サン=ジョン・ペルス
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サン=ジョン・ペルス(Saint-John Perse, 1887年5月31日 - 1975年9月20日)は、本名をアレクシ・レジェ(Alexis Léger)というフランスの詩人、外交官。1960年にノーベル文学賞を受賞した。
人物[編集]
ペルスはグアドループのポワンタピートル(Pointe-à-Pitre)で生まれた。父親は弁護士でグアドループに住んでいた。ペルスの家族は家族が所有する2つのプランテーションの管理をしていて、1つはコーヒー、もう1つはサトウキビを栽培していた。
1897年、グアドループの議会初の現地出身の議長であるエジェジップ・レジティミュス(Hégésippe Légitimus)は、入植者に対する報復的政策を打ち出した。ペルスの家族はフランスに戻り、ポーに住むこととなった。ペルスはフランス本国に疎外感を抱き、ハイキング、フェンシング、乗馬、セーリングなどのスポーツにのめり込むようになっていった。
1904年、バカロレア資格を得て、ボルドー大学で法学を学び始めた。また文化クラブに顔を出すようになり、そこでフランシス・ジャム、ポール・クローデル、オディロン・ルドンらと出会った。処女作であるロビンソン・クルーソーの翻訳を出版し、次にピンダロスの翻訳を手がけた。1907年、父親が亡くなり、家庭の財政状況が厳しくなって大学を退学したが、学位はを取得することができた。Elogesを1910年に出版した。
1911年、フランス外務省に入省し、1年目はスペイン、ドイツ、イングランドで働いた。第一次世界大戦が始まると、マスコミ担当を任された。1916年から1921年にかけ、北京のフランス大使館で働いた。1921年、ワシントンで行われた軍縮会議に出席した際に、首相だったアリスティード・ブリアンに見初められ秘書となった。パリではアンドレ・ジッドやポール・ヴァレリーの主催する文芸サークルや、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ナディア・ブーランジェ、フランス6人組らがいた音楽サークルに参加した。
1924年、サン=ジョン・ペルスというペンネームを初めて用いて『Anabase 遠征』を出版した。1932年にブリアンが亡くなり、フランス外務省の要職に就いた。1933年から1940年にかけ政府の不安定な時期に外務次官を務めた。1938年に行われたミュンヘン会議ではチェコスロバキアのドイツへの領土の譲渡に反対したが失敗に終わった。1940年にヴィシー政権により職を解任され、フランスを離れアメリカ合衆国に亡命した。
ヴィシー政権は、レジオンドヌール勲章を剥奪し市民権も奪った。パリの留守宅は占領してきたドイツ軍によって荒らされた。ペルスはアメリカ議会図書館に勤務するまで、しばしば財政的困難に陥った。『Exil 流適』は、その時の作品である。後にハーバード大学でも教えるようになった。
名誉回復がされたが戦後も、アメリカ合衆国メイン州など各地を転住しつつ留まった。1957年、プロヴァンスに別荘が提供され、フランスとアメリカを行き来しながら生活した。1958年に裕福なアメリカ人ドロシー・ラッセルと結婚した。スウェーデンの外交官で、第2代国際連合事務総長のダグ・ハマーショルド(訳書に「道しるべ」、みすず書房)と深い交流があり、ノーベル文学賞に推薦したのも彼である。近年、英語版で往復書簡『The Poet and the Diplomat 詩学と外交』が出された。
1960年度ノーベル文学賞を受賞した。1965年、ダンテ生誕700年記念式典で講演した。1975年にプロヴァンスの別荘で亡くなった。
邦訳[編集]
- 『遠征 Anabase』福田陸太郎訳 昭森社、1957
- 成瀬駒男訳『世界詩人全集20 フランス編』 新潮社、1969
- 『サン=ジョン・ペルス詩集』多田智満子訳 思潮社、1967 新版1975
- 『風』(2006)、『鳥』(2008) 有田忠郎訳 書肆山田
- 『サン=ジョン・ペルス「遠征」研究』 松浦嘉一 非売品(1968)
- 『詩と詩論 無限 第15号 サン=ジョン・ペルス特集』政治公論社 1964
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