成田空港問題の年表

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成田空港問題 > 成田空港問題の年表

成田空港問題の年表(なりたくうこうもんだいのねんぴょう)は、三里塚闘争をはじめとする、成田国際空港(旧・新東京国際空港)に係る諸問題に関連する出来事を時系列順に述べるものである。

なお、年表中の役職はいずれも当時のものである。

年表[編集]

1960年代[編集]

1960年[編集]

1961年[編集]

1962年[編集]

  • 3月31日:昭和37年度予算に新空港調査費118万円が計上される。
  • 11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、池田内閣が第2国際空港建設方針を閣議決定。

1963年[編集]

  • 1月:具体的な候補地の調査が始まる[1]
  • 4月17日友納武人千葉県知事に就任。
  • 5月1日:航空局に東京第2国際空港計画室が設置される(翌月「新東京国際空港計画室」に改称)。
新東京国際空港計画案(当初)
  • 6月10日運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず。
  • 6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野一郎建設相が「木更津沖案」を発表。
  • 7月3日:友納千葉県知事が、副知事・全部長・審議室主幹を集め、空港問題について初庁議を開く。
  • 7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎自民党副総裁、友納千葉県知事が初の四者会談。浚渫業を営む小川栄一がイギリスの港湾埋立業者に設計させた青写真を示して木更津案を推す河野に対し[2]、綾部が運輸省の浦安案を主張。河野は「綾部君、君は事務当局がいないと何もできないのか」となじり、険悪な雰囲気となる。結局具体的な建設地について一致することはなかったが、①新空港は東京湾内千葉県側に設置する②運輸省・建設省・千葉県で協議して、設置場所を決定する③1964年度から着工する の3点が川島のとりなしによって一旦合意。友納知事は帰庁後「新東京国際空港対策協議会」を立ち上げ、運輸省・建設省との話し合いの進展に応じられる体制作りに取り組む。
  • 7月30日:運輸省内で新空港関係各省の実務者での打合せが行なわれる。運輸省から栃内一彦航空局長、建設省から町田充計画局長、農林水産省からは関係課長ら十数人が出席、千葉県側からも渡辺一太郎副知事と高橋良平審議室主幹が出席する。航空管制上の問題から浦安沖を推す運輸省と埋立工事を考慮して木更津を適地とする建設省が対立する。この中で内陸部を含めて検討を行うこととなり、千葉県富里村と茨城県江戸崎町が候補に挙げられる。運輸省では前年11月の閣議決定より前に極秘裏に富里を最有力候補として検討していたとされる[3]
  • 8月8日:運輸省に航空局長及び港湾局関係者、建設省・農林省関係者、岩上二郎茨城県知事、千葉県の高橋主幹らが集まり、運輸省側から「建設・運輸両相の了承を得たので千葉、茨城両県の内陸部について調査をしたい」と切り出される。岩上知事は「この問題で千葉県と争う気持ちは全くない。茨城県側に決まれば協力は惜しまない」と応じる。一方、高橋主幹は千葉県の立場として「大臣発言で千葉県内ではいろいろの騒ぎや波紋が生じた。しかし、これ以上騒ぎを大きくするのは本意ではない。四者会談を尊重したいので、第2回四者会談を開き、その方針が決定するまでは内陸案に応じられない」と発言。
  • 8月12日:友納千葉県知事が、県議会全員協議会で「運輸省は北総台地を候補地として検討したい意向である」と報告。高橋主幹も石井美雄富里村長・山本昇八街町長に同様の連絡。
  • 8月20日:綾部運輸相が候補地および規模について航空審議会(会長:平山孝)に諮問、富里案が公式に登場する。航空審議会では、パイロット・管制技術者・土木技術者等各分野の専門家からなる小委員会を設け、各候補地について、空域・航空管制・気象条件・地形・施工条件・都心とのアクセス手段など多岐の観点から比較検討した[1]
  • 8月27日:第2回四者会談(綾部運輸相、河野建設相、川島副総裁、友納知事)で綾部運輸相が、羽田を残す以上は航空管制上の理由で木更津・浦安ともに無理があるとして、北総台地の富里や霞ヶ浦周辺案を考えてみたいと説明。木更津案を譲らない河野建設相は「羽田など廃港にしてしまえばいい」と激高し、川島も「富里だって?1500戸の農家をどうやって移転させるのだ。羽田と管制塔を一緒にして浦安沖に作ったほうが有利だ」と主張した。運輸省が空港建設の主体となる空港公団を発足させるための45億円予算について大蔵省と折衝中である旨も明かされる。友納が後に出した著書『疾風怒濤』によれば、別室に控えている事務次官や航空局長を呼んでから説明しようとした綾部に対し河野が「綾部君、君は吏僚がいなければ議論ができないのか、突然北総台地等を持ち出したのは吏僚にいわれたからか、君はそれでも大臣か」と怒鳴り、綾部も「埋め立て屋のいう通りにいかないよ」と河野の背後にいる浚渫業者の存在をあてつけて言い返した[2]
  • 9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。
  • 9月18日:この日から富里村・八街町の推進派と反対派の双方が陳情を開始。
  • 10月7日:富里村空港反対部落連合会(代表:久保忠三)が約500人で反対陳情を行う。
  • 10月8日:富里村空港反対部落連合会が県庁デモを行う。同日、浦安町議会が臨時議会で飛行場建設絶対反対の意見書を採択、山崎清太郎議長名で県知事・運輸相宛に提出。
  • 12月11日:航空審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。これに対し河野が不賛成を表明し、池田勇人首相も「答申の東京周辺にこだわらず調査するよう」指示するなど、閣内で見解が分かれる。
  • 12月19日:友納千葉県知事が綾部運輸相と栃内航空局長を訪ね、「答申まで出た今、それを否定する意見や再調査しなおすという発言は、閣内不統一のそしりを受けよう。それでは地元も困る」と詰問。綾部は答申を尊重するとしつつも「広い視野で候補地を探す立場も守る」等とあいまいな態度に終始する。

1964年[編集]

  • 3月4日松永安左エ門の私設シンクタンクである産業計画会議が、新空港の建設整備と運営には民間方式を組み入れることや、羽田空港との管制問題など既存施設にとらわれることなく東京湾内中北部海域(千葉県木更津・幕張沖等)・首都圏東部(八街・富里地区)・首都圏西南部(厚木・相模原地区)等なるべく数多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うことを勧告[4]
  • 3月22日日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議。
  • 5月12日:衆議院建設委員会で河野建設相が、空港の問題については池田首相の命により建設大臣が推進することになっているとして、「東京湾の中にどこか適当な、埋め立て可能であって、地盤のいいところはないかという意味で、いまの海底の調査をいたしておるわけであります。」と答弁[5]
  • 5月25日:友納千葉県知事が、「住民の意思を無視してまで空港が建設されるものではない。県は主管の運輸省なり池田総理といった正規の窓口を通じ、県民感情を背景に話し合いを進める」と、政府内の空港建設を巡る動きについて記者会見でコメント。
  • 5月26日:閣議で河野建設相と綾部運輸相が激しく言い争い、池田首相は「所管は運輸省だが、この問題は東京湾全体を含めて調査してみよう」と結論を下さなかった。
  • 5月27日:衆議院建設委員会で河野建設相が前年12月の航空審議会の答申について意見を述べるつもりがないとしつつ、答申の内容とかかわりなく東京湾中で基礎調査を行っており、河野個人は特に浦安沖を適地として考えている旨を答弁[6]
  • 7月18日内閣改造により、松浦周太郎が運輸大臣就任。
  • 8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。
  • 9月15日:新空港建設について、大蔵大臣農林大臣・運輸大臣・建設大臣・自治大臣防衛庁長官内閣官房長官からなる[1]「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足。
  • 11月10日佐藤栄作内閣が発足。
  • 11月11日:佐藤首相が松浦運輸相に候補地決定を急ぐよう指示。
  • 11月13日:佐藤首相から新国際空港問題懇談会座長に任じられた河野国務相が、「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言、地元を当惑させる。これに対し友納千葉県知事が「河野大臣が内陸部不適当ということ自体は納得できる。だが政府の意見のとりまとめ方に地元の迷惑を考慮しない点があり残念だ」と地元不在で迷走する政府に苦言を呈し、県内の反対派・誘致派の活動が活発化する。
  • 12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など。
  • 12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤栄作首相に提出する。
  • 12月24日伊能繁次郎水田三喜男らの県選出の自民党議員が、友納千葉県知事も交えて緊急会議を開く。新空港を県内に受け入れることでは一致したものの、建設地については意思を統一できなかった。

1965年[編集]

  • 2月3日:友納千葉県知事が川島副総裁や伊能繁次郎とともに佐藤首相と会談し、新空港建設にあたり地元の意向を無視しないよう要請。佐藤首相から「政府としては、新空港の設置に結論を出す段階に来ていない。設置決定の際は地元知事の意見を十分尊重し、事前に相談する」との言質を得た。
  • 2月:松浦運輸相が、記者会見で「新空港は地元の知事や県議会が反対するところには造らない。用地売有金額は知事にも、ある程度責任を負わせるつもり」と発言。これに対し友納知事は「空港お問題に関する閣僚発言はいったいだれが政府を代表しているのか、さっぱりわからない。首相の発言以外は問題にしない」とコメント。
  • 3月:関係閣僚懇が候補地について、①富里のほか、②埋立ての検討も必要な東京湾や霞ヶ浦などについても関係事務次官会議で検討し、早急に調査を実施する、③米軍使用の飛行場について外交ルートで打診する、の3点を決定[1]
  • 4月1日:関係各省事務次官会議で、空域[7]・渉外[8]・土木技術[9]の3小委員会が設置される。
  • 4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催。
  • 6月1日:参議院運輸委員会で新東京国際空港公団法案が可決成立。翌日公布(施行は'66年7月7日)。
  • 6月3日中村寅太が運輸相就任
  • 6月12日秩父宮妃高松宮宣仁親王三笠宮崇仁親王が成田市の養蚕団地(シルクコンビナート)を訪問、記念の桑苗を植える。関係者が将来の姿を説明すると「しっかりやって下さい」と気さくに声をかける[10]
  • 6月16日:中村運輸相が空から視察を行い「富里と霞ヶ浦のいずれか」と言明。
  • 7月:運輸省が霞ヶ浦でのボーリング調査を開始。
  • 7月8日:埋め立て方式の推進者であった河野一郎が急死する。
  • 9月11日:霞ヶ浦沿岸の漁民1,000人が漁船300隻で湖上反対デモを行う。
  • 10月5日:運輸省が中村運輸相に霞ヶ浦を不適当とするボーリング調査結果を報告。
  • 10月18日:友納千葉県知事が胃潰瘍治療のため入院。
  • 11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる。
  • 11月18日:関係閣僚懇が富里を新空港建設地に突如内定、翌日に閣議決定することを橋本登美三郎官房長官が記者会見で発表。療養中の友納千葉県知事に代わって職務を行っていた川上副知事の問い合わせに、川島副総裁は閣僚協が勝手に決めたことで自分は関与していないと回答。千葉県側は中村運輸相からの呼び出しに応じず、友納知事は過去の佐藤首相や歴代運輸相と交わした内陸に空港建設地を決めるときは十分地元に相談するとの約束を盾に県独自の判断で対処することを表明。川上副知事は地元町村長・社会党議員・反対同盟幹部・記者クラブと順次会見を行って友納の意向に沿って決意表明するとともに、至急電報で閣議決定延期を政府側に要請。
  • 11月19日:千葉県側が「富里案内定」の発表に「事前連絡不充分」と不満を表明。
  • 11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議。
  • 11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情。同日、社会党系の「反対県民会議」が発足。
  • 11月30日:反対派農民1500人が県庁へ抗議。
  • 12月1日:友納千葉県知事が職務復帰。
  • 12月3日:運輸省が千葉県に富里内定を正式に連絡し、協力を要請。
  • 12月7日:県庁で中村運輸相・佐藤光夫航空局長・手塚良成参事官による「富里空港」の説明会が行われる。関係町村の町村長や反対同盟員は中村大臣に反対決議書を渡し、説明を受ける前に怒号を浴びせながら退出。説明会は県庁職員らへのレクチャーの体となる。
  • 12月11日:富里・八街住民が、自動車130台を連ねて県と県議会に抗議。
  • 12月12日:定例県議会で友納千葉県知事が「地元民の説得は至難の状況下にある。運輸省は富里が唯一の候補地かどうか再検討してほしい。また、富里地区の住民対策を早急に示し、最低3か月の検討期間をおき、国と協力し住民説得の見通しをつけたい」と発言。浜田幸一県会議員の質問に答える形で「県が地元を説得できると判断される補償、代替地、騒音、転職の4つの原則」(4原則)[11]について明らかにした。
  • 12月13日:千葉県が運輸省に「土地補償等」「代替地」「騒音対策」「職業転換対策」の4原則を提示。友納千葉県知事も記者会見で「このままなら県は空港建設を断るつもり」と発言。このとき県庁は「内定を白紙に戻せ」「知事やめろ」等のシュプレヒコールをあげる反対派農民ら千数百人に取り囲まれていた。同日、八街町議会が絶対反対決議。
  • 12月21日酒々井町議会が「空港建設反対」を決議。
  • 12月24日芝山町議会が「空港建設反対」を決議。

1966年[編集]

  • 1月9日:富里で反対総決起大会に3000人が集結。
  • 1月22日:社会党大会で空港設置反対決議、同日成東町議会が反対決議。
  • 2月7日:富里の空港反対派1,500人のデモ隊が千葉県庁に乱入し、3人が逮捕される。
  • 2月28日:友納千葉県知事が地元無視の政府の態度に不満を示した上で、「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」と態度表明する。
  • 3月4日:閣議で関係閣僚懇を「臨時新東京国際空港関係閣僚協議会」(関係閣僚協)に改組し、体制を強化することを決定[1]
  • 3月11日自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。富里以外の候補地も検討する」と表明。
  • 3月13日:八街緒民議会が結成され、1000人が反対を決議。同日、富里をはじめとする5町村長会議が「白紙返上」声明。 
  • 3月13日:社会党佐々木更三委員長が友納千葉県知事と会談し、「内陸反対」の党所信を表明。
  • 5月4日:富里・八街等の反対派婦人代表93人が友納千葉県知事に農地死守を宣言。
  • 5月14日:川島副総裁が富里案の撤回と羽田拡張・木更津との一体化を佐藤首相に提案。佐藤首相が再調査を了承。後日、友納千葉県知事がこれを歓迎。
  • 5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する。
  • 6月7日:中村運輸相が「新空港問題は大詰めの段階を迎えたが、富里地区に建設されると思う」と発言。
  • 6月2日:川島副総裁が自民党政調会交通部会で木更津沖案推進を強調。
  • 6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討。
  • 6月17日:自民党政調会交通部会が三里塚案を提出する。中村運輸相が川島副総裁と会見、木更津案は航空管制上の難点と都心から遠距離であるため不適と報告。
  • 6月17日夕刻:川島副総裁が友納千葉県知事に経過説明。友納千葉県知事が藤倉武男成田市長に三里塚案を自民党交通部会の決定として電話で伝える。藤倉成田市長が同日夜に成田警察署長にこのことを伝える。
  • 6月18日:友納千葉県知事が藤倉成田市長及び小川重雄成田市議会議長と知事公舎で会談し、協力を強く要請。
  • 6月21日:中村運輸相が「新空港は富里・八街しかない」と発言。
  • 6月22日:佐藤首相が友納千葉県知事に、面積を原案の2分の1に圧縮した宮内庁下総御料牧場等の国有地がある三里塚での空港建設案を提示[12]
  • 6月23日:三里塚案が大々的に報道され、三里塚・芝山の地元住民の多くが三里塚案を初めて知る。同日、友納千葉県知事が自民党県連七役会に前日の総理要請について説明。
  • 6月25日:友納千葉県知事が成田市役所を訪問し、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。同日、藤倉市長による住民向け説明会が三里塚小学校で開かれたが、市長は理解と協力を求めるのみで、住民からの質問に応えることが出来ず、説明会は大荒れとなる。吊し上げを食らった市役所関係者らが警察の警護を受けて脱出すると、会場に残った三里塚住民らが今後について話し合い、富里住民らの指導を受けて反対同盟結成を決める。
  • 6月27日:成田市役所で地元説明会が行われる。
  • 6月28日:三里塚住民らが遠山中学校旧学習院初等科正堂で「新国際空港反対総決起集会」[13]を開催し、三里塚新国際空港反対同盟が3千人の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャン戸村一作を代表、木の根の小川明治と天神峰の石橋政次を副委員長とする。
  • 6月28日認証官となった官房長官の認証式の為に参内した佐藤首相が下総御料牧場の栃木移転を昭和天皇に内奏。同日、川上紀一千葉県副知事と若狭得治運輸事務次官が新空港設置計画前の最終会談を行い、伝統ある古村の取香・駒井野及び戸数が多い三里塚市街地が建設地から外される。
  • 6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。同日千葉県議会において、友納知事が、政府が補償対策に誠意を尽くすことを条件に「三里塚案」の受け入れを表明。
  • 6月30日:芝山町農協主催で反対集会「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」[13]が開かれ、芝山町空港反対同盟が結成される。瀬利誠を委員長、内田寛一を副委員長とする。
  • 6月30日:県庁内の県民ホールで運輸省による公式の新空港説明会が開催される。運輸省からは若狭事務次官・手塚参事官ら、県側から友納知事・川上副知事、県会議員ら、地元市町からは成田市の藤倉市長・小関貢新空港特別委員長、芝山町の寺内元助芝山町長、この他に市議・町議、農協代表、関係区長ら100人が出席。若狭事務次官は質疑の中で三里塚空港について「首相が裁決を下し、各省庁もすでに建設に向かっているので、三里塚の変更は全くあり得ない」と回答。
  • 7月2日:友納千葉県知事が正式に三里塚案を了承。
  • 7月4日佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定(「新東京国際空港の位置及び規模について」)。1971年4月を開港目標とする。併せて、地元住民対策、道路・鉄道の 整備計画などの政府の方針も決定される(「新東京国際空港位置決定に伴う施策について」)。地元住民対策を県の要望によって細かく閣議決定するのは極めて異例[1]
  • 7月4日:戸別訪問を行って市議らに反対決議案への署名を迫った住民ら1000人以上が庁舎を取り囲む中、成田市議会が「三里塚空港建設反対決議」を可決。これに反発した自民党県議らが与野党協議で議会最終日に提出することになっていた「三里塚空港建設促進決議」を千葉県議会で採決を強行して可決させる。
  • 7月:閣議決定後に江口榛一宅で戸村代表と友納知事が遭遇し、談笑する[14]
  • 7月5日:「新東京国際空港の位置を定める政令」公布[1]
  • 7月6日:千葉県が「国際空港相談所」を設置。成田土地改良事務所が増築され、「航空局成田分室」が設置される。同日、「新東京国際空港公団法の施行期日 を定める政令」公布[1]
  • 7月7日新東京国際空港公団法施行。現地説明会開始のため、第一陣となる運輸省の係官7人(「七人の侍」と呼ばれる)が成田に到着する。中央官庁による地元説明は日本初。
  • 7月9日:運輸省の初の説明会が大栄中学校の講堂で行われる。500人が集まり、運輸省の係官が空港の必要性・規模・買収方法・騒音・代替地・離職者対策等の説明を行うが、説明後に前列に陣取った反対派農民らに「やろう、ぶっ殺せ」等とやじと罵声を浴びる。対象区域への説明会は年内いっぱい続けられたが、農協を中心として町ぐるみで反対運動を行う芝山町では実施できなかった。
  • 7月10日:三里塚公園で三里塚空港反対同盟及び芝山町空港反対同盟が主催する「新空港閣議決定粉砕層決起大会」が行われ、4000人が集結する。三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合して三里塚芝山連合空港反対同盟を結成[13][15]。三里塚の戸村一作が代表に就任。芝山反対同盟で委員長だった瀬利誠は副委員長に就任、副委員長であった内田寛一は軍隊での経験を買われて行動隊長に就任[16]。事務局長に北原鉱治が充てられる。集会には「絶対反対」の鉢巻きを巻いた寺内芝山町長も参加し、参加者らから盛んな拍手を浴びた。用地内の民家325戸が加入(成田:298戸、芝山:27戸)。空港予定地周辺でデモが行われる[13]
  • 7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決。
  • 7月27日:県との間で折衝が続けていた地元要望を呑む意向を友納千葉県知事が示したこと等から、成田市空港対策委員会で自民党市議団が反対決議の撤回を強行採決。
  • 7月28日:千葉県農業開発公社が富里村の空港賛成地主と第一回の買収交渉を行う。
  • 7月30日新東京国際空港公団 (NAA) 設立。初代総裁に成田努が就任[17]。副総裁は今井栄文。
  • 8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。鎌などを持った反対同盟員約40人が議場への進入を図り、ヘルメットを装着した機動隊が出動して排除した。
  • 8月15日:移転補償金の預金勧誘に来た銀行員らが木の根地区でつるし上げられる。警察は強要罪容疑で2人を検挙。
  • 8月24日:条件賛成派(条件が折り合えば移転を了承する地権者)が北部林業事務所で会合を開いたところ、反対同盟員約300人が押し掛け、条件派を引きずり出してつるし上げる。さらに駆け付けた空港相談所長のワイシャツを破き、報道関係者の車両のタイヤの空気を抜くなどした。警察では農民の心情を考慮し、戸村代表への厳重警告にとどめた。
  • 8月25日:初めての条件賛成派組織である「成田空港対策部落協議会」(部落協)が、戦後開拓の兼業農家など131人によって発足する。代替地の配分権を有する千葉県はこれを歓迎し、部落協に希望する代替地を優先配分する。
  • 8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始。
  • 8月29日:反対同盟が天神峰の2ヶ所を共有登記する。
  • 8月31日:反対同盟、最初の行動として運輸省及び宮内庁に800人で抗議・陳情行動を行う。
  • 9月2日:反対同盟が天神峰の一坪共有地に共有者の名前が書かれたクイを打ち込む。
  • 9月12日:臨時閣僚協が、補償価格の目途を決定(畑10反当り:60万円から110万円)。8月の部落協結成に対しては反対同盟員らは「見たこともない大金の札束を想像して脱落したのだ」と嘲笑っていたが、相場の4倍にもなる具体的な価格が出されたことにより反対同盟に深刻な分裂が生じ、この後新たな条件賛成派組織が各地で次々と誕生する。一方、7月閣議決定の際には佐藤首相が友納千葉県知事に100万円を確約したとされ、部落協は更なる上積みを求めて交渉を継続する。
  • 9月19日:条件賛成派51人によって「成田市十余三地区経営対策協議会」が発足。
  • 9月28日:反対同盟が10月2日の総決起大会への参加を呼び掛けるビラを配布。ビラでは「もし、この空港設置を許せば 周辺市町村は、騒音になやまされ、新しい道路や鉄道計画のため土地をとり上げられ、町並みも変わってしまい、資本のある大商人だけが進出し、二分に一機の割合でとび立つ大型ジェット機のため、横田や伊丹と同じように、夜もオチゝねていることもできず、子供の進学や乳児の発育にも影響の出るような町と化すでありましょう。そして現在の羽田のように、ベトナムの兵員輸送や軍需物資の輸送にも使われ「平和都市宣言」までした成田は、「基地の町」と変るでしょう。」との主張が掲載された[18]
  • 9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催。土地買収価格が提示される(反当り:畑100万円、田110万円、山林原野85万円、宅地150万円)。しかし、同時に進められていた成田市街地付近での国道51号線拡幅工事での買収価格に比べて低いことから、条件賛成派組織との価格交渉が難航する。
  • 10月2日[19]:三里塚・芝山の農民を中心とした4000人が、雨の中、成田市営グラウンドで「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開く[13]
  • 10月14日:条件賛成派20人によって「成田国際空港桜台対策協議会」が発足。
  • 10月19日:空港相談所が住民調査票を配布。反対派幹部がこれを集めて焼却。
  • 11月5日:条件賛成派72人によって「成田国際空港条件闘争連盟」が発足。空港絶対決議の白紙撤回を決議した駒井野部落総会に反対派が押し掛け、条件派の1人が暴行される。被疑者2人が検挙されたが、これが三里塚闘争で初めての逮捕者となった。
  • 11月18日:藤倉市長以下、成田市の議員らが佐藤首相と会見し、地元要望を伝える。佐藤首相は「要望は最大限受け入れる。空港は佐藤がつくる」と勢威を示すが、空対委副委員長の小川源之助が進言した空港担当大臣をつくる案を一笑に付す。
  • 12月3日大橋武夫運輸相が就任。
  • 12月12日:大橋運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を指示。開港目標を1971年春として、1970年度末までの工事完了、1973年度末までの完全空港化を定めた。滑走路の位置が示されたことで、反対同盟がその予定地への団結小屋を作りに乗り出す。
  • 12月13日:空港公団が、工事実施計画の認可を申請する。
  • 12月16日:反対同盟が、天神峰にある石橋政次委員長代行の所有地に最初の団結小屋を建設(天神峰現地闘争本部)。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。
  • 12月19日:空港公団の用地部と建設事務所が新庁舎での業務を開始。「七人の侍」は空港公団の重要ポストに就く。
  • 12月27日:芝山町議会が、「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。反対同盟員500人が傍聴し異議申し立てをしたが、機動隊が投入されて排除された。

1967年[編集]

  • 1月3日:反対同盟が800人の同盟員と150台の自動車を動員して「成田空港反対自動車パレード」を実施。
  • 1月4日:反対同盟が天神峰現地闘争本部で戦術協議、京成成田駅前で成田山新勝寺への初詣客らに一坪共有地運動への共有と資金カンパを呼びかけ。
  • 1月10日:航空法に基づき新空港工事実施認可の公聴会が千葉県庁で開かれる。会場は警察や職員らによる物々しい警備が行われ、傍聴券は先着順で150枚しか用意されておらず、反対同盟員400人には配られなかった。反対同盟員らは場外のスピーカーから傍聴を行う。事前に口述書を提出した者の中から運輸省が選んだ36人による口述が行われ、芝山の農民が「血のにじむ思いで開拓してきた北総台地に代わる土地はない」と涙ながらに述べ、戸村代表が「農民から土地を奪うのは神を冒涜するものだ」と訴えた。公述人の約半数は条件賛成派であり、「誠意がなければ土地を絶対に売らない」等との声も聞かれた。伍堂輝雄日本航空副社長が「新空港を造らないと日本は世界の田舎となる」と主張し、無条件賛成の立場を示す。空港建設で公聴会が行われるのは、伊丹空港拡張時に次いで戦後2例目。
  • 1月20日:空港公団と条件派の部落協の懇談会が開かれ、条件についての意見交換を行った。
  • 1月21日:反対同盟が、前年12月27日の反対決議撤回に賛成した芝山町議員16人に対するリコール署名簿を提出。全有権者(約5800人)の3分の1を上回る3000余の署名が集められ、リコール成立が確実視されたが、引き伸ばし工作により町議員の任期切れまで出直し選挙が行われなかった。
  • 1月23日:大橋運輸相が工事実施計画を認可。遠山中学校で第31回衆議院議員総選挙の立会演説会が開かれ、反対派のヤジなどにより混乱する。
  • 2月3日:施設配置のマスタープラン策定のため、有識者による空港公団総裁の諮問機関「空港計画委員会」が設立される。
  • 2月19日:富里の闘争小屋を移築して、駒井野地区の4000メートル滑走路予定地北端に団結小屋がおかれる。
  • 2月24日:今井空港公団副総裁が「公団は今年中に13%の用地買収をしたい」と語り、反対派を刺激する。
  • 3月1日天浪地区の4000メートル滑走路予定地中心に団結小屋が建てられる。
  • 3月6日:古村を中心にした条件派らが条件交渉で先行する部落協に対抗するため、成田農協の神崎武夫会長を頭とする「成田空港対策地権者会」(地権者会)に組織を一本化する。100人以上が参加する地権者会の用地内所有面積は部落協のそれを上回るだけでなく、用地外に農地を所有する農民が多いことから余裕をもって交渉ができる強力な組織となることが期待された。同日、御料牧場の移転先が栃木県塩谷郡高根沢町に決定。
  • 3月13日:友納知事、大橋武夫運輸相に地元対策への協力要請。騒音対策など9項目を申し入れ。
  • 3月18日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる。
  • 3月19日:東関東自動車道建設のための測量をしていたアジア航空測量の測量員が無断立入であるとして反対派に一時連行される。
  • 3月22日:ゴルフ場で補償調査をしていた空港公団職員らが反対派に包囲される。脱出を図った公団職員が運転する自動車に反対同盟員が接触して負傷。警察には交通事故として扱われる。
  • 4月22日:反対同盟が、新東京国際空港工事実施計画の認可処分取消請求訴訟を提起[13]
  • 4月28日:戸村代表が成田市会議員選挙に出馬し、4位当選。
  • 5月3日:空港公団が友納千葉県知事に5月20日からの立入測量の実施を通告。
  • 5月5日:地権者会に空港公団が代替地について回答。配分された土地が部落協のものより条件が悪いため、地権者会は部落協への配分を白紙に戻したうえでの再配分を主張。
  • 5月10日:友納知事が佐藤首相に地元対策への協力要請。
  • 5月11日:友納知事が、現地測量のための立ち入りに関する空港公団と条件派団体の話し合いをあっせん。
  • 5月14日:成田空港公団総裁が、藤倉市長へ表敬訪問するとともに立入測量への協力を要請。
  • 6月2日:今井空港公団副総裁が、成田市議会に空港建設について協力を要請。
  • 6月19日:条件派との懸案事項解消のため、川上千葉県副知事らが成田市内に滞在。この間に大清水の牧場が用地の提供を申し出たことにより地権者会の移転先の一部が確保されたことから、代替地配分の交渉がまとまる。
  • 6月26日:条件派2団体との会談のために大橋運輸相が成田訪問。京成成田駅では入場券の販売を停止するなどの対策がとられたが、反対同盟や応援労働組合員らが宗吾参道駅から電車で京成成田駅ホームに進入してピケを張り、駅前でも社会党議員らがアジ演説をするなどして抗議行動が展開された。大橋運輸相の一行は駅に到着するなりデモ隊に取り囲まれたが、デモ隊に顔を知られていなかったために機動隊とデモ隊のもみ合いから抜け出すことができた。大橋運輸相は出迎えた友納知事らとともに駅長室に一時缶詰め状態となる。機動隊が駅前のデモ隊を排除すると、大橋運輸相と友納知事は正面玄関のピケをかわして裏口から成田市役所に入り、部落協と地権者会のそれぞれと移転条件や立入測量の実施などについて会談する。
  • 7月2日:朝日新聞の工作により、友納知事が戸村代表と会談。両者の対談は県民には驚きをもって受け止められるが、話し合い自体は物別れに終わった。
  • 7月10日:多古町一鍬田新東京空港対策委員会が発足。
  • 8月1日公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(騒防法)が公布される。
  • 8月5日:反対派農家の子どもたちによる「少年行動隊」が結成される。
  • 8月8日米軍燃料輸送列車事故が発生。後に動労千葉が暫定輸送阻止闘争を行う際の根拠となる[20]
  • 8月14日:条件派が外郭測量に同意。
  • 8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止平和集会」を千葉市内で共催。反対派農民が千葉県庁に座りこみ、少年行動隊隊長である北原鉱治の四男が知事あての抗議文を副知事らに読み上げる。翌16日、反対同盟は「あらゆる民主勢力との共闘」を確認する声明を発表。新左翼諸党派の支援が開始される。初めての少年行動隊による反対運動参加であり、思考力に乏しい子供たちを反対運動に巻き込むことへの問題視等から県教育委員会が市町の教育委員会を通じて反対同盟に少年行動隊解散を要請したが、拒否される。
  • 8月15日砂川町基地拡張反対同盟宮岡政雄の紹介により、戸村代表と三派全学連の秋山勝行代表との会談が行われる。
  • 8月24日:木の根地区の旅客ターミナルビル予定地に団結小屋が立てられる。
  • 8月25日:共産党が古込地区に空港反対現地闘争本部を設置[13]
  • 9月1日:反対派の抗議行動等により、大橋運輸相が8月中に実施予定だった測量の延期を発表。同日、三派全学連の秋山勝行委員長(中核派)が反対同盟の金曜集会で挨拶し、反対同盟との共闘を約束。
  • 9月11日:木の根地区(小川副委員長宅)で婦人行動隊と忍草母の会が交流[21]
  • 9月15日敬老の日と合わせて60歳以上の反対同盟員男女からなる「老人行動隊」が結成される。メンバーには皇室を啓愛する者が多かった。
  • 9月25日:老人行動隊が芝山町で総決起集会を開催。
  • 10月:空港公団が前年9月30日に提示した条件から宅地以外の買取価格を5万円ずつ値上げして再提示するが、条件賛成派との価格交渉が決裂。その後、千葉県から優遇を受けていた部落協は友納千葉県知事と交渉、逆に千葉県から冷遇されていた地権者会は当月就任した今井空港公団総裁と直接交渉。
  • 10月2日:成田公団総裁が辞職。空港公団にとって重要な時期での交代であり、事実上の更迭。辞表では「空港建設が進まないため」としていたが、実際には私生活でのスキャンダルといわれる。
  • 10月3日:副総裁であった今井栄文が総裁に昇格する。副総裁の後任には翌月4日に小見川町長から空港公団理事に就任していた山本力蔵が昇格する。
  • 10月4日:800人がたいまつ行進。共産党の林百郎が「共産党は最後まで闘う」と挨拶。
  • 10月5日:反対派約200人が空港公団成田分室に乱入し、什器・図面等を破壊。
  • 10月8日第一次羽田事件が発生し、新左翼党派による実力闘争が本格化する。
  • 10月10日:空港公団が不意打ちを図り、祝日体育の日であるこの日の未明から、天神峰・十余三・駒井野の3か所で外郭測量のための杭打ちを開始。機動隊が現地投入される。2千人の機動隊に反対同盟農民1千2百人が座り込みなどで対抗し、三里塚現地で最初の実力闘争となる。逮捕者2人、負傷者数十人、重傷1人。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。これに対し農民は反発し、反対同盟農民が共産党と訣別するとともに反代々木系学生と提携して反対運動が過激化する直接の原因となる。機動隊の実力行使により農民らは排除され、1時間程度で空港公団が予定していた3本の杭が打たれる。(測量クイ打ち阻止闘争)その夜、反対同盟の一行が成田警察署に押し寄せ、逮捕者の釈放や謝罪を求めて抗議。
  • 10月12日:反対同盟員約80人が10日に空港公団が打った測量杭を破壊して持ち去る。その際に警備員や空港公団用地課長らが暴行される。県警本部長は「チャチなクイを打つのに大部隊を動員したのではない」と激昂。
  • 10月16日:空港公団が再び杭打ちを行い、杭は1トンのセメントで固められる。4時に衝突が起こり、公団は作業を中止するが、反対派農民が2人逮捕される。
  • 10月21日:芝山町の条件派7団体が「芝山町空港対策連絡会議地権者会」を結成。
  • 10月23日:空港公団が条件派団体の成田空港部落対策協議会(部落協)・成田空港対策地権者会(地権者会)に条件提示(10アール当り:宅地150万円、田120万円、畑110万円、山林原野90万円)。
  • 11月3日:三派全学連の150人が初めて現地入りして三里塚第2公園[13]で開かれた県反戦青年委員会などが主催する集会に参加した後、空港予定地までデモ行進を行った。これをもって新左翼の介入が始まる。これに対して共産党が「トロツキストを入れるな」等とビラを撒くとともに新左翼との共闘を始めた反対同盟への批判を始めた。
  • 11月10日:三里塚空港反対青年同盟が、新左翼との共闘を妨害する共産党県委員会に対する抗議声明[22]
  • 11月16日:早朝、大橋運輸相が現地視察。戸村委員長らと会見し、協力を要請。
  • 11月24日:反対同盟・青年同盟が、国鉄動力車労働組合千葉青年部・三派全学連の代表らとともに確認した基本的原則と闘争の姿勢について声明。支援団体と確認したのは、(1)労働者・学生が強い共闘の決意を持つ (2)ベトナム戦争と対峙するベトナム人民・アメリカ人民と連帯して闘争を展開する (3)如何なる行動においても現地反対同盟の同意のもとに共闘体制を整えることを約束する の3点[23]
  • 11月25日中曽根康弘が運輸相就任。
  • 11月29日:空港公団が地権者10人と初の用地買収契約を10月23日に提示した条件で締結。反対同盟からの突き上げ等を防ぐため、氏名は伏せられたが、中には反対同盟員や条件賛成派も含まれており、反対同盟はもとより個別交渉を禁じていた条件賛成派からも遺憾の声が聞かれた。(→伊藤音次郎
  • 12月15日:二十数回の役員会を経て[13]、反対同盟が日本共産党の支援と介入を排除することを総会で決定する。10月10日のクイ打ち阻止闘争以降、共産党は戸村ら反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒き反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、反対同盟との決定的な決裂に至った。北原鉱治によれば、共産党オルグがゲバ棒で武装した150人の民青とともに三派全学連との共闘反対を訴えたが、血気にはやる反対同盟が鍬や鎌で叩きのめしたとしている[24]
  • 12月18日:条件派宅で補償について話し合いをしていた空港公団職員が反対派に包囲される。解散を呼びかける警察に対して初めて投石が行われ、取り残された公団職員と警察官1人が負傷する。
  • 12月21日:初の関係閣僚協で空港関連公共事業大綱が定められる。新御料牧場建設計画発表。

1968年[編集]

  • 2月:芝山町議会選挙が行われ、反対同盟員の立候補者全員が当選するものの、かろうじて賛成派が過半数を維持。寺内町長は賛成派と反対派の板挟みとなる。
  • 2月26日:反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地2.26総決起集会」[25]を共催。約1,000人が参加した全学連は市役所に併設されている空港公団分室への突入を図り、プラカードの板を外したゲバ棒や工事用の石を武器に、千葉県警機動隊と衝突。反対派は数十人の逮捕者を出したほか、戸村代表をはじめ155人の負傷者を出す。一方、この時動員された機動隊約3000人は主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めで、前日に急遽支給された大盾の取り扱いにも不慣れであった。学生らの攻勢は熾烈を極め、学生らにとりつかれた指揮車にいた連隊指揮官の成田警察署長が指揮棒で応戦する局面もあった。716人が重軽傷を負い、うち学生にクロルピクリンを顔に投げつけられた警官1人が一時危篤となる。この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して空港の設計図面を盗み出し、その図面が後の成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられた。
  • 2月27日:前日の集会後に反対同盟農家に宿泊した学生らが芝山農協前道路で無届の集会を開き、デモ行進した。警察官らの多くが前日の事件で激昂していたため、再び衝突した場合には死傷者が出ることが懸念されていたが、学生らは成田市街地に突入することなくバス18台に分乗して帰京した。同日、私服警官1人が反対派に一時拘束される。
  • 3月3日:友納知事が成田赤十字病院に入院中の戸村代表を見舞う。
  • 3月10日:空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を再び成田市営グランドで開催、総勢4500人が集結する。警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから、有刺鉄線などで市役所と空港公団分室を要塞化するとともに、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣を動員した。集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、催涙剤を混ぜて放水することで漸く沈静化させた。衝突後に反対派が解散集会を開いていたところ、機動隊5000人が違法集会として規制を開始。機動隊は反対派に対しガス弾を打ち込んだうえで突入した(成田警察署長は規制前にマイクで再三警告をしたとしている)。ガス弾は野次馬がいる場所にまで多数飛んで来るほど打ち込まれ、風が止んで催涙ガスが滞留した会場は大混乱となった。徹底した規制により空港反対派は150人以上の逮捕者と1000人以上の負傷者を出した。機動隊の負傷者は453人。また、この集会に附随してTBS成田事件が発生し、過激派に手を貸した形となったTBSが激しく糾弾された。沈静化後に成田警察署長が機動隊一個大隊を引き連れて市街を行進し、鎮圧をアピールした。
  • 3月20日:三里塚新国際空港設置反対中央共闘会議・県民共闘会議・反対同盟の共同で「三・二〇 三里塚空港粉砕成田集会」が開催され、一部中核派学生がパトカーを襲撃し、その様子を収録したフィルムを渡すことを拒んだフジテレビ報道部員が学生らに暴行された(被害届は無し)。
  • 3月31日:反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドの使用が禁止され、三里塚第2公園で開催。戸村代表が「私は皆さんに血を流すことをすすめようとは思わないが、ここまできてしまった以上、血を流さなければ空港建設は阻止できない」と演説。集会後、公団分室に向けてデモ行進。途中、警察官待機宿舎が襲撃され、中核派の旗が立てられる。機動隊と衝突し、放水を受けながらも警備用バリケードにとりついた。逮捕者235人、空港反対派に300人以上の負傷者を出す。
  • 春:今井空港公団と直接価格交渉をしていた地権者会が要求を認めさせる。部落協と交渉していた友納千葉県知事が出し抜かれた格好。
  • 4月1日:代替地の農地造成工事着工。
  • 4月6日:中曽根運輸相立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」[26]が取り交わされる。これにより空港用地民有地の89%(597ヘクタール)が確保された
  • 4月6日:2・3月から発行されていた現地闘争本部機関紙『闘う駒井野』を改題し、『日刊三里塚』第一号が発行される[27]
  • 4月11日:3月10日のTBS成田事件での批判を受け、TBSが特番「成田二十四時」の放送を中止したことについて、反対同盟が抗議声明[28]
  • 4月20日:空港公団による、土地売渡同意書提出者約300世帯の家屋立入り調査が開始される。空港公団が延べ1619人を動員して行った調査は7月19日まで継続し、反対派は汚物を投げるなどして抵抗した。その間に農民ら6人が逮捕され、機動隊16人が負傷。
  • 4月21日:一連の衝突の件で、農民4人を逮捕する。
  • 4月29日:共産党の斡旋を受けて進められていた日本山妙法寺大僧伽による三里塚平和塔の起工式が、東三里塚で行われる。
  • 4月23日:土地売渡し農家への立ち入り調査が始まり、7月18日まで続く。
  • 5月12日ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕される(警察側の主張では、天浪地先で覆面パトカーが学生らに襲撃され、付近を捜索したところ学生風の不審者がおり、職務質問をしたが黙秘を続けるので警察署に連行したとのこと)。反対同盟は成田警察署に大挙して押しかけ、即日釈放される。
  • 5月27日:天神峰と駒井野への立ち入り測量に抗議した反対派が、機動隊300人と衝突。逮捕者2人。負傷者2人。
  • 6月5日:木の根部落で、反対派農民300人が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊との衝突で反対派2人が重傷を負う。
  • 6月15日:再び、木の根部落への立ち入り測量で衝突。婦人行動隊員1人逮捕される。反対派に8人の負傷者。
  • 6月22日:空港公団が東峰で立ち入り調査を実施、公団職員や警察部隊に対して投石が行われる。反対同盟員にクロルピクリンの瓶を投げつけられた警察官1人が負傷。反対派農民1人が逮捕される。
  • 6月30日:三里塚第二公園で「全国総決起集会」を開催。5千人が結集。
  • 7月11日:空港公団職員への暴行のかどで、反対同盟員2人と小川プロダクションのカメラマン2人を現行犯逮捕。
  • 7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が、初めて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊1人が逮捕される。
  • 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する。
  • 7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1人。
  • 7月18日:空港公団、立ち入り測量の終了を宣言。
  • 8月7日:空港計画委員会が、新東京国際空港の計画(第一期工事)について最終報告をした(予定より4ヶ月遅れ)。
  • 11月18日:2月から3月にかけて行われた成田市内での機動隊との衝突で逮捕された支援学生ら33人の初公判が千葉地裁で開かれるが、ヘルメットを被った学生らが裁判所職員を振り切って法廷に突入し、ヘルメットを着用したままの傍聴や入り口でもみ合った職員からの謝罪を求めるなどして妨害。その後も妨害が続き、1977年7月29日に千葉地裁が判決を出すまでに9年を費やした。
  • 11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千人が結集。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。
  • 12月2日:空港公団が反対派に文書で用地買収協力要請。以降、空港公団が直接接触困難なものに対して随時実施される。
  • 12月12日:京成新空港線認可申請
  • 12月19日:青年行動隊2人が、公団職員を発見して叩き出す。2人は同日夜に逮捕される。
  • 12月26日:空港計画委員会の最終報告を受け、空港公団は運輸省に対し新空港の工事実施計画変更の許可申請を行った。(1969年1月25日許可)
  • 12月29日:反対同盟の連日300人の成田警察署への抗議行動により、19日逮捕の2人は釈放される。

1969年[編集]

  • 2月5日:条件賛成派が警備会社及びショッピング・センターを設立。
  • 2月28日:衆議院運輸委員会で、原田憲運輸相が社会党の小川三男議員からアメリカの軍用関係のチャーター機の使用について問われ、新空港であっても断ることはできないと答弁。その後で手塚良成航空局長が地位協定第五条第一項で米軍のこれらの飛行機の出入について断わることはできない建前になっているが、外交ルートでの申し入れは可能と答弁[29]
  • 3月11日:反対同盟の要請を受けて空港問題の経過報告会(町議会が行った羽田・伊丹・福岡等空港の騒音視察の報告)が開かれる。寺内芝山町長が400人の反対派に取り囲まれて罵詈雑言を浴びせられ、空港反対確認書に署名を強いられる。内容は、(1)町民の意思を尊重し、土地収用手続きである「町長告示」は行わない (2)(2月28日の)国会での大臣発言が事実なら空港建設に反対 (3)空港建設に伴う地元負担には耐えられないから反対 の3点。寺内町長は署名後に行方をくらます[30]
  • 3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千人の結集。
  • 3月31日:議会での混乱が続く中、寺内芝山町長の辞表が受理され、辞職が成立する。
  • 4月:千葉県警の人事再編があり、警察署長や機動隊隊長等の要職に機動隊経験者や実力者が据えられる[31]
  • 4月1日:航空局の新東京国際空港建設推進企画室が廃止され、新東京国際空港課が置かれる。同日から15日まで成田市が「三里塚最後の花見まつり」を開催。市から完成図の描かれたパンフレットが配布され、京成電鉄の駅のホームに空港促進を訴えるポスターが掲載される。反対派は宣伝車でアジを行いビラを配るなどして対抗[32]
  • 4月18日:老人行動隊が、空港予定地の御料牧場の存続を宮内庁に請願。
  • 4月21日:国鉄成田駅から土屋地先に至る約2.9キロメートルの資材輸送の専用鉄道工事が着工する。
  • 4月26日:寺内前町長の辞職に伴う芝山町長選挙が行われ、自民党芝山支部長で空港推進派の寺島孝一が反対同盟推薦の戸井正雄候補を273票差で破り、当選。
  • 7月2日:千葉県警本部に「空港対策委員会」、警務部警務課に「空港問題対策室」が発足[31]
  • 7月16日:御料牧場の栃木県への移転が始まる[33]
  • 8月18日:御料牧場閉場式に反対同盟200人が抗議行動。「有終の美を飾らせてほしい」との懇願を振り切って青年行動隊が乱入し会場を破壊[33]。翌9月8日に青行隊8人が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は全国指名手配となる。翌日から新御料牧場への移転開始。
  • 9月13日:空港公団が、土地収用法に基づく新東京国際空港建設事業の事業認定を建設大臣に申請[1]
  • 9月19日:空港公団がA滑走路と並行する工事用道路の入札を行い、鹿島建設熊谷組が共同落札。一期工事の開始日とされる。
  • 9月20日:A滑走路工事が着工(完成は1973年4月30日)。
  • 9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千人が結集した。閉場式乱入で指名手配中となっている萩原進も姿を現すが、混乱を恐れた県警は逮捕を見合わせる。
  • 10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。
  • 10月14日:成田警察署員が閉場式乱入で指名手配中であった萩原の宅にいた青行隊員・柳川秀夫を誤認逮捕する。反対同盟100人が成田警察署で抗議行動を展開、即日釈放となる。なお警察は、柳川は本人確認に応じないなど故意に間違えられるように振舞っていたとして「反対同盟の罠にはまった」とコメントしている。
  • 10月24日:空港建設工事に初めてブルドーザーが投入される(工事用道路のための整地作業)。
  • 11月6日:萩原進が、自宅で作業中に逮捕される。
  • 11月7日:京成電鉄の空港線が運輸審議会で承認、免許が交付される。
  • 11月12日:反対同盟が工事用道路に座り込みブルドーザーを阻止する。着工後初めての本格的妨害活動であり、反対同盟戸村代表ら13人が威力業務妨害で現行犯逮捕される。戸村、初の逮捕。
  • 11月14日:空港建設工事用のブルードーザー1台が時限発火装置で放火され、他の2台もタンクから燃料を抜かれたり異物を混入される被害があった。三里塚闘争で初めての放火ゲリラ。
  • 12月16日坪川信三建設大臣が9月13日に空港公団が申請した土地収用法に基づく「事業認定」を承認し、告示される。なおこのとき、空港公団の申請ミスで滑走路両端のアプローチエリアが事業認定に含まれていなかった。

1970年代[編集]

1970年[編集]

  • 1月2日:反対同盟が天浪地区にバリケードを構築[13]
  • 1月14日:橋本登美三郎が運輸相に就任。
  • 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が三里塚第2公園[13]で開催され、7000人が集結する。
  • 2月18日:B滑走路予定地で石橋副委員長が母屋新築の上棟式を行う[13]
  • 2月19日:土地収用法に基づく立入調査に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。県教育委員会が反対同盟に自粛を呼びかけるが、子供らは団結小屋に立てこもり気勢を上げた。
  • 2月26日:空港管理ビル建設工事が着工する。
  • 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請。
  • 3月13日:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す。
  • 3月15日:第1旅客ターミナルビル建設工事が着工する。
  • 3月28日新東京国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)が公布、施行される。
  • 4月28日:資材輸送専用鉄道が部分開通する。
  • 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」
  • 5月26日:空港建設促進の宣伝活動を行っていた山口組右翼団体防共挺身隊」が、社会党系の団結小屋「三里塚空港反対中央共闘会議現地闘争本部」に殴り込む。
  • 6月12日:千葉県収用委員会が、千葉県総合運動場体育館で第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を反対同盟の1千人が傍聴、反対同盟顧問弁護士が審理そのものが違法だとして異議を唱えたところ発言を禁じられ、空港公団の課長が事業内容の説明を始めると怒った農民がマイクを引き倒すなど会場は混乱し、1時間で閉会した。少年行動隊も「同盟休校」参加しており、県教育長が「市町村教育委員会を通じて同盟休校させないように説得していたのに残念だ。子供を闘争の手段として使うことは絶対に許せない」と厳しく批判。
  • 6月18日:千葉県収用委員の飯田朝教授が再任辞退を表明、「収用委員をやっているというだけで、全国から手紙や電報が舞い込み、電話が夜中にかかってくる。まるで土地を奪う悪代官のような扱いだ」「これ以上、委員をつとめるのは苦しい」と述べる[34]
  • 7月8日:エプロン工事が着工する。
  • 8月:羽田空港の発着回数が処理能力を超え、運輸省が①発着回数は1日460回を限度とする、②国内定期便を1日12便ないし14便ほど減便する、③厚木飛行場を許容される限り使用する、④臨時便およびチャーター便を制限する、⑤大阪、札幌、福岡発東京行き定期便についてフローコントロールを行う、⑥羽田空港が混雑しているときは名古屋空港に一時着陸して地上待機する、とした緊急指示を行う[1]
  • 8月4日:誘導路建設工事が着工する。
  • 8月6日:用地交渉中の公団職員が暴行され、1人が重傷、車両大破。
  • 8月16日:反対同盟が岩山小学校で集会を開き、①A滑走路南側アプローチエリアに位置し、事業認定から外れた岩山地区を闘争の最大拠点とする②収用委員会の公開審理を引き伸ばす③民家で唯一強制収用の対象となっている大木(小泉)よね宅に団結小屋を設ける ことを決め、徹底抗戦の闘争方針を打ち出した。
  • 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をかけられたまま逃走する。
  • 8月26日:資材輸送専用鉄道が全線開通。
  • 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。審理の進め方の折衝が5時間にも長引く。漸く入場した農民らが椅子をもって壇上に詰めよろうするのを見た委員らが別室で協議するために退席。委員らが逃げると思った学生や青年行動隊らが取り囲んで殴る蹴るの暴行を加え、委員1人が肋骨を折る怪我。結局、開会も宣言できずに終わる。
  • 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる。
  • 9月11日:空港公団委託の業者2人が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。
  • 9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が反対同盟瀬利副委員長宅を家宅捜査。
  • 9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1人を誤認逮捕。
  • 9月30日:この日から10月2日まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴・「白兵戦(竹槍等)」・「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して総動員で抵抗する。3日間の攻防で59人が逮捕される。反対派の抵抗で空港公団は312ヵ所の調査対象のうち4割弱しか実測ができず、残りは航空測量で済ませられた。
  • 10月7日:空港公団が用地取得に公共用地の取得に関する特別措置法を適用すると発表。
  • 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した。
  • 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる。
  • 11月4日:空港公団が公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請。
  • 12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。
  • 12月25日:空港内給油施設工事が着工。
  • 12月26日:千葉県収用委員会が第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日)。
  • 12月28日:11月4日の申請を受け、新空港の特定公共事業認定が告示される。

1971年[編集]

  • 1月6日:代執行に備え、反対同盟が強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める。
  • 1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われた。小川の遺言により、空港予定地内(天浪共同墓地)のコンクリートでできた幅約5メートル・高さ2.5メートル、厚さ約50センチメートルの墓に埋葬された。
  • 1月22日:翌日の友納千葉県知事との会談に応じるか否かで反対同盟の実行役員会が紛糾する。
  • 1月23日:御料牧場事務所で友納千葉県知事と戸村反対同盟委員長が代執行問題について会談するが、論議が平行線のまま終わる。友納知事が代執行の実施の有無について明言しなかったため、友納知事からの再度の会談申し入れに対し、反対同盟は「空港建設を前提にしている以上、会談に応じる考えはない」として拒絶した。
  • 1月30日:資材輸送専用道路が完成する。
  • 1月31日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、千葉市内で集会を行い、知事公舎にデモ。5人が逮捕される。同日をもって、収用地が明け渡し期限を迎える[1]
  • 2月3日:空港公団が一期地区内用地について緊急採決を千葉県収用委員会に申請。
  • 2月11日:少年行動隊が、150人で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊と衝突になり、少行隊員1人負傷。
  • 2月14日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、ふたたび知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百人が結集し、28人が逮捕され、デモ隊20数人が負傷する。
  • 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。
  • 2月15日:少年行動隊に所属する生徒85人がヘルメット姿で授業中の芝山中学校に押しかけてジグザグデモを行い校長室・放送室を占拠。他の生徒に呼びかけて校内集会を開くとともに、空港問題に対する態度を明確にしない教師陣に対し詰め寄った。
  • 2月18日:少年行動隊と教師陣が話し合いを行う。
  • 2月22日:6県6筆の建設予定地に対して第一次代執行が開始される。反対同盟と支援者3千人と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
  • 2月24日:少年行動隊80人が公団職員らと衝突。少年行動隊3人が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加えたほか、多数の負傷者が出る。公団分室のガードマンらが、空港公団への面会に遅参した社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員を背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために反対派と誤認して排除、両議員は顔などを負傷する[35]。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。
  • 2月24日:航空灯火工事が着工する。
  • 2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49人が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1人が重傷を負う。この日の逮捕者141人。反対派の負傷者253人。5人が成田日赤病院に緊急搬送される。
  • 2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。校長らは県と県警に生徒の安全確保を申し入れた。
  • 2月27日:代執行が一時中止される。空港公団が、騒防法に基づく学校等の騒音防止工事の助成を開始する。
  • 3月2日:代執行再開。機動隊が2千3百人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。更に、事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて集まった「野次馬」約3千人[36]が、中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けつつ、投石を行ったり阻止線を作るなどして終始反対同盟側を支援した。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者13人。反対派の負傷者20人。成田日赤病院への緊急搬送3人。
  • 3月2日:過激派集団の実力闘争による反対運動に反対する住民らが「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」を結成する[37]。同団体は共産党系の団体とされる[38]
  • 3月3日:機動隊が3000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対派の負傷者213人。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。
  • 3月5日:機動隊がさらに3千5百人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。この日から翌日にかけて、「野次馬」から隔離された現地で空港公団・機動隊側による強硬措置が行われるようになる。
  • 3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1171人が負傷し、反対派の逮捕者は468人にのぼった。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化する。
  • 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百人で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。
  • 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」埋め立てを実施。一部が撤去され、8人を逮捕。
  • 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた空港公団副総裁と反対同盟の間で交渉が持たれ、作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。
  • 3月15日:芝山中で卒業式が開かれ校長が式辞で少年行動隊の生徒らに向け「三年間、空港問題で悩みが多かったろう」と語る。少年行動隊の生徒らは国歌斉唱や証書授与での返事を拒絶し、無言で学び舎を去っていった。
  • 3月21日:反対同盟が「いかなる斡旋案も拒否する」と発表。
  • 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反し「地下壕」の強化を行い、かつ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。
  • 3月25日:空港公団は機動隊4千人を動員し、ブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去[39]。反対派19人逮捕。
  • 3月28日革マル派が、機動隊との攻防で負傷した者の救護に当たっていた「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2人を負傷させる。
  • 5月2日:駒井野団結小屋近くでパトロール中の警備員の車両を学生らが止めて窓ガラスを割ったことを切っ掛けに、約200人の大乱闘が起きる。反対派に48人の負傷者を出し、うち17人が重傷を負った。止めに入った反対派農民1人が逮捕される。警備側の被害は警備員29人・機動隊員2人が負傷、警備員の車両5台が破壊された。第一次代執行後は機動隊が現地に常駐しておらず、空港公団が配置した警備員が変わってパトロール等を実施していた。
  • 5月9日:未明、空港公団が買い取っていたゴルフ場のクラブハウスが火炎瓶襲撃で全焼。「農民の生活と権利を守る五・九三里塚大集会」が三里塚平和塔の前で開かれ、全国から96団体2500人が参加。
  • 5月12日:反対同盟が、芝山町岩山地区に高さ30.74メートルの第一鉄塔を構築した。
  • 5月25日:千葉県警が反対派農民の大木(小泉)よね宅を家宅捜索。
  • 5月28日:藤倉市長の辞任に伴う成田市長選挙に出馬した長谷川録太郎の応援の為に成田を訪れていた、橋本登美三郎運輸相のもとへ反対派が押し掛け、戸村反対同盟委員長らが直談判を行ったが、会談は平行線のまま20分で終了。この中で橋本運輸相は戸村委員長に対し「空港用地内に土地を持っていない人とは話し合わない」と述べた。
  • 5月31日:空港公団が日本道路公団と「東関東自動車道に係わるパイプラインの敷設及び管理に関する協定」を締結。
  • 6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。
  • 6月12日:千葉県収用委員会が、期限を9月にした第二次収用の緊急裁決を下す。三里塚平和塔は宗教施設として対象から外れる。
  • 7月10日:元地権者らが設立した成田空港警備会社が時限爆弾による攻撃を受け、近隣の民家も巻き添えを食う。けが人はなかったものの、三里塚闘争での初めての爆弾ゲリラであり、関係者の殺傷を目論む悪質なゲリラとして報じられる。
  • 7月15日:千葉地裁が空港公団による「妨害物排除」の仮処分申請を認め、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する。仮処分の対象は、高さ24メートルの櫓で監視・連絡機能を有するとともに大音量のスピーカーで連日アジテーションを行っていた「農民放送塔」と、反対派が掘り進めていた「地下壕」である。
  • 7月26日:15日の千葉地裁認可に基づき、農民放送塔と地下壕への仮処分が開始される。青年行動隊と支援学生合同でのゲリラ活動が行われ、午前3時には機動隊の車列を先導していたパトカーに農薬を転用した強力な爆弾や火炎瓶が投げつけられる。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら執行通告し、撤去が開始される。なおこの時、「もっと近くで話せ」と反対派にヤジられた執行官が近寄ったところ、反対派が「黄金爆弾」を投げつけ、屎尿が直撃する。立てこもる反対派が火炎瓶や石を投げるなど、30日までの5日間にわたる激しい衝突となり、逮捕者は北原事務局長を含む179人、反対派の負傷者が221人となった。農民放送塔がクレーンによって倒された後に撤去されたが、この日は地下壕に手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」が宣言される。
  • 7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」の撤去に着手。攻防で反対同盟の瀬利副委員長ら106人が逮捕、反対派の負傷者158人。
  • 7月28日:炎天下で完全武装で警備する機動隊の中には熱射病で倒れる者も出始め、「地下壕」を一部残したまま作業が打ち切られた。今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語った。この日の反対派の負傷者36人。
  • 7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。
  • 7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5人逮捕、400人が負傷。5日間の逮捕者は291人、警官の負傷者413人。地下壕の撤去が再開され、最後まで立て籠もっていた支援学生ら5人が投降する。反対同盟が半年の間人力で掘り進めた横穴は全長100メートルほどもあった。
  • 8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。
  • 8月7日:成田警察署長官舎入口で黒色火薬を用いた手製爆弾が爆発し、警視総監公舎玄関にも爆弾が仕掛けられているのが見つかる。
  • 8月8日:千葉地裁のトイレでインク瓶に偽装し金属ナトリウムが詰められた爆弾が爆発する。
  • 8月14日-8月16日:天神峰にて屋外コンサート「日本幻野祭」が開催され、1000人以上が参加。主催は青年行動隊。出演は高柳昌行ニューディレクション・フォー・ジ・アーツ落合俊トリオ、高木元輝トリオ、DEWブルース・クリエイション阿部薫頭脳警察ロスト・アラーフ(灰野敬二)他。加藤登紀子が歌う武田節に合わせた婦人行動隊による踊りの披露、ゼロ次元によるパフォーマンスなど。
  • 8月19日:空港公団が千葉港から空港までの航空燃料パイプライン輸送ルート(「水道道路ルート」)を公表。本来パイプラインをその地下に埋めるはずの東関東自動車道が完成していないため、このルートでは市街地付近を経由する。これに対しルート沿いの千葉市内の団地住民らが強く反対し、建設工事が難航することとなる。同日、山本公団副総裁が荒木和成千葉市長を訪問し、公式に協力要請。
  • 8月26日:国鉄湖北駅付近の無人踏切に消火器に偽装した爆弾が仕掛けられ、無差別テロの兆しが現れる。
  • 9月10日:千葉県警が駒井野団結小屋を家宅捜索するも、地下壕入り口がふさがれており全容をつかめず。鉄製櫓、セメント・鉄骨等の資材が押収される。
  • 9月11日:千葉県警が天浪団結小屋、芝山町内の支援学生拠点3ヵ所を捜索。作業所の裏山からTNTと書かれたポリ容器が発見される。
  • 9月15日:白昼の茨城大学付近で、翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を、私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。活動家は9月23日に、私服刑事を告訴・告発した。
    東峰十字路事件で殉職した福島警視の慰霊碑
  • 9月16日:5県6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百人の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊が潰走し、逃げ遅れた小隊長を含む隊員3人が、火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職し、更に80人以上の隊員が重軽傷を負った(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375人。
  • 9月17日:千葉県警は、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点、都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、兇器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
  • 9月19日:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表[40]。これを受け支援学生の主力部隊3000人が帰京。
  • 9月20日:前日の友納知事の発表に反して、執行班が1000人の機動隊と伴に大木(小泉)よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げた所を急襲された形となり、よねは住居を撤去されたうえ、前歯を折る怪我をした[41]。成田空港問題における個人住宅への強制代執行実施は、これが最初で最後となった。抗議した支援者ら90人が逮捕され、負傷者27人。形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割が闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては逆に火に油を注ぐことになった[42]
  • 9月20日:青年行動隊が主導し、学生集団が大木(小泉)よね宅への「騙し討ち」への報復として同日夜から翌日にかけて工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。
  • 9月20日第二次行政代執行が終了。代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両等が焼き討ちされるなどして被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ2万2000人、反対派は1万2945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)[43]
  • 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3人が機動隊によって排除され、うち農民1人が逮捕される。機動隊3千人が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100人が突入。深夜、機動隊約500人が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が、無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
  • 9月27日:反対同盟が、友納知事・川上副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地方検察庁に告発する。
  • 9月28日:県空港騒音対策室が民家防音現地説明会を開催。
  • 10月1日:青年行動隊員の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺した。
  • 10月18日日石本館地下の郵便局で、今井空港公団総裁宛の小包が爆発し、郵便局員1人が重傷を負った(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。
  • 10月19日三里塚小学校で初の防音校舎が完成する。
  • 11月15日:千葉市の特別委員会についてパイプライン建設についての結論を出そうとするも、学生20人がなだれ込み流会となる。学生は警察によって排除される。
  • 11月17日:建設中の東関道(富里-成田区間)で、橋脚にプロパンガスボンベを用いた爆弾が仕掛けられているのが見つかる。爆発は未然に防がれたものの、爆弾は橋脚を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
  • 12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が、青年行動隊員11人を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員・三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)・支援者らの連行が相次ぎ、延べ121人が逮捕された。
  • 12月24日:釈放された1人が再逮捕される。

1972年[編集]

  • 1月9日:A滑走路南側のローカライザー局舎が時限爆弾で爆破される。飛行検査妨害を目的としており、空港の施設が爆破されたのは初めて。影響は限定的で、飛行検査は予定通り行われた。
  • 1月13日:小川明治の遺体の改葬が行われる。天浪地区から遺体が移された後、予め遺族らと墓移転の契約書を結んでいた空港公団が、小川が納められていたコンクリートをバリケード・団結小屋ごと撤去した。
  • 1月14日:機動隊が守る千葉市議会特別委員会で、航空燃料輸送パイプライン埋設賛成が強行採決される。
  • 1月15日:13日の撤去に協力した婦人行動隊副隊長であった女性を、反対同盟が糾弾[13]
  • 1月26日:午前0時、空港公団職員3人が天浪共同墓地に残された小川家の墓から遺体を掘り起こして移送。作業に当たった1人が精神に支障をきたし、後に自殺する。同日、今井空港公団総裁が「6月中の開港の見通しがついた」と発表。
  • 2月8日日本鉄道建設公団が、成田新幹線のルートを公表。駅ができる印西町を除く沿線自治体住民らが反対運動を展開する。
  • 2月11日成田新幹線の工事計画が認可を受ける。
  • 2月28日:反対同盟が、A滑走路南端にある芝山町岩山の畑に航空妨害を目的にした第二鉄塔(いわゆる「岩山大鉄塔」)の工事を始める。
  • 3月6日:飛行検査が始まり、航空局の飛行検査用航空機が空港上空300メートルを飛行通過する。その後も飛行検査が続けられたものの、反対派が設置した岩山大鉄塔などの障害物により、ILS着陸ができなくなるなど、一部支障をきたした。
  • 3月12日:反対同盟の「岩山大鉄塔」が完成する。高さは62.26メートルに及び、航空機の進入表面を38.97メートルも上回っていた。
  • 3月15日:千葉市長がパイプライン工事を許可。
  • 3月17日:戸村代表ら三里塚訪中団が出発[13]。各地で熱烈な歓迎を受け、周恩来首相とも面会する[44]
  • 4月10日:三里塚訪中団が帰国。「田や畑に雑草がない」「中国は道義的には世界一」と団員らは中華人民共和国をべた褒めで、人民公社の民兵を引き合いに自分の地所を自分で守る決意を述べる[44]。なお、この時の中国は文化大革命が実施されている最中である。
  • 3月27日:「岩山鉄塔」建設を受け、この日から予定されていた飛行検査が中止を余儀なくされる[13]
  • 3月31日:空港管理ビルが完成する。同日、船橋市に成田新幹線反対の住民組織ができる。
  • 4月17日:第1回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。運輸省・空港公団・千葉県の他、反対同盟から瀬利誠副委員長が出席。
  • 4月18日:空港公団が「開港延期のため1日に2100万円もの金利が流れる」とコメント[13]
  • 5月11日:友納知事が都営地下鉄千葉県営鉄道を空港アクセスに用いることを提案。(→京成成田空港線
  • 6月6日:千葉市民が2万5000人余の署名でパイプ埋設許可取消しの監査直接請求。
  • 6月21日:千葉市民、埋設工事禁止の仮処分を申請(7月31日に却下される)。
  • 6月26日:航空燃料パイプラインの敷設工事が着工する。
  • 7月5日:東峰十字路事件に関して、青年行動隊員12人が傷害致死罪で逮捕され、2人が手配される[13]。以降、同罪状での逮捕が続く。
  • 7月7日田中角栄内閣が発足。
  • 7月24日:千葉地裁がパイプライン(水道道路ルート)沿線住民らの工事中止仮処分申請を却下した際、「なぜ、このルートを選んだのか理解に苦しむ。市、(空港)公団とも住民感情への配慮が欠けている。住民と十分協議せよ」と勧告。
  • 8月3日:今井空港公団総裁が、佐々木秀世運輸相に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」としたうえで、千葉及び鹿島から成田市土屋までの鉄道による航空燃料輸送(暫定輸送)を検討する旨を報告。代執行のために犠牲者を出した警察や緊急採決をした収用委員会の不興を買う。
  • 8月3日:反対同盟が「傷害致死罪攻撃粉砕集会」を開催。
  • 8月14日:佐々木運輸相が今井空港公団総裁に1973年3月の開港と暫定輸送の実施を指示。同日、今井空港公団総裁が鹿島港からの暫定輸送の実施を荒木和成千葉市長に説明。空港公団と密約をかわしていた消防署や公民館等の環境整備費約11億円の支払いを当てにして(大蔵省の横やりにより支払いが行われないまま埋設工事が進められていた)住民説得に奔走していた荒木はこれに激怒[45]
  • 8月19日:東関東自動車道の千葉-成田間が全通する。ただし、強制収用の対象から漏れていた第一期工区内の大木(小泉)よねの畑によって空港内の道路が寸断された[13]
  • 8月24日:荒木千葉市長が佐々木運輸相に航空燃料パイプライン埋設工事計画を「水道道路ルート」から変更するよう要請。更に翌年8月には原状回復命令まで求めたため、空港公団は国会で「6000万円で埋めて5900万円で掘り返した」と追及されこととなる[45]
  • 8月31日:千葉県警が71年9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6人を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発した。
  • 9月16日:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千人の結集。
  • 9月17日:千葉市内で激しい反対運動が起きたことや市からの要請により、航空燃料パイプライン敷設工事が中止される。更に千葉市が市道占有許可の更新を行わず工区の原状回復を求めたことや、石油パイプライン事業法が公布され「技術基準細目」への対応を求められたことから、開港までのパイプライン完全供用の望みが潰える。
  • 9月20日:成田市が航空燃料のタンクローリー輸送に反対。
  • 9月27日:空港公団が航空燃料輸送方針として、土屋に設けられる石油基地から空港までの輸送は暫定パイプラインを用いるが、その供用開始まではタンクローリーを用いることを決定。
  • 10月3日:友納千葉県知事が県議会で暫定輸送に反対する地元の考えを支持。同日、青年行動隊20人が保釈。
  • 10月5日:原案の暫定輸送では市内にタンクローリーが走ることとなるため、長谷川成田市長が佐々木空港公団総裁に暫定輸送反対を申し入れ。佐々木総裁はタンクローリー区間をパイプラインに計画変更することを表明。
  • 10月9日:友納知事が特別立法等の騒音対策を田中首相に陳情。
  • 11月19日:成田市土屋開発協議会が、地元や沿線住民に迷惑をかけないことを条件に、暫定パイプライン用の貯蔵タンクと燃料積み出し施設の建設に同意し、契約が締結される。一方、沿線の山ノ作地区の住民らが「事前にルート住民への説明会を開く」としていた空港公団が個別訪問を行ったことなどから計画に反発した。
  • 11月12日:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139人、保釈金1350万円。
  • 12月12日:第2回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 12月21日:今井総裁、年度内開港の断念を発表。
  • 11月25日京成電鉄京成成田駅-成田空港駅(現・東成田駅)区間が完成する。

1973年[編集]

  • 1月20日:青年行動隊が『執念城』を発行[13]
  • 1月24日:空港公団が暫定パイプラインの埋設許可を成田市に申請するが、「工事方法・期間・住民対策などの説明がなく住民の誤解を招く」として拒否される。
  • 2月1日:臨時新東京国際空港閣僚協議会が事務次官レベルの幹部会を開き、早期開港へのめどをつけるための関係省庁の協力と暫定パイプラインの即時着工を確認。
  • 2月14日:第3回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 3月7日:暫定パイプラインについて、空港公団による安全性の保証・地区への水道敷設及び消火栓設置・ルートの一部変更が約されたことにより、山ノ作地区住民らが成田市の斡旋を受諾。
  • 3月23日:午前3時頃、京成成田空港線の跨線橋に仕掛けられた消火器を改造した爆弾が爆発し、橋げたに直径1メートルの穴が開くとともに付近の民家も被害を受ける。試運転の妨害を目的としたものと考えられる。
  • 3月28日:空港公団が成田市にパイプラインの申請を再提出し、受理される。同日、2月23日に起きた踏切事故を契機に佐原市議会が暫定輸送反対を決議。
  • 4月8日:成田市議会が、暫定パイプライン市道占用許可を決議。決議にあたって機動隊が導入される[13]
  • 4月30日:A滑走路が完成。
  • 5月10日:空港公団が二期工事区域内の手つかずであった民家・立木・団結小屋など地上物件を対象に、土地収用法に基づく強制立ち入り調査を開始。反対派がスクラムを組むなどして対抗したため、途中で航空測量に切り替えられ、調査は2日間で終了。地上物件の収用採決申請の期限(事業認定から4年以内)が、12月15日に迫っていた。
  • 5月14日:誘導路が完成。
  • 6月:前職の寺島孝一死去に伴う芝山町長選挙が行われ、反対同盟の内田寛一行動隊長が出馬するが、真行寺一朗に敗れる。
  • 6月16日:鹿島・神栖・潮来の3町の10住民団体が「ジェット燃料輸送反対連絡会議」を結成。
  • 6月17日:銚子市議会で、嶋田隆市長が成田空港発着航空機の銚子上空飛行反対を表明。1970年3月のVORTAC設置時に銚子上空は飛行させないと約束した運輸省が、飛行コースに係る報道や市の問い合わせにもあいまいな態度をとり続けたことから。
  • 6月24日:空港反対派の小原子団結小屋で、盗聴器が発見される。そのコードは条件派の家に繋がっていた。反対同盟は千葉県警に抗議[13]
  • 6月25日:鹿島町議会が暫定輸送反対決議。
  • 6月27日:神栖町が暫定輸送反対を決議。
  • 10月5日:反対同盟主催の「三里塚大政治集会」を日比谷公会堂で開催。「岩山鉄塔十万人共有化運動」を提起する。
  • 9月17日岩上二郎茨城県知事が田中首相を訪ね、暫定輸送問題について、①暫定輸送は3年間に限る②安全対策・住民対策の確立③飛行コースは鹿島工業地帯上空を避け、騒音対策を実施④首都圏整備法の順守 の4条件を提示。
  • 10月29日「岩山鉄塔」付近の農道で、鉄塔防衛隊員の山口義人が機動隊員らに暴行を受け、一時重体に陥る。山口は、のちに千葉県警に対して国賠訴訟を起こし、勝訴する。[要出典]
  • 11月6日:反対同盟代表である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補を表明。
  • 11月30日:空港公団が県収用委員会に二期地区の収用裁決を申請。しかし、開港もままならない中、委員会は審理手続きに入らなかった。
  • 12月17日:1971年の第二次行政代執行で自宅を強制収用された大木(小泉)よねが死去。享年66。
  • 12月21日:成田市土屋から空港までの暫定パイプライン敷設工事が着工する。その後も農地法上必要な農地転用許可申請をしていないことが発覚するなどトラブルが続く。

1974年[編集]

  • 3月27日騒防法が改正され、一般民家の防音工事に対する助成や空港周辺の緑地帯の整備などが盛り込まれる。同法に基づき、空港公団が住宅の騒音防止工事の助成を開始する。
  • 3月28日:第4回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 4月:暫定パイプライン工事の影響で井戸枯れや水質汚濁が発生し、工事が中断。
  • 5月14日:暫定パイプライン工事による被害を受けて、空港公団が成田市水道局とともに山ノ作地区及び寺台の35世帯に飲み水の給水を開始。
  • 5月20日:銚子市議会が「銚子上空飛行コース反対、銚子ボルタック撤去」を決議。更に後に、革新系無所属の中里栄一市議が田中首相に直訴状を渡そうとしたり「ボルタック爆破」を唱えるなど騒動となる。
  • 7月7日:この日投票の参議院議員選挙で、「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は23万票を獲得したが落選。この「選挙闘争」で、戸村陣営の運動員のべ11人が逮捕される。
  • 10月10日:反対同盟主催で「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催。5千人が結集。第四インター系の「共青同(準)武装行動隊」がデモの途中で第5ゲートから空港に突入を図り、国道296号線にバリケードを構築して機動隊と衝突した。一部が空港に侵入し、警察車両1台が損傷する。全体のデモと合わせて9人の逮捕者。
  • 10月19日:第5回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 11月1日:暫定パイプライン工事が再開。
  • 12月9日三木内閣が発足。
  • 12月18日:午前1時過ぎに朝日新聞本社に「午前2時に成田空港を爆破する」との予告電話があり空港内を捜索したところ、警備員が機内食工場裏で時限爆弾を発見する。爆弾は起爆装置が二重化されているなど精巧なものであった。この事件を含めて3年連続で同じ日に爆弾事件が発生しており、前年には警察幹部宅が、前々年には交番がそれぞれ狙われている。

1975年[編集]

  • 4月:戸村代表の後任として成田市議会選挙に出馬した北原事務局長が当選。
  • 4月17日川上紀一が千葉県知事に就任。
  • 5月14日:空港建設反対を掲げる成田地区労に背き、成田市職員組合が市の財政悪化を理由に「成田空港の開港促進」を大会スローガンに採択。
  • 6月4日:前年2月に開港促進に方針転換した成田市職員組合の委員長がサンケイ新聞オピニオン欄で「(空港関連事業への支出がかさんだ結果)職員の生活向上が望めないので組合としては開港促進を打ち出さざるを得なかった」と述べる。
  • 6月13日:暫定輸送沿線(鹿島・神栖・潮来)住民らの連絡協議会が木村睦男運輸相を訪問し、燃料基地建設撤回の申し入れ。
  • 6月30日:土屋から空港までの暫定パイプライン(約3km)が完成。
  • 7月14日:木村運輸相が川上千葉県知事に、「茨城県側が暫定輸送を3年間に限定と希望しているので、千葉港-成田空港の本格パイプラインに協力してほしい」と依頼。
  • 7月15日:木村運輸相が竹内藤男茨城県知事を訪ね、暫定輸送への協力を要請。
  • 7月20日:千葉市民が1万人余による本格パイプライン工事差止めを求めるマンモス訴訟を提起。
  • 8月18日:木村運輸相が荒木千葉市長を訪ね、本格パイプラインを巡る不手際を謝罪したうえで協力を要請。
  • 8月29日:臨時新空港閣僚協議会が、1973年9月17日に茨城県が提示した暫定輸送に係る4条件の受け入れを了承。竹内茨城県知事が神栖・鹿島両町長を招き、国家プロジェクトへの協力を要請。
  • 9月5日:空港関係労組10組合(13300人)が、「成田空港対策労働組合連絡会」を結成し、運輸省・空港公団に早期開港を陳情。
  • 10月9日:成田市役所内で市職員組合委員長が2リットルの屎尿入りビニール袋を投げつけられる。
  • 10月11日:神栖町議会が暫定輸送反対決議を撤回、他の自治体もこれに続く。
  • 10月12日:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を7千人の結集で開催。デモで逮捕者5人、反対派に数十人の負傷者。
  • 10月17日:9日の屎尿投げつけに関し、活動家が公務執行妨害容疑で逮捕。活動家は完全黙秘を貫き、11月1日に処分保留のまま釈放される。

1976年[編集]

  • 1月8日:運輸省が新東京国際空港の騒音区域を告示。同日、岩波鉄塔撤去の工事が近いと考える反対同盟が岩波鉄塔で新年会を開き、結束を誓う。
  • 2月6日:第6回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 2月10日:機動隊員の宿舎建設着工。
  • 2月15日:芝山町議会選挙が行われ、瀬利反対同盟副委員長が3選。
  • 2月18日:岩波鉄塔撤去の動きを察知した反対同盟が鉄塔前の産土参道バリケードを築く。また、反対同盟はこの他に第2鉄塔に空中団結小屋を設置するなどして対抗策を講じる。
  • 2月22日:廃校となった岩山小学校跡に3500人が集まり、「鉄塔撤去道路建設阻止緊急現地総決起集会」が開かれる。
  • 2月25日:空港公団が岩波鉄塔撤去のための道路建設工事(名称は「航空保安施設建設用道路」、通称C工区)を再開。バリケードを撤去しようとする機動隊と防衛する反対派が衝突し、機動隊14人と学生ら39人が負傷。48人が逮捕される。
  • 4月27日:瀬利誠副委員長が空港公団に土地を売却していたことが判明し、反対同盟幹部会は瀬利を除名。瀬利は反対同盟の決定に従い、芝山町議員も辞職。「なぜ事前に事前に相談してくれなかったのか」との戸村代表の問いに瀬利は「相談しても聞いてもらえたでしょうか」と答えるのみだった。八街町へ移転した瀬利が闘争用に残した土地は、熱田一に移転登記される。副委員長脱落の事態を受けた反対同盟は、空港公団との個別交渉の禁止や用地内外の住民の交流を深めることに加えて、新たに団結小屋3戸を作ることを決定。
  • 5月25日:大塚空港公団総裁が「日仏空港シンポジウム」の席上で、暫定輸送・鉄塔の問題から1976年度内の開港が事実上困難になったと言明。
  • 6月:「三里塚微生物農法の会」が発足し、有機農法に対する取り組みが反対同盟内に広まる。
  • 7月22日:暫定輸送(鹿島ルート)について、茨城県と地元3町(鹿島・神栖・潮来)が運輸省の協定書に調印。調印書には東関道鹿島線の早期開通や国鉄鹿島線を水戸まで延伸などの地元要望も含まれていた。地元の要望をほぼ丸呑みした形。
  • 9月1日:成田青年会議所が、成田市民の過半数が現状での開港に反対とするアンケート調査結果を発表。
  • 9月3日:自民党の大竹清県議が、騒音対策などが解決されない限り開港を認めないとするチラシを配布。移転農家らで作る成田空港転業対策協議会が、早期開港を望んでいるにも関わあらずかってに名前を使われたとして抗議。
  • 10月3日:エプロンが完成。同日、「十月集会」が三里塚で開かれ、デモ隊と機動隊が衝突。水俣病患者協議会副会長の川本輝夫を含む62人が逮捕される。
  • 10月10日:航空灯火が完成。
  • 10月12日:空港内の給油施設が完成。
  • 10月25日:暫定輸送(鹿島ルート)の千葉県側沿線自治体(佐原・成田・神崎・下総)が、共通の受け入れ条件11項目(化学消防車配備・踏切整備・東関道延伸・水郷大橋4車線化 等)を運輸省・空港公団に提出。更に佐原市が国鉄駅舎・駅前広場の整備、下総町が騒音区域の拡大、神崎町が踏切拡幅等を求める。成田市の要望は項目が多いため翌年持越し。
  • 11月8日:川上千葉県知事が、石田博英運輸相と会い、①東京湾岸道路の整備②国鉄成田駅と国道51号を結ぶ連絡道路完成③成田市内の国道51号4車線化④国鉄成田線、佐倉-成田間の複線化⑤国鉄成田駅の橋上化 といった、28項目の要望書を提出。
  • 12月:国鉄動力車労働組合(動労)の中央委員会で、動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争を緊急動議、可決される[20]
  • 12月20日:岩波鉄塔周辺に住む反対派農家12戸と鉄塔撤去を急ぐ空港公団とで秘密裏に進めていた移転交渉が妥結。"集団脱落"は代執行後初めて。
  • 12月22日:成田市議会が「成田市航空機公害防止条例」を可決。航空機公害に絞った条例は全国初。内容について千葉県が法令違反の疑いを指摘したが、条例はそのまま翌年1月1日に施行。
  • 12月24日福田赳夫内閣が発足。福田首相は「さあ、働こう内閣だ」と述べ、歴代内閣の懸案事項解決に意欲。

1977年[編集]

  • 1月8日:福田内閣への念押しとして、川上千葉県知事が田村元運輸相に前年11月8日に提出した28項目の要望書を再提出。
  • 1月14日:川上千葉県知事が県選出自民党議員らとともに福田首相に28項目の要望書を重ねて提出。空港対策の観点からも交通問題を万博並みの突貫方式で解決することを訴える川上知事に対し、福田首相は「地元の意向はよくわかった」と答えた後、同席する田村運輸相に「千葉県だけにまかせず、国が責任をもってやれ」と発破をかける。
  • 1月11日:福田首相が閣議で「年内開港」を指示。反対派は緊張を高め、鉄塔問題・暫定輸送問題・飛行検査・完熟飛行・ノータム(航空情報)発出・燃料備蓄等の課題が山積する関係官庁や空港公団は解決に躍起になる。
  • 1月15日:真行寺芝山町長宅が過激派により襲撃される。これを受けて自宅前に臨時派出所が設置される。
  • 1月17日:1年8か月ぶりに新東京国際空港関係閣僚協議会が開催され、積極的な発言が相次ぐ。最後に、出席した福田首相が「財政は苦しいが、各省庁が協力して問題を一つひとつ解決、年内開港を目指す。有言実行を唱える福田内閣は言った以上は実現しなければならない」と檄を飛ばす。これまでに閣僚協に首相が出席した事例は少なく、福田の決意の現れであった。
  • 1月19日:「岩山鉄塔」の西側まで撤去用道路(D工区)を伸ばす工事が着工する。工事を防衛する機動隊3500人と投石を行う支援学生ら1000人が対峙し、2人が逮捕。以降も機動隊の警護と反対派との衝突が続き、工事が終わるまでに機動隊は延べ約5万人が出動し、逮捕者は11人に上った。
  • 2月4日:パトロールをしていた青年行動隊2人が「道交法違反」で逮捕される。
  • 2月6日:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催。
  • 2月10日:成田市が開港を認める条件として45項目もの要望を運輸省と空港公団に提出。前年11月8日に川上千葉県知事が運輸省に出した28項目と重複するものも多かったが、「納得できない回答ならこれまでの開港に協力した態度を改める」とする強気の姿勢であった。
  • 2月20日:千葉市内での三里塚集会でデモの際3人逮捕。
  • 2月21日:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1人が逮捕。
  • 2月24日:共同通信会館の空港公団本社トイレ内で警備員が不審な段ボールを調べたところ、突然火を噴きだした。すぐに消し止められけが人はなかったが、空港公団本社を狙ったテロは初。
  • 3月8日:「岩山鉄塔」防衛隊員1人が逮捕。
  • 3月9日:芝山町が開港の条件として①夜間早朝の飛行禁止②京成電鉄空港線の芝山延伸③平行・横風滑走路の騒音対策実施等 11項目を運輸省・空港公団に提出。
  • 3月11日:大栄町で機動隊に擬装した革労協がD工区の工事現場に向かっていたダンプカーを停止させて放火。運転手は無事だったが車は全焼した。
  • 3月15日:第1旅客ターミナルビルが完成。
  • 3月27日:「鉄塔防衛」第三波総決起集会に4500人結集。1人逮捕。
  • 3月28日:「三里塚闘争に連帯する会」が設営したテント村に機動隊が突入。2人逮捕。反対派2人負傷。
  • 4月8日:東峰十字路事件で指名手配となり5年間逃避行を続けていた容疑者が、千葉市内で記者会見を開いて「権力側がいつまでも逮捕しに来ない。一度つかまってから反対闘争に再登場する」と語り、再び姿を消す[48]
  • 4月9日:前日に記者会見を開いた容疑者が東峰地区の仲間宅を訪ねたところを逮捕される[48]
  • 4月13日:暫定パイプラインの制御監視塔が火炎瓶で襲われる。
  • 4月16日:翌17日の総決起集会の前段デモで1人逮捕。
  • 4月17日:「鉄塔防衛全国総決起集会」に闘争史上最大の2万3千人(警察発表では1万1750人)が結集。「三里塚で内乱を起こす。それは暴動だ」と挨拶した戸村反対同盟は「異議なし」の大歓声に包まれた。代表デモで逮捕者7人。反対派の負傷者100人以上。革マル派 革マル派は集会への妨害活動や批判を行った。機動隊5000人が動員され警戒に当たる。
  • 4月18日:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。反対同盟は、21日に告訴を発表。
  • 4月25日:暫定輸送(鹿島ルート)に関連する千葉県側自治体が運輸省との協定書に調印。
  • 4月26日:岩山鉄塔を補強・要塞化する工事が始まる。
  • 4月29日:反対同盟及び新左翼各党派が革マル派の永久追放を決議。
  • 5月1日:D工区工事が終わり、岩波鉄塔撤去までの作業道路が完成。
  • 5月2日:空港公団が岩波鉄塔を航空法違反建造物として撤去仮処分の申請を千葉地裁に行う。
  • 5月4日:千葉地裁が岩山鉄塔撤去仮処分を決定。
  • 5月6日:午前3時に機動隊が「岩山鉄塔」を急襲して宿泊していた支援学生ら7人を排除し、航空法違反物件の現場検証を行う。午前5時頃に支援学生ら120人が規制線の突破を試みるが機動隊は約20発の催涙ガス弾や放水を用いて寄せ付けなかった。午前8時38分に仮執行が出されて撤去作業が開始され、2基ともに撤去される。マスコミの監視が減るゴールデンウイークの日並びや新聞休刊日も考慮して綿密な作戦が立てられ、田村運輸相にも当日実施が伝えられるほど徹底した引きつ保持の下で、2500人の機動隊や格納庫に隠匿していたクレーン車5台が動員されて行われた撤去だった。16人が逮捕。反対派の負傷者33人。町田直空港公団副総裁は記者会見で「一人のケガ人も出ない方法としては、こういうやり方が一番よかった。批判は覚悟しているが、国民も納得してくれると思う」と語る。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。共同通信会館の空港公団総裁室に鉄パイプを持った中核派3人が乱入し、逮捕される。
  • 5月6日:北原反対同盟事務局長が鉄塔抜き打ち撤去抗議集会の8日実施を届け出、県警は県公安条例で定められた期限を満たしていないとして不許可。
  • 5月7日:「岩山鉄塔」撤去への抗議行動で、25人逮捕。反対派18人負傷。同日、飛行検査が開始され、運輸省YS-11検査機「千代田号」が初めて空港に降り立つ。同日夕、無届の集会が空港ゲート近くの芝山千代田で開催されることを懸念した県警が方針転換し、戸村代表・北原事務局長の家に近い三里塚第2公園での開催であれば8日の集会を認めることとしたが、反対同盟に伝わらず。
  • 5月8日:芝山千代田で「岩山鉄塔」撤去抗議集会が開催された結果、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が、機動隊員が水平撃ちしたガス弾を受け重傷、2日後に死亡(東山事件)。衝突で逮捕者33人のうち15人に殺人未遂罪。負傷者327人うち入院3人。
  • 5月9日:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1人が逮捕。同日、芝山町長宅警官詰め所を過激派集団が火炎瓶等で攻撃。警官1人が死亡。前日の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
  • 5月11日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。
  • 5月13日:東山薫の両親が警察庁長官ら5人を「殺人」などで告訴。
  • 5月14日:三里塚現地の坂志岡・承天寺で東山薫の反対同盟葬がとり行われる。
  • 5月15日沖縄県米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ中央集会」が開催される。1万5千人の結集。デモで逮捕者12人。
  • 5月28日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索。
  • 5月29日:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千人の結集。デモで逮捕者71人。反対派の負傷者79人。
  • 6月15日:千葉地裁に「東山君虐殺」の国賠訴訟を提訴。
  • 6月19日:「三里塚東京集会」開催。デモで5人逮捕。
  • 7月24日:ジャンボ飛行阻止闘争に10,950人の結集。デモで5人逮捕。
  • 8月7日:日本航空のボーイング747を用いた第一次騒音テスト飛行実験が行われ、飛行コース下や周辺地区で空港公団や自治体による騒音測定が行われる。初の大型機による成田空港離着陸。この日から9日まで、反対同盟が三日連続で飛行阻止闘争を展開。三日間で10人の逮捕者。
  • 8月23日:田村運輸相と川上千葉県知事のトップ会談が行われる。前年11月8日に川上知事が掲げた28項目のうち開港の絶対条件の1つとした国道51号拡幅が間に合わないため、新勝寺の初詣客と空港利用者による市内での大渋滞発生を懸念した県側が応じず、年内開港断念が事実上決まる。
  • 9月14日:見返り条件を運輸省が呑んだこと等から、沿線自治体の中で最後まで認めていなかった千葉市が運輸省との協定書に調印し、千葉ルートでの暫定輸送が認められる。約6年を要した暫定輸送計画をめぐる関係市町村との協議が終了する[49]
  • 9月16日:真行寺一朗芝山町長が田村運輸相と会談し、京成電鉄の芝山延伸を強く要望。田村運輸相から京成電鉄が難色を示していることから第3セクター方式が提案され、この他にも航空科学博物館建設と民家防音対策が約束される。
  • 10月1日:田中運輸相と川上千葉県知事のトップ会談が行われ一応の決着がつき、年度内開港の目途がつく。
  • 10月9日:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千人の結集。
  • 11月11日:銚子市議会が①市街地上空飛行を原則的に避ける②国は航空機の飛行により電波障害が生じたときは誠意を持って対処する等の県の斡旋案の受け入れと上空飛行の了承を賛成多数で決定。
  • 11月12日:川上千葉県知事が田中運輸相と面会し、千葉県としての年度内開港同意を表明。
  • 11月16日:田中運輸相が住民の反対で頓挫している成田新幹線計画の代替として、都営地下鉄東京-押上)・京成電鉄(押上-高砂)・北総開発鉄道(高砂-小室)・公団鉄道・成田新幹線ルートを繋ぎ、40分で東京駅と新空港を接続する「成田高速鉄道高速」を発表。
  • 11月18日:銚子上空飛行問題について、運輸省の覚書に川上千葉県知事と嶋田銚子市長が署名。
  • 11月26日:空港、航空本無線施設、航空灯火が完成検査に合格する。空港公団が、開港日を1978年3月30日とする旨を運輸大臣に届け出(28日告示)。
  • 11月28日:運輸省が新東京国際空港の1978年3月30日開港が告示される。同日、内閣改造が行われ、福永健司が運輸大臣となる。
  • 12月:全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。
  • 12月2日:国鉄がジェット燃料輸送計画と3月1日からのダイヤ改正を発表。
  • 12月3日:動労千葉地本が暫定輸送に反発し、3日間の管内での順法闘争を開始。総武線などでダイヤが大幅に乱れる。動労千葉地本は百日間闘争と称して妨害活動を継続[20]
  • 12月3日ICAO(国際民間航空機関)及び関係50ヵ国に対し、新空港に関わるノータムが発出される。
  • 12月21日:反対派が騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6人。
  • 12月22日:飛行阻止闘争で逮捕者4人。
  • 12月26日:大木(小泉)よねから引き継いだ養子が耕作している農地について、空港公団が登記上の所有者からの申し立てを千葉地裁が認め、仮処分が実施される。一家は藁小屋に立てこもったが最終的に自主退去した。この畑は、空港公団の手続きミスで強制収用の対象から漏れていたために第一期工区内でただ一つ残されていた土地で、空港内の高速道路を約40メートル遮断していた。

1978年[編集]

  • 1月22日:「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」の名称を現在の「成田空港から郷土とくらしを守る会」に変更する[50]
  • 2月4日:反対同盟の「横堀要塞」が4階建てに増築され、航空法で定められた制限表面を超過する。
  • 2月6日航空法49条違反の刑事案件として、機動隊が「横堀要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する(第一次「横堀要塞」事件)。機動隊の高圧放水やガス弾などで「要塞」に立て空港反対派の排除を試み、反対派は約560本の火炎瓶投擲や、スリングショットなどで対抗した。機動隊は夜10時に篭城していた反対同盟農民6人を含む41人を逮捕。更に周辺での衝突で4人が逮捕された。
  • 2月7日:「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度のなかで抵抗したが、夜10時の反対同盟による「勝利宣言」の呼びかけによって投降し、逮捕された。4人全員が手足に凍傷を負っていた。二日間の衝突で逮捕者49人。反対派の負傷者10数人、警察官の負傷者23人。
  • 3月1日:「横堀要塞」前で現地集会が開催され、反対同盟が「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2人が逮捕。鹿島ルートでの暫定輸送が開始される予定であったが、反対同盟と連帯する動労千葉地本が半日ストを行い、翌日からの実施となる。
  • 3月17日:千葉ルートでの暫定輸送が開始される。
  • 3月23日:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2人が検問で逮捕。
  • 3月25日:反対同盟が再度「横堀要塞鉄塔」を構築、翌日の空港攻撃においてこれが機動隊への囮となる。
  • 3月26日:開港4日前の成田空港を新左翼党派ら4千人が襲撃、更に排水溝に潜んでいた15人の行動隊が空港管理ビルに突入して管制塔を占拠し、通信機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。逮捕者115人。騒乱の中で襲撃に参加していた新山幸男が火だるまとなり、全身やけどを負う。
  • 3月28日:閣議で3月30日開港延期が決定する。福田首相は「世界に申し訳ないことになった」と語った。
  • 3月28日:航空法違反として、「横堀要塞鉄塔」が撤去される(第二次「横堀要塞」事件)。要塞にたてこもる約100人が、火炎瓶や石などを投擲して前日から激しく抵抗した。逮捕者51人。
  • 4月2日:川上千葉県知事が、反対同盟に対話を呼びかける。
  • 4月4日:空港公団が、新たな開港日を1978年5月20日とする旨を運輸大臣に届け出(7日告示)。同日、管制塔襲撃事件を受け、福田内閣が関係閣僚会議で①新たな開港日を5月20日とする②空港内外の安全対策を強化する③特別立法などで過激派対策を強化する④早期開港に向けて地元の指示と世論を喚起する とした「安全確保対策要綱」を纏める。
  • 4月7日特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法(騒特法)が公布される。
  • 4月17日:反対同盟が「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に「話し合いを拒まない」と態度を決定する。
  • 4月18日:北原事務局長・秋葉哲救援対策部長・石井武実行委員を含む「横堀要塞鉄塔」撤去の際に逮捕された48人が千葉地検に起訴され、管制塔襲撃事件を契機に反対同盟も過激派と同様に厳罰主義をとることとした検察の姿勢が示される。うち、機動隊に向けて洋弓コンクリートブロックを放った過激派4人は、三里塚闘争史上初となる殺人未遂罪での起訴であった。起訴された反対同盟幹部には執行猶予付きの有罪判決が下された。
  • 4月27日新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)の法案が国会に提出される。
  • 5月4日:出直し開港を前に、浅沼清太郎警察庁長官が開港後のゲリラ対策として①東関東自動車等の出入り口や京成電鉄の駅で相当長期に亘って検問をつづける②旅客以外の送迎車や見学者のターミナルビルへの出入りを原則1週間程度禁止する との警備方針を明かし、開港前後は連日1万人以上の警官を動員して厳重な警備態勢を敷くこととした。入場規制に対しては、見学者エリアに出店しているテナントからの苦情もあり、開港後に徐々に緩和されていった。
  • 5月5日:午前3時半頃、千葉県酒々井町京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼(京成スカイライナー放火事件)。
  • 5月6日:支援党派である松本礼二らの一派(「遠方から」)が、三里塚闘争の対政府交渉への誘導を決定。
  • 5月11日:「遠方から」一派が対政府交渉の仲介を松岡秀雄(三里塚闘争の特別弁護人)に求める
  • 5月10日:千葉日報主催の座談会で、戸村反対同盟代表と福永運輸相が会談。戸村代表は4月17日に決定された反対同盟の条件が提示するが、福永運輸相は10日後に迫る開港予定日の再設定に応じず、物別れに終わった。同日、反対同盟を支援する17党派が超党派の共闘組織として「三里塚闘争支援連絡会議」を結成し、共同戦闘宣言。同時に「三里塚闘争に敵対する革マル派を弾劾する」として、革マル派への敵対姿勢を鮮明にする[51]
  • 5月11日:松岡秀雄の斡旋で三塚博運輸政務次官と石橋正次反対同盟委員長が会見。
  • 5月13日新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)が公布、施行される。国会提出から16日間でのスピード成立であった。
  • 5月15日:三塚運輸政務次官と島寛征反対同盟事務局次長が会見。直ちに新聞報道がなされ、秘密裏の交渉に反対同盟が不信を強める。
  • 5月16日:木の根団結小屋(革労協)及び岩山団結小屋(共産同戦旗派)に対し、成田新法に基づく1年間の使用禁止が通告されるが、過激派は無視して常駐を続けた。同日、反対同盟が芝山町の野戦病院で幹部会を開き、反対同盟が提示した条件(逮捕者全員の釈放・解放延期・成田新法撤回)が受け入れられていない中で戸村代表や石橋委員長が政府側と接触したのは相手に利用されるだけだとの声が上がり、条件の受け入れ抜きにして話し合いに応じないとする方針が再確認される。
  • 5月17日:前日の成田新法適用に反対同盟が態度硬化、「一切の話し合い拒否」を表明する。同日、起訴されていた北原事務局長らが保釈される。
  • 5月18日:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する。
  • 5月19日中核派が千葉県八千代市の米本無線中継所をゲリラ活動によって破壊したが、翌日には復旧。
  • 5月20日:午前0時をもって新東京国際空港開港。午前10時30分から、旅客ターミナルビル北ウイング出発ロビーで56人が出席して開港式典が行われた。厳戒体制の中であったため、空港ターミナルビルには、関係者と報道陣以外の一般人は入れなかった。1966年の閣議決定から12年近くが経過しており、完全空港の見通しもつかない状況であったが、式典に出席した福永運輸相は「昔から申します。難産の子は健やかに育つ」と祝辞を述べた。空港の外では反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中での開港であり、第4インター・共産同戦旗派及・プロ青同が旧第5ゲートに火炎車を突入させて火炎瓶を投擲するなどした[52]。開港当時の乗り入れ航空会社は、世界29カ国の34社だった。反対派は集会を開き、2万2千人が結集した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発した。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48人が逮捕され、反対派の負傷者25人。
  • 5月20日:運輸省東京航空交通管制部の専用地下ケーブルが、埼玉県所沢・狭山両市内の計3箇所でほぼ同時に過激派によって切断され、航空管制業務が全国的に一時麻痺した。山田町の航空路監視レーダー基地も同日襲撃される。夜間、空港内突入を図った第四インターがゲートを襲撃。
  • 5月21日:未明に栄町の送電線が過激派によって切り倒された。空港への影響はなかったものの、約2万戸が停電となった。
  • 5月21日:航空機運航開始。8時3分に、一番機となるロサンゼルス発の貨物便日本航空1047便が、古タイヤを燃やすなどの反対派の妨害を受けつつも到着。12時3分に旅客便の一番機となるフランクフルト発の日航446便が到着。京成電鉄空港線(京成成田駅 - 成田空港駅(現:東成田駅))が開業。京成上野駅からの有料特急スカイライナーが運行開始。
  • 5月22日:8時16分、出発便の一番機となる貨物便大韓航空の802便がソウル(金浦国際空港行き)に向けて離陸。
  • 5月23日:午後11時までの門限に間に合わなかった日本航空の貨物機2便が欠航となる。成田空港の門限を理由とした欠航は初。開港直後は門限間際まで離着陸が相次ぐ綱渡り状態が連日続いた。
  • 5月25日国鉄による航空燃料暫定輸送が開始される。開港当初の輸送能力は、鹿島ルートは18両編成と13両編成が各2列車、14両編成が1列車の計5列車で3800kl、千葉ルートは12両編成が2列車の1200klで、合計1日あたり5000klであった。ただし、修理等で年間30日程度は運休するため、実際の輸送能力は1日平均にすると約4500klであった。
  • 5月24日:「遠方から」一派が島寛征事務局次長に対政府交渉計画(運輸省・空港公団を交えず、秘密を徹底する)について説明。
  • 5月25日:開港前の騒音テスト飛行よりも実際の騒音がひどいとの苦情が相次ぎ、成田市と芝山町が独自の騒音測定を開始。
  • 5月27日:中核派によって、国鉄成田線の佐原 - 大戸間にある列車集中制御装置の回線と鉄道専用電話回線が切断され、航空燃料の暫定輸送を行っていた貨物列車が立ち往生する[52]。同日、パンナム航空のホノルル行きが旅客便として初めて門限による欠航となる。
  • 6月6日:開港時、「成田は国際線、羽田は国内線」の棲み分けが決まっていたが、利用者の利便性や地元住民の要望を考慮した運輸省が日本航空からの国内線乗継便申請を認可。
  • 6月8日:国内線の運行が始まる。
  • 6月10日:新左翼の反対派支援者が、妨害用アドバルーン3個を打ち上げたため、約20分新東京国際空港が閉鎖される。同日、国鉄の佐倉-酒々井間警戒に当たっていた警備員が貨物列車に撥ねられて死亡する。
  • 6月13日:3月26日の成田空港管制塔占拠事件で、全身火傷を負った反対派支援の新山幸男が死亡する。
  • 6月27日:北総浄水場の沈殿池に過激派が廃油120リットルと殺虫剤ダイアジノンバイジット計12kgを投入[53]。同浄水場は周辺の一般家庭用水として利用されていることから、無関係な多数の市民の生命を危険に陥れた極めて悪質な「ゲリラ」事件として注目された[54]
  • 6月29日:佐倉市で暫定輸送を行う貨物列車への襲撃を警戒する警備ヘリコプターが墜落し、鉄道公安員や警官など五人が死亡する。
  • 7月2日:反対同盟が「飛行阻止現地大集会」を開催。1万5千人の結集。第九ゲートから突入しようとした6人が逮捕され、デモ全体で44人の逮捕者。反対派の負傷者14人。
  • 7月18日千葉県警察新東京国際空港警備隊が発足。
  • 7月29日:革労協が、暫定輸送「鹿島ルート」の起点である茨城県鹿島郡神栖町鹿島石油鹿島製油所の石油パイプラインに仕掛けた時限装置を発火させる[52]
  • 8月2日:革労協が東京シティエアターミナルに火炎車を突入させた[52]
  • 8月21日:ストライキが終結したノースウエスト航空の1番機が飛来、29か国1地域34社の航空会社が勢ぞろいする。
  • 8月26日:花見川河川下を通るパイプライン新ルートの公表、漏洩検知などの安全強化策の提示を経て、空港公団が千葉市とパイプライン敷設の協定書・確認書を締結[1]
  • 9月4日:革労協が成田市内の京成電鉄空港線ガード下でトラックを炎上させ、鉄道輸送を妨害した[52]
  • 9月7日:中核派が千葉県八千代市など数か所で電話同軸ケーブルを切断し、茨城県北相馬郡守谷町(現・守谷市)守谷VOR/DMEおよび同県稲敷郡阿見町阿見VOR/DMEの機能が麻痺した[52]
  • 9月12日:革労協が暫定輸送に使われる鹿島臨海鉄道の線路上に生コンクリートを散布して列車の運行を妨害[52]
  • 9月16日:反対派約800人が、「たいまつデモ」を行い、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。革労協が成田市荒海のアウターマーカーを火炎瓶などで襲撃した[52]
  • 10月10日:航空燃料の暫定輸送を行っていた国鉄の貨物列車が千葉県下総町で過激派に襲われ、機関車の計器類が破壊されて運転不能となる。
  • 10月16日:右翼活動家である四元義隆の仲立を受け、反対同盟幹部と道正邦彦官房副長官が秘密裏に会合。水面下での反対同盟と政府の会談が開始される。
  • 10月19日:騒特法が施行される。
  • 12月1日:二期工事に向けて福永運輸相が報告した、①成田用水事業の受益対象区域拡大(追加地域の中には反対同盟の拠点である菱田地区も含まれる)②空港公団が騒音区域に所有する農地の地元農家貸付③騒防法の第二種騒音区域内農家の土地の時価での買取 を内容とする空港周辺の農業振興策について基本方針を、閣議が了承。
  • 12月7日大平内閣が発足。
  • 12月18日:中核派が市川市にある東京エアカーゴシティターミナルの構内駐車場に駐車中のワゴン車を時限発火装置で炎上させる[52]

1979年[編集]

  • 2月15日:第8回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 3月6日森山欽司運輸相が「二期工事を年内に着工したい」と表明。
  • 3月14日:中核派が佐倉市臼井台と習志野市鷺沼台で、京成電鉄線路上に火炎車を突入させてスカイライナーをはじめとする列車の運行を妨害[52]
  • 3月30日:三里塚闘争支援を続けて中核派が浸透した結果、革マル派の動労執行部と確執を深めていた動労千葉地本が、国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)として独立する。
  • 4月22日:開港後初となった成田市議選挙で、北原事務局長が再選する一方、日本航空社員と空港公団職員も当選。
  • 5月15日:本格パイプライン工事が再開される。パイプライン建設に反対していた千葉市長の荒木和成が急死し、新市長となった松井旭が空港公団の協力要請に応じていた[55]
  • 5月29日成田エアポートレストハウスについて、日本社会党の小川国彦議員が「本来の目的から外れてホテル経営を行っている。土地収用法の事業認定の趣旨からみてもおかしい」と衆議院運輸委員会で追及。
  • 6月15日:反対同盟幹部と政府の間で行われてきた水面下の会談が実り、加藤紘一官房副長官(道正の後任)と島事務局次長が①政府は解決の努力が不十分だったことを認める②二期工事を凍結する③二期工事予定地では強制手段をとらない とする覚書を秘密裏に締結。
  • 6月21日:用地内農家の代表9人と空港公団会談が会談。空港公団は地区に土地を持つものとして扱われ、地区の共益費に充てられる区費の支払い等について成田空港問題に触れずに話し合われた。
  • 7月3日:航空燃料の逼迫を受け、運輸省が成田空港乗り入れ会社に給油量5%節減を要請。
  • 7月5日:開港後、空港南側の民家で深夜早朝に障子が揺れたり人が圧迫感を受ける低周波振動の問題があり、その原因が日本航空のエンジン試運転用の消音機であることが突き止められる。空港公団が日本航空に改善を指示。
  • 7月10日:運輸省が、適用を緩和した第1種騒音区域を告示した。同日、空港公団が千葉県に、騒特法に基づく航空機騒音対策基本方針の策定を要請した。
  • 7月16日:読売新聞朝刊一面に6月15日の覚書が一部を歪曲した形でリークされる。反対同盟内部でも全容を知る者は一部しかいなかったため組織は混乱に陥る。同日、森山運輸相が覚書に基づき「関係農民の皆さんに対しても、必ずしも十分な意思疎通が図られているとは言えない実情だ。農民の皆さんも胸襟を開いて話し合いに応じるよう切に要望する」との声明を出したが、リークに潰された形となる。
  • 7月20日:16日のリークによる混乱の収束を図った反対同盟が、政府との交渉の事実をも否定する声明を発表し「話し合いには応じられない」とした。水面下の対話は水泡に帰す。
  • 7月24日:反対同盟が木の根に風車を建設する。無断での事業認定区域内の工作物の形質変更は土地収用法違反であるが、「風車は農業以外に使用しない」「二期工事に支障が生じれば自主的に撤去する」との確約書が提出されたこともあり、千葉県が空港公団との協議の上で形質変更を認めた。
  • 8月30日:千葉市高浜(現・美浜区高浜)にあるジェット燃料輸送パイプラインの工事現場を中核派が時限発火装置で放火し、杭打機4台を全焼させる[52]
  • 9月7日:プロ青同の活動家4人が小型トラックでゲートを逆走して空港内に進入し、警備員の制止を振り切って制限区域にまで到達した。誘導路上でトラックを炎上させ竹槍で誘導路等を破壊し、逮捕される。空港は約30分閉鎖され、3便に遅れ。
  • 9月14日:革労協が、茨城県鹿島郡鹿島町で暫定輸送が行われている鹿島臨海鉄道の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅) - 南神栖駅間の線路上に土砂を満載したダンプカーを突入させ、列車の運行を妨害[52]
  • 10月10日:革労協が、香取郡下総町の国鉄成田線清河駅 - 久住駅間において暫定輸送中の列車を発煙筒を用いて急停車させてたうえで襲撃し、列車の運行を妨害。
  • 10月18日:中核派が京成電鉄高砂検車区、京成上野駅及び京成電鉄宗吾検車区で入庫中・停車中のスカイライナーに時限式発火装置を仕掛けて発火させ、スカイライナーの一部を焼く[52]
  • 10月21日:国際反戦デーに合わせた反対同盟の集会が開かれるが、森山運輸相の話し合い路線への対応その他運動方針を巡り反対同盟内に食い違いが生じて派閥が2分されており、それぞれ別の場所で集会を行う。このとき病床にあった戸村代表は集会に出席することができずメッセージを送るのみに留まった。同日、プロ青同が成田市三里塚の新空港場周柵及び第3ゲート付近並びに同県山武郡芝山町のガードマン立哨ボックスに向けてそれぞれ多数の火炎びんを投擲[52]
  • 11月2日:反対同盟代表・戸村一作が70歳で死去。11日に三里塚第一公園での追悼集会に3千人が参加。

1980年代[編集]

1980年[編集]

  • 2月:芝山町議選が行われ、反対同盟の石毛博道が当選。
  • 2月15日:第9回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 3月13日:中核派が千葉市浪花町の浪花橋パイプライン工事の地下水位観測所に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同観測所及びその内部に設置された観測機器に被害を与える。
  • 3月24日:中核派が千葉市にある新空港関連工事会社3社の作業員宿舎等に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同宿舎等を全焼させる。
  • 5月16日:革労協が霞が関の第3中央合同庁舎脇に駐車したマイクロバスに自動火炎放射装置を仕掛け、同庁舎内の運輸省に向けて発射。
  • 5月18日:中核派が暫定輸送に用いる成田市土屋の燃料基地に向けて、私道に駐車した小型トラックから自動火炎放射装置を発射。
  • 7月17日鈴木善幸内閣が発足。
  • 7月29日:大塚茂空港公団総裁が、塩川正十郎運輸相に本格パイプラインの完成が1983年末にまでずれ込む旨を報告し、辞表を提出。
  • 7月29日:大塚空港公団総裁が、沼田武千葉県副知事及び松井旭千葉市長を訪ね、本格パイプライン工事の遅延について説明するとともに陳謝。副知事・市長ともに不快感を表明。
  • 7月29日:大塚空港公団総裁が辞任し、元運輸事務次官の中村大造副総裁が昇格。
  • 9月1日:中核派が空港内の日本給油センター駐車場に駐車する車両3台に時限式発火装置を仕掛けて発火させる。
  • 9月15日:新空港A滑走路南端から約1500メートル離れた岩山小学校跡地附近から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害。
  • 10月12日:青年行動隊を中心とした反対同盟が、成田用水事業に対抗して、支援学生らの手を借りながら菱田地区湿田の自主基盤整備に着手。支援学生の労働力を用いて湿田の排水に成功するなど一定の成果を上げるものの、成田用水受け入れに傾いていた菱田地区等の農家を引き止めるには至らず。
  • 10月18日:過激派が京成電鉄高砂検車区、京成上野駅、京成電鉄宗吾検車区に停車中のスカイライナーに時限発火装置を仕掛け、一部を炎上させた。
  • 11月25日:暫定輸送に関係する十市町村会議が県知事室で開かれ、期間を1983年12月にまで延長することを了承。川上県知事が塩川運輸相に伝達。その際、開港時に地元自治体が出した計141項目の要望のうち未着手の10項目(京葉線の旅客化・東京駅乗り入れ等)について早期実現を要求。

1981年[編集]

  • 2月25日:印旛郡四街道町の国鉄総武本線長岡踏切付近の軌道上に金属板が置かれ、暫定輸送が妨害される。
  • 3月4日:暫定輸送延長に反発し3月2日から6日にかけて指名ストを実施していた動労千葉の支援を目的として、反対同盟員や活動家ら120人が国鉄成田駅のホームに集結。運行に支障をきたす恐れから機動隊が動員され59人が不退去罪で逮捕される。
  • 3月8日:暫定輸送を妨害するため、千葉市若松町の国鉄総武本線都賀駅 - 四街道駅間の鎌池踏切付近及び印旛郡酒々井町の成田線佐倉駅から7.5キロメートル離れた殿部田踏切付近にある信号機ボックスが、時限式発火装置でそれぞれ焼かれる。
  • 3月10日:中核派が、千葉市畑町の新空港用航空燃料パイプライン工事第7立坑施設に向けて小型トラックに仕掛けた火炎放射装置を放射し、工事用機材を焼く。
  • 3月16日:暫定輸送中の貨物列車の運転手が線路で焚かれていた発煙筒を発見し急停車したところ、覆面の男数人による襲撃を受け、機関車2両と付近の草むらが放火される。
  • 4月5日:沼田武が千葉県知事に就任。
  • 4月24日:反対同盟幹部が松井航空局長と会談、以降水面下の接触が続けられる。
  • 5月1日芝山鉄道株式会社が、空港公団・千葉県・芝山町・京成電鉄・日本航空などが出資する第三セクター方式で設立される。
  • 5月11日:茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)内で、航空燃料の暫定輸送に使われている鹿島線の橋桁(第2宮中架道橋)が溶接機で切り取られているのが見つかる。
  • 6月7日:この日投票が行われた芝山町長選挙で、反対同盟が擁立した石井新二が大方の予想を大きく上回る1,804票を獲得したが、現職の真行寺一朗に破れ、落選。
  • 6月8日:中核派が新空港2期工事実力阻止を叫つつ東京郡千代田区霞が関の第3中央合同庁舎横路上に小型トラックで乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を同庁舎内の運輸省に向けて放射。
  • 6月10日:第10回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 7月31日:塩川正十郎運輸相と沼田千葉県知事が会談。沼田知事は2期工事への協力を約束したが、同時に県内自治体が要望した141項目のうち、未着手の10項目の実現と、成田新幹線の早期建設を強く要望。
  • 8月17日:反対同盟の小川源を団長に石井武・秋葉哲・石井新二・熱田誠・加瀬勉と支援者15人が、反軍拡・反原発・反開発をテーマにした「ラルザック国際連帯討論集会」に参加するため、フランスのNATO軍事基地拡張反対闘争で名を馳せていたラルザック地方に向けて大阪国際空港から出発。同集会への参加は加瀬勉の仲介によるものであり、現地ではラルザック農民や西ドイツのフランクフルト空港拡張反対派住民、フランスのプロゴフ原発建設反対派住民、ポーランドの「連帯」、北アイルランドIRAなどと交流し、講演や小川紳介監督の映画会などを開催して「三里塚闘争の国際的意義」を訴えた。滞在中にフランスで成田空港問題を取り扱った『鹿島パラダイス』が上映されていたことから、同作品をパリで鑑賞。
  • 8月25日:二期工事に配慮して、政府が進めていた第二次臨時行政調査会の答申に基づく行政改革の対象から成田財特法が除外される。
  • 8月31日:中核派が、大阪市城東区の大阪府警関目別館に駐車中の大型警備車両を時限式発火装置で焼き、2期工事着工阻止の先制攻撃とした。
  • 10月11日:新空港A滑走路南方から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害。
  • 10月23日:加藤紘一衆院議員・松井和治航空局長・中村大造空港公団総裁らと反対同盟の石橋政次委員長・内田寛一行動隊長・小川源・石毛常吉・梅澤勘一らが秘密裏に会合。出席予定だった小川嘉吉・喜平兄弟が参加を当日拒否。会合参加者の情報が反対同盟内にリークされる。
  • 11月30日光町議会が、二期工事早期着工を決議。以降、周辺自治体が続いて促進決議を採択した。

1982年[編集]

  • 1月20日:政府側と交渉を行っていたことを暴露され、中核派に嫌がらせを受けていた石橋政次委員長代行が、中核派最高幹部の北小路敏に自宅敷地の現地闘争本部撤去を突きつける。
  • 2月9日:石橋政次委員長代行及び内田寛一行動隊長が、反対同盟に自己批判書とともに辞表を提出した。石橋に追従して、天神峰地区の農家も反対同盟を離脱した(石橋グループ)。石原の辞任により、反対同盟結成時に就任した委員長と三副委員長すべてが空席となる。
  • 3月:横風用滑走路予定地の中央にある横堀墓地の所有権を瀬利元副委員長の相続人から取得した空港公団に対し、入会権を主張する熱田一が墓地内に櫓を立てて所有権を主張。
  • 3月13日:中核派によって、国鉄総武本線成田線鹿島線などの信号・通信ケーブルが8地点12か所で切断される。また、国鉄西船橋変電所が時限発火装置によって爆破され、航空燃料暫定輸送を行う貨物列車の運行停止を招く。国鉄では約300本が運休となり、通勤・通学客ら約28万人に影響が出たほか、京成電鉄では殺到した振替乗客によってダイヤが乱れけが人も出るなど県内の列車運行に大きな乱れが生じた。
  • 3月16日:革労協が成田市土屋の暫定輸送の中継基地である土屋石油ターミナル脇の路上にワゴン車を乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を放射。
  • 3月20日:最高幹部が不在となった反対同盟が役員会を開き、委員長・副委員長を置かずに本部役員による合議制をとることを決定。二期地区内で居住または工作を行う農家等19人が新たに役員に就任し、役員総数が31人となる。形式上、反対同盟は集団指導体制に移行したが、実際には同盟結成以来の唯一の幹部である北原鉱治の発言力が強まった。内田寛一の後任として熱田一が副行動隊長に昇格。新東京国際空港公団理事との個人的付き合いを糾弾されたうえ、成田用水と反対運動の二者択一を迫られた、石井英祐事務局長が提出していた辞表が受理され、用水派は反対同盟での調停役を失う。
  • 3月28日:新空港反対集会に呼応して、芝山町岩山の成田土木工事事務所のブルドーザー2台と監督員詰め所がガソリンをかけて焼かれる。
  • 5月12日:第11回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 7月1日:革労協が、三里塚2期着工実力阻止・廃港決戦勝利を戦取するためのパルチザン戦ゲリラ戦の一環として、東京都中央区の中央署の親父橋派出所・墨田区の本所署大平4丁目派出所・北区の王子署馬坂派出所・新宿区の戸塚署戸塚町3丁目派出所・同区の新宿署中落合西派出所・足立区の西新井署小台派出所に、時限式発火装置を仕掛けて発火炎上させる。
  • 8月:第4インターでABCD問題が発生。第4インターは影響力を急速に失う。
  • 9月6日 :革マル派の機関紙『解放』が北原事務局長の警察との密会を暴露。
  • 9月10日 : 2時頃、京成成田空港線トンネル内で時限発火装置付きのトロッコが炎上しているのが発見される。成田空港駅(現・東成田駅)まで突入させる計画だったと見られる。影響により9時頃まで運休。
  • 9月24日:革労協が、成田市三里塚の新東京国際空港公団工事局ビル前路上に停車した小型トラックから時限式火炎放射装置を放射。
  • 10月11日:芝山町香山新田の新空港2期工事区域内の空港公団砕石貯留所に設置してある照明灯に時限式発火装置がしかけられる。
  • 10月31日中国民航機とアエロフロート機が10月分の燃料割当量超過を理由に給油を拒否され、成田発の出発便が足止めを食う。燃料割当は暫定輸送の輸送能力や過激派のテロ、台風の影響などにより備蓄燃料がひっ迫していたことに伴う措置。中国は北京空港で日航機に給油をしない報復措置をとる。
  • 11月1日:革マル派の機関紙『解放』が島寛征事務局長次長の加藤紘一・池田行彦との接触を暴露。
  • 11月4日:島寛征事務局長次長が辞表を提出。反対同盟は9日に辞表を受理。
  • 11月25日:千葉県が「航空機騒音対策基本方針」を公表する。
  • 11月27日中曽根内閣が発足。
  • 12月6日:成田市東町の成田空港警備保障株式会社の駐車車輛に時限式発火装置が仕掛けられる。
  • 12月7日:空港公団が石油パイプライン事業法に基づく空港燃料パイプライン保安規定の許可を取得[1]
  • 12月16日:「一坪再共有化運動」推進派により、「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会」が発足する。
  • 12月28日:成田市堀之内の成田新幹線工事現場にある大成建設堀之内トンネル作業所の配電盤下に時限式発火装置が仕掛けられ発火炎上する。

1983年[編集]

  • 2月23日:運輸省が東京国際空港整備基本計画を決定。
  • 2月28日:反対同盟の役員会で青年行動隊の石井新一らが進める一坪再共有化運動を巡り紛糾。一坪再共有化運動には北原事務局長や中核派が反発していた。
  • 3月1日:空港周辺で航空機からの落下物による被害が相次ぐ中、被害への補償を行う航空会社に対する世界初の保険制度が発足し、成田へ乗り入れている航空会社が参加。これにより、落下物の航空会社が明確に特定できない場合あっても補償が円滑に行われるようになった。
  • 3月3日:「一坪再共有化運動」推進派が、芝山町千代田公民館で「幹部会」の名義で北原事務局長の「解任」を決議。
  • 3月8日反対同盟分裂。「一坪再共有化運動」の是非等をめぐり、用地内農民を中心とした「北原派」と騒音地域農民を中心とした「熱田派」が別々に会合を開き、天神峰現地闘争本部で役員会を開いた北原派は熱田隊長らを「除名」し、芝山町千代田公民館で総会を開いた熱田派が3日の解任決議を「承認」。
  • 3月27日:反対同盟両派が分裂して初の現地集会を開催。雨天の中、「熱田派」は主催者発表で3,750人(警察発表2,750人)、「北原派」は5,725人(警察発表2,530人)の結集。
  • 5月30日:成田青年会議所が二期工事早期着工を求める3万3千人分の署名を長谷川成田市長に提出し、成尾政美市議長にも請願書を提出。
  • 6月1日:北原派が成田青年会議所に公開質問状を送付。
  • 6月7日四街道市のパイプライン関連工事の作業員宿舎を中核派が放火、労働者2人死亡、1人が重傷を負った(東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件)。
  • 6月14日:第12回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 6月10日:成田市議会が空港二期工事の早期着工を決議。翌年にかけて県内の自治体がこれに続く。
  • 6月18日:反対同盟(熱田派)が、6月7日の放火テロを「労働者への虐殺糾弾」として非難する声明を発表する。
  • 6月23日:二期工事推進のため市民の声を行政に反映する組織「成田空港対策協議会」が発足。
  • 6月29日:成田用水菱田工区の測量・杭打ちが始まり、北原派・熱田派共に阻止行動を展開する。反対同盟分裂時に用水派の多くは熱田派に付いていたが、熱田派は用水反対の立場を明確にしたことで用水派の離脱を招いた。
  • 7月4日:旅客ターミナル内のコインロッカーに発火物が仕掛けられる。コインロッカーはその後警備上の理由で空港から撤去されるが、1998年12月に再設置される。
  • 7月13日:千葉県議会が二期工事促進決議。
  • 8月6日:暫定輸送の最終貨物列車が運行される。
  • 8月8日:全長47kmの航空燃料パイプライン(B系)が供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。本格パイプラインの事業が開始される。これにより最大送油能力は暫定輸送の2倍となる。
  • 11月21日長谷川峻運輸相と沼田千葉県知事が会談し、二期工事の早期完成で合意。
  • 12月15日:神崎町議会が二期工事促進決議。

1984年[編集]

  • 1月9日:「一坪再共有化運動」をめぐる対立等から、中核派が東京都と大阪府の計3ヶ所で第四インターの活動家3人を襲撃し重傷を負わせる。翌日でも広島などで中核派による襲撃が行われる。7月にもメンバー宅を一斉3ヶ所襲撃、片足切断と頭蓋骨陥没を含む8人に重傷を負わせる。
  • 2月11日:反対同盟分裂後初で8年ぶりとなる芝山町議選が多なわれ、北原・熱田両派がそれぞれ候補者を立てて鍔迫り合いが繰り広げられる。北原派が擁立した鈴木幸司、熱田派が擁立した相川勝重・石毛博道が当選。1982年3月に反対同盟を辞した石井英佑も当選。
  • 3月1日空港公団本社が中核派に襲撃される。隣接する高速道路に停められた車両から火炎放射器による攻撃。
  • 3月13日-16日:横芝町多古町蓮沼村印旛村が相次いで二期工事の促進決議を可決。
  • 3月17日:他の周辺市町村に続いて、芝山町議会が「二期工事早期着工要請決議」を賛成12、反対4の賛成多数可決。この日、北原・熱田両派の反対同盟員が議会の傍聴を求めて押しかけ、1時間半以上も押し問答となり、最終的に機動隊による排除が行われた。約10人が議場内に乱入し、マイクのコードを引きちぎるなどした。逮捕者4人。
  • 4月26日:成田青年会議所等の団体で構成する成田空港対策協議会が、中曽根康弘首相や細田吉蔵運輸相、県選出国会議員、秋富公正空港公団総裁に、「成田空港の歓声は国際社会の一員としての我が国の責務。空港との共存共栄を望む主変の生活向上のためにも、懸案の諸問題を積極的に解決の上、即刻二期工事を着工してほしい」等とする要望書を提出。
  • 6月4日:航空燃料パイプライン(A系)が完成検査合格[1]
  • 6月6日:第13回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 6月23日:開港以来の国際旅客5千万人達成。
  • 7月6日:成田空港の土地収用法に基づく事業認定及び公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業認定を巡り、反対同盟員が国を相手取り認定取り消しを求めていた請求を、東京地裁が棄却。判決の中で「三里塚地区を新空港用地の敵地であるとした国の判断に誤りはない。(農家の)失われる利益よりも空港建設で実現される公共の利益のほうが優先する」との判断が示される。傍聴席の支援活動家らから抗議の声が挙げられる。
  • 8月1日:航空燃料パイプライン(A系)が供用開始。これにより成田空港への燃料輸送能力は1日あたり2万2000㎘、年間最大800万㎘を有することとなり、二期工事に向けた燃料供給体制が整う。
  • 8月6日:空港公団幹部らの自宅3軒が時限式発火装置により放火される。
  • 9月19日:中核派による自由民主党本部放火襲撃事件が発生。
  • 9月25日:成田用水菱田地区の工事が開始される。反対同盟の北原派・熱田派共に抗議行動を展開する。着工の前後に用水関連のテロが相次ぎ、29日までの間に両派併せて56人が逮捕される。
  • 10月1日:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅二棟にも延焼。(成田用水工事事業者連続放火事件
  • 10月17日:空港公団が、石橋政次ら二期地区内農家4戸などからなる並木町代替地管理組合と、成田市並木町の代替地を管理する委託契約を締結。長谷川成田市長の斡旋により、移転自体を棚上げしつつも農家が土地を管理する形をとる。
  • 11月13日:革労協が横穴を掘り進めて地下約10メートルの航空燃料パイプラインに穴を開けて破損させる。送油停止を余儀なくされたほか、燃料120キロリットルが流出し、近隣の山林・水田・河川が汚染された[56]。損傷を受けた系統の復旧には1か月を要した。
  • 11月27日:中核派が、千葉市の沼田知事宅・成田市の水野清衆院議員事務所・松戸市の友納武人衆院議員(元知事)事務所・木更津市の浜田幸一衆院議員事務所の4カ所を時限発火装置で攻撃。
  • 12月14日:芝山町長及び同町議会議長が、二期工事促進を要望する。

1985年[編集]

  • 1月26日:空港公団と移転交渉を進めていた石橋政次の畑の土を代替地に移送する業務を請け負っていた業者が、反対派の襲撃を恐れて車体に記載された社名やナンバープレートを隠して運搬を行っていたところ、北原派が成田警察署・千葉地検に告発。業者は警察の指導を受けてナンバー隠しを辞めることを余儀なくされる。
  • 4月8日:戦旗・共産同が芝山町の竹林から火炎瓶を発射し、約150メートル離れた空港敷地内の空港公団工事局に着弾。飛び道具を用いたテロは東日本で初めてであり、これ以降空港を狙った火炎弾・金属弾事件が相次ぐようになる。また、一部でロケット弾が使用されたと報じられたため、外国航空会社等で混乱が生じる。
  • 4月12日:中核派が成田・羽田両空港に金属弾を打ち込む。成田では駒井野から発射された弾が滑走路を跨いで貨物ビルの傍まで達しており、1キロを超える射程距離は警備当局に衝撃を与えた。指名手配された中核派革命軍構成員が、1987年1月21日に逮捕されている[25]
  • 6月23日成田空港手荷物爆発事件が発生。当初は空港反対派によるテロリズムと疑われたものの、後に空港反対派とは無関係であり、インド航空182便爆破事件と関連していることが判明する。
  • 7月25日:成田用水菱田工区の1986年度分工事の入札が、テロを恐れた業者の事態が相次ぎ、1社も落札価格を示せないまま流れる。
  • 7月29日:代替地内にある移転農家の倉庫が放火される。
  • 8月8日:第14回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 8月17日:成田用水工事の再入札で淺沼組が落札するが、中核派のテロ予告などを受けてその後辞退。
  • 8月26日:千葉県と空港公団が、空港建設・開港に伴う経済波及効果をまとめた経済影響調査(三菱総合研究所が実施)の結果を発表。それによると、1966年の空港建設決定以来、空港関連の投資総額は約1兆6千億円であり、その波及効果による付加価値額は公共分のみで約2兆1千億円。1市6町村の税収でも空港関係が四分の一を占めている。また空港完成の暁には関連産業の売り上げが1983年の2.4倍となると予測された。
  • 8月27日:二期地区内農家3戸(石橋政次・石毛常吉・岩沢茂)が空港公団と移転契約を締結、成田市並木町・酒々井町井篠に移転することとなる。残る石橋グループの1戸も移転に同意済み。これにより農地内農家は12戸から8戸に減少。
  • 8月28日:運輸相が第五次空港整備計画を策定し、二期工事の1990年度概成(8割完成)が目標として掲げられた。
  • 9月30日:成田市並木町の代替地にある詰所が中核派に鉄パイプや火炎瓶などで襲撃され、警備員2人が重軽傷を負う。
  • 10月20日10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で反対同盟(北原派)支援グループと警視庁機動隊が衝突、機動隊員59人が負傷。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕した。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突であった。また同日、革労協系ゲリラが偽装消防車などで空港内に侵入し、施設の一部を破壊。
  • 10月22日:千葉地裁が、東山事件の国賠訴訟で原告側の訴えを退けた。
  • 11月21日:千葉市、習志野市、君津市にそれぞれある国鉄幹部の3宅が同時放火される。
  • 11月25日:相次ぐ業者の事態により遅延していた成田用水菱田工区で、受注業者名を伏せて工事が始められる。
  • 12月19日:成田市が市都市公園条例を改正し、過激派の公園使用を規制。
  • 12月23日成田用水工事の請負会社である石井組の駐車場で2人の男がトラックの下に時限式発火装置を設置するのを張り込み中の捜査員が発見し、見張り役を含め3人を現行犯逮捕した。同日、11.23機動隊襲撃事件も発生している。

1986年[編集]

  • 3月8日西組社長宅放火事件発生。
  • 3月12日:10.20成田現地闘争で付近の住宅などに被害が出たことなどから、成田市が北原派に対し集会での公園使用を不許可とした。以降も公園使用許可が下りず、北原派は集会を同盟員の畑で行うようになる。
  • 4月15日:土地の持ち分の半分以上を取得し民法上の管理権を持つようになった空港公団が、二期用地内の一坪共有地を柵と有刺鉄線で囲い込む。
  • 4月20日:北原派の支援活動家が共有地内に入りバリケードを構築したが、空港公団職員や機動隊により撤去・排除される。
  • 7月10日:第15回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 7月17日7.17成田空港警備隊舎飛翔弾事件発生。
  • 9月4日:未明、伊勢原市で建築中の運輸省航空局幹部職員の家屋が時限式発火装置により放火されて全焼、更に周辺家屋7戸が類焼により全半焼した。なお、被害者の幹部職員は成田空港建設と無関係である。船橋市にある成田空港建設と無関係な別の航空局職員宅も中核派によって放火され、車両1台が全焼した。
  • 10月4日:警察官3人が殉職した東峰十字路事件の判決で、千葉地裁は被告55人のうち52人に執行猶予付きの有罪判決、3人に無罪判決を下し、実刑判決を受けた被告はいなかった。異例の温情判決に熱田派などからは「勝訴も同然」との声が上がる。
  • 10月12日:中核派の盛岡アジトで圧力釜爆弾が押収される。警察によると、爆弾は発破式できわめて強力な殺傷能力を持っており、成田現地闘争に使用される恐れがあった[57]
  • 11月26日:空港公団が第二期工事に着工。成田市取香の駐機場予定地で重機による整地作業が開始される。

1987年[編集]

  • 1月14日:成田用水工事を警備していた機動隊が襲撃される。(1.14機動隊襲撃事件
  • 3月6日:空港公団工事局に金属弾が発射される[25]
  • 3月14日:空港工事関連企業の1都3県合計5箇所にも及ぶ施設に時限爆弾が仕掛けられ、ほぼ同時に爆破された。
  • 4月:成田市議選が行われ北原事務局長が4選を目指すも、小川嘉吉ら用地内農家は支持せず。
  • 7月15日:二期工事の山砂搬入妨害を目的として、北原派が国道51号で牛歩デモを行い、4キロ以上の渋滞を発生させる。警察による取り締まりはなし。
  • 8月9日:北原派がトラクターや耕運機等で国道や県道で牛歩デモを行い、最高1キロの交通渋滞を発生させる。支援活動家4人が道交法違反の現行犯で逮捕される。
  • 8月13日:反対同盟労農合宿所に向かっていた男性が誤って空港のゲートにたどり着き、警備員の通報で駆け付けた機動隊員らが手荒な職務質問を行う。居合わせた朝日新聞の記者が取材を試みるが連行され、その際に腕にけがを負う。
  • 9月4日:一坪共有地として提供した土地の返還を北原事務局長が認めなかったことなどから、北原派から新左翼との決別を主張する用地内農家4戸(小川嘉吉・小川喜平・加藤俊宣・島村良助)が離脱。小川嘉吉を代表として新たに「小川派」が結成される。用地内農家8戸の中で最大の派閥となる。
  • 9月18日:度重なる集団武装闘争やテロ事件に疲弊した住民の間で極左暴力集団排除の気運が盛り上がり、北原派の鈴木幸司議員や熱田派の相川勝重議員らの反対もあったが芝山町議会は極左暴力集団排除に関する決議を賛成多数で可決。反対同盟や支援活動家らが町役場に押し掛けるが吉岡誠議長の要請で出動した機動隊がこれを排除。大型の鉄製看板「過激暴力集団排除宣言の町」が町内8箇所に設置される。
  • 10月13日:航空機からの落下物の7割が集中する横芝町・松尾町・蓮沼村が落下物被害の要素を加味して交付金を算定するよう求める要望書を空港公団に提出。
  • 10月17日:横浜ヨット小型旅客船爆破事件
  • 10月23日:第16回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 10月30日:空港に飛翔弾が発射される[25]
  • 11月5日:空港公団工事局施設工事部長宅が放火される[25]
  • 11月6日竹下内閣が発足。
  • 11月16日:空港公団が木の根の買収済み用地の囲い込みを実施。革労協の団結小屋である木の根団結砦から投石による作業妨害。
  • 11月24日:16日の投石による公務執行妨害容疑で、千葉県警が木の根団結砦への家宅捜査に着手。砦に立てこもった活動家らが火炎瓶や投石による抵抗を行い、機動隊との3日間の攻防となる。
  • 11月27日:政府・空港公団が成田新法に基づき、木の根団結砦を撤去(木の根団結砦撤去事件)。成田新法による初めての撤去処分。。

1988年[編集]

  • 1月18日:成田市三里塚の空き地に駐車中の普通貨物自動車に搭載された発射装置から、空港内に向けて爆発物5発が発射される。発射に使われたのは、長さ150センチメートルの発射筒5本を鉄製アングルで固定した時限式発射装置であり、爆発物は発射地点から約2,500メートル離れた空港施設内駐車場等に落下して爆発。空港運用時間帯の犯行であり、警察は「爆発物が航空機本体に当たりかねない危険なもの」としている。
  • 2月5日:芝山町の開港条件の1つであった航空博物館の起工式が行われる。1986年度開館予定であったが、テロへの警戒により着工が遅れていた。
  • 2月29日:西新宿で中核派が東京空港交通のリムジンバス4台を時限発火装置を使って放火。
  • 3月17日:革労協(挟間派)が、千葉市内にある航空燃料輸送パイプラインの保安設備室を、消火器爆弾を用いて爆破。革労協は「日本革命史を画する歴史的爆破戦闘」と自画自賛。
  • 3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成。
  • 3月29日:用地内農家などの移転先として空港公団が確保・造成していた3か所目となる代替地が成田市畑ケ田に完成。
  • 4月13日:空港公団工事局に対し金属弾が発射される。
  • 4月14日:北原派を支援する中核派・革労協・共産同戦旗派が、成田闘争、反戦・反安保闘争、対革マル派戦などで「三派共闘」を結成したことを共同声明。
  • 5月1日:中核派が二期工事関連業者を標的として放火。
  • 5月3日隅谷三喜男を議長とする「二十一世紀経済基盤開発国民会議」が、成田・羽田に次ぐ首都圏第三空港の建設を提言。
  • 5月22日:用地内だけでなく騒音地域の取り込みを図る北原派が、開港10周年に合わせて芝山町菱田で「芝山廃村化粉砕」をスローガンに集会を開催し、騒特法に反対する姿勢を明確に打ち出した。
  • 5月24日:運輸相が芝山鉄道に成田空港(現・東成田駅) - 整備場前(芝山千代田駅)の事業面交付。更なる延伸を望む芝山町は不満を表明。
  • 7月4日:東京・千葉・茨城の3都県の空港建設工事の下請業者等8業者の車両31台が放火される。警察はこの事件で同派活動家5人を検挙した。
  • 7月6日:空港公団の申請を受けた千葉地裁が、東峰団結会館について現状変更禁止の仮処分を執行。団結小屋の要塞化を封じる。
  • 7月12日:中核派が仮処分の動きに先手を打ち、二期地区内の団結小屋「木の根育苗ハウス」で監視櫓の建設を始める。
  • 7月13日:千葉地裁が、木の根育苗ハウスについて現状変更禁止の仮処分を執行。
  • 9月21日:当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、千葉市内の路上でフルフェイスのヘルメットを被った数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプやハンマーで殴られ、両足と左腕などを複雑骨折する重傷を負う(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。その後中核派が犯行声明を出すとともに、「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載し、組織的に脅迫じみた手紙や電話などを送り続けた。
  • 9月26日船橋西警察署道野辺派出所に時差を設けたタイマーとからくり仕掛けとを用いた爆弾が2個置かれ、約30分の時差で爆発。出入口外壁等を破損させたうえ、現場に到着した警察官1人を負傷させる。
  • 10月7日:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足。
  • 10月24日:千葉県収用委員会会長襲撃事件を受けて、千葉県の収用委員会委員の全員が沼田千葉県知事に辞表を提出。沼田知事は翌月24日に辞表を受理。以降、2004年の再建に至るまで千葉県収用委員会は完全な機能停止状態に陥る。
  • 10月28日:JRと京成電鉄の旅客ターミナル乗り入れのための事業主体として、千葉県・JR東日本・京成電鉄が出資し成田空港高速鉄道株式会社が第3セクターとして設立される。
  • 11月7日:千葉県収用委員会が機能停止という異常事態を受けて、沼田千葉県知事が「土地収用は国で対処してほしい」と表明。
  • 11月15日:千葉県連政調会長の戸辺敬が自民党本部で開かれた全国政調会長会議で、強制収用を国が対応できるよう特別立法措置を講じるよう要請。渡辺美智雄政調会長が「政府の責任において検討したい」と応じる。
  • 11月30日:第2旅客ターミナルビル着工。
  • 12月28日:横堀公民館で公務執行妨害事件[25]

1989年[編集]

一期地区のみでの運用が続く成田空港(1989)
  • 1月29日:中核派が、建設省の審議機関で特定公共事業を認定する公共用地審議会の会長代理宅の物置を、時限式の圧力釜爆弾で爆破。
  • 2月21日:空港に向けられた飛翔物発射装置が見つかる[25]
  • 2月28日:第1旅客ターミナルビル南ウイング附属棟完成 。
  • 3月:戦旗荒派が「横堀団結の砦」をプレハブ2階建てから鉄筋4階建てに増築。
  • 4月25日:20年が経過すれば事業認定自体が失効するとする事業認定失効論を主張する熱田派に対し、運輸省が土地収用法に事業認定の油工期限について明文規定がないことなどを理由に「空港建設の事業認定告示から20年経過しても収用採決は可能」と反論。
  • 5月19日:千葉地裁が空港公団の訴えを認め、空港公団が取得した土地・家屋に内縁の夫である革労協の活動家とともに居住を続ける小川明治の娘に退去を命じる判決。
  • 5月26日:第17回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
  • 5月31日:千葉県収用委員会の新委員任命阻止を訴える北原派支援の過激派が千葉県議会の本会議を傍聴しようとしたが、県議会は県警本部に要請して過激派排除の構えをとったうえ、県議会史上初めてとなる傍聴希望者の入場拒否に踏み切る。この日以降も過激派活動家らが入場を拒否されたが、結局新委員は任命されなかった。
  • 6月2日:千葉地裁が、空港二期工事のC滑走路建設予定地の内外に跨る一坪共有地(旧御料牧場の馬止め堤防跡地)について、50人いた一坪地主のうち43人分を取得した空港公団の訴えを認め、持ち分比率に応じて分割して二期地区に係る用地を空港公団の所有地とする判決を下す。更に当該用地上に熱田派が建設した小屋についても判決確定時の撤去を命じる。熱田派の熱田代表らは控訴し、最高裁まで争うが、1994年に空港公団勝訴の判決が確定。
  • 6月3日宇野内閣が発足。
  • 6月11日:この日投票の芝山町長選挙に、熱田派の同盟員が空港推進派の保守系議員らとともに「芝山町を考える会」を結成して相川勝重を擁立。熱田派は相川を役職から解任して選挙に関与しない立場をとり、陣営は空港問題を棚上げして選挙戦に臨む。結果は惜敗であったが、熱田派が話し合い路線に転じる転機となった。
  • 7月20日:6月の芝山町長選挙の動きについて熱田派を「話し合い路線へ転落」等と非難した最大の支援セクトである戦旗荒派に対し、1986年に結んだ「指示に従わないときは現地から出ていく」等とする確約書を根拠に、反対同盟熱田派が共闘関係の断絶と現地からの退去を通告。戦旗荒派はその後「三里塚二期阻止・土地収用を許さない全国運動」を立ち上げ、熱田一や小川源ら熱田派内の徹底抗戦派の支援を続ける。
  • 8月10日海部内閣が発足。
  • 8月29日:戦旗荒派の「横堀団結の砦」に成田新法に基づく使用禁止が通告される。
  • 9月19日:天神峰現地闘争本部・木の根育苗ハウス・大清水団結小屋・東峰団結会館・プロ青同団結小屋など9か所に一斉に成田新法に基づく使用禁止が通告される。
  • 10月16日:熱田派が運輸省に「今後も警察力を使って苦しめるのか」「20年前の事業認定は失効するのではないか」等とする公開質問状を提出。
  • 10月22日:反対同盟熱田派の三里塚闘争連帯労農合宿所で火災が発生。空港公団が跡地のうち取得済みの用地を確保すべく囲い込みを図るが、熱田派はブルドーザーを持ち出して機動隊に抵抗、小屋を再建する。小川源が負傷。熱田派最後の実力闘争となる。
  • 11月16日:中核派が千葉県議会事務局次長宅を時限式発火装置で放火。発火装置は逃げ口を塞ぐように玄関と勝手口に設置され、家人1人が2階から脱出した際に負傷する。
  • 11月30日:熱田派の公開質問状への回答書を郵送する形で、江藤隆美運輸相が運輸大臣として初めて過去の誤りを認める。
  • 12月4日:東峰団結会館が成田新法に基づき撤去される。
  • 12月4日:政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗両川派団結小屋である「東峰団結会館」を撤去。機動隊と活動家による攻防があり、火炎瓶投擲などを行ったの活動家ら5人が検挙される。
  • 12月7日:千葉県新産業三角構想推進室幹部宅が放火される。
  • 12月15日:熱田派が2回目の公開質問状を運輸相を送付[25]

1990年代[編集]

1990年[編集]

  • 1月7日日本経済新聞が、冷戦終結により基地返還の可能性が出てきたとして、在日米軍の横田基地厚木基地が首都圏第三空港の有力候補として浮上したと報じる。
  • 1月15日:前年11月16日の千葉県議会事務局次長宅放火容疑で、千葉県警が反対同盟北原派の天神峰現地闘争本部で家宅捜索。引き続き事業認定区域内の工作物の変更禁止を定めた土地収用法違反容疑での検証を翌日未明まで実施。その間反対派は闘争本部から締め出されたうえ、県警の検証終了直後には運輸省によって成田新法に基づく封鎖処分が下される。
  • 1月16日:革労協狭間派が成田市内の路上でタイヤを炎上させる[25]
  • 1月30日江藤隆美運輸相と反対同盟熱田派農民が現地で公開会談を行う。これ以降、熱田派では石井武代表補佐や石毛博道事務局員らのグループが対話路線を推進する。一方、話し合い路線に反発する熱田一代表や小川源代表補佐は会談を欠席していた。
  • 2月19日:中核派が運輸省運輸政策局情報管理部長宅を放火[25]
  • 2月21日:江藤運輸相が反対同盟小川派代表の小川嘉吉の自宅を訪問。江藤運輸相は玄関先で2時間にわたり小川を待ち続けたが応対されず、江藤運輸相は奥の部屋に向かって声掛けしたうえで名刺を置いて退出。
  • 2月27日:未明、二期工事を請け負う清水建設の吉野照蔵社長宅が中核派に時限発火装置によって放火される。放火は玄関と勝手口をふさぐように行われ、吉野社長は妻とともに就寝中であったが、火事に気付くのが早かったため脱出できた。中核派の犯行声明では前年12月4日の東峰団結会館撤去に際して清水建設がクレーン車を貸し出したことが理由として挙げられた。成田空港問題に関連する大企業のトップを標的としたテロは初。
  • 3月21日:政府・空港公団が成田新法に基づき、中核派の団結小屋である「木の根育苗ハウス」を撤去。
  • 3月22日:中核派が近藤秋男全日本空輸社長宅の車両と渡辺文夫日本航空会長宅を放火。
  • 3月25日:横堀現地闘争本部前で開かれた集会で、熱田一が反対同盟熱田派の代表職辞任を報告。石井武・小川源・笹川英佑・柳川秀夫が代表世話人となる。熱田の辞任理由は表向き「体力の衰えと家庭の事情」とされたが、実際には熱田派(以降、旧熱田派)の対話路線への反発であったとされる。
  • 4月12日:中核派が起こした日本飛行機専務宅放火殺人事件で、専務夫人が焼死[25]
  • 5月15日:反対同盟旧熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定-私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。
  • 7月19日航空大学校校長宅放火未遂事件が発生。警察は中核派の犯行と断定[25]
  • 8月22日:早朝、南三里塚にあった中核派の団結小屋「三里塚闘争会館」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく封鎖を通告。立てこもった活動家4人が応じなかったため除去に切り替えられ、撤去作業が開始される。中核派の温存方針により活動家らは火炎瓶などを用いず、8時間で全員逮捕された。撤去作業は翌日に完了。用地外の団結小屋では初めての成田新法に基づく撤去処分。
  • 9月28日:開港以来の国際旅客1億5千万人達成。
  • 10月15日:早朝、革労協の団結小屋である「大清水団結小屋」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく除去処分を通告。中にいた活動家2人が抵抗するが勢力温存の方針から投石のみにとどまり、7時間後に機動隊員に逮捕される。
  • 10月18日:反対同盟旧熱田派の石井新二・村山元英千葉大教授・真行寺一朗芝山町町長・伊橋昭治芝山町議・吉岡誠芝山町議らが発起人となり地域振興連絡協議会設立準備会が開催される。
  • 10月20日:革労協狭間派が成田警察署八生駐在所を放火[25]
  • 11月1日:成田空港問題の話し合い解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」が発足。反対同盟旧熱田派・千葉県・周辺市町などが参加。反対派が公式の話し合いの場につくのは三里塚闘争史上初めて。
  • 11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成。
  • 11月11日:警戒中の警備員に向かって、戦旗荒派の「横堀団結の砦」から火炎瓶が投げつけられる。翌日にも同様の犯行。
  • 11月12日:芝山町香山新田の草地から使用済みの金属弾発射装置が見つかり、建設中の第2旅客ターミナル付近から金属弾が発見される。当日は今上天皇即位の礼が行われ、多くの諸外国の要人が空港を利用していた。犯行声明はなかったものの、金属弾から戦旗荒派の犯行と断定される。空港以外でも各地でテロが行われた。
  • 11月29日:政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗荒派の団結小屋である「横堀団結の砦」を撤去。その際、熱田一の畑が空港公団と機動隊によって荒らされる。
  • 12月3日:中核派が運輸省幹部宅及び千葉県出納局長宅の放火を試みるも、未遂に終わる[25]
  • 12月17日:地域振興連絡協議会が国側・反対派双方の犠牲者を弔う初めての鎮魂祭を開催。二階俊博運輸政務次官・松井和治空港公団総裁・沼田千葉県知事ら約200人が出席。一方、反対同盟北原は反対集会を開催し、旧熱田派も「加害者と抵抗者の死を一緒にするのは不可能」との声明を発表。
  • 12月20日東京高等裁判所は77年5月8日の衝突で死亡した東山薫の死因について、一審判決を破棄して機動隊によるガス弾の頭部直撃によるものと認定し、千葉県に3,940万円の賠償命令判決を下す。千葉県は不服として27日に最高裁判所に上告したが、最高裁は96年に県側の上告を棄却。

1991年[編集]

  • 1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1千万トン達成。
  • 2月1日:中核派が、反対派農家の農作物を取り扱う農産物直販事業所を名目として、栗源町(現・香取市)に「三芝物産北総センター」を開設。活動家が常駐し反対運動を支援する拠点となる。中核派は成田新法の適用により空港周辺の拠点を失っていた。
  • 2月4日:芝山町議会空港対策特別委員会で吉岡誠町議が、横風用滑走路の代わりに九十九里沖に滑走路を建設してそこから空港を高速鉄道などで結ぶ案を提唱。
  • 2月23日:第1ターミナル付近の駐機場に金属弾が着弾し、千葉県警が付近を捜索したところ、空港西側の林の中から発射筒3本が発見される。付近の畑で別の金属弾が見つかる。自衛隊幹部や在日米軍住宅を標的としたテロなどと合わせて中核派が犯行声明。
  • 3月19日:成田線成田駅 - 成田空港駅、京成本線京成成田駅 - 成田空港駅が開業。JR・京成ともに空港ターミナル地下に乗り入れ。
  • 4月9日:地域振興連絡協議会が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。旧熱田派は5つの条件(①二期工事の土地問題で強制的手段をとらないことを運輸省に確約させる②学識経験者もシンポジウムに参加する③協議会は反対同盟と運輸省が対等な立場であることを保証する④シンポジウムは相互意見発表と議論の場であると位置づける⑤適正な議論が行われない場合は旧熱田派は参加を拒否する権利を有する)付きで参加を提示。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。
  • 5月:戦旗荒派が多古町に「赤池物流センター」を開設。
  • 5月28日村岡兼造運輸相が、地域振興連絡協議会に対して、いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約する旨を文書で回答。
  • 6月17日:旧熱田派がシンポジウム参加を正式決定。
  • 7月:石毛博道が旧熱田派事務局長に就任。
  • 7月23日:東峰の二期地区内に住む農家9戸(北原派:萩岡進、旧熱田派:石井武、小川派:島村昭治 等)が、当方で行われる二期工事を「軒先工事」として抗議する声明を成田市を通じて空港公団に提出。これを受け空港公団はシンポジウムが開催されることも勘案して工事を凍結。
  • 8月1日:二期区域エプロン一部供用開始。
  • 8月10日:二期用地内で、旧熱田派や地元住民らが結成した「都はるみ 星と大地にうたう会」が『三里塚・都はるみ・星空コンサート』を開催。
  • 9月2日:中核派が東京都品川区上大崎にある運輸省の寮を放火[25]
  • 9月4日:中核派が、陸上自衛隊朝霞駐屯地施設・堤功一外務省審議官実父宅とともに、空港建設にかかわっていた梓設計常務宅と日揮社員寮を放火。このうち外務省審議官実父宅への放火では標的を誤ったうえに死者を出したが、中核派幹部の北小路敏は「家族にも半ば責任はある」と開き直った[25][58]。(外務省審議官実父宅放火殺人事件
  • 11月:革労協狭間派が栗源町に「三里塚企画」を開設。
  • 11月5日宮澤内閣が発足。運輸相に就任した奥田敬和が、記者会見で「いつまでも待っているわけにはいかんでしょう」と強制収用の可能性を示唆。
  • 11月6日:未明の会見で、奥田運輸相が前日に続き「国民が納得するなら(強制収用を)決断する」と発言。旧熱田派は「発言を撤回しない限りシンポジウムに参加しない」と表明。13日に開催予定の成田空港問題シンポジウムの開催が延期される。
  • 11月15日:奥田大臣が、閣議で平和的解決の方針を再確認し、了承を得る。同日、旧熱田派がシンポジウム参加を再表明。
  • 11月21日第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回に亘り成田国際文化会館と芝山文化センターで交互に開催)。国と反対派が公式の場で本格的に対話するのは闘争史上初。行政側からは奥田運輸相・沼田千葉県知事・長谷川成田市長・松井空港公団総裁らが出席。旧熱田派の石毛事務局長が「徳政をもって一新を発せ」と題する意見発表を行い、奥田運輸相が過去の不手際を謝罪したうえで二期工事の必要性を訴える。

1992年[編集]

  • 2月18日:中核派が、千葉県総務部長宅・元運輸省航空局長宅・千葉県農林部次長宅・千葉県商工労働部長宅・武南警察署神根駐在所・全日本空輸常務宅を爆破[25]
  • 2月20日:情報通信センター、北オペレーションセンター供用開始。
  • 3月14日日本国政府専用機が整備を受けるために初めて成田空港に飛来、政府専用機飛来の情報は過激派に対する懸念から秘匿される。後に公にされると、中核派が「政府専用機が成田に常駐し、PKOの出撃拠点となる」と機関誌で主張しするなどして、「成田軍事空港化」の攻撃材料とされた。
  • 5月13日:中核派が空港公団運用局幹部宅を放火[25]
  • 6月1日:空港公団工事局幹部宅放火未遂事件[25]
  • 6月3日:熱田一とともに徹底抗戦を主張し、旧熱田派の世話人をしていた小川源が食道癌で死去。
  • 6月16日:中核派が空港公安事業本部幹部宅を放火[25]
  • 7月1日成田新法事件で最高裁判所が合憲判決。
  • 8月1日:南側エプロン供用開始。
  • 8月6日:空港公団が過去最高の黒字決算を発表。
  • 8月25日:元反対同盟員宅が放火される[25]
  • 9月28日:「シンポ粉砕」を主張する革労協が隅谷三喜男調査団団長の自宅に金属弾を発射。
  • 10月26日:成田財特法の延長を国には働きかけることを目的として、千葉県が周辺地域の振興計画策定を進める成田空港周辺地域振興推進本部設置を発表。
  • 10月31日:北側エプロン供用開始。
  • 11月11日:空港公団幹部の自宅が、時限爆弾により爆破される。幹部は過去に用地交渉に携わっており、倒れて来た家具に足を挟まれて骨折。飼い犬が爆破による傷がもとで死ぬ。中核派が犯行声明。
  • 12月3日:第2旅客ターミナルビル地下の「空港第2ビル駅」が供用開始。
  • 12月6日第2旅客ターミナルビル供用開始。日本航空など国内4社及び外国28社が移転。同時に第1旅客ターミナルビル北ウイングの第1・第2サテライトが改修の為に閉鎖される。
  • 12月10日:第2ターミナルの供用について反対同盟小川派が抗議声明。
  • 12月14日:第2ターミナルの供用開始に伴う騒音や排ガスについて、東峰地区の反対農家など9戸が公開質問書を成田市を通じて空港公団に提出。空港公団は「できる限りの対策を講じたい」とする回答を東峰区の梅沢勘一区長に手渡し。

1993年[編集]

  • 2月2日:新管制塔が供用開始。全高は87.3mで、当時の管制塔としては日本一の高さを誇った(2017年現在でも羽田空港の管制塔に次ぐ第2位の高さ)。1978年の占拠事件での舞台となった旧管制塔の管制室は、空港公団に移管され、ランプコントロールに使用される。
  • 2月5日:開港以来の国際旅客2億人達成。
  • 2月14日:旧熱田派農家や支援者らが第2ターミナル付近の駐機場エリアに残された「梅の木共有地」で梅見を行う。当初共有地は33人が所有していたが空港公団が内32人分の権利を取得しており、残された33分の1の権利を熱田派の農家など8人で再分割している。梅の木は、一度ほとんどが枯れてから空港公団が後で植えなおしたもの。
  • 2月23日:大塚茂元空港公団総裁の自宅駐車場に停められた乗用車を、中核派が時限発火装置で放火。
  • 3月5日:元運輸事務次官・空港公団副総裁でJR貨物会長の町田直の自宅を、中核派が時限発火装置で放火。
  • 5月17日:革労協が佐原警察署に金属弾を打ち込むテロ。
  • 5月24日:第15回成田空港問題シンポジウム開催(終了)。①空港建設予定地に対する収用裁決申請を取り下げる②B・C滑走路の建設計画を白紙撤回する③シンポジウムに続く新たな話し合いの場を設けて問題解決に向けて議論する の3点で合意。
  • 6月16日:空港公団が収用裁決申請を取り下げ。
  • 8月1日:中核派が武装闘争から大衆運動・組織建設に比重を移す方針を集会で打ち出す(八・一路線)。
  • 8月9日細川内閣が発足。
  • 9月20日:第1回成田空港問題円卓会議開催(以後12回開催)。空港と地域との共生の在り方を中心に議論が進められる。
  • 11月24日:空港公団が二期工事を中断。

1994年[編集]

  • 1月31日:子供たちに気軽に空港に見てもらうことを目的に、空港公団が地元の小中学生向けに「成田空港パスポート」を配布。
  • 3月7日伊藤茂運輸相が「成田貨物空港化」等を提言する論文を東洋経済に掲載。翌日の会見で「論文は友人が執筆したもので、内容は十分に確認しなかった」と釈明、19日発売の同誌インタビューで「成田は国際空港として整備する」「地元や関係者に不信感を抱かせてしまい申し訳ない」と述べた。
  • 3月29日:この日開催された第6回成田空港問題円卓会議に、伊藤運輸相が東洋経済に掲載した論文について「ご迷惑をおかけし申し訳ない」とする釈明文を提出。
  • 4月7日:運輸省新東京空港事務所が航空機落下物現地対策委員会を開き、成田に乗り入れる航空会社51社に対して落下物の自発的報告を要請。
  • 4月28日羽田内閣発足。
  • 5月16日:早朝、空港公団事業本部管理部次長宅で時限発火装置が見つかる。成田空港問題関連のテロ事件としては前年5月17日の佐原警察署への攻撃以来であり、千葉県で約1年に亘りテロが行われなかったのは開港以来初。
  • 6月27日:成田空港問題円卓会議に参加している運輸省・空港公団・旧熱田派・住民団体らによる「ミュンヘン新国際空港調査団」が、ドイツに向けて成田を出発。成田空港問題解決の参考として、13年間の丁寧な取り組みを経て開港にこぎつけたミュンヘン空港の現地調査を行い、翌月3日に帰国。
  • 6月30日村山内閣発足。
  • 9月13日:第11回成田空港問題円卓会議で運輸省が横風用滑走路計画の凍結を提案。
  • 9月15日:A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。
  • 9月29日:国との対話路線を推進した旧熱田派の石毛事務局長が「これまでの戦争状態を終結させる私の仕事は終わった」として辞意表明。翌月11日の円卓会議終了後、反対同盟を離れる。
  • 10月11日:成田空港問題解決のための第12回成田空港問題円卓会議で、国と反対派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。
  • 12月10日:成田空港問題円卓会議拡大運営委員会が成田市役所で開催され、成田空港地域共生委員会の設置等が正式に決定される。
  • 12月12日:中核派が空港公団社宅駐車場の車両を放火[25]

1995年[編集]

  • 1月10日成田空港地域共生委員会が発足[59]
  • 1月11日:小川派代表の弟小川嘉吉が、村山富市首相及び亀井静香運輸相あてにこれまでの空港づくりへの反省を促す書簡を送付したことが毎日新聞に報じられる。
  • 1月20日:村山首相・亀井運輸相からの返書が小川派に届く。
  • 1月21日:政府側からの返書を受けて、小川派代表の小川嘉吉が反対運動の終了を表明。その後小川派のメンバーと移転に向けた交渉が進められるが、島村昭治のみ2017年現在も東峰地区の用地内に留まり続けている。
  • 1月24日地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の初会合が開かれる。
  • 2月6日:航空機落下物防止のための施策である「洋上脚下げ」の実施状況を確認するための海岸観測を運輸省新東京空港事務所が実施。空港事務所は2時間の間に飛来した45機のうち3機が実施していなかったことを確認し、洋上脚下げの徹底を航空会社に再度要請。
  • 4月8日:開港以来の国際旅客2億5千万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。
  • 4月23日:社会党の議員として三里塚闘争を支援していた小川国彦が、完全空港化などを掲げて成田市長選挙に当選。
  • 5月13日:革労協狭間派が第2旅客ターミナルビル内でパチンコ玉を発射[25]
「共生への願いを込めて 1995.6.27」
移植後の梅の木と管制塔
  • 6月7日:空港公団が「梅の木共有地」を取得。植えられていた梅の木は東成田駅のロータリー付近に移され、「共生への願いを込めて」と記された石碑とともに植えられた[60]移植後の梅の木と管制塔。
  • 6月22日:第2旅客ターミナルビル南側エプロン部分の一坪共有地の所有権を空港公団が全て取得。
  • 7月20日:小川嘉吉が訴訟の終結方法等について国と同意。
  • 7月28日:小川嘉吉が二期工事差し止め訴訟取り下げ。
  • 8月9日:小川嘉吉が空港建設を巡る4件の行政訴訟を取り下げ。
  • 8月22日:空港公団が成田市芦田地区の8戸と集団移転補償契約を締結。
  • 11月22日:中核派が空港公団企画室主幹宅を放火[25]
  • 12月7日:「梅の木共有地」撤去が完了[61]
  • 12月13日:旧熱田派がタイのNGO「開発に関するアジア文化フォーラム」がコーンチアム郊外で開催した集会に参加し、柳川世話人が三里塚闘争の経緯や現状を発表する。同行した元小川プロの福田克彦が『第二砦の人々』を投影しながら空港問題の概略を説明。

1996年[編集]

  • 1月11日橋本内閣が発足。
  • 1月19日:「横堀団結の砦」撤去の際の作物被害を巡って、熱田一が国を相手取り千葉地裁で争っていた損害賠償裁判で、国が謝罪するとともに約225万円の和解金を支払うことで和解が成立。
  • 2月:東京一極集中是正の観点から行政組織の地方移転が検討され、運輸相が空港公団を移転の対象としたことから、空港公団法が改正されて空港内への移転が正式に決定する。
  • 3月18日:「宇部方式」を用いて騒音問題等を解決した山口宇部空港を成田空港地域共生委員会メンバーらが視察。
  • 3月28日ILSカテゴリーIIIa運用開始、およびストップ・バーシステム供用開始。
  • 4月30日:元小川派代表の小川嘉吉が移転に合意したことを亀井善之運輸相及び中村徹空港公団総裁が発表。11年ぶりの移転合意。
  • 5月10日:小川嘉吉の弟小川喜平が、自宅前の畑で離農式を行う。
  • 6月5日:芝山鉄道早期実現住民会議が発足。
  • 7月1日:空港公団本社が成田空港内の旧日本航空オペレーションセンターに移転。周辺住民約8000世帯に引っ越し挨拶の手拭を配布。
  • 7月9日:中核派が空港公団工務部管理課長宅を爆破[25]
  • 7月17日:空港公団が用地提供者らを招き移転記念の懇親会を本社で開催。
  • 10月21日:中核派が運輸省航空局幹部宅の車両を放火[25]
  • 11月12日:小川喜平が空港公団と移転契約を締結。残る用地内農家が6戸となる。
  • 11月20日:沼田千葉県知事が、北原派を支援する新左翼党派の妨害などによって中断させられていた騒特法に基づく騒音対策基本方針見直しを行う考えを表明。都市計画に「航空機騒音障害防止特別地区」及び「航空機騒音障害防止地区」を設けて騒音地対策を行うための手続きが進められる。
  • 12月11日:航空審議会が答申した第七次空港整備五ヵ年計画の審議の中で、運輸省がB滑走路の完成目標時期を2000年度とする方針(「今後の成田空港と地域との共生、空港整備、地域整備に関する基本的考え方」)を打ち出す。一方、計画の中には首都圏第三空港の整備も盛り込まれていた。

1997年[編集]

  • 2月25日:中核派が芝山鉄道社長宅を爆破[25]
  • 4月3日:開港以来の国際旅客3億人達成。
  • 6月:空港公団が、空港建設予定地の取得と総合的な共生策を推進するための「空港づくり推進本部」及び「地域共生推進本部」を発足させる。
  • 6月17日:中核派が運輸省大臣官房審議官宅を爆破[25]
  • 6月19日一宮町議会が、九十九里沖への首都圏第3空港建設の意見書を採択。
  • 6月25日:円卓会議での合意事項である空港と地域との共生策の一環として、成田空港周辺地域共生財団の設立発起人会が開催される。
  • 7月27日:成田空港騒音対策地域連絡協議会が総会で「共生の実現に向けて、より積極的な活動を展開する」とする共生決議を採択。
  • 8月19日:二期地区内の木の根地区に居住する旧熱田派の農家2戸(小川明治・小川源の子息であり、いとこ同士)が空港公団と移転交渉を行うことで合意。熱田派系の用地内農家がいなくなる。
  • 8月:中核派秘密アジト「藤沢アジト」が6月17日の審議官宅爆破事件等の捜査で摘発され、水溶紙メモや武器製造・開発・研究等に関する資料、工具類等が押収される。
  • 9月:6月17日の審議官宅爆破事件捜査のための全国一斉捜索が行われ、東京都内の中核派拠点の捜索で、免状不実記載罪で指名手配中の中核派秘密部隊員が検挙される。
  • 9月9日富津市沖での首都圏第三空港建設の可能性を探る富津市新空港研究会が発足。
  • 9月16日:横堀墓地を入会地だとする熱田一らが瀬利元反対同盟副委員長から所有権を取得したとする空港公団と争っていた横堀墓地訴訟で、和解が成立。
  • 9月22日:革労協が成田国際高校校舎から成田警察署に向けて金属弾を発射。
  • 10月13日:開港以来の航空貨物取扱量2千万トン達成。
  • 10月16日:元小川派メンバーの天神峰地区農家が移転契約を締結。
  • 11月7日:北原派農家(10月16日に移転契約を結んだ農家の叔父)が移転契約を締結。北原派用地内農家の移転同意は初。用地内農家は2戸となる。
  • 11月12日:成田市内にある芝山鉄道専務宅が中核派により爆破される。
  • 12月7日:「2000年までに成田国際空港平行滑走路完成」や「芝山鉄道建設」などを公約に掲げて芝山町長選挙に出馬していた反対同盟出身の相川勝重が当選。
  • 12月10日:成田市議会が「過激派暴力集団の排除等に関する決議」を可決。
  • 12月15日:中核派が運輸省大臣官房技術審議官宅車両等を放火[25]

1998年[編集]

  • 1月22日芝山鉄道線建設工事が着工。開港前年に後背地となる芝山町が要望して以来、21年越しの実現となる。 
  • 2月1日:第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。
  • 2月2日:空港へ迫撃弾2発と金属弾1発が打ち込まれ、貨物地区の作業員1人が迫撃弾の破片に被弾。救急車で近くの病院に救急搬送される。迫撃弾のうち、1発は近くで破裂、金属弾1発は不発だった。
  • 2月25日:元運輸省航空局長で隅谷調査団メンバーの高橋寿夫が、建築中の自宅を時限発火装置で放火される。中核派が犯行声明。
  • 4月22日:千葉県企画課長の自宅が放火される。中核派が犯行声明。
  • 4月25日:1日の発着枠を360回から370回へと改定。
  • 5月1日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会が最終報告を取りまとめ、解散。
  • 5月18日:隅谷調査団が「空港問題は社会的に解決した」とする所見を藤井孝男運輸相に提出。一方、地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告に不満を持つ一部旧熱田派や対話拒否を貫く北原派が依然残されていた。
  • 5月27日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告を踏まえ、運輸省と空港公団が周辺環境への配慮や農的価値の視点を大切にすることを謳った「エコ・エアポート基本構想」を発表。
  • 6月1日:松戸市-成田空港の運行に用いられている京成バスの車両が松戸市内の車庫で炎上。中核派が犯行声明。
  • 6月11日1997年東京都議会議員選挙で自民党都議連が羽田空港の国際化を公約に掲げるなどの羽田再国際化を進める動きに対し、千葉県議会や自民党県議連が青島幸男都知事に遺憾の意を表明。
  • 6月17日:東京都議会が羽田空港再国際化を推進する意見書を採択。これに対し、千葉県議会が「空港問題に対する基本的認識が欠けている」とのコメントを出し、運輸省が「国際線は成田、国内線は羽田」とする方針に変わりがないことを強調。
  • 7月15日:運輸省と空港公団が、今後の空港整備の具体的指針となる「地域と共生する空港づくり大綱」を千葉・茨城両県に提示。「共生策、空港づくり、地域づくり」の三位一体で進めていくことが明記される。B滑走路の発着回数(1日247回、年間約9万回)や新しい飛行コースも示される。
  • 7月29日:横浜市の運輸省幹部が自宅玄関を放火され、火傷を負う。中核派が犯行声明。
  • 7月30日小渕内閣が発足。
  • 9月11日:運輸省航空局課長の自宅が爆破される。中核派が犯行声明。
  • 9月12日:成田開港後の初の国際民間チャーター便が、羽田からホノルルに向けて飛び立つ。
  • 9月17日:移転により住民がいなくなったことから、木の根地区で閉村式が行われる。
  • 9月24日:2期地区内にある組合道路売却を阻止するため、休眠状態となっている駒之頭開拓農協に北原派・旧熱田派・元小川派の農家5戸が加入。
  • 9月27日:旧熱田派を支援してきたプロ青同が現地闘争団を解散して三里塚闘争から撤退。解散時に現地に常駐していた活動家は1人だった。解散後、熱田一の敷地内にあったプロ青同の団結小屋は自主的に解体される。
  • 10月5日:東峰地区の地権者らが「空港建設のためには農地は売らない」等とする「東峰声明[61]」を発表。派閥を超えて反対派農家が結束したことはB滑走路建設の阻害要素となった。
  • 10月28日:千葉県旭市内の自民党千葉県連幹事長飯島重雄県議宅の車両が中核派に放火される。
  • 10月30日:4月の爆発物ゲリラ事件に関して、千葉市にある動労千葉の会館、栗源町にある「三芝物産北総センター」など中核派拠点30カ所を千葉県警が家宅捜索。
  • 10月31日:共生委員会事務所近くで不審な男女を警備員が発見、男女は逃走し、現場に残されたリュックから火炎瓶らしきものが見つかる。
  • 11月10日:空港公団とニューヨーク・ニュージャージーポートオーソリティの間で姉妹空港の締結を調印。
  • 11月18日:成田空港-羽田空港間直通列車運転開始。
  • 12月16日:7月15日に提示された共生大綱に対し各自治体から寄せられた要望等を踏まえ、最終的な大綱が取りまとめられる。
  • 12月23日:開港以来の航空機発着回数200万回達成。

1999年[編集]

  • 1月25日:芝山鉄道非常勤取締役宅が放火される。中核派が犯行声明。
  • 1月27日:鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁が東峰地区の反対派農家等を訪問。訪問活動は4月まで続けられるが反対派の態度は変わらず。
  • 1月28日:飛行コースを外れた航空機による騒音を防止するため、運輸省と空港公団が飛行コースに幅を設定するとともに航空機の監視を始める。合理的の理由ない逸脱が確認された場合、会社名と便名が公表される。
  • 2月20日:東峰地区の反対派地権者らに対し、前年10月5日の声明に答えるとともに話し合いに応じるよう求める手紙を、川崎二郎運輸相が中村空港公団総裁との連名で送る。手紙は鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁によって手渡されたが、受け取りの拒否や未開封のままの返送等の冷淡な反応が目立った。
  • 3月:地元新聞社が行ったアンケート調査で、空港圏在住の住民の約7割が「平行滑走路の整備を急ぐべきだ」と回答[1]
  • 3月16日:第1旅客ターミナルビル北ウイングがリニューアルされ中央ビル新館とともに供用開始(南ウイングが改修の為に閉鎖)。
  • 4月2日:東峰地区の総会で、反対派が話し合い拒否を再確認。
  • 4月5日:黒野匡彦運輸省事務次官が「平行滑走路を一時凍結することも最悪の選択肢としてないとは言えない」と定例会見で述べる。
  • 4月6日:小川成田市長らが前日の黒野事務次官発言を遺憾とする申し入れ書を提出。
  • 4月11日:羽田の国際化を主張する石原慎太郎が東京都知事に当選。
  • 4月15日:B滑走路の進展に危機感を持った空港周辺1市7町が、平行滑走路早期完成を求める署名活動を開始。活動の結果、目標としていた10万人を大幅に上回る26万人の署名が集まり、運輸大臣に提出される[1]
  • 4月27日:新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。5月7日から性能試験。
  • 4月28日:成田空港付近の路上で乗用車から迫撃弾が射出されると同時に車両が炎上する。中核派が犯行声明。
  • 5月10日:反対派農家との用地売買交渉の目途が立たないことなどから、平行滑走路2000年度完成目標断念と反対派所有地を避ける形状での暫定滑走路建設を運輸省が発表。
  • 5月21日:川崎運輸相が中村空港公団総裁に暫定滑走路建設を指示。「2002 FIFAワールドカップ開催も念頭に、現計画に基づく2500mの平行滑走路の早期着工・運用開始を目指して、地元自治体、関係者の協力のもとに、今後とも地権者との話し合いを行い、その早急な解決を図る」としたうえで、「それが当面困難な場合には、暫定的措置として、平行滑走路の完成済み施設の一部とNAAの取得済み用地を活用して、ワールドカップ開催に間に合うよう延長約2200mの暫定平行滑走路を建設し、運用することを考慮する」方針が示される[1]
  • 6月:「周辺住民による成田空港問題フォーラム」が開催され、閉塞的状況が解消されることを望む声が上がる[1]
  • 7月7日:中核派が運輸省航空局国際航空課長宅(空き家)を放火[25]
  • 8月24日:空港公団が一坪共有地0.2ヘクタールを取得[25]
  • 9月3日:関係自治体・住民団体などへの130回にわたる説明会を経て、空港公団が平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。平行滑走路の完成て2001年11月30日に設定するとともに、マスタープランどおりの滑走路が整備できない場合に備えて約2200mの暫定平行滑走路が計画に追加される[1]
  • 9月12日太陽光発電システム運用開始。
  • 9月12日:成田駅を出発直後のJR総武線の快速電車と京成成田空港駅に停車していた京成電鉄の特急電車で、時限式発火装置による小火が発生。革労協が犯行声明。
  • 10月18日:9月3日の空港公団による計画変更の申請を受け、運輸省が航空法に基づく公聴会を32年ぶりに成田国際文化会館で開催[1]
  • 10月21日:自民・自由公明の与党3党が羽田国際化に向けて検討するよう運輸省に指示。
  • 11月9日:空港公団職員宅が放火される。中核派が犯行声明。
  • 11月27日:沼田千葉県知事が反対派農家を初めて訪問。滑走路本体上の一坪共有地の持ち分を持つ反対派から、話し合いに応じる考えを示した手紙を託される。
  • 11月30日:27日に手紙を出した反対派農家が二階俊博運輸相からの返書を受け取る。翌日、返書を受け取った反対派農家が持ち分の譲渡などで空港公団と同意。
  • 12月1日:運輸省がB滑走路建設計画を認可[61]
  • 12月3日:暫定滑走路工事着工。平行滑走路の工事は6年ぶりで、安全祈願祭が執り行われる。
  • 12月13日:中核派が自民党千葉県議会議員宅県店舗棟を放火[25]
  • 12月26日革労協反主流派が、京成線及びJRの成田空港行き列車3編成を同時多発的に時限発火装置で放火[25]

2000年代[編集]

2000年[編集]

  • 3月21日:運輸省が、深夜・早朝帯の国際チャーター便の活用による羽田再国際化を目指す「羽田空港有効活用検討委員会」を設置。「国際線は成田、国内線は羽田」という基本方針を転換させるものであり、千葉県や成田市は「羽田国際化は容認できない」と反発。
  • 4月1日コージェネレーションシステム導入・運用開始。
  • 4月5日森内閣が発足。
  • 7月7日:第1ターミナルビル第2サテライト供用開始。
  • 8月26日:中核派が運輸省運輸政策局幹部宅を爆破[25]
  • 9月13日:中核派が運輸大臣官房文書課長所有車両を放火[25]
  • 11月8日:中核派が空港公団幹部宅を爆破[25]

2001年[編集]

暫定平行滑走路の建設が進む成田空港(2001年)

2002年[編集]

  • 1月9日:中核派が千葉県総務部幹部(元地域共生財団事務局長)宅を放火[25][62]
  • 4月12日:革労協反主流派が京成本線の車両を放火[25][62]
  • 4月17日:空港公団が暫定平行滑走路供用を「第2の開港」と位置づけ、扇千景国土交通相・堂本千葉県知事・小川成田市長らを招き式典を開催。3機のチャーター機がB滑走路から離陸[1]
  • 4月18日:2本目の滑走路であるB滑走路が、2180メートルの暫定平行滑走路として供用開始。新規乗り入れを実現した航空会社の初便が発着が相次いぎ、定期便乗り入れ航空会社がそれまでの35カ国1地域54社から39カ国2地域(台湾・香港)68社に大幅増加した[1]。一方、東峰地区では空港反対同盟「旧熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。
  • 4月22日:中核派が千葉県土木部職員宅を放火[25]
  • 5月13日:回転翼航空機(ヘリコプター)の受け入れ条件を一部緩和。
  • 9月25日:第2旅客ターミナルビルスイングゲートの供用開始。
  • 5月27日:第2旅客ターミナルビル出発ロビー北側増築部(Wカウンター・Yカウンター)の供用開始。
  • 8月6日:中核派が成田高速鉄道アクセス監査役宅に放火テロ[63][64]
  • 10月16日:空港南口ゲートの供用開始。
  • 10月27日:芝山鉄道線の供用開始。
  • 10月27日:日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。反対同盟は、1981年にボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問していた。
  • 11月15日:千葉県企画部交通計画課主幹宅が放火される[62]
  • 12月1日:暫定平行滑走路の反対派農家の未買収地を残して建設された「くの字誘導路」上で航空機同士の接触事故が発生。
  • 12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。

2003年[編集]

  • 1月20日:新東京国際空港の改称「成田国際空港」および新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇国土交通相へ要望書を提出。
  • 1月27日:午後9時49分に、韓国仁川国際空港発のエアージャパン908便(乗客・乗員102人、ボーイング767-300型)が暫定滑走路南端から70メートルオーバーランし、航空灯火に激突するという事故が発生した。
  • 2月13日千葉県収用委員会会長襲撃事件で負傷した小川彰弁護士が、事件の後遺症を苦に福岡県入水自殺した。
  • 2月28日:国・千葉県・成田空港圏自治体連絡協議会を構成する市町村・空港公団の間(四者協議会)で、「新東京国際空港公団民営化に関する覚書」が締結される。
  • 3月11日:「成田国際空港株式会社法案」が閣議決定する。
  • 4月17日:第2旅客ターミナルビル北側および地上通路沿いのスポットの供用開始。
  • 5月29日:開港以来の航空貨物取扱量3千万トン達成。
  • 7月11日:国会にて「成田国際空港株式会社法」が成立。
  • 8月26日:深夜、八街市内の民間人家の敷地内に仕掛けられた爆弾が爆発。被害者は成田空港問題と無関係の一般人であるが、千葉県幹部と同姓同名であったため、攻撃対象を誤って引き起こした事件とみられる。爆発物の形状から中核派のテロとみられる[62][64][65]
  • 11月17日:航空燃料輸送量1億kL達成。

2004年[編集]

  • 4月1日新東京国際空港公団が民営化され成田国際空港株式会社に改組(以下、NAA)。新東京国際空港から成田国際空港に改称、第2給油センター供用開始。
  • 10月19日:第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。
  • 11月25日:第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。

2005年[編集]

  • 1月11日:平行滑走路延伸に関し、NAAが北側一雄国交相に用地交渉の状況を報告[61]
  • 4月14日:基本計画どおりの平行滑走路2500メートル化(南側延伸)について東峰地区住民との話し合いが行われる。6月まで計4回実施されたが、交渉は不調に終わる[61]
  • 6月8日:開港以来の発着回数が300万回達成。
  • 8月4日:国土交通省がB滑走路を暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側に延伸することを決定[1]
  • 7月15日:黒野NAA社長が北側国交相に暫定平行滑走路北側延伸に申し入れ[61]
  • 8月4日:北側国交相がNAAに北側延伸による平行滑走路2500メートル化を指示[61]
  • 10月3日:NAAが北伸案の内容や騒音対策などについて公表。以後、関係市町・地元住民などに計100回以上の説明を実施[1]
  • 11月11日:1978年に成田空港管制塔占拠事件で管制塔を占拠した元活動家16人は、政府などから事件の損害賠償を求められ、1995年に判決が確定するも支払いを拒否していたため、2005年になって給料を差し押さえられた。元同志らのカンパ運動により、賠償請求額と利息の合計、約1億300万円を法務省に支払う。
  • 11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社とNAAが東京地検の捜索を受ける。

2006年[編集]

  • 1月15日:熱田一(元空港反対同盟熱田派代表)が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明[66]。熱田元代表は「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」と述べ、反対運動から完全に身を引く。「横堀墓地」は他界した支援者の墓や、やぐらがあるなど、成田空港反対運動の象徴とされていた。
  • 3月:「成田空港に関する四者協議会」(四者協)が騒防法の第1種区域などについて合意[1]
  • 4月13日:ILSカテゴリーIIIb運用開始。
  • 6月2日:航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4-第5サテライト連絡地下通路が供用開始。
  • 7月10日:NAAは、航空法に基づく飛行場変更申請を国土交通省に提出するとともに、「成田国際空港平行滑走路北伸整備事業に伴う環境とりまとめ」を公表[1]
  • 8月21日:国土交通省が7月10日のNAA申請についての公聴会を成田市で開催[1]
  • 9月5日:四者協が騒特法の騒音対策および発着回数の増加を了承[1]
  • 9月11日:国土交通省が7月10日のNAA申請を許可[1]
  • 9月15日:NAAがB滑走路北側延伸に着手[1]
  • 9月26日第1次安倍内閣が発足。
  • 9月29日安倍首相が所信表明演説アジア・ゲートウェイ構想を打ち出す[67]

2007年[編集]

  • 4月23日:NAAは暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。NAAの発表によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行う計画。
  • 5月22日:NAAの社長人事で、政府は6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として森中小三郎住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入った。民営化前の新東京国際空港公団時代も含めトップに民間人を起用するのは初めて。同社の社長人事では、民間人を起用したい首相官邸が国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否した一方で、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸筋と地元の対立が表面化した。
  • 6月:初のNAAトップとして森中小三郎が代表取締役社長に就任。
  • 6月14日:東京高裁は、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。
  • 9月26日福田康夫内閣発足。

2008年[編集]

  • 1月:空港周辺9市町の首長が、今後の成田空港の整備を踏まえつつ、国際拠点空港としての機能を活かした都市づくりを推進するとの趣旨で、「成田国際空港都市づくり推進会議」を設置[1]
  • 3月1日:革労協がA滑走路に向けて迫撃弾を発射。3日に犯行声明。7日に千葉県警が犯行に使われたとみられる迫撃弾を空港敷地内で発見。
  • 3月25日:NAAが周辺9市町に「年間30万回は発着可能」とする試算を公表。
  • 5月21日冬柴鐵三国土交通相が羽田空港での国際線定期便を昼夜あわせてこれまでの倍の約6万回とすることを視野に入れた方針を示す[68]
  • 9月24日:麻生太郎内閣発足。
  • 9月25日:国土交通相に就任したばかりの中山成彬が、産経新聞などのインタビューの際に成田国際空港の拡張が「地元住民の反対などで進まなかった経緯」について触れた時、空港反対派農民を「ゴネ得」と述べて、堂本千葉県知事から抗議されるなど社会問題化した。更に「日本は単一民族」等の舌禍事件が続き、28日に国土交通大臣を辞任した。
  • 12月12日:NAAは、約千人の「一坪共有地」の地主に、土地の権利を約3万円で譲渡することを求める手紙を森中社長名で一斉に郵送。

2009年[編集]

東側の上空より成田空港を望む(2009年)。未買収地の状況がわかる。
  • 1月23日:四者協で発着容量30万回化の検討着手に地元首長が合意[61]
  • 3月23日:アメリカ合衆国の貨物機・フェデックス機が着陸時に突風に巻き込まれて墜落、炎上。操縦士ら2人が死亡した(フェデックス80便着陸失敗事故)。開港以来、初の空港における死亡事故となり、A滑走路が26時間21分閉鎖された。
  • 4月:成田空港地域共生委員会が成田空港地域共生・共栄会議となる。
  • 4月5日森田健作が千葉県知事に就任。
  • 6月29日:B滑走路北側延伸の施設が完成検査に合格[1]
  • 7月9日:森田千葉県知事が、成田空港の未買収地について、用地内の地権者に対して「早い段階で訪問したい」と述べ、直接面会する考えを定例会見で示す[69]
  • 7月30日:成田空港のB滑走路とターミナルビルがある駐機場を結ぶ「東側誘導路」が供用を開始した。
  • 9月16日鳩山由紀夫内閣発足。
  • 9月17日:NAAは、未買収用地取得を進めるため、現在空港反対派らが持つ「一坪運動共有地」と「土地」についてNAAへ売却を求める訴訟を千葉地裁に起こす方針を固めた[70]
  • 9月24日運輸政策研究機構が主催するシンポジウム「首都圏空港の将来像」で、首都圏空港将来像検討調査委員会がオープンスカイの推進や航空会社の資本・労働政策の自由化、成田空港と羽田空港の機能分担見直しなどを提言。
  • 10月12日前原誠司国土交通相が突如「日本にはハブ空港が存在しない状態。羽田空港の24時間空港化を目指したい」と発言、千葉県関係者には成田に代わって羽田が国際空港の中心になるとの受け止めが広がる[71]
  • 10月13日:森田千葉県知事は前日の前原発言について「冗談じゃない」「昨夜は頭にきて眠れなかった」など強い口調で非難、その他地元から批判の声が相次ぐ[71]。一方、前原国土交通相は記者会見で前日の発言での考えに変わりがないことを重ねて表明[72]
  • 10月14日:前原国土交通相と森田知事の会談が行われ、「成田と羽田の両空港を一体的にとらえて合理的なすみ分けをする」などの点で合意、森田知事は「例えば足(距離)の長い米国は成田、東南アジアは羽田」「夜間、成田は飛べないので、羽田にお譲りしよう」などと述べた[71][73]。しかし、後にこの棲み分けも取り払われることとなる。
  • 10月22日B滑走路が2500mに延伸され、供用開始[74]。1966年12月の基本計画の制定から40年余を経ての完成となる[1]
  • 12月15日相川芝山町長が、運用時間と午後10時台の制限緩和を提案[61]。反対派出身であり、これまでNAAによる容量拡大の動きをけん制し続けてきた相川町長からの緩和案は驚きをもって受け止められた[75]
  • 12月25日:NAAが発着容量30万回の騒音予想図を地元首長に提示[61]

2010年代[編集]

2010年[編集]

  • 2月25日:成田空港B滑走路西側の平行誘導路上にある、空港反対派「団結小屋天神峰現地闘争本部)」をめぐり、NAA が三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)を相手に、建物撤去と土地明け渡しを求めた訴訟の判決が千葉地裁であり、「地上権が成立したとの事実は認められない」とNAA側の訴えを認め、空港反対派に対し建物撤去と土地明け渡しを命じた(ただし、仮執行は認められず)[76]
  • 3月:B滑走路の発着能力が約1.5倍に増強される[1]
  • 5月17日:国交省の有識者会議「成長戦略会議」の最終報告が取りまとめられ、羽田空港の国際線枠を年9万回に広げ、「アジア長距離路線、欧米路線を含む高需要ビジネス路線」を取り込む方針を明記。また、規制改革検討リストに昼間時間帯は近距離アジア路線のみ就航が可能となる羽田の国際線運用について「羽田空港国際線の就航先制限の撤廃」を主張する大上二三雄(エム・アイ・コンサルティンググループ社長)の意見が加えられた[77]
  • 5月25日:森田千葉県知事と小泉一成成田市長が前原国土交通相と面談、「成長戦略会議」の最終報告について「従来の方針を大きく転換するものだ」と懸念を表明。更に羽田発着便は千葉県上空を飛ぶ便が多いため騒音が拡大するとして地元との事前協議の必要性を主張。面談後、森田知事は「成田で請け負いきれない国際線を羽田で補完してくれるのは国益にもかなう。ただ、そういう話は事前に相談してくれと伝えた。前原さんも必ず相談すると約束してくれた」、小泉市長は「前原大臣には、やはり国際線の中心は成田です、との言葉をいただいた」とそれぞれ述べる[78]
  • 6月8日菅内閣が発足。
  • 6月28日:B滑走路わきの市道(NAAに売却、廃止済み、通称団結街道)を閉鎖。
  • 10月13日:四者協において、成田空港の空港容量30万回への拡大について、国・千葉県・空港周辺9市町・NAAの四者が合意。「容量拡大(30万回) に係る確認書」が締結される[1]
  • 10月31日:羽田空港が正式に再国際化し、定期国際線が就航[79]

2011年[編集]

2012年[編集]

2013年[編集]

  • 1月5日:元空港反対同盟熱田派代表の熱田一が死去[66]
  • 3月29日:四者協でカーフュー(時間外離着陸制限)の弾力的運用について合意[1]
  • 4月25日:NAAが横風用滑走路(C滑走路)予定地上の「一坪運動共有地」の売却を求めて2009年9月17日に提訴していた訴訟について、最高裁判所は2件について地権者54人の上告却下を決定。買収に応じるよう命じた一・二審判決が確定した[85][86][87]。これによりNAAが2009年に起こした6件の訴訟は4ヶ所でNAAの勝訴、2ヶ所で和解して終結した[87][86]。今後、訴訟になっていない数カ所について交渉を続け、取得を目指すとしている[86]
  • 5月15日:辺田部落から移転した農家の女性が自殺。女性はプロレタリア青年同盟の元女性リーダーであり、現地の農家へ嫁に入っていた[88]
  • 7月29日:新東京国際空港公団が1970~2003年に地主から買収した土地を元地主との賃貸借契約により耕作を続けている農家に対しての耕作地の明け渡し請求訴訟の判決が千葉地裁であり、地裁は農地と建物の明け渡しを命じた(ただし、仮執行は認められず)[89][90][91]。耕作地は2ヵ所で計約7284平方メートル[89]。いずれもB滑走路の誘導路脇にあり、うち1カ所は誘導路が「へ」の字に湾曲する一因になっている[89]
  • 12月11日三里塚芝山連合空港反対同盟北原派の農家で、千葉県芝山町菱田の騒音区域に居住する女性と家族が反対運動から退き、 自宅と農地、航空貨物ターミナル増設予定地に所有している一坪共有地をNAAに売却したい意向を同派に伝えたことが報道された[92]。同派からの農家脱退は16年ぶり[92]

2014年[編集]

  • 2月6日:NAAが三里塚芝山連合空港反対同盟に対し、空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」撤去と土地(約180m2)の明け渡しを求め、千葉地裁に提訴[93]
  • 3月26日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている農家へ賃貸借契約解除を求めた控訴審が東京高裁で始まった[94]
  • 5月17日:国土交通省が成田・羽田の両空港において、2030年代を目途に滑走路をそれぞれ1本新設し、発着枠を現在の5割増となる110万回/年にする方向で本格的な検討に入った[95]。実現すれば、成田空港に3本目の新滑走路が誕生することとなる。

2015年[編集]

  • 1月5日:NAAは団結小屋の一つ再共有化市民の家(通称・共有者の家)を撤去する方針を固めた[96]。現在はほとんど使用されていない小屋で、土地の所有権もNAAがすでに取得している[96]。撤去されれば、空港用地と保安用地に残る団結小屋は7カ所になる[96]
  • 2月3日1971年(昭和41年)に強制収用され、以来43年に渡り補償されないままになっている、大木(小泉)よねの自宅や宅地について、補償問題の最終解決を目指し、大木(小泉)よねの遺族[97]と、国・千葉県・NAAが、話し合いを再開することで合意した[98][99][100][101]。同地は三里塚闘争で唯一、自宅を強制収用されたため、三里塚闘争の象徴的な存在であった[98][99]
  • 2月20日:NAAが、強制執行により反対同盟旧熱田派の団結小屋である「再共有化市民の家」を撤去。空港用地内の団結小屋が残り5ヵ所となる。
全来訪者に対して行われていた身分証確認(2014年)
  • 3月30日:1978年の開港以来続けてきた、空港入場前に一旦停止させ、利用客や送迎者の身分証明証を確認する検問が廃止され、顔認識システム監視カメラを利用した、新しい機械警備システムの運用が、正午から開始された[102][103]
  • 5月7日:成田空港用地内のB滑走路南側の土地2132平方メートルについて、NAAと地権者の間に用地売買契約が正式に成立したことが発表され[104][105][106]。同じ成田市東峰地区にある東峰墓地と野菜共同出荷場跡地に関するI氏のそれぞれの共有持ち分も、併せてNAAが取得した[104]。5月7日に一連の所有権移転登記が完了した[104]一坪共有地以外の反対派所有地を買収は、2006年3月熱田一から横堀墓地を取得して以来約9年ぶりとなり、空港用地内に土地を所有する反対派農家は3戸に減った[105][106]
  • 5月8日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が第3滑走路構想を発表。
  • 6月12日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている農家へ賃貸借契約解除を求めた控訴審で東京高裁は明け渡しを命じた一審・千葉地裁判決(2013年7月)を支持し、農民側の控訴を棄却[107]。農民側は即日上告[107]
  • 9月2日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟で、千葉地裁がNAA側の請求を認め、小屋の撤去と土地の明け渡しを命じた[108][109][110]。旧熱田派が一坪共有していたが、NAA側に土地の持ち分を売却するよう命じた判決が2013年4月に最高裁で確定しており、NAA側が2014年2月に明け渡しを求めて提訴していた[109]
  • 11月27日:千葉県・国・地元9市町・NAA が開いた4者協議会において、B滑走路の延伸と第三滑走路の新設について具体的な検討に入ることが決まった。B滑走路について、NAAは東関東自動車道の通る北部へと約1000m延伸し、B滑走路を3500m化、さらに首都圏中央連絡自動車道の東側に、新たに長さ3500mの第三滑走路を新設し、大型機の離着陸枠の増大と年間発着台数50万便(16万便増)を目指すとした。加えて都市間競争力を増すためにも、夜間飛行制限の緩和についても議論を進めていく予定である[111]

2016年[編集]

成田空港で運航するデルタ機
  • 1月23日ノースウエスト航空との合併後、成田を「アジアのハブ」と位置づけて、現地の整備部門などに投資を重ねてきたデルタ航空が、日米航空交渉で羽田空港と米国を結ぶ昼間時間帯の路線配分が決まれば、成田空港と米主要都市を結ぶ全7路線が廃止に追い込まれるとの声明を発表[112]
  • 2月3日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、一審千葉地裁に続き、原告のNAAの請求を認め、撤去と土地の明け渡しを命じた[113][114]。土地の所有権は、別訴訟で勝訴したNAAが全て取得している[113][114]
  • 2月18日:航空交渉の結果、日米両政府が昼間時間帯の羽田発着の米国路線就航に同意[115]
  • 3月18日芝山町にA滑走路16Rから南に600メートル離れた場所に、新観光・航空機撮影スポット「ひこうきの丘」がオープン[116]
  • 7月21日:「横堀現地闘争本部」の撤去をNAAが求めた裁判で、最高裁が反対派の上告を棄却し、撤去と土地の明け渡しを命じた二審判決が確定[117][118]
  • 10月25日:B滑走路誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている、誘導路脇の土地の賃貸借契約解除をNAAが求めた上告審で、最高裁第三小法廷はこの土地で耕作を続ける三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)の農家の上告を棄却し、これにより土地明け渡しと、上に建てられた小屋などの建物の撤去を命じた一・二審判決が確定し、もし土地の明け渡しに応じなければ、NAAの申し立てを受け、裁判所が強制執行することとなった[119][120][121]。土地(2カ所の計7284平方メートル)自体は、2003年(平成15年)にNAAが取得しており、NAAは賃貸借契約の解約を求めていた[119][120][121]
  • 10月30日:2016年度冬ダイヤが始まり、昼間の羽田空港に米国路線が就航[122]。この余波によりデルタ航空がニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)・ロサンゼルスミネアポリスバンコク関西国際空港の5路線から撤退するなど[123]、減便・羽田への移管の動きが相次ぐ。
撤去前の横堀現地闘争本部

2017年[編集]

参考文献[編集]

年表(2001年まで)作成に伴う参考文献

  • 郡山吉江 著 柘植書房『三里塚野戦病院日記』
  • 警察庁『警察白書』(各年)
  • 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局(1976年)
  • 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局(1978年)
  • 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』(1987年)
  • 原口和久『成田空港365日』崙書房(2000年)
  • 福田克彦 著 『三里塚アンドソイル』 平原社(2001年) など

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 『成田空港~その役割と現状~ 2017年度』 第4章成田空港のあゆみ(134-153頁)”. 成田国際空港株式会社 (2017年11月). 2017年12月11日閲覧。
  2. ^ a b 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、20頁。
  3. ^ 航空局飛行場課長の丸井幹一が、1962年の第二国際空港建設方針閣議決定の前の段階で、千葉県庁をしばしば訪ね、「富里空港」について突っ込んだ話し合いを重ねていたという(大坪景章(1978年)13頁)。
  4. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、81-83頁。
  5. ^ 第28号 昭和39年5月12日”. 国会会議録検索システム (1964年5月12日). 2017年10月28日閲覧。
  6. ^ 第32号 昭和39年5月27日”. 国会会議録検索システム (1964年5月27日). 2017年10月28日閲覧。
  7. ^ 霞ヶ浦・百里・木更津沖・羽田拡張案について管制上の問題を検討
  8. ^ 米軍使用飛行場の返還、利用問題を検討
  9. ^ 霞ヶ浦・木更津沖・羽田拡張・富里の各案について土木上の問題を検討
  10. ^ 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館『「1968年」-無数の問いの噴出の時代-』一般財団法人歴史民俗博物館振興会、2017年、69頁(全国養蚕農業協同組合連合会『蚕糸の光 第18巻第8号』1965年 を転載)。
  11. ^ 主な内容は以下の通り。①土地などの補償価格の基準は県知事が住民の納得を得られると判断した価格②代替地は一対一を原則都市、国有地は全部提供する③騒音被害区域は一般住家90ホン、学校病院などは80ホン以上の区域。この区域内の住宅については原則として移転先を国が措置し移転料を支払う④慮職者の職業あっせんは国が責任をもってする(大坪景章(1978年)31-32頁)
  12. ^ この時佐藤は「東京周辺で一時間以内に行ける新空港の用地をいくら探しても北総台地しかない。空域も、自衛隊の百里空港(ママ)と羽田空港との間を調整可能であること、御料牧場、県有隣を提供してくれれば、民有地にかかる面積を圧縮できること、東京湾内は便利な羽田空港を国内線用として存続しなければならないので、新たな空港は難しい。また今度は地元との交渉条件は決定前に公表し、前例はないが、閣議決定の中に含ませる」などと伝えた(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、21頁。)。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 牧瀬菊枝『土着するかあちゃんたち』太平洋出版社、1973年、274-276頁。
  14. ^ 大坪景章(1978年)81頁
  15. ^ 反対同盟の結成は8月22日とする記録も多数あり、いずれが正しいか定かではない。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。
  16. ^ 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、72-72頁。
  17. ^ 総裁には岸信介が推す宮沢胤勇が最有力候補とされていたが、6月2日に急死している。
  18. ^ 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館『「1968年」-無数の問いの噴出の時代-』一般財団法人歴史民俗博物館振興会、2017年、71頁。
  19. ^ 牧瀬菊枝『土着するかあちゃんたち』では、10月3日とされていたが、9月28日のビラの日付から2日と判断。
  20. ^ a b c 中野洋. “1999年 『月刊交流センター』8月号”. 2017年12月13日閲覧。
  21. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、330頁
  22. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、281-282頁
  23. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、282-284頁
  24. ^ 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、43-44頁。
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年、463-688頁。
  26. ^ 反当たりの価格は、畑:140万円、田:153万円、宅地200万円、山林原野115万円。
  27. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、134-136頁
  28. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、292-294頁
  29. ^ 第7号 昭和44年2月28日”. 国会会議録検索システム (1969年2月28日). 2017年11月12日閲覧。
  30. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、194-199頁
  31. ^ a b 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、201頁
  32. ^ 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971 年、200頁
  33. ^ a b 三里塚現地闘争本部 編著『闘いは大地とともに』社会評論社, 1971年、205-206頁
  34. ^ 読売新聞 1970年6月20日
  35. ^ 第065回国会 議院運営委員会 第10号、2017年4月閲覧。
  36. ^ その中には既に土地を空港公団に売却してこの地を離れた条件派もいたという。
  37. ^ 成田空港から郷土とくらしを守る会とは?”. 成田空港から郷土とくらしを守る会. 2017年7月30日閲覧。
  38. ^ HP版三里塚現地日誌 2002年9月”. 革命的共産主義者同盟全国委員会 (2009年9月3日). 2017年11月4日閲覧。
  39. ^ 今回も警察が検問を実施したことに加えて、代執行での"敗北"が世間に印象づけられたことにより、反対同盟は代執行時のようなマスコミや「野次馬」の支援を得られなかった。
  40. ^ 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、47p
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  42. ^ 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、175p
  43. ^ 大坪景章(1978年)137頁
  44. ^ a b 牧瀬菊枝『土着するかあちゃんたち』太平洋出版社、1973年、244-271頁。
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