徳川頼貞

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德川 賴貞
とくがわ よりさだ
Tokugawa Yorisada 1940s.jpg
德川賴貞(1940年代)
生年月日 1892年8月16日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市
没年月日 (1954-04-17) 1954年4月17日(61歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都杉並区
出身校 学習院中等科卒業
学習院高等学科中退
ケンブリッジ大学音楽理論科中退
所属政党 (無所属→)
火曜会→)
(無所属→)
緑風会→)
新政クラブ→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党
称号 正三位
勲二等瑞宝章
侯爵
配偶者 徳川為子
親族 徳川茂承(祖父)
徳川頼倫(父)
徳川家達(伯父)
徳川達孝(伯父)
徳川家正(従兄)

選挙区 和歌山地方区
当選回数 2回
在任期間 1947年5月3日 - 1954年4月17日

選挙区 侯爵議員
在任期間 1925年7月1日 - 1947年5月2日
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徳川 頼貞(とくがわ よりさだ、旧字体德川 賴貞1892年明治25年)8月16日 - 1954年昭和29年)4月17日)は、日本音楽学者政治家実業家位階正三位勲等勲二等爵位侯爵雅号薈庭(わいてい)。有職読みで「ライテイさん」とも呼ばれた。

概要[編集]

御三家紀州徳川家の第16代当主。母方の祖父徳川茂承紀州藩主。母方の祖母徳川則子を通じて伏見宮邦家親王の曾孫に当たる。父方の祖父は徳川慶頼であり、徳川宗家第16代当主徳川家達は伯父に当たる。

楽譜音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、「音楽の殿様」と称された。日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽パトロンとして頼貞の果たした役割は大きい。戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として、約30年間にわたって憲政に携わり、音楽を通じて築いた人脈を利用して主に外交において活躍した。ユネスコ国会議員連盟、フィリピン協会、全日本音楽協会の各会長、パリ国立高等音楽院名誉評議員などを歴任した。また、万国議員商事会議、列国議会同盟会議、万国音楽連盟、ユネスコ国際会議などには日本代表として出席している。

妻の為子公爵島津忠重の妹。頼貞は島津家を通じて香淳皇后の義理の叔父に当たる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

紀州徳川家本邸跡(現在は麻布郵便局が入居する日本郵政グループ飯倉ビルになっている)

1892年明治25年)8月16日紀州徳川家第15代当主徳川頼倫久子の長男として東京府東京市麻布区飯倉町六丁目14番地(現在の東京都港区麻布台一丁目)の紀州徳川家本邸で生まれる。

学習院中等科時代から音楽に熱中。中学2年生の頃には寄宿先の中島力造に連れられてラファエル・フォン・ケーベルの家を訪れ、ケーベルからルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』リヒャルト・ワーグナーの『タンホイザー』序曲などの解説を受けた。この頃、東京音楽学校ピアノ科助教授本居長世和声学対位法を習っている。一方、学業に関しては数学の不出来のため、2年間上級に留年しているが、数学教師の尽力により1912年(明治45年)5月に中等科を卒業[1]

学習院高等学科に進学すると、母や家職の意向もあって弟のと共に麻布我善坊町(現在の麻布台一丁目)の新邸に引っ越した。新たに監督者となったのは慶應義塾の玉井房之輔だったが、頼貞兄弟は玉井に反発して不平不満を挙げたため、同年7月27日には解雇されている。進学直後には神経衰弱と称して学校を休んだため[注釈 1]上田貞次郎に連れられて酒匂川日光で転地療養したが、帰京後の9月初旬には再び神経衰弱を称して学校を休むようになってしまう。留年を憂慮した鎌田栄吉は父の頼倫に頼貞を退学させるよう進言し、父が10月9日に鎌田の進言を受け入れたため、頼貞は教育取締の上田の下で家庭教師を通じて学習することとなった。英語戸川秋骨が、フランス語はフレデリック・ジャクレー(ポール・ジャクレーの父)が、論理学川合貞一が担当した。

英国留学[編集]

1913年大正2年)3月1日に弟の治が不慮の事故死を遂げ、頼貞は失意に暮れて塞ぎ込むようになった。しばらくして岸幹太郎によって外国留学が提唱されると、父は気分転換を促すために留学を勧めた。同年9月2日ヨーロッパ留学に出発。付き人として指導役の上田や小泉信三らが随行した。ロシアサンクトペテルブルクベルギーオーステンデイギリスドーバーを経て、同月下旬にロンドンに到着。定宿は父の外遊時と同じケンジントンに定められた。

1914年(大正3年)2月頃、頼貞は上田にケンブリッジ大学にて音楽博士の学位取得を目指すことを直訴し、上田の理解を得てケンブリッジ大学音楽理論科に入学。在学中はエマニュエル・カレッジエドワード・ネーラーen:Edward Naylor)に師事して音楽学を学んだが、学位取得に関しては途中で挫折している。

1915年(大正4年)、新進建築家ブルメル・トーマスに会った頼貞は、トーマスが設計する音楽堂に感銘を受け、日本に本格的な音楽堂を設置することを志した。当時、父が南葵文庫に付属した講演堂を建設することを計画しており、これを好機として講演堂にも兼用し得る音楽堂の設置を父に打診して承諾を得た。また、名実共に理想的な音楽堂を建設するため、小泉と父の了承を得た上で、ネーラーを通じてリーズのアボット・スミス社に7万円のパイプオルガンを発注した。しかし、オルガンの材料であるが戦時禁制品に指定されたこともあり、アボット・スミス社は一時製作中止に追い込まれてしまっている。

戦線が拡大し、ロンドンにも度々ドイツ飛行船が来襲するようになると、当時中立国だった米国を経由して帰国の途に就くこととなった。乗船した米国船籍のセント・ルイス号にはチェロ奏者のパブロ・カザルスが乗っており、ニューヨーク到着の前夜には音楽会が行われている。ニューヨーク到着後はボストンを経てサンフランシスコ東洋汽船の春洋丸に乗船し、同年12月7日神奈川県横浜市に帰着した。

音楽の保護者として[編集]

帰国後は麻布区飯倉町の本邸を離れ、芝区白金三光町(現在の東京都港区白金)の新邸に入り、1916年(大正5年)7月25日公爵島津忠重の妹・為子と結婚した。飯倉町の本邸で挙行された結婚式には、旧藩関係者を代表して紀州徳川家からは鎌田栄吉夫妻と下村宏夫妻が、島津家からは松方正義夫妻と東郷平八郎夫妻が出席した。為子との結婚生活は仲睦まじいものであったという。

第一次世界大戦の影響でトーマスの設計図の到着は遅れていたが、1916年(大正5年)秋にようやく頼貞の手元に届いた。この設計図はケンブリッジ大学のキングス・カレッジ教会を参考にした造りにするという頼貞の理想に適っていたものの、日匹信亮は日本の気候風土に合わせた修正が必要だと助言したため、頼貞は近江八幡在住のウィリアム・メレル・ヴォーリズに設計図の修正を依頼した。

ヴォーリズの設計図が完成を見たのは1917年(大正6年)春のことである。頼貞は早速計画を実行に移し、同年3月24日には地鎮祭を行っている。建設工事は戸田組に発注し、翌1918年(大正7年)7月30日に音楽堂は竣工した。内装工事の完了後、吉日を選んで同年10月27日南葵楽堂として開堂式が挙行された。来賓に宮内大臣波多野敬直東京帝国大学総長山川健次郎早稲田大学総長大隈重信らを招く盛大な式典であった。

南葵楽堂の地下室に設けられた南葵音楽文庫は1917年(大正6年)にロンドンで落札した「カミングス・コレクション」を母体とする貴重資料を多く含み、世界的にも屈指の音楽書や楽譜のコレクションとして知られた[注釈 2]1923年(大正12年)、関東大震災による南葵楽堂の閉鎖のため一時期活動を休止。1924年(大正13年)からは「南葵音楽図書館」として再開されたものの、1932年昭和7年)には紀州徳川家の財政事情のために閉館となった。南葵音楽文庫の活動時期は短かったが、若き日の深井史郎吉田隆子らが通って独学をするなど、戦前における西洋音楽パトロンとして頼貞の果たした役割は大きかった。1921年(大正10年)、ケンブリッジ大学音楽図書館などを経営[要出典]。1923年(大正12年)、イタリアから3年ぶりで日本に帰国した当時無名の藤原義江コンサートを計画・支援。

1919年(大正8年)初頭、宮内省式部職に採用願書を提出する意志を持っていたが、父の理解を得られなかったために就職の話は流れている[2]

待望のパイプオルガンは1920年(大正9年)に横浜港に到着したが、税関では建築材料と誤解されて高額な関税が掛けられそうになったため、頼貞は文部大臣勝田主計に教育品として無関税にするよう直談判している。頼貞の努力でパイプオルガンは無事に税関を通過したものの、当時の日本にこれを組み立てることができる技術者は存在しなかった。仕方なくアボット・スミス社の技師を呼び寄せ、東京商科大学エドワード・ガントレットの協力を仰いだ。また、パイプオルガン研究を独自に行っていた日本楽器製造(現在のヤマハ)の斎藤技師長が助手として招聘され、同年7月に始まったオルガン設置工事は11月初旬に完了した[注釈 3]。同年11月22日に披露演奏会を開催する予定で入場券を一般にも配付したが、希望者が殺到して所轄警察署から警官隊が派遣されるほどであり、係員が予定していた300枚の倍に当たる600枚を配付してしまったため、11月23日にも引き続き演奏会が行われることとなった。第1日目の演奏会には大叔父の伏見宮貞愛親王閑院宮載仁親王東伏見宮妃周子、義姉の久邇宮妃俔子梨本宮守正王夫妻など、皇族28名の臨席を賜っている。

欧州外遊[編集]

1921年(大正10年)2月1日、頼貞夫妻は日本郵船の加賀丸に乗船して兵庫県神戸市を出立。洋行に際して上田から派手な生活の一新を勧められている[3][注釈 4]フランスマルセイユ上陸後、ニースを経てモーパッサン旅行記『水の上』を読んで憧れていたコート・ダジュールを観光。同年4月4日にはイタリアローマ歌劇場に『マノン・レスコー』の上演を見に行き、数日後にはサンマルティーノ伯の紹介でジャコモ・プッチーニと面会している。また、ローマのアウグステオ楽堂アルトゥル・ニキシュの演奏会を聴きに行った際にも、サンマルティーノ伯の計らいでニキシュと面会し、1923年(大正12年)に日本に招待することを約束しているが、1922年(大正11年)にニキシュが死去したためこの約束は果たせなかった。

頼貞夫妻はフィレンツェヴェネツィアを経て、同年5月1日パリに到着。洋行中の皇太子裕仁親王に在仏日本大使館で拝謁し、元帥ジョゼフ・ジョフルが皇太子のために主催した歓迎会にも出席している。パリ滞在中にはチェロ奏者のヨーゼフ・ホルマン (de:Joseph Hollmanが頼貞の滞在先のホテルを度々訪れており、ホルマンを通じてカミーユ・サン=サーンスと面会する機会にも恵まれた。欧州大陸の歴訪を終えると、頼貞夫妻はロンドンに向かい、ロンドンではヘンリー・ウッドサマセット公らと交流している。同年10月初旬、サウサンプトン港でベンガリア号に乗船してニューヨークに渡り、カナダナイアガラの滝を観光した後、サンフランシスコで天洋丸に乗船して11月3日に横浜市に帰着した。帰国後は東京府荏原郡大森町森ヶ崎新邸に入る。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の発生時は東海道旅行中であり、一時東京の両親と音信不通になってしまう。頼貞はこの時に両親の安否を非常に心配したようで、帰京後は父に対して礼儀正しくなり反抗的な態度を示さなくなったため、両親は非常に喜んでいたという[4]。しかし、妻の為子が肺炎を患っていたこともあり、しばらくして妻の療養を目的として静岡県沼津市に移っている。この転地療養に際し、頼貞は「自分の生活をひきしめて一層真面目にやりたい」と言っていたという[5]。関東大震災の影響で南葵楽堂の建物が大損害を被ったため、1928年(昭和3年)にはパイプオルガンを東京音楽学校に寄贈した[注釈 5]

家督相続[編集]

1925年(大正14年)5月、家督と共に当時の金額で3000万円以上の財産を相続。一方で当時の紀州徳川家には280万円の借金があり、頼貞は徳川家顧問会[注釈 6]に家政改革を要請している。この時、80万円の税金納付と借金返済のために伝来の家宝や什器などを売りに出して150万円の収入を得たが[6]、その中には約4.3kgの純茶釜が含まれており、大きな話題を呼んだ[7][8]

同年7月1日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任[9]。当初は純無所属として活動していたが、1928年(昭和3年)3月14日火曜会に入会[10]。侯爵のため、無条件かつ終身の地位が約束されたが、無給により家計の足しにはならなかった。

1927年(昭和2年)4月には再度什器を売却して売上は160万円(手取りは124万9000円)に達したが、昭和金融恐慌の煽りを受けて十五銀行が破綻したために50万円余りの損害を被っている。徳川家顧問会は何度も家政改革の案を策定していたものの、頼貞の森ヶ崎邸が毎年のように予算超過で総額20万円以上を浪費することもあって目立った効果は上がらなかった。翌1928年(昭和3年)にも什器売却で200万円の収入を得た[11]

1929年(昭和4年)5月12日からヨーロッパを漫遊した折にはその豪遊ぶりが話題となり、欧州社交界に「マルキ・トクガワ」の名が轟いた[12]。この旅行は執事運転手を随伴する文字通りの大名旅行であり、毎月1万円に設定されていた予算を大きく上回って半年でほぼ倍額の8万円を使い切ってしまうなど、紀州徳川家の家政悪化に拍車を掛けた。予想外の事態に家職は驚愕し、連名で頼貞夫妻に勧告状を送ったり、経費削減案を策定したりして、放漫財政の立て直しに奔走したが、1931年(昭和6年)2月に帰国した頼貞夫妻は相変わらずの派手な生活を続ける始末であった。これに対し、小泉と上田は顧問を辞職することで反省を促そうとしたが[13][注釈 7]、頼貞がこの忠告を聞き入れることはなかった。なお、同年5月に上田は頼貞の伯父に当たる徳川宗家徳川家達に呼び出されて紀州徳川家の財政問題を説明しているが、家達は何の反応も示さなかったという[14]

実業界進出[編集]

財界人や学者の意見を参考に実業界進出を決意し、1933年(昭和8年)3月に資本金300万円の南葵産業を設立(社長は山東誠三郎)。これを持株会社と位置付け、子会社として共立不動産、日本羽毛製品、東洋化工、全羅鉱業、南栄化学を設立した。新興産業に進出して独占的な事業を行うところに力を発揮したという。旧大名華族の産業進出の先駆とされたが[15]、全羅鉱業に不正があるとして池田成彬に指摘されたことが発端となり[注釈 8]1936年(昭和11年)10月9日に旧藩出身者(杉山金太郎寺島健有馬良橘野村吉三郎濱口梧洞濱口擔島薗順次郎、上田貞次郎)の会合が水交社で開かれている。杉山と寺島が事実関係の調査に当たり、同年12月に頼貞が山東を罷免することで一応の決着を見ている。

1934年(昭和9年)に財団法人国際文化振興会が設立されると、郷誠之助と共に副会長に就任した(会長は近衛文麿)。1937年(昭和12年)1月25日尾張徳川家徳川義親越前松平家松平康昌伯爵黒田清大田実ら頼貞の友人を中心とする12名が男爵原田熊雄邸に集まり、紀州徳川家の財政再建に関して協議を行っている。1937年(昭和13年)、外部の動きに刺激された家職の中松真卿土岐嘉平林桂は代々木邸を分譲地として売却することを決定した。

ラスピニャスの竹製パイプオルガン

1940年(昭和15年)、和歌山出身の三宅哲一郎元駐チリ特命全権公使が設立した日智協会(日本チリ協会)の初代会長に就任[16]

戦時中は第14方面軍の最高顧問としてフィリピンに約1年間の任期で派遣され、文化面を通じての宣撫活動に従事した。1943年には村田省蔵の比島調査委員会で副委員長に就任[17]マニラ郊外のラスピニャス教会[注釈 9]en:St. Joseph Parish Church, Las Piñas)にある世界で唯一とされる竹製パイプオルガン(en:Las Piñas Bamboo Organ)が適切に保存されていないことを憂慮し、マラカニアン宮殿の行政府長官ヴァルガスに面会してフィリピン人の手によって修理する必要性を力説。ヴァルガスは頼貞の提案に賛同し、修理費の大部分をフィリピン政府が負担することで合意した。しかし、一部は民間で負担しなければならなかったが、頼貞がマニラ大司教ロハティに協力を求めたところ、無事にロハティの協力が得られてカトリック信者からの寄付金も集まり、最終的には頼貞の俸給を全て寄付することで修理は軌道に乗っている。頼貞は修理の完成を見ることなく帰国したが、ラスピニャス教会の入り口には「This organ has been restored by Marquis Tokugawa of Japan(このオルガンは日本の徳川侯爵によって修復された)」と書き込まれているという[18]

戦後[編集]

参議院議員時代

旧藩有志の後押しを受けて1947年(昭和22年)の第1回参議院選挙和歌山地方区から無所属で立候補し、脚絆地下足袋姿で和歌山県各地を遊説して回った。山間部の農村にオート三輪で向かうと、紋付羽織袴に正装した住民が総出で出迎えたという封建色豊かな選挙戦でもあった[19]。徹底したドブ板選挙の結果、次点に5万票弱の差を付けてトップ当選を果たして参議院議員となる。旧華族出身で国会議員となった草分け的存在であり、「殿様議員」や「紀州の殿様」などと呼ばれた。参議院では国際交流の実績によって外務委員会委員長などを務めた。

当選後は保守系の院内会派緑風会の発足に参加、後に新政クラブ吉田自由党に移籍し、吉田自由党以降は吉田派として活動した。政界再編に伴って、民主自由党自由党と移り、自由党では政務調査会外交部長を務めた。

1951年(昭和25年)6月18日から7月11日までパリのユネスコ本部で開催された第6回ユネスコ総会に日本政府代表団[注釈 10]の一員として参加。総会ではフィリピンの反対を受けたが、米国をはじめとしてパナマ中華民国の積極的な支援を得て日本のユネスコ加盟が承認された。帰国前にイタリアのカステル・ガンドルフォに避暑していたローマ教皇ピウス12世を訪問する機会に恵まれ、避暑先のガンドルフォ城で非公式に会談している。別れ際に教皇から希望を聞かれた頼貞はバチカン宮殿の秘苑を散策することを希望し、教皇の快諾を得て帰国日の8月30日夕方に秘苑を数時間散策している。

1954年(昭和29年)4月16日十二指腸潰瘍のため国会会期中の請暇を申し出た矢先の翌4月17日午前6時30分、東京都杉並区天沼三丁目725番地の自宅で死去[20]。61歳没。千代田区聖イグナチオ教会告別式が営まれ、遺骨は葬儀が執り行われた長保寺の和歌山藩主徳川家墓所に埋葬された。葬儀委員長は下村宏が務めた。戒名は優公院殿。家督は長男の頼韶が継いだ。

なお、死去に伴い、参議院議長河井弥八から弔詞が贈呈され、同僚の佐藤尚武参議院本会議哀悼演説を行った[21]

人物・逸話[編集]

評価[編集]

  • 旧皇族久邇朝融は「天性の座談上手は、英国留学によって磨かれた国際的社交性とあいまって、さらに侯爵貴族院議員という肩書をくわえることによって、世界の著名政治家外交官と親交を持ち、徳川の名は世界的であった。正規の外交ルートで困難視されることも、同君(頼貞)を通ずることによって無造作に解決した事例はいくつも数えられる。」と評し、頼貞の音楽界に対する功績は高く評価されるべきだと述べている[27]
  • 上田貞次郎は「同君(頼貞)が、余の意見の通りに、生活を改善するといふ見込もない」「徳川家に対する余の興味が減縮して行くのは致方がない。」[28]「頼貞侯も大に節約の意志はあるが実行は出来ない。」[29]などとして散財を繰り返す頼貞を批判している。
  • 太田勤一は『日本楽壇の大恩人、徳川頼貞を振り返る』と題した講演(2000年8月26日泉の里コンツェルトザール)の中で「いくら金持ちでも、侯爵という肩書きであっても、音楽家たちが敬意を表してくれるわけがない。頼貞は音楽の専門的教養を身につけた、真のずば抜けて大きなパトロンでした」「当時ニキシュにもヘンリー・ウッドにも尊敬された日本人がいたんだ、ということを少しでも知ってもらいたい」と評している[30]
  • 本田靖春は「上流夫人の言葉をかりるなら、“お派手”なあまり、すっかり傾いたのが紀伊和歌山家」「頼貞夫妻は、宝子を置いて、パリローマと、高級ホテル住まいをしていた。(略)家職の連中を三、四カ月ごとに日本から呼び寄せて、入れ替えたといわれている。善政は善政だが、これでは財布が続かない」「散財は、個人としては楽しいだろうが、家の観点に立つとき、なによりの困り物である」と批判的に評している[31]

栄典[編集]


外国勲章佩用允許

主な役職[編集]

議員連盟[編集]

  • ユネスコ国会議員連盟会長
  • 国連国会議員連盟会長

文化事業[編集]

国際関係[編集]

企業関係[編集]

家族[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『上田貞次郎日記』に「再び」とあるため、以前にも何度か神経衰弱を称して休んでいることが窺える。
  2. ^ この所蔵品の中には、ヘンデルJ.S.バッハパーセルハイドンの肉筆譜、さらにワーグナーロンドンで指揮した際のベートーヴェン交響曲第9番』の初版本が含まれていた。
  3. ^ 斎藤技師長を中心とした日本楽器製造の技師は南葵楽堂のパイプオルガンの調律などを行いながら研究を進め、1932年昭和7年)には初の国産パイプオルガンの製造に成功している。
  4. ^ 上田貞次郎は生活が一新されるとは思っておらず、「徳川家の事には年と共に感興を減殺される様だ。」とまで述べている。
  5. ^ 現在は上野恩賜公園旧東京音楽学校奏楽堂に保存されている。
  6. ^ 理事の鎌田栄吉木下友三郎男爵三浦英太郎巽孝之丞中村啓次郎の実兄)、上田貞次郎が顧問となり、同年10月からは小泉信三が加わって徳川家顧問会を構成した。
  7. ^ 『上田貞次郎日記』には「余の考では、このまゝ侯爵家の没落まで顧問の名を冒すことは堪へがたい。併し、侯爵が余の辞職を見て反省するならば辞職を思ひ止てもよいといふ腹もあった。併し、その後、侯爵からこの問題に付て何の沙汰もない。」とある。
  8. ^ 全羅鉱業は全羅南道砂金鉱区と平安北道の吾北金山を有していたが、この金山は廃坑だったとされる。また、金山買収には山師などが介入しており、南葵産業は万策尽き果てていたという。
  9. ^ 現在のセント・ジョセフ・パリッシュ教会。
  10. ^ 代表団主席は前田多門が務め、藤山愛一郎らが随行している。

出典[編集]

  1. ^ 上田[1964: 421]
  2. ^ 上田[1963: 7]
  3. ^ 上田[1963: 45]
  4. ^ 上田[1963: 85]
  5. ^ 上田[1963: 85]
  6. ^ 上田[1963: 112]
  7. ^ 山口[1932]
  8. ^ 佐藤[1987: 111]
  9. ^ 『官報』第3857号、大正14年7月2日。
  10. ^ 霞会館[1985]
  11. ^ 千田[2009: 311]
  12. ^ a b 佐藤[1987: 112]
  13. ^ 上田[1980: 258]
  14. ^ 上田[1963: 146]
  15. ^ 東京日日新聞』1935年7月19日付。
  16. ^ 「日本チリー協会の沿革とその活動」日本チリ協会
  17. ^ 盛田良治「日本占領期フィリピンの現地調査」人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (1997), 79: 163-188
  18. ^ 徳川[1943: 123]
  19. ^ 朝日新聞』1953年4月26日付朝刊。
  20. ^ 『朝日新聞』1954年4月17日付夕刊、3面。
  21. ^ 第19回国会参議院本会議会議録第36号。
  22. ^ 佐藤[1987: 111-112]
  23. ^ 小田部[2007]
  24. ^ 中曽根[2001: 302]
  25. ^ 小田部[2006: 301]
  26. ^ 上田[1980]
  27. ^ 徳川[1956: 1]
  28. ^ 上田[1963: 60]
  29. ^ 上田[1963: 121]
  30. ^ 中曽根[2001: 303]
  31. ^ 本田[1973: 223-225]
  32. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

著書[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

議会
先代:
有馬英二
日本の旗 参議院外務委員長
1952年 - 1953年
次代:
佐藤尚武
その他の役職
先代:
斎藤実
日伯中央協会会長
第3代:1937年 - 1943年
次代:
沢田節蔵
先代:
(創設)
日智協会会長
初代:1940年 - 1945年
次代:
服部元三
爵位
先代:
徳川頼倫
侯爵
(紀州)徳川家第3代
1925年 - 1947年
次代:
(華族制度廃止)