を通じて分配した[26]

帰国後[編集]

1940年(昭和15年)2月に日本に帰国[26]。功績により功五級金鵄勲章を受章[26]。同年4月に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任し[28]1944年(昭和19年)3月3日、『尿石の微細構造』で医学博士号を授与された。

戦時中は結核X線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月 には被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年 (昭和15年)と推定された[29]

また、この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の竹槍を指導したり、肝試しと称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、骸骨を置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもした[30]

被爆及び救護活動[編集]

1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。

(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった[30]

3日目の8月11日 、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅[31]。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した[32]8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護に当った[33]

9月10日頃 、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇蹟的に止まった。本人によると、本河内のルルドの水を飲み、「マキシミリアノ・コルベ神父(かつて診察したことがあった[34])の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという[35]

10月15日 、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出[36]。その後25年間所在が不明だったが、長崎放送の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された[37]

1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。

如己堂[編集]

永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)

1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。1948年のニュース映画「日本ニュース」の取材に、「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね、最後までやっぱり光になって、ばーっと光ることができると思います。」と語る[38]

10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった[39]1949年(昭和24年)5月27日昭和天皇に謁見。5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた[40]。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた[40]

8月1日 、長崎市長から表彰を受ける。9月30日 長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。

1950年(昭和25年)5月14日、ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルク(Maximilien de Furstenberg)が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。11月29日、永井がルハンの聖母像を欲しがっているのを知ったアルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンにより、長崎市に送られたルハンの聖母像が長崎に到着[41]。聖母像は大小2体で、大きいものはペロン夫人から長崎市、小さいものはブラジル在留日本人から永井個人に贈られた[42]

逝去[編集]

1951年(昭和26年)2月には白血球数が39万を超えて危険な状態となる[43]4月1日浦上四番崩れ石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に配流されたキリシタン守山甚三郎等を中心とした『乙女峠』の原稿を書き始め、4月22日に脱稿した。この原稿は誤字があまりにも多かったため、永井本人が驚く程であった[44]。3日後の 4月25日には右肩内出血により執筆不能となり、これが絶筆となった。

死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたいという永井の希望により、5月1日長崎大学付属病院に緊急入院。この日まで入院を伸ばしたのはイタリア医師会から送られた聖母像を待つためであった[45]。当初は容態が意外に良かったので、家族は夕の祈りの後に一度家に引き上げた[46]。午後9時40分になって目まいを訴え、一時意識不明になった後で午後9時50分に意識を取り戻し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取った[47]

遺言により、翌日5月2日の午後1時半から5時半まで松岡、林教授により遺体解剖が行われ[48]、死因が白血病による心不全であると判明した[49]脾臓は3410g(正常値:94g)、肝臓は5035g(正常値:1400g)腎臓は左350g、右355g(正常値:左右140g)と肥大しており[48]心臓は白血病による筋肉組織の破壊が既に始まっていた。腹水は3100ccもあった[50]

5月3日に先ず浦上天主堂で山口愛次郎司教司式による死者ミサが捧げられた。同日に長崎市は市公葬を行うことを決め、5月14日 9時から浦上天主堂で市公葬が執り行われて2万人が参列した[50]田川務長崎市長が総理大臣の吉田茂等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げた。正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた[51]。その後、亡骸は長崎市坂本町にある国際外人墓地に緑夫人と共に葬られた[52]

受賞歴[編集]

  • 1940年(昭和15年)に金鵄勲章旭日章を受章したが、原爆投下後はいずれも焼損している。
  • 1949年(昭和24年)『この子を残して』により、厚生大臣表彰[53]
  • 1950年(昭和25年)内閣総理大臣表彰[54]

思想[編集]

長崎原爆投下に対する解釈[編集]

『生命の河―原子病の話』では、ヒトラーがドイツ民族の血の純潔を保つと言い出したために、原子力の利用法を考えていた科学者のほとんどがアメリカに集まり、原子爆弾が案外早く出来上がって、日本も戦争にとびこんで、長崎市民の血を求められたと書いている[55]

原子力について[編集]

1945年8月〜10月の救護活動をまとめた『原子爆弾救護報告書』の結語で、永井は原子力の利用に対して肯定的な考えを述べている。

すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう[56]

また、『聖母の騎士』1947年2月号には原子力が利用される時代を以下のように描いている。

  • 稲の大敵二百十日の大風は(中略)太平洋の真ん中で大きな原子爆発を起こして気圧の変動を作り、それによって大風の進路を変えて、日本列島からそらしてしまえばいい[57]
  • そのころには魚を獲るのにも、針で釣ったり網ですくったりはしないで、音波や超音波、あるいは電波、電流、原子爆発という物理的漁業が盛んになっている[57]
  • 飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから、とても速く、型も大きくなり、数も増し、世界中の物資は余った所から足らない所へすぐに廻されるし、人も自由に簡単に旅行出来て、地球が、一つの家みたいになる[58]
  • 山林も畑も学校も町もある文化施設の整った大船が、太平洋に浮かんで、原子力で好きな所へ移って行く[58]
  • 町や村の近くの山の中に原子力採取場があって、ここで大量の熱が得られ、熱伝導線を通じて工場や各家庭に送られる[58]
  • また原子力を利用した発電機から得た電気であらゆる部門の電化が実現し、家庭生活は能率が上がり、主婦が家事に朝から晩まで立ち働かねばならぬ現在とはすっかり様子が変わる[58]
  • 原子薬品の利用で難病もすみやかに治る[59]


原子力委員会委員長を務めた藤家洋一は、2004年の講演で『原子爆弾救護報告書』の結びを「祖国は敗れた。大学は灰燼に帰した。しかし原爆の理屈(核分裂反応)はこれから使わねばいけない。この原子力のエネルギーが人類の文化の発展に貢献するようになった時、初めて原爆被害者は心の安らぎを覚えるであろう」と話し、原子力の本質を見事に捉えていると評価した[60]

福島第一原子力発電所事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを務めた、長崎大学福島県立医科大学副学長の山下俊一はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作って行くべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き[61]、『原子力文化』2012年1月号の作家森福都との対談では、それを「わが祖国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている[62]

日本エネルギー会議発起人で工学者の澤田哲生は「原爆=原発ではない。両者を区分けするのが人間の叡智であり、それを実現するのがエンジニアリングです。そこに永井隆博士の願いがありました」[63]と語っている。


永井は原子力の平和利用に期待をかけたが、一方で原子力より先の学問があるという考えを持っていた。

このたびの戦争で、原子学をはじめ、たくさんの進歩がありましたが、同時に世界中で死者二千二百六万、傷者三千四百四十万、財産損害三千三百億ドル。全参加国の戦費一兆一千百六十九億一千百四十六万三千八十四ドル、という損害が出ています。これだけの人の命と、お金とを平和文化の方へ使ったら、原子力よりもっと先の学問が、すでにわたくしたちの手の中に入っていたでしょう[64]

平和[編集]

永井は『いとし子よ』の中で日本国憲法についてふれ、自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと書いている。

私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)愛するものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。いとし子よ。敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ[65]

家族[編集]

永井夫妻は1男3女、長男・誠一(まこと)、長女・郁子(いくこ)、次女・茅乃(かやの)と三女・笹乃(ささの)の子供をもうけたが、長女と三女はいずれも夭折した。

長男・誠一は時事通信に入社(記者)し定年退職まで同社に勤務、退社後となる1998年(平成10年)5月から長崎市立永井隆記念館館長を務め、父の伝記『永井隆』も著したが、2001年4月4日肺炎で亡くなった[66]

次女・茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。晩年には信者としてカトリック枚方教会の売店で受付をするかたわら[67]、父のことに関する活動にも関わっていたが、2008年2月2日の永井隆生誕百周年前日に肝細胞がんで亡くなった[68]

記念[編集]

1950年(昭和25年)に永井が私財で作った子供のための図書室『うちらの本箱』を前身とした長崎市立永井図書館が1952年(昭和27年)に完成し、1969年には市立永井隆記念館と改称[69]1970年10月には永井隆が幼少時代を過ごした島根県三刀屋町(雲南市)にも永井隆記念館が開館し、2年後の1972年10月20日両記念館は姉妹館となった[70]

1991年(平成3年)には旧三刀屋町で「永井隆平和賞」が創設され、「平和を願い、人々を愛する心」を育て、やさしく夢のある21世紀の世界をつくるために、全国から「愛」と「平和」をテーマにした作文・小論文を毎年募集している[71]

長崎市では1995年(平成7年)に被曝者医療の向上・発展、被爆者の福祉の向上を通じ世界平和に貢献し、将来にわたる活躍が期待される国内外の個人または団体を隔年毎に表彰する目的で永井隆 平和記念・長崎賞が制定された[72]。そして2003年(平成15年)4月1日、永井の精神の継承及び国内外のヒバクシャ(被ばく者)を対象とした医療を提供する拠点として、永井隆記念国際ヒバクシャ医療センターが長崎大学病院に設立された[73]

当時、長崎大学大学院教授の山下俊一はこれら2つについて、「私自身は同窓の一後輩に過ぎませんが、長崎大学付属病院に永井隆記念国際ヒバクシャセンターを創設し、さらに長崎ヒバクシャ医療国際協力会の国際活動の一環として永井隆記念長崎平和賞(原文ママ)を設けることで、故久松シソノ看護部長の思いをはじめ博士を知る関係者のご遺志を継いで長く博士を顕彰したいと努力しています」と述べている[74]

同年には永井博士の遺志を継承する目的で特定非営利活動法人・長崎如己の会も設立された[75]

大韓民国でも2004年 (平成16年)に大邸大司教区の李文煕(イ・ムニ)大司教(当時)が韓国如己の会設立[76]2010年(平成22年)に「如己愛人賞」を創設し[77]、永井に関する本の感想文を募集している。

著書[編集]

永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。

翻訳[編集]

  • 世界と肉体とスミス神父
  • 野鼠

編著[編集]

  • 原子雲の下に生きて
  • 私達は長崎にいた: 原爆生存者の叫び

映画[編集]

  • 1950年(昭和25年)、大庭秀雄監督による『長崎の鐘』が公開された。
  • 1983年(昭和58年)、木下惠介監督による『この子を残して』が公開された。
  • 2012年(平成25年)、イギリスのメジャー・オーク・エンターテイメントは、永井の生涯を題材とした『All That Remains: The Story of Takashi Nagai(残りしもの: 永井隆の物語)』を2013年完成を目標に撮影しており、[78]ロンドン在住の俳優、レオ芦澤、ユナ・シン、メグ久保田、梶岡潤一らが出演している。

関連施設[編集]

  • 如己堂、永井隆記念館 (長崎県長崎市)
  • 浦上天主堂 (長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
  • 永井隆博士記念館 (島根県雲南市)
  • 長崎市立山里小学校 あの子らの碑

脚注[編集]

  1. ^ 片岡(1961)、10‐11頁
  2. ^ a b 片岡(1961)、14頁
  3. ^ 片岡(1961)、19頁
  4. ^ 片岡(1961)、29頁
  5. ^ 片岡(1961)、26頁
  6. ^ カルシュ先生の想いで 投稿日:2009年2月10日(火)、奥谷タイムトンネル
  7. ^ グリン(1989)、28頁
  8. ^ 永井隆博士が旧制松江高校時代の恩師にあてた直筆ハガキを展示 2011年12月12日、島根大学
  9. ^ 片岡(1961)、25頁
  10. ^ 片岡(1961)、33頁
  11. ^ 片岡(1961)、21頁
  12. ^ 片岡(1961)、30頁
  13. ^ 片岡(1961)、26頁
  14. ^ 片岡(1961)、50頁
  15. ^ 片岡(1961)、42頁
  16. ^ 片岡(1961)、42‐43頁
  17. ^ 片岡(1961)、59頁
  18. ^ a b 片岡(1961)、60頁
  19. ^ 片岡(1961)、61頁
  20. ^ 長崎大学病院 放射線科
  21. ^ 片岡(1961)、62頁
  22. ^ グリン(1989)、133‐134頁
  23. ^ グリン(1989)、156‐157頁
  24. ^ a b 片岡(1961)、63-64頁
  25. ^ 片岡(1961)、119頁
  26. ^ a b c d 片岡(1961)、156頁
  27. ^ 片岡(1961)、142-143頁
  28. ^ 片岡(1961)、360頁
  29. ^ 片岡(1961)、83頁
  30. ^ a b 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター 名誉センター長 故久松シソノ先生
  31. ^ 片岡(1961)、172頁
  32. ^ 片岡(1961)、173頁
  33. ^ 片岡(1961)、174頁
  34. ^ 永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)90-91頁
  35. ^ 永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)37頁
  36. ^ 片岡(1961)、189頁
  37. ^ 県内・墓碑銘(2012年12月25日更新) 長崎新聞
  38. ^ 日本ニュース戦後編第135号|NHK戦争証言アーカイブス
  39. ^ 片岡(1961)、243頁
  40. ^ a b 片岡(1961)、246頁
  41. ^ 片岡(1961)、309‐310頁
  42. ^ 片岡(1961)、311頁
  43. ^ 片岡(1961)、339頁
  44. ^ 片岡(1961)、341頁
  45. ^ 片岡(1961)、342頁
  46. ^ 片岡(1961)、349頁
  47. ^ 片岡(1961)、349‐350頁
  48. ^ a b 片岡(1961)、356頁
  49. ^ 片岡(1961)、351頁
  50. ^ a b 片岡(1961)、357頁
  51. ^ 片岡(1961)、358頁
  52. ^ 坂本墓地、あっとながさき
  53. ^ 第006回国会 考査特別委員会 第11号 昭和二十四年十二月一日(木曜日)
  54. ^ 「原爆は神の摂理」か2000年8月1日掲載、長崎新聞
  55. ^ 永井隆 生命の河―原子病の話 サンパウロ 2008年 215-216頁
  56. ^ 原子爆弾救護報告書:永井隆. 原子爆弾救護報告書:永井 隆
  57. ^ a b 永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)18頁
  58. ^ a b c d 永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)19頁
  59. ^ 永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)20頁
  60. ^ L 特別講演 「原子力利用の現状と見通し」
  61. ^ 放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(8) ――山下俊一氏はリスコミをどう理解してきたのか? 島薗進・宗教学とその周辺
  62. ^ 原子力文化 2012年1月号 新春対談 福島のいま、そして明日-地域住民参加型の健康管理が必要に-
  63. ^ [enercon.jp/pdf/008_sawada_denkijouho.pdf澤田哲生 脱原発較調にぶれてはならない原子力研究 - 電気情報2011年11月号- 日本エネルギー会議]
  64. ^ 八月十五日に思う 永井隆 小学五年生 1950年8月号
  65. ^ 永井隆 いとし子よ サンパウロ 2002年 207-209頁
  66. ^ 永井隆博士の長男、記念館館長 永井誠一氏が死去, ナガサキ・ピースサイト 2001/04/06
  67. ^ 筒井茅乃さんを偲ぶ、カトリック枚方教会
  68. ^ 筒井茅乃さんが死去 父・永井博士の遺志継承 47NEWS
  69. ^ 永井隆記念館
  70. ^ 雲南市永井隆記念館
  71. ^ 愛と平和がテーマ 島根県雲南市「永井隆賞」小論文や作文を募る ヒロシマ平和メディアセンター 2013年4月23日
  72. ^ 永井隆 平和記念・長崎賞について、NASHIM
  73. ^ 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター
  74. ^ 推薦の言葉 山下 俊一、永井隆博士の思想を語る 山内 清海 著 1頁
  75. ^ 特定非営利活動法人 長崎如己の会
  76. ^ 機関紙「神の家族」- ODN 2010年9月号、カトリック浦上教会
  77. ^ 韓国「如己愛人賞」受けた中高生が追悼行事参加へ 8日に来崎 2010年8月4日 長崎新聞
  78. ^ allthatremains - Major Oak Entertainment

参考資料[編集]

  • 長崎市永井隆記念館資料
  • 永井隆『この子を残して』(講談社七つ森書館
  • 片岡弥吉 『永井隆の生涯』1961年 サンパウロ ISBN-4~8056-6400-2
  • パウロ・アロイジウス・グリン 『長崎の歌』1989年 マリスト会

関連項目[編集]

動画・音声[編集]

外部リンク[編集]