加納金助

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加納 金助(かのう きんすけ、1883年9月4日[1] - 1953年12月5日[2])は、日本政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。

経歴[編集]

1883年藤崎家の三男として誕生。1898年4月成田中学校に入学1903年卒業。1903年國學院大學高等師範部に入学、同年9月転じて日本大学高等師範部(現在の文理学部)に入学1906年卒業。1906年、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し姓も加納と改められる。

1909年日本大学法学部入学、1910年9月千葉県立千葉中学校の教壇に立つ。1912年11月法学部に在学のまま日本大学に転職され、時の大学常任理事石渡敏一の片腕として付属中学校の設立に関わる。

1913年2月14日、日本大学中学校設立認可となり幹事教諭として草創期の学校経営に参画。1915年3月法学部卒業。1924年9月日本大学理工学部の先駆である日本大学商工学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を併設し初代校長となる。

1927年、日本大学商業学校初代校長に就任。日本大学の枢機に参画し1928年7月より1933年9月まで日本大学常任理事となる。

1946年3月には日本大学第一中学校財団法人日本第一学園として財団法人日本大学より独立した際、初代理事長となった。

1930年3月、東京獣医学校獣医師法の改正に伴い専門学校昇格をよぎなくされ経営に窮していたところを日本大学が支援することとなる。校名を東京高等獣医学校と改め開校。加納金助氏が理事長に就任する。

1933年8月9日に第5代千葉市長に官選市長として就任し、1934年12月21日まで務めた。1946年6月8日から第9代、続けて1947年4月から第10代と都合3期にわたり千葉市長を務め、1950年5月19日に退任した。

1949年学制改革によって東京高等獣医学校が東京獣医畜産大学として昇格再出発を計り、更に1951年日本大学に合併し農獣医学部獣医学科(現在の生物資源科学部)の誕生となる。合併については加納が将来の発展を期してその労をとり合併申請を文部省に提出し認可を得た。

1950年6月4日に行われた第2回参議院議員通常選挙において自由党より立候補して初当選。任期中の1953年12月5日、千葉大学医学部附属病院において病気のため死去、73歳。死没日をもって勲四等瑞宝章追贈、従六位に叙される[3][4]

加納は参議院において、1951年2月26日に鈴木文四郎哀悼演説を行っている。加納自身の哀悼演説は、1953年12月7日に佐藤尚武が行った。加納の死亡により1954年1月20日に参院千葉選挙区補欠選挙が行われ、自由党の伊能繁次郎が当選した[5]

日本第一学園2代目理事長の加納弘は子、3代目理事長の加納誠は孫である。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本の歴代市長』第1巻、834頁。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』278頁。
  3. ^ 要堂忌について” (PDF). 千葉日本大学第一中学校・高等学校 (2020年12月5日). 2022年12月24日閲覧。
  4. ^ 『官報』第8083号215-216頁 昭和28年12月12日号
  5. ^ 佐藤令 2005, p. 85.

出典[編集]

  • 佐藤令「戦後の補欠選挙」『レファレンス』第659号、国立国会図書館調查及立法考查局、2005年12月、105頁、ISSN 0034-2912オリジナルの2006年12月10日時点におけるアーカイブ。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

参考文献[編集]

  • 日本大学『日本大学九十年史上巻』1982年
公職
先代
財部実秀
永井準一郎
千葉市旗 千葉市長
第5代:1933年 - 1934年
第9・10代:1946年 - 1950年
次代
永井準一郎
宮内三朗