菅野儀作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月1日 - 1981年1月25日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。千葉県議会議長。千葉県議会議員(5期)。位階は正四位。勲等は勲二等自由民主党では福田派に属した[1]

略歴[編集]

エピソード[編集]

  • 菅野が晩年に胆石症の手術を受けた柏戸病院の理事長によれば、「気さくな性格で曲がったことが嫌いな人」であった[3]
  • 県会議員初当選後、八幡の自宅から県庁までスクーターで通っていた[4]
  • 京葉工業地域の造成を行う際、最初の埋立を地元の八幡で引き受け、「血の雨が降っても当たり前」といわれる地元の漁師らへの交渉の調整役を買って出た[4]
  • 千葉県知事に当選した友納武人に「自民党や県会のことはおれが一切引き受けてまとめるから、知事は県政に専念するように」と言って、菅野-友納ラインを形成した[4]
  • 1966年2月に新東京国際空港建設(富里案)に反対するデモ隊が県庁に押し掛けた際、友納知事との面会を求める日本社会党議員の加瀬完に対し「主人に会うのに玄関の戸をブチこわして来るとは何事だ。お前は国会議員ではないか、党利党略よりも国家的見地で話し合えるように努力しろ」と一喝した。菅野に気圧された加瀬は「みんな一度引き揚げろ、その上代表者を絞って知事に面会を申し入れろ」と引き下がった[4]
  • 国政進出後、総理大臣福田赳夫に対し「成田の混迷は国の恥」と早期開港を働きかけた[4]
  • 「県政界のドン」と呼ばれ、同県出身の川島正次郎水田三喜男らに対抗して福田派の国会議員を県内に増やした[3]
  • 田中角栄は「千葉のことは菅野に話を通せ」といい、「政界の暴れん坊」と言われた浜田幸一も菅野の前では直立不動であったという[3]
  • 愛国心が強く、千葉縣護國神社再建を働きかけた[4]
  • 自民党千葉県連会館建設の資金集めを行い、「いずれ何年か経つと、この会館はだれが苦労して建てたか忘れられるだろう。(中略)この金文字(自由民主党の看板)の下で自民党千葉県連の人々が県民のため正しく仕事をしてくれればおれも本望だ」と語った[4]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 原口和久 (2002). 成田 あの1年. 崙書房出版. pp. 114-115. 
  2. ^ a b c d e 参議院会議録情報 第094回国会 本会議
  3. ^ a b c 羽成, 哲郎 (2013年12月28日). “【羽成哲郎のぴーなっつ通信】5000万円受領の知事を葬った男…病室から指令 千葉揺るがした「政争の舞台」消える”. 産経ニュース. https://www.sankei.com/life/news/131228/lif1312280040-n1.html 2018年9月26日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g 友納武人 (1984). 続・疾風怒濤. 千葉日報社. pp. 106-114. 
議会
先代:
安孫子藤吉
日本の旗 参議院外務委員長
1978年 - 1979年
次代:
石破二朗