名人 (小説)

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名人
The Master of Go
著者 川端康成
イラスト 題簽:呉清源
発行日 1954年7月10日
発行元 文藝春秋新社
ジャンル 長編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本、クロス装
ページ数 209(写真1、本文208)
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名人』(めいじん)は、川端康成長編小説1938年(昭和13年)の6月から12月にかけて打ち継がれた21世本因坊秀哉名人の引退の観戦記を元に、小説の形にまとめたもので、川端文学の名作の一つとされている[1]。秀哉名人没後の翌々年の1942年(昭和17年)から書き出され、途中の中断を経て十数年がかりで完成と成った[1]

概要[編集]

家元制最後の本因坊であり、古い時代の権威の象徴であった秀哉の最後の対局の姿を見た川端康成自身が、新聞の観戦記者からの視点で「不敗の名人」が敗れた姿を描いた記録小説で、名人への挽歌に「古い日本への挽歌」、芸術家の理想像を重ねた作品である[2][3]。川端の作品としては、女がほとんど出てこない点で地味な印象の作品だが、という「静」の世界の激しさと静けさを強く張り切った冷徹な筆で綴り、勝負の世界に生き、一芸に執して現実の多くを失った「名人」の、その純粋な人生の結末を的確に描いている[3]。東洋の「芸」である囲碁に一途であった人に対するその「敬尊」は、「芸道」に生きるものの鬼気、幽気が相通じて成った作で[4]、それは1953年(昭和28年)に書かれた『呉清源棋談』などにも流れている[4]芥川龍之介の『枯野抄』にも通じる円熟した作品である[要出典]

発表経過[編集]

川端康成はこの作品を、秀哉名人の死の翌々年1942年(昭和17年)から書き始めていたが一旦中絶し、稿を改めて1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて各雑誌に分載した。その完成版と、それ以前の戦中の未想熟版の経過は以下のようになる。

未想熟版
先ず1942年(昭和17年)、雑誌『八雲』8月号に「名人」(序の章で中断)が掲載された。翌年1943年(昭和18年)、雑誌『日本評論』8月号と12月号と、翌年1944年(昭和19年)3月号に「夕日」(未完)が掲載された。そして戦後の1947年(昭和22年)、雑誌『世界文化』4月号に「花」(未完。「名人」と同じ)が掲載されて、中断となった。
完成版
1951年(昭和26年)、雑誌『新潮』8月号に「名人」が掲載された。翌年1952年(昭和27年)、雑誌『世界』1月号に「名人生涯」、同誌5月号に「名人供養」が掲載された。そして翌々年1954年(昭和29年)、同誌5月号に「名人余香」が掲載された。
定本『名人』
『名人』と称されているものには二種類あり、上記の「名人」「名人生涯」「名人供養」の3編をまとめた全41章の『名人』は、1952年(昭和27年)に新潮社より刊行の『川端康成全集第11巻 虹いくたび 日も月も 名人』に収録された。もう一つは、先の3編に「名人余香」を加え、4編をまとめた全47章(先の41章目は完全に取り払っている)の『名人』であるが、これは1954年(昭和29年)7月10日に文藝春秋新社より刊行の『呉清源棋談・名人』に収録された。
この41章版と47章版のどちらを定本にするかは川端研究者により意見が分かれ[5][3]、未だに決着がついていない[3]。なお、41章版を定本とする派は、47章版で出した本が『呉清源棋談・名人』しかないところから、川端自身が41章版を重んじ評価していたのだ主張し[5][3]、41章版の終章の方が緊迫感のある「動」で終わり、筆が冴えているとしている[3]
41章版の『名人』の現行版は新潮文庫より刊行されている。また、観戦記他、囲碁に関連する諸作品は新版の『川端康成全集第25巻』に収録されている。翻訳版は、閔丙山訳(韓題:Myeong In)、エドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Master of Go)をはじめ、世界各国で行われている。

対局の概要[編集]

秀哉名人の引退に当たり、『東京日日新聞』はその引退碁を企画し、リーグ戦で勝ち抜いた木谷實七段が対戦相手に選ばれた。時に、秀哉65歳、木谷29歳だった。木谷の先番で1938年(昭和13年)6月26日芝公園の「紅葉館」で打ち始められ、途中8月中ごろから11月中ごろまで、秀哉名人の体調不良による長期入院をはさみ、足かけ半年をかけて12月4日伊東市の「暖香園」で打ち終えた。終わった時間は午後2時42分で、勝負は木谷の5目勝ちであった。この碁が命取りとなり、秀哉名人はこれを最後の対局として、翌々年1940年(昭和15年)1月18日に満66歳で生涯を閉じた。

作品背景[編集]

川端自身も若い時からを打ち、文壇囲碁仲間内では打ち手と知られていたため、秀哉名人の引退碁観戦記を『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』両紙に連載した[4]。この観戦記は川場自身が、「私の精励な凝り性の一面」[6]が出ていると述べているように、観戦記としても極めて特色のある画期的なものだった[4]。川端は秀哉名人に、「この世でめぐりあえることは想像もしていなかった純粋無垢な姿」を見出し[7]、翌々年の名人の死をきっかけにして作品化に至った。

1940年(昭和15年)1月18日に秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなったが、川端はその前日の1月17日の「紅葉祭」(尾崎紅葉の『金色夜叉』の「今月今夜の月」の日)のために熱海に滞在しており、秀哉名人の死の2日前に会って最後の将棋の相手をしていた。そして名人の死に駆けつけて、死顔の写真も撮ったという縁があった。

大竹七段[編集]

この小説では、主人公の「私(浦上)」(川端康成)以外、ほぼ全員が実名で登場しているが、対局者の木谷だけ「大竹七段」と名前を変えられている。理由について川端は『呉清源棋談・名人』の「あとがき」で、次のように述べている。

「名人」は題名が示す通り主になつた。相手の大竹七段は従である。作中、大竹七段と日日新聞の囲碁記者だけは仮名にした。大竹七段が木谷實七段(当時)なのはまぎれもない。名人を本名として相手の木谷七段は仮名としたのも、他意あつてのことではないが、この小説が作中の対局を必然に虚構して、迷惑をおよぼすだらうといふ気持から、書きはじめた時に、故人の名人は本名のままにしたけれども、木谷七段は仮名を用い、その後これにしたがつたまでである。

「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)[6]

木谷の弟子に大竹英雄がいるが、これは偶然である。このためある川端の研究者が「名人の対戦相手がまだ生存している」と聞いて、大竹の元を訪れてきたというエピソードがある。大竹英雄は、後にタイトル制の名人の座に就いている。

あらすじ[編集]

1940年(昭和15年)1月18日朝、数え年67歳の第21世秀哉名人熱海のうろこ屋旅館で亡くなった。私はちょうどその日の前日に行われた「紅葉祭」(尾崎紅葉金色夜叉』の「今月今夜の月」を記念したもの)に出席するために熱海を訪れており、秀哉名人が亡くなる2日前には名人と将棋をした。名人の訃報を聞き、駆けつけた私は、遺族の依頼により名人の死顔の写真を撮った。私は出来上がったその写真を眺めながら、一昨年1938年(昭和13年)6月26日から12月4日にかけて観戦記者として秀哉名人の引退碁の勝負を見守った時のことを回想する。

30年の上、「黒」を持ったことがなかった「不敗の名人」であった秀哉名人が迎えた引退碁は、「封じ手」という名人が初めて経験する規則であった。すべて規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかのような今日の合理主義に、名人は生涯最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。秀哉名人は途中、体調悪化で入院するなどから、大竹七段がこの碁を放棄すると度々言い張ったりといろんな紛糾が起き、中断の危機があったが、勝負は11月25日に再開された。

12月1日の戦争のような「黒」と「白」の勝負は、大竹七段が封じ手を戦術に使ったのか、卑怯で陋劣なものだった。素人の「私」には、白130の一手が「不敗の名人」の敗着であったとはまだ分からなかったが、秀哉名人は私に、大竹七段の黒121手について、「あんな手を打っておいて、二日の休みのあいだに、調べようというのですよ。狡い」と吐き出した。しかし碁盤にまた向かった秀哉名人は顔色や素振りには出さなかった。

12月4日の朝、坊主のように頭を刈った秀哉名人は終局の碁盤に向かった。全力を挙げて打った「不敗の名人」はついに引退碁に敗れた。翌々年1940年(昭和15年)の正月7日に、私は秀哉名人と碁を打ったが、秀哉名人は石をしっかり指につまめなくて、軽く落とすような石にさえ音がないようだった。そして16日の午後、熱海で再び秀哉名人と将棋の相手をしたが、その翌々日の18日の夜明け前に秀哉名人は死んだ。名人の遺骸がその日東京へ帰るため自動車で運ばれた。いそいで買った花束を、私は名人のいる車のなかの夫人に渡した。

登場人物[編集]

年齢は数え年

私(浦上)
小説家熱海の旅館で亡くなった秀哉名人の死顔を写真に撮る。その一昨年、名人の引退碁の観戦記者として、観戦記を新聞に64回にわたって連載していた。
本因坊秀哉
65歳。囲碁棋士。第21世本因坊秀哉名人。「不敗の名人」と呼ばれた。体重八、身長五しかないが、碁盤の前に座ると大きく見える胴長。顔も長めで大きく、鼻、口、耳などが大きく、顎の骨が出っ張っている。ふくらはぎにまるで肉がない。心臓病を患っている。世田谷区宇奈根で妻と二人住まいで、子供はいない。跡目を考えていた愛弟子の小岸壮二六段は1924年(大正13年)に27歳で若死した。
大竹七段(モデルは木谷實
30歳。囲碁の棋士。秀哉名人の引退碁の相手。内弟子の少年少女数人を含めた16人家族。体重十六貫。五段当時に23歳で結婚し、三人の子供がいる。長女は6歳、次女は4歳、長男は8ヶ月の桃太郎のような赤ん坊。
呉清源
中国出身の囲碁の棋士。大竹七段の好敵手。長野県富士見高原診療所で療養している。「私」はそこへ見舞いに行く。
その他の人々
秀哉名人の夫人。大竹夫人。大竹七段の子供や内弟子たち。小野田六段。村島五段(秀哉名人の門弟)。村松梢風安永四段。記録係の少年棋士・少女棋士。将棋関根13世名人(71歳)。将棋の木村名人(34歳)。聯珠高木名人(51歳)。木村伊兵衛。「東京日日新聞」の五井記者と黒崎記者と砂田記者と伊東通信員。岩本六段。藤沢五段。久米正雄(「東京日日新聞」の学芸部長になっていた)。前田陳爾六段(秀哉名人の門弟)。日本棋院の八幡幹事。将棋の土居八段。東京の聖路加病院の川島博士と稲田博士。宮ノ下の岡島医師。軽井沢に帰る「私」が車中で会った囲碁好きのアメリカ人文藝春秋社の斎藤竜太郎。理髪師。小杉四段。手のひら療法の術者・東郷。宿の女中高橋四段(秀哉名人の義弟。夫人の弟)。「私」の妻。「紅葉祭」の写真師

作品評価・解説[編集]

『名人』は男性の世界が描かれ、川端文学の中では特異な作品であるといわれているが、引退碁観戦での名人の、「おそらくこの世でめぐりあえることは想像もしていなかった純粋無垢な姿」の発見や[7]、名人の死顔に対する、「一芸に執して、現実の多くを失つた人の、悲劇の果ての顔」という感慨がモチーフとなっており、そういった創作へのエネルギーを生み出したものは、やはり川端の「魔界」の主題とも無関係ではないとされている[3]。また、『名人』の背景としての時代、「戦争」「敗戦」という社会状勢の中で、執筆・改変・完結していった経緯から、そこに主題の根底になるものがあることも指摘されている[8][3]

羽鳥徹哉は、東洋古来の芸道としての碁が、近代の行き過ぎた合理主義に敗れる姿としての秀哉名人を捉え、『名人』は、名人への挽歌を「古い日本への挽歌」として捉えようとしたと解説し[2]山本健吉も、「もう秀哉名人のような、古風な“芸道”の人として対局に臨む人はなくなった」[1]と述べ、囲碁でも将棋でも、スポーツと同じように選手権を争う仕合と化した時勢に触れつつ、合理の世界と非合理の世界の関係から生じる「“いにしえ”の世界の崩壊」であったと解説している[1]

また山本健吉は、川端が「名人は地獄の人のやうだ」と言うように、「勝負の世界は修羅道である」とし[1]、「名人の神韻縹渺として風格」も、「その反面のあらゆる人間的弱点」も、「大竹七段の現世的・合理的、ある点ではその“芝居気”さえある生活態度」やその碁風も、川端は冷徹な眼で見逃していないと指摘しながら[1]、それら一切を吸収して冴えかえっている碁盤の世界は、人間世界の日常の時間から隔たった世界であり、対局者の性格も心理も全て消し去った、「厳しく抽象的の世界」として存在していることを、川端は人々に訴えていると解説している[1]

今村潤子は、川端が秀哉名人の敗北を、一つの時代の終焉()としてはっきり描き、その意識の底で「日本の敗戦」と強く係わらせて捉えているとし[3]、「いにしえの人」である秀哉名人と、現代を代表する人物である大竹七段に、時代を象徴させていると述べ[3]、一つの道として囲碁の伝統に生きてきた名人が、あえて現代的な対局法で勝負に臨み、命を賭けて生涯の最後を飾ろうとした姿は、川端が『末期の眼』で語っているところの、勝負の鬼といわれた名人の「残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上がつた」[9]姿だったと解説している[3]

そして今村は、名人が近代の合理的戦法に敗けながらも、敗着(敗戦)そのものにこだわっていないことに着目し、勝負には負けたが芸術として棋面を創ろうとし、「一筋の乱れもなく戦つた」名人の姿に、「精神の高雅さ」を見ている川端の『名人』の描き方は決して悲観論に終わっていないとし[3]、「真に芸に生きた人の雄姿」である名人の生涯最後の勝負碁における負けは、「新しい合理主義が日本に持ち込まれても、日本の古い伝統の中に潜む美は微動だにしない」という矜持に繋がっていると解説している[3]。そして、名人の死に触発された川端が、名人の敗着を折からの敗戦と重ね合わせたことにより、名人の碁は「日本の古い伝統芸術の象徴」となり、そこでの名人の生き方は「戦後の日本人の在り方の一つの理想像」となったと考察している[3]

さらに今村は、「勝つことよりも真の芸術の世界に生きた名人」と、「新しい戦法によって狡く勝った大竹七段」が鮮やかな対比で描き出されていることに触れ、それは「醜と美の抗争」であったとみてよいとし、名人の戦いは芸術家としての芸術の完成に向けての「自己との戦い」であったと述べている[3]。そしてそれは、「名人の自己投企の純粋性」であり、川端の「魔界」でもあり、芸に生き抜いた名人の姿を、川端は「の勝利」として捉えているとし[3]、『名人』における「美」とは、川端のいうところの、「美しいものの模写ではなく、その背後に潜む真の接近」であり、それはそのまま川端文学の「美」の定義となり得ていると解説し[3]、川端は名人の姿に「芸術家としての理想像を造形した」と述べている[3]

おもな刊行本[編集]

  • 呉清源棋談・名人』(1954年7月10日)
    題簽:呉清源。口絵写真(撮影:濱谷浩)。写真1枚+本文208頁
  • 文庫版『名人』(新潮文庫、1962年9月5日。改版2004年)
    カバーデザイン:新潮社装幀室。付録・解説:山本健吉。引退碁の勝負碁盤表。
  • 『川端康成全集第11巻 虹いくたび 日も月も 名人』(新潮社、1952年)
    収録作品:虹いくたび、日も月も、名人
  • 旧版『川端康成全集第十巻』(新潮社、1969年)
    収録作品:名人、日も月も、水月、ほか
  • 新版『川端康成全集第11巻』(新潮社、1980年12月20日)
    収録作品:虹いくたび、日も月も、名人
  • 新版『川端康成全集第25巻』(新潮社、1981年8月20日)
    収録内容:囲棋観戦記、本因坊名人引退碁観戦記、観戦記―本因坊名人呉四段対局―、観戦記―木谷・呉三番大棋戦―、呉・本因坊十番碁第一局を観て、呉清源棋談、囲棋随筆、棋の観戦記を書いて、本因坊名人を偲ぶ、印象、呉清源その他、日に新たなる者、新布石青春、名人(プレオリジナル)、本因坊秀哉名人、名人、夕日、花、未亡人

外国語版[編集]

  • Myeong In, Ming Byeong Son (閔丙山)訳, Shingu Munhwa Sa, Seoul, 1969
  • The Master of Go, Edward G. Seidensticker訳, Alfred A. Knopf, New York, 1972
  • Le Maître ou Le tournoi de Go, Sylvie Regnault-Gatier訳, Albin Michel, Paris, 1975
  • Velemajstor (Velemajstor, Snežna zemljaの中), Ljiljana Đurović訳, Slovo ljubve, Beograd, 1981
  • Mingren, Liu Hua Ting (劉華亭)訳, Xingguang Chubenshe, Taipei, 1985
  • De meester van het go-spel, Annemarie van Frankenhuysen訳 (英語版からの重訳), Uitgeverij BZZToH, 's-Gravenhage, 1987
  • Meidžin (Tanečnice z Izu a jine prózyの中), Vlasta Winkelhöferová 及び Miroslav Novák訳, Odeon, Praha, 1988
  • Go ustasi, Belkıs Çorakçı (Dişbudak)訳 (英語版からの重訳), Remzi Kitabevi, İstanbul, 1992
  • Il Maestro di Go, Cristina Ceci訳, Arnoldo Mondadori, Milano, 1995
  • Mingren, Ye Wei Qu (葉渭渠)訳, Zhongguo Shehui Kexue Chubenshe, Beijing, 1996
  • Meijin - Mistrz go, Henryk Lipszyc訳, Wydawnictwo Elay, Bielsko-Biała, 2004
  • El Maestro de Go, Amalia Sato訳 (英語版からの重訳), Emecé Editores S.A., Buenos Aires, 2004
  • Maestrul de Go, Flavius Florea訳, Humanitas Fiction, Bucuresti, 2007

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 山本健吉「解説」(文庫版『名人』)(新潮文庫、1962年。改版2004年)
  2. ^ a b 羽鳥徹哉「『名人』論」(『川端康成作品論集成 第5巻』)(おうふう、2010年)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 今村潤子『川端康成研究』(審美社、1988年)
  4. ^ a b c d 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  5. ^ a b 松坂俊夫「『名人』小考」(『現代国語シリーズ「川端康成』)(尚学図書、1982年)
  6. ^ a b 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)(文藝春秋新社、1954年)
  7. ^ a b 川嶋至『「名人」試論』(日本近代文学、1966年)
  8. ^ 小林一郎「『名人』論」(『川端康成研究叢書7 鎮魂の哀歌』)(川端文学研究会編 教育出版センター、1980年)
  9. ^ 川端康成『末期の眼』(文藝 第2号・1933年12月号に掲載)

参考文献[編集]

  • 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  • 文庫版『名人』(付録・解説 山本健吉)(新潮文庫、1962年。改版2004年)
  • 『川端康成全集第十巻』(新潮社、1969年)
  • 今村潤子『川端康成研究』(審美社、1988年)
  • 『川端康成作品論集成 第5巻』(おうふう、2010年)

関連項目[編集]